89.初めての反抗
「取り替えっこ? どういうことですか?」
ロンダルクは首を小さく傾げて見せている。
「だってネリィはロンの婚約者候補でしょ? おねえ様がロンのところに戻るなら、ネリィは誰と結婚すればいいの? ロン様だって愛するおねえ様が戻ってくるんですもの。愛妾を抱えるなんてことはしたくないはず。それにジークフリート様は? ……って考えると、ネリィがジークフリート様と婚約し直す方がいいじゃない。おねえ様はロンと結婚して辺境伯夫人に、ネリィは騎士の妻としてジークフリート様を支える。全員ハッピーじゃない? ね? そうしましょ! 名案! ね?」
「ネリィ、それはまた大胆な案ですね」
(?! 何を言って……!?)
とんでもないことを興奮気味に話すネルローザに、ロンダルクは肯定も否定もせずに笑いかけている。期待するような愉しむような声色だ。
というより、出会ってからここまでずっと、彼の声音は変わらない。丁寧で落ち着いた響きがあるが、どこか相手の反応を一歩引いて楽しんでいるような口振りだ。
ネルローザが一番恐ろしいのはもちろんだが、それに合わせるような彼も正体のわからない恐ろしさがある。
彼女と彼が婚約を考えている者同士ということも驚きだが、こんなに簡単に破棄すると言い出した上に、嬉々として婚約者候補当人に言い渡すとはもはや空いた口が塞がらない。
そして当事者のひとりでもあるアルティーティのことは無視だ。
昔からだ。意思確認の必要すらない、いや意思すらないと思われている。逆らったことが一度もないからだ。
ネルローザや継母の言うことは絶対、逆らえばもっと酷い目に遭う。それを幼いうちに学習してしまったアルティーティに、反抗などという選択肢はない。そうでなければ塔の中に4年も閉じ込められてない。
婚約者候補の言質が取れたと受け取ったのか、嬉しそうにネルローザは両手を合わせた。
「決まりね! じゃあおねえ様、ジークフリート様と婚約破棄してね。できるだけ嫌味ったらしく、顔ももう見たくないってくらい酷いことたくさん言って。ね?」
「な……なんで……?」
さらに突拍子もないことを言い出したネルローザに思わず聞き返してしまった。
アルティーティとジークフリートの婚約式は、1ヶ月以内には行われるらしい。現状、正式には婚約はしていないが、今から解消するのは難しいことはアルティーティにもわかる。あり得ないと言ってもいい。その上嫌われるようにするなど意味がわからない。
ワインレッドの目を見開いたアルティーティを、はちみつ色の瞳が嘲るように暗く光った。
「あー、おねえ様は頭が悪いからわからないかぁ。おねえ様みたいな外見も中身も頭も悪い人と同情で結婚しようとしてくれた優しい人なんでしょ? きっと生半可なことじゃ婚約破棄してくれないもの。それに、傷心のジークフリート様を癒す天使のようなネリィと運命的に出会う、なんてとってもロマンチックじゃない? きっとその方が、ジークフリート様もネリィに夢中になってくれると思うの! ね? おねえ様にはロンがいるんだから、少しくらいネリィの恋、応援してくれない?」
ゆっくりと絡みつくようにネルローザは言う。
要は自分が気に入られるためにジークフリートをわざと傷つけろと言ってきているのだ。
彼への恋心を語るその口で、彼を傷つけろと言う。
アルティーティは、昔と変わらず自分勝手な言い分を押し付けてくる彼女の姿に言葉を失った。
ジークフリートは鬼上官だ。彼に厳しい言葉は何度もかけられた。「バカモノ!」「遅い!」「何やってるんだ!」なんて数えたらキリがないほどに。
しかしどんなに罵倒されても、それに傷ついたことはない。彼が新人騎士を思って言ってることを理解してるからだ。最初のうちは正直イライラしたこともあったが、彼と接するうちに分かったことがある。
不器用なのだ。
言葉も行動も不器用すぎてぶっきらぼうになってしまう。それに気づいたのは、彼が本当は人一倍優しく、誰も傷つかないように心を配っている人だと言うことがわかってきたからだ。
この間の瘴気討伐からもわかる。誰よりも速く誰よりも魔物を倒していたのは彼に他ならない。アルティーティが騎士でいられるのも彼の慈悲のおかげだ。感謝してもしきれない。
そしてそんな彼を形成しているのは、亡くなった元婚約者の存在が大きいということもまた、わかっている。
元婚約者のことを思うと、複雑で言い難い思いがある。彼が彼女を忘れられないのは仕方がない。彼女の死が彼を強くさせた、いや強くならざるを得なかったと思うと胸が苦しくなる。
そんな彼を、ネルローザの欲のために傷付けるなど──。
(……できるわけ、ない……!)
「わ……わたしには…………無理、です……そんなこと、できない……!」
なけなしの勇気とともに声を振り絞る。初めての抵抗だ。声はかすれ、ネルローザの反応が怖くて見れない。それでも声を上げられたのは、ジークフリートへの想いがまさったからだ。
そう、もう自分は貴族令嬢アルティーティ・ストリウムではない。ひとりの騎士、アルト・アングリフなのだ。あの家を追い出された時点で自分は新しい自分に生まれ変わったのだ。
ネルローザに命令も強制もされる謂れはない。
意志を示せるようになった自分が誇らしい──その誇りがまさか打ち砕かれるとは思ってもみなかった。
まさか拒否されるとは思ってなかったのか、ネルローザは目を大きく見開くと、
「…………ふぅん、そうなんだー……逆らうんだぁ……おねえ様のくせに」
と口の中で低くつぶやいた。暗く陰湿な響きを帯びたそれは、アルティーティの肩を震わせる。
ネルローザは口元の笑みを消し、彼女の顎を乱暴に掴むと顔を自分に向けさせた。
「ねぇ、おねえ様。ジークフリート様は本当のおねえ様を知ってるの? おねえ様を庇ったせいでおねえ様のママは死んだんでしょ? お父様もすごく悲しんでたけど、ママとネリィが慰めてやっと元気になったの。おねえ様のお世話が嫌で何人も使用人がやめていったわ。おねえ様に関わったらみーんな不幸になっちゃうの。それが本当のおねえ様。ジークフリート様には相応しくないわ」
「そんな……!」
「まだわからない? ジークフリート様はおねえ様が騎士で女だって知ってるんでしょ? じゃないとそんな格好して不吉な『魔女の形見』がウロウロできないもんね。前髪だってこんなに伸ばしてねぇ? ってことはさぁ……」
至近距離で睨め付けられ、アルティーティは声も出ない。嫌な汗が背筋を流れる。
「ネリィ、今度のお茶会でみんなに言っちゃってもいい? 『アーディル騎士団に女が紛れ込んでいる。ジークフリート様がその女を匿っている』って……」
あまりのことに呼吸の仕方すら忘れた。
そう、アルティーティは女性であり騎士なのだ。それ自体がジークフリートにとって急所になりかねない。一番効果的な脅しだ。そのことを今の今まで忘れていた。
(わたしの……わたしがいるせいで……隊長が……?)
手足が冷たい。震えている気がするが、それすら感じられない。外は陽気に満ちているはずなのに、カーテンを閉め切った馬車の中は暗く冷え冷えとしている。そのことに今更気づいた。
ひどく動揺するアルティーティにネルローザは声を出して笑った。
「ね? 困るよね。だってさ、騎士って女はなれないじゃない? きっとすぐに噂なんて広まっちゃうよね。おねえ様、また追い出されちゃうかも。ね、ジークフリート様もお堅いイメージ、崩れるだけで済めばいいけど……規則破ったらどうなっちゃうのかなぁ?」
ネルローザは愉しげに笑う。横に座るロンダルクは止めもせず、ただ成り行きを見守るのみだ。ここで口を出されても、きっと彼はネルローザの側に立つだろう。彼としては、ジークフリートに被害が及ぼうがアルティーティを手に入れられるのだから。
顔を背けたいのにネルローザの手がそうさせてくれない。
規律違反は最悪除隊もあり得る。アルティーティは追放だけで済むが、ずっと騎士として国に支えてきたジークフリートにとって除隊は、絶望感や屈辱を味わうことになるのではないか。場合によっては民衆の怒りも買うかもしれない。
目の前にはネルローザの顔があるはずなのに、ジークフリートが肩を落としている姿が見える気がした。
それもこれも全部、自分のせいだ。自分が騎士になりたいなどと夢を見たせいだ。自分が彼を巻き込んでしまった。
アルティーティは目を閉じた。目の前が黒く塗りつぶされていく。
契約結婚など受けるべきではなかったのだ。
「……お願い、します、それだけは……」
「うん。じゃあ、婚約破棄の件、お願いね! おねえ様頼りにしてるから、ちゃんとやってね!」
ネルローザはパッと手を離し、まるで汚いものにふれたかのようにハンカチで拭うとアルティーティに投げつけた。項垂れた頭にそれが当たったが、声を上げる勇気などとうに枯れ果ててしまっていた。




