第十話
振り向いた先には——
「しょ、触手ぅぅぅぅぅ!?」
さっき通ってきたところに見渡す限りの触手、触手、また触手。
太いものから細いものなど多種多様。
私の身長を超えるくらいの長さの触手がまるで森林のように立ち並び、何本かはこちらに向かって先端から白濁した液体を吹き出している。
うねうねと波打つ悪夢のような光景を見て背筋に悪寒が走る。
いやいやいやいやいや、これ捕まったら絶対やばいヤツっ!!
私の乙女心の直感が大音量で逃げろと叫んでいる。
すぐさま進行方向へ向き直り、足元の確認などどうでもいいとばかりに全速力で駆け出す。
ブーツがヌルヌルを吸って、ただでさえ重たくなっているのに駆け出した際、この砂地の細かい砂がブーツにくっついてさらに重くなる。
そして何より砂地の足元では踏ん張りが効かずとても走りにくい上に普通の地面より体力を消耗してしまう。
おのれっ! この部屋、なんで砂地なのかと思ってたらこういうことか!
あの触手の生息地、走りにくい足場、前の部屋のヌルヌルに砂がくっつく、どれか一つでも嫌なのにこの三つが揃った時の相乗効果、嫌すぎるっ!
くぅ〜、ほっんとこの迷宮を作った奴出てこい。性格が悪いにも程があるでしょ! まだ槍が飛んできたり、檻に閉じ込められたり、鉄球が転がってきたり、壁に吹き飛ばされたり、吸い寄せられたり、魔法が飛んできたり、タライが落ちてくる罠の方が全然マシよ!
「くっ、前にも触手が……こうなったら斬って道を、っにょえぇぇぇぇっ!?」
進行方向に出現した触手を妖精の翅斬りでなぎ払う。
が、しかし妖精の翅斬りの柄に例のヌルヌルが残っていたらしく途中ですっぽ抜けて前方、扉の付近へ一人で旅立って行った。
「あああぁぁぁぁぁ! 駄目だ駄目だ、焦るなエルセティ。こういう場合は柄に護拳の付いているこの剣で、斬る!」
右の腰から風剣を抜き、空中を薙ぐ。
「【刃となりて喰い破る】!」
すると魔力で出来た風の刃が疾り、触手を両断していった。
「いよしっ、イケる!」
私は二度三度、風の刃を疾らせ前方の触手を一掃。
その隙にこの部屋の扉の前へと滑り込み、勢いそのままぶつかるように扉を押し開ける。
「んぎぎぎぎっ! は、早く早く開いて開いて開いてぇぇぇ!」
これまで同様、開き始めたら勝手に動くんだけど、どうやらその速さ以上にはならないらしい。押そうが体当たりしようが変化なかった。
この局面でこの動作は実にもどかしい。
「まったくもう、イライラさせるぅ! はっ!? 最初の触手にもう追いつかれた! この! この! 【スラッシュ】【スラッシュ】【スラッシュ】ゥゥゥゥ!」
振り向けば撃ち漏らした右側の触手が白濁した液を振り撒きながら迫っていたので必死に風剣で斬り払う。
うわっ、やだ。白いのが身体やブーツにかかったし!
痛みとか服が溶けるとか何にも無いみたいだけど、見た目が見た目だけになんかヤダっ!
気持ち悪ぅ!!
あ、あと嗅いだ事のない生臭い匂いがするよぉ。
あ〜早く私が通れるくらい開いて、開いてよ!
触手を斬り払いつつ、側に刺さっていた妖精の翅斬りを回収しているとやっと通れそうなくらいの間が開いたので急いでその隙間に滑り込む。
滑り込んだ先はまたしても短い通路だったことに胸を撫で下ろしつつ、今度は扉を閉めるため反対側に回る。
「早く早く閉じて、閉じ……閉じない!? なんで!? あーもう、このクソ触手はいい加減追っかけて来るなって!」
狭い通路で必死に風剣を振り回し触手の猛攻を防ぐが迫りくる勢いは一向に止む気配がない。
その間も扉は一定速度で開く方向に動いている。
もしかして一方向にしか動かない仕様とか?
思い返せば、これまでの扉は閉める必要なんてなかったから試してない。
戻って試すことも出来ない。
「というより、そんな暇ないわー! くっそぉ、うねうねうねうね砂地からバカの一つ覚えみたいに……って砂地、そうよ砂地よ! 土剣なら何とかなるかも!」
土剣は地面に突き立て魔力を通せば、土の形をある程度自由に変えることができる剣。
砂も土みたいなもんだし利用出来れば……この状況、何とかなるかも!
「そうと決まれば、こぉんのクソ触手がぁーー!」
風剣にこれまでで最大の魔力を込め、通路の幅いっぱいに振り抜く!
通路にいた触手だけでなく、砂地の部屋にいた三割くらいの触手を両断する事に成功。
これで少しではあるけど時間が稼げた。
急ぎ背嚢から土剣を抜き放つ。
そして通路内から砂地に突き立て変化させる形を頭に思い描き、一気に魔力を解き放つ。
「【土の形は自由自在】! よしっ、出来た!」
砂はまるで意思を持っているかのように立ち昇り、今いる通路ギリギリに壁を形成して砂地と通路を遮断した。
壁の向こうで触手が壁に対して暴れている音が聞こえるが壁が崩れる気配はない。
とは言え、油断していて突破されても困るので壁の向こう側にもう一枚同じ壁を設置しておいた。
さらに両方の壁に対して魔力を追加して強化。
「これなら万が一にも壊されないでしょ。はぁぁぁぁぁ疲れたぁ〜〜」
私はへなへなと床に座り込んだ。
それもそうだろう。ここまで怒涛の展開、乙女の危機だったのだ。
肉体的にも疲れはあるがどちらかと言えば、精神的な疲労感の方が強い。
「部屋の中は大変だったんだから、この通路くらいゆっくりさせて欲しいところなんだけど……ま・さ・か通路にも仕掛けがあるとか言うんじゃないわよね?」
ゆっくりと今いる通路を見回しておかしな仕掛けがないか確認する。
不審な箇所は無い、と思う。
この迷宮は油断出来ない。
これまでのことを考えるとあっても不思議ではない。
しかし一息つきたいのは確かなのでこの通路が安全なのか、少し様子を見よう。
…
……
………
しばらく通路にいて気を張っていたけど何も起こらない。
これはほぼ安全と思っていいのではないだろうか?
触手が壁を攻撃する音も止んだし、通路に変化は無く、次の扉にも異変はない。
緊張の糸を緩めた私はここで休息を取る事にした。
「ん〜〜、そろそろ行くかな。あーお風呂入りたい」
すっかり安全な事が確認出来たので食事と仮眠を取った。
お風呂には入れていないのでヌルヌルはまだ少し残ってしっとりしているけど時間をかけた分、だいぶマシになった。
そして衣服の方も乾いてきた。というかカピカピになってる?
袖を通せないこともない。動いていれば慣れるかな。
「ま、下着姿よりカピカピの服でも着ていた方が良いわよね」
身支度を整え、次の扉に手をかける。
この扉も一度開けたら引き返せないだろう。
何があるかは開いてみるまでわからない。
「ま、もうどうせ戻る事も出来ないんだ。前に進むしかないよね」
意を決して扉を開く。
前の扉のように開いていく隙間から光は差し込まない。ただただ暗闇が広がっていくだけだ。
頭の中に例の階段を登った先で見た崖が思い出される。
あの時はまだ遠くの壁に魔力灯が見えたので完全な暗闇ではなかった。
しかし扉が開ききった目の前の光景は完全に暗闇に包まれていて明かりは一切見えない。
部屋の中が崖になっていては大変と思い、剣で部屋の中に床があるかを確かめる。
ん、硬い。
確かに床の感触がある。
こちら側の扉の前が落とし穴になっていることもない。
…………あれ?
待って、何かがおかしい。違和感がある。
えと、なんで剣の先端が見えないの? おかしくない?
床を突いている感触はある、よね。
通路には魔力灯もあるし、薄暗いながらも物は見える。振り向けば目の前の扉より離れている砂地の部屋に作った壁も見える。
なのになんで通路を境にして次の部屋に入れた剣の先端部分がまったく見えなくなってるの!?
普通どんなに暗くても少しくらいの距離なら明かりが届いてるから見えるでしょ?
私は慌てて剣を引き抜く。
妖精の翅斬りは無事だ。刃こぼれすることなくその先端が見える。
今度は恐る恐る左手を入れて見る。
剣同様、部屋に入れた先が見えなくなった。
両手を入れて、右手と左手の感触を確かめる。
普通にある。違和感も無い。
背嚢からランタンを取り出して火を灯し、試しにランタンを部屋に入れる。
……ランタンの形は元より灯した火の影すら見えない。
ならばと顔を部屋の中に入れても何も見えない。自分の手を目に当てても見えない。
目蓋が閉じないことも確認した。
「これもしかして部屋の中が完全に暗闇になっているってこと? これが、次の仕掛け…………とか、ふざけるなぁぁ!」
まったく見えない状況で何をしろって?
また次の扉を探せばいいの?
どこかに灯をつけるスイッチがあるとか?
入り口付近には無くてもどこに落とし穴があるかもわからないのに?
ふぅ……ダメダメ。
怒りで我を忘れて行動したら見えるものも見えなくなるってブロンがよく言ってたっけ。
落ち着け、落ち着くんだ私。
とりあえず部屋の中に入ると何も見えない事がわかった。
それがわかっただけでも良しとしよう。
一回深呼吸して……よし、行こう!
暗闇ってことは、魔物がいる可能性もあるよね。さっきの砂地でも触手が出たくらいなんだから周りの気配に注意しておこう。
ゆっくりと慎重に私は闇の部屋へと踏み込んだ。
……わかっていたけど何も見えない。
入口の扉の左右には壁が続いていた。しばらく壁伝いに歩いたが、壁は緩やかな曲線を描いているようだった。なのでこれまでの部屋の傾向からこの部屋も円形と推測出来る。おおよその広さを思い浮かべて入口へと戻る。
今度は真っ直ぐ進んで来た。
やはり入口の光は見えないから方向感覚がおかしくなりそうな上に音も聞こえない。
暗闇故の錯覚かな?と思ったけど、さっき着たカピカピの服の衣擦れの音も無いし、わざと足音を立てても全く無いのだから音も消されているのかもしれない。
うーむ、今のところ落とし穴も無ければ何の気配も感じないし、壁に触れることもない。まさか本当に手探りだけで次の扉なり、道なりを探せってこと?
「——!?」
などと思っていると右斜め後方から不意に気配が立ち上がり、すぐ消える。
「痛っ!?」
直後、足に衝撃。
何かが当たった? もしかしてこの暗闇の中、攻撃された?と考え、足元を見ると——
「……ブーツだけがぼんやり光ってる?」
いやブーツ全体が光っているわけではない。
箇所によって光にも強弱がある。特に右足の方が強い。
いったい何が光っているのだろうかと考えた時、また気配。
今度は左側面。
「っ!」
またしても足、というか右のブーツ。
これは相手も確実にブーツの光が見えていて狙いに来ている。
しかし地味に痛いな。
触ってみれば革製の厚いブーツなのに損傷が激しい。このまま攻撃を受け続けると私のカモシカのような美脚に傷がつく。
一旦ブーツを脱ぎ捨てるか?
ったぁ、今度は正面か。
攻撃する位置が決まっているのか、たまたまなのか。
この場所に留まっているといい的でしかない。
私は撹乱と確認を兼ねて先程気配のあった付近に駆け出し、すぐさま攻撃。
しかし手応え無し。
周囲にも何も無し。
そして右側面からの攻撃をまたブーツに受ける。
「ったいなぁ、もう! また右側……ん? 右側の方がわずかに光が強い? ブーツ、右側——もしかして……なるほど、そういうことね!」
私はブーツを躊躇いなく脱ぎ捨てた。