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王なき国の春の凱歌  作者: 冬野 暉
Crest of the wild rose
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2.雪割草の瞳〈2〉

 部屋の外に出るのは、実に六日ぶりだ。

 ウァイオレッテによると、ここは代々のエーヴェヌルト家の当主が爵位を譲ったあとに移り住む別邸らしい。

 建物は両翼を広げた構造らしく、庭園に面した長い長い廊下には緋毛氈が敷かれ、嵌め殺しの大きな窓から燦々と陽射しが降り注いでいる。あちこちに飾られた絵画や美術品はとにかく華美で、さながら王族が暮らす城のようだ。

 案内されたのは、反対側の翼のいちばん奥まった区画だった。   

 思わず眉をしかめた。

 それまでの明るさが嘘のように薄暗く、空気がこもっている。昼間だというのに黄金の燭台に火が灯され、壁際に佇む侍女や従僕は亡霊のように薄気味悪い。

「こちらへ」

 声をひそめたウァイオレッテに導かれるまま通されたのは、夜の闇に置き去りにされた寝室だった。

 わずかな光源は、どっしりとした天蓋に覆われた寝台近くの燭火だけ。煙のように垂れこめた没薬(ミルラ)の香りにむせ返りそうだ。

 蜜蝋の灯りに照らされ、ひとりの男性が佇んでいた。

 ウァイオレッテよりも背の高い、錐のように尖った痩身の男性だった。暗がりに浮かぶ面長の顔立ちには老いが滲み、父よりも年嵩に思える。色素の淡い髪を後ろに撫でつけ、上流階級の紳士の平均的な装いを纏っていた。 

 剃刀じみた眸がわたしを見据える。

「その娘が、マリエン王女の血統だという令嬢か?」

 一礼したウァイオレッテが口を開くよりも早く、平坦な声がぴしゃりと問う。ウァイオレッテは優雅にほほ笑み、「そのとおりにございます、旦那様」と首肯した。

 では、この男性がエーヴェヌルト侯爵か。わたしはドレスの裾をつまみ、いかにもぎこちなく淑女の礼をしてみせた。

「はじめまして、侯爵閣下」

「名は?」

「ローゼリカと申します」

「歳は? 父母の名は? どこで生まれ育った?」

 矢継ぎ早に質問され、目が回りそうだ。わたしはうろ覚えの『台本』を思いだしながら、ひきつりそうな表情筋を総動員してしおらしい笑顔を作った。

「今年で十七になります。国軍の兵士だったらしい父はわたしが生まれる前に戦死してしまい、名前も顔もわかりません。母は城下で酌婦として働いていたミリーシアという娘で……わたしはかなりの難産で、産褥で命を落としたと聞いております。乳飲み子で孤児になった身の上を憐れんで、さる孤児院の院長夫妻が引き取ってくださり、養女として育ててくださいました」

「ほう。てっきり十四かそこらかと思ったのだが」

 実年齢よりも幼く見られることには慣れている。一歳年上に詐称しているとはいえ、堂々と指摘されると腹が立つ。

 内心が表情に出てしまったのか、エーヴェヌルト侯爵の片眉が跳ね上がった。慌てて目を伏せると、「ふむ」と思案する声が聞こえた。

「亡きマリエン王女は、淡い金髪に野葡萄色の瞳だったと聞いていたが……」

 すかさずウァイオレッテがたたみかける。

「旦那様、よくよくご覧になってくださいませ。ローゼリカ様の瞳は雪割草のごとき赤紫――先々代の国王陛下やその異母妹君(いもうとぎみ)であられたロナキア公妃殿下と同じ、古くから王家の血統にしばしば見られるしるし(・・・)にございます」

「……なるほど。先代も今上も、王冠は継げども瞳の色は御母堂譲り。おまけに雪灰色の髪とは、かつて〈氷中の華〉と美しさを称えられたロナキア公妃の白銀の髪を彷彿とさせる」

 顔を上げなさいと命じられ、おそるおそる視線を持ち上げる。エーヴェヌルト侯爵は、ゆるりとわたしを手招いた。

「わが父ならば、ロナキア公妃の御尊顔をよく憶えているはずだ。何しろ、かつては嫂だったのだから」

「え……」

「さあ、近くへ」

 拒むわけにもいかず、わたしはおずおずと寝台に近づいた。

 豪奢な刺繍があしらわれた緞子の帳の奥深く、水鳥の羽毛が詰まったクッションに埋もれて横たわっていたのは、枯れ木のように萎びた老人だった。

 髪がまばらに抜け落ち、皺と老斑にまみれた顔は痩せこけて、瞬きすらしているのかしていないのかわからないほど死体じみている。木のうろのように開いたままの口元からかすかな息遣いが聞こえるが、白濁した瞳はどこを見ているのか定かではない。

「父上はお目が悪い。なるべく近づいて、手を握ってさしあげなさい」

「は、はい」

 言われるがままに先代侯爵の手をそっと取る。骨張った手は冷たく、内側の皮膚は蝋のように滑らかだった。

 ぴくりと、たるんだ瞼が震えた。

 どんな色彩だったのかわからないほど褪せた瞳が揺れ動き、わたしを映す。

「…………――ィ、ラ?」

 隙間風が吹き抜けるような、か細い声が聞こえた。

「ご隠居さま?」

 老人はほんのわずかな力でわたしの手を握り返し「セイラ」とだれかを呼んだ。

 ぱたり、と手の甲に水滴が垂れた。先代侯爵の頬が波打つ皺の筋に沿って濡れている。

 息を呑んだわたしへ、先代侯爵は苦しげに咽びながらくり返した。すまない、すまない――と。

「セヴィエラ王女はもういらっしゃらないのですよ、父上」

 ぼそりと呟いたのは、エーヴェヌルト侯爵だった。

「公妃殿下は、ロナキア公に降嫁される以前、先々代のエーヴェヌルト侯爵――私の伯父と婚姻関係にあったのだ。しかし幾年経っても子どもに恵まれず、公妃殿下は伯父との婚姻を解消して王族に戻られ、爵位は伯父の弟である父が継いだ」

 戸惑うわたしを見つめ、エーヴェヌルト侯爵はふと笑んだ。思いがけない表情だった。

「よろしい。エーヴェヌルトのカレルの息子、ヨキアンの名に誓って、御身をトゥスタのローゼリカと認めましょう」

「旦那様、では――」

 口を開いたウァイオレッテは、エーヴェヌルト侯爵の鋭利な一瞥で押し黙った。

「ご苦労だったな、ウァイオレッテ。だが、ここまで(・・・・)だ」

「……それは、どういう意味でございますか?」

「見ればわかるだろう、父上はもう長くない。いや、常にそばにいたからこそ私へ報告しないでいたのか」

 他人のわたしが聞いていてもぞっとする内容だった。ウァイオレッテはたおやかな微笑を帯びたまま、エーヴェヌルト侯爵を見据えている。

「気難しい父上の面倒をよく見てくれていると思い、おまえに任せきりにしていたが――明日からはわたしのいる本邸で過ごしていただく。今日を以て、おまえに暇を出す」

「わたくしは、大旦那様の使用人にございます」

「わからぬか? これが最終通牒だ、レイシアの亡霊よ」

 悪魔の美貌が凍りついた。

 エーヴェヌルト侯爵は、まるで敵と斬り結ぶかのような声で告げた。

「よくぞ潜りこんだものだ。どのような手引きがあったかは知らぬが、疾く立ち去るがいい。王の猟犬に噛み殺されぬうちに」

 あるいは、すでに嗅ぎつけられているやもしれないが――続いた冷笑に、ウァイオレッテはドレスを翻した。

 靴音高く退出した悪魔を横目で追い、エーヴェヌルト侯爵が隅に控えた従僕へ短く命じる。

「捕らえずともよい。ただし、不穏な動きがあればすぐに『犬小屋』へ知らせよ」

「承知いたしました」

 一礼した従僕は影のように寝室をあとにした。

 いったい何が起こっているのか理解できずにいると、「ご無礼をお許しください」とエーヴェヌルト侯爵が深々と頭を下げた。

「あ、あの……?」

「いまはまだ、真実をお話しすることはできません。いずれ来るべきときに、あなたの兄君から直接明かされるでしょう。それまではどうか、私を……エーヴェヌルトの忠節を信じ、御身をお守りさせていただきたい」

 わたしの『兄』――実兄のことを指しているのだと、直感した。

「アレクにいさまを知っているんですか?」

 エーヴェヌルト侯爵は苦笑を滲ませた。

「よく存じておりますとも。祖父君のころより、あなたのお血筋とわが家は因縁深き仲でございました。祖父君ばかりでなく、父君、特に兄君には幾度となく煮え湯を飲まされたものです。そのたびに、わが倅であったならと思わずにはいられませんでした」

 どこか楽しげなエーヴェヌルト侯爵の言葉に、「はあ」と間抜けな返事をするしかなった。

 すべてに置き去りにされているわたしの手を握り、先代侯爵がささやいた。

「セイラ」

 過去を呼ぶ声に思わずにはいられない。

 ――わたしはだれ?

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