86.白黒の夢
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見上げる視界いっぱいに広がる白黒の空。その視界の左右に入るふたつの影があった。
そのうちの右にいる顔が、白黒の空よりずっと近く、見下ろすように視界に入ってくる。小さなふくよかな手でその人の手を握り返すと、嬉しそうに彼女は笑った。
(かあさま……)
アルティーティは懐かしい母の姿に目頭が熱くなる。
艶やかな黒髪を風になびかせ、アルティーティと同じワインレッドの瞳は慈愛に満ちている。微笑を浮かべるその姿は、今にも消えてしまいそうに儚げだ。白黒の世界で瞳だけははっきりと色付き、まるで母子をつなぐ証明のように見えた。
かすみつつある記憶の中の、生前の母のままだ。
だからわかる。これは夢だと。
微笑みかけられる嬉しさと、現実には母はいないという虚しさが胸の内からあふれ出る。言葉にして母の名を呼びたいのに「あぅ、ゔー」と変な唸り声しか出ない。母が生きていた頃のように、アルティーティも幼児に戻ってしまったようだ。
ただこの夢がずっと続いてほしいと願うように、繋いだ手をぎゅう、と握りしめる。
アルティーティを挟んで逆にいるのは父だろうか。口元が笑っているが、それしか見えない。黒く塗りつぶされたその人は、どんな顔でどんな声だったかすら思い出せないのが少し悲しい。
家族3人で手を繋ぐ。ただこの時は幸せだった。それだけはわかる。
しばらくすると、不意に父が立ち止まった。何かを話しているが、声は聞き取れない。
父と母の視線の先に、アルティーティも目を向けると、ひとりの少年がこちらに歩み寄ってくるのが見えた。
(誰だろう……あの人)
白黒の世界の中で彼はひときわ真っ白だった。肌も、服も、まつ毛さえ白く見える。貴族の子息がよく着ている服でなければ、どこかの姫かと勘違いするほどの美貌だ。
その彼が、アルティーティの目線に合わせるべくゆっくりとしゃがみ込む。にっこりと笑顔を作る彼は近くで見ても美しい。どこかの村で読んだ物語の王子様みたいだ、と夢だと理解しているアルティーティは思った。
同時に母がぎゅっと手を引いた。思わず見上げると、固い表情で彼を見つめる母の顔がある。警戒しているのが声をかけずともわかった。
(かあさま……?)
「君がアルティーティですか?」
彼の問いにアルティーティも母も応じられない。ただ父の口元だけが、肯定しているように軽やかに動いているのは見えた。
しかし父の声など聞こえないのか、目の前の少年は一切父の方を見ない。アルティーティだけを見つめ、笑顔を崩さず手を伸ばしてくる。
「やっと見つけましたよ。私の大切な……」
──なぜだかはわからない。
母と父と手を繋いだままのアルティーティはこの時、その白い少年の手が震えるほど怖いと思い──。
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