伯爵令嬢は川で魚を獲る
国王陛下との婚姻のために迎えに来た王都の騎士トリスタンを振り切り、森に逃げ込んだジニーは、前もって用意しておいた荷物の所に首尾よく辿り着いていた。
温度調節のできる魔法陣を組み込んだマントを羽織るとホッと息をつき、座り込むと、履いていた靴を投げ捨てるように脱いだ。
「ヒール最悪だったわ」
普段ヒールを履かない生活をしているのに、それで足場の悪いところを全力疾走していた。ジニーの足先は赤く腫れ、踵には豆が出来て破裂していた。
トリスタンが言っていたことをふと思い出して、ジニーは赤くなっているつま先と踵に、えいっと魔力をぶつけてみた。治った。疲労も取れた。
ジニーは喜んだ。もともと、「えいっ」が強すぎて、完成直前の刺繍した布ごと爆発した時に、元に戻ると良いなという思いと共にもう一度「えいっ」とやったら、何事もなく元通りになったのだった。だからジニーは雷撃無効の効能だと思っていたのだが、状態復元ということだったのかもしれない。それを治癒と言われれば、まぁ似たようなものだ。怪我が治る。疲労が取れる。状態復元の一種であろう。きっとこれからの旅に役立つに違いない。
ジニーは気をよくして、他の荷物をカバンから出し始めた。
村の少年が着るような長袖シャツとチュニックとズボンを出して履いた。靴下を履いて柔らかな鹿革のブーツも履いた。カバンの空いたところに、母からの餞別を入れた。エメラルドのイヤリングも外してカバンに入れた。これはいつか換金しようと思っていた。
「さてどうするかよね」
ジニーは、ここまで無事に逃げた自分へのご褒美に、荷物に仕込んでおいたドライフルーツを一つ、口に放り込み、革袋の水を飲んだ。そしてこれから先のことを考え始めた。
もともとは、ある程度歩いた先では街道に戻り、森を抜けて山を越える予定だった。しかしトリスタンに追われたせいで逃げる方向はバレてしまった。ジニーが逃げ切る前に追手が来るかもしれないし、領境や町村に手配が回るかもしれない。確実に逃げるなら人里にはなるべく行かない方が賢明なように思われた。
これから冬が深まり、天気が悪くなる可能性がある。獣も居る。しかしジニーには素敵なマントがある。これを着ていれば寒さは防げるし、オオカミなども寄ってこない。食糧に若干の不安はあるが、きっとなんとかなる。疲れは魔法で取れる。追手もまさか、か弱い女性であるジニーが、冬山を踏破するはずがないと思うだろう。
ジニーのマントには、迷子防止の刺繍も入っていて、家の方向が分かる。それとできるだけ真逆に進み、山を目指す。山の麓に辿り着いたら、出来るだけ登って、尾根を反対側に下る。人工的に作られた道は使わない。そのようにジニーは大雑把に計画を立てた。
「よし、行きますか」
自分を励ますようにジニーは声に出すと、荷物を背負って山を目指し歩き始めた。
***
そして1ヶ月が経ち、ジニーは順調に迷子になっていた。山を舐めすぎていた。方向感覚が途中から全くわからなくなった。リンドバルト伯爵家の方向を確認し、逆方向に歩いているはずが、気付くとむしろ近づいていたなんてことが何度もあった。水を探したり、雪をしのげそうな良い感じの洞窟を見つけて、はしゃいだりしているうちに、さらに状況は混沌としてしまい、いつの間にかジニーは山の奥深くを彷徨っていて、自力で抜け出すことは困難と化していた。
しかしそれ以外は順調である、と、根っからのポジティブ思考のジニーは思っていた。まず、見つかっていない。逃げ出して3日後くらいに、はるか遠くの方でたくさんの松明らしき火を見たので、探されているのかなと思ったが、それくらいだった。あと、山の生活がわりと楽しい。良い感じの洞窟も見つけたし、近くに浅瀬のある川もあるし、春まで山に居ようかなと、ジニーは考え、むやみにそこらを歩き回るのをやめてしまった。
薪代わりに拾った枯れ枝を洞窟に蓄え始め、いくつかの石を積んで作ったかまどで煮炊きし始めた。ほぼ定住の構えである。
***
その日は晴れだったので、ジニーは魚取りに行くことにした。魚は彼女の主食だったが、大雪の次の日などは水量が増して川は危ないので、魚取りに適した日は限られている。出来るだけたくさんの魚をとって、食べきれない分は干してしまいたい。朝早くからジニーは、いそいそと川へ向かった。
いつもの川に到着した。ジニーはマント以外の服を全部脱いで、畳んで地面に置いた。白いマントだけは着ていた。完全に変態のソレだが、誰も見ていないし、服が濡れると乾かすのが大変なのだ。マントは必要だ。寒さを防ぐし、マント自体は濡れないし、魔法も弾くからだ。
母のサンドラが見たら嘆き悲しむ痴女と化したジニーは、ザブザブと川に入って行った。浅瀬の中でしゃがみ込み、両手を水の中に沈める。
ジニーは体内の魔力を集めて、えいっと川に放出した。水に手をつけたまま、しばらく待つと、感電した魚がプカリプカリと浮いて流れてくる。ジニーは良い感じの魚が流れ着いたらそれを拾って岸に投げた。見た目といい鬼畜さといい最悪の漁だった。絶対に伯爵令嬢のすることではない。ジニーに魔法の手解きをした家庭教師のコートが見たら激怒するに違いなかった。
ひときわ大きな魚が流れてきたので、それを最後にしようとジニーは思った。流れてきたのを上手く捕まえて抱える。この漁は簡単なのだが、1番嫌なのは魚を捕まえる所だ。魚はヌメヌメしていて掴みづらいし、生臭い。最後にジニーが抱えた魚は1メートルほどもあり、電気の量が足りなかったのだろう。ジニーが抱えあげるとビチビチと動き始めて最悪だった。
「ちょっともう、まぁ分かるけども」
魚だって、これから死ぬのだから、最後に大暴れしても仕方ない。ジニーだってその立場になれば暴れる。ジニーは全力で魚を抱きしめると、岸へ上がろうと顔を上げた。
若い男と目が合った。
ジニーは腹の底からの悲鳴を上げた。
***
「まて、なに……え?!」
男もジニーに劣らず驚いたのだろう。山の奥深くの冬の川の中に、大魚を抱えた裸の女が立っていたのだ。絶句して、呆然として、ジニーが叫び始めてようやく我に返ったが、出てきた言葉は全く意味のなさないものだった。
「いやー!!!来ないでー!!!」
ジニーは泣きながら全力で体内の魔力を集め始める。魚を獲るのに使ったばかりだから、あまり魔力は残っていないが足止めくらいなら出来る気がする。男に近づかれて触られたらそれをぶつける所存だ。魚は離すわけにはいかない。裸体の前で抱えた生魚は、ジニーの大事なところを隠すことに役立っている。
「まて、そなた……人か?!」
「来ないでって言っているでしょ!!どっか消えて!!」
「消えるわけがない。もしかして、そなたはヴァージニア・リンドバルト嬢か?」
「違うわ!そんな人知らないわ!!」
「とりあえずすぐに川から上がりなさい。寒くないのか?死んでしまうぞ」
ジニーは魔法陣を組み込んだマントを着ているので、寒くないし死なない。しかしそんなことを教えるつもりは全くない。
「貴方が居るせいで上がれないのよ!」
ジニーが金切り声をあげると、男はたじろいだ。
「分かった。後ろを向いているから、川から上がって、服を着なさい」
男が後ろを向いたので、ジニーは一瞬そのまま向こう岸に逃げることを考えた。しかしほぼ全裸だ。寒くはないが人間の尊厳のために服が欲しい。仕方ないので男がいる方の岸に上がる。魚を離して服を手に取る。
「もういいか」
「まだよ」
ジニーはまだだと言ったのに男は振り返った。
「まだって言ったのに!」
「そなたの体はすでにもう見ている。良いから早く着ろ。着せて欲しいのか?」
ジニーは自分で男に背を向けるとモソモソと服を着た。
最悪だ。と、ジニーは思った。
チラッと見たけど、かなりのイケメンだった。溶かした銀のように艶やかな長い銀髪に青い瞳で顔が小さく背が高い人だった。
イケメンに、乙女として見られてはならない姿トップ3くらいのレベルの悲惨な姿を見られた。ただでさえ、風呂だって1ヶ月入ってないし、未開の地の野人の有様なのだ。ジニーは羞恥で死にそうだった。
「軽装すぎる」
「ぎゃああああああ!!」
気づくと背後に立たれ、耳元で声がした。
「うるさい!叫ぶのをやめよ。拘束されたいか」
「離れてよ!」
むしろ近づいてこいとジニーは思っていた。触ってこい。全力の魔力をぶつけてやる。
男はふと笑った。口の中で早口で呪文を唱えると、金色の魔法陣が現れた。男が魔力を通すと魔法陣はほどけて金色の糸になり、ジニーの両手首に絡みついた。
「これでどこに逃げても、居場所がわかるようになった。大人しく従うことだ。ヴァージニア嬢」
パンっと手首の金環が弾ける。ジニーのマントの防魔の刺繍が発動したのだ。男は充分な間合いを取るために飛び退いた。一瞬の間もなく、男の周りにポンポンと魔法陣が出現する。
「無詠唱どころか魔法陣も無しか。化け物だな。しかし本気で私に対抗する気か?魔法使いなら、私の力がわかるはずだ」
「私は魔法使いなんかじゃないわ」
「戯言を」
男の呪文に合わせて魔法陣がぐるぐる回り出す。ちゃんと勉強してこなかったジニーには何の魔法か分からなかったが、本気の攻撃魔法をぷつけられそうな予感がする。
「やめてよ、ほんとよ、そんなのぶつけられたら死んじゃう!!」
「安心せよ。殺しはせぬ。そなたには聞きたいことが山ほどある」
男は無情にも魔法を発動させる。無数の氷の刃がジニーに降り注ぐ。
「きゃああああ!!!」
刃に刺されてというよりは、男の魔法とマントの防魔法がぶつかった爆風でジニーは吹き飛び、地面に叩きつけられた。
「……ッッ」
あまりの衝撃に呻く声も出ない。
ジニーの耳に男が呪文を唱える声が聞こえてくる。もう一度攻撃が来る。ジニーはその場でうずくまり、頭を抱えた。すでに全身打撲しているが、これ以上は出来るだけ痛くありませんようにと願うしかない。身体中がガタガタと震えて止まらない。
***
ジニーは、じっと待ったが、衝撃は来なかった。
ふわりと金色の光がジニーを包んだ。
光は、ほどけて糸になり、ジニーの全身に巻き付く。
しかしマントの防魔法により、それは弾けて霧散した。
「治癒魔法だ。それも防ぐのか。痛いのでは?」
呆れた声に、ジニーは泣き顔を上げた。
男の周りにはまだ魔法陣が顕現していたが、差し当たってそれをすぐに発動する気はないらしい。
「一方的に攻撃して悪かった。そなたから攻撃が来ると思ったのだ。お互いの魔法で相殺するはずが、もろに食らわせてしまった。大丈夫か?」
ジニーは顔を伏せ、首を横に振る。
男の魔法に対抗するために、マントの刺繍に大量の魔力を持っていかれてしまった。今後のために魔力は残しておいた方が良い。今は治癒魔法は使えない。
「そなた、名前は?」
「……」
「ここでなにを?」
「……」
「そなたは呪文も魔法陣も使わず、私の魔法を解除する。女性に酷いことをすることは望まないが、私には、そなたが攻撃しないという確信が持てない。何か私を納得させることはできるか?」
「……私は魔法の使えない普通の人間です。本当です」
「私のアイスストームを防いでおいて何を言う」
雪がちらつき、男は空を見上げた。こんなところで長話をしても仕方ないな、と男は言った。
男は魔法陣を維持したまま、ジニーに近づいた。ジニーは怯えた。
「お願い。酷いことしないで」
「しない。ちゃんと見ろ。見たら分かるだろう?これは攻撃呪文ではない」
「分からないわ。魔法陣は分からないのよ」
「おかしなことを言うな。そなたが使ったのと同じ防魔の陣ではないか。赤毛のトリスタンが不用意にそなたに触り、雷撃の呪文を浴びたと聞いた。無防備でそなたに近づくわけにいかない」
「……」
ドサッとジニーに重みがかかった。男が自分の外套を脱いでジニーに被せたのだ。
こんな冬山の中で雪も降り始めているのに外套を脱ぐなんて。男の外套は上質で心地好い重みがあった。ジニーが寒くはないことを知らず、気を使ってくれたのだ。良い人なのかもしれないとジニーはちょっと思い直した。
「私は寒くないので大丈夫です。あなたが凍えてしまうわ」
ジニーが言うと男は顔を顰めた。
「冬の川で冷えたままでは凍傷を起こす。そのままでいなさい。私を気にしてくれるなら、早く洗いざらい話してくれ」
「さっきからちゃんと全部話しています。あなたが信じないだけだわ」
男はため息をついた。
「私としては、先ほどの魔法を何度でも繰り返して、そなたが瀕死となり意識を失ったところを城まで引きずっていく方法でも構わない。あまり気が進まないが。いくら怪我をしても治癒魔法で治してやるから安心しろ。意識を失っている状態なら魔法も防げまい」
ジニーは脳内で前言を撤回した。良い人かどうか分からないけれど、目的のためには容赦がない人だ。
「私は魔法が使えません。魔力をただぶつけることは出来るけれど、魔法陣は描けたことがないの。このマントに魔法陣がついているの。魔力を通すと発現するわ」
ジニーは早口で白状した。だって困る。マントを着ている限り、たとえ気絶しようとも、ジニーの魔力を吸って防魔の魔法陣は発動し続ける。吸魔の魔法陣と連動させてあるからだ。男がマントを脱がすことを思いつかなければ、治癒魔法は効かない。死んでしまう。それも結構酷い死に方だ。
「マントに魔法陣?」
男は目を見開いた。脱いでこちらに寄越せと言うので、ジニーはもそもそとマントを脱ぐと男の方に放った。マントの裏側に施された刺繍を男は驚愕の眼差しで眺めた。そして熱心にその刺繍をあらため始めた。男の夢中な様子にジニーは思った。もしかしたら逃げられるかも。逃げるために、こっそりと自分に治癒魔法をかける。しかしダメだった、ジニーが魔法を使った途端に男が顔を上げた。
「今、魔法を使ったか?」
「わかるの?」
「ある程度高位の魔法使いなら、魔力の動きがわかるものだ」
男はしばらく考えていたが、やがて考えを決めた。
「そなたは捕まる気がなく、私は逃がす気がない。今少し会話を試みると言うのはどうだろうか?どこか雪が凌げる所で。もちろんお互いに攻撃の出来ないよう、適切な距離をとるということで」
「……」
「半刻で良い。承諾してくれたら、マントを返そう」
「……いいわ」
「驚異的なマントだ。確かにこれなら寒くない」
男はマントをジニーに投げて寄越した。ジニーも自分が羽織っていたマントを男に投げて返した。
「着た方が良いわ」
男は初めて笑みを見せた。
「エルウッドだ」
「ジニーよ」
「ヴァージニア嬢と呼んでも?」
「それは違う人だわ。あなたは魔法使いなの?」
「違うよ、ヴァージニア嬢」
エルウッドは外套を着ながら答えた。
「私は国王だ。今のところ、書類上は、そなたの婚約者でもある」
絶句するジニーに構わず、エルウッドは続けた。
「転移魔法を共に使うには、そなたに触れる必要があるから、そなたは嫌だろう。それにどこかに連れて行かれるより、そなたの望む場所の方が安心だろう?どこかここよりはマシな場所に心当たりはないか?」
「……」
男は辺りを見回し、勝手に自分で答えを見つけた。
「そちらにあるそなたの足跡を辿ってみよう。どこから来たにせよ、辿った先にはキャンプがあるような気がするな?」
ジニーに捕まった魚も、今のジニーと同じ気持ちがしていたのだろうかと、ジニーは思った。