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74.自分以外の相応しい人

 時間が過ぎるのはあっという間だ。いつの間にか馬車は屋敷までもう少し、というところまで進んでいた。


(あと少しで、イレーニアさんともお別れで、隊長とも……)


 ぎゅぅ、と両手を握りしめる。


 瞑った瞼の裏に浮かんだジークフリートの顔はいつもの不機嫌な顔だった。


 こんな時までこんな表情しか思い出せないのか。なんだか可笑しくて笑ってしまいそうになる。


 赤いドレスに皺が寄るのを、イレーニアが横目で見ていた。


「痛み、といえば体に痛みはありませんの?」


 不意にかけられた言葉に、アルティーティは顔を上げた。


「体に、ですか? 正直言えば、全身筋肉痛です……」

「ああ、壺の成果ですわね。真面目に取り組んでいただけた証拠ですわ」


 ふふ、とイレーニアは柔らかく笑った。


 努力をしない人は嫌いだ、と彼女は言い切った。逆を言えば、努力をする人間を好むということかもしれない。あの冗談みたいな壺の訓練が努力のものさし、と言っていいものかはわからないが。


「あの、アレってお姉さんはダイエットとか言ってましたけど、どういう意味なんですか?」

「……我がシルヴァ家は代々太りやすい家系ですの」


 声をひそめた彼女は、誰もいないというのにアルティーティに少し身を寄せた。相当他人に聞かせたくない話なのかもしれない。

 つられてアルティーティも同じように彼女の方に寄った。


「特に女子は脂肪を蓄えやすいからか何もしなければぶくぶくと。お姉様がいい例ですわ。体型維持のために食事療法、運動療法をするにしても、シルヴァ家は腐っても国の剣を表する名家。朝から晩まで続く淑女教育の合間を縫って体型維持ができるほどのダイエットなど、とてもじゃありませんが時間が足りませんの。ですが気を抜けばぽっちゃり、そしてぶくぶくになってしまう……そこで時の人は考えました……淑女教育をしつつダイエットをしよう、頭の上にツボを乗せよう、と」


 前半はわかるが後半。どうしてそうなった。


 アルティーティが内心頭を抱えているのもお構いなしに、イレーニアは話を続ける。


「そんな体質の家に生まれるなんて不幸だ、可哀想だと言う方もいらっしゃるでしょうね。実際言われたこともありますし。ですがワタクシはそうは思いませんわ……皆何かしらに努力しておりますもの。ワタクシの場合はそれが体型維持だったというだけのこと。他の方より努力の成果がわかりやすい分、恵まれているとも思いますわ。目に見える分、自信につながりますもの」


 ですからウルオーラお姉様のことは嫌いです、と締めるあたりイレーニアらしい。


 しかしこれでわかった。彼女が急にアルティーティを認めるような言動をしだしたのも、壺の訓練のおかげのようだ。少なくとも姉よりは骨のある人間だと認識した、ということだろう。


 一見、高圧的に見える彼女の態度も、裏を返せばそれは自分が何かを成し遂げたことへの自信の表れなのだろう。


 金髪碧眼という美人の代名詞を生まれつき与えられ、貴族の生まれで何不自由なく生きられる。彼女を羨ましくも思っていたアルティーティは自分の浅はかさを恥じた。

 同時に、彼女こそジークフリートのようなストイックな人間に相応しいと思ってしまった。


「強い、ですね」

「ええ。国の剣シルヴァの者ですから。その辺の暴漢よりは強い自負はありますわ。幼い頃から剣の稽古もしましたし、武術の心得もありますわ」


 腕っ節という意味でつぶやいたのではないのだが。


 そう言いかけたが、生き生きと語る彼女が眩しくて、アルティーティは眉根を寄せつつも微笑んだ。


 もし十人の貴族がいたら、全員が生粋の貴族で努力家でまっすぐな彼女を選ぶはず。自分など選ばれない。


 微笑みの奥で心が黒く塗りつぶされていく気がした。


「……姉の言ってたことは気にしなくて結構ですわ」


 何も言わないアルティーティに何かを察したのか、イレーニアが真剣な表情で見つめてくる。


「ワタクシ、ジークフリート様に憧れはすれど、恋などと浮ついた感情であの方を見ておりませんので」

「え、でもその……」

「むしろあれは姉の自己紹介ですわ。国主催のパーティーか何かでジークフリート様をお見かけして横恋慕でもしたのでしょう。見合いは断られ、行儀見習いに申し込むも断られ、その上自分がダメだった行儀見習いにワタクシが選ばれたものですから、ああやって突っかかってくるのですわ。本気でやり合ったらワタクシに勝てるわけがございませんのに」


 フン、と鼻を鳴らすイレーニアに、思わず苦笑した。たしかに、口を開けば言葉が矢のように絶えず放たれる彼女には誰も勝てなさそうだ。


 苦笑につられてか、イレーニアもまた薄く笑みを浮かべる。


「ですが、先程は……感謝いたしますわ。腐ってもお姉様も令嬢。メイドの身で他家の令嬢を貶めることはできませんもの」


(…………ん? いやいやいやいや、思いっきり貶めてましたよ……!)


 一瞬そう思いかけたが、彼女はお嬢様(アルティーティ)の素晴らしさを語っただけで、相手を腐すようなことは言ってない気がする。


 むしろあれがあったおかげで人が集まってきてくれた。目立つのは嫌だが、衆目があったからこそウルオーラは逃げなかったのだと思う。高位貴族を差し置いて平民に味方する貴族はいないからだ。


 アルティーティがジークフリートの婚約者ということを差し引いても、彼らは諍いに口を挟まないのがやっとだろう。


 人が集まってもアルティーティに味方はいない。そのことが、ウルオーラを過信させ、自滅させた。


 あるいはイレーニアが大声で舌戦を繰り広げたのは、それが狙いだったのかもしれない。だとしたら。


「そんな、わたしはなにもしてないです」

「そんなことはございませんわ。アルティーティ様が庇ってくださり、ジークフリート様がアルティーティ様を案じて駆けつけてくださったからこそ、姉にギャフンと言わせることができましたわ。ワタクシ、非常にスッキリいたしました」


(ギャ、ギャフンて……)


 本当にスッキリしたのか、清々しくも品よく口元に手を当てて笑う彼女に、良かった、と思いつつも本当に何もしていない気がして戸惑った。


 庇ったと言っても大したことはしていない。むしろあれは失態だったと思う。かといって、庇わないという選択肢はなかった。

 あの場を収めたのはジークフリートだ。彼が来なければ最悪、頃合いを見計らってイレーニアと逃げるということも考えていたが、あまりスマートなやり方とは言えない。


 彼が来たのは婚約者(アルティーティ)がいたからに他ならないが、いるだけで助かった、と言われてもいまいちピンと来ない。


(婚約者ならば、あの場にいるのは誰でも良かったんじゃ……?)


 一度悪い方向に考え出すと止まらない。坂を転げ落ちるように、穿った見方をしてしまう。いつもならばこれくらいのこと、まぁいいかと流してしまえるのに、清々しい顔のイレーニアを見てると何故だか思考が袋小路に入っていってしまう。


 愛や情、信頼で結ばれた相手ならば、ここまで不安にもならなかったのかもしれない。契約結婚だから、契約結婚なのに。


「なんで……リブラック家の行儀見習いになろうと思ったんですか?」


 頭の片隅にあった不安がぽろりと口から出た。意図したわけでもないのに騎士(アルト)を装う時に使う低い声だ。


「どういう意味でしょう?」とかけられた声にハッとすると、アルティーティは慌てて声を高くした。


「あ、いや、イレーニアさんってわたしから見てすごくその、完璧というか、わざわざ他の家で行儀を学ぶ必要がなさそうに見えるので、なんでそんな人が、と思って」


 イレーニアが行儀見習いでなかったら、今日を切り抜けられていない。家庭教師にもなってもらえなかった。それは理解している。


 しかし完璧な彼女がいたからこそ、胸に広がる不安が消せない。夜会に出席する令嬢たちも華やかで美しく、ウルオーラ以外は気品があった。

 だから尚更感じたのだ──ジークフリートの相手は自分でなくてもいい、と。


 『結婚する代わりに女であることを黙っておく』という今の契約は、アルティーティにとっては都合がいいが、彼にとってはあまりメリットがない。むしろお荷物だ。

 わざわざ煩雑な手続きが必要で貧相な『魔女の形見』と取引しなくとも、彼を慕う令嬢の中から選べばいい。


 もちろん、都合がいいに越したことはない。やっと騎士になれたのだ。できることなら続けたい。そのためならなんとしてでも、と思っていた。


 しかし、時折見せる彼の笑みに何故か胸が熱くなると同時に、これで本当にいいのだろうか、と罪悪感が顔をのぞかせる。


 本当に、彼はこのまま自分と結婚してしまって、後悔しないのだろうか。

 こんなガサツで雑で物知らずで女性らしいところひとつもない自分のままで、本当にいいのだろうか。

 もっと立派な人が、彼にふさわしいのではないだろうか。


 煌びやかな世界と人物を実際に目の当たりにし、彼女は揺らいでいた。


 動揺を隠すようにぱたぱたと手を振るアルティーティに、イレーニアは家庭教師だった時のように──いやそれ以上に背筋を伸ばした。


「……高位貴族の行儀見習いは言葉通りのものではないのですわ。下位貴族はおっしゃられたように礼儀作法を学び、高位貴族に覚えを良くする、人脈作りの側面もございますわ。対して高位貴族の行儀見習いは……こう言ってはなんですが、婚家のしきたりを学ぶため、婚約相手の家に申し込むのが普通です」


 ひゅっ、と息が漏れた。


 彼女が高位貴族の娘なのは言わずもがな。ジークフリートもまた同じく、しかも双方独身。


 ならば話は簡単だ。彼女は彼の婚約者候補として、少なくともルーカスに認められた人物である、と。


 ああ、やっぱり、という感想が滲む。やはり自分は相応しくないと判断されたのだ。


 何か言わなければと思いながらも、何も言葉が浮かばない。


 表情を固くしたアルティーティの様子に、イレーニアは珍しく慌てた。


「誤解なさらないでくださいね。一般的な行儀見習いはそうであって……ワタクシがどうしてもジークフリート様にお仕えしたいと、特例で熱意が認められただけなのですわ。ご当主様もワタクシ個人をお認めになったわけではないでしょう」


 励ますような口調だが、あの含みのある笑みを貼り付けたルーカスが、タダでイレーニアを受け入れたとは思えない。

 そうでなくとも、一般的な行儀見習いの認識で言えば、イレーニアを受け入れた時点で彼女はリブラック家の誰かと婚約したと対外的に知らしめることになる。


 憶測が確信に変わっていく。


 やはり彼女はジークフリートに嫁ぐ人間なのだ。自分は捨てられるのだ。騎士の夢を捨てなければならないのだ。


 アルティーティは天を仰いだ。泣くのは簡単だ。俯けば勝手にこぼれる。だがイレーニアの前でそんな姿は見せたくない。きっと彼女は気に病むだろう。あるいは幻滅したと突き放すか。

 いずれにしても今の自分がもっと惨めになるのは確実だった。


 視線を交わそうとしないアルティーティに、イレーニアはゆっくりと語りかけた。

 

「……シルヴァは国の剣、リブラックは国の盾と称される古くからの家臣。リブラックの家訓は『国に仕え民に仕えよ』。ですので、ワタクシでなくとも行儀見習いに、と望まれればご当主様は承認されたでしょうね。貴族の娘も民に含まれますから。対する、シルヴァの家訓は『自らの王に仕えよ』ですわ。自らの、というのが重要ですの。王を国王としてもよし、別の誰かとしてもよし。仕えたい方に生涯を捧げるのがシルヴァ家の生き方ですの。ワタクシもそうでありたいと幼い頃から主人(あるじ)を探し……そして出会ったのです……!」


(…………あれ……?)


 天井を見ながら話を聞いていたアルティーティは、イレーニアの声に熱がこもってきたのを感じた。


 熱、というより熱気、しかもメラメラしている類のものだ。


 おそるおそる視線を向けると、彼女はどこか恍惚とした表情であらぬ方向を見ている。


「あの冷たい眼差し、後ろに目があるかのような隙のない身のこなし、そこはかとなく感じる隠しきれない滲み出る殺気、そして絶え間ない努力の結晶……すなわち筋肉……! あの方こそ、ワタクシのご主人様、いえ、主人にふさわしいですわ……!」


 ぐっと拳を握り、とんでもない熱量で語られるその内容が、貴族令嬢としてはどうもおかしい。まずご主人様、と言われるとなんだか別の意味に聞こえてくる。


「その主人が選んだのが威厳のかけらもないマナーもおぼつかないような方でしたので、少々不安ではございましたが、壺の訓練を乗り越える胆力を持ち合わせる方。さすが主人の選んだことはあるとワタクシ、感激致しましたのよ!」

「は、はぁ……」

「ですので、ご安心くださいませ! ワタクシ、おふたりにお仕えできるだけで満足ですの!」


 興奮冷めやらぬ様子で、イレーニアはアルティーティの手を取った。


 細く綺麗な指だ。メイド仕事をしているのに、傷ひとつない。古傷生傷の耐えないアルティーティのものとは大違いだ。


 これが絶対的な差。どう足掻いても『魔女の形見』(アルティーティ)貴族令嬢(イレーニア)にはなれない。


 見せつけられているようで、アルティーティはスッと手を引っ込めた。


「え、ええでも……わたしはジ、ジーク様と多分、婚約できないです……平民ですし、『魔女の形見』ですし、夜会に出るだけでこんな騒ぎになってしまうし……もっと相応しい人がいると思います……いえ、確実に、そんな人がジーク様にはいます……」


 アルティーティが緊張しまくっていた夜会の中で、ジークフリートは堂々としていた。あの煌びやかな空間で、誰よりも優雅でスマートにエスコートをしてくれていた。


 本来彼がいるべきはそちら側で、アルティーティが隣に立つべきではないのだ。


 ゆっくり、どうにか言葉にすると、この契約はもうすぐなくなってしまうのだと実感が湧いてきてしまう。そう、これだけ結婚できない理由があるのだ。そう自分を納得させる。


 だというのに、内から溢れそうになるこの想いは一体なんなのだろう。


「……これだけは言わせていただきますわ。あの方があのように微笑まれるのはアルティーティ様にだけですわ。このワタクシが言うのです、間違いありませんわ」


 居住まいを正したイレーニアの言葉に、一瞬絆されそうになるものの、アルティーティは小さく首を振った。


 あれは演技だ。婚約者に向ける笑み、という演技。


 だからあの笑みは自分に向けられたものではない。きっと、あの笑みは元婚約者に向けられたもので、これから先は自分ではない他の誰かに向けられるものだ。


 否定すればするほど、胸が軋むように痛い。だがそうしなければ、今夜言い渡されるだろう契約破棄を受け入れられそうにない。


 だからだろうか、アルティーティは聞き逃していた。イレーニアがアルティーティを名前で呼んでいることを。


「アルティーティ様はワタクシの主人が選んだ方なのです。もっと自信を持ってくださいまし」


 もう一度、元気づけようと言う彼女を力なく一瞥すると、アルティーティは心を閉ざすように項垂れた。

次回はまた今度です。

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