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82.あの花は

 ぼんやりと感覚が戻ってくる。乾いた木の匂いと物騒な鉄と、嗅ぎ慣れた汗と香の匂い──自室だ。


 なぜここに、とうっすらと目を開けると、朝日が強く差し込み思わず顔を顰めた。


 頭痛の余波か、まだ頭がはっきりしない。額に手を当てると濡れ布巾がずるりと落ちた。


(ねつ……ある……?)


 ほわほわとぬるい水辺に浮くような感覚が身体中にある。流れていきそうな身体を繋ぎ止めるように、右手に何かが握られているのに今ごろ気づいた。


「…………!? ひぁ!」


 思わず変な声が出た。


 右手に繋がれていたのは手。もちろん自分の手ではない。無骨で、ところどころ豆の痕がある。その横には赤髪に整った──ジークフリートの顔があった。


 寝ていたらしい彼は小さく唸るとゆっくりその長いまつ毛を上げた。


「…………やっと気がついたか」

「…………ずっとそこにいたんですか?」


 お互い同時に話し始め、何を言ったか聞き取れず同時に眉を顰める。起きあがろうとする彼女を制すると、ジークフリートはおもむろに手を伸ばした。


(……う…………)


 額にひたり、と彼の手が当てられる。「まだ熱があるな」と寝起きの気だるげな声が色っぽい。よく悲鳴を上げなかったなと、アルティーティは濡れ布巾を乗せられ布団を整えられながら思った。


 聞けば森の中で倒れ、2日寝込んだらしい。アルティーティの正体がバレないよう、ジークフリートが看護してくれていたのだろう。目の下にうっすらクマが見て取れる。


 ということは、だ。


(……ずっと手、つないでねてた……?!)


 そのことに気づいたアルティーティは恥ずかしさに震えた。


 ジークフリートが率先して繋いだとは考えにくい。


 ならば自分からだ。寝ぼけて繋いでそのまま寝た。仕方なしにジークフリートもベッドサイドで座って寝た。それしかない。


 頭から湯気が出そうだ。熱が上がった気がするが、頭はとうにはっきりしていた。


「……すまなかった」

「なにがですか?! 手ですか?! すみません! 寝てました!」


 弾かれたように謝り倒すと、ジークフリートが眉を顰めた。


「手……? ちょっとよくわからんが、本当は調子が悪かったんだろう? 気づかず討伐に行かせてすまなかった」


(ええぇ……そっちでしたか……)


 手を繋いで寝ていたことは見事にスルーされ、アルティーティはさらに真っ赤になった顔を隠そうと布団に顔をうずめた。


 自分ばかり意識して恥ずかしい。


 きっと彼にとっては手を繋ぐくらいなんてことはないことなのだ。あの煌びやかな夜会もなんてことはない顔でそつなくこなしていたくらいだ。手を握るくらい、蚊に刺される程度の瑣末事だろう。


 ということは、あの夜の告白めいたあの言葉。『俺のそばにいろ』。


 あれだってきっと、彼にとっては普通のことで、手の甲の口づけもよくあること──なのか? 社交の常識なのかもしれない。


(貴族がみんなやってることなら、わたしにもやるよね。隊長だってみんなに……なんか胸がモヤモヤしてきた。熱のせいかな? それに何か忘れているような……?)


 アルティーティが首をひねっていると、「大丈夫か? まだ辛いのか?」とジークフリートが心配そうに覗き込んでくる。


 常識か非常識かは置いておいて、と彼女は首を振った。


「いえ、クロエが走るまではなんともなかったんですけど、花を見てたら急に頭痛がしたので……あ!」


 思い出した、と勢いよく起き上がった。


 その拍子に頭痛が小さく主張してきたが、そんなことに構っている暇はない。


 ()()を放置してはいけないのだ。


「花! あの花! 大変ですあの花は!」

「落ち着け。わかってる」


 必死に訴える彼女をジークフリートが宥める。

 強く痛んだ頭に手をやると、彼がゆっくりと体を寝かせてくれた。


 支える彼の手は優しい。少しだけ痛みがひいたように思える。


「……あれからミニョルたちに掘りに行かせた。根本から死体が出たそうだ」

「……やっぱり……」


(あの花は……死兆花だったんだ……)


 アルティーティの顔が曇る。


 『ある白花の根を飲むと死ぬ』。


 そう聞いたのはいつだったか。旅の途中のような、それとも旅に出る前のような、とにかく遠い昔だ。アルティーティ自身、夢で見るまで忘れていた遠い記憶。


 死兆花あるところ死体あり、と言われることから墓標花とも呼ばれている。


 最初は風邪症状、次に痺れや幻覚が起き、最終的には死に至る。


 大量摂取で即死も可能。昔は暗殺者御用達の毒薬だった。


 しかし死体から新たに花が咲き、死体の場所から死因まで特定できてしまうので、裏でもあまり取引されなくなったと師匠に教えてもらった。花には絶対に近づくな、とも。


 師匠はこうなることがわかっていたのかはわからない。


 近づいたら頭痛で倒れる、そんなことが昔あったのかもしれない。そうでなくても、死兆花のそばに『魔女の形見』がいたらあることないこと吹聴されるのは目に見えている。


 アルティーティは布団の裾をぎゅっと握り締めた。


「犯人は……わからないですよね……?」

「花の状態からして数年前に埋められたものだろうからな。まぁ被害者の身辺を洗えば何か出てくるだろうが」


「え? 被害者もうわかってるんですか?」

「ああ。といっても名前まではまだだ。あの花に寄生されたら腐らないからな。大昔のお偉いさんはわざと花毒を飲んで死後も身体が残るようにした、とかいうくらいだ」

「知らなかった……」

「まぁ、捜査の方は第8部隊あたりが引き継ぐことになるだろうが」


 ジークフリートが難しい顔で答える。


 第8部隊は遊撃部隊の次に特殊だ。国内に潜入した間者(スパイ)への対処が主な任務になる。そのため、不審死の調査も彼らの仕事だ。そこから間者につながる手がかりを得るためだ。


 そんな仕事内容のせいか、荒っぽい人間が多いとかなんとか。


 それより、とジークフリートは話を続ける。


「あの花を見たことあるのか?」


 低い声にずきり、と頭に痛みが走った。


 彼が期待する答えが、はいでもいいえでもないことはわかる。いつどこで見たのかが問題なのだ。


 しかし、見たことはあるがなんとも説明しがたい。そもそも記憶自体が曖昧だ。だが見たのはたしかだ。なんとか思い出さなければ。騎士なのだから。


 ズキズキと疼く頭痛をやわらげようとこめかみを押さえた。


「その…………見たことはあるんです、多分だいぶ昔に……でもどこで見たかは……すみません、思い出そうとすると頭が……」

「……わかった。嫌なことを聞いて悪かった。無理に思い出さなくていい」

「でも、もしわたしが見た花の遺体がまだ発見されてなかったら……!」

「もしそうだとしても、お前に無理させるわけにはいかん。熱もある。無理しなくていい。今日は寝ておけ」

「ま、祭りの用意だって」


「そんなものよりお前の方が大事だ」


 言い切られてぽかんと口が開いた。


 衝撃的すぎて全然わかってないのに「ワ、ワカリマシタ……」とカタコトで返すしかできない。


 騎士の鑑で任務の鬼の彼が、仕事をそんなもの、と言った上にお前の方が大事だと言うなんて。


 最近少し優しくなった気がしていたが、気のせいではない。確実に優しい。

 今までならなんとか思い出させようと詰問していただろうし、なんなら1日で治せとか無茶なことも言いそうだった。それがどうしたことか。


 熱のせいもあって顔の赤みが引かない。真っ直ぐ見つめられるのはどうも慣れない。居心地が悪く感じるのは、寝姿を晒してるからだろうか。それとも、何か別の理由だろうか。


 アルティーティは視線から逃れるように、まばらになった前髪を壁のごとく分厚く整えた。布団と前髪で鉄壁の防御だ。


「……あと、治ったらお前の訓練を少し増やす」


 顔のほとんどが見えない彼女に、やや呆れぎみの彼の声がする。


「増やす、とは?」

「魔法の訓練だ」


(マホウ…………魔法!?)


「え!?」


 思わず布団を剥いだ。


 魔法の訓練など生まれてこのかたしたことがない。士官学校でも座学でさわりを学んだ程度だ。


 それを稀有な魔法剣士であるジークフリート自ら教えるという。驚きと共に教えてもらいたいと胸が弾みだす。


 しかし、手放しには喜べない懸念が一つある。


「といっても、魔力操作訓練を重点的にやるくらいだ。大したことはない」

「いやでも、わ、わたしが魔法の訓練なんてやったら……女だってバレませんかね……?」

「バレるだろうな。男の格好で、訓練所でやるならば」


 当たり前だ、とばかりに彼はうなずく。


 甚大な魔力を持つのは『魔女の形見』の女性だけだ。男性はほぼゼロ。つまりそんな訓練を女人禁制の騎士団内でやればすぐバレる。聞くまでもない話だ。


「え、じゃぁ……?」

「秘密の特訓だ。なら場所も当然、秘密だ」


 そう言って彼は、だから早く寝て治せと目を瞑った。

続きはまた後日

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