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76.キレイ、とは

「眠れないのか?」


 いるはずのない人の声に、アルティーティはびくりと肩を震わせた。


 新居を経由して寮に戻ってきた頃には雨がぱらついていた。


 いつジークフリートの口から婚約破棄、いや、婚約内定破棄をされてもいいようにと、帰ってきてすぐに荷物をまとめ始めた。


 いつもジークフリートは遅い時間まで、隊長クラスに個別に与えられる執務室で仕事をしている。今日もそうだろう。夜会に出席したせいで仕事が溜まっているはずだ。帰ってくる前に荷造りをして、内定取り消しを言い渡され、退寮。


 顔を合わせるのも会話も最低限。それがアルティーティにとってもジークフリートにとってもいいはずだと考えた。でないと決心が鈍ってしまう。


(もし正体がバレたら、師匠が自分を探せって言ってたっけ。どこにいるかわからないけど、なんとかなるかなー……? でも雨がなぁ……)


 外を見れば本降りになってきた雨が、激しく窓を打ち付けている。思えばストリウム家を追放された日もこんな雨だった。


 ジークフリートはこの雨の中追い出すような鬼畜ではない、と思う、多分。だが決めた時に行動しなければ、きっと自分は彼に甘えてしまうだろう。ひととき甘えてしまえば、また捨てられた時に苦しい思いをする。それは嫌だ。


 アルティーティは暗い気持ちに引っ張られないよう一心に荷物を詰め込んでいた。


 消灯時間をとうに過ぎているせいか、雨の音だけが静かに聞こえる。


 そんな時に後ろから声をかけられれば、相手が誰でも驚きはするだろう。


 まして相手はまだ仕事中だろうと思っていたジークフリートで、これから退寮を言い渡される相手だ。分かっていても心の準備ができていない。


 アルティーティはゆっくりと振り向くと、雨で冷えた窓にへばりついた。


「……眠れないのか? それとも、家出でもするつもりか?」


 答えないアルティーティに、もう一度、今度は怪訝そうな声で聞いてきた。


 ロウソクのほのかな明かりがうっすらと、部屋の惨状を照らしている。大きく開いたクローゼット、ベッドに散らばった服、小さな鞄、個人持ちの弓矢一式、そして顔色の悪いアルティーティ。


 どう見ても夜逃げ途中だ。


「え、ええとこれは、あ、隊長、し、仕事は……?」

「仕事……? ああ……そうだったな。仕事はない。終わった。それで、これは?」


 顎をしゃくり、ジークフリートはゆっくりと彼女へ近づく。

 シャワーを浴びた後なのか、いつも上げられている前髪が下がり、より一層色気を醸している。真っ直ぐ見据える赤の瞳は誤魔化しが効かなさそうだ。


 窓の外から雨音混じりに遠雷が聞こえてきた気がする。


「え、えとこれは……」

「…………本当に家出するつもりだったのか?」


 口ごもるアルティーティに、ジークフリートは追求の手を緩めない。あっという間に距離を詰め、彼女を閉じ込めるように窓に片手をついた。


 至近距離で覗き込んでくる灼熱の、しかし冷えた瞳から思わず視線を外す。

 これから当主に反対されたからと婚約破棄と退寮を言い渡そうとする男だ。夜逃げされた方が好都合だろう。咎められる言われはない。むしろ荷造りを手伝って笑って出発を見送って欲しいくらいだ。


 だというのに、彼から一歩たりとも逃しはしないという圧を感じる。


(ど、どうしよ……なんか怒ってる……? いやでも、わたしがいなくなれば隊長は面倒がなくなるし……いいんだよ、ね?)


 アルティーティはぎこちなく彼を見上げ口を開いた。


「……は、はい。そのつもりでした」

「何故だ」


 食い気味に言葉をかぶせ、両手をアルティーティの顔の横についた彼を、薄暗闇の中じっと見つめる。眉間の皺はいつもほどくっきりとは刻まれていないが、その端正な顔には戸惑いの色が見える。


(もしかして……焦ってる?)


 あの冷静沈着冷徹無比で鬼の中の鬼の彼が、まさかそんなはずは。しかもこれからお断りする婚約者候補が自ら出ていこうというこの状況で、彼が焦る必要は皆無だ。


 表情の読み間違いだ。きっといきなり出て行こうとしたので驚いたのだろう。きちんと説明すればいいはずだ。


「なんか、やっぱり住む世界が違うなーって思って。ほら、隊長って女性からすごい人気じゃないですか。今日だってほら、色んな人から声かけられてたし。わたしみたいな人間とは不釣り合いじゃないかなぁーって」


 努めて明るく言うアルティーティに、ジークフリートは険しい視線を向けてくる。湿っぽいのは嫌だ。


「そんなものは気にするな」

「気にしますよ。ウルオーラ様にも侯爵家に相応しくないって言われましたし」

「ウル……誰だそれは」

「え、シュークリーム投げてきた人ですよ。覚えてないんですか?」

「名前は聞いてない。そうかあのシルヴァの」

「そうです、だから……」


 出ていきます、と彼の腕の包囲をくぐり抜けようとするも、逃すまいと肩に手をかけられた。


「シルヴァには抗議しておく。夜会荒らしをするような人間の言うことなど、誰も信じてない。頼む。気にするな」


 彼の手はやんわりと、しかししっかりとアルティーティの肩を握っている。先ほどからどうもおかしい。やはりどこか急いているような印象だ。


「はい……? いや、で、でも!」

「俺は……お前と住む世界が違うだなんて思っていない」

「隊長が思ってなくてもまわりが思ってるかもしれないじゃないですか!」

「そんな奴はいない!」

「なんで言い切れるんですか?」

「今日のお前は綺麗だった!」


 発せられた言葉に頭が真っ白になった。


(キレイ……キレイとは? ダレ? ナニ? ヒト?)


 真っ白な頭でなんとか言葉の意味を理解できた時には、顔どころか頭全部が茹でられたように熱くなっていた。その熱が全身に駆け巡り、あまりの熱さにアルティーティは堪らず小さく呻いた。


 綺麗。あの隊長が自分のことを、綺麗だと。


 背をあずけた窓の冷たさなど忘れ、熱源の頬に手を当てる。どくどくと脈打つ音に紛れて、遠雷がどこかへ行ってしまった気がした。


 しまったと弾かれたように下がり、口を抑えたジークフリートも、平静を装っているものの耳が真っ赤になっている。


「……いや、その……あれだ」

「わ、わかってます、きょうのドレスがですよねっ!」


 まだうまく働かない頭ではじき出した答えをヤケクソで叫ぶ。


 そう、あのドレスは綺麗だった。醜女が着ても綺麗なドレス。さすが貴族御用達の仕立て屋が作ったドレスだ。

 そういうことにしておかないと茹で死んでしまう。


 一瞬口ごもったジークフリートは、どこか観念したように息を吐いた。


「……ドレスもよく似合っていたがこの三日間、訓練の後もずっとメイドに教えてもらっていただろう。そのおかげか姿勢が異常に良かった。誰より、綺麗だった。ドレスなど無くとも……」


 赤の瞳が、やや染まった頬に強調されるように深みを増す。綺麗だと言うその瞳もまた、直視できないほどに綺麗だ。


「それは……イレーニアさんのおかげです」

「……確認するが、あのメイドの名前か?」

「そうですけど……」


 わざわざ確認しなくても知っているのでは、とアルティーティは憮然として答えた。


 それとも本当に知らないのだろうか。初対面の女に契約結婚を持ちかける人だ。婚約者候補の名前なんて気にならないのかもしれない。

 それはそれでイレーニアの立場がない。あんなに優しい人なのだ。もっと興味を持ってほしい。ふたりが夫婦になると思うと、何故か顔をしかめてしまうけれど。


「とにかく、お前はきっちり令嬢らしさを身につけてくれた。誰も不釣り合いだなんて思っていない」

「でも反対されてますよね」


 知っていますよ、と付け加えるとジークフリートの眼が鋭く光った。


「誰にだ。誰に何を言われた」

「え、……あの、お兄様と枢機卿に……」


 再び迫ってくるジークフリートにたじたじになりながらも答えると、彼はかすかに眉をひそめた。


「反対すると言われたのか?」

「め、面と向かっては言われてない、ような……」

「じゃあ誰も反対してない」

「え、いやでも……」


 はっきりと言い切られ言い淀む。


(反対してない? いやでも……あれ? わたしなんで反対されてるって思ったんだっけ?)


「……どうした? 教えてくれ」


 ひとり混乱していると、彼に顔を覗き込まれた。


「さ……さっき一緒に馬車に乗らなかったし……それに枢機卿もイレーニアさんに何か言ってたし……わ、わたしよりイレーニアさんの方が隊長に相応しいんじゃないかって思って……」


 ちらりと見ると、ジークフリートが何が言いかけたが、耐えるように口を真一文字に閉じる。


 何故だろう、その先を促されているように思える。アルティーティは気まずさを感じながらも話を続けた。


「た、隊長は……結婚できるなら誰でもいいんじゃないですか? たまたま会った『魔女の形見』と変な条件出してまで結婚しなくても、他にいい人がたくさんいて……わたしなんかと結婚しなくても、きっと他の人と幸せになれると思います……」


 アルティーティは花がしぼむように項垂れた。自分で言ってて情けなくなってきた。


 こんな思い、ジークフリート本人に言うつもりはなかった。やはり黙って去るべきだった。


 きっと彼は気にするだろう。なにせ元婚約者を思って今まで結婚をしなかった、頑固で愛情深い人だ。去り際にこんなことを言われたら煩わしいと思うはずだ。


(ああ、わたしのバカ。もっと言い方あったのに……)


 気にするな、反対されていない、と彼が言うのは優しいからだ。傷つけないように言ってくれているのに、まともに顔を見ることすらできない。


「……他に言うことはないか?」


 念を押すような彼の口調が最後通告に聞こえる。


 これで終わりなんだ。


 アルティーティは顔を上げられず、そのまま首をかすかに振った。


 土砂降りの雨はいつの間にか、ひそやかな雨音に変わっていた。彼の息遣いが感じられるほどに静かだ。


「……すまなかった」


 沈黙の後に発せられた声は深く響いた。


「そこまで不安にさせているとは思わなかった」

「……じゃあ、わたしはこれで」

「違う」


 脇をすり抜けようとしたアルティーティの手をジークフリートが掴む。冷え切った手に、嫌でも伝わる熱を振り解こうにも、彼の言葉がそれをさせなかった。


「俺はお前としか結婚しない」


 少し上擦り気味の声に、思わず振り向いて顔を見た。真紅の視線とかちあう。


「………………なんで?」

「そう決めたからだ。納得できないか?」


 小さくうなずく。納得できない、と言うより理解が追いつかない。何故自分に拘るのか。どうしてこんなに真っ直ぐ見つめてくるのか。


 お前としか結婚しないと言われて、どうして少し嬉しいのか。


 自分の気持ちなのにわからない。


「………………昔、お前に助けられたことがある」


 ぽつりとつぶやくように言ったジークフリートの声が、静かな室内に響いた。


 あれだけ激しく降っていた雨はもう、完全に上がっていた。

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