序段 --- 天辺毬愛②
しばらくした後、服を着て脱衣所から出た君ヶ袋はちゃぶ台の前に正座していた。
「さっきのは流石に紳士らしくないのでは?」
「先にフラグを立ててお色気シーンに突入したのはお嬢さんの方です! ボクのは礼儀に乗っ取ったお約束のカウンターです!!」
「そ、それは失礼しました……?」
謎の気迫に丸め込まれてしまった毬愛は、この議論を諦めた。
君ヶ袋は話を戻すため助け舟を出す。
「それで、何の御用でしたかお嬢さん」
「は、はい。わたしの背中の服が破れていることですが……」
少女は警戒していた。自分の素性が外に漏れればまた追手が来る。そのときは君ヶ袋にも危害が及ぶかもしれない。それだけは阻止しなければいけないと考えていた。
「ああ、傷が治っていたところですね。驚きましたが、良かったですね跡にならなくて」
「えっ、ああ……はい」
あまりにも拍子抜けで勢いを失ってしまった。
「大丈夫ですよ。夜中に追われているお嬢さんを拾ったということはワケ有りに決まってます。それを聞き出さないのが紳士ですし、言いたいなら黙って聞くのも紳士。口外するなんて以ての外です」
この男は、異常な見た目と狂った言動の割には、存外本当に紳士的な部分もあるのだと少女は納得した。
その親切に報いるためか、毬愛は先ほど脱衣所で見た光景を思い出して、紙袋へと手を伸ばす。
「傷を癒す力は、自分だけではなく他人にも使えます。傷跡は難しいかもですが……紳士さんの顔、診せてくれますか?」
「見てもいいですけど、治すのはお断りします」
毬愛の手が止まった。
「気持ちは嬉しいですよお嬢さん。でもね、これは自分でつけた傷ですから。治さなくていいんです」
「……では、確かめるだけ」
紙袋が取り外される。
長く乱雑に伸びた髪は目や顔の輪郭を覆い隠している。その奥に切り傷が治った跡があった。
顔全体に。
縦横無尽に。
数えきれないほどに。
毬愛はじっくりと傷跡を診た。
「……痛みはありますか?」
「随分と前の傷ですから、時々痒いだけです。マスクだと蒸れるので、紙袋なんですよね」
君ヶ袋は、照れくさそうに笑った。それは毬愛が見た彼の初めての表情だった。
「そうですか……見せてもらったのにごめんなさい。そもそもこの傷跡は戻せません。痛みの伴うものだけしか、わたしには癒せないのです」
紙袋を手渡すと、彼はすぐに頭へと被った。
「大丈夫です! 次に怪我したらすぐにお嬢さんに泣きつきますからね」
「怪我をしないことが大切です。それに、わたしはもう出ていきますから」
「え!?」
毬愛は立ち上がり、狭い六畳一間から出ようと玄関に向かう。
それを阻むように、君ヶ袋が立ち上がろうとするが、正座で痺れた足のせいで情けなく畳に倒れこんだ。
「危険ですよ! お嬢さんを追っていた神父には、仲間がいると言っていました!」
少女の足元で紙袋が喚く。
「……わかっています。わたしは遅かれ早かれ、彼らに捕まり、殺されるでしょう」
「殺されるとわかっているなら、外に出るべきではありません!」
「何となくわかっていたんです……この治癒の能力はこの世にあるべきものじゃない。普通に生きて、普通に死ねるとは思っていませんでした。だから、殺されることに文句はありません」
死の運命を受け入れている少女に、君ヶ袋は押し黙った。
「でも、そんな異常者なわたしにも、残された約束がひとつあります。それだけは成し遂げたいんです」
さっきまでか弱かった少女の瞳に、強い意志が見えた。
「……ではお供しますよお嬢さん」
君ヶ袋は痺れる足でなんとか立ち上がる。
「お嬢さんが死を受け入れてるのは尊重しましょう。しかし昨晩出会ったのも何かの縁。せめてその心残りを、取り除く手伝いをさせてください。それが、お嬢さんと出会ってしまった紳士の務めです」
予想外の申し出に毬愛は驚いた。
だが、少女は犠牲が出ることを嫌がる。
「あなたみたいないい人を巻き込めません。わたしと出会ったことは忘れて、今まで通りの人生を歩んでください」
「いい人ですか……やっぱり、お嬢さんと言えば箱入り娘。箱入り娘と言えば世間知らず。人を見る目がありませんね」
紙袋の奥からため息が聞こえた。
「実はボクは自分のことを紳士と思い込んでいる悪者なんです。でもこんな危なっかしいお嬢さんを目の前にしてしまっては、いったん悪者をお休みして紳士に専念しようと思います」
「わたしだって悪者です! 急ごしらえの嘘で、仲間意識を持たせようなんて……」
毬愛が話し終わらないうちに、君ヶ袋は膝を折って少女を見上げた。
「――信じられないというなら、ボクの悪事を懺悔しましょう。ボクはうぐぉ」
突如、紙袋が潰れる音がした。
毬愛が君ヶ袋の口辺りを両手で押さえて、言葉を遮る。
「懺悔は、やめてください」
少女は悲痛な声を上げた。
「わたしは偽物の聖女です。告解を神へと届けて、あなたに許しを施すことはできません。でも紳士さんの気持ちはわかりました。そこまでしてくれるなら、わたしは個人としてあなたの言葉を信じます」
しわが寄った紙袋をピンと伸ばしながら、君ヶ袋は嬉しそうに立ち上がった。
「あなたの手伝いを受け入れます。でもその代わり、危なくなったら逃げると誓ってください。わたしのせいで紳士さんが傷ついたら、それが新しい心残りになりますから」
「誓いましょう。紳士は絶対に誓いを守ります」
君ヶ袋は右手を差し出して、毬愛は握手を受け入れた。
ブンブンと大きく二人の握手が上下する。
「ところで、お嬢さんの行く先はどちらに?」
「旭富総合病院です。そこに、わたしの癒しを待っている人がいます」