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Distort×Disorder  作者: 一木 樹
破段

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25/54

破段 --- 霧崎菖蒲①

挿絵(By みてみん)



 二人は日の暮れた街を走っていた。

「走ると手錠が引っ張られるからやめて」

「だってお前が夜には殺すって!」

「……いいから。もうそろそろ病院だし。桑島に話を聞くまでは延長しても」

「それを早く言えよ!?」

 相変わらずかみ合わない会話をしながら進む永輔と菖蒲の頭上から、ノイズ交じりの声が聞こえてきた。


『こちらは埋芽市端波警察署です。市内で通り魔事件が発生しており、犯人はまだ捕まっていません。不要不急の外出は控え、特に夜間の外出はご注意ください。出かける際は、できるだけ複数人で行動し、防犯に十分気をつけてください』


 普段なら『夕焼け小焼け』などの童謡を流して、子供たちに帰宅を促す時間だ。

 防災行政無線と呼ばれる仕組みで、町中のスピーカーから注意喚起が響き渡る。

「犯人呼ばれてるよ」

「ガキは家に帰れって意味だから、お前向けだ」

 永輔と菖蒲の間には軽口と手錠の鎖の音が絶えない。

「なあ、家出ならそろそろ戻った方がいいぞ。親が心配してる」

「血十字の犯人を殺したらね。ほら、着いたよ」

 二人が辿り着いたのは、旭富総合病院だった。

 埋芽市唯一の総合病院で最も多くの診療科と病床を備える大きな施設だ。

 二人は正面入口へとつながる門を抜けた。

 菖蒲は息を整えながら巨大な病院を見上げる。

 一般的な学校校舎の数倍はある規模だ。ここに潜り込んだ桑島勇誠という一人の不良を探し出すのは容易いことではないと顔をしかめる。

「ねえ。あの情報屋に桑島の女で看護師をやっている人のこと聞けない? せめてそっちの名前がわかれば」

 振り返ったところで、彼女が見たのは茫然と立ち尽くす永輔の姿だった。

 焦点の合わない瞳。

 開いたままの口。

 浅い息。

 魂の抜けたような表情。

 その異様な姿に菖蒲は思わず後ずさった。

「永輔……?」

 恐る恐る名前を呼ぶ。

 その言葉に彼は反応を示した。

「……へっ? あれ? 何で、俺ここにいるんだっけ。ダメだ、戻らないと」

 二人の間で手錠の鎖が鳴る。

 永輔は何故だか踵を返して、来た道を戻って歩き出した。

「ちょっと、何やってんの!」

「戻らないと。行ったらダメだ。ここに用事が……何の用事だっけ……?」

 彼の意味不明な言動を目にして、菖蒲は困惑していた。

 このままでは埒が明かないと、背中の竹刀ケースに手を伸ばし、日本刀を取り出す。



 ――ほのかに甘い香りがした。



 それを確かめようと更に空気を吸い込む。

 バニラのような甘さと樹木の爽やかさを兼ね備えた独特の香り。香水をつけた誰かが通りかかったか、それとも病院のどこかから漂ってきているのか。

 それを考えているうちに、菖蒲の意識は激しい混濁に見舞われた。

 まず彼女の意識を支配したのは、『これ以上進んではいけない』という根拠無き強迫観念だった。

 彼らは知る由も無かったが、旭富総合病院では古橋サチエの病室を中心として“人払いの聖香油”が巻かれていた。その香りを吸ってしまったために、目的地である病院を前にして進むことが出来なくなってしまったのだ。

 そこで一度、永輔と菖蒲の意識は断絶した。




 ◇◆◇◆◇




「……あれ、なんで俺たちこんなところに?」

 永輔が意識を取り戻したのは病院から十数分歩いた先の路地だった。

 しばらく時間が経ったようで、完全に日が暮れて夜の静けさが増している。

 彼が不思議そうに周囲を見渡していると、そこには頭を抱えて身を屈める菖蒲の姿があった。

「え……? おい、菖蒲どうした? 頭でも痛いのか?」

 日本刀を持つ手が震えていた。手錠を通じて永輔にも振動が伝わる。

「頭痛……と、吐き気も……」

 菖蒲が弱々しい声を絞り出した。

「大丈夫か!? そうだ病院は、あれ、目の前まで、行ったはずなのに……」

 一度聖香油の香りを吸ってしまった永輔の思考から、病院へと近づく選択肢がかき消されてしまう。

「そうだ、救急車! 呼んでやろうか?」

「……病院は、ダメ」

 彼女は小さく首を振った。そして顔を上げて永輔をにらむ。

「吐くかも」

「いいよ、吐いちまえ」

「やだ。トイレ……見られたくない……」

 菖蒲はか細い声で個室で鍵が閉まるトイレを要求した。

 永輔は「ワガママなことで」と呆れながらも、菖蒲を背中におんぶして歩き出した。

「この辺り近くのトイレは……明来木あくるぎ霊園だな」

 早歩きで路地を進み、二人は数分で人気のない霊園へとたどり着いた。正面入り口ではなく脇道から、墓石の並ぶ園内へと入る。

 園内は薄暗い雰囲気だったが、いくつかの街灯がぼんやりと石柱の整列を照らす。

 明来木あくるぎ霊園は広場や東屋、トイレなどを兼ね備えた中規模の霊園で、比較的整備の行き届いた場所だった。周囲が林に囲まれているため、住宅街からは隔絶された空間になっている。

 誰もいない静かな石畳を歩くたびに、足元で枯れ葉が潰れる音が繰り返された。

「昔はここも荒れててよ。俺らの溜まり場のひとつだったんだけど、キレイに掃除されて使いづらくなっちまった」

 不良対策の清掃が功を奏した結果だが、排除された側の永輔は不満に思っていたらしい。

 真ん中の太い通路を中心として、葉脈のように細道が伸び、道に沿って墓石が延々と並んでいた。

 返事がない菖蒲を心配して、永輔は霊園の中央で立ち止まった。

「もうトイレ見えてるから。俺の背中には吐くなよ?」

 その言葉にも反応はない。

 背後には薄暗い街灯。

 永輔の前には、照明に照らされて二人分の影が重なり足元から伸びていた。

 そこから繋がる長い腕の黒い輪郭。

 更に伸びる、鋭い棒状の影。

 その見覚えのあるシルエットに、永輔は冷や汗をかいた。

「菖蒲……?」



「あれ、どうして、血十字のアンタがまだ生きてるんだっけ?」



 首筋に添えらえる日本刀。

 それが肉へと食い込む。

 本気だ、と瞬時に理解した永輔は、手錠で繋がった片腕を殴りつける勢いで伸ばした。

 鎖のぶつかり合う音。

 引き寄せられた菖蒲の腕につられて、日本刀が首から離れる。

 首筋を垂れた血が一滴、地面へと落ちた。

「これ、邪魔」

 鋭い金属音が響いて、永輔と菖蒲を繋いでいた手錠の鎖が両断された。

 背中に乗っていた菖蒲が飛び降りる。

 永輔は急いで振り返った。


「さよなら」


 その目の前には既に白刃が迫っていた。

 一瞬で詰められた間合い。

 迷いのない剣筋。

 本気の殺意。

 間に合わない。

 彼は諦めて目を閉じようとした。

「ぐぅぇ!?」

 瞬間、喉元が閉まり、強い力で背後へと引き寄せられる。

 永輔は霊園の石畳を転がって、強制的に菖蒲から引き離された。

 振り下ろされた日本刀は空気を切って、不満そうに静止する。

「アンタたち、誰?」

 永輔の背後から現れた二人の女性は、それぞれに名乗りを上げた。

 一人はその手に掴んだ警察手帳を開いて、顔と名前を菖蒲へと見せつける。

「警察です。端波署の八武崎やぶさきれい巡査」

「それをアゴで使ってる不審者で~す」

「やめてくださいその自己紹介。私の立場まで疑われる」

 両手に黒いグローブを装着しながら、八武崎は文句を返した。

「言ってる間にほら、来るわよ八武崎ちゃん」

 菖蒲に会話をするつもりはなかった。

 踏み込んだ右足が落ち葉を巻き上げる。先に菖蒲の身体が間合いに入り、遅れて遠心力をつけた水平斬りが八武崎の腹部を目がけて迫る。


「柔術家相手に、懐を空けるのはよくない」


 八武崎の踏み込みは更に速かった。

 地面すれすれまで上体を落として、即座に菖蒲の懐に潜り込んだ。

 剣という間合いの利点を捨てるような大振りは、八武崎にとって隙だらけに見えた。

 日本刀は空を切って、それを持つ腕とセーラー服のリボンの辺りの2ヶ所がしっかりと握られる。八武崎の黒いグローブは野球選手やゴルファーがグリップを強化するために使うものに似ていた。

 足を払われたと感じた次の瞬間、菖蒲の視界は天地が一回転する。

 背負い投げ。

 浮遊の直後に、強制される落下。

 気づいたときには地面に足を延ばして尻餅をついており、刀を握っていた右腕は固定され身動きが取れなくなっている。

「石畳に叩きつけると命に関わりますから、手加減です」

 ストリートファイトにおいて柔道家の投げ技は一撃必殺になりかねない。徒手空拳でありながら、彼らは固いアスファルトという武器を持っているようなものだ。

 相手を制圧したと思い込んでいた八武崎の耳に、焦る二人の声が届いた。

「刑事さん、上! 上に!!」

「八武崎ちゃん! 日本刀!」

 視線を背後に向けると、脇で固定した菖蒲の腕の先の手のひらには、何も握られていなかった。

 直後、空を切る音が八武崎の耳に届く。

 前へと向き直ると、ちょうど空から落ちてきた日本刀が菖蒲の左手に掴まれた瞬間だった。

 殴りつけるようながむしゃらな太刀筋が、八武崎の顔面に肉薄する。


「投げられるタイミングで、刀を空に放った……? 戦い慣れしてますね、あなた」


 八武崎の頬に一筋の痛みが走る。

 拘束を解いて即座に一歩引いたことで、傷は浅く済んだ。

「日本刀相手に歯向かうなんて、やっぱり殺人鬼の仲間だ。まともじゃない」

 菖蒲の言動は錯乱があったが、見るからに不満が溢れていた。今度は両手でしっかりと日本刀を握りしめる。

「もっと、速く」

 菖蒲は一歩踏み込むと同時に、八武崎の喉元を目がけて最大リーチの突きを繰り出した。

 諸手突きと呼ばれる体重と重心移動を乗せた直線の突き技だ。剣術において、最短で相手を殺傷する方法である。

 八武崎はそれをまっすぐに見つめ、ゆらりと葉が舞う様に最小限の動きで回避して、迎え撃つように踏み込んだ。

「読めてますよ」

 瞬時に絡みつく腕。

 蛇を思わせる早業。

 即座に菖蒲の片腕の自由を奪ったのは、腕挫うでひしぎ手固てがためと呼ばれる柔道において基本的なアームロックタイプの関節技だった。

「多彩ですが、直情的過ぎます」

 日本刀を持つ腕が震える。菖蒲は八武崎から逃れようと足掻くが、その関節技には一切の隙が無く微動だにしない。

 遠巻きに二人を見ていた永輔は、感心したようにつぶやいた。

「すげえ、完全に抑え込んだ」

「八武崎ちゃんってば、木製バットくらいなら関節技で折れるんですって」

 身の毛がよだつ様な話題で、白柳は地面に転がった永輔に話しかける。

「助かったけど、頼りになる越えて怖ぇーよ」

 枯れ葉にまみれた衣服をはたきながら、永輔は立ち上がった。

「私たち、病院に行くとこだったのに。あの子の熱血刑事デカ魂が見過ごせないようなコト起こさないでよ。なに? 痴話喧嘩?」

「ちっげえわ! アイツとは昨日会ったばっか……でも、おかしいんだ。急に俺のことを殺そうとして……いやそういえば出会ったときから殺されかけてるけど、とにかくそのままそいつを止めてくれ刑事さん! 明らかに様子がおかしくて、正気を失ってるとしか思えねぇんだ!」

「正気を失ってる……?」

 その言葉を聞いて、白柳は訝し気に日本刀を握った少女を見つめた。

 膠着状態を維持したまま、八武崎は余裕の表情で菖蒲へと勧告する。

「あの少年を殺そうとする理由は署でゆっくり聞きますから、まずは落ち着いてください」

 有段者の関節技がひとたび極まれば、抜け出すことはできない。

 だが、菖蒲は一切諦める様子はなく、八武崎が押さえつける力に抗っている。

 その抵抗力は段々と増していき、明らかに女子中学生の筋力を超えていた。

 ミシミシ、と。

 触れ合っている八武崎には、菖蒲の骨と関節が軋む音が聞こえてくる。

「それ以上力を入れると肘の関節が……!」

 少女にその声は届かない。

 まるで、暴走した機械のように力が増していく。

「は、なせ。離せはなせハナセはナせ離セェええええええ!!!」

 声にならない叫びが轟く。

 このまま関節技を維持した場合、少女の腕は自分のパワーで脱臼の大けがを負うことになる。異様な剣幕に気圧された八武崎は、菖蒲の身を案じて腕挫うでひしぎ手固てがためを解いてしまった。

 獣が檻から出てきてしまったような緊張感が、その場を支配した。

 退避しようとした八武崎の右足が、菖蒲に踏みつけられる。

 更に拘束されていなかった左手が、宙に浮いていたネクタイを掴んだ。首が閉まり、息が詰まる。

 八武崎の身体が2点で固定される。

 自由になった腕の先で、日本刀がしなる様に振るわれる。

 八武崎は身動きが取れず、その首を目がけて水平に刃が迫った。



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