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王なき国の春の凱歌  作者: 冬野 暉
Crest of the wild rose
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5.王城へ〈1〉

 数日ぶりに口にした食事は腹の奥に深く染みた。

 中身が半分に減った籠を返すと、シリィさんは嬉しそうに喜んでくれた。「よかったよ。坊やの顔を見て安心できたんだね」という台詞には、頬がひきつりそうになりながら笑うしかなかったが。

 明くる日。まだ夜の緞帳(カーテン)が上がりきらないうちに、シリィさんに連れられて屋根裏部屋を脱けだした。

 急勾配の狭い階段を下りて向かったのは、娼婦たちが体を清める沐浴室だった。

 目隠しの垂れ布をまくると、湯船代わりの盥や手桶が並べられていた。シリィさんは薬缶で盥に湯を注ぎ、着替えと手拭い、それから小さな油紙の包みと櫛を差しだした。

「陽が昇ったら姐さんたちが下りてきちまうから、その前に支度を済ませるんだよ。お嬢さん、染め粉を使ったことはあるかい?」

「いいえ」

「イヌワシが、あんたの髪は珍しくて目立つからこれで染めるようにってさ。染め粉は湯に溶いて、櫛につけて髪を梳かすんだよ」

 わたしは口を引き結んで頷いた。

 街に出るとなれば変装は必須だろう。渡された着替えは男物だ。『灰白色の髪に赤紫の瞳の少女』では、特徴的すぎて人目を引く。

 頭を動かした拍子にほどけたままの髪が頬に落ちた。汚れがこびりついてごわごわと固まった感触が不快で仕方なく、怒りに似た衝動がこみ上げる。

 ――かれは、わたしの白けた髪を「雪の妖精みたいだ」と褒めてくれた。

 けして楽とはいえない暮らしの中でも、かれと再会したときにきれいだと言ってもらえるように髪の手入れは怠らずに続けてきた。その想いごと、わたしは悪魔によって踏みにじられたのだ。

 これ以上『わたし』を奪われてなるものか。

「ぜったいに生きてやる」

 口の中で呟き、わたしは真っ向からシリィさんを見据えた。

「シリィさん。お願いがあるんです」

「なんだい?」

 シリィさんはわたしの『お願い』に眉をひそめ、「そこまでする必要があるのかい?」と当然のように反対した。

「あります」

 わたしは力をこめて言いきった。

「わたしには、わたしの意思で戦いに行くという証が必要なんです」

 シリィさんは小さく瞬き、くしゃりと笑った。「とんだ『お嬢さん』だねぇ」

「でも、イヌワシにはあんたみたいな娘さんがお似合いだ。あんたなら、きっとあの子をこっちに(・・・・)つなぎ止めてくれる」

「こっち……?」

「傭兵なんて聞こえはいいが、実際にゃ戦場で死人に追い剥ぎするようなやつばかりさ。『戦争屋』や『屍肉喰らい』なんて揶揄される連中が、真っ当な人間だと思うかい?」

 はしばみ色の瞳が物憂く俯く。獣と呼ばれたやつもいるんだよ、と寂しげにささやいて。

「坊やはね、傭兵なんてなるべきじゃなかったんだ。アタシはあの子が十一のときから知ってるけど、やさしくて、頭がよくて……かちかちの黒パンをナイフとフォークで切り分けようとするような坊っちゃんだったんだよ」

 思わぬイヌワシの過去に、わたしは口をつぐんだ。

 会話が商売道具の娼婦らしく、シリィさんは感傷たっぷりに語った。

「戦災孤児で、食うに困って傭兵団の門を叩いたって言ってたけど、もっと別の理由(わけ)があったんじゃないかね。あれこれ訊いても、鴉のやつは教えてくれなかったけど」

「カラス?」

「〈大鴉〉のカウロ・ジェーダ=マルカス。坊やをいっぱしの傭兵に育てた、傭兵団の首領だよ。まあその、アタシの昔の男で……いつか落籍してやるから待ってろなんて言ってたくせに、さっさとくたばっちまったろくでなしさ」

 シリィさんはわざとらしく鼻を鳴らし、「耄碌親父が無茶するからだよ」と言った。

 イヌワシとシリィさんの関係性にも得心が行った。坊やというからかうような呼称は、母親代わりの慈しみそのものなのだ。

「一年前にカウロがおっ()んで、次の首領がだれになるかで傭兵団は仲間割れ。カウロの秘蔵っ子だったイヌワシを後釜に据えようって連中もいたみたいだけど、あの子はカウロの遺言で傭兵団を離れてトゥスタに帰ってきたんだ」

 養い親の遺言について、イヌワシは詳しく語らなかったらしい。ただ、傭兵として必ずやり遂げなければならない仕事を任されたのだと。

 シリィさんには、私娼窟から抜けだして新しい生活をはじめるのにじゅうぶんな『身代金』が用意されていたという。その全額を娼婦の私生児が預けられる養護院に寄付し、彼女は娼婦たちの世話役として働き続けている。

「こうなりゃ意地さ。男の目論見どおりになるなんて娼婦の名折れだろう? せいぜい名うての遣手婆になって、地獄でろくでなしに会ったらたんまり貯めこんだ手切れ金を叩きつけてやるさ」

 からりと笑うシリィさんの声に翳りはなかった。この世の悲しみを味わい尽くし、それでも生きて死ぬ場所を選んだ人間のしなやかな根強さが滲んでいた。

 明るいはしばみ色の瞳に、亡きひとへの情愛を凋れぬ泉のように湛えて。

「……さ、湿っぽい昔話はそろそろしまいだ。せっかくの湯が冷めちまうからね」

 シリィさんは手を叩くと、『お願い』のための準備をしてくるからと布のむこうに消えた。

 わたしはそっと息を吐きだし、ショールを外してドレスを脱いだ。

 裸になって盥の中にしゃがみこむ。熱い湯はやわらかく、肌をこするとあっという間に濁った。

 シリィさんからの心遣いで分けてもらった貴重な石鹸を泡立て、頭から足先まで爪が食いこむほど強く洗った。何度か湯を入れ替えてようやく濁らなくなると、わたしは盥の底に座りこんだ。

 ぴちょん、と水の跳ねる音。

 薄ぼんやりと湯気が立ちこめた沐浴室は、白昼夢のようにどこか現実離れしていた。天井や壁に染みこんだ、仕事を終えた娼婦たちの気だるいおしゃべりの残響がいまにも聞こえてきそうだ。

 濡れてまとわりつく長い髪を両手で束ね、固く絞る。

 隠すもののない裸体は青白く、すっかり肉が削げ落ちて骨張って見えた。ほんのり膨らんだ胸の谷間から隆起した肋骨をたどり、薄くて平たい腹を撫ぜる。

 笑ってしまうほど貧相で脆弱な体だ。病に倒れる以前の母はふくよかな女性だったのに、体つきも似ていない。

 わたしは何者なのか。

 ……惑っても惑い足りない気持ちは、ここで洗い流してしまおう。

 泥濘でもがくような道のりでも、光を見失わないように。

「あなたに会いにいくわ、にいさん」

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