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94.わたしなんか

 アルティーティは青い顔をしていたのも忘れ、あっけに取られた。


 目の前には赤い顔をしたジークフリートがいる。握り過ぎたぐしゃぐしゃの赤髪に風がひとつ吹いた。


「…………だれが……?」


 思わずそう問うと、彼の顔がさらに赤くなったように感じた。


「だから……俺がだ」

「わたしを……?」

「さっきからそう言ってる」


 そう言うと彼はもう一度、「心配なんだ」とポツリとつぶやいた。その様はまるで捨てられた子犬だ。心にグッとくるものがある。


 いや、それ以上に彼の言葉が響いたというのもある。鬼上官で冷徹で厳しくて、尊敬している彼が心配だという。自分のことを。


 そんなこと、生きてきた中で言われたことがない。言ってくれる存在であろう肉親はなく、形式上の家族であるネルローザの口からは一番出てこないセリフだ。師匠も寡黙でそんなことを言うタイプではない。


 ただ面と向かって「心配だ」と言われただけだ。それなのに、アルティーティは胸に込み上げるものを感じる。たったひとことを他ならぬ彼が投げかけてくれたことが、言葉にならないほど嬉しかった。


 しかし彼にはそれが絶句だと捉えられてしまったらしい。少しバツの悪い顔をしたジークフリートは、肩をすくめた。


「……悪いか」

「そ、そんなこと、え、わ、わわ、わたしなんか」

「なんか、じゃない」


 強い口調で首を振る彼に、アルティーティは小さく「え?」と聞き返す。分厚い前髪がなければ、夕日を受けて煌めく彼の赤眼に吸い込まれそうだ。


「お前は、お前『なんか』じゃない。少なくとも、俺にとっては」


 赤の瞳が近づく。アルティーティの髪に手が触れ、とろりとしたワインレッドの瞳が露わにされた。

 普段なら反射的に身を翻してしまうのに、なぜだろう。彼にこうされるのは気恥ずかしいのに、自然で、当然の行為で、逃げることなど考えも及ばなくなる。


「……お前は大事だ。だから心配くらいさせてくれ」


 いつものように片眉を下げた笑みを浮かべた彼は、どこか切羽詰まっている様に見える。まるでこれ以上言葉にしたらいけないと自制するような気配さえする。


 彼の醸す雰囲気に飲まれたのだろうか。アルティーティの声は震えた。


「………………んですか?」

「ん?」

「…………ホントに、いいんですか? 迷惑かけるかも、ううん、絶対迷惑かけますよ?」


 本当に言いたいことはそんなことじゃない。こんな試すような言葉は卑怯だ。


 そうわかっていても、アルティーティに植え付けられた猜疑心は止められない。


 本当に? なんで? 自分など何の価値もないのに。


『マジョなんかいないほうがいいって。そしたらみんな、シアワセになれるって』。


 嘲笑うようなネルローザの声が浮かび、一瞬呼吸が止まった。そうだった。心配なんかさせちゃダメだ。関わったら不幸になってしまう。


 首を振ったふりをして、前髪を直す。赤紫色の瞳を隠すためだ。これでいつも通りだ。精一杯の拒絶だ。


 だというのに、ジークフリートの指先が丁寧に差し込まれる。


「ああ」

「……多分、すごく面倒臭いですよ?」

「知ってる」

「わたし、足ばっかり引っ張って、この間も倒れて……」

「そんなのいい」

「よくないですよだってわたし、わたしなんていない方が……」

「アルト」


 視線を外しかけたアルティーティを咎めるように、ジークフリートの両手が頬を挟む。乱れた赤髪が立ちのぼる炎のようで、眩しすぎて直視できない。だが逃れることもできない。


 ただ笑っていればよかった。明るく、暗いこと一つ考えなければなんとかなった。笑顔を貼り付ければみな、痛いところまで踏み込んでこなかった。そうすればこんな汚い感情も不安も恐怖も、誰にも、もちろん自分にも悟られずに済んだ。


 なのに目の前の彼はそれを剥がそうとしてくる。立ち向かってくる。


 じんわりと頬を熱が伝わる。ゆっくり氷を溶かすようなそれは、彼に暴かれる恐ろしさを少し和らげた。


 ジークフリートはそれでも足りない、と言いたげに額を彼女のそこに触れさせた。


「大丈夫だ。お前はよくやってる。騎士団だって入れた。仲間にも腕が認められてる。いない方がいいなんて誰も思ってない。お前の……努力で、力で、お前が自分で見つけた場所だ。俺の許可も、誰の許可もいらない。思う存分居座れ。居座り続けろ」


 幼な子に言い聞かせるような彼の口調が、耳を通して胸に染み渡る。


 居場所なんてないと思っていた。とっくの昔に失ったと。


 それがあるという。


 思わず何かが溢れそうになり、アルティーティは唇を引き締めた。


 ひとりでなんとかするのだ。師匠からもそう教わった。そうやってやってきた。ずっとだ。そのやり方しか知らない。

 

 聞こえないように深呼吸をひとつしつつ、笑い声を上げてみせる。


「あ、あはは…………居座れ、なんて、もう、人を図太いみたいに……何言ってるんですか、たいちょ…………」


 自分ではうまく笑っているつもりだった。だがそうではなかったらしい。


 微かに目を見開いたジークフリートは、麦わら帽子をアルティーティの頭にかぶせた。不意に押し付けられたその反動で地面が見える。ぽたり、と何かが落ちた。


「アルティーティ」


 あれ? と思う間もなくジークフリートが優しく呼びかけてくる。アルト、ではなくアルティーティと呼ぶなんて、誰か聞いてたらどうするんですか。そんな生意気な言葉も出せなくなるほど、アルティーティは声を噛み殺して泣いていた。


 何故だかわからない。こんなに号泣するのは初めてだ。止め方がわからない。

 次から次へと溢れ出る涙に戸惑いながら、ただどこかでその理由を理解している自分もいた。


「悪い……泣かせる気はなかった」

「ちが……っ……たいちょ……」


 しゃくりあげながら首を振ると、ぶかぶかの麦わら帽子がずれ落ちそうになる。

 せっかくジークフリートが気を利かせてくれた帽子だ。落とさないように、と慌ててつばをおさえるアルティーティの手に、ジークフリートのそれが重なった。


「アルティーティ」


 もう一度、ゆっくりと名前を口にする。言い聞かせるように、心なしか声に熱がこもったように聞こえる。


 力一杯握りしめたつばをほぐすように手を撫でられると、堪えようとした涙がまたひとつ、ふたつと流れ出てきた。


 分かっていた。もう限界だったのだ。


 何をしても咎める人はいないだろうこの地でさえ、ネルローザの影に怯えることに。

 消えたい、逃げたいと願うような、そんな小さな人間なのに、ただ優しさと感謝を向けられることに。


 ずっと逃げてきた。そうやってしか生きられなかった。今更相手と向き合おうにも、そんな勇気は全然持ち合わせていない。きっとネルローザだけじゃなく、師匠とすらうまく向き合えてなかった。


 今だって逃げ出したい。逃げなければ、と思う。しかしジークフリートの手や、時折かけられる「大丈夫だ」という声音が、自分が居ていい場所なのだと言ってくれているようで、走り出したい衝動がしぼんでいく。


 こんなにも逃げたかった自分に、彼は逃げずに向き合ってくれた。


『大事なのは声を上げること。助けてって』。


 ミニョルの言葉が不意に浮かぶ。助けて、なんて言っていいのだろうか。自分なんかが。『魔女の形見』なんかが。


 しゃくり上げすぎた喉が痛い。言わなきゃ、でも拒否されたら、と躊躇いがちに彼の手を握る。無骨な手だ。だが一番安心する。なぜだかわからないが受け入れてくれる気がする。

 この手に拒絶されたらどうしよう。振り払われたらと思うと怖い。背に張り付いた不安が、アルティーティの顔を伏せさせた。そのせいで、一瞬瞠目した彼の表情を見逃した。


「……お前はお前でいい。面倒でも何かができなくても、お前の居場所は無くならない」


 頭上からかけられる声は夕日よりもあたたかい。柔く握り返された手の感触と相まって、アルティーティの胸が熱くなる。顔を上げるよりも先に繋いだ手を引き寄せられた。


「そばにいろ」


 お前の居場所はここだ、とばかりに抱きしめられる。


 息も声も、泣いていたことすら忘れ、アルティーティは不意に包まれたぬくもりに一瞬体をこわばらせ、顔をうずめた。そうして理解した。


(わたし……隊長の……そばにいたい…………ネルローザにも……誰にも、取られたく、ない)


 もう逃げない。


 怖くても苦しくても、この人がいてくれる。


 途中、遠くで凧揚げに興じる子供の声が聞こえた。大人たちと思しき声も上がる。


 風を受けて高く自由に舞う凧はきっと美しいだろう。泣き過ぎて茹だったような頭でそう思った。

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