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王なき国の春の凱歌  作者: 冬野 暉
Crest of the wild rose
12/26

5.王城へ〈2〉

 身繕いを終えて屋根裏部屋に戻ると、イヌワシが窓辺に腕を組んで凭れかかっていた。

 ぴったりとしたシャツとズボンの上から鞣し革の胸当てと籠手、膝当てを着け、更に丈の短い外套(マント)を羽織っている。腰の両側には、長さのほぼ同じ二本の長剣。

 物珍しさにまじまじと見入っていると、視線に気づいたらしいイヌワシが振り向いた。

「よう。準備はでき……ッ!?」

 大きく息を吸いこみ、イヌワシは両目を見開いた。

「その髪、どうしたんだ!」

 動転した様子で駆け寄ってきた傭兵に、わたしはにっこりと笑ってみせた。

「あんがい様になっているでしょう?」

 小首を傾げてみせると、顎の下で切り揃えた髪がさらりと揺れる。煤けたような黒灰色は、なんだか昔に戻ったような気分だ。

 シリィさんへの『お願い』は、髪を切るための鋏を貸してほしいというものだった。「アタシでよければ切ってやるよ」という申し出に、ありがたくお任せしてしまった。

 イヌワシはなんともいえない表情で口を開けたり閉めたりしたあと、片手で顔を覆った。

「なに考えてるんだよ……」

「男の子のふりをするなら徹底的にしたほうがいいと思って。まさかウァイオレッテだって髪を切るとは考えないだろうし」

「当たり前だろ! そんな髪の女なんて罪人か尼さんだぞ!?」

 トゥスタを含む近隣諸国では、女性は髪を長く伸ばす慣習が根づいている。特に上流階級では、嫁入りを済ませたら高く結い上げる髪型が一般的だ。

 結えないほど短く髪を切るということは、社会的な女性性を放棄するに等しい。

 けれど、わたしを満たしているのは晴れ晴れとした解放感だった。

「髪なんてまた伸びるわ」

「……そういう問題じゃないだろ」

「そんな程度の問題よ。生きていればいくらでも髪は伸びる。いちど失っても、また取り戻せる」

 イヌワシは押し黙った。先生から依頼を引き受けた本人が理解できないはずがない。

 空色の瞳が痛ましそうに毛先をなぞる。やさしいひとなのだと言っていたシリィさんの台詞がよみがえった。

「あのね、傭兵さん。わたしはぜったいに生きて帰らなくちゃいけないの。ずっと待っているって約束したひとがいるから」

 イヌワシは小さく瞬いた。

「何年でも、そのひとがわたしたちの家に帰ってくるまで。もういちどかれに会えるなら、髪なんていくらでも切って捨てられるわ」

「……そんな男待ってたら、嫁に行けなくなるぞ」

 わたしは鼻を鳴らした。「嫁かず後家になる覚悟なんて、とっくにできているわよ」

 イヌワシは――くつりと喉を鳴らした。

 むっとして睨みつけると、驚くほどやわらかくほほ笑みかけられる。

 正面から向かい合うと、イヌワシは見上げるほどの長身だった。小柄なわたしは、イヌワシの胸のあたりにようやく頭が届くぐらい。

 大きな手が伸びて、わしわしと頭を撫でられる。

「死ぬような目になんて遭わねぇよ」

 あんたは、俺が守るから。騎士の宣誓ごとく、傭兵は厳かに呟いた。

 胸に迫るような切ない表情に、わたしは思わず目を伏せて頷いた。

 イヌワシとわたしはシリィさんに見送られ、朝ぼらけにまどろむ影の町をあとにした。

「いいかい。困ったときは、すぐにアタシを頼るんだよ」

 シリィさんは真摯な顔つきで念を押すと、不意に涙ぐんでイヌワシを抱き寄せた。

「どうか坊やは、アタシより先に死なないでおくれよ」

「……わかってるよ、姐さん」

 イヌワシは伏し目がちに苦笑し、シリィさんの背中をやさしく撫でさすった。

 元気でと短く告げたイヌワシに、シリィさんは震えながら頷いた。名残惜しげに抱擁を解いたかと思えば、両の手でぎゅっとわたしの手を押し包んだ。

「あんたも、くれぐれも気をつけるんだよ」

「ありがとうございます。いろいろとお世話になりました」

「あんたの行く先に、平らかな道が続いていますように」

 シリィさんのてのひらは温かかった。

 わたしは彼女の手の甲にもう一方の手を重ね、美しいはしばみ色の瞳にほほ笑んだ。

「いってきます」

 夜明けの空は澄み渡り、淑女の裳裾のように翻る藍色の下方から淡青の光が滲みだしていた。

 王都の空は、こんなにも明るくてきれいだっただろうか。

「どうかしたか?」

 隣を歩いていたイヌワシが尋ねてくる。わたしは首を横に振った。「なんでもないの」

「ただ……空が、とてもきれいだと思って」

「――ああ」

 イヌワシは、東の空と同じ色の眸を細めた。

「そうだな。俺が見てきたどの国の空より、トゥスタの空はきれいだ」

 ふと、目の前の若者はどこから来たのだろうかと思った。たった十一で剣を手にして生きていくことを選んだというこのひとは。

「いままでずっと外つ国にいたの?」

「前の戦争でレイシアを併合してから、トゥスタは平和そのものだからな。カウロ……養父(オヤジ)が死ぬ何年か前からは、北の――グルジールのあたりにいたよ」

 属領地(レイシア)の北部に接する隣国グルジールは、つい二年前まで内戦状態にあった。先王が急死し、世継ぎが決まらず争いにまで発展したのだ。

 結局、先王の庶子が諸侯の支持を得て新王として立ったと噂で聞いたことがある。

「グルジールの内戦に?」

「ああ。カウロが深傷を負って寝たきりになっちまって、一年ぐらい知り合いの世話になってた。カウロが死んで、傭兵団のやつらはそのままグルジールに残って……俺だけトゥスタに戻ってきたんだ」

 育て親の死を語るイヌワシの横顔は淡々としていた。明けの空を見つめる瞳は穏やかなほど凪いでいて、底に沈んだ感情を窺い知ることは難しかった。

「最初から、そういう契約だったんだ。カウロが傭兵稼業から足を洗うか死ぬかしたら、俺はトゥスタに戻るって」

「契約?」

「カウロと、俺の雇い主とのあいだの。カウロが俺を引き取ったのは依頼(しごと)だったからだよ。俺をけして死なせず、『傭兵』として育てるって」

 イヌワシの雇い主――ユーリ先生、それともユリエル王妃と呼べばいいのだろうか? そもそも、イヌワシと彼女はどういう関係なのだ?

「ねえ、イヌワシ。あなたは、先生の……何?」

 淡青のまなざしがちらりと振り返る。

「知りたがりだな、仔猫姫は」

「真実を解き明かすべきは『いま』じゃないから教えてもらえない?」

「……そうだな。それに俺は雇われの身だから、依頼人に対する守秘義務がある」

 つまり、イヌワシと彼女の関係性は今回の依頼にも関わる要素だということだ。おそらく仕事を遂行するまで――わたしを先生の許へ送り届けるまで、真実をつまびらかにするつもりはないのだろう。

 あるいは、はじめてまみえる先生の口から、わたしの知らないすべてを語られるのだろうか。

「でも」イヌワシはぼそりと呟いた。「ひとつ確かなのは、俺はあのひとに恩があるってことだ」

「恩?」

「ガキのころ、あのひとと……あのひとの亭主に助けてもらった。きっと一生かけても返しきれない、でかい恩だ」

 先生の夫、わたしの兄。この国の、王であるというひと。

 幼いころ、絵姿で目にした国王夫妻を思い起こす。 

 獅子の鬣のように豊かな黒髪の男性と、傍らでたおやかにほほ笑む栗毛の女性。けれどその容貌(かお)は曖昧で、はっきりと浮かんでこない。

 その事実が、途端に寂しく、悲しく胸に突き刺さった。

「どんなひと?」

「え?」

「わた……ぼくのにいさまはどんなひとなのかなって。先生とはずっと手紙のやりとりをしてたけど、にいさまからは冬至の祝祭の贈り物を貰ったことしかないから」

 男装であることを思いだし、初恋のかれの口調を真似してみる。

 兄は父に似ているのだろうか。それとも母に似ているのだろうか。

 わたしをなんと呼ぶのだろうか。

「やさしいひとだよ」

 くしゃりと頭を撫でられた。

「面倒見がよくて、朗らかで、笑うとすごく安心できるひとだった。カウロにも負けない剣士のくせに料理好きで、よく甘い菓子を焼いて食べさせてくれた」

「ふふ……なあに、それ」

 思わず笑うと、つられたイヌワシもおかしそうに笑っていた。朗らかに、内側から陽が射すような顔で。

 甘えるように伸ばした手を、イヌワシはしっかりと握り返してくれた。

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