伯爵令嬢の洞窟
ああ、どうしよう。
ジニーは本気で泣きそうだった。
***
ジニーは、パニックになっていた。
傍には倒れた魔熊と、先ほどまで国王と名乗っていた男。男はエルウッドと名乗ってもいた。
熊はエルウッドが倒してくれたのだ。あのようなすごい魔法をジニーは初めて見た。男は炎からジニーを守ってもくれた。ジニーのマントは魔熊の炎を防ぐのだけれど、そうとは知らないエルウッドは助けようとしてくれた。
そして熊を倒した後に蹲って苦しんでいるものだから、ジニーは迷わずエルウッドに治癒魔法を使った。背中は治った。燃えた服すら元に戻った。しかしエルウッドは苦しむのをやめない。ジニーはオロオロと手を動かして彼の背中などをさすってみる。
「しっかり。ねえ、お願いよ。何処が痛んでいるの?わからないわ」
泣き声でジニーは呼びかける。エルウッドの呼吸が浅い。あえごうとして血を吐いた。エルウッドはジニーの目の前で死にかけていた。ジニーには原因が分からない。触っていると首から両肩にかけて肩こりのようなものはあった。しかしただの肩こりだ。ジニーも刺繍をしている時には、そんな風になる。こりをちょっと魔法で押し流してやればすぐに治る。こんなものが関係しているはずもないが、ジニーは目に付く所は手当たり次第に治癒することを決めた。肩こりを解消しようと魔力で押してみた。抵抗が強くかなりの魔力が必要だった。しかしとうとう成功し、血流が正常に流れ出した。その時だった。本当にエルウッドが昏倒したのは。
(いやああああ!!!)
なにか良くないことをしてしまったらしいとジニーは思った。
(医者でもないのに勝手なことをしたから?!)
揺さぶりたかったが、これ以上何か起こることが恐ろしくて、ジニーはペチペチと弱い力でエルウッドを叩く。エルウッドの身体は完全に力を失い、ぐったりとしている。ただし呼吸は正常に戻っていた。流血も止まっていた。
(どうしよう)
結局ジニーは泣いてしまったが、しばらく泣いた後、泣いたって仕方がないと泣き止んだ。そして考えてみた。この場所はダメだとジニーは思った。
エルウッドの息はまだある。助かるかは分からないが。
ここは寒すぎる。このままではエルウッドは意識が戻る前に凍死してしまうかもしれない。ジニーは決心した。
ジニーは小柄だし何かを特別に鍛えたりはしていない。しかし今、彼女は首から魚を下げ、しゃがみ込み、背中にエルウッドをもたれかけさせると、よろよろと立ち上がった。そしてエルウッドの両腕を自分の前に回して両手でしっかりと掴むと渾身の力で歩き始めた。エルウッドを完全に抱えることは不可能で、引きずって歩く形だ。
彼女にとっては意識を失った成人男性は馬鹿げて重かったが、彼女は諦めずゆっくりと一歩一歩雪の中を歩いていった。
***
治癒魔法をガンガンに自分にかけながら、ジニーは長い時間をかけて歩き、拠点している洞窟へ辿り着いた。
「し、しぬ」
いつも自分の寝床にしている枯葉の溜まり場に、ドサっと背中からエルウッドが落ちる。ちょっと乱暴になってしまったのは許して欲しい。ジニーはその場にへたり込んで、しばらく身体を休めた。
それからエルウッドの様子を見た。相変わらず意識はない。無理やり引きずってきたから少し怪我をしている。治癒魔法で治した。少しくらっとした。いくらなんでも今日は魔法を使い過ぎだ。
自分にももう一度治癒魔法をかけたかったが、魔力の限界だったので無理だった。まぁここまで無事に帰ってきたのだ。問題はない。最後の気力を振り絞って、ジニーは焚き火に火をつけた。石で簡易に作ったかまどにも火をつけた。魚は洞窟の奥に置いてくる。かまどに鍋をかけてお湯を沸かす。沸いたら火から鍋をおろして冷ました。コップに汲んで湯冷ましを飲んだ。少し考えてからエルウッドにも口移しで飲ませた。
あとはやれることは何も思いつかなかった。
疲労困憊だったジニーはエルウッドに譲った寝床の前で、マントにできるだけ身をくるみ、うずくまって寝た。
***
朝になり、ジニーは起きたが、エルウッドは意識を取り戻していなかった。でもまだ生きていたし、呼吸も整っている。医学の素人のジニーからは、彼はただ寝ているだけのようにも見えた。
ジニーは熾火になっている火をかき起こし、火が強くなった所に枝を足した。湯を沸かしてコップにその一部を移すと、もう一度エルウッドに口移しで飲ませた。それから鍋の中に切った魚と乾燥野菜と押し麦を少しと塩を入れた。焚き火で炙った魚の骨も一緒に入れた。ぐつぐつと煮えるのを眺めながら、ジニーは自分の罪を考えた。
国王陛下との結婚から逃げ出した。
国王陛下の部下に電撃を食らわした。
国王陛下の身を命の危険に晒した。
治そうとして病状を悪化させた。
悪気は無かったのだと主張したくらいで許されるものだろうか。
たぶん無理だ。
これでこのまま陛下が死んでしまったらどうしよう。ジニーはそれを思うと泣きそうだった。出来れば医者に見せたかったが、ジニーは迷子でどこが人里か分からないのだ。ジニーを守ろうとしてくれた親切な人だ。死んでほしくなかった。それなのに何もできない。ジニーはこんなに心細い思いをしたのは初めてだった。
昼近くになり、ジニーにとっては本当にホッとしたことにエルウッドが目を覚ました。エルウッドは目を覚ました場所が意外だったのだろう、勢いよく起き上がり、辺りを見回した。
「ああ、良かったわ、本当に」
ジニーの声にエルウッドはギョッとして振り返った。
「……ヴァージニア嬢」
エルウッドの声は掠れていた。
ジニーはコップに汲んだ水を寝床へ持って行った。
「お水です、どうぞ陛下」
エルウッドは思わずと言った様子でコップを受け取った。そのままジニーを凝視しているので、ジニーは慌ててエルウッドのコップを持つ手ごと両手で包み込むように握ると、そのまま屈んで一口飲んだ。
「毒味しました。失礼いたしました。どうぞお飲みください」
エルウッドはジニーから視線を逸らせず、ほとんど無意識で水を飲み干した。ジニーは、エルウッドが自力で水を飲めるようになったことを神に感謝して、にっこりと笑った。
「水をもういっぱいいかがですか?魚と押し麦のスープもあります。寒くはありませんか?ああ、本当に良かった」
「そなたは……」
言いかけてそれからエルウッドは耐え切れないといった風情で額を抑えた。
「大丈夫ですか?!」
ジニーの悲鳴に顔を上げ、疲れたような口調でエルウッドは言った。
「この上なく。ヴァージニア・リンドバルト嬢。そなたは一呼吸の間に私に山ほどの質問を積み上げる天才だな。まったく、何から問いただせば良いやら」
ジニーはもう、自分がヴァージニアではないと訂正しなかった。一晩過ぎたらバカらしくなったのだ。エルウッドが元気になって嬉しかったし、どうせばれているものをいちいち誤魔化そうとするのも面倒だった。昨夜は、朝に起きたら死体と向き合うことになったらどうしようと死ぬほど怯えたし、どうか助かりますようにと神様に何度も必死にお願いした。願いは無事にかなったので、自分のことはもういいや、と今はそんな気分だった。それくらい、ホッとしていたのだった。ジニーは言った。
「陛下は一晩眠っておられました。おなかが空いてないですか?スープを食べてみませんか?」
「いただこう」
ジニーとエルウッドは一つのスプーンとコップを代わりばんこに使って鍋からスープを飲んだ。スープは寒さに冷えた空腹の身体に染み渡った。
「とても美味しい」
「良かったわ」
「ここにそなたは住んでいるのか?」
「ええ」
食べながらエルウッドはジニーに色々と聞き始めた。熊が間違いなく倒されたことを知り、ここまでジニーがエルウッドを連れてきてくれたことを知った。エルウッドが倒れてしまって本当に心配したとジニーは言い、ろくに何も看病できずごめんなさいと謝った。
「そなたは何も体調は悪くないのか?」
「私は大丈夫です。陛下が守ってくださりました」
「そうではなく……少し試してみてもいいか?」
「何をですか」
「私の目を見て欲しい」
ジニーはエルウッドの瞳を見つめた。しばらくすると圧を感じた。熊を倒した時のような金色の魔力の波動だ。ひどく魅惑的で気持ちが良かった。それだけだった。圧はそのうちに消えた。
「驚いたな」
「なんだったのですか?」
「どこから話せば良いものか。そなた、魔法の勉強はしているな?」
「少しだけど家庭教師の先生から教わりました」
「そなたの魔力の特性は雷だ。私の魔力の特性は光で、王族に固有の特性だ」
「だから陛下の魔法は金色なのですね」
「そうだ。光の魔力の特徴は魅了。人を心酔させる力を持つ。私の魔力は強いから、私は普段は魔力を押さえつけて生活している。熊と対峙した時はその抑制が半分ほども外れた。そなたが無事なのが信じられない。普通はあれほどの高濃度の光魔法を浴びたら、自我を完全に失って廃人になるはずだ」
「なぜ私は無事だったのでしょう?」
「そなたの魔力が強いことは間違いなく原因だろう。しかしそれだけで耐えられるものでもない。そのマントのせいかもしれない」
「あ、そうかも。壊れちゃったんです。そのせいかも」
ジニーはマントの裏側の防魔の陣の場所を手で触った。糸が数ヶ所切れている。
「そのマントについて話してくれ」
ジニーは、自分が魔法陣を覚えられず、刺繍してあらかじめ魔法陣を用意しておくことを思いついた話をした。家庭教師に怒られて内緒でマントの裏側に同色の絹糸で刺繍したことを話した。
「もう一度それを見せてもらっていいか?」
「ええ」
ジニーはマントを脱ごうとしたが、脱いだら寒いだろうとエルウッドが制して、ジニーにマントを着せたまま、その裏側の刺繍を見ようと近づいた。
ジニーは咄嗟に後退ろうとした。
「……なぜ?」
ジニーの顔は赤かった。
「ずっと外にいて、あまり綺麗じゃないし、匂いも。ごめんなさい」
「……なるほど。それは気付かず失礼した」
エルウッドが簡単な呪文を唱えると小さく魔法陣が出現し、魔法が弾けると辺り一面が浄化された。ジニーはキラキラと光り輝き、その光が収まると、汚れは全て取り払われ、仕上げとばかりに、香り良い石鹸で洗われたかのように、魔法の風で巻き上げられた髪がふわふわと降りてきた。ジニーは信じられない様子で頰に手を当てた。
「ご親切にありがとう」
「どういたしまして」
エルウッドは自分にも浄化の魔法をかけた。
「もう近くに寄っても?」
ジニーが頷いたので、エルウッドはジニーのマントを手に取り、じっくりとその裏側を確認した。
「この魔法陣はそなたが考えたのか?」
「いいえ、陛下。昔、家庭教師の先生からいただいた本に書かれていた魔法陣です」
ジニーはその本を持ってきていたので、荷物から出してエルウッドに見せた。
「これは専門書だ、ヴァージニア嬢。確かに系統立てて理論的に書かれている有名な名著だが。子どもの魔法の初等教育にこんなものを使う教師はいない」
「そうだったのね。どおりで難しいと思ったわ」
「それにそなたが縫ったこの魔法陣は、この書物には載っていないはずだ。そなたが自分で考えたのか?」
「いくつかの魔法陣を単純に組み合わせただけです。組み合わせ方は本に載っていたし。楽しかったわ」
「魔力吸収の魔法陣が他の複数の魔法陣に干渉して、吸収した魔力を常に他の魔法陣に流すように設計されている。非常にうまく馴染んでいる。このマントを着ている限り、着ている人間の魔力を吸収して魔法が発動し続ける。見ればこれが正解だと分かるが、ヴァージニア嬢、そなたの魔法陣はこれまで誰も考えつかなかった物だ。そなたには魔法の天与の才がある」
「魔法陣を覚えたくないから、魔法使いにはならなくても良いわ」
「なぜ覚えたくないのだ」
「難しいもの。全部同じに見えるわ」
「なるほどな。それは教師を代えれば、あるいは改善するかもしれない。検討しよう」
エルウッドはそのように言うとマントを元に戻してくれた。検討って何のことだ、とジニーは思ったし、かつての家庭教師のコートを悪く言われた気がして嫌だったが逆らわなかった。
「陛下、お茶を飲みますか?」
「あるならいただこう」
「紅茶とジャムが少しあります。ちょっと待っていてくださいね」
ジニーが鍋やコップを持って立ち上がる。
「それをどうする」
「鍋もコップもこれしかないので洗ってきます」
「貸してみなさい」
エルウッドは簡単に呪文を唱え、鍋とコップを浄化した。
「茶葉を持ってきなさい。私がそなたに茶を進ぜよう」
エルウッドはいとも簡単に次々とジニーに魔法を見せてくれた。水魔法で綺麗な水を鍋に出した。次の呪文でそれをお湯にした。茶葉を入れ、お茶を煮出すとコップに入れ、ジャムを浮かせてジニーに手渡した。あっというまだった。
「すごいわ!」
ジニーは感激して褒めた。
「魔法も良いものだろう。たいへん便利だ」
「そうね」
ジニーはニコニコしてお茶を数口飲むと、残りをエルウッドに渡した。エルウッドも飲んだ。茶葉は安物の味であったが、ジャムの甘さが身体をホッとさせた。
「それでヴァージニア嬢、質問を続けても良いか?」
「ええ」
「そなた、私の身体に何をした?この数年ずっと続いていた頭痛が消えている。こんなにぐっすり一晩中眠ったのは、本当に久しぶりだ」
「ああ……肩が凝っていたからかしら。背中の火傷は治したはずなのに陛下が苦しそうなのが変わらなくて……あ、火傷大丈夫ですか?私ちゃんと出来てますか?ごめんなさい、髪は直せなかったの。直してもよかったんだけど、前と同じ長さになるか分からなくて、もしかしたら伸びすぎちゃうかもしれなくて怖くて出来なかったの」
エルウッドは不揃いに焼け焦げている髪を触り、それを払った。
「髪などどうでも良い。話を戻したい。肩こり?そなたはそう思ったのか?」
「違うの?今もちょっと凝っているでしょう?」
「もう一度それを治せるか?」
「怖いわ。それをしたら、あなた倒れたもの。でも誓って大丈夫なはずなのよ。私は同じことを自分の身体にするけど何ともないもの」
「ぜひ頼む。そのせいで倒れてもかまわない」
「私がかまうわ。陛下がまた倒れてしまっては嫌よ」
「少しだけで良いから試してくれないか?失敗しても良いから」
「……何か変な感じがしたら言ってくださいね」
エルウッドの熱意に負けて、ジニーは立ち上がるとエルウッドの背後に立った。
「失礼します」
ジニーは両手をそっとエルウッドの肩に置いた。服越しに、男らしいしなやかな筋肉を感じて緊張した。ジニーは目をつぶって、魔力のこりのようなものを探した。昨日ほどではないが、そこかしこで魔力が澱んでいるのを感じる。その澱みに自分の魔力を流してみる。昨日のは、なんとかしなければと気が急いて、あまりにも乱暴だったのではないかとジニーは考えた。今回はもうちょっとゆっくり丁寧に少しずつやろうと、自分の魔力で、そっとエルウッドの魔力の澱みに触れた。そのまま慰めるように優しく撫でる。力任せに押し流すのではなく、ゆっくりと溶かそうと、柔らかくしようと、筋肉をほぐすようにマッサージしてみる。続けていると魔力がほぐれていく感覚がしてきた。ジニーはそこに少しずつ自分の魔力を染み通らせていく。
エルウッドは耐え切れないように、短く息を吐いた。
その息の熱さに驚いたジニーが、パッと手を離す。
「ダメでしたか?大丈夫ですか?」
「へい、き、だ。だが、この、まえとちがう」
エルウッドの呂律が回っていない。離れようとするジニーの腕を押さえるエルウッドの手が燃えるように熱い。
「やっぱりダメなんだわ。どうしましょう」
「……」
「もうちょっと優しくやろうかと。急激過ぎない方がいいかと思って。痛いですか?」
エルウッドは目を瞑った。
「いたくない。きもちがよすぎる。やめてくれ。ゆうわく、したいわけじゃ、ないだろう」
ジニーは驚いて首を横に振った。
エルウッドの身体がかしいで倒れそうになったのでジニーは慌てて支えようとした。支え切れず2人ごと横倒しに倒れてしまう。
「陛下!」
「ねむい……」
エルウッドがジニーを抱きしめるような体勢になっている。ジニーはどうしたら良いか分からずに硬直した。この人は、もしかしたらとても具合が悪いのかもしれないと、ジニーは思った。昨日から、ひっくり返ってばかりいる。線が細くて美しい人だったが、見方を変えれば、身体が痩せているだけの気がするし、色白でなく、顔色が悪いだけの気もしてきた。エルウッドは発熱していたし、ジニーから自力で離れられなかった。
エルウッドはささやいた。
「すまない、ねたくないのだが。そなたがしんぱいする」
「……」
ジニーはエルウッドの背中を優しく撫でた。
「寝て良いわ。寝るだけなら心配しないわ」
こんなに具合が悪いのに、ジニーのことばかり気にする。優しい人だわとジニーは思った。
そのうちに、エルウッドの身体から力が抜けて、ずしっと重くなったので、そのまま寝るのだろうとジニーは思ったが、エルウッドは目を瞑ったまま、ヴァージニア、とジニーをとても小さな声で呼んだ。
「いなくならないでくれ。私はそなたを探せる。けれど、起きた時に居なければきっと寂しい……」
そこで力尽きたのか、エルウッドは眠りの世界に完全に入ってしまった。