プロローグ
私立虎卯兎学園。生徒数2000人超のマンモス高校であり、変人の巣窟でもある。生徒数こそ多いものの、各々が全員の顔と名前を把握しているわけもなく、それぞれは小さなコミュニティの中で日々の生活を送っている。いわば、この学園は生徒それぞれが持つ小さな世界の集合体なのだ。
学園の敷地の隅の隅にプレハブ小屋がある。その中で一組の男女の生徒が革張りのソファに腰かけていた。男の方は脚を広げ腕を広げ、だらけ切った様子で天井をただ見つめている。一方で女の方はというと、微笑を浮かべながらその男の様子をうかがっていた。
「今日も暇ですね」
その女子生徒の名前は鬼束ちよ。虎宇渡学園の芸能科に通う一年生である。このプレハブ小屋に通うようになってから、彼女は徐々に意中の相手に近づいていった。最初は男が座るソファとは向かい側のソファに座った。数日経ってからはそこに座らずに、男のまわりをウロウロと歩き回った。さらに数日後には「座れよ」という言葉を男から引き出した。その言葉を皮切りに彼女は男の隣に座る権利を得た。彼女の恋心は非常にわかりやすいものだった。
「うむ……」
ちよの熱い気持ちのことなどつゆ知らず、といった様子の男子生徒の名前は姫森仙弥。難聴系で鈍感系の男子高校生である。普通科所属の二年生で、特にこれといった外見的特徴のない、一般的な男子高校生といった身なりである。
「今朝さぁ、一人の人を助けた」
仙弥は可愛い後輩の暇を埋めるべく、重々しく語り始めた。
「……つもりだったっていう話、聞く?」
「なんですか、それ。はやく聞かせてください」
ちよが反応すると、仙弥は嬉しそうに微笑む。
「今朝、あのー……園芸部の方に遊びに行ってて」
仙弥の交友関係は異様に広い。彼自身が無類の人好きということもあり、学園内の各部活動や委員会などの様々な集まりに頻繁に顔を出すからである。彼自身にはその集まりに対して何も用事などはない。人と関わりたい。その純粋な欲望をただ行動に移しているだけだった。
「で、そこの園芸部の一年生の女の子が、なんかとてつもなくでかいやつに絡まれてたの」
「怖い。よくそういう所に入っていけますよね」
ちよは顔で呆れながらも内心では仙弥を称賛していた。大人しそうな見た目に反して、この男は恐れを知らない、そして行動に迷いがない。仙弥のそういった部分にも、ちよは惹かれていた。
「それはほら、学校だから、ここ。万が一、俺が殴られてもそいつが処分されて終わりじゃん?だからそういう揉め事でこっちの負けは無いと常に思ってるから。校内だったら無敵だからさ、俺」
「それは……そうですね」
仙弥の理論にはいつも説得力があるように感じた。思わず頷いてしまったちよは、その理論の致命的な弱点に対して今回も盲目的だった。
「あと、その女の子がめちゃくちゃ可愛かったっていうのは事実で。俺の下心9割からの行動というのもある」
嫉妬の意味を込めてちよが仙弥の肩を平手で叩いた。
「いてっ。んで……あれ?今ので記憶が飛んじゃった。どこまで話したっけ?」
「可愛い一年生の女の子が大きい人に絡まれてた、ってとこまでです」
ちよはこの世で一番憎しみを込めて「可愛い」という言葉を口にした。目の前のいじらしい乙女の事などはおくびにも出さず、仙弥は話をつづけた。
「そうだ、そうそう。んで、そのでかいやつに詰められて女の子はもう……泣いてんだよ」
「そのでかいやつってどんな人だったんですか?」
「そら、もうゴリっと……左右の刈り込み」
仙弥は両手で自分の頭の両脇を撫で、身振りで刈り込み具合を伝えようとした。
「回らない寿司屋の職人ぐらいの、ものすごい刈り込みだったね」
「いや、その……」
ちよは仙弥のズレた解答を笑いながら否定した。
「髪型とかじゃなくて、体型とか顔とか」
「あ、そっち?体系は……そうだなぁ、世界樹みたいな、ぶっとい樹みたいな大男だったね。とにかくその女の子との体格差がえげつなくって。顔はね……うーん、そうね、ほとんど……ヒグマみたいな顔」
「そんな人間いるわけないじゃないですか。モンスターですよ、それ」
大いに誇張されているであろう表現に、ちよは笑いながらツッコんだ。
「でさ、それはもう助けるじゃん?なぜならば、女の子が泣いているのだから」
「どうやって?」
「ん?……オイ、ナイテンゾー?つって」
「いや、そんな……」
ちよはまたもや吹き出した。
「そんなわけないじゃないですか。あとニンテンドーと同じ発音でいうの、やめてください」
「ナイテンゾー?つって。ニンテンドー?つって」
ツボに入ったちよがケラケラと笑い転げるのを、仙弥は満足そうに眺めた。
「いや、ニンテンドーの話はしてないんだよ、今は」
「もう真面目に話してください……いっつもそうなんだから」
ちよは息を整えながら話の続きを促した。
「えーっとね……それで、俺がそうやって間に入ったら、その大男はすぐにその場から立ち去っていったの」
「えぇ?何もしてこなかったんですか?」
仙弥のこの手の話は大体本当に殴られるか、第三者が出てきて助けてくれるかのどちらかだった。それ以外のパターンはちよにとって初耳だった。
「うん、それで助けたー。よかったーって思ったんだけど……なんかおかしいの。その女の子の様子というか、周りのリアクションも含めてだけど……その場の空気というか、ね?」
ちよは混乱しながら現場の様子を想像した。周囲の人たちが遠巻きに女の子と仙弥を見ている……普通にあり得ることではないだろうか。
「その女の子はその場に座り込んで泣いちゃってて。その有り様なのに、俺の他に誰もその子に手を貸さないというか……いいやつらなんだよ?園芸部の連中って。駅の階段とかでも、見知らぬおじいさんを介助してあげるような、ね?だからおかしいんだよ。同じ園芸部という身内なのに、その子に誰も近寄りすらしないっていうその状況が」
ちよが気付かないのも無理はなかった。それは園芸部の人たちのことをよく知っている者でないと抱かない違和感だった。
「だから俺は考えたんだ。何だこの状況……って。いつもは気のいい連中なのに、身内のトラブルを全員が遠巻きに見ている、この現象……」
「まさか……」
ちよはハッとした。その状況で一つだけ推測できることがあったのだ。
「もしかして……やっちまったかな、って。早とちり、決めちゃったのかなって」
「その女の子と大男って、もしかして……」
「それ以上はいわないで、おちよさん!!わたくし自分のミスは自分で報告したくってよ!!」
仙弥はなぜかお嬢様口調で早口でまくし立てた。
「そうなんです!!俺は人助けをしたと思っていた!!だけど、結果的に!!俺は!!誰も頼んでないのに!!カップルのケンカに勝手に割って入ったイタいヤツだった!!」
独特のややかすれた声で仙弥は叫んだ。
「……っていうお話でした」
話し終えた仙弥は伏し目がちではありながらもその口元はゆるんでいた。
「あぁ~~……」
共感性羞恥がちよを襲っていた。なんて恥ずかしい。耐えられない。正しい事をしたつもりがいらんことをしてしまった仙弥が恥ずかしい。なぜか自分まで恥ずかしくなってくる。
「うん……ご清聴ありがとうございました」
「……最悪だ」
後味の悪い気分になったちよはがっくりと肩を落とした。
「おちよ、実はこの話……続きがございます。下巻が」
「えぇ?」
ちよは口を尖らせた。これ以上の悪い感情はもういらない。そんな気持ちを精一杯言葉と顔に出したつもりだった。
「大丈夫大丈夫。そんな顔するなって」
仙弥の「大丈夫」はちよにとっては魔法の言葉だった。
「……でも」
「まぁ、聞いて?」
ちよは複雑な気持ちだったが、黙って仙弥の提案を受け入れた。
「その女の子は被服科の一年生のユキちゃんていうんだけど、その子実は男の子で、絡んでいたように見えたその大男と中学からずっと付き合ってんだって」
「はい?」
ちよは反射的に聞き返した。仙弥の口から出た「男」というワードが適量よりも多かった気がしたからだった。
「なに?」
「いや……私の聞き間違いですか?途中で女の子が男の子になってましたけど」
「ああ、合ってる合ってる。男のー、あのー娘……って書いて男の娘ってやつね?」
空中で文字を書くジェスチャーをしながら仙弥は肯定した。
「はぁっ!?アッ……はっ!?」
今度はちよの身に過呼吸が襲った。
「お、おい!?落ち着け!!息できてるか!?」
「だ、だいじょぶ……です」
「ビックリしただろ?わかるよ、その気持ち。俺も今朝、同じようなリアクションしたんだから。で俺、一応呼んだんだよ。その子を。ここでいつも暇を持て余してるから、もしよかったら来てくれ、つって。同学年の女の子もいるし、話聞くよ、つって」
「そ、それで……その子はなんて?」
ありったけの期待を込めた瞳でちよは仙弥を見つめた。
「その子、ユキちゃんの返事は……」
悪戯な笑みを浮かべながら仙弥はたっぷりと間を空けた。
「……イエスでした!!来ます!!男の娘のユキちゃん、今からここに来ます!!」
「えー!?本当に!?どんな姿か見てみたいと思ってた」
「だろう!?見たいだろ!?マ~ジで可愛いから!!もう……もう、すごいんだから!!」
二人で大はしゃぎしながらちよは思った。ヒグマのような大男と可愛い男の娘のカップリング……意外に嫌じゃない、むしろ良い、と。
生徒数2000人超を誇るマンモス高校、私立虎卯兎学園。その広大な敷地の隅の隅にプレハブ小屋がある。そこへ一つの小さな影がゆっくりと近づき、その小さな影はプレハブ小屋の中へと招き入れられた。