小さな翼の救出
夜明け前の冷たい霧が、渓谷を深く覆っていた。一行は洞窟を出て、トビを求めて北西への移動を再開していた。リュウの執拗な探索は続いていた。彼は頻繁に地面に鼻面を押し付け、細長い頸部を伸ばして空気を深く吸い込み、トビの匂いの痕跡を追おうとしていた。しかし、夜露と冷たい霧が匂いを拡散させ、追跡を困難にしていた。リュウの羽毛は疲労と焦りでやや乱れ、虹色の冠羽もくすんで見えた。それでも彼の目は、必死の決意に燃えていた。
一方、高所の岩棚を移動していたアキラは、優れた**微光視力**と**広い視野**を駆使して周囲を監視していた。彼の視細胞は、人間には闇にしか見えない薄明かりの中でも、岩肌の質感、葉の一枚一枚、水の流れを鮮明に捉えていた。突然、彼の視界が、渓流から約20メートル離れた、大きなナラの木の根本にある空洞(熊が使った古い巣穴か)に固定された。
そこに、ごくわずかだが、**規則的で微細な震え**があった。それは風に揺れる葉の動きとも、小さな動物の動きとも異なる。それは、恐怖や寒さで震える生物特有の、細かく持続的な痙攣のような動きだった。アキラは即座に動作を止め、その一点を凝視した。瞳孔がさらに拡大し、網膜の解像度を最大限に引き上げる。空洞の奥深く、影に紛れてかすかに見える、茶褐色の羽毛に覆われた小さな塊。そして、その塊から微かに突き出た、**相対的に長い前肢**が、震えながら空洞の内壁に触れているのが識別できた。
アキラは迷わず、短く鋭い警戒音を二度連続で発した。「キッ!キッ!」 音源は、自身が立つ岩場から直接、ナラの木の空洞を指し示していた。これは、訓練や前日の連携で培われた、「特定位置に発見」の合図だった。
その音を聞いたリュウは、雷に打たれたように体を震わせた。彼はアキラが指し示すナラの木へ、全速力で駆け出した。長い尾の硬直化した基部がバランサーとなり、険しい地面でも俊敏に跳び、岩を越えた。特大の第II指鉤爪が、滑りやすい苔むした岩肌をしっかりと捉える。ブルーアイもオオカミたちに合図を送り、後を追った。
**発見**
リュウはナラの木の根元に飛びつくようにして到着した。空洞は彼の体が入るには狭かった。彼は細長い吻端を慎重に空洞の奥へと差し入れ、鼻孔を震わせて深く息を吸い込んだ。そして──間違いなかった。そこには、トビ特有の、羽毛やわずかな分泌物からなる匂いが、恐怖と疲労の臭いと混ざり合って漂っていた。
「クルル…?」リュウがこれまでで一番低く、震えるような声で呼びかけた。
空洞の奥の影が、微かに動いた。そして、かすれた、ほとんど聞こえないような鳴き声が返ってきた。「…キィ?」
リュウは慎重に右前肢を伸ばし、第I指(親指)と第II指(鎌状爪は引っ込められている)を使って、空洞の奥の落ち葉や小枝を丁寧にかき分けた。アキラは岩棚から降り、少し離れた位置からその様子を静かに見守っていた。ブルーアイとオオカミたちは周囲を警戒し、人間たちが追いつくのを待った。
かき分けられた落ち葉の下から、トビの小さな姿が現れた。彼の茶褐色の羽毛は泥や枯れ葉で汚れ、ところどころ擦り切れていた。左翼の付け根付近には、木の枝か何かで引っかいたと思われる浅い擦り傷が赤く見えていた。しかし、最も痛ましかったのは、彼の全身を貫く**極度の疲労**と**恐怖**だった。大きな目はくぼみ、輝きを失い、相対的に長い前肢は震え、体を支えるのもやっとだった。リュウの装着したモニタリングバンドが、トビの危険なほど低い体温と微弱な心拍を検出し、警告表示を発していた。
**再会**
「クルル…」リュウの声は嗚咽を帯びていた。彼は空洞の縁にうずくまり、細長い頸部を精一杯伸ばしてトビに触れようとした。トビは最初、恐怖で後ずさりしたが、リュウの声と匂いを認識すると、震えが激しくなった──今度は安堵の震えだ。トビはよろめくように空洞から這い出し、リュウの胸元へと必死に歩み寄った。
リュウは右前肢を優しくトビの体の下に滑り込ませ、羽毛に覆われた細い吻端でトビの頭部や背中をそっと梳き始めた。1回、2回、3回──丁寧に、愛情を込めて汚れや枯れ葉を取り除く動作だ。「ウゥ…ウゥ…」リュウは低く、安心させるような音を繰り返し発した。トビはその温もりと安心できる匂いの中に身を委ね、震えが次第に収まっていった。小さな頭をリュウの首元に埋め、微かに甘えるような鳴き声を上げた。
ケイとハルオ、ソラ、ジャビールが息を切らして到着した。その光景を見て、ケイは思わず涙をぬぐった。「…よかった…本当によかった…」
**技術: トビの視点**
ソラは即座に行動した。彼女はトビの頭部にまだ装着されたままの**培養網膜バイオニックカメラ小型版**の状態を確認した。プロトタイプは多少の汚れはあったが、機能していた。ソラは携帯端末(背面の全天候型太陽電池モジュールが、木漏れ日を捉えて微弱ながら充電を続けていた)を取り出し、専用アプリを起動した。
「トビ、君が見ているもの…見せて」ソラが静かに呟く。
画面には、解読アルゴリズムが処理した映像がぼんやりと映し出された。解像度は低く、色も不鮮明だった(プロトタイプの限界とトビの衰弱状態による)が、認識できるものがある。
* 視界の大部分を占める、リュウの黒い羽毛のアップ(細かい羽枝や汚れまでかすかに映る)。
* 視界の端に映る、少し離れて見守るアキラのシルエット。
* そして、木々の間から差し込む朝日の光。
ソラが感動したように言った。「…トビがリュウを、そしてアキラを見ている。彼の目には、守ってくれる存在がこう映っているんだ」
アキラは、ソラの端末の画面に映る自分のシルエットと、トビの視界が捉えた自身の姿を、わずかに傾けた首で交互に見比べていた。彼の大きな目には、複雑な認識の光が浮かんでいるようだった。異種の小さな存在が、自分を「何か」として認識しているという事実を、理解しようとしているのかもしれない。
**安堵と新たな旅**
ジャビールが応急処置キットを取り出し、トビの擦り傷の消毒と簡易包帯を施した。ケイは温かい湯(携帯ヒーターで温めた)を少量含ませたスポンジをトビの嘴に差し出し、ゆっくりと水分を補給させた。トビは疲れ切っていたが、リュウの温もりとケイの世話に安心し、浅い眠りについた。
リュウはトビを自分の胸元に抱き寄せたまま、深い安堵の息を吐いた。全身の羽毛の逆立ちは完全に解け、冠羽もリラックスして垂れていた。時折、細長い吻端でトビの羽毛を優しく梳く動作を続けていた。ブルーアイは近くに座り、その様子を穏やかな目で見守っていた。オオカミたちも緊張を解き、周囲の警戒レベルを下げた。
ハルオが皆を見渡し、穏やかな笑みを浮かべた。「これでようやく、本当の意味で山岳バイオステーションへ向かえるな」
アキラは、リュウと眠るトビの姿を一瞥すると、再び周囲を見渡す高所へと移動を始めた。しかし、今回は警戒というよりも、新たな目的地への道程を見定めるための偵察のように見えた。彼の長い尾が、軽やかに、そして確かなる一歩を刻むように振れた。小さな翼は救われた。彼ら全員の、本当の避難と、新たな共生の地への旅が、今、始まろうとしていた。




