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王なき国の春の凱歌  作者: 冬野 暉
Crest of the wild rose
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1.仔猫姫の身の上〈1〉

 悪魔は美しく、その誘惑は蜂蜜のように甘い。

 子どものころ、初恋の少年からさんざん読み聞かせられた物語には悪魔と契約を交わした人間の末路がいくらでも描かれていたはずなのに、うっかり失念していた。まさしく後悔先に立たず。

 鉄格子に覆われた嵌め殺しの窓は、椅子を叩きつけても皹ひとつ入らなかった。

 わたしは無惨に散乱した椅子の残骸を見下ろし、ため息をついた。

「どれだけ頑丈なのよ……」

 高い天井まで伸びた大きな窓には、蔓薔薇を模した鉄格子がびっしりと張りめぐらされていた。燦々と陽射しを採りこむ窓硝子は研磨された水晶のようでありながら分厚く、叩きつけた椅子が粉砕される有り様だ。窓のむこうには、四階ぶんの高さにふさわしい広大な庭園の眺望。

 わたしは重苦しいドレスを引きずり、緞子の帳に囲われた寝台に倒れこんだ。

 生まれ育った孤児院の子ども部屋の何倍の広さがあるか検討もつかない、豪奢な部屋。

 青と金を基調とした、とにかく派手な内装である。卓や椅子、箪笥や化粧台に至るまで、真珠のような白磁に金の装飾が施されている。化粧台の上の宝石箱は色とりどりの装飾品で溢れ返り、備えつけの衣裳部屋にはずらりとドレスが詰めこめられていた。

「……眩暈がしそう」

 鈍く痛むこめかみを揉みほぐし、わたしはのろのろと起き上がった。

 化粧台の上に三枚並んだ、金細工の蔦が絡みつく鏡の中から、寝台に座りこんだ少女が途方に暮れた顔でこちらを見ていた。

 いつもは一本に編んで垂らしている、たっぷりと腰まで覆う灰白色の癖毛には、両耳の上で濃い葡萄色のリボンが結ばれている。十六にしては小柄で痩せっぽっちの体を包むリボンと同色のドレスは、青白い肌を際立たせるような黒の透かし編みにふちどられていた。

 天鵞絨(ベルベット)のチョーカーが巻きつく首は小枝のよう。その上の、顎の尖った卵型の顔も体つき同様に子どもっぽく、吊り目がちな赤紫の双眸で睨みつけると「今日も仔猫ちゃんはご機嫌斜めだな」と兄たちにからかわれたものだ。

 肩にかかる髪が煩わしく、わたしは乱暴に背中へ遣った。自分の体から立ち上る嗅ぎ慣れない香油の匂いに吐き気がする。

 この部屋に閉じこめられてから四日目。ただの町娘のはずのわたしは、まるで御伽噺の姫君にでもなったように着替えから湯浴みの一切を赤の他人によって行われている。

 大勢の面識のない女たちに取り囲われて裸に剥かれ、全身の隅々まで洗い立てられて香油を塗りこまれるのだ。二日目までは怒鳴り散らして全力で抵抗したが、数の暴力には敵わず、とうとう昨日は疲れ果てて物言わぬ人形になるしかなかった。

 ――きれいなリボンとドレスで飾り立てた、意思のない人形。

 ずるずると寝台に崩れ落ちる。

 悪魔がわたしに求めた対価は、あまりに聞き入れがたい内容だった。当然のように拒否した結果がこの監禁生活だ。

「……みんな、心配しているかな」

 家族のことを考えると、錐を突き立られたみたいに胸が痛んだ。この数年で病がちになり、いまも臥せっているはずの母。母の体調が思わしくなくなって以来、子どものように不安定になった父。孤児院から独立し、なかなか帰ってこない兄や姉。まだまだ手のかかる大勢の弟妹。

 母の、治療費が必要だったのだ。

 長く孤児院のかかりつけ医として懇意にしてくれている両親の友人は、母の治療には時間もお金もかかると難しい顔で教えてくれた。

 下町の医者をしながら爵位持ちの貴族として王城に仕えている変わり者の彼女ならば、紹介状一枚したためればすぐに王立の療養所に母を入院させる手筈を整えられるという。だが、母はけして首を縦に振らなかった。

 わたしがどんなに説得しても、母は、それどころか父すらも頷かなかった。母が倒れてから食事や睡眠すらままならないくせに、父は黙したまま目を伏せるばかりだった。

 両親の過去について、詳しくは知らない。

 母は孤児院育ちの町娘で、父は身分の高い名家――上流貴族の跡継ぎだったそうだ。いちどは母が父の許に嫁いだものの、出自を理由に離縁された。

 しかし、結局は父が家を捨てて母を追いかけてきた。わたしの実の兄である、幼い息子を跡継ぎとして差しだして。

 かつて冬至の祝祭に銀細工のペンとインク壺を贈ってくれたひとこそ、わたしの血のつながった兄なのだという。父に代わって家督を継いだ兄は、十七年前に隣国との間で起きた戦争でも騎士として活躍し、いまでは国王陛下の護衛官を任されるほど覚えめでたい地位にある。

 おそらく両親がこだわる理由は、兄への後ろめたさなのだろう。王候が高度な治療を受ける王立の療養所に入院すれば、間違いなく兄の世話を受けることになるからだ。

 あるいは、いちど断ち切った貴族社会のしがらみによって再び母が、あるいは父が傷つく事態に陥るかもしれない。

 もう家族を奪われるのはまっぴらだった。

 なんとか母の治療費を工面しようと奔走するわたしに手を差しのべたのは、美しい悪魔だった。

 いや、そのときは本当に天使か聖母のように思っていたのだ。労りと善意に満ちたやさしい言葉に救い主が現れたのだと。

 それこそが悪魔の罠だったのだ。

 ――リリン、と氷柱を叩くような音色が響いた。

 唯一の出入り口である両開きの扉の横に吊り下げられた玻璃の鈴がリリン、リリン、とさえずっている。訪問者の知らせに、頭痛がひどくなった気がした。

 重い解錠の音。

 軋みながら扉が開き、ひとりの女が裳裾を引いて入ってきた。

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