山峡の逃避行
山岳バイオステーションへ向かう遮蔽型輸送車両は、高度なステルス性能と悪路走破能力を備えていた。全天候型太陽電池パネルが車体上部を覆い、低照度下でも駆動用バッテリーを補助充電していた。車内は、アキラ、リュウ、ブルーアイとオオカミたちをそれぞれ分離したコンパートメントに収容し、ストレスを最小限に抑える設計だった。ハルオ、ケイ、ソラ、ジャビールが同乗した。
しかし、予定ルートを進む車内で、リュウの様子が明らかに異なっていた。彼はコンパートメントの強化ガラス越しに、トビが消えた方向(研究所の北西)を執拗に見つめ、低くうなるような鳴き声を繰り返していた。全身の羽毛が常に逆立った状態で、虹色の冠羽は広げられたままだ。特大の第II指鉤爪で床を引っ掻く動作も見られた。モニタリングデータは、極度のストレスと不安を示していた。
「…リュウはトビのことを諦められない」ハルオが車内モニターのリュウの様子を見ながら呟いた。「このまま山岳ステーションへ向かっても、彼の心身に悪影響だ」
ソラがタブレットを操作した。「トビの培養網膜カメラプロトタイプからの最終信号を解析中だ。位置情報は正確ではないが、方向とおおよその距離… 研究所北西方向、渓谷沿いの森の中というデータは得られている」
ジャビールが山岳地図を広げた。「ここでルートを外れ、渓谷沿いを北西に進むことは可能だ。しかし、道は険しく、車両では無理。徒歩での移動となる。ハルオさんの足や、食料・水の確保、PRの脅威を考えると…」
ケイが強く言った。「トビを助けに行こう! リュウもアキラもブルーアイさんも、みんなで力を合わせればできる!」
困難な決断だった。しかし、リュウの悲痛な姿と、トビの生存可能性を前に、ハルオは決断した。「…よし。だが、安全第一だ。PRの動向には細心の注意を払い、リスクが高まったら即座に撤退する。同意か?」一同が固く頷いた。
**能力連携による進撃**
車両は人里離れた渓谷の入り口で停止した。コンパートメントが開き、アキラ、リュウ、ブルーアイとオオカミたちが解放された。冷たく湿った山の空気が彼らを包む。リュウは解放されるやいなや、首を高く上げ、鼻孔を大きく開いて深く空気を吸い込んだ。トビの匂いを探ろうとする必死の行動だ。
1. **偵察・ルート選定:**
* **アキラ(視覚):** アキラは即座に近くの岩場へと俊敏に登った。長い尾をバランサーに使い、指行性の足で不安定な岩肌も軽々と駆け上がる。頂上に立つと、優れた**広視野**と**高解像度視覚**を活かし、周囲の地形を精査した。彼の視界は、深い緑の森、険しい崖、白く泡立つ渓流、遠くの稜線までを鮮明に捉えた。脅威となり得る動き(大きな鳥の群れの飛翔、下流で水を飲むニホンカモシカの群れ)を瞬時に特定し、安全な進路として、渓流に沿った比較的開けた岩場ルートを視認した。アキラはその方向へ、短く鋭い警戒音を一度発した(「安全ルート」の合図)。
* **リュウ(嗅覚・聴覚):** アキラの警告音を聞き、リュウはその方向に注意を向けたが、それ以上に、彼の**鋭い嗅覚**が重要だった。地面に鼻面を近づけ、時折立ち止まっては空気を嗅ぎ、かすかに残るトビの匂い(羽毛や個体特有の微かな分泌物)を追おうとした。渓流の水音が邪魔をしたが、彼の**優れた聴覚**は、その中から小さな羽音や足音のようなものを拾い上げようと集中していた。リュウはアキラが示したルートを基本的に受け入れつつも、匂いや音のする方角へと進路を微妙に修正しながら進んだ。
* **ブルーアイ(RSFによる広域警戒・群れ統率):** ブルーアイは群れ(オオカミとリュウ)の後方や側面を移動した。彼の頭部は常にゆっくりと水平方向に振られ、フレームのRSFセンサーが周囲の電波環境をスキャンしていた。PRの通信電波やドローンの制御波、あるいは監視カメラの電波など、不自然な人工電波を探知するためだ。同時に、彼は群れ全体の位置と動きを把握し、リュウが探索に熱中して危険な場所(滑りやすい崖縁、深い水溜り)に近づきすぎないよう、低い唸り声や自身の位置で誘導した。シエラとロックはブルーアイの指示で、群れの左右の側面警戒を担当した。
2. **移動支援:**
* **ハルオの支援:** ハルオの電動車椅子は険しい山道では役に立たない。ジャビールは応急処置キットの軽量アルミフレームと防水シート、ロープを用いて、簡易な担架を作成した。ソラとケイがジャビールを補助し、ハルオを慎重に担架へ移した。担架の前後をロープで結び、ジャビールが前部、ソラが後部を担ぐ。ケイは荷物(水筒、非常食、医療キット、ソラの装備)を背負い、周囲の警戒を助けた。
* **安全確認:** 先行するアキラやリュウが発見した危険箇所(崩れやすい斜面、倒木の隙間)を、群れが通過する前にジャビールらに知らせることが重要だった。アキラは高所から、リュウは地上から、発見した危険箇所を特定の警戒音や、その場で足を止め威嚇姿勢を見せることで伝えた。ブルーアイも、RSFセンサーで感知した異常(遠くの大型動物の気配を示す熱源?)があると、群れを一旦停止させ、警戒方向へオオカミを向かせた。
**絆の深化**
進むにつれ、アキラとリュウの警戒心は薄れ、互いの能力を認め合い、より複雑な情報交換を試み始めた。
* **水場発見:** リュウが渓流の支流のわき水を嗅ぎ当てた。彼はその方向へ首を伸ばし、低く短い鳴き声(「水」の意味)を発した。さらに、前肢の第I指(親指)で水の方向を指し示すような動作を加えた。これまでにない複合サインだ。アキラはそれを理解し、高所からその場所の安全性を確認した後、ケイたち人間のグループの方へ向かって、リュウの鳴き声を真似るような音を二度発した(「水」「安全」の意図)。人間たちはその合図で貴重な水を補給できた。
* **脅威共有:** アキラが遠くの尾根で何か大きな動く影(クマの可能性)を視認した。彼は即座に警戒音を三度連続で発し(「大規模脅威」)、自身の視線を脅威の方向に固定し、冠羽を完全に逆立てた。リュウはその警告を受け、自らもその方向へ耳と鼻を向け、脅威の匂いや音を確認しようとした。確認後、リュウはアキラの方へうなずくような首の動きをし、群れ全体に低く警戒音を発して進路を変更するよう促した。ブルーアイはその一連の流れを理解し、オオカミたちを率いて迂回路を先導した。
ソラの携帯端末(背面に全天候型太陽電池モジュールを搭載し、微弱光下でも充電可能)が、これらのやり取りを記録していた。「解析AIが、アキラとリュウの間で新たなコミュニケーションパターンが発生し、定着しつつあると報告している! 音声の周波数パターン、発声回数、それに伴うボディランゲージの組み合わせが、特定の意味(水場、脅威の規模と方向)に対応し始めている!」
**休息と決意**
日が暮れ始めた。一行は渓流沿いの洞窟を見つけ、一夜を過ごすことにした。洞窟の入り口は狭く、守りやすかった。ジャビールとソラが簡易的なバリケードを作り、ケイが残った食料と水を分配した。
リュウは洞窟の入り口に座り、トビが消えた方向をじっと見つめていた。疲労は隠せなかったが、目は依然として強く輝いていた。アキラは少し離れた岩の上で羽毛の手入れをしていたが、時折、リュウの後ろ姿を一瞥していた。ブルーアイとオオカミたちは洞窟の奥で休息し、交代で見張りについた。
ハルオが担架の上から皆を見渡した。「…今日一日、よくやった。特にアキラとリュウの連携は驚くべきものだった」彼はリュウの方へ向き、静かに言った。「トビはきっと、君のことを待っている。あの小さな体と賢さで、必ず生き延びている」
リュウはハルオの声に反応し、ゆっくりと振り返った。そして、深く、大きく息を吸い込むと、力強くうなずくような動作をした。洞窟の奥に響く、決意に満ちた低い唸り声を発した。トビを救うまで、決して諦めないという誓いのように。
アキラはその唸り声を聞き、羽毛を整える動作を止めた。彼は岩から降り、洞窟の入り口へ歩み寄り、リュウの隣に立った。二人のネオルニトサウルスは、暗くなりゆく渓谷を並んで見つめた。互いに言葉は交わさなかったが、複雑な感情と固い決意が、静かに共有されているようだった。アキラの長い尾が、リュウの尾にわずかに触れ、すぐに離れた。それは、同種として、そして今は同じ目的を持つ者としての、初めての積極的な接触だった。