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92.懐かしの場所

 目的地にはあっという間に着いた。


 街道沿いの平野を駆け抜け、いくつか丘を越え、橋を渡る。


 普通なら半日はかかりそうな道程だったが、黒馬(クロエ)とジークフリートの白馬という駿馬たちはそれをものともしなかった。


 さすがに橋を渡る時は控えめだったが、それ以外は全速力だ。草原を駆けるクロエが生き生きとしているのがわかる。手綱を握る手にたてがみがそよぐ。くすぐったさに笑いかけた口元を、キュッとしめた。


 小高い丘を白馬で駆け上るジークフリートの背を、アルティーティは複雑な思いで見た。


 婚約破棄をしたいかしたくないかで言えば、したくない。


 だがしなければネルローザはアルティーティの正体を公表するだろう。彼女に慈悲の心はない。少なくとも、アルティーティにそれを向けてくれたことなどひとつもない。


 婚約破棄をすればジークフリートが騎士を辞めることはない。自分はロンダルクと結婚し、ジークフリートとネルローザは結ばれる。それが一番収まりがいい。


 ──そう思っていた。いや、思い込んでいた。


 しかし、ミニョルやアレスの言葉を聞いて別の方法があるのではと思い始めていた。その別の方法がなんなのか、具体的にどうしたらいいのかは見えない。


 彼らの言葉をもう一度考えてみる。


 交渉、はできない。ネルローザが応じてくれないだろう。

 報酬を釣り上げる、というのもしっくりこない。この場合報酬はロンダルクとの結婚だ。結婚はまだしも、辺境伯を報酬と言うのも変な話ではある。


 となると、逃げる。

 全てを捨てて、まだ何も成し遂げてないというのに。

 仮に逃げたとしても、彼女らはジークフリートを脅しにかかるだろう。最悪だ。誰も何も得はしない。


 それ以外の方法はまるで思いつかない。


 加えて、今までジークフリートにかけられた言葉や仕草の数々が思い出され、婚約破棄どころか声すらうまくかけられない。


 彼女の気持ちは未だ宙に浮いたまま、しかし心の奥底で根付いた恐怖が、『ネルローザの言う通りにしなければ』と囁き続けていた。


「着いたぞ。早く来い」


 馬上から降りた彼は、アルティーティに手招きをする。戸惑いながらも、彼に続いて丘を駆け登った。


「……ここって……!」


 彼の隣に立ったアルティーティは驚きの声を上げた。


 眼下に広がる一面の緑は、傾きかけた陽の光を浴びてキラキラと輝いている。よく見ると白い小さな花や、宝石のような赤い色がそこかしこに見えた。


 この風景、見覚えがある。


 たった数ヶ月、滞在したイチゴの一大産地。


(……イェレック……!)


 リンザー領イェレック──ジークフリートの兄ルーカスが治める領地であり、アルティーティが過去、訪れたことのある場所だった。


 それを今。なぜ。気づかなかった。ネルローザの件を考えすぎた。


 いや、そんなことよりクサクムシの被害があったはず。


 しかし眼下に広がるイチゴ畑は平穏そのものだ。被害どころか赤い粒の量からして豊作間違いなしだろう。


 ほっとしていいのか驚いていいのか、声を失ったアルティーティに、ジークフリートは一瞬ふっと笑いかける。


「その顔はなんでこんなところに連れてきたのか、ってところか?」

「は、はい……」

「そのうちわかる」


 そう言うと彼は手を振りだした。前方の誰かが同じように手を振り返している。

 しばらくすると、少し大柄でエプロンをつけた女性が、ふたりの幼い子供を引き連れ大股でやってきた。その笑顔はどこかで見たことがある気がする。


「待ってましたよ、坊ちゃん」

「坊ちゃんはやめてくれ」

「んじゃジークフリート様、よくおいでくださいました。そちらは、ええと、部下ですか?」

「ああ、そんなところだ」


 ジークフリートがうなずくと、女性はこちらを向いてにっこりと笑った。


「可愛い子だねぇ、ほら、アンタたちも挨拶しな」


 エプロンの両端から小さな顔を覗かせている男の子たちに、彼女は声をかける。

 隊服が珍しいのか、それともジークフリートが部下を連れているのが珍しいのか、恥ずかしそうな「……こんにちはー」が両端から聞こえ、そのかわいらしさに思わず笑みがこぼれた。


「アルト、こちらはパウマ枢機卿の奥方、ヤミー。この辺り一帯を取り仕切っている。後ろにいるのは孫のテリーとジャスだ」

「あ、あの枢機卿様の……!」


 そう言われてみれば孫たちにパウマの面影がある。笑顔を浮かべるヤミーもパウマに似た印象を受ける。夫婦は似る、というところだろうか。


 妙に納得したアルティーティに、ヤミーは小首をかしげる。


「うん? うちの人と知り合いかい?」

「あ、ああ、え、えーと、た、多分……?」

「教会で見たとかその辺かね? どうも、今日はよろしくね」

「は、はい……」


(……ん? よろしく、とは……?)


 同じくらい首をかしげたアルティーティの肩を、ヤミーはぽんぽんと叩いた。


「ジークフリート様と収穫、手伝ってくれるんだろ? さ、日没まで時間がないからね、キリキリ働いてもらおうか」

「は、はい……?」


 釈然としないまま、アルティーティはハサミとカゴを持たされイチゴ畑の中へと背を押された。


 整然と並んだその中に、熟れた大きなイチゴがルビーのように光る。どこにいても甘い香りが漂ってくる。まだ小さく白っぽいものが垂れ下がっているのも可愛らしい。

 遠目には、いくつかの麦わら帽子が緑と赤の間を動いては止まり動いては止まる。

 はしゃぐ子供の声が響き、雲が夕日を遮らないよう、ゆっくりと流れていく。


 それらがどこまでも、いつまでも広がっているように見えた。


(変わってない……ううん、前より農地が広くなってる?)


 以前滞在した時は丘いっぱいにイチゴ畑はなかった気がする。端から端まで往復してもせいぜい半刻。それが今見えている範囲だけでもざっと二時間ほどはかかりそうな広さだ。


 この広さならば、どこに誰がいてもきっと気づかない。


 ──誰にも。


 茎にハサミを入れつつそんなことを思っていると、


「手際がいいね」

「ひゃいっ!?」


 離れたところで作業していたはずが、いつの間にか横にいたヤミーに声をかけられ、変な声が出た。うっかりイチゴを落としかけ、慌てて両手でキャッチする。


 顔を上げると、あららとつぶやくヤミーの隣に苦笑気味のジークフリートがいた。


「ああ、ごめんよ、驚かせたね」

「い、いえ、こちらもボーッとしてたので……」

「毎年収穫のこの時期は人手不足でねぇ、ジークフリート様がこうやって手伝いに来てくれるんだよ。部下を連れてきたのは初めてだけど」

「そうなんですか」

「俺は大した戦力になってないがな」

「そんなことないよ。だってさ……」


 ヤミーが言いかけると、遮るように無邪気な声が下の方から聞こえてくる。


「じーくふりーとさま、あーそーぼー」

「あ、ずるいー! じーくふりーとさまは、おれとけんじゅつのけいこするんだい!」

「えーぼくとあそぶのがさきー」

「こらこら、両方やってやるからお前らケンカするな」

「やったー」


 嬉しそうなテリーとジャスの声を追いかけるように、ジークフリートは丘を下っていく。

 ヤミーはそれを手を振って見送った。


「……あんな感じで子供たちの相手してくれるからね、お貴族様なのにありがたいことだよ。ジークフリート様が来た後は、だいたい侯爵様が新しい農具をくれたりね。ホント、よく見てくれてる。他の領地じゃなかなかそこまで手は回してくれないよ」


 これとかね、とヤミーは手にしたハサミをチャキチャキと動かして見せる。


 たしかに、手入れの行き届いたハサミだ。夕日を受けて銀色に光っている。刃こぼれひとつない。

 見れば他の農民たちも同じようなハサミを手にしている。


 イチゴの収穫は本来、手でもぎ取っても支障はない。それをハサミで一つ一つ丁寧に収穫しているのは、そちらの方が商品価値が上がると考えたのだろう。

 考えるのは簡単だが、実際に農具としてこれだけの人数に支給するには金がかかる。


 それをやってのけるあたり、領地や領民のためを第一に考えてのことだと部外者のアルティーティでもわかる。


(だいぶ軽めの人だったけど、すごいなルーカス様って)


 すごい、といえばもう一人いる。子供たちと戯れているあの人だ。


「隊長、大人気ですね……」

「そりゃ国で一番強い騎士様だもの。男の子にとっちゃ憧れよ。おまけにあの顔で面倒見がいいときたら女衆も黙ってないからね。でも、うちの人からジークフリート様が結婚するって聞いて、そりゃもう驚いたよ! ほら、色々あって結婚しないかもって心配してたからねぇ。ほんとよかったよ!」


 ヤミーは手を動かすのもやめて興奮気味に続ける。


「おまけにそのお相手、この間のクサクムシをどうにかしてくれた人だって話じゃないか! おめでたい上に、この辺を救ってくれた女神みたいな人が結婚してくれるなんてほんともう、夢みたいだよ!」

「ヨ、ヨカッタデスネ……」

「でさ、その女神様にここらの農民はみんなも感謝してて、さっさと連れてこいってジークフリート様に催促しちゃったりしてさ。でもなかなかね、照れてるんかねぇ」

「へ、ヘェ~……」

「来てもらったらうちのイチゴたくさん食べてもらわないとね!」


 名前こそ出ないが、その女神様が自分のことだということはわかる。にっこりと笑うヤミーの顔を直視できない。

 イチゴをご馳走してもらえるのはいいが、実はわたしが女神です、なんて名乗り出るわけにもいかない。まして実は契約結婚で、などと言えるわけもない。

 どんな表情をしていいか分からず、アルティーティは「アハハ……」と乾いた笑い声を上げた。


 なんとなく漂う気まずさの中で、パチンパチン、とハサミの音だけがやけに響く。ハサミを入れ、ポトリと手の中に落ちるイチゴのツヤツヤなのにどこかざらりとした感触に集中する。


 ほどなくして、どこからかヤミーを呼ぶ声が聞こえてきた。


「はいはい、今行きますよー! ……来て早々悪いけどこのあたりの収穫、ひとりでできるかい?」

「はい、大丈夫です」

「じゃ、頼んだよ」


 笑顔で去っていくヤミーの後ろ姿に、アルティーティは少しホッと息をついた。


 イチゴ畑一帯を取り巻く幸せな空気。今までもこれからも、いつまでも続いていくだろう景色を拒むように胸が締め付けられる。そこかしこから生まれる笑い声にも後ろめたい思いだ。


 こんなにものどかで安らぎを感じるのに、逃げ出さなければならない焦りが生まれるのは。


 逃げたくなるのは。

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