幕間---天辺毬愛
ひらひらと舞うものが好きだ。
舞い落ちる桜。楓の種子。花畑に現れる蝶々。光に誘われる蛾。
特に、重力に逆らって自由に飛び回る蛾や蝶の姿に憧れた。
教会の宿舎から見える菜園に目を向けて、よくその姿に見蕩れていた。
「あんな風に飛び回れたら、きっと楽しいだろうなぁ」
幼い頃は蝶と蛾は同じ虫だと思っていた。実際に国によっては、この2つは区別されていないらしい。フランス語でパピヨンというのは、蝶と蛾どちらも指している。
小さい頃のわたしは、昼間に舞う蝶にも、夜空に光を求めて飛ぶ蛾にも、等しく憧れていた。
わたしの名前は、敬愛する聖母マリア様から拝借したものだ。
御美ヶ峰教会の門の前で、毛布に包まれた乳児のわたしを見つけてくれたのは、神父の岸和田尊だった。その日8月22日は聖十字教における聖母マリア様の、没後8日を追憶し崇敬する祝日だったことから、わたしの名前は毬愛になった。
あとから気づいたことだが、聖母マリアに関する祝日は年に11回くらいある。幼い頃は運命だと思っていたが、わたしが毬愛になれた確率は意外と高かったことがわかって不貞腐れたのを覚えている。
岸和田神父がその話をするときはいつも、「朝から茹だる様な酷暑の真夏日でした」という語り草から始まるため、なんとなくわたしは夏が嫌いになった。夏が来ると、こんな暑い日にわたしは生みの親から捨てられたんだなと想像してしまうから。
彼にはとても感謝している。
岸和田神父は模範的な聖職者で、日本では肩身の狭い聖十字教会を切り盛りして、とにかく信徒を大切にする人物だった。
肉親のいないわたしにとって、たった一人の家族だった。
わたしが彼の傷を治すその日までは。
「神父様、血が……」
教会の入り口で掲示板の張り紙を張り替えていた神父様は、指から血を流していた。
言われて気づいたらしく、彼は自分の人差し指を見て静かに驚いた。
「おや、用紙で切ってしまったみたいですね。毬愛さん、救急箱を取ってきてもらえますか?」
神父は血がこぼれ落ちない様に、指の根元を抑えている。
わたしはなんとなくその傷が気になって、彼の指に近づいた。
ツバをつけとけば治るという民間療法を、礼拝に来た年配の信者から聞いたことを思い出す。
「なめたら治るよ」
ぱくり、とその指を口に咥えた。
神父は「こら」と短く叱って、わたしの口から指を引き抜く。
「毬愛さん。気持ちは嬉しいですが、現代の衛生的にはあまりよくないですよ」
笑ってわたしを遠ざけた神父は、その後自分の指を見て言葉を失った。
彼の指先にあったはずの切り傷は、どこにも見当たらなかった。
「――奇蹟だ」
そう呟いた神父様の声は、礼拝で聖句を読み上げるときと同じ熱量を持っていた。
わたしが初めて他人を治した瞬間だった。
いや、もしかしたら初めてこの癒しを受けたのは母だったのかもしれない。
出産時の身体の傷や痛みを赤子だったわたしが無意識に治していたとしたら、きっと、気味悪がって捨てるには十分な理由だと思う。
神父が母と同じようにわたしを気味悪がらなかったのは、幸せのように思えるが、間違いはここから始まった。
「毬愛さん、今日はこの人の怪我を診てあげてください」
ある日曜日の礼拝のあと、彼は訪れていた信徒の中から怪我をしている人を呼び出して、わたしにそう告げた。
歩くのが辛そうな中年の男性は、階段で足を踏み外して腰を打ったらしい。
わたしは言われるがままにその人の怪我に触れた。
すると、瞬く間に男性の痛みは消え去り、服をめくるとあったはずの内出血の色が失われていた。
それからというもの、岸和田神父は身体に不調のある信徒を連日つれてきた。彼は懺悔室の右側の部屋にわたしを待機させて、左側の部屋に傷病者を入室させた。
怪我や病気の具合を聞いて、傷病者の手に触れてそれを癒していく。
その儀式めいた行いは、きっちりと一日一人のペースで毎日繰り返された。
捻挫。
火傷。
骨折。
靭帯損傷。
胃腸炎。
神経痛。
帯状疱疹。
咽頭癌。
難なく、そつなく、淡々と。
わたしはありとあらゆる傷や病気を治すことが出来た。
唯一の条件は“痛み”。
完治したあとの古傷や手術痕、自覚症状の無い腎臓病や緑内障などの病気は治せなかった。
この治療行為はそれからも規則正しく、一日一人のペースで行われた。
中には高額な寄付をしてまで、急いで癒しを求めてくる人もいた。
教会の信者ではない人が、噂を聞きつけて駆け込んでくることもあった。
それでも神父は厳格に一日一人のペースを守り、人目につかない懺悔室でその行いをわたしに続けさせた。
「神父様いいんですか? わたし、もっと誰でもなんでも癒せますよ。困ってる人がいたら、何人でも連れてきてください!」
11歳になったばかりのわたしにとって、自分が起こす奇蹟で人を救うという経験は、何物にも代えがたい万能感を植え付けた。
もっと治したい。もっと助けたい。その気持ちだけが先走って、神父にねだる様にお願いした。
しかし彼は諭すように言った。
「あなたのその奇蹟は、きっと聖母マリア様が授けてくださったものです。だからこそ、大切に大切に使わなければいけません」
「でも困ってる人は町にもっといると思います」
「もし、町に繰り出して人々を治して回ったら……貴女はきっと一躍有名人になります」
「なります! 有名人!」
「いけません」
神父は先を見据えていた。
「こんな奇蹟を使える人がいると知れたら……きっとそれを求めて色んな人が貴女を欲しがる。それでは、聖母マリアの願う癒しの奇蹟が市井に届かなくなる」
幼いわたしにはよくわからなかったけれど、今となっては理解できる。
テレビの取材やSNSで一躍有名になった飲食店には、遠方からもお客さんがきて長蛇の列が出来る。そうなってしまっては、近所でたびたびその店を利用していた人は、寄り付かなくなってしまうだろう。
岸和田神父は聡明だった。彼はこの埋芽市に根付く御美ヶ峰教会の神父であるがゆえに、この町で困る人たちを助け続けることを考えていた。
「本物は目立ち過ぎては短命に終わるのです。神の子がそうであったように」
そう言われるとこっそりと人々を助ける義賊やダークヒーローみたいだと、幼いわたしはそれはそれでかっこいいかもと留飲を下げた。
「でもせっかくマリア様みたいな奇蹟で人を救えるのに……目立って有名になるって、良いことばかりじゃないんだぁ……」
教会の宿舎から窓の外を眺めて考え事を続ける。
街灯に引き寄せられた蛾が、ひらひらと舞う姿をぼんやりと見つめていた。
その頃にはわたしにも蝶と蛾の区別がつくようになっていた。
大きな触覚を揺らして、不気味な模様の翅を羽ばたかせる。
太陽とも月とも似つかない紛い物を目指して不規則な軌道で飛ぶ。
そんな姿に嫌悪感にも似た感情を持っていた。
視線の先で、街灯に激突した1匹の夜蛾が地面へと落ちていった。
それに構うことなく、大小さまざまな蛾は我先にと街灯を目指して夜を舞う。
「……似ている」
これまで癒してきた信徒たちのことを思い出す。
わたしが光だとしたら、彼らはそれに寄せられた蛾だ。
「神の子も、マリア様も、そんなこと思わなかっただろうな」
窓の外の風景から視線を外して、自己嫌悪する。
なんて失礼で傲慢な例えなのだろうか。
わたしは思考を振り払うように布団に潜り込んだ。
◇◆◇◆◇
それから1年ほど経ったある日、神父の下に一本の電話があった。
「……亡くなった? そうですか、はい。お悔やみ申し上げます。では、他にご家族に怪我のある方は……ああ、教会でのお葬式ですね。手配しますので、はい、あとでまたかけなおします」
癒しの奇蹟を受けに来るはずだった信徒の容体が急に悪化して、亡くなってしまったとのことだった。本来なら葬儀の段取りを組んで親族と打ち合わせに入るはずが、彼は早急に電話を打ち切った。
そこから急いで別のところへ電話をかけるも、内容は芳しくないようだった。
「明日の予定を前倒しで、今から教会へ……そうですか、もうおやすみに」
「たしか、ご近所にお住まいでしたよね? 今日は……地方のご実家ですか。はい、ええ。来週の予定日にお越しいただければきっと治りますから。お待ちしていますね」
「以前治した病気の具合は? 快調ですか、それは良かった。また必要になれば声がけください」
「……なぜ、出ない。なぜ、いない」
電話をかけ続ける神父を不審に思って、わたしは部屋の入り口から彼の様子を見つめていた。
「神父様……? どうしたのですか?」
彼はわたしに気づくと、すぐさま近くまで駆け寄って、そのまま膝を折った。
その形相はいつも落ち着き払って頼りがいのある姿からは程遠く、まるで命の危機に瀕しているかのような焦りようだった。
「毬愛さん……本日、癒しの予定だった方が、来られなくなったんです。代わりの人を探したんですが、どうも折り合いがつかなくて、もう少しお待ちくださいね」
なぜか彼は申し訳なさそうに告げた。わたしはその温度感について行けずに、軽い気持ちで返事をした。
「そんなに焦らなくても……今日はお休みでいいじゃないですか! あ、だったら神父様はどこか痛いところはありませんか? なんでも治しちゃいますからね」
そう問われた岸和田神父は、ああ、と何かに気づいた表情をして、机の上にあったボールペンを手に取った。
「そうだ。私が“痛み”を捧げればよいではないですか」
握られたボールペンが、勢いよく振り下ろされた。
鮮血が床に落ちる。突き刺さった手のひらを貫通して、ボールペンの先端から滴り落ちる赤が止まらない。
神父はもう一度力を込めて、ペンを抜き取った。
「どうぞ――“癒しの聖女”様」
差し出された手のひらには、真っ赤な空洞があって、破れた皮膚と剥き出しになった肉の隙間から、血液が滲み出していた。
そこから落ちる血を止めるように、わたしは急いで彼の手を握った。
言葉を発することはできなかった。とにかく早く神父様の血を止めなければと必死だった。
「ははは。やはりすごいですね、毬愛さん。すぐに治ってしまいました」
彼の言動の意味を理解することは困難だった。ただ、異常な出来事が平然と行われたことだけがわかり、それを神父が異常と認識していないことが殊更恐ろしく感じられた。
「神父、さま……?」
「それでは夕食にしましょう。そのあと葬儀の手配を進めなければ」
その後、彼は何事もなかったかのように一緒に食事をして、おやすみを告げて自室での執務に戻った。
わたしは脳裏から神父が自傷した姿が離れなかった。
なぜ神父様は自分を傷つけたのだろう。
わたしの癒しの力が、彼を狂わせてしまったのだろうか?
教会の宿舎から窓の外を見つめて考え事を続ける。
街灯に引き寄せられた夜蛾が、ひらひらと舞う姿をぼんやりと見つめていた。
わたしが光だとしたら、癒しを求める信徒はそれに寄せられた蛾だと以前考えたことがあった。
でも今日の神父様の異常な行動を見て、何かが引っかかっていた。
わたしは毎日毎日人を癒してきた。この奇蹟は人のために使うべきもののはずだ。
それを止めたら……?
岸和田神父は、それを途切れさせないために身を差し出したのだとしたら?
人を癒さなかったわたしは、どうなるのだろうか?
「……もしかして、わたしの方?」
途端に、今までの構図が逆転したように思えた。
光がわたしで、それに群がる蛾が傷病者だったはずなのに。
わたしこそが、痛みを求めて飛ぶ気味の悪い蛾だったとしたら。
そんな恐ろしいことがあるわけないと言い聞かせる。
聖母マリア様から授かった奇蹟が、そんな薄汚いわけがない。
そうしてわたしは“癒し”の正体を確かめることから、今日まで逃げ続けてきた。
また一匹、街灯にぶつかって翅の欠けた蛾が、地面へひらひらと落ちた。