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傷跡と離散

夜明け前の薄暗がりが、戦闘の傷跡を浮かび上がらせた。多摩生命科学研究所のドーム周辺は、無数のドローンの残骸、焦げた地面、弾痕が刻まれた壁面で埋め尽くされていた。消毒液の匂いが、硝煙やプラスチックの焼ける臭いと混ざり、重苦しい空気を作り出していた。負傷した警備員が応急処置を受け、自衛隊員がPR残党の掃討と現場検証を進めていた。

ドーム内。ブルーアイとオオカミのシエラ、ロックは、水場のそばで休息していた。彼らも疲労の色を濃くにじませていたが、警戒は怠っていなかった。ブルーアイの頭部フレームは、損傷なく稼働を続け、LEDが落ち着いた間隔で青く点滅している。RSFジャミングによる多大な消耗にも関わらず、群れの統率は保たれていた。


しかし、リュウの姿はそこにはなかった。


**悲劇の余韻**


リュウは、トビが消えた北西隅の境界壁面、換気グリルの前にいた。彼の全身は、深い悲しみと怒りに満ちた緊張で硬直していた。黒い羽毛はすべて逆立ち、特に肩や背中の羽毛が膨らんで、体を大きく見せていた。虹色の冠羽は最大限に広げられ、夜明けの微かな光の中で青緑色が不気味に輝く。細長い頸部は、トビが脱出したグリルの隙間へと伸ばされ、鼻面を押し付けるようにしていた。彼は低く、絶望的なうめき声のような音を繰り返し発していた。「ウゥ…ウゥ…」

時折、リュウは突然激しい動作を見せた。特大の第II指鉤爪(約10cm)をグリルの強化ポリカーボネートに引っかけ、ガリガリと引っ掻く。半月形手根骨が可動し、前肢全体に力を込めた動作だった。しかし、人間の技術が生み出した素材は、彼の鉤爪をもってしても傷つけることはできなかった。無力感が、リュウの怒りと悲しみをさらに増幅させているようだった。長い尾は、硬直化した基部を軸に、先端が激しく震えていた。

「…リュウ」 観察通路から、ケイがかすれた声で呼びかけた。彼女の目には涙が浮かんでいた。ハルオは、リュウのモニタリングデータ(依然として危険なほど高い心拍数とストレスホルモンレベル)を見つめ、深くため息をついた。

ブルーアイがゆっくりとリュウに近づいた。リュウはブルーアイが近づくのを感じると、一瞬引っ掻く動作を止め、低い威嚇音を発した。しかし、ブルーアイは止まらなかった。彼はリュウの左側に立ち、自身の頭部をリュウの肩の辺りにそっと寄せた。フレームのLEDがゆったりとした青い光で点滅した。RSFを用いた「慰め」「落ち着け」の信号を送っているのかもしれない。ブルーアイは細長い口吻で、リュウの逆立った首元の羽毛をそっと梳いた。それは、群れの仲間をなだめるオオカミの行動そのものだった。

リュウの激しい怒りのうめき声は、ブルーアイの行動により、次第に深い悲しみを帯びた低い鳴き声へと変わっていった。羽毛の逆立ちもわずかに緩んだ。しかし、視線はトビが消えたグリルから離れようとしなかった。トビを守れなかったという自責の念と、行方不明への強い懸念が、リュウの大きな大脳半球を支配していた。


**決断の時**


研究所長室。ハルオ、ソラ、ジャビール、セキュリティ責任者、AGI管理官が集まっていた。壁面スクリーンには、研究所の被害状況(ドーム外壁の損傷、セキュリティシステムの一部破壊)、PR残党の活動が依然として周辺で確認されているという自衛隊からの報告、そして何より、トビの失踪と、彼がPRに利用されるリスクが赤く強調されていた。

「…状況は明らかだ」研究所長が厳しい口調で言った。60代半ばの女性で、普段は温厚だが今は眼光が鋭い。「本施設は、物理的にも情報的にも、もはや彼らを守る砦としての機能を完全には果たせない。PRはトビという弱みを得た。次なる攻撃は、より苛烈で、彼を囮に用いる可能性が高い」

ハルオが重々しく頷いた。「アキラ、リュウ、ブルーアイの群れ…そして我々スタッフの安全を考えれば、避難は不可避です。前回の訓練で検証した、山岳バイオステーションへの緊急避難計画を、ただちに実行すべきです」

ソラがデータを提示した。「『ヘリオス』が、PRの通信網の断片を解析しました。彼らはトビの捕獲を『追加目標』としてリストアップしている可能性が高いコードを確認しました。時間がありません」

ジャビールが地図を指さした。「廃研究施設…いや、山岳バイオステーションへのルートは複数確保済みです。遮蔽性の高い輸送車両も待機させています。施設自体は、私が指揮を執って改修を進めており、最低限の居住環境とセキュリティは確保されています」

セキュリティ責任者が最終確認した。「ガーディアン・ネットのサブシステムを移行するためのポータブルサーバーも準備完了。移動中も、非侵襲モニタリングは継続可能です」

全員の視線が研究所長に集まった。彼女は深く息を吸い込み、決然と宣言した。「了解した。プロトコル『サンクチュアリ・リロケーション』を発動する。対象は、アキラ、リュウ、ブルーアイ、及びその群れ(シエラ、ロック)。同行スタッフは、ハルオ、ソラ、ジャビール、ケイ。準備時間は…1時間。全員の安全を最優先に!」


**別れの準備**


ケイは、震える手でアキラのモニタリングバンドのデータを確認していた。アキラは、リュウの悲しみと騒動を遠くから見つめていた岩場の中腹にいた。彼は普段より静かで、警戒音も発さず、ただリュウの方向とトビが消えた境界を交互に見つめていた。長い尾はほとんど動かず、重く地面に触れていた。ケイはアキラに近づき、優しく声をかけた。「アキラ…一緒に、安全な場所に行くよ。リュウやブルーアイさんたちも一緒」アキラはケイの声に反応し、細長い頸部を伸ばして彼女を見た。大きな目には、複雑な理解の光が宿っているように見えた。

一方、ジャビールとソラは、リュウとブルーアイの群れの移動準備を進めていた。ブルーアイは指示を理解したようで、シエラとロックを集め、落ち着いた姿勢を取らせていた。問題はリュウだった。彼は依然として境界グリルの前に立ち、時折うめくような声をあげていた。

ハルオが電動車椅子でリュウに近づいた。「リュウ…聞いてくれ」ハルオの声は静かだが、力強かった。「トビを探すために、ここに留まることはできない。お前たちがここにいる限り、PRは狙い続ける。トビは…お前が思っているよりずっと賢い。生き延びている可能性は高い。だが、彼を本当に助けるためには、まずお前たち自身が安全になることだ。一緒に山へ行こう。そこから、トビを探す手がかりを見つけるんだ」

リュウはゆっくりとハルオの方を向いた。虹色の冠羽はまだ広げられたままだが、うめき声は止んだ。彼の大きな目が、ハルオの顔をじっと見つめる。高い知能が、ハルオの言葉の意味と、その背後にある決意を理解しようとしているようだった。

その時、ソラがトビの培養網膜カメラプロトタイプのポータブル受信機を持ってきた。画面上には、トビの逃走直前のぼやけた映像(煙と暗がりの中の木々)と、聴覚センサーが捉えた彼の最後の悲鳴の波形が表示されていた。「リュウ、見て」ソラが静かに言った。「トビは生きている。このデータが証拠だ。そして、私たちはこのデータを頼りに、彼を探し続ける」

リュウの視線がスクリーンに釘付けになった。トビの悲鳴の波形を見つめている。その小さな、震える声を、彼ははっきりと覚えていた。リュウの羽毛の逆立ちが、ほんの少しだけ緩んだ。長い尾が、ゆっくりと、大きく一回、上下に動いた。それは、決断のサインだった。

リュウは最後にもう一度、トビが消えたグリルを見つめた。そして、深く息を吸い込むと、ブルーアイの待つ方向へ、一歩踏み出した。歩みは重かったが、確かなものだった。ブルーアイがリュウの左側に並び、群れを率いて輸送車両待機エリアへと向かう。シエラとロックがその後ろを固く付いた。

アキラは岩場から降り、ケイと共に、別の輸送ルートへと導かれた。彼は振り返り、リュウの群れが去っていく姿を一瞥した。複雑な感情が、彼の尾の先端をわずかに震わせた。安住の地を離れる不安と、同種の存在への未だ確たる言葉にできない何かが入り混じっていた。二羽のネオルニトサウルスは、言葉を交わすことなく、それぞれの輸送コンテナへと消えていった。研究所のドームには、戦いの傷跡と、失われた小さな命への思いだけが残された。



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