プロローグ
ジニーはリンドバルト伯爵家の庶子として、伯爵家の敷地の片隅で母親と共に暮らしていた。父も母も義理の母も弟も妹も平穏で優しい人々だったので、特に虐待やら迫害やら酷い目に遭うこともなく、それなりに幸せに暮らしていたのだが、ある日、縁談がやってきた。好色で有名なエルウッド国王陛下の51番目の妃として嫁ぐようにという勅令だった。
よし。逃げよう。
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ジニーは自分の人生に今のところ大変満足していた。
ジニーは庶子である。
リンドバルト伯爵家の跡取りだった父アーノルドは、学生時代に王都の食堂で働く母サンドラと運命的な恋に落ち、子どもまで作ってしまった頭の弱い男であった。庶民が伯爵家に嫁げるわけもなく、またアーノルドには、政治的な配慮から定められた許嫁がいた。
ジニーは母親に聞いたことがある。最初から遊びのつもりの男に騙されて腹は立たなかったのかと。
万事おおらかで器が海より広いサンドラは笑って言った。だって素敵だったのよ。優しくて可哀想でなんでもしてあげたくなっちゃったのよ。一回でも…、ちょっとでも付き合えたならラッキーと思ったの。それなのに可愛いあなたまで授かったのだから本当に幸運だったわね、と。
でもあなたにはごめんなさいね、と眉を下げて謝るので、まぁそれなら仕方がない、とジニーは許すことにした。
アーノルドは、頭も意志も弱い男だったが、気立ては悪くなかった。彼は全方向に土下座をし、領地に帰って許嫁と結婚して誠意を尽くす一方、別宅を用意して、そこにサンドラとジニーを住まわせた。メイドを1人手配してくれたし、食事などに不自由することはなかった。ジニーには家庭教師もつけてくれた。本当は片親の家庭でも王都のサンドラの実家近くで暮らした方が自由で良かったのだが、伯爵家の庶子と知れたらどんなひどい面倒ごとに巻き込まれるか分からないからとアーノルドが得意の土下座で泣き落としたので、サンドラは、ちょっと退屈すぎるけど仕方ないわね、と肩をすくめて、本宅の正妻の目に絶対触れないよう、領内にある伯爵家の敷地の片隅で、静かにジニーと暮らすことを受け入れたのだった。
だからジニーが17歳のある冬の日に、本宅に呼ばれたのは、わりと珍しいことだったのだ。
その日ジニーは自分が持っている中で一番くらいに上等なドレスを着て本宅を訪れた。玄関に執事が迎えにきてくれて、そのまま伯爵の執務室に案内された。
アーノルドは中肉中背、優しげな風貌で柔らかい薄茶の髪と翡翠色の瞳を持ち、いつまでもあまり老けない。同じ髪の色と瞳の色を持つジニーは、高貴な身分というには、日に焼けすぎているし、髪や指先の手入れもなっておらず、目に生命力が溢れすぎていて、庶民丸出しの風情である。しかし並んでみると確かに親子ということがはっきり分かるほどには2人は似ていた。
お茶を飲みながら二言三言、当たり障りのない話をした後、アーノルドは本題を話し始めた。それは青天の霹靂だった。
「君に縁談の話が来ている。相手はエルウッド国王陛下だ」
ジニーは呆然とした。
「……なんで」
「それが、その….なんと言って良いか….、陛下はたいへん色を好まれる方で。今もすでに後宮には妃がたくさんおられるが、まだ足りないとの仰せで、年頃の娘は出仕させろとのご命令なのだ…」
ジニーはほぼ引きこもりの生活なので知らなかったが、今代の国王陛下は暴君で、国内は貴族の女性狩りの様相なのだそうだ。最初の何人かまでは、権力も手に入りそうだし、陛下の見てくれも悪くないから、選ばれた本人も家族も無邪気に喜んでいたが、妃の数が10人を超えた辺りから、これはちょっと変じゃないかと人々が怪しみ始めた。20人を超えてきたあたりで、有力な貴族たちは恐慌状態になり、娘がいる者はそれが赤ん坊でも構わず誰かと婚約させ、結婚させた。国王陛下は既婚者には手を出さないからだ。アーノルドの正妻の娘もジニーよりも年下だが、15歳の時にすでに他家へ嫁いでいる。
「ジニー、君は正式にデビューもしていないし、貴族年鑑にも載せていない。そのうち領内の騎士団か親戚の誰か気のいい若者と一緒になってくれれば良いと思っていたんだよ。それがなぜか王家に知られてしまってね…本当に申し訳ない…」
「拒否はできるんでしょうか」
「無理だ」
ジニーは考える時間を稼ぐために、ゆっくりお茶を飲んだ。なるほど、プロテクトに失敗したということだ。誰が王家に情報を渡したかを追及すると闇が深そうなので、ジニーはそれについては考えるのをやめた。
「お妃さまはたくさんおられるとのことでしたが、何人ほどおられるのですか?」
「50人ほどと聞いている」
「は??ばかなの??」
50人?ジニーは目眩がした。国王陛下のお妃さまとなれば、1人一室ということもあるまい。1人につき最低、居住用と寝室用に2部屋、従者やメイド用の部屋も必要だ。下働き同士は相部屋もあるだろうが、妃1人につき3部屋としても150室、そのための家具、リネン類、その洗濯、食事も一回あたり使用人も含めて少なくとも200食、1食金貨1枚としても毎日600金貨かかることになる。妃50人分の服飾費を考えたら気が遠くなりそうだ。
「5人くらいにしておけば、お金も一桁か二桁少なくすみそうですのに、みなさまご苦労ですわね」
「最初に金勘定をするのか」
「変でしょうか」
「まぁあまり伯爵令嬢らしくはないな、言葉も丁寧なようでいて時々乱暴になる。王宮で苦労させることになり本当にすまない」
父は悲しそうだが、ジニーはそれどころではない。あまりに世間知らずで、国民なら知っているはずの基本情報すらないことを痛感し、さらに質問を重ねた。
「陛下はお子様は何人ほどおられるのでしょうか?」
「まだ1人もおられない」
「それは……!」
それではそれは好色とは違うのでは。ジニーは息を飲んだ。
そしてその問題は、女性を変えたからと言って解決しないのでは。なにせ50人ためしたのだろうから。
「つまりたね…」
「伯爵令嬢なのだから言葉を慎みなさい」
「私には荷が重すぎます。たしかに平民の血が入っていてお貴族の方々よりイキの良い血の可能性はありますが、特に多産の実績のあるわけでもないのですよ」
そう言いながらもジニーは思い返した。母サンドラは6人兄妹と聞いているし、そう言えば父と母もそれほど長い交際期間ではなかったのにジニーが産まれた。もしかしたら多産の実績有りかもしれない。
「陛下はおいくつですか?」
「今年で23になられる。前王が病で崩御され、即位して5年だ」
「事情はわかりました。説明をありがとうございました。ええと、お願いがあります」
「聞こう」
「社交界にデビューしておらず礼儀作法もままならず、分不相応と怯えている、ぜひ辞退させていただきたいと、娘が言っていると、王宮に書状を送っていただくことはできますか?」
「それは出来るが、辞退は無理だろう」
「良いのです。一度拒否した事実が残れば。もう一度押されたら承諾していただいて大丈夫です」
アーノルドはよく理解できていないようだが、頷いた。きっと今回の件のことを申し訳ないと心から思っていて、何でもしてやろうと考えているのであろう。頭は弱いが、とことん善人で、優しい。彼の長所の一つであるとジニーは思った。