承段 --- 八武崎礼①
昼丘地区の坂を下るパトカーの奥に、遠ざかる御美ヶ峰教会が見える。
車の中で白柳が足を放り出して姿勢を崩した。
「はぁ~あ、ああいう辛気臭い場所嫌い~。怪しさ満点で息苦しいっての」
「やっぱり、カルト教団ともなると多数の利権や金が絡んでいるでしょうね」
相槌を打った八武崎は、運転の合間に助手席に置いた礼拝名簿をちらりと見た。
そこに書かれている名前は、その容疑者たちといっても過言ではない。
「そんなの興味ないわよ。八武崎ちゃんってば、あの礼拝堂を見て何にも感じなかった?」
後部座席から身を乗り出してきた白柳が耳元で質問する。
それを避けるように八武崎は首を傾けながら返事をした。
「……さあ、教会らしく清潔で神妙な空間でしたが」
「清潔過ぎたわよ」
八武崎はその意味が分からず、「はあ」と生返事を返す。
「特に教壇周り。いくら聖職者が勤勉に掃除しそうって言ってもありゃ潔癖が過ぎるわ。埃のひとかけらも、髪の毛の一本も、指が木製の椅子に触れた跡も、何もかもが残っていない……調べてもなーんにも出てこないほどに念入りに証拠隠滅されてるわ」
坂道を下りる途中で、パトカーが停止する。
八武崎はバックミラー越しに見える教会の尖塔を目視した。
「……戻ります」
「おバカ」
その視線を遮るように、ミラーに映りこむ白柳。
「言ったでしょう、何にも出てこないわよ。無駄足踏んでる間に血十字逃がしたらどうすんの」
八武崎は不満そうな顔で、ため息をついた。
視線を戻してアクセルを踏み直す。白柳に翻弄されては丸め込まれるこのパターンに段々慣れてきている自分が嫌だと感じていた。
「それにあのシスター、私が教壇の周りを歩いたときに一瞥もくれなかった。なのに、背中に目があるみたいに私の動きを監視されてる気がしたわ。只者じゃないわね」
「それはあなたがズケズケと礼拝堂を闊歩したからでは?」
「さあ。威嚇した覚えなんてないわ」
その指摘を意に介さず、白柳は後部座席いっぱいを使って伸びをした。八武崎はその様子を大型の猫科生物に似ているなと連想する。
メスライオンのような体格良い類よりは、カラカルのような鋭さとしなやかさがあるタイプの大きな猫が、八武崎の頭の中で飛び跳ねていた。
「そんなことよりさぁ、早朝からパトカーで事件現場をあっちこっち捜査して、まだ今日何にも食べてないんだけど。そろそろお腹減らないの?」
「確かに、食べられるうちに食べておきましょう。そういえば、この近くに廃工場の被害者の三田遼太が勤めていた中華料理屋がありますよ」
「なんでもいいわ。近いならそこで」
◇◆◇◆◇
「リョータのやつはさぁ……ぐすっ、初めは要領の悪い子で、お皿もたくさん割ったけどなぁ、うぅ……最近ではすっかり後輩のバイトに教えたり、いつの間にか教えてないメニューなんかも作れて……」
「追加、えび蒸し餃子」
「ハイヨゥ!」
客席について泣きながら三田遼太の話をしていた店主が、注文を受けて颯爽と立ち去った。
その隣でため息をついた白柳が、中華麺をすすりながらこんなに喧しいなら別の店にすれば良かったと後悔している。
十数分前の出来事だ。
白柳と八武崎が『白鳥軒』という看板を掲げた中華料理屋に立ち寄ると、昼時にも関わらず準備中の札が下がっていた。
不思議に思って二人が中を覗き込むと、八武崎の恰好とパトカーから警察だと気づいた店主が店を開けてくれた。犯人逮捕の活力のためなら飯は無料で食べていってくれと一方的に押し切って、張り切って注文の品を作ってくれたところまでは良かった。しかし中華そばと回鍋肉定食を持ってきた店主はなぜかそのまま客席に居座り、泣き言と殺された三田遼太がいかに良い子だったかを語り始めたのだった。
「えび蒸し餃子おまちぃ!」
「げっ、無駄に早いわこの店」
敢えて手のかかる料理を注文したはずなのに、店主の腕がいいのか何なのか、彼はすぐに二人が食事をする席に戻ってきた。
「それでよお、その後輩のバイトの女の子なんてシフトで店にきたは良いけど料理運びながら泣き出しちまって、なだめているうちに店員も客ももらい泣きでもう昨日から営業になんねえんだよこれが。やっぱりアイツがいないと店が明るくなんねぇのよ。それで今日も準備中の札立てて」
「追加、よだれ鶏」
「ハイヨゥ!」
喋り続ける大将を追いやる唯一の方法に気づいた白柳は、大将が来るたび注文を追加するのだった。
静かになった客席で、運ばれてきた料理を黙々と食べ続けている女がいた。
「……八武崎ちゃん、なんでそんなに入るの?」
八武崎は初めに注文した回鍋肉定食に加えて、追加で運ばれてきた麻婆豆腐、きくらげと卵の炒め物、空心菜炒め、ふかひれスープを平らげていた。そのままの勢いでえび蒸し餃子へと手を伸ばす。
彼女は餃子をゆっくりと咀嚼したあとに、満足そうな顔で言った。
「味が良いので」
三人前近くを食べておきながらその淡々とした返事が鼻についたようで、白柳は八武崎のわき腹目がけて手を伸ばす。
むにっ、という予想した感触はそこに無く、分厚い腹斜筋の上の皮膚だけがつままれた。一切の贅肉がなく引き締まった身体に対して、白柳は更にいら立ちを募らせる。
「何でこの食事量で太らないのよ!」
「ああ、それが気になっていたんですか。単純に消費してるからですよ。学生時代からの習慣で朝夕10kmずつランニングしてます」
「朝夕って……仕事の前後に? 毎日?」
「警察官なので」
八武崎はそれを特別なことだと感じていないようだった。自分の立場であれば当然の自己研鑽というつもりらしい。
「まだ警察学校時代よりマシですよ。重りや盾を持って走らなくていいんですから」
「その勤勉さと正義感を見込んで秘書に引き抜いたけど……ちょっとやり過ぎじゃない?」
この一日、傍若無人に八武崎を振り回してきた白柳だが、初めて八武崎に圧倒されていた。その表情はドン引きとも言えるほど引きつっていた。
「よだれ鶏おまちぃ!」
「追加、ごま団子3個」
「ハイヨゥ!」
慣れたテンポ感で店主が厨房へと打ち返される。
八武崎が三人前を食べ終わるころに、白柳はやっと一人前の中華そばの終盤に差し掛かっていた。
はあ、とため息をついて麺をすする。
その伏し目がちな様子を見て、八武崎は気遣うように声をかけた。
「美味しいご飯を食べているのに、元気がありませんね。やっぱり血十字の異常性ですか?」
麺をすするのを中断する。
「異常性って、なんのこと?」
「だから、白柳さんの推理ですよ。この店主の証言で三田遼太も万人に好かれた善人であったと証明されました。善人を選んで殺しているなんて、考えただけでもゾッとするというか……」
「別に異常でもなんでもないわよそんなの。ありきたりな自棄だわ」
八武崎はよだれ鶏をつかみかけた箸を止めて「はい?」と聞き返した。
「八武崎ちゃんは犯人がどんな人間だと思ってる?」
「……はっきり言って、ここまでの異常な犯罪者の思考は理解できません。想像したくもないという気持ちすらあります」
「向いてないわね。警官なら犯罪心理の基礎くらいかじっておくべきよ」
「座学上は理解しています。ですが、実際の怪事件となると……そこまで言うなら、白柳さんは血十字事件の犯人の思考が分かるんですか? どうして善人を殺すと?」
「統計上殺害動機の1位は『怒り』よ。血十字はね、幸せそうな奴がムカつくから殺してやるなんていう、僻み妬み嫉みで殺人をする普通の奴なのよ」
その言葉を聞いて、八武崎は食事の手を止めて考え込んだ。
「怒りですか……」
脳裏には今朝のブルーシートとそれに覆われた損壊の激しい死体が思い出されていた。そして回ってきた現場と合計6人の被害者たちの情報が更に思考を巡る。
「あそこまで人間の身体を壊し尽くして、立て続けに6人も殺しているのに。それでも収まらない怒りなんて……やっぱり、私には想像できません」
犯人像が掴めずに困惑する八武崎の隣で、なぜか興味が薄れている白柳は独り言のようにつぶやいた。
「もちろん、見つけ出して本意は聞いてみないとわからないけどね……でも、善人を狙って殺すということは明らかに本人のなかに動機や理屈がある――そういうまともな犯罪者は、私の探してる人材じゃないのよね」
「やっと、ですね」
八武崎がぐっと身を寄せて、白柳に詰め寄る。
「警視正との電話以降、あなたが捜査の目的に関する発言をするのはこれが初めてです。白柳さんは犯人を探し出して何をするつもりなんですか?」
八武崎はこの気を逃すまいと、捜査対象の目をしっかりと見つめている。
対して白柳は、普段の調子のまま目を合わせた。
「八武崎ちゃんこそ聴いてきたのは初めてね。捜査も行き詰ってきたし、話の流れで少しだけ答えてあげるわ。私が探しているのは、動機もなく人を殺す機能を持った殺人鬼よ」
「……いわゆる快楽殺人ですか?」
「惜しい。でも、欲求というより技能や資質の話ね」
「言葉の意味が、よくわかりません」
白柳は初めて中華そば以外の皿へと箸を伸ばした。よだれ鶏を一切れ掴んで持ち上げる。
「八武崎ちゃんは鶏がどう屠殺されるか知ってる?」
その質問に、八武崎は神妙な表情で首を横に振った。
「鶏の餌を絶って空腹にしたあと、生きたまま逆さに吊るして、ナイフで素早く頸動脈と気管を裂いて切開するの。そのまま数分吊るして放置することで心臓が体内の血を押し出してくれる……そうやって、この子たちは私達人間の食事になるために命を奪われている」
白柳は一切れのよだれ鶏を、そのまま八武崎の口元へと近づけた。滴り落ちるたれが、ラー油の光沢で赤く光る。
八武崎は鶏の屠殺と血抜きの場面を想起したが、負けじとその一切れに食らいついた。
「それが、あなたの探している殺人鬼とどう関係があるんですか?」
気迫を失わない八武崎に対して、白柳は満足そうに続けた。
「鶏を苦しませず一瞬で頸動脈を切開するのが技能。それに心を病まず、畜産業と食卓への貢献を続けられるのが資質……生まれ持ったものでも、培ったものでもどっちでもいいわ。それを、人間相手に出来る人材がいたら、ほおっておくのはもったいないでしょ?」
「そんな人が、いてたまりますか!!」
八武崎は耐えきれず、立ち上がって抗議する。
八武崎礼の倫理観において、犯罪は悪だ。殺人は極悪だ。警察という人間社会の自浄作用に信念を持っている彼女は、殺人の資質などという妄言を認めることはできない。
「そうよね、そんなのが人間社会にいたら困るわよね――だから、探してるのよ」
八武崎は納得いかないという表情のまま、最後の質問をした。
「認めませんが、仮にそんな人間がこの世にいたとして……白柳さんは、白柳さんたちはその人に何をさせようというんですか?」
白柳は嬉しそうに笑った。
「想像ついてるくせに」
その笑みは嗜虐的で、妖艶にも見てとれる魔性を含んでいた。
彼女は質問には答えず最後の麺をすすって、どんぶりの縁に箸を揃えて置いた。そのまま立ち上がって歩き出す。
店を後にしようとする彼女の背中に向かって、八武崎は呼び止めた。
「白柳さん!」
「血十字に会えたらきっと、あなたも知ることになるわ」




