序段 --- テレーズ・ダ・リジェ①
埋芽市の小高い山を削って出来た高級住宅地、昼丘という地域の頂上あたる場所に御美ヶ峰教会はあった。
この古い教会は周囲に住宅がない頃からこの地域にあって、今も昔も来るものを拒まない。
一人の修道女が教会の戸を開く。
彼女は受付を抜けて、礼拝堂には入らず奥の応接室へと進んだ。
部屋の中心には大きな棺があり、その傍らに神父が寄り添っていた。
「シスターテレーズ! 良かった、貴女は無事で……」
「平井神父。彼は」
平井と呼ばれた男は、目を伏せてゆっくりと首を振る。
テレーズは信じられないという表情で棺の窓に手をかけた。
その手を平井神父が掴み静止する。
「見るのは、止した方がいい」
テレーズはその言葉を聞いたうえで、そっと窓を開いた。
そこには身体を無理矢理こじ開けられたような、血だらけの死体が横たわっていた。
両腕を結ぶように横一文字。股から額までを割くように縦一線。服と皮膚を引き裂いた傷が十字に重なっていた。
「……バルナバは、経験豊富な異端審問官でした。我々『神からの呪い』の中でも古株で、彼が殺されることなど考えもしませんでした。しかも、こんなにも惨たらしく」
テレーズは棺の窓を静かに閉じて、平井神父へと向き直った。
「魔女の仕業ですか?」
「わかりません。私共が着いたときにはもう……ですが、この死体の様子は、最近巷を賑わせている『血十字殺人』という通り魔の犯行かもしれません」
「なんて不吉で不敬な名前ですか」
テレーズは引きつった表情を見せた。敬虔な教徒としては許しがたいネーミングだと感じられたらしい。
「一般人への甘さ、優しさから油断しましたか。雹嵐と仲裁人の守護聖人バルナバ。彼は口数は少なく誤解されやすいですが、そういう心根の美しい人でしたから」
その言葉を聞いた平井神父は、それは貴女も同じでしょうにと息を吐いたが、口には出さなかった。
「せめて、彼の死後が安らかでありますように」
彼女は同僚のために祈る。胸の前で十字を切り、か細い声で聖句を唱えて手を組んだ。
――私は安らかに伏し、すぐに眠ります。主よ、ただあなただけが、安らかに私を住まわせてくださるのです。
(『詩篇』4篇8節)
御美ヶ峰教会の廊下を修道女と神父が歩く。
先を歩くテレーズに対して、平井神父は報告するように話しかけた。
「昨晩、カルト教団の首魁だった岸和田神父はテレーズにより抹殺。その他、癒しの聖女の取り巻きだった女性3名は聖女を逃がし、追う我々に対して殺意を持って抵抗したため、バルナバが抹殺しました。これらの死体の処理は済んでいます」
テレーズが足を止めて振り返った。
「“癒しの聖女”という言い方、改めてください」
彼女は真剣な眼差しで続けた。
「敵は“魔女”です。生まれながらにして許されざる罪人だ。市民から聖女と崇められようと、善行を積み重ねようと、その本質は変わりません」
その剣幕に圧されながらも、平井神父は困惑した声を上げる。
「私には、彼女がそんなに恐ろしい存在には見えませんでした……聖十字教会を騙り、金儲けをしていた岸和田神父にはもう罰が下ったのですから、彼女の命まで取らなくても」
テレーズは少し迷ったような素振りを見せたが、嘆息して続けた。
「私が前の任務で当たった“眠りの魔女”の被害者数は15万人以上です」
突如告げれた甚大な被害に、平井神父は息を飲んだ。
この埋芽市の人口の二倍近い数字だ。
「……なぜ、そんな膨大な被害者が?」
「この情報は協力者である貴方でも閲覧権限のある範囲ですので説明しましょう」
テレーズが取り出したガラケーを操作すると、ある監視カメラの映像がぎこちなく再生された。
そこには古びた家屋の前でカメラを回していた若者数名が、突然倒れこむ様子が記録されている。
「彼女が軽い気持ちで口ずさんだ子守歌が、運悪く動画投稿者の生配信に拾われてしまったのです」
映像の続きでは、倒れた若者に駆け寄って困惑する若い女性が現れた。
「その歌は配信で聞いた者すべてを昏睡状態へと陥れました。肉声を聞いた動画配信者は二度と目が覚めず医療的には原因不明の脳死という診断になるほどです。更に動画が切り抜かれ拡散されることで被害者は増加し、累計の被害者数は15万人以上。ネット上の動画データは根絶しましたが、被害者はもっと多いかもしれません」
平井神父は身震いをした。今この映像で倒れた若者たちは、現在もベッドの上で意識が戻る見込みがないのだ。ほんの少し魔女の子守歌を耳にしてしまった。ただそれだけのことで。
「協力者とはいえ、平和な日本の街で働いている貴方にこのレベルの緊張感を押し付けるのは気が引けますが、ご理解ください。平井神父」
「……彼女たち魔女は、人間ではないのですか?」
「人と、思ってはいけません。我々の持つ理の外に彼女たちはいます。油断なさらぬように」
「わかり、ました。“聖人”である貴女には無用かもしれませんがテレーズ。貴女もお気をつけて」
テレーズは平井神父と会話しながら、礼拝堂の入り口に並ぶ蝋燭が1本尽きて消えていることに気づいた。受付の引き出しを開けて、予備の蝋燭を見つける。
「ええ。お気遣い感謝します。バルナバを殺した殺人鬼と魔女が組んでいる可能性もありますからね。その場合は一般人とて容赦はしません」
テレーズは残っている蝋燭から火を貰い、新しい蝋燭を灯してそれを燭台に差した。
「そ、それは考えられませんよ! 事前調査では御美ヶ峰教会周辺では魔女の呪いに関する被害や、武力行使は一切ありませんでしたから」
「ですが現に我々が派遣されたのは調査員3名が行方不明になったからです。私達には敵の情報が足りない」
蝋燭の火が揺らめくのを見つめながら、テレーズは聖書の一節を思い出していた。
「マタイの福音書に賢い乙女と愚かな乙女を対比した聖句があります。宵闇で花婿を迎える際に、灯りと共に予備の油を持っていなかった愚かな乙女たちは、いつ訪れるか分からない花婿を待っている間に灯りを失ってしまいました。油を買い足すために奔走し、花婿を迎えることが出来ませんでした。追加の油を備えていた賢い乙女たちは、無事に花婿を迎えて宴を楽しむことができた――私は、灯りを失った暗闇の中で魔女に刺されたくはありません」
ゆっくりと頷く平井神父を見て、神父に聖書を説いていることに気づき、テレーズは少し気恥ずかしそうに笑った。
「恥ずかしがることはありませんよテレーズ。気づいていなかったのは私の方だ。それに、日本のことわざでは備えあれば憂いなしという言葉が当てはまります」
「そなえあれば、うれいなし、ですか。覚えておきましょう」
突然、耳慣れない着信音が鳴り響いた。
テレーズが慌ててガラケーを取り出すと、そちらは微動だにしておらず、一瞬彼女の動きが静止する。
直後、存在を思い出したスマートフォンを手にして、慣れない手つきで通話を取った。
『やあテレーズ、さっき振りだね』
「この声は、アキラ?」
テレーズは早朝に知り合った青年の顔を思い浮かべた。このスマホも彼から受け取ったものであり、通話をかけてくるなら彼しか思いつかなった。
『そうだよ。君に一目惚れした香坂明。覚えていてくれて嬉しいな。君といつまでもお喋りしていたいけど、時間がないから早速本題に入ろう。今から御美ヶ峰教会に捜査官が2名訪問するよ』
「なっ……ええぇ?」
困惑したテレーズは、珍しく気の抜けた声を出した。
どうして私が御美ヶ峰教会にいると知っているのか、と質問を返そうとしたところで、明は矢継ぎ早に会話を続けた。
『おそらく連続殺人の捜査の一環で町中を周っているんだろうけど、そこはカルト教会として噂の立っていることから、怪しい品の押収は免れないだろう』
「な、なななんですって!?」
『血十字事件の話は聞いてるかい?』
隣で不思議そうな顔をしている平井神父を一瞥する。バルナバを死に至らしめた傷から、彼は話題の通り魔による犯行だと予想していた。
「ええ、先ほど伺ったばかりです。でもそんなことより、押収は困ります!」
この介入はテレーズたちにとって大きな問題だった。先程の平井神父からの報告にあったように、死体などの血生臭いものは既に隠匿している。だが、魔女を取り逃がしたため、この教会に残っている情報はとても貴重だ。ここで捜査機関に教会の物品を押収されたら、魔女を追う手がかりを失うかもしれない。
『時間がない。今そこに、テレーズ以外の仲間はいるかな?』
修道女は短く返事をする。
『じゃあその人に頼んで、教会受付にある礼拝出席名簿の記録を探してもらってくれ。一番新しいやつだけでいい。おそらくカルト教会からしたら金づるのカモのリストだけど、それは癒しの聖女がこの町で関わりのある人物の記録だよ』
確かにそれを失うのはマズイと感じたテレーズは、言われた通りに平井神父に事情を伝え、彼は受付へと急いだ。
彼が名簿を探している間に、テレーズは震える声で不安を打ち明けた。
「もうひとつ問題があります。これから捜査官による尋問がありますね?」
『君はその教会の人間ではないし、詰め寄られることはないと思うけど、なんだい?』
大男を片手で持ち上げるような女性が、尋問をどうして恐れるのかと明は疑問に感じた。
「私、嘘がとっっても苦手なんです……!!」
『……へ?』
テレーズはスマホを強く握り、もう片方の手で胸の十字架を掴んだ。
「神に仕える身の私が、虚偽をするのは心と体が追いつかないのです! 隠しているつもりでも、昔から声や仕草ですぐバレてしまって……だから、名簿を隠しても、捜査官に問われてしまったら……」
必死に説明するテレーズの様子がツボに入ったのか、電話の向こうから明が笑いをこらえる様子が伝わってくる。
『そんなことって……わかった一度やってみよう。テレーズさん、無関係なあなたがどうしてこの教会にいるんですか? 行方不明者のことを、何か知っているのでは?』
「え~っと、ソノ、通リカカッタダケノ、非常ニ一般的ナ修道女デスヨ~。スゴク無知デス。私ニ聞クノ時間ノ無駄デス!」
電話の向こうからは、今度こそ笑い声が響いていた。
片言と怪しくないことを強調しすぎた怪しい文章が、彼女に嘘の才能が無いことを如実に表していた。
呼吸の荒くなった明の声が聞こえてくる。
『さっきまで、日本語上手だったのに急に……ハハハッ、はぁ、もう、笑い疲れたよ。本当に君は素敵な人だね。ますます好きになりそうだ』
「あなたを高揚させるために言ったのではないんですよ!」
『うんうん。とにかくテレーズ、君は苦手なことはしない方がいい。仲間に合わせて最低限の相槌だけにしよう』
わかりました、と修道女は不安そうに返事をする。
『そして、礼拝名簿は捜査に不可欠となる。嘘つかないで捜査官に渡してしまうんだ』
「で、でもそんなことをしたら手がかりが……!」
『大丈夫。そのために電話したんだから。これから伝えるとおりにして』
その後、礼拝名簿を手にした平井神父が戻ってきた。
テレーズは明からの指示を受けて、電話を切り名簿を受け取った。