68.その日、その時はあっという間に来た
そんなこんなで、その日、その時はあっという間に来た。
慣れないドレスに身を包み、ジークフリートにエスコートされ、パウマ枢機卿の夜会に足を踏み入れた。
緊張と不安で頭がいっぱいだったためか、誰に挨拶したのかどこをどう歩いたのかも良くわからない。
何せこれが初めての夜会。初めての社交界デビューだ。緊張しない方がおかしい。
覚えているのは、パウマからかけられたただひとことだ。
「ジークフリート・リブラック卿、この婚約を推薦させてもらおう」
たったこれだけ。恰幅のいいちょび髭のオジサマのこのひとことをもらうためだけ。
これだけのために3日前からイレーニアのスパルタレッスンを受けたのか。拍子抜けだ。
アルティーティの身体から緊張感がどっと抜けた。ジークフリートがルーカスに何やら文句のようなことを言っていたが、それすらどうでもいいくらい気疲れした。
そういえば、パウマと会話する前にジークフリートが硬い表情だったが、あれは緊張していたのだろうか。
いや、まさかね。最強の騎士で鬼の彼が緊張するわけがない。
ふわふわと浮ついた頭がはっきりしてきたのは、もう夜会も佳境に入った頃だった。
「大丈夫か? 少し休むか?」
ジークフリートの小声の提案に、アルティーティは訓練された笑顔を少し緩め、小さくうなずいた。
この日までに何度壺を乗せられたか。頭だけでも途中で数えるのをやめたというのに、身体中そこかしこにそれを乗せられたのだからもはやわからない。
おかげで重度の筋肉痛だ。普通の令嬢だったら立つのすら無理だろう。夜会を欠席するレベルの全身の痛みだ。
それでもなんとか歩けた。もはや意地、としか言いようがない。あれほどのスパルタレッスンをこなしたのだ。本番でへこたれるようでは騎士の名が折れる。
騎士としての意地もそうだが、ジークフリートにエスコートされるアルティーティの後ろには、イレーニアがダリアと共にしずしずと付き従っている。今日の従者を買って出てくれたのだ。
本来、招待客に含まれててもいい身分の彼女が、リブラック家のメイドとして付いてきている。
厳密にはジークフリートの従者ではなく、当主ルーカスの従者としてこの場にいるという。少し興奮気味に言うイレーニアに、どっちでもいいじゃないか、とアルティーティは内心ひとりごちた。
そんなわけで、彼女が一番気合が入っている。「優秀なメイドは許可があるまで喋りませんのよ」と得意げに話していた彼女は、その通り、優秀なメイドを演じている。
しかもその視線は物語っている。「お嬢様、ワタクシ、あなたの成功も失敗もつぶさに見ておりますわよ」と。
背後の家庭教師から感じるプレッシャーから逃れるように、隣を歩くジークフリートに視線を移す。
髪色や瞳と合わせたような真紅のスーツに、騎士であることを証明するかのような銀の顕彰と飾緒が歩くたびに優雅に揺れる。彼でなければこうも似合わない。その横顔に、思わず見惚れてしまうほどに。
対するアルティーティは、練習ではワンピースだったが、今はスッキリとしたデザインの赤いAラインドレスだ。
長い手袋や裾で肌を極力隠しつつも、首から下げられたカラーチェンジサファイアが会場の光を吸い込むように輝いている。
ジークフリートの横にいるだけでも十分目立つ。珍しく夜会に参加した最強の騎士と、その横の見たことのない女。
注目を浴びるのは致し方がない。その上今日は、分厚い前髪を横に流している。
黒髪とワインレッドの瞳。『魔女の形見』であることが一目でわかる。心なしか、他の招待客から遠巻きに見られているような気がした。
それらは今、夜会から少し離れた四阿にいても感じている。
好奇の目半分、敵意半分、といったところか。
その視線がアルティーティだけでなく、ジークフリートやルーカスにも向けられていることには気づいていた。虫除けにと下げられた薄い天幕越しにも、話しかけたいが話しかけられない彼らの雰囲気が伝わる。挨拶周りの時にルーカスが話しかけなかった面々だろう。
もし『魔女の形見』のせいなら、少し申し訳ないとも思う。
「大丈夫か?」
相当疲れてそうに見えるのだろうか。ジークフリートが顔を覗き込んでくる。
どこからどう見ても婚約者を心配する男の姿だ。下がった眉と気遣うように差し出された手からは、誰からも演技とは見破られないだろう。
「はい……ここ、いてもいいんですか?」
やっと出した声が少し掠れ気味なのは否めない。なにせ夜会に来てから初めてのまともな発声だ。
「夜会では何を問われても、すべて『はい』か『いいえ』でお答えください。もちろん、笑顔は忘れずに。答えたくなかったり、迷った場合は笑顔のみで。それくらいできますわよね?」
イレーニアに再三言われてきた言葉だ。それを忠実に守った。背後から彼女に見張られていた──もとい、見守られていたので、その通りにしないという選択肢はなかった。
そのおかげもあってか、挨拶回りも滞りなく済んだ。ジークフリートやルーカスがいたのも大きい。ほとんどの話は彼らが捌いてくれた。ふたりの手前、『魔女の形見』を表立って責めてくる者もいない。責めてきそうな相手を避けていたのかもしれないが、アルティーティにそれを感じさせなかった。
これほど頼もしいと思ったのは、ひったくり犯と対峙した時以来だろうか。
気分はふたりの屈強な騎士に守られた難攻不落の城だったが、一部からは猛獣使いを見るような目で見られた。解せぬ。
「庭園の一部は休憩のために解放してくれてるからねぇ~。安心して休んでくれていいよぉ~」
ルーカスは呑気に菓子をつまんでいる。
休憩中も楽しめるようにという配慮だろうか。テーブルにはクッキーやチョコレート、マカロンなどが並んでいた。
景色もいい。整えられた草木の間から星空が見える。四阿を抜ける風もそよそよと気持ちがいい。
菓子を勧められたアルティーティは、曖昧に笑った。慣れないコルセットと場違いな自分とで、胃がキリキリと締め付けられていて食べるどころではない。
「さて、と。私はちょっと猊下に伝え忘れたことがあるから戻るよぉ~。君らはどうする?」
手についた菓子のかけらをふっと吹くと、ルーカスは立ち上がった。
「俺も、アルティーティの体調が思わしくなさそうなので、この辺りで失礼しようかと思いますが……」
ジークフリートがちらりとアルティーティを見る。
(失礼ってことは途中で帰るってことで……ええと、その場合は確か、主催者に挨拶してから、だったっけ?)
「退出のご挨拶、ですか? わたしも一緒に行きます」
習ったばかりのマナーを頭から引っ張り出すと、彼は意外そうに目を見開いた。行きの馬車に乗る前、イレーニアに教えてもらったことだ。
途中で帰るなんてイレギュラーなことがあるわけない、と思っていたが外れた。
もしかしたら彼女は、アルティーティの体力と顔面の筋力が夜会終了まで持たないことを予見していたのかもしれない。
「いや、大丈夫だ。俺だけでいい」
「でも……」
「いいから。休んでおけ。すぐ戻る」
いつものように頭を撫でてくる、かと思いきや彼は頬に軽く触れてきた。たしかに頭に触られるとセットが乱れるので困る。
だが直に肌に触れられるのも、困る。あれほど練習しまくった微笑みや立ち振る舞いを忘れてしまいそうになるからだ。事実、頬を染めたアルティーティは居心地が悪そうに首をすくめた。
そんなふたりの様子を見て、ルーカスはくすくすと笑っている。
「じゃあ、キミ。アルティーティ嬢をよろしく頼むよ」
「……承知いたしましたわ」
イレーニアは軽く膝を折り、ルーカスたちが屋敷に入るまで礼を続けた。
その場にいると雰囲気がはなやぐルーカスと、重々しい存在感はありつつも目を引くジークフリートがいなくなり、四阿に沈黙が降りる。
(き、気まずい……)
これがアルティーティひとりならば、存分に羽を伸ばせる。しかしひとりではない。ダリアはいないがイレーニアがいる。
ルーカスがいれば会話を促されていただろうが、ふたりきりの今、話しかけても何も返ってこないだろう。菓子を勧めるのすら躊躇う。
そもそもルーカスの従者であってアルティーティの従者ではない。「当主の許しなく話などできませんわ。食事なんてもってのほか」なんて言われそうだ。沈黙を保つようにきゅっと口を結んでいる。
しかしなぜだろう。彼女の青い瞳がしきりに動いている。周囲を警戒してる様子にもかかわらず、どこか集中力を欠いている。何かを探しているのだろうか。
そういえば、あの時からだ。
パウマになにやら声をかけられていた。あの時から妙に静かだ。『主人に許しを得ないと話せない』にしても、いつもの彼女なら、会場でのアルティーティの至らなさに一言や二言や三言くらい小言が出てもいいというのに。
(……もしかして、具合悪いんじゃ……?)
「あの、イレーニアさ……」
「あらぁ? そこにいるのはイレーニアかしらぁ?」
椅子をどうぞ、と声をかけようとしたアルティーティの背後から、キンキンとしたわざとらしい女性の声が四阿に響いた。




