95.頼るべきだけど
そうしてやっと落ち着いたのは、日暮れも近くなってきた頃だった。
もう周りの農民たちはいそいそと撤収を始めている。ヤミーが麓の方で何か指示を出しているのが見えた。
落ち着いたか、と隣に座ったジークフリートに問われ、アルティーティはこくり、とうなずいた。地面に接したお尻が少し冷たいが、大泣きした後の彼女にはちょうど良く感じる。
もう15歳。貴族なら早い者だともう結婚している。そんな年齢の元貴族の女が畑の真ん中で大号泣は恥ずかしい。
でもどこか吹っ切れた気分だ。赤が差す畑が先ほどよりキラキラして見える。前から素晴らしい景色だったが、頬に触れる風も甘すぎる匂いも巣に帰る烏の声も、全てが少し変わっているように思えた。
洗いざらい彼に話したからだろうか。ネルローザに脅され、ジークフリートとの婚約を解消しろと言われたことを。
彼に話すかどうかは、かなり迷った。
それでも、どうしようもなく思ってしまったのだ。誰にもこの場所を取られたくないと。
本当は自分1人で解決しようと思った。しかし彼を頼らざるを得ないと感じたのはロンダルクの存在があった。ロンダルクは辺境伯だ。ストリウム家よりも上位にあたる。当然、騎士よりも上だ。しかも今のアルティーティには騎士爵すらない。いかにネルローザを説得しようと、ロンダルクが首を縦に振らなければ彼女らの計画が押し切られてしまう可能性があった。
(そういえばロンダルク……ガレンツェ辺境伯って元々わたしの婚約者だったって言ってたけど実感ないなぁ……覚えてないからかな)
昔会ったことがあるようだが、どうにも思い出せない。あの印象的な白髪の盲者が記憶に残らないほど幼い頃に出会っているのだろうか。
泣き腫らした目で現在の婚約者、ジークフリートを盗み見る。
眼下に広がる景色を眺める彼の横顔は整っていて、控えめに言っても美丈夫だ。夕陽に照らされて赤髪はいつもより少し淡く、瞳は逆にその煌めきの強さを増している。思わず見惚れるほどだ。
何もかも持っているような、雲の上の人。そんな人が何も持ってない自分の婚約者だなんて、などと以前は思っていた。
眉目秀麗、冷淡、天才、厳格……そんなゴテゴテに武装された修辞は、彼を遠くから見た人たちの評価だったのだろう。
それは近くで見れば見るほど全然違った。
努力家で、仄暗い過去を力に変える強さがある。頑固で怒ると怖いが、意外に面倒見も良く笑うとどこかホッとする。逃げ出そうとした自分に、「そばにいろ」だなんて言ってくる変な人ではあるが、嫌ではない。
今だって泣き止むまで待ってくれている。
何をするでもない。ただそばにいる。それだけなのに自然と心が落ち着いていく。
こんな人が、誰かに振り回されていいはずがない。もちろん自分にも。
イレーニアに対して感じた劣等感や、ウルオーラと対峙した時の正義感。それとはまた別の危惧をネルローザに感じていた。
(きっとあの子は諦めない。欲しいって言ったら絶対、わたしを消してでもやる)
そうして奪った後は飽きるまでいじり回し、興味を失えばゴミのようにあっさりと捨てる。
彼はそんな扱いを受けてはならない。そばにいると誓ったのだ。頼るべきではあるが、頼りきりじゃダメだ。
小さく拳を握ると、彼の赤い瞳と一瞬だけかち合い、慌てて見てないふりをした。
『……誰でもいいなんて言うな。安心しろ。俺は余所見しない。お前だけを見てる。俺のそばにいろ』
前に言われたセリフが不意に思い出され、アルティーティは真っ赤になった。
今の今まで忘れていたのにどうしてこう、二人っきりのタイミングで思い出すのか。
同時に、本当は元婚約者にしたかったのでは、と気づくと胸がズキリと痛む。
所詮は代わりだ。たまたま恩を感じていた少女が困っていたから手を差し伸べただけ。亡くなった元婚約者に義理立てし続ける彼の隠れ蓑として自分はちょうどよかっただけ。
だからあの言葉も本当は、元婚約者に向けられるはずのものだった。そうに違いない。
それは分かっているはずなのに胸の痛みは強い。強すぎて、枯れたはずの涙が滲んできた気さえする。
地平線に接しそうな夕日から、夜になりかけの冷たい風が吹いてくる。縮こまっていたアルティーティの手を、あたたかい何かが包んだ。それがジークフリートの手だと気づく前に、彼のポケットの中に誘われる。同じ隊服を着ているはずなのに、自分のポケットよりもあたたかく感じた。
「……少し冷えるな」
そう言うと、彼は固まるアルティーティに近づくように座り直した。
どうしよう。顔は見れない。出かけた涙も引っ込んだ。彼が何を思って手を繋いでいるのかも、寄り添っているのかもわからない。
魔物と対峙しても余裕で動けたのに、ただ彼に触れられているだけでこうなるなんて騎士の名折れだ。騎士として、なんて関係ないのかも知れない。ただ彼女は、女である前に騎士であり、常に騎士でなくてはならないと思い込んでいる。だからこそ、自分の身の内に渦巻く、彼によって巻き起こされる痛みや熱さを考えないようにしていたのだ。考えてしまえば囚われたように動けなくなってしまうから。
──だというのに、彼はお構いなしにそこに触れてくる。踏み込んできては居座る。まるで彼の昔からの居場所のように。
ずっと翻弄されっぱなしだ。だがそれがいつしか心地よいと感じてきたのはいつからだろうか。
目の前の熟れかけたイチゴを、アルティーティは赤い顔で凝視していた。
「……さっきの話だが……」
「はっ、はいぃっ!」
「そんなデカい声出さなくても聞こえる」
「す、すみません…………」
小さく肩をすくめると、「それはいいとして」と言うジークフリートの握る手が少し強くなったように思えた。
「俺に任せておけ、と言いたいところだが……少し、お前にも腹を括ってもらうことになるかもしれない」




