1ー1 森の奥へ
山々に囲まれた小さな名もなき村。そこに住む者すら村の名を知らない。住む者は30人程度しかおらず、どこの国に属するでも無く、領主も無く、皆がただ平穏に暮らすだけの村。
村は外の世界とは交易をすることもなく、畑を耕し、森で狩りをし、自給自足で日々の生活が成り立っていた。
アドエルは村で最年少の子で、村の人々は皆、我が子のように大切にしていた。人口が少ないため、子供は少数であり、9歳のアドエルには今年で12歳のカミアと13歳のリーディしか歳の近い遊び相手が居なかった。
ここ数年、村は子供に恵まれず、人口減少の一途であったが、つい先日若い夫婦の間に子を授かったと、久方ぶりの祝い話があった。アドエルもそのことを兄弟ができると喜んだ。
この村は特に歴史がある村でもなく、数十年前に様々な事情で住む地を追われた者達が自然と集まり、開墾し、作られた村だった。村に名がないのも、外の世界との交流が無いのも、この地に来るに至った各々の事情がその原因の一つである。一時は100人程度の規模の村を成したが、森に囲まれたこの地において、日々の生活は決して楽ではなかった。
森には動物や木の実、山菜や薬草などの様々な恵みがあったが、熊や狼のような獣や、魔獣と呼ばれる上位の獣がいた。魔獣は獣や人間を襲い、喰らう。日中はあまり見かけることも少ないが、夜には活発となるため、夜の森へは決して近づいてはならなかった。
村は木の防壁で囲まれていたため、村の中にまで魔獣が入り込む事は無かったが、狩りに行った際に村人が犠牲となる事は珍しくはなかった。そのため、村からは徐々に若い男が減り、最近では狩りによる食料調達も不調となっていた。加えて、生まれてくる子の多くが男であったこともあり、今では村人の多くは老人であり、子をなす世代の男女は共に少なくなっていた。
「アドエル! あまり遠くまで行ってはダメよ」
「わかってるよ! 母さん!行ってきます!」
ここ最近カミアが狩の訓練で大人と一緒に森に行ってしまうので、アドエルは遊び相手に困っていた。リーディはいつも優しく接してくれるが、あまり体を動かすことは好きではないようで、遊びには付き合ってくれない。最近は料理を練習しているらしく、時々美味しいスープをご馳走してくれる。目立った娯楽が何もない村での大きな楽しみの一つだ。
アドエルの遊び場は森に入ってすぐの川辺だった。泳ぎも得意で魚も時々捕まえることができた。川沿いは魔獣を見かけることもなく比較的安全で、水を飲みに来ているウサギを捕まえると、母さん達がとても喜んでくれる。
そんな中、最近の一番の楽しみは木登りだった。ただ登るのも楽しいのだが、木の上の果実はとても魅力的なご褒美だった。果実がたくさん採れた日はリーディが美味しいパイを作ってくれたりもする。
(こんな木もいつか登れるようになれたらいいな……)
この辺りでは一番の大きな木を見ながらアドエルはそんな憧れを抱いていた。この木の上から見える景色はどんなものだろうか。この森の向こうの世界が見えたりするのだろうか。アドエルは外の世界にとても興味があった。
(まぁ見えるのはきっと”森”なんだろうけどね)
いつか大きくなったら外の世界に行ってみたい。こんな話を父さんや母さんにすると、少し寂しい顔をするが応援してくれる。村のみんなも特に外の世界に行くことを反対する人はいない。ただ、応援してくれる誰もがどこか複雑そうな表情をする。
というのも、今村にいる人は、誰も森の外には行ったことがない。だから、そもそもどちらに行けば森の外に出られるのか、別の村はどこにあるのかといった事を誰も知らない。応援はしているが、支援する術がなく非常に歯がゆい状況だった。
これまでも何人かの大人達が村を出て行ったことがあった。その度に村人全員で盛大に送り出したものだが、その後帰ってきた者は無く、その後を知る者も無い。
もちろん子が村を出ることを親や村人達が心配しないはずもない。森には魔獣がいるため、送り出すということがどれだけ危険な行為であるのかということは誰もが把握している。しかし、『このままこの村で暮らしを続けることだけが幸せなのであろうか?』という疑問はすべての村人に共通するところであり、できる限りの支援をし、送り出すこととされていた。
その日の夕食時、アドエルの家では嬉しい報告で盛り上がっていた。
「父さん! 今日の狩りはどうだった?」
「今日は絶好調だったぞ! イノシシ5頭なんていつぶりだろうか! ガハハハ」
「5頭も!?じゃあ明日は焼肉食べれる!?」
「あぁもちろんだとも! 干し肉にする分除いてもそこそこ余裕あるだろうからな。今日の狩りは狩るよりも獲物を持ち帰る方が大変だったぜ! ガハハハ」
「お陰で今日は皮を剥ぐのも一苦労だったわ。ありがとう」
大変だったであろうに母さんもとても嬉しそうだ。同行したカミアにとっては初めての大物で、今日はとても興奮していたと父さんは話してくれた。
夕食を済ますと湯で体を拭い、直ぐに床につく。夜に灯りをつけていると獣は寄ってこないが、魔獣は寄ってくることがあるため、村では早くに灯りを消す。こうして村での一日は過ぎてゆく。退屈を感じる事もあるが暖かい日々。しかし、突如としてその温もりは失われることとなった。
――――――――――――
「おい! 起きろアドエル! 起きろ!」
(もう朝かな……? いやでも眠い……)
「アドエル! アドエル! 早く起きるんだ!」
目を覚ますと焦ったような父さんの顔がのぞき込んでいた。
「う~ん……どうしたの? まだ夜だよ」
「いいか、よく聞け。今村が何者かに襲われている。お前は逃げろ」
寝ぼけた頭に父さんの声が突き刺さった。あまりに唐突で、言葉に現実味が無い。
「俺と母さんはカミア達を逃がしに行く。お前は先に森に逃げ込め」
「も、森!? 森には魔獣がいるよ!?」
「そうだ。だがこの村に逃げ隠れできる場所はない。魔獣がいるから奴らも森へは追ってこないだろう。確かに森は危険だが川沿いに逃げれば少しは安全だ!」
夜の森に少しでも安全があるとは思えなかったが、それ以上に今の村は危険だという事なのだろうか。
「もちろん絶対に安全ということはない。魔獣には気をつけろ。絶対に戦おうとするなよ。逃げるんだ。朝までだったら木の上にでも隠れていればやり過ごせるはずだ。とにかく今はできる限り村から離れるんだ」
「父さん達はどうするの?」
「カミアとリーディを見つけたら母さんと一緒にお前の所まで行く。必ず行く! 必ず行くから、お前は絶対に村に戻ってきたらダメだぞ。絶対にだ!」
そこまで村から遠ざける理由はいったい何なのか。アドエルには想像もできなかった。
「もしかしたら数日は合流できないかもしれない。それでもお前はできるだけ森の奥へと逃げ続けるんだ。俺たちの方が歩くのは早いだろうから、川沿いを進んでいればいつかは合流できるだろう。それまではできるだけ遠くへ逃げろ」
父さんと母さんの表情から、二人はとても真剣なのだろうということはわかった。それでも現実味がない。いったい何があったのか。何も考えることができなかった。
「時間が無い。すぐに出ろ。灯りはダメだから月明りで行け。足音には気を付けろよ」
「アドエル。絶対に迎えに行くから、遠くへ逃げるのよ」
母さんのこんな悲しそうな顔見たことなかった。
「……わ、わかった。絶対に迎えに来てね! 僕は川沿いに逃げるから」
もう何がなんだかよくわからず、半ばパニック状態でアドエルは家を出た。いつもであれば夜に灯りをつけている家は無いはずだが、家の外は明るかった。いくつかの家から炎があがり、村の入り口の方では何やら騒ぎが起こっている。まだ寝ぼけているのか、パニックになっているのか、イマイチ視点が定まらないままアドエルは森に向かって走った。
村の防壁にはいくつかの抜け穴があり、アドエルはその一つから村の外に出た。森へはいつも遊びに行っているが、夜の森は初めてだ。魔獣が怖い。出逢えば確実に喰い殺されてしまう。それでも走るしかない。父さんと母さんのあんな必死な表情は見たことがない。状況はまったくわからないが、とにかく走って逃げなければ。
(カミア兄ちゃん達は大丈夫だったかな……父さんや母さんは……)
――――――――――――
しばらく走っていると少しずつ冷静になってきた。森は暗かったがそれ以外はいつもの森で、ここまでは特に危険を感じることはなかった。しかし、ここから先はアドエルにとっては未開の地。これ以上奥には足を踏み入れたことがない。
川沿いの景色はそこまで大きく変わることはないが、行ったことがないというだけでこれ程怖いものなのだろうか。
(どこまで逃げればいいんだろう……)
父さんは出来るだけ村から離れるように言っていた。村にいったい何が起こったのだろう。
走りっぱなしで息が苦しい。
父さん達が心配だ。
暗い森が怖い。
魔獣が怖い。
様々な感情が頭に溢れてくる。
自分でも何をしたいのかよくわからない状況で、体を動かすのは父さんの『遠くに逃げろ』という言葉だけであった。
さらに森の奥へと逃げ込んだアドエルは、ここで少し身を隠すことにした。幸いにも魔獣に出会うことはなかったが、それでも恐怖心は絶えずアドエルの心を蝕んでいた。真夜中の森で一人きり。それを実感したとき、前に進む勇気が恐怖心に負けた。
(できるだけ高い木の上に登らないと……)
獣は大きくても熊が2m程度だが、魔獣の大きさは様々だ。見たことはないが、父さんが言うには5mを超す大きな魔獣もいるらしい。それを考えれば10m登ったところで絶対に安全とは考えるのは危険だが、とりあえず可能な限り高く登った。木の上の方は幹が細くなるが枝が多いため意外と足場は安定する。
子供であるアドエルは体重も軽いため、枝に体重をかけても決して折れることはなかった。大人であればこうはいかなかっただろう。
出来るだけ高く木に登ってから、しばらくは辺りを見渡した。しかし、周りの木々が邪魔で村の方が見えるわけでもなく、木の周辺は木々に月明りを遮られ、暗くてよく見えない。そもそも無我夢中で川沿いを走ってきたため、村の方角といっても感覚的にしかわからない。
(多分、村はあっちかな。こんなに高く登っちゃったけど父さん達見つけてくれるかな……)
暗闇で目が慣れてきていたため、真っ暗と言うわけではないが、それでも木の上は川沿いの道よりは遥かに暗かった。しかし、その暗闇に恐怖は感じなかった。
自分を隠してくれているという妙な安心感。同じ暗闇でも状況が変われば、感じ方も変わるものだ。これまで怖かった暗闇だが、今ではもっと暗く、誰にも、何も見えなくなればいいと考えていた。
(父さん達が来たら僕が見つけないと……早く父さん達に会いたい。母さんは……兄ちゃんや姉ちゃんは無事かな……)
父さんやカミアはともかく、母さんとリーディはこの森を抜けてくるのはかなり大変だろう。どれくらい奥まで来たかはわからないが、一緒に逃げて来るとなればアドエルの元に辿り着くのはまだまだ先になるだろか。そうは思いつつも早く会いたいという願望と、もし見つけてもらえなかったら、という不安とで、心が安らぐことはなかった。
アドエルは暗闇を見つめ、風の音に耳を立て、息を殺して夜を過ごした。