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伯爵令嬢の逃亡

その後、何度か書簡が王都とリンドバルト伯爵領を行き来し、ジニーの輿入れが決まった。


王都からリンドバルト領はだいたい馬で1週間ほどの距離にある。領地はたいして広くもなく、田舎でも都会でもない凡庸な土地柄だ。領地を治める伯爵家もまあ中庸と言っていい。有力な公爵家を遠い縁戚に持ち、そのために領土は安泰であるが、金持ちでも貧乏でもない。

伯爵領から王都まで馬では1週間だが、女物の馬車でのんびり進むとなると10日はかかる。ジニーは王室の客人として扱われるので、馬車も、道中の宿も、王室で手配し、迎えの者が来ることになった。

アーノルドは王家から下賜された支度金を使って、ジニーの衣装を整えた。旅行用の数着の服以外は、王宮に直接届けられる手配となっている。



ジニーの母のサンドラは話を聞いた時には酷く驚いていた。と言ってもサンドラとしては、だが。

「まぁあなたなら、どこでもやっていけると思うから心配していないわ」

すぐに気を取り直し、なんの根拠もなく、娘の雑草魂を信じてそのようにジニーに言った。それから少し考えて聞いた。

「ときどきはお家に帰ってこれるのかしら?」

「お母様、分からないわ。聞いてみるわね」

「会えないのは寂しいけど、無理はしないでね。あなたがどこかで幸せにしているなら、それで充分だから」

「離縁したら帰ってこれるかもしれないわ。50人もお妃さまがいらっしゃるのですもの。人手は足りているでしょうし、なんかちょっと違うと思えば、あっさり解放されるような気もするのです。そんなことよりもお母様」

ジニーは話題を変えて言った。

「これを機会にお母様は自由になれると思うのです。今までは私がいたから、お母様はここに居たのではないですか?私が居なくなればお母様はご実家に戻られ、またお友達にも会えますし、食堂のお仕事もできると思うのです」

「まぁジニー、あなた」

「私が産まれなければ、お父様とのことは若い頃の恋として忘れて何事もなかったのではないですか。このような寂しい暮らしをすることもなく、どなたか良い方と結婚して温かい家庭を作ることだってできたはずです。今からでも遅くないので、どうか幸せになってほしいのです」

「なんてことをジニー」

サンドラはジニーの両手を握って泣きながら言った。

「何があろうとも、あなたを産んで後悔した時は一度もないのよ。あなたが元気でいてくれる以上の幸せなんか、私には無いわ。たいして辛いこともなかったけれど、たとえどんな苦しみを味わうことになっても、あなたの居る世界が私にとっては最高で最上よ。愛しているのにそんな悲しいことは言わないで。そんなことで悩んでいたなんて。気がつかずに悪い母親でごめんなさい」

ジニーも目に涙を溜め、答えた。

「お母様…ありがとうございます。どうかご元気であられますよう」

「お手紙をたくさんちょうだいね」

「必ずたくさん書きますね」


***


そして婚姻の話が出てから1ヶ月ほどで万事整い、早い初雪がちらちらと舞い始めた頃、迎えの馬車がやってきた。



「このたび大命を仰せつかりましたトリスタン・ゴッドウィンと申します。リンドバルト伯爵令嬢がつつがなく旅路を過ごされますよう、精一杯努めてまいります」


美丈夫で女にモテそうな若い男が挨拶をした。迎えは護衛の騎士、道中の世話をするメイド、御者など含めて全部で8人、その代表はトリスタンと名乗った。燃えるような赤髪を短髪に刈り込み、背が高く、鍛えた身体をしていて、いかにも騎士というたたずまいの彼は、20代前半という若さであったが、近衛第二部隊の副隊長とのことだった。出世頭のゴッドウィン侯爵家の四男を迎えに差し向けたというのは、王室からの誠意なのだろう。ジニーが乗る用と荷物用の2台の2頭立ての豪華な馬車、4頭の護衛騎士の馬が、伯爵家の車寄せに並んだ。

本格的な雪が降る前に王都に着きたいのですぐに出発したいとトリスタンは言った。

「かしこまりました。娘はこちらです」

アーノルドに促されて、ジニーは、この日のために作った豪華なドレスをできる限り優雅に引き、彼女の出来る精一杯のカーテシーをした。貴族用の本名を名乗って挨拶をする。

「ヴァージニア・リンドバルトでございます」

濃い茶色の厚い毛織りのドレスは冬の旅のため、防寒を意識したものであるから、喉までの高い襟や長袖の上品なスタイルだったが、同系色のベルベットやレースなどでふんだんに装飾され、胸元ではたくさんの小さい宝石がキラキラと輝いていた。襟元と袖口は白い柔らかな毛皮で覆われている。スカートは2枚重ねで、裾から銀糸で繊細な刺繍が施された白いシルクが効果的に覗いていた。髪を高く結い上げ、晒した耳に光るイヤリングは瞳と同系色のエメラルド。アーノルドは服装の趣味がとても良かった。それを着こなしたジニーはホンモノの伯爵令嬢のように見えた。

ジニーはそのまま父と別れを惜しんだ。母は来ていない。愛人の扱いなので公式の場には出てこれないのだった。その代わりに義理の母と弟が送りに来てくれたので、精一杯に挨拶する。

「お義母さま、お騒がせして申し訳ありません。今までありがとうございました。お元気でお過ごしください」

「あなたもお元気で」

「お義姉さま、とても寂しいです」

義理の弟のアーサーは、まだ8歳だったが、ジニーとは良く大人たちの目を盗んで遊んでいたので、とても寂しいようだった。

「アーサー様もお元気で。立派な領主になってくださいね」

そして馬車に乗り込むために、トリスタンが差し出した手を取ろうとした時、ジニーは声を上げた。

「どうしましょう。わたくし、忘れ物をしてしまいました。少しお待ちいただけますか?」

お母様にいただいた大事な餞別ですの、と言いながら、ジニーは答えを待たずに向きを変え、ドレスをたくしあげ、あっという間に全力疾走で走り去って行った。

整えた衣装も数週間の作法の猛特訓も何もかも台無しである。付け焼け刃の礼儀作法ではどうにもならなかったかとアーノルドは深いため息をつき、トリスタンがどう思うかと横目で様子を伺った。

トリスタンはジニーが駆け抜けた方をしばらく呆然と見ていたが、気を取り直したのか表情が変わった。

「ヴァージニア・リンドバルト嬢はすでに私の護衛の対象です。迎えに行かせていただいても?」

「申し訳ない。不作法で」

「事情は承知しております」

「娘は別宅に向かったと思います」



トリスタンは教えられた通りの道筋を足早に辿った。しかし、すぐに追いつけるはずが、ドレスを着ているご令嬢の姿が一向に見えてこなかった。本館の角を曲がり、庭園に植えられた樹木の横を曲がり、多少ひらけた場所に出てもそれでも後ろ姿がない。

「クソ」

トリスタンは周りを良く確認しつつ、さらに道を急いだ。しかしジニーの姿はなく、そうこうしているうちに別宅に着いてしまった。

強めに玄関のドアをノックして訪いを入れると、メイドがドアを開けた。メイドは突然現れた王立騎士団の制服の美丈夫に度肝を抜かれ、口を茫然と開けた。

「失礼。こちらにヴァージニア・リンドバルト嬢がおられますか?」

「いえ、ジニー様は王都に出られるとお出かけになられましたが」

「忘れ物があるとこちらに来たはずなのですが」

「来ておられません」

その時、優しそうな中年女性が顔を出した。

「ヴァージニアの母のサンドラと申します。ヴァージニアがなにか」

「お母様からいただいた餞別をお忘れになられたとのことで、こちらにおいでのはずなのですが」

「まぁ」

サンドラは慌てて部屋に戻って行き、包みを持ってきた。

「これです。本当にあの子ったら」

トリスタンは不恰好に膨れた包みを受け取った。

「あの子の好きなジャムとか胡桃の焼き菓子とか、道中に食べると良いと思って、そんなつまらないものなんですけど」

「いえいえ、それは置いていけないものでしょう。お預かりしますね」

「ご迷惑をおかけしてすみません」

トリスタンは尋ねた。

「本館の玄関からこちらへ来る道はいくつかあるのでしょうか?」

「それはもう。どこかですれ違ってしまったのでしょう。まぁしばらくすると帰ってくると思いますので、しばらくお待ちください。あのドレスではあまり急げないので時間がかかっているのだと思います」

足首が見えるほどにドレスをたくし上げて見事な全力疾走だったけどな、と、トリスタンは思ったが、言わなかった。

しばらく経ってもジニーは現れなかった。

「ちょっとその辺を見てきてくれるかしら」

と、サンドラがメイドに言った。

「庭師か誰かと話し込んでいるかもしれないわ。人を待たせているのに仕方のない子ねえ」

「はい、奥様。かしこまりました」

別宅から外へ出るメイドに道を開けようと向きを変えた時、トリスタンの目の端で、なにか光るものが見えた。翻ったドレスの裾が光に反射した、その光だった。



剣先を見逃さぬ騎士のよく見える目で、トリスタンが光の先を追うと、すでに伯爵家の敷地外の林の中に消えようとしているジニーが見えた。


逃げた?!は?まさか??



思考するより前にトリスタンは全力疾走でジニーを追いかけ始めた。伯爵家によって整えられている人工林を抜ければ野生の雑木林、その先は森、そして山だ。なんとしても林の所で捕まえなければ見失う可能性が跳ね上がる。

走りながらトリスタンは考えた。

逃げたのか?なぜ?

どこまでが計画的で誰が協力者だったのか。今までにここで出会った人々を思い出す。当主、正妻、義理の弟、実の母親、メイド、すべてが疑わしく思え、また誰も疑わしくないようにも思われた。

1人のように見えたが、他に誰かがいて、さらわれたとか?まさか。何もかもがわからない。

ただひとつ分かっているのは、このままジニーを見失うわけには断じていかないということだった。国王陛下の花嫁を見失ったとなれば、トリスタンの出世の道が永劫閉ざされるだけではすまない。ゴッドウィン一門ごと処罰される可能性すらある。



「待て!!」

手入れのされていない藪や不恰好な枝に20分ほども苦労しながら雑木林を通り抜けた先で、ようやくトリスタンは声が届くくらいのところまで追いついた。大声を上げるとジニーがびっくりして振り返った。

「早いわ」

ジニーは立ち止まって、はぁはぁと息を切らしながら言う。

負けずに息を切らしながら、トリスタンは膝に手を置いた。息を整えながら、このクソ女と怒鳴りたい気持ちを懸命に抑えて、自分の貴族らしい丁寧な振る舞いを呼び起こそうとした。アホみたいな儀礼的な制服の中側は、冬だと言うのに汗でびっしょりだったし、心臓は早鐘のように打っていて、怒りのあまり声が出てこない。

ジニーは観念したのか、トリスタンの元に近寄ってきた。

「お1人ですか?」

「……」

トリスタンはそれには答えず、ジニーの右肘を掴んだ。

「お戻り願います」

ジニーは周りを見回して、トリスタンが1人であることを自分で確かめた。

次の瞬間、パンと破裂音がして、気づくとトリスタンは仰向けに倒れており、視界には青空が広がっていた。痺れて指一本動かせない。

トリスタンを見下ろすジニーは気の毒そうに言った。

「雷の魔法です。ごめんなさい。半日も立てば痺れも取れて動けると思います」

トリスタンが目を閉じることも出来ない横で、ジニーは、よいしょ、と服を脱ぎ始めた。トリスタンは全く望まないストリップを見る羽目になった。着込んでいた下は、胸も尻も意外に肉付きが良いことが知れても何も嬉しくない。毛織りの白い長袖ワンピースの下着姿になると、ジニーは肩こりをとるように、やれやれと肩を回した。

「あら」

と、ジニーはトリスタンが持っていた包みに気付き、取り上げた。

「諦めていたんですけど、持ってきてくださってありがとうございます。嬉しいです」

ジニーは嬉しそうに母親の手製のジャムを眺めた。そしてドサリと脱いだドレスをトリスタンの横に置いた。

「これ良かったら差し上げます。売るといいかもしれません」

トリスタンは罵声を浴びせたかったが、舌が痺れて動かせない。懸命に何事かを伝えようとする様子を見てジニーはトリスタンの口を右手で塞いだ。手を離すとトリスタンはかろうじて片言ほど話せるようになった。

「やめろ」

「ドレス?」

「不貞を疑われる」

ドレスなど関係なく、すでにトリスタンにとって事態は最悪だが、誰かが探しに来たときに、倒れたトリスタンとドレスがあったら、どんな様に見えるだろう。不埒な思いを持ったトリスタンがジニーに無理を強いて、ジニーが逃げ出したようにすら見えてしまう。あの女は自分で服を脱ぎ出したのだとトリスタンが主張したとしてもそんなことは誤差である。トリスタンの名誉が地に落ちる。

ジニーは目を丸くした。

「分かったわ。邪魔だけどちょっと遠くに捨てるわね」

「雷」

「人には初めて使ったわ。猪を昏倒させたことはあったのだけど」

そんな危険なものを使われたとは。トリスタンは心臓がショック死しなかったことを神に感謝した。

「治癒」

「え」

「治癒もある」

トリスタンを話せるようにした力は治癒の魔法だ。

「治癒というのね。雷撃を無効化するようなものかと思っていたわ。教えてくださってありがとう」

ジニーは嬉しそうに頷いた。自分が我ながら立派に伯爵令嬢としてふるまえたのではないかと満足したのだった。気を遣い、謝り、礼を言った。自分なりの礼は尽くしたのでそろそろもう良いだろう。

「ではごきげんよう」


トリスタンは見送るより他になかった。両手に少なからぬ荷物を持ち、去っていくジニーを見ながら、トリスタンは、もしかするとどこかに、それらをしまうことができるカバンなど荷物を隠しているのかもしれないなとぼんやり考えた。であれば計画的ということだ。現王が即位して5年、即位後初めての正面きっての王家に対する叛逆である。







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