65.なんとかできる、かも
「……シルヴァ侯爵家? どこかにツテでもあるのかなぁ~?」
アルティーティの言葉に、ルーカスは一瞬驚いたように両眉を上げた。
だがそれだけだ。すぐに細い目を瞑るくらい細めた彼は、彼女に問いかける。
その完璧な笑顔に、アルティーティは首をかしげた。
(あれ? もしかしてイレーニアさんが行儀見習いしてるってこと知らないのかな?)
当主のルーカスが知らないわけがない。そう思っていたのだが、今の反応は知らないように見える。
ジークフリートも視線を浮かせて思い出すそぶりを見せている。ここ数年、実家に帰ってないとカミルも言っていた。おそらく知らないのだろう。
少なくともアルティーティはそう感じた。
もしかしたら、採用も執事か筆頭女中のダリアに任せてるのかもしれない。それならルーカスが知らないのもうなずける。
男爵位のストリウム家ですら、顔は知っているが名前がわからない使用人が何人もいた。彼女自身が幼かったせいもある。両親は知っていたのかもしれないが、子供だったアルティーティは乳母とその娘のメイドしか覚えていない。幽閉されてからもこっそりと優しくしてくれたふたりだ。忘れるわけがない。
由緒正しい侯爵家には、そんな名も知らぬ使用人がもっといるのかもしれない。
「いえ、さっきお茶を運んでくれたメイドがシルヴァ侯爵家からの行儀見習いの方だと聞きました。動きがとても綺麗だったのでどうかなぁ、と」
アルティーティは理由を述べた。
実際イレーニアの所作は美しかった。美人だからというのもあるが、背筋も歩き方も洗練されたもの──もっと言えばよく訓練された歩兵のような親近感を感じた。
ジークフリートの隣に立つ彼女を想像するほどに、今のアルティーティに足りないものを持っている。だからこそ、彼女に師事したかった。
「なるほど、いいよぉ~」
「ありがとうございます」
「でも結構とっつきにくい子だから何かあったら言ってねぇ~」
二つ返事で了承したルーカスの言葉に、はた、と動きが止まる。
(あれ?)
「彼女をご存知なのですか?」
先ほどは知らないそぶりを見せていたのにも関わらず、まるで彼女を知ってるかのような口ぶりに違和感を覚える。
たしかに、ツンとした美人だ。スタイルもいい。しかしとっつきにくそうな印象はある。口調も強く、思い立ったら脱走を企てるほどにお転婆だ。
逆に考えれば、それだけ目立つ存在を知らないというのも不自然な話だった。
「私は当主だからね、なんでも知ってるよ」
アルティーティの問いに、ルーカスは先ほどの笑みを崩さぬままでいる。
よくわからないなぁこの人。副長に似てる、けど。
アルティーティは心の中でそう思った。
カミルに雰囲気は似てるが、どことなく底が見えない感じがする。弟のジークフリートの怖さとも違う。
彼はなんだかんだで親身だ。その怖さは彼の強さと部下への厳しさからのものだと、最近はわかる。だから怖いけど、恐ろしくはない。むしろ分かりやすい方だと思う。
細すぎて一体何を見ているのかわからない目が原因だろうか。目の前で話しているのに、ルーカスとの間に薄い膜が張っているように見える。
その薄い膜が本心を見せてくれない。膜の奥でずっと、こちらをうかがっているように感じる。
その本心が意図的に隠され、観察されている感覚が恐ろしいのかもしれない。
にっこりと笑うルーカスをアルティーティは直視できず、視線を逸らした。
逸らした先のジークフリートとバッチリ目が合う。
小さく「よくやった」と言われたが、それが家庭教師の件についてだとは思わず、アルティーティはキョトンとした。
「あとはそうだな……」
「ルーカス様!」
けたたましく開いた扉の音に、ルーカスの言葉は途切れた。
書記官だろうか。礼もおざなりに入室すると、ルーカスになにやら耳打ちしはじめる。
(どうしたんだろう?)
アルティーティはジークフリートと顔を見合わせた。
緊急の要件なのはわかる。でなければこんな乱入の仕方はしないだろうし、さすがのルーカスも咎めるだろう。
それがないということは、相当重要な話だ。わずかに首を横に振るジークフリートの様子からもわかる。聞くな知るな関わるな、ということだろう。
しかし聞かないように、とは思いつつも目の前で内緒話をされるとどうしても気にはなる。
笑ったままの表情で書記官の報告を聞いていたルーカスが、小さく唸った。
「……ごめん、ジークフリート、アルティーティ嬢、ちょーっとばかり用事ができちゃった。このあたりでお暇するねぇ~」
席を立つルーカスを、ジークフリートが見送ろうと立ち上がる。アルティーティもそれに倣った。
「お仕事ですか?」
「うん。ちょっと領地が、ね……あ、そうだ。ジークフリート、クサクムシって知ってるだろ? あの臭い液体飛ばしてくる虫」
クサクムシ、のひとことに、アルティーティの肩がぴくりと震える。
急に天敵の名前を出されて動揺してしまった。隣でジークフリートが苦笑を噛み殺しているのがわかる。昨日のことを思い出しているのだろう。
しかし急になんだというのか。クサクムシなど、貴族の世間話にはそぐわない気がするが。
「ええ、それがなにか?」
ジークフリートも同意見なのか、怪訝そうに眉をひそめている。兄の意図が測りかねるようだ。
ルーカスは、彼らから向けられる戸惑いなど意に介さず、相変わらずの明るい口調で続けた。
「隣の領地では度々クサクムシの虫害なんてものがあったみたいなんだけど、この春大量発生しててさぁ~。それがお隣さんだけで済んでるならまだいいんだけど、こっちの領地までわんさか来ちゃってるんだよねぇ~。もう農作物に大打撃も大打撃。どうにかしようにも、クサクムシなんて研究するマニアックな専門家、いないっていうじゃないか。困ってるんだよねぇ~」
ルーカスは両手を挙げた。お手上げ、と言いたいのだろうが、当の本人に悲壮感があまりないように見える。
(たしかに、クサ……ヤツの研究してる人っていないんだよね。本も探してみたけどどれも詳しく書いてなかったし)
クサクムシに襲われた後、アルティーティはその対策に手を尽くした。旅をしながらもその生態を観察した。
観察は苦ではない。塔に閉じ込められていた頃、外を眺めることが唯一の娯楽だった。だからこそ、対象が嫌いな虫でもやり遂げられた。
おかげで農作物に齧り付き、食べた上に自身の臭汁を作物に注入することや、注入された作物は臭くて食べられたものじゃなくなることなども知っている。きっと一般的に知られていること以上に、アルティーティは知っている。
だがそれを口には出さない。ルーカスはジークフリートに向けて話している。リブラック家の内情に、ただの平民が関わるわけにはいかない。じっと息をひそめるのみだ。
しかし大量発生の虫害となると、被害は甚大だ。今はまだ国民も実感がないが、虫によってはひと月もあれば影響が市場や一般の食卓にも出てくる。
「特に今はイチゴの季節だから困っててねぇ~」
「イチゴが取れるんですか?」
思わず聞いてしまった。
あ、と思った時にはもう遅い。隣から咎めるような視線を感じるが、気づかなかったことにすることにした。
「うん、リンザー領イェレック地区と言えばわかる~?」
キツネ目のルーカスの言葉に、アルティーティは小さく「え?」と声を上げた。
「イェレックって……イチゴの一大産地じゃないですか……!」
「知ってるのか?」
「はい! 甘くて大ぶりで真っ赤でツヤツヤのイチゴで有名なんですよね! 大地のルビーと言われるくらい綺麗で……美味しかったなぁ……あのあたりはリブラック侯爵家の領地だったんですね……!」
目を輝かせて答えた。あまりの興奮ぶりに、ジークフリートが「お、おう……」と気後れするほどに。
ルーカスがくくっ、と笑い声を噛み殺した。
「アルティーティ嬢はイチゴが好きだったんだねぇ~。知ってたらお土産に持ってきたのにぃ~。でも残念、今年はお土産どころか収穫難しいかもぉ~」
「そんな……」
軽い口調でされた宣告に、アルティーティはがっくりと肩を落とした。
イェレックには旅中、比較的長期間滞在した。収穫も手伝わせてもらった覚えがある。
イェレックの人々は皆、どこのものとも知れない『魔女の形見』のアルティーティに優しくしてくれた。初めて味わったイチゴは、彼らのように優しい甘味があった。
それが味わえない。イェレックの人々も、せっかく育てたイチゴがダメになるなんて悔しいに違いない。
(ヤツら……わたしだけでなくイェレック、イチゴまで……! ……あれ? でも待って……?)
燃やしかけた闘志に不意に浮いた疑問が水を差す。
どうも引っかかる。
なぜクサクムシが大量発生したくらいでこんな騒ぎになっているのか。
「隣の領地の虫害対策を参考にすればいいのでは?」
「それがさぁ~お隣さんもこれだけ大量なのははじめてなんだって! しかも今までも手で取って集めて燃やしてただけ、被害にあった作物も捨ててたって話だし、そんなことしてたらとてもじゃないけど手が足りないよぉ~」
ルーカスはジークフリートに向けて大袈裟に両手を振った。
そのキツネ目が、チラリとアルティーティの方を見たが、気づけない。気づかないほど思考に没頭していた。
(だからか。ならば……)
「あのー……」
「どうしたのかな?」
小さく手を挙げたアルティーティは、ジークフリートを盗み見た。彼も領地の危機をどうにかしようと知恵を絞っている。
ルーカスも同じだ。軽く言っているが、アルティーティの前でこんな重要なことを話してしまったのは、焦っているからかもしれない。
聞くな知るな関わるな、と言われてもこの状況、十分関わっている。イェレックのこともよく知っている。クサクムシのことも。
それにこのままではイチゴが食べられなくなる。それは困る。昔からこの時期の訓練のご褒美はイチゴで決まりだった。
アルティーティにしかこの窮地は切り抜けられない。決して食欲のためだけに口を出すわけではない。そう、決して。
「その、わたし、その虫、多分なんとかできる、かも、しれません」
注目が集まる中、アルティーティはゆっくりと、しかし確かにそれを口にした。




