領地と群れ
リュウたちが多摩生命科学研究所サンクチュアリの隔離観察エリアから、アキラが主に占有する広大な森林環境シミュレーション・ドーム(本ドーム)へ移動する許可が下りたのは、到着から一週間後のことだった。彼らのバイタルサインは移送ストレスから回復し、隔離期間中の行動観察データも、本ドームの環境に適応できるとAGI「ガーディアン・ネット」が判断した。しかし、この移動は、アキラにとっての「縄張り」への侵入を意味していた。
本ドーム中央部の小高い岩場は、周囲を見渡せるアキラのお気に入りの場所だった。その日の朝も、彼は岩の頂上に立っていた。全身の黒い羽毛が朝日に照らされ、虹色の冠羽は澄んだ空気の中で青緑色の輝きを強めていた。鋭い四色型色覚を持つ目が、ドーム内の隅々までを精査する。水場の反射、風に揺れる葉の陰影、そして──今日は特別に──隔離エリアとの境界にある巨大な強化ガラスドアの向こう側の動きを捉えていた。
ガラスドアが静かに滑り開いた。まず、頭部の金属フレームに青いLEDが点滅する**ブルーアイ**が慎重に足を踏み入れた。彼の感覚器(鋭い嗅覚、聴覚、そしてフレームのカメラ)が周囲をスキャンする。続いて、同様のフレームを装着した二頭のオオカミ(メスのシエラ、オスのロック)が、ブルーアイを左右に囲むようにして現れた。彼らの耳はピンと立ち、尾は低く保たれ、警戒と探索の姿勢だ。ブルーアイの頭部が微かに右方向に振られた。シエラとロックは瞬時にその方向へ分散し、茂みの陰や岩の影を確認し始めた。RSF(Radio-Synthetic Field)による無言の命令伝達が働いていた。
その直後、**リュウ**が堂々と、しかし慎重に姿を現した。彼の虹色の冠羽は少し広げられ、周囲の新環境に対する警戒と、ある種の自信を示していた。長い尾は硬直化した基部を軸に、先端がわずかに左右に揺れ、バランスを調整しながら歩いていた。半月形手根骨を持つ前肢はリラックスして垂れ、特大の第II指鉤爪は地面から浮かせられていた。彼の高解像度の視界が、水場、豊富な植生、そして岩場の頂上に立つアキラの存在を瞬時に捉えた。アキラの視線がまっすぐにリュウに向けられているのを感じ取り、リュウは一瞬、歩みを止めた。
リュウの左後肢のすぐ後ろから、小さな影がこわごわと現れた。**トビ**だ。彼の相対的に長い前肢は、リュウの腰の羽毛に軽く触れながら、不安そうに周囲を見回していた。ネオルニトサウルスよりさらに高い視野(体高が低いため)が、特に上方の樹木や岩陰を警戒して捉える。小さな冠羽は逆立っていた。本ドームの広さと開放感が、逆に彼の小型生物としての不安を掻き立てているようだった。リュウはトビの緊張を感じ取り、右後肢をわずかに後ろに引いてトビをより自身の影に収めるような姿勢を見せた。
岩場の頂上、アキラは微かにうなった。低く、喉の奥で震えるような音だ。これは明確な縄張り主張と警戒のサインだった。彼は自身の位置──ドーム内でもっとも見晴らしが良く、戦略的に重要なこの岩場──を明らかにしている。リュウはその警告音を聞き逃さなかった。リュウは首を上げ、アキラの方向に冠羽をより大きく広げて応答した。直接的な威嚇ではないが、「自分もこの場所を認識した」という主張だ。リュウはゆっくりと、しかし確実に、水場の方へ歩き始めた。水は生命維持に不可欠な資源であり、重要なポイントだ。
**葛藤**
アキラの尾がピンと伸び、硬直化した部分がより顕著になった。彼は岩場から降り、俊敏な二足歩行で水場へと直行した。長い後肢の筋肉が滑らかに動き、指行性(つま先立ち)の足が地面を蹴る。水場の最も水が澄み、岸辺が緩やかな「好ポイント」に先回りして到着した。そして、アキラはリュウの方を向き、右前肢を一歩前に踏み出し、地面を第II指の鉤爪で軽く引っ掻いた。カチッという鋭い音がした。これは領域侵犯への直接的な警告行動だった。
リュウの歩みが止まった。彼の冠羽は完全に逆立ち、細長い頸部を伸ばしてアキラを凝視した。低い、しかしアキラのものより力強い唸り声が喉から漏れた。トビはリュウの後ろで小さく跳ねるように後退りした。ブルーアイとオオカミたちは少し離れた位置でこのやり取りを注視していた。ブルーアイのフレームのLEDが早い間隔で点滅している。群れへの警戒維持の指示か。
「まずい…」観察通路でモニタリングタブレットを見つめるハルオが呟いた。画面には、アキラとリュウの心拍数が明らかに上昇し、ストレスホルモン関連の生化学マーカーが上昇傾向を示していた。「水場は双方にとって重要拠点だ。アキラはここを自分の縄張りの一部と認識している」
「争わないでほしい…」ケイが祈るように手を握りしめた。
ソラは高感度カメラと音声収録装置を両者に向けていた。「ボディランゲージと発声の周波数パターンを詳細に記録中だ。AGIがリアルタイムで解析している」
ジャビールは岩場を指さした。「あの見晴らしの良い場所も、アキラが占有している。リュウがそこへ近づけば、さらに緊張が高まるだろう」
その言葉が終わらないうちに、リュウは水場への直接対峙を一旦避けるように、左方向へゆっくりと歩き出した。しかし、その進路は明らかに岩場のふもとへ向かっていた。アキラの警告を無視したわけではないが、迂回してでも重要な地点を確認しようとする意思表示だ。
アキラは鋭い警戒音を発し、岩場の方向へ素早く移動した。リュウの動きを遮るように、岩場への登り口付近に立った。全身の羽毛をわずかに逆立て、特に肩周りの羽毛を膨らませて、自身をより大きく見せようとしている。長い尾を地面すれすれに保ち、素早い体勢転換に備えていた。リュウは約5メートル手前で停止し、同様に羽毛を逆立てて応酬した。互いに冠羽を最大限に広げ、青緑〜紫の構造色が緊張した空気の中で不気味に輝く。両者の間には、目に見えない火花が散っていた。直接の衝突は、一触即発の状態だった。
「リュウ! ダメだよ、アキラが怒ってる!」ケイが思わず声を上げたが、ガラス越しでは意味を理解できない。
その時、トビが甲高い警戒音を発した。キィッ!という短い鳴き声だ。彼は木の根元に身を隠しながら、アキラとリュウの双方を交互に見つめていた。その小さな声が、奇妙なきっかけとなった。
同時に、ブルーアイが動いた。彼はリュウとアキラの中間地点へ、ゆっくりと、しかし確実に歩み寄った。オオカミのシエラとロックは動かず、待機した。ブルーアイの頭部フレームのLEDが、ゆったりとした間隔で青く点滅している。これは、RSFを用いた「落ち着け」「停止」の抽象的な信号を発している可能性が高い。彼は直接どちらにも触れようとはせず、ただ存在感を示し、間に入ることで両者の注意をそらそうとした。
ハルオとソラも、緊急時のプロトコルに従い、ドーム内のスピーカーから低周波の鎮静化を促す音(自然界の川のせせらぎに似たホワイトノイズ)を流し始めた。これは動物のストレス軽減を目的とした標準的な手法だ。
リュウの冠羽がわずかに揺れた。アキラに注がれていた凝視が、一瞬ブルーアイの方へ向いた。アキラもまた、ブルーアイの動きを視界の端で捉え、尾の先が微かに震えた。直接の攻撃姿勢は崩していなかったが、羽毛の逆立ちがほんの少し緩んだように見えた。
この一瞬の隙を、リュウは利用した。彼はアキラと直接対峙することを避けるように、大きく右方向へ弧を描くように歩き出した。進路は岩場から離れ、水場の下流側の、やや見通しの悪い茂みがちなエリアへ向かっていた。トビはほっとしたように小さく鳴き、リュウの後を追った。ブルーアイもゆっくりと群れの方へ戻り始めた。
アキラはリュウの後退を確認するまで、岩場の登り口から動かなかった。羽毛は次第に元の状態に戻り、冠羽も完全には倒れていないが、逆立った状態は解けた。警戒音は止んだが、低い唸り声のような呼吸音が続いていた。彼はリュウが茂みの陰に消えるのを確認すると、ゆっくりと岩場の頂上へと戻っていった。頂上に立つと、再び周囲を見渡し、特にリュウが入った下流の茂みに視線を向けたまま、微動だにしなかった。
観察通路では、一同が安堵の息をついた。
「衝突は回避されたが…解決には程遠いな」ハルオがタブレットのストレスマーカー(依然として高い値)を見つめながら言った。「アキラは単独行動を基本とする。リュウはIZOのドームで群れの一員として生活していた。行動様式の根本的な違いが軋轢を生んでいる」
ソラが記録データをスクロールしていた。「面白いのは、トビの鳴き声とブルーアイの介入のタイミングだ。トビの音声は高い周波数で、両者の注意を一時的にそらした。ブルーアイのRSF信号の内容は不明だが、その物理的な位置取りが『仲裁』の意図を示していた可能性が高い。解析AIは、群れ全体(リュウとトビも含む)のストレス反応が、ブルーアイ介入後にわずかだが有意に低下したと報告している」
ジャビールは複雑な表情でドーム内を見渡した。「領地を守る者と、新たな場所で群れの安全を築こうとする者。どちらの気持ちもわかる。だが、この狭いドームでは、衝突は避けられないかもしれない」
ケイはアキラが岩場の頂上で微動だにしない後ろ姿を見つめていた。「アキラも…寂しいんじゃないかな? リュウが同じ姿なのに…」
アキラの鋭い視覚は、下流の茂みの陰でリュウが水を飲み、トビに何かを分け与える様子を捉えていた。リュウの群れは、確かに彼の縄張りの一部を「占拠」し始めていた。警戒心と、なぜかわからないが湧き上がる複雑な感情──かつて多摩動物公園で感じた「同じ檻の他の生物」への感情とは明らかに異なる──が、アキラの大脳半球で絡み合っていた。同種の存在は、彼の本能に深く刻まれた何かを揺さぶっていた。しかし、安住の地を脅かされるという現実もまた、重くのしかかっていた。長い尾が、不安定な感情を示すように、ゆっくりと左右に振れた。