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Distort×Disorder  作者: 一木 樹
起段

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起段 --- 永浦永輔②



 誰もいない路地を全力で走る。

 どれほど走ったのだろうか。息がそろそろ持たなくなってきた。日頃から追いかけっこは慣れているつもりだったが、命がけとなると緊張の具合が違う。いつもの半殺しがまだ可愛く感じるほどだ。

「ハァ……ハァ……!」

 カラースプレーで描かれた下手くそな落書きと、ステッカーがベタベタ貼られた壁を横目に駆け抜ける。

 錐尾と呼ばれるこの地域には、薄暗い建物の影が続いていた。

 この辺りは根倉の工場群で勤めていた家族向けの団地やアパートが多い。工場が時代の煽りで次々と畳まれていく中で、住民はいなくなり、作りかけのマンションも放置されてしまった。

 根倉の廃工場と錐尾の廃墟マンションが子供のころからの遊び場だった。

 この一帯の鬼ごっこであれば、負ける気はしない。

 全速力のまま路地の角を曲がり、正面に住人のいない造りかけのマンションが見えた。

 通称幽霊マンションと呼ばれ、一時期ここで肝試しをするのが流行った。

 今思えば住人が入る前に施工が中断されたのだから、そもそも所縁のある幽霊だって居やしない。ただの悪ガキの溜まり場だ。

 背後を振り返ると、日本刀を手にした女が、まだ俺を追ってきている。

 立ち入り禁止のフェンスに沿って走る。この先にペンチで切られた入り口があるはずだ。

「よし、狭いけど通れる!」

 穴をくぐって敷地の中に転がり込んだ。

 フェンスの外から迫る足音。

 だが、ここには悪ガキが運び込んだガラクタがたくさんある。

「使えそうなものは……」

 目についたのは八百屋の看板。軒先に掲げるサイズで、抱えると俺の身長を超えるが、その大きさがちょうどいい。

「おらぁっ!!」

 フェンスの入り口をふさぐように押し付けた。

 まだ足りない。転がってる大物のガラクタを積んで、バリケードを作っていく。

 土嚢、床屋のカラフル縦ロール、ドラム缶、ひしゃげたバス停の停留所案内。

「はぁ……はぁ……これだけ積めば……どうだ、入ってこれないだろ……」

 息切れしながら、フェンスの向こうにたどり着いた人物を睨む。

 やはり、その姿はセーラー服をまとった子供だった。

 街中で見かければ、不良の俺を怖がって近づかないような女子中学生と一緒だ。

 しかし、その異常なまでに鋭い眼光と右手に握った日本刀から、本物の殺意がビシビシ伝わってくる。

「逃がさない……通り魔は、あの娘の仇は、私が……」

 彼女は虚ろにそうつぶやくと、塞がれたバリケードから数歩進んだ。

 振り上げられた右手の先で、再び月光が反射する。

 短い悲鳴のような音が数回響いた。

「私が殺す」

 女子中学生は、十字に切り裂かれたフェンスを蹴り開けた。

「わぁーお……やっぱ日本刀ってよく斬れんだな……!」

 俺は引きつった笑顔を浮かべて、後ずさりした。

 近くにあった鉄パイプを手に取り、威嚇するように相手に突き付ける。

 目の前で三度、日本刀が構えられる。時代劇でしか見たことがない、武士のような気迫に圧倒される。

 脳裏に、俺の体が十字に切り裂かれるイメージが浮かんだ。

 勝てる気がしない。

 喧嘩じゃない。

 相手は、俺を殺しにきている。

 殺意なんて相手に向けたことがない俺には……。

「くそ……来るなぁっ!」

 俺はせっかく手に取った鉄パイプを女子中学生目がけて投げつける。

 同時に、マンションのエントランス部分に向けて走り出した。

 後ろでカラン、と金属音が響く。鉄パイプは簡単に避けられてしまったようだ。

 エントランスといっても扉はなく、セキュリティは皆無だ。

 打ちっぱなしのコンクリートの箱の中を走る。

 突き当りにある非常階段に足をかけて、上へと昇った。

「はぁ……いやだ……ぜぇ、はぁっ……」

 息切れを無視して進む。全力で駆け上がり、このまま走り続ければあの殺意から逃れられるのではないかと思った。

 だが、それは大きな間違いだ。

 階段が終わり、俺は勢いのまま最上階の真ん中まで歩いて、そこで立ち止まった。

 強い風が吹き抜ける。

 真上の空は暗い。しかし、住宅街の先に見える地平線は明るくなり始めていた。

 大きく吸い込んだ冷たい空気が、肺の内側からも身体を冷ましていく。

 残り僅かな思考能力で、自分が愚かな判断をしてしまったことに気づいた。

 カツン、カツンと。ローファーがコンクリートを叩く音が響く。

 背後から階段を昇る音が、断続的に聞こえてくる。

 しまった。

 やらかした。

 ここは地上8階。最上階だ。

 逃げ場は、もうない。


 振り返ったその先に、セーラー服と日本刀が見えた。


「覚悟はいいか、殺人鬼」

「良くねぇ、よ」

 足が棒になったように重い。

 コンクリートの床だけが広がるこの屋上で、日本刀を避けて逃げる体力は残っていない。

 早朝から現場に入って肉体労働して、不眠不休で働いたあとのおでんの休みすら奪われて走り続けたんだった。

 硬くて冷たい床にへたりこむ。

 迫りくる殺気。目の前に凶器。


 ――ああ、死ぬんだ。


 ここで俺の人生は終わりなんだ。

 両親や学生時代の友人たちの姿が思い浮かぶ。

 みんな悲しんでくれるかな? 死んだら葬式くらいやってくれるかな。

 そこで、自分の大切な人たちが涙を流している未来を想像して、

 だめだ。

「……殺すのは、勘弁してくれ」

「いいえ、殺す。お前がしたように、十字に裂いて殺す」

「逮捕でも裁判でもなんでもいい、まだ死ねない!」

「往生際が悪い」

「何かの間違いなんだ! 俺は違う、殺人犯なんかじゃ、通り魔なんかじゃないんだ!!」

 そう言った次の瞬間。

 一際眩しい金色の光が、高く掲げられた日本刀に反射した。

 首をひねると、地平線から顔を出した太陽と目が合った。

 夜明けだ。

 鬼ごっこをしている間に、朝になってしまったらしい。



「……はあ、時間切れかぁ」



 そう呟くと、彼女は日本刀を腰の鞘に納めた。

「命拾いしたねアンタ」

「……は?」

「お天道様の下で、人を殺めることはできないでしょ」

 謎の理論を口にした彼女からは、禍々しいほどの殺気が消えている。

 彼女は後ろ手に何かを取り出しながら、おもむろに顔を近づけてくる。

 は? え?

 整った顔立ちが目の前にあった。こいつ、よく見たらキレイな顔してやがる。

 余りの至近距離に緊張したが、その視線は俺の背中側を覗き込んでおり、ガチャン、と何かが音を立てた。

 手首に触れる冷たい感触と、不自由。

 固定された両腕がうまく動かせない。

「ナニコレ、手錠……!?」

「うん。一度使ってみたかったの」

「いやいや、何で手錠されてんの俺!? 外せよ!」

「今すぐ殺さないだけ感謝してよ容疑者。次に日が沈むまでが執行猶予。それまで、アンタはこれで拘束するから」

 彼女は冷たい視線でこちらを睨んだ。俺への恨みは消えていないらしく、綺麗な顔が恐ろしく感じた。

「……執行猶予って、なんの?」

「もちろん、死刑の」

「……ハハ」

 俺の口から出た乾いた笑いが、早朝の澄んだ空気と、白んできた空に虚しく溶けた。



 これが俺の血十字事件の始まり。

 容疑者でもなければ被害者でもないはずなのに。

 無関係な俺が、歪んだ奴らの饗宴に巻き込まれていく。

 これから始まるのは、そんなはた迷惑な話だ。



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