1-2 夜明け
気が付けば少しずつ辺りが明るくなっていた。夜が明けたのだ。幸いなことに魔獣を見ることは無かった。
これがどれ程の幸福であったのか、この時はそんな”些細な”幸福よりも身近な不安に心は覆われていた。
日が昇れば多くの魔獣は大人しくなる。木の上でも安全だが、父さんの言いつけを守るのなら、明るいうちにもっと遠くまで逃げた方がいい。それは分かっているのだが、父さん達を待つならここに居るのも悪くない。
(父さん達はまだここまで来てないのかな……もしかして……)
見捨てられたなんてことは微塵も考えなかったが、気が付かずに通り過ぎてしまった可能性はある。そう思うと、不安でこの場に居続けることは出来なかった。
父さんはいつも明るく何となく適当な感じの人だったけど、村でも勇敢な狩人で、アドエルや母さん、村のみんなを大切にしてくれていた。何があっても必ず父さんが守ってくれる。一切の根拠がなくとも、そう信頼するに十分な程、アドエルにとって父さんは心強い存在だった。
(だから、母さんも兄ちゃんも姉ちゃんも必ず無事だ。村のみんなだって……だから今はとにかく奥へ逃げなきゃ。父さんがそう言ったんだから)
恐る恐る木を降り、アドエルは再び川沿いを奥へ進むこととした。村を出てから一睡もしていないが、朝の森の肌寒い風が眠気を感じさせなかった。早朝の森というのも初めてであったが、周囲が見渡せる分、夜よりは遥かに安心できた。
森の奥は危険な獣や魔獣がいるため、常日頃であれば決して来ることは無い。行きたいと言っても父さん達が絶対に許さなかっただろう。しかし川沿いであるためか、景色は森の入り口付近とそう大差なく、奥まで来たという実感があまりなかった。もしかすると、そこまで奥には来れていないのだろうか。
(とりあえずできるだけ奥に進もう。あと、ちょっとお腹すいたな。木の実とか無いかな。)
村を出たときは”急いでいた”なんてものではなく、半ばパニック状態で出てきたため、食料など持ってはいない。食料どころか何一つ手荷物はない。寝巻に一枚のローブを羽織り、靴を履いただけで家を出た。川沿いであるため水分には困らなかったが、水だけでは限界があった。
(とりあえずこの辺の落ちてる木の実は拾っとこう)
ロープの裾を捲り腰の辺りでくくりつけると、その中に木の実を入れておいた。
水で少しだけ空腹を満たし、更に森の奥を目指した。
そしてしばらく進むと、徐々に日が高くなり、気温も暖かくなってきた。疲労か、空腹か、見慣れた昼の森の景色に緊張の糸が切れたか、眠っていた眠気が目を覚ました。
川沿いとはいえそのまま寝るのは怖かったため、残された気力で木に登り、そこで意識は途絶えた。正常な思考状態であれば、眠っている間に父さん達が通り過ぎてしまう事を懸念し、眠ることなどできなかっただろう。アドエルの眠気はすべての懸念を消し去り、一時の休息を与えた。
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目が覚めたらもう夕暮れ時であった。寝ぼけながらも、アドエルはハッと気が付く。
(やっちゃった。寝ちゃった……)
不意に大きな不安に襲われる。
(父さん達はもう行っちゃったかな……とにかく奥へ急がないと!)
しかし、もう少しで日没である。日が沈めば森は魔獣たちの恐怖の狩場となる。気持ちは焦るが、今は現実的な判断が必要だった。
(進むよりも先に何か食べ物を見つけて、隠れる場所を決めないと……)
生き抜くこと。
今はそれが何よりも優先された。
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あれから数日が過ぎ、アドエルの日常は少しずつ安定していた。夜は魔獣が怖く寝付けないため、朝方までは辺りを警戒し、朝方から昼過ぎくらいまで眠る。起きたら森の奥を目指しつつ食料の確保。
本当は夜には眠りたかった。よくよく考えれば父さん達も夜は魔獣を恐れ、移動は避けたいはずだ。そんな中、寝ずに父さん達を待っていても意味はない。
しかし先日、夜中に初めて魔獣を見てからというもの怖くて夜は眠れない。決して大きな魔獣ではなかった。
大きさも姿も狼と変わりない程度であったが、月明りに照らされた3つの瞳は紅く煌めき、アドエルにこの上ない恐怖を与えた。魔獣はまだアドエルには気が付いてはいなかったが、アドエルは恐怖で魔獣から目を離すことができなかった。
恐怖で徐々に呼吸が加速し、息が荒くなる。そしてゆっくりと森を移動する魔獣と目が合った時、一気に体に震えがきた。
あまりの恐怖に何も考えることができなかった。これ程まで心の中が一つの感情に満たされたのはいつぶりだろうか。それが喜びの感情であればどれ程良かったか。
(……怖い)
一人きりの夜の森が怖いのか、魔獣が近くにいることが怖いのか、魔獣と目が合ったことが怖いのか、これから喰い殺される事が怖いのか。何が怖いのかもよくわからないが、ただ怖かった。
魔獣は品定めをするかのように、木の下からこちらを見ていた。その瞳はとても冷たく、息を整えることに必死なアドエルとは対照に、魔獣は冷静にアドエルを凝視していた。アドエルは身動きもとれず、瞬きすることすら恐怖した。
しばらくすると、魔獣はまるでアドエルから興味を失ったかのように目を逸らし、通り過ぎて行った。
目が合っていたのは数秒か、数十秒か。恐怖から解放されたアドエルは、必死に息を、声を殺して涙した。その後、気を失うように眠りについていた。
あの日以来、夜に寝付こうとしてもあの魔獣の瞳が瞼[まぶた]に浮かぶ。
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村を出てから何日経っただろうか、どれ程遠くまで来たのだろうか。アドエルにはそれすらもうわからない。川沿いに下って行けば村へ帰ることはできるだろう。
しかし、父さんとの約束だ。村には絶対に帰らない。この約束を守らなければ、父さん達が見つけてくれなくなる、そんな気がしていた。
森での生活にもかなり慣れてきた。川沿いの道はゴツゴツとした岩場も多くなり、移動するのも結構大変だった。
(もうこれ以上奥へ行くのは大変だな)
これまで頑張って森の奥へと足を進めていたが、少なくとも父さん達はまだここまでは来てないのではないかと考えていた。
人が通った痕跡が見当たらない。足跡も無く、火を起こした後も無く、川沿いの木の実も採られている形跡はない。
森に入ってしばらくは木の実を食べる獣が居るのか、木の下の方には食べれそうなものは結構少なかった。しかし森の奥だからか、最近では持ちきれないほど落ちている。
(父さん達が通ったのなら、少なくともこの辺りの木の実は採っているはずだ)
ここでハッとする。
(僕……ここまで散々木の実採ってきたけど、父さん達大丈夫だったかな……)
父さん達なら狩りもできるだろうけど、狩りが常に上手くいくとは限らない。
狩りとは命がけなのだ。アドエルが父さん達の貴重な食糧を独り占めしてしまっている可能性があった。
そう考えると、あまり奥へと行き過ぎると父さん達と出会えなくなる気がした。食料だけの問題ではない。森の奥へ進むということはそれだけ危険性があるのだ。父さん達とは言え例外ではない。
この不安から、アドエルはこの周辺でしばらく身を隠し、父さん達を待つ決心をした。どれだけ待てばいいのかはわからないが、川沿いのこの地で待てば、いつかまた出会えることを信じて。