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7話:時の流れと空の色

 道を回り込んで、直也は自分のバイクの停めてある場所に戻ってきた。周囲には野次馬たちや警察が集まっていたが、知らぬ顔をしてその場から離れる。けがを負ったせいで運転することはできなくなったので、バイクを押して歩いていくことにした。しかし自宅までは、歩くには距離がありすぎる。体力には自信のある直也だが、この猛暑の中に長時間晒されるのは厳しいものがある。どこかでバイクを一旦預け、バスを使って帰るのが利口な判断であるように思われた。

 怪我の痛みは皮膚に穴を開けられたにしては酷くなかったが、念のため今日は仕事を休んでおくことにした。携帯電話を取り出し、職場に連絡を入れてから、バイクを押して歩きだす。

 うまく力の入らない右手は、実質ハンドルに添えているだけだ。左手一本でバイクを支え、押していく。日頃から、直也は体を鍛えてはいるものの、その状態のまま10分も歩いていると、さすがに肩に痺れを感じてきた。じりじりと肌を焼くような暑さも、また耐えがたい。まるで蝉の鳴き声が、太陽の強烈な光を助長しているかのようだった。

 日陰に逃げ込んだとしても、あまり涼しいという感想を抱くことはできず、汗だくになりながら混雑した歩道を進んでいく。右手の傷が滲むように痛み、その度に歯を食いしばらなくてはならなかった。黒い布に阻まれて、血が止まったかどうかもさだかではないが、この痛みは傷口が直也の行動に対する警鐘を鳴らしているかのように思え、とてもではないがいい気はしない。

 店の前で大声を張り上げ続ける、電気屋や靴屋の客引きの耳障りさに顔をしかめつつ、バイクの預かり先を求めて進んでいると、ふと右手側にそびえる、ファーストフード店に目が留まった。ハンバーガーを主に取り扱っている、大手チェーン店だ。「M」の字の書かれた赤と黄色の派手な看板が、直也の腰のあたりでくるくると回転している。

 右手をやられては、箸を持つことさえも難しい。ラーメン屋に行くことはすでに断念していたが、代わりに腹を何でふくらませるか、ということに考えあぐねていたところだったから、ちょうど良かった。

 ハンバーガーならば、片手で食べることができる。それにちょうど休憩をいれたかったところだ。怪人に身を削がれた体は、気を抜けばいつでもその力を失ってしまいそうだった。直也はバイクを店の脇に停めると、ファーストフード店へと続く自動ドアをくぐり抜けた。

 店内は冷房が効いており、肌寒いくらいだった。お昼時から少々外れており平日であるにも関わらず、ひどく賑わっている。直也はレジの前に連なっている列に並びコーラとポテトがセットになったものを注文し、トレイに乗ったそれらを受け取った。

座席はどこもいっぱいだったが、偶然、立ちあがろうとする人に出くわし、これは幸運とばかりに席に滑り込んだ。1人用の、白い壁と向き合う形の席だ。疲労が全身にのしかかっているためなのか、人とあまり接触したくない気分だったので、ちょうど良かった。

 右手は使えない、とは言っても、指を曲げることくらいはできるようになっていたので、包み紙を広げるのに、そう労力はいらなかった。飲み物やポテトに手を出すのに、いちいちハンバーガーを置かなければならないのは面倒だったが、この際、昼食を摂れるだけでもよしとする。

コーラで乾いた喉を潤し、1つ目のハンバーガーにかぶりつく。肉のうま味が口の中に弾けて広がることに満足を覚えていると、ふと隣の席に目がいった。とくに意識したわけではなく、自然に視界の隅に入ってきたのだ。

隣に座っていたのはサラリーマン風の、頭が見事なまでに禿げあがった男だった。年齢は50歳前後だろう。紺色のスーツに朱色のネクタイを付けている。指が太く、直也と同じもののはずなのに、彼の指につままれているポテトはやけに小さく見えた。

男は、テーブルの上に携帯電話を開いたままの状態で置いていた。その画面にはテレビの報道番組が映し出されている。桃色のスーツに身を包んだ女性キャスターが、険しい面持ちで口をぱくぱくと動かしている。男は食事をしながら、携帯電話のワンセグ機能でテレビのニュースを観ているのだった。

 男は携帯電話とイヤホンを繋いでニュースを観ているため、直也はニュースキャスターの話を聞きとることはできない。それでも画面下に頻繁に表示されるテロップのおかげで、何の話をしているのか、漠然と察することができた。

 報じられている内容は察した通り、最近、世間を騒がせている『連続女性失踪事件』についてだった。幼女から老婆まで、都内において実に幅広い年齢層に渡り、多くの女性が蒸発しているという事件だ。失踪者の手掛かりとなるものは、一切発見されておらず、捜査は難航しているらしい。ついに被害者は10人を超え、警察を非難する声もあちこちからあがっている。

 そのため世間では、そのあまりにも怪談じみた事件を受けて、怪人が人々を誘拐しているのでは、という噂が蔓延していた。

 実際に、インターネットの掲示板では怪人を見たという情報が飛び交っている。テレビのニュースでも取り上げられ、その噂はいまや知らない人はいない、と断言してしまえるほど、広く認知されていた。

 いるかどうかも分からない、怪人という存在。だが多くの人は、心の底ではそれが誰かの空想の産物であると信じ込んでいる。それは不可解な事件をすべて押し付け、ひとときの安心を抱く対象とするにはうってつけの存在だと思った。何が起きても、わからない事件はすべて怪人の仕業だ、で済ませることができるなら警察の仕事はずいぶんと楽になるだろう。

 画面から目を離し、白い壁面を見つめながら直也はポテトを手に取り、かじった。

 直也は知っている。その噂がまぎれもない事実であることを。一体誰が最初にその噂を発信し始めたのか、と疑問を抱いてしまうほどに、その話は細部も違わず真実と一致していた。

 怪人は理由こそ分からないが、女性を誘拐し続けている。遺体がまったく発見されていないことからも、女性たちは誘拐されたのち怪人によってとっくに殺害されてしまっているのか、それとも監禁されているのか。

 誘拐され、まったく知らない場所に連れてこられ、いつ殺されるとも分からない恐怖に震えている。その心細さ、そして恐ろしさを、過去に味わったことのある直也はよく理解しているつもりだった。

 テレビのニュースを目にする度に直也は、あの探偵のようになりたい、と今でも願い続けている。彼が直也を暗闇の中から拾い上げてくれたように、今度は自分が闇の中で怯えている人々を助け出してあげたい。卑しい気持ちもなく、見返りが欲しいわけでもなく、または悦に浸るためでもなく、真剣に直也は、そう考えていた。受け皿のない正義感が直也の中であふれ出し、外に漏れ広がってしまいそうになる。

 しかし、現実はいつだって満たされないものだ。いくらなんとかしたいという考えを抱いていたとしても、直也には怪人の居場所を察知する術はなく、それに怪人を撃退するような力も持っていない。自分から突っ込んでいったくせに、手を貫かれ、挙句の果てに殺されかけてしまうような始末だ。あのあまりにも謎の多い、甲冑の男が来なければ、この店でこんな風にハンバーガーを口にすることなど、なかったに違いない。

 そうだ、あの甲冑の男だ、と直也は誘発されるように思い出す。閃いた拍子に危うく、ハンバーガーを握りつぶしてしまいそうになった。

 怪人のことは自分の目で見て、また口頭でも伝えられて知っていた直也だったが、怪人を倒す甲冑の男については見たことも聞いたこともなかった。

 あの男にもう1度会いたい、と思った。あの四角い板の正体について答えを迫りたいという気持ちももちろんあるが、それよりもいまは、彼が怪人を倒すことのできる力を持っていたという点に興味が沸いた。もしかしたら、自分もあれと同等の力を手に入れることが可能かもしれないという期待が心を震わせる。話が飛躍しているとは思わない。むしろ話の筋は通っていると自信が持てた。

 直也は頭の中で男の外見を組立て、自分の記憶に間違いがないことを何度も確認する。

 あの四角い板を、確かにあの男はベルトのバックル部分にはめこんでいたはずだ。つまり、あの板が怪人を滅ぼす力を身につけるための中枢となっている可能性は、充分に考えられる。

 その推理が的中しているならばつまり、板の秘密を探ることは、そのまま力の出所に直結することになる。一石二鳥とはまさにこのことだな、と残ったハンバーガーをすべて口に収めながら、感慨を覚えた。そして尚更、男に早く会わなければという気持ちが胸の奥で膨らんでいく。

 力を手にいれれば、怪人を倒すことができる。そうなれば、より多くの人を救うことができるかもしれない。

 ハンバーガーのくるまっていた紙や紙コップなどのゴミを捨て、トレイをゴミ箱の上に乗せると、直也は店を出た。

 重たいバイクを押しながらしばらく歩いていくと、ようやく目の前に自転車預かり場を見つけた。看板を見ると、自転車だけではなくバイクも預かってくれるとのことだったので、ここに明日までバイクを預かってもらうことに決めた。

値段はそれなりに高かったが、次にいつ預かり場を見つけることができるか分からない以上、労力を考えるとここで妥協してしまうのが吉であるように感じた。

 四角い箱の中に入った初老の男から券を受け取り、バイクを預けると、身軽になった直也は再び歩き出した。

 手の甲で額の汗をぬぐい、空を見上げながら改めて今日はいい日だな、と思った。夜がくることなんて、ないのではないかと予感してしまうほどの、突き抜けるような青空。そこに刻み込まれる蝉の羽音が、いかにも夏らしくて心地よい。

 バス停まで、そう時間はかからなかった。しかし疲労の強い体には、直射日光が滲み、たどりつく頃には肩で息をしていた。時刻表の前に立ち、次のバスが来るまで15分ほどかかることを確認する。降り注ぐ強い日差しに目を細めながら、店に入って待とうかと一瞬考えるが、先ほどのファーストフード店と同じように、冷房による攻撃を受けてしまうことは予測できていたので、止めておいた。考えるだけで、余計に疲れてしまいそうな気がする。

 直也の目の前に広がる二車線の道路を、車の群れが行き交っていく。ぼやけた視界で直也は、それを無意識のうちに眺めている。

 素早く行き過ぎていく車たちを見ていると、先ほど体験した非現実な出来事が道路の流れによって洗い流されていくような錯覚に陥る。

 この流れに寄り添いながら歩いていければいいのに、と夢想しながら瞳をとじる。バスの浅いため息をつくようなドアの開閉音が鳴るまでの間、直也はずっとそうしていた。




 ベッドから跳ね起きると、室内は真っ暗だった。

目がまったく暗がりに慣れず、真の闇が体に纏わりついてくるかのようだ。慌てて立ち上がり、手探りで電灯の紐を掴み、引っ張った。

 かちりと音がして、白熱灯に光が宿る。いっぺんに部屋中が明かりに満たされたため、今度はそのあまりの眩しさに、立ちくらみを覚えた。その破裂せんばかりの光の量から甲冑の男が怪人を倒した時の映像が連想され、それを思い出した瞬間、全身を針で刺されたかのような痛みが走った。

 室内は暑かった。服は汗でひどく湿っており、肌にべったりと貼り付いている。不快な感触だったが、着替える気持ちもおきなかった。

ベッドの端に腰を下ろし、まだ眠たい目をこすりながら顔を伏せる。

まるで服を着たまま水の中に突き落とされたかのように、全身がずしりと重い。日中よりもさらにだるさと、重みが増しているような気さえする。眠りについて休んだことに対して、誰かが自分に罰を下しているのかと勘繰りたくもなってしまう。実際似たようなものなのだろう。辛い状況から楽な状況へ流されるのはたやすいが、逆を行うには大きな決意と苦痛が伴う。

右手に目を落とすと、そこにはまだちくりとした痛みが残っていた。それでも眠る前よりは大分痛みが引いたようだ。直也は思い切って巻かれた黒い布を解き、傷口を見てみることにした。男の話の真偽をはっきりさせたい気持ちもあったが、その本心はやはり傷の様子をこの目で見て、安心をしたかったからということに他ならない。

戸惑うことなく傷口を覆っていた布を取り払うと、直也は思わず、おおっと口に出して感嘆してしまった。

あまりにも、見事だった。目を見開き、手を電灯にかざす。

掌には針サイズの小さな点が、ぽつりと残されているだけだった。その点の周りはわずかにうっ血しており、傷を取り巻くように青紫に変色していたが、皮膚を破かれ、肉を裂かれたにしてはあまりにも綺麗な傷跡だ。

あの男の言っていたことは、正しかったらしい。この調子なら、2,3日といわず明日には完治しているかもしれない。直也はもう1度丁寧に、布を巻き直した。この不可思議な布の治癒能力をもはや信じる他なくなっていた。

どうやら、バスに乗って自分の部屋まで帰ってきたあと、そのまま意識を失うようにして眠ってしまったらしい。

そう判断がついたのは、外着のまま、掛け布団もかけず、足を宙に投げ出した体勢でベッドの上を縦に眠っていたからだ。今が夏で幸いだった。冬なら寒さで、風邪を引いていたところだ。

バイクを運んでいる間も、体は休息を訴えていたということなのだろう。当然だ、と自分の肉体に問いかけるように、直也は思う。あんな化け物と生身で一戦を交えたのだ。疲労を抱えていないほうがおかしい。

顔をあげて周囲に目を配ると、そこは知らない部屋だった。ということはなく、ここは見紛うことなく直也の住んでいるアパートの一室だった。

本棚にずらりと立ち並ぶ推理小説や、脱ぎ散らかしたままの寝間着に至るまで、朝出て行った時と当然のことながら何ら変わらぬままだ。そんな普段となんら変わらない室内の様子に、思わず安堵の息がこぼれ出てくる。

水色のカーテンの隙間からわずかに覗く空は、朱色と藍色の混ざり合った色をしていた。漸次消えていく蝉の音色は、1日の終わりを象徴しているかのようだ。あまりにも幻想的で、感傷的な夏の1日の終わりに、しばし直也は首のあたりまで浸かる。

それからしばらくして、直也は履いているデニムのポケットに入れておいた携帯電話を取り出した。画面に映る時刻を見ると、午後7時を過ぎたところだった。夏の空の色は、あやふやで時を感じさせない。

時間を確認すると、思いだしたかのように腹が鳴り始めた。眠る直前に昼食をとったはずなのに、寝ていても腹は空くものなのだなと感心する。

よいしょと口に出して立ち上がり、キッチンに向かおうとするが、そこで直也は部屋の隅に置かれた自分の机に視線を留めた。

とくになにか強い意思が働いたわけではない。気づくと、キッチンとは真逆の位置に置かれた机のほうに足を向けていた。

机上にはA4用紙が煩雑に散らばっており、作業をすることすらままならない状態だった。これらはすべて仕事に使用した資料で、昨晩徹夜で報告書を仕上げた後、散らかした状態のまま眠りについてしまったのだ。

机自体はまだ新品同然で、この部屋に移り住んだ際に新しく購入したものだった。3年前に勤めていた職場とは違い、現在の仕事は自宅で作業をすることが多い。そのため貯金を崩し、わざわざホームセンターに出向いて、一番安価なものを手に入れたのである。

直也は縦に4つ並んだ引出しのうち、一番上のものに手をかけ、鍵がかかっていることを確認する。それから紙の山に埋没している、ペンギンの形をした貯金箱を左手で持ち上げた。

どこか小生意気な顔をしたペンギンで、やけにまつ毛の長いデザインが特徴的だ。昔、スーパーマーケットでやっていた抽選で当てたものだった。直也はその貯金箱をひっくり返すと裏の蓋を開け、そこに生じた穴に指を差し入れた。中にはあまり金は入っていなかった。貯金することは、もともと苦手な性分なのだ。貯金箱を縦に数回振ると、鈴の音のような音をあげて、直也の掌に小さな灰色の鍵が落ちてきた。

それは、机の一段目の引出しを開けるために必要な鍵だった。しまいなくしてしまわないように、貯金箱の中に入れておいたのだ。直也は鍵穴に、その鍵を差し込むと捻り、錠を解いた。

引き出しの中には、赤と青のビー玉や昔撮った家族写真、もう1年以上書き足していない2009年の日記帳、金の指輪、竜の絵が描かれた絵ハガキなどに紛れて、1枚の長方形の板があった。それは黒く、掌に収まるサイズで、かまぼこ板ほどの厚みがある。

左手でそれを拾い上げると、指先にひんやりとした冷たさと、重みを感じた。見た目と反することなく、その感触は鉄の塊そのもののように感じた。

表面には羽を象った銀色のマークが彫り込まれており、電灯に透かすと、そのマークの中心に『3』という数字が浮かびあがって見える。この数字があらわすところの意味は不明だったが、3があるのだから1と2もあるのだろう。だから少なくとも、これと同じものが3つはあるのではないかという、大まかな予測は昔からしていた。1と2を飛ばして、3ができることなど、普通あり得ないからだ。

黒い色のせいで目立たないが、板の表面には血が滲んでいた。さらに長方形の四隅のうち2角が割れ、面には細い傷が何重にも刻まれている。昔、この板を試しに爪で引っ掻いてみたところ、逆に爪のほうが先割れてしまったという経験がある。その後も鋏で削ろうが、床に力いっぱい叩きつけようが、板にはこれ以上、傷1つ増えることはなかった。

一体、どんなことをすればこの板がこんなにボロボロになるというのか。その疑問は直也が予想することのできる範疇を、はるかに凌駕していた。この板には、あまりにも多くの謎がひしめいている。

手元の板から目を離し、カーテンの外に目をやる。茜色の空は黒く色彩を変え、蒸し暑い夜が迫ってこようとしていた。カーテンの向こうにある窓を開ければ涼しい風が入ってくるだろうと当たりをつけたが、実際には夜の虫の音や車の走行音がよく聞こえるようになっただけで、相変わらず室内は暑いままだった。

窓を網戸にし、カーテンをかけなおしながら、直也は甲冑の男の所持していた板を記憶の中に呼び戻す。

男の腹についていたものは確かにこれと姿形は似ていたものの、やはり別のものであったように思う。あやふやな記憶の限りでは、あの男の持つ板の表面には、何の絵柄も刻まれていなかったような気がする。それにもう少し、全体的に直也の所持しているものより垢抜けたデザインではなかったか。

考えれば考えるほど、直也のなかでその推論は色を持っていく。それは適当にこね始めた油粘土が、そのうちある特定の形に作りあがっていく過程によく似ていた。

あれは、この板とは別のものだ。だが、関連があることは間違いない。そしてそうなると、やはりあの男に出会わなければいけないという、これまで幾度となく達した結論にたどりつく。結局、直也から行動できることは何もないのだ。甲冑の男という牡丹餅が降ってくるのを待ち望んで、天に向かって口を開けていることしかできない。

 また数分前と同じようにベッドの端に座り、それからごろりと後ろに倒れ、そのまま寝転がる。仰向けになりながら腕を伸ばし、板を顔の前にかざした。

 板を電灯に対して斜めに構えると、少し血痕が見やすくなる。豪雨のあとにできた大きな水たまりのように、それは羽のマークの半分から板の右端にかけて幅広く付着していた。

 この血が誰のものなのか。いつ付いたものなのか。直也はよく知っている。

 それはこの板を直也に手渡してくれた、女性のものだ。3年前まで、つまりその命を絶やす時まで、直也と交際していた女性だった。

 これが何なのか。なぜ、彼女はこんなものを持っていたのか。そしてなぜ、直也にこれを託したのか。なぜ、彼女が死ななくてはならなかったのか。

 3年という月日が経過した今でも、何も分かっていない。甲冑の男と同じだ。謎が多すぎて、何が謎にあたるのかすら曖昧になってしまう。『木の葉を隠すなら森に隠せ』だ。

当時の直也は、彼女のことはすべて知り尽くしていると思い込んでいたので、何だかわけのわからないものを死に際に渡されたという、その事実だけでまず大きなショックを受けたものだった。

強く目をとじ、それから開く。水の中に落としてしばらく経過した後の油のような、ひどく不規則な形をした天井の木目が、まず直也の目に飛び込んできた。じっと瞬きもせずに見つめていると、だんだんそれが底なしの沼のようにも思えてくる。足を掴み、それから肩を掴み、必死の形相で直也を冷たい沼の中に押し込めてくる、鬼の姿が見える。

もう1度目を瞑り、開くと、もうその鬼の姿はなくなっていた。胸をなで下ろし、それから大の字に横たわる。夕食はいいから、このまま朝までもう一眠りしてしまおうかとも思い、全身の力を一度に抜いて、寝息をたてる準備に取り掛かる。

その時、突然直也の頭にある考えが閃いた。脳みその中身が白熱灯で、のべなく照らされたようだった。

なぜ今までこの考えに至らなかったのか、と思う。さして難しいことではない。直也のもつ板が、怪人を殺した男の持つ板と似た形をしていたこと。そして、並大抵のことでは傷つかないであろう板が、時の流れに身を置いたレンガのように砕け、惨めな傷跡を残しているということ。

この2つを組み合わせて考えると、自然に1つの考えが生み出される。もしかしてこの傷は戦闘によってできたもので、この板をもった彼女もまた何者かと戦っていたのではないか。

最近になって怪人の噂が出始めた、というだけで、実は怪人自体はずっと昔から人目のつかない場所で跋扈していたのかもしれない。それが今になってなんらかの理由で、表出し始めただけなのかもしれない。考えられない話ではない。知らない以上、第三者側に立つことすらもできない。これまでの、いまだ究明されていない事件の裏には、怪人が関わっていた可能性もある。

その考えが正しいのならば。

直也はベッドから弾かれるようにして起き、頭を働かせる。考えることは、直也の仕事で最も必要とされることだ。頭が固くなってしまったときが、仕事納めと言われるぐらいだった。

板に目を落としたまま、自分の推察をまとめていく。

それから顔をあげ、正面の壁を見た。そこにはサングラスをかけた太陽の漫画の描かれたカレンダーがかかっている。その太陽の下で踊る、よく日に焼けた少年の楽観的な表情を睨みながら、直也は緊張に喉を鳴らした。

その考えがもし、完全に正しいのならば。この板を渡してくれた女性は、怪物によって命を奪われたのではないだろうか。

今でも彼女が死んだ理由は分かっていない。もっと論点を絞り込むのならば、彼女は何者かによって殺害されたことは明らかなのだが、一体その犯人は誰なのか。目星すらついていないのが現状だった。

チャイムが鳴った。

直也は玄関の方に顔を向けるが、立ち上がらなかった。用心のために、いつも一度目のチャイムは無視をすることにしているのだ。隣人の顔も分からない都会での生活を送るには、自分で自分を守らなければならない。もう1度チャイムが聞こえてくると、直也はようやく腰をあげ、板をもとあった場所に戻すと、全身を引きずるようにして玄関へと足を運んだ。

1Kの部屋なので玄関に行くのに、そう労力を使わないのが幸いだった。これが何部屋も備えている高級マンションの一室だったら、直也は玄関にたどり着くまでにのたれ死んでいたところだろう。壁伝いに歩いてようやく玄関までたどり着くと、すでにドアは開いていた。

 開け放たれたドアの前に立っていたのは、白いワイシャツ姿に緑色のネクタイといういでたちの少女だった。ネクタイに刺繍された校章からそれが高校の制服であることが分かる。

 少女の表情にはまだ幼さが残っているものの、同年代の子たちに比べれば、どこか大人びているように見えるのは、けして個人的な見解ではないだろう。ゆるやかなカーブを描いた眉毛と、鼻筋の通った顔立ちがそんな雰囲気を強く印象付けている。目は大きく、その上に生えそろうまつ毛は長い。

 そして彼女の外見で最も目を引くのは、やはりポニーテールに束ねてあるその青色の髪の毛だろう。まるで浅瀬の海を彷彿とさせ、神々しささえも感じるその髪は、美しく真っ青に染まっている。それは怪人や甲冑の男と同じくらいに、端から見れば目を疑うような光景だろう。ファッションが極限まで自由化している、2010年の東京という街においても、青髪の少女が周囲の目を独占する対象であることに違いはない。手首には、直也が前にプレゼントした、金のフレームの腕時計がはめられていた。

 少女は直也を目にすると、両頬をあげて笑んだ。

「ドア、開いてましたけど。どうしたんですか? 鍵でも壊れちゃったんですか?」

「あ、やっぱり? いまそうじゃないかと思ったとこだった。ちょっと疲れて、鍵閉め忘れちゃったみたいなんだよ」

「お寝坊さんだったんですか」

「あぁ。来たのがあきらちゃんで、助かったよ。サンキュ」

「そんな、ボクは何もしてませんよ。ただ、直也さんに、会いに来ただけです」

 言いながら、なぜか頬を赤らめる少女の頭を直也は軽く撫でてやる。そしておずおずと伸ばしてきた彼女の手をとって、家に招き入れる。

 彼女は時々こうやって、直也の家に遊びに来てくれる。最近はほぼ毎日、この時間に少女はやってきた。もはやこれも日常の一片になってしまっているきらいがある。

 ボクという一人称を用いるのも、この少女の大きな特徴だ。彼女の名前は華永あきら。半年ほど前から、直也と恋人関係にある16歳の女の子である。

 そして彼女は、直也に初めて怪人のことを教えてくれた存在でもあった。



 シャツがごわごわとして気持ち悪く、髪もべたついているように感じられたので、直也は軽くシャワーを浴びることにした。体中の関節が軋み、両端を持った状態で力をこめた板チョコのように、下手をすれば体が真っ二つに折れてしまうような気がして、衣服を脱ぐのに手間がかかった。頭に霞がかかったようなのは、寝起きのせいだけではなく、むしろ体中を蝕んでいる疲労の影響が強かった。手の傷のほうは明日までに治るだろう、と高をくくったが、この全身のだるさはいつになったら抜けてくれるのか、不安になる。

しかし少し熱めのシャワーを頭からかぶっていると、そんな気分も消え去り、今日身に受けたあらゆる傷や疲れが、湯気となって立ち上り、窓の外に消え去っていくような感触を覚えた。胸の奥にたたずんでいた不安の固まりも、熱湯によって徐々に解凍されていく。風呂場から出て、体を拭き、昨日洗濯したばかりの新しい衣類に袖を通すと、なんだかそれだけでもくたびれた体から脱皮し、新しい体に生まれ変わったかのようだった。

風呂に入る前に外した黒い布をまた元の通り掌に巻き、タオルで頭を拭きながら居間に足を踏み入れると、空きっ腹をかどわかすようないい匂いが漂ってきた。

「今晩は、ラーメンにしてみました」

 ワイシャツにエプロンをつけたまま、正座をして待つあきらの言うとおり、小さな折り畳み式のテーブルの上にはラーメンの入ったどんぶりが2つ、向かい合うようにして置かれていた。もともと1人用の机のため、どんぶりが2つも乗るとそれだけで机上はいっぱいになってしまう。湯気とないまぜになって舞い上がってくる匂いから、そのラーメンがみそ味であることが分かった。

 黄色い麺の上にはほうれん草や、なると、チャーシュなどお馴染みの食材が体裁よく並べられている。直也は濃い茶色のスープの中に浸るそれらを見つめ、立ったまま、声を失っていた。その姿を不審に思ったのだろう。あきらは直也の顔を覗き込みながら、眉を寄せた。

「あ、あの。夏にラーメンとか、嫌だったですか?」

「あ。いや、ごめん。ちょっとびっくりしただけだよ」

 あきらの言葉にハッとなり、直也はテーブルを挟んだ向かい側に慌てて腰を下ろした。

「実はさ、昼にラーメン食べようと思ってさ。結局ハンバーガーにしたんだけど。やっぱりラーメンも心のどっかでは諦めきれなくて。さっきから、食べたいと思ってたんだ」

 こうしてあきらと波長が合うことは、これまでも度々あった。お互いがいま何を欲しているのかを勝手に受信し合うことができるのか、それとも、単に同じタイミングで同じことを考え、思っているのか。どちらにしてもそういう奇妙な偶然の一致を、直也は悪いとは思っていなかった。むしろ、幸せに感じているくらいだ。価値観の共有し合える存在が近くにいてくれること以上に、安心なことはない。

「それは、良かったです。ボクもラーメンが食べたかったんです。世間のムードは冷やし中華ですけど、こういうのもいいですよね」

 そう答える、あきらの表情も楽しげに緩んでいる。彼女もまた、直也と同じことを考えていたのだろうか。想像すると、また胸の中が白い靄で満たされそうになる。その重さに身が傾ぎ、快楽の切り岸へと落下してしまいそうになる。

「あぁ、悪くない」

 悪くないなと、もう1度内心で復唱し、心の底からそう思う。あきらもまた、悪くないですね、と目を細めながら言った。


  指先の痺れは完全に抜けており、箸をちゃんと持って、ラーメンを完食することができた。インスタントのものなので、よほど下手くそでない限り、誰が作っても同じような味になるのだが、直也はこれまでの人生の中で食したインスタントラーメンの中で、今日のものが一番おいしく感じた。

 夕食の話題の中心は、いつものことながら、あきらの学校の話だった。直也の高校時代はすでに4,5年前に終わっていたから、現役である彼女の話は懐かしい一方で、時には新鮮なものもあり度々驚かされた。あきらの通う高校は、中高一貫校の私立だったから、公立高校出身の直也からすれば、初めて聞くような事実も少なくはなかった。

 その情報を聞き入れるたびに、やはり東京は違うんだな、と卑下的な気分になる。

 今日に限らず、あきらの話にたびたび出てくるのが、葉花なる人物だった。あきらと相当親しい仲らしいがあいにく、直也は名前を聞くばかりで実際に目にしたことはなかった。だが、彼女の話を聞く限り、なかなかに常識外れで、面白い人物であるということは分かる。葉花に関わる話題を口にする時、あきらは途端に饒舌になり、とても楽しそうにする。それだけで直也にとっては、充分だった。彼女の嬉しそうな顔をみるだけで、体中にしがみつく疲れを、ひとつ残らず振り落とすことができそうだった。

「けが、大丈夫ですか?」

 話がひと段落したとき、見計らったかのように、あきらがおずおずと指摘してきた。怪人や鎧の男と出会ったことは、あきらに話していなかった。疲れている原因は、仕事上のトラブルとごまかしておいたし、けがも転んですりむいたことになっている。

 残ったスープを飲みほしている途中であきらに言われ、それから直也は自分がけがをしていたことを思い出した。もはや痛みは潰え、掌を拘束している黒い布が邪魔くさく感じるほどだった。しかし、外すことはしない。これを取ってみて、明日傷口がもし化膿でもしてしたら、笑い話にもならないからだ。

 直也は箸を持つ手に視線を落とし、握ったり閉じたりを繰り返しながら、答えた。

「あぁ、もう治ったみたい。最初からそんな大袈裟なもんじゃなかったし。心配することじゃないよ」

 掌に穴が空いたのは初めての経験だったが、直也はあえてつよがりを言った。一度、あきらに不安の種を与えれば、当人よりも彼女の方が深く思い悩んでしまうことを、直也はこれまでの経験から知っていたからだ。以前など、捨て猫の気持ちになって考えすぎて、夜も眠れなくなったことがあるらしい。

 だから直也は自分のけがから、話題を即座に転換した。この話もあまり持ち出したいものではなかったが、この流れが続くことよりはこのときは、少しはマシのように思えた。

「あきらちゃんの方こそ、最近は、大丈夫?」

 何がですか、と小首を傾げかけて、あきらは少し面伏せになった。直也の表情から、直感的にどの話題を振られているのか、判断できたのだろう。深い仲になると、主語を隠しながら話をすることができたりするから便利だった。何度も口にするのが憚られるような単語で、胸を汚さずに済むからだ。

 あきらは箸を置くと、直也を上目づかいで見ながら、後ろ暗そうな様子で言った。

「あ、はい。仲間もまた増えてくれたんで、少しはボクの出番も少なくなりました」

「そう。俺としちゃあ、そっちのほうが断然いいんだけどな」

 天井に視線を向けて、直也は大いなる希望を掲げるような口ぶりで言う。直也の理想と、あきらの期待する現実とは相反するものだということは以前から分かっていたので、あきらを責めるような口調にならないように、注意を払った。

 しかし、直也のそんな配慮は実ることなく、あきらは目に見えて表情を暗くした。しゅんと全身を縮こませ、うなだれる。

「ごめんなさい」

「いや、なんで謝るんだよ」

「だってボクは……。直也さんの嫌がること、やっちゃってるから」

「そりゃ最初はあんだけ反対したけど。今は、あきらちゃんの意見を汲みたいと思ってるし……。それに、いま目の前にこうしてあきらちゃんが元気でいてくれる。それだけで、十分なんだよ」

 あきらは目を伏せ、残ったラーメンの汁をじっと見つめている。まるでその水面に反射して映っている自分を、必死に責めたてているかのようだ。

「ラーメン、食べなよ。せっかくこんなにおいしいのに、冷めたらもったいない」

 なるべく温和に聞こえるように言いながら、直也はあきらの目の周りが紅潮していることに気が付いて、息を呑んだ。下を向いていたから気がつかなかったが、あきらの瞳は雨滴の落ちる水たまりのように、音もなく揺れていた。唇を小さく噛みしめている。

 しかしあきらは、手の甲で目のあたりを拭うようにすると顔をあげた。直也を真正面から見据える、そのまなざしはやはり潤んでいて、直也は面食らった。

「そうですね。ごめんなさい」

 掠れた声で言うと、箸をとり、あきらはラーメンを再び啜り始めた。しかしそれもけして、景気のいいものではなく、しぶしぶといった様子が窺えた。

その姿を眺めながら直也は、どうしてよりにもよってこの話題を繰り出してしまったのか、と後悔する。

 あきらが怪人と戦っている、というあまりにも驚愕すぎる事実を知ったのは3週間ほど前のことだ。同時にその時はじめて、直也はこの2010年という文明が発達した時代に、怪人という、あまりに荒唐無稽な存在が跋扈していることを知ったのだった。

 はじめは冗談だと思った。しかし、恐ろしい唸り声をあげて迫りくる怪人を退け、ときには大きな傷をこさえてくるあきらを見ていると、知らず知らずのうちにその話を信用するしかなくなっていた。

 もちろん、直也はあきらが戦うことに対し猛烈に反対した。愛した人を亡くす苦しみ、哀しみは、もうたくさんだった。あんなもの、一生に一度だっていらない感情だ。しかし、あきらの決心は直也が思う以上に頑なで、強かった。

 最終的に直也は、あきらに負けた。許すことにしたのだ。その代り、絶対にけがをしないで、または死なないで帰ってくることを約束づけた。それを従順に守ってくれているのか、あきらは日常的は些細やものを除けば、けが1つこさえてきたことはなかった。

 それから2人の間では、この話題についてあまり触れないことが、暗黙の了解となっていた。直也を巻き込みたくはないから、と言い張ってあきらは自分がやっていることについて全く教えてくれなかったからだ。自分のことを考えてくれての発言なら、深く問い詰めるわけにもいかない。いつしか、あきらのやっていることを追求する、という選択肢は直也の頭の中からいつしか自然消滅していた。

 しかし、久々に直也はあきらにこの話題を突きだしてしまっていた。なぜだろうと思案してみると、やはり今日怪人に出くわしたからだろう、という結論にすぐさま達することができた。直也の中に流れる全身の血液が興奮と感動で震え、すべての細胞が口を揃えて怪人のことを聞き出したがっている。そんな感触に、直也は身震いした。

「あきらちゃん」

 箸を持つ手を止め、あきらは視線だけを上向かせ、直也を見てきた。直也はしばらく宙に視線を巡らせた後、頭を下げた。

「ごめん」

 するとあきらは、まだ顔を俯かせたまま、途中で一度つかえながら返してきた。

「なんで、謝るんですか?」

 直也は頭を上げ、あきらを見た。彼女はまだ下を向いているため、直也には青い頭とそこにちょこんと乗っかった、ポニーテールの結び目しか見えない。

「変な話題持ち込んじゃって、さ。やっぱり俺、ダメだな。考えなしにいつも行動しちゃうんだ。分かっちゃいるんだけど、なかなか治らないもんだよな」

 自嘲気味に言いながら、直也はこの言葉を今まで何人の人に言われただろうと思い返している。無論、思いだせない。親しい人から、一度会っただけの依頼人まで、幅が広すぎるからだ。

 するとあきらは、いきなり噴き出した。それから指先で目元に触れながら、笑みを携えて言った。

「初めて会ったときから、そんなの分かってましたよ」

 あきらの表情が和らいでいく。瞳に光が宿り、目尻にたまった涙がきらきらと輝いて見える。その大雨のあとに差す陽光のような雰囲気に、凍りついたようだった直也の心がじわじわと溶けていく。

 あきらの手が、のんびりと直也のどんぶりに伸びる。だが直也は、その手を遮った。あきらのどんぶりを持ち上げ、自分のものと重ねる。

「いいよ。俺が片付けるから。用意してくれたのは、あきらちゃんじゃないか。ここは俺がやんなきゃ不公平だろ」

「で、でも」

「いいって、いいって。あきらちゃんは座ってて、テレビでも観ててよ。とっとと洗ってくるからさ」

 立ち上がろうとするあきらの肩を抑え、無理やり座らせる。あきらは何だかはじめ煮え切れない表情で直也を見上げていたが、ため息をつくとベッドの上に転がったリモコンを手に取った。直也は片手でどんぶりを掴むと踵を返し、キッチンへと足を運んでいく。

 あきらがいるだけで、この何もない質素な室内がぐっと華やいだ気がする。体も軽くなったみたいだった。明日になれば、すべては元に戻っているはずだ。いや、必ず完治していると自身を鼓舞する。

どんぶりを片手に歩きながら、直也は先ほどあきらに訊きそびれてしまったことを思い返していた。

 それは、あの甲冑の男とあきらとの関係性についてだった。あきらは先ほど、新しく仲間が入ったと呟いていた。その仲間、というあきらの口から初めて発せられた概念が妙に頭の中に引っ掛かっていた。ずっと直也は、彼女が1人で戦っているものと思い込んでいたからだ。

 もしかしたら、あの男はあきらの仲間なのではないか。不思議はない。彼も怪人を退治していた。共通点がある。もし、あきらとあの男に関係性があるのならば、それが最も真実に近づくためのてっとり早い方法のように思えた。

 だが、しばらくはよそう。機会を見つけて、聞き出せばいいことだ。時間はまだある。3年間探し続けてきた証拠を、ここで焦り、ふいにすることだけは避けたかった。いままで直也を突き動かしていた好奇心や勇気が、初めて減速していく。

 あきらが怪人と戦っている事情を知ったとき、直也はともに戦うことを望んだ。恋人だけに危ない橋を渡らせて、自分は見ているだけなんてこと、できるはずもない。

 しかしあきらはそんな直也に言った。穏やかな、まるで春の波風のような表情で、泣きそうな声で口を開いた。

 ボクが直也さんを守ります。だから直也さんは、ボクの日常を守ってください。

 もちろん、戦いたい。多くの人々を怪人の魔の手から救い出したい、という気持ちは今でも直也の中でたぎっている。しかし、その一言で直也はその方法をあきらに尋ねるのは止めた。これ以上、質問を重ねることは、彼女の信頼を裏切ることになる。

 だから直也は、その力を自分の手で見つけることに決めたのだ。そしてその切れ端をいま、直也は手中に収めることができた。あきらには頼らない。自分の手で、人々を守る力を手にしてみせる。どんぶりを流し台に乗せながら、決然とした気持ちを抱く。

背後からはテレビの音が聞こえてくる。笑い声が絶えず聞こえることから、バラエティー番組でも放映しているのだろう。画面を食い入るように見つめているあきらの後姿を見やり、それから直也はまたもう1度、黒い布によって覆われた自分の掌を見つめた。

残された時間は、たっぷりある。そんな単純なことを、直也はいつもあきらに教えられる。その気持ちにときおり深く浸りながら、この人生の渦の中を、流されていく。




2010年7月26日


 朝目覚めると、隣で寝ていたはずのあきらの姿がなくなっていた。

それもそのはずで、携帯電話に手を伸ばし時間を確認すると、午前9時だった。あきらは学校に出かけたのだ。夏休みに入ってはいたが、昨晩、今日は補習があると話していたことを思い出す。彼女を見送ることができなかったことに、少々後悔の念を抱いた。

 直也はベッドから這い出ると、フローリングの床に直接積まれた衣類の山の中から下着とTシャツを適当に引っ張り出し、それらを身につけた。2人で毛布にくるまっていたためか、体が汗で濡れており、袖を通すのに手間がかかった。

 それからまた昨晩と同じようにベッドのわきに腰かけ、自分の手に目を落とす。しばらくその布の巻かれた掌をあらゆる角度から眺め、それから意を決して、布を取り払った。

「おぉ!」

 思わずまた、声を出してしまう。空気にさらされた掌には、昨日あった針でつついたような傷もなくなっており、綺麗に元通り、治っていた。最初から傷などなかったのではないかと錯覚してしまうほどだ。指で傷があった場所に軽く触れたり、引っ掻いたりしてみるが、とくに強い痛みはない。さらに掌を電灯にかざし、強く手を叩いてみるが、傷がまた開く様子はなかった。

 それにしても本当に1日で、体を貫通した怪我が完治してしまうとは。その不可解さに、驚きを通り越して、不気味な気配を感じる。

「この布は、一体なんなんだろうな」

 疑問を呟きながら布を顔の前でひらひらと振ってみるが、どんな憶測も意味をなさないことに気づいて膝の上に広げた。この布が何であろうと、あの男にもう1度会わない限り謎は一向に解けることはないだろうし、それにどのみち怪我が治ったことに変わりはない。

 布をたたみ、机の上に置いてから体を返すと、そこでようやく直也は足もとの小さなテーブルに気が付いた。テーブルの上には、皿にのった3枚の食パンと、ラップをかけてあるスクランブルエッグ、それに透明の容器の中にはポテトサラダが作ってあった。

 テーブルの端のほうにはメモ用紙に記された書き置きがあり、そこにはあきらの丸い字で『起きたら食べてください。いってきます。』とある。

 直也はスクランブルエッグにかかったラップを外し、そこに添えられたハムを指先で摘まむと、それを口に放り込みながら軽やかな気分で洗面所に向かった。


 顔を洗って寝ぐせを直し、朝食を食べてから外着に着替え、直也は家を出た。バイクがないので歩いて、一番近場にあるバス停を目指す。

30分ほどで目的地にはたどり着いた。バス亭に置かれた、屋根の付いたベンチには3人ほど座っていた。そのうち2人はスーツを着た男で、彼らは同僚らしく談笑を交わしている。あと1人は髪を紫色に染めた老婆だった。頭には赤と茶色の混じり合った花の形をした大きな髪飾りをつけている。サラリーマンたちの騒々しい声に意を介する様子もなく、顔を近づけて度の強そうな眼鏡越しに文庫本を読んでいる。背中が曲がっているためか、元から背が小さいのか、老婆の頭は直也の腹ぐらいの位置にあった。

 直也は老婆の隣に腰を下ろし、肩にかけたメッセンジャーバッグを、膝の上に乗せた。今日もまた、白々しいくらいによく晴れた空だった。入道雲が間欠泉から吹き出る蒸気のように、雄々しく立ち昇っている。今日もまた蒸し暑く、屋根の下にいても首筋に汗がにじんでくるほどだった。熱されたアスファルトからは湯気が沸き上がっており、それは熱を帯びた地球が地表に浮かべた、辛苦のため息のようにも見えた。

 体の疲れは、多少残ってはいるものの思ったほどではなかった。職場に向かう気力はあるし、動く体力もある。それに直也としては部屋で寝ているよりも、働いている方がずっと楽だったので、仕事に出かけることに迷いはなかった。首を曲げると、軽快な軋轢音を響かせて、関節が鳴った。肩を回すと、肩の関節も鳴る。職場に行く前に栄養ドリンクでも買っていこうかと、財布の中身を思い浮かべた。

「悲しいねぇ」

 突然、しゃがれた声が聞こえ、直也は反射的に老婆を見た。するといつからそうしていたのか老婆は文庫本を閉じており、顔の皺の中で佇む鋭い双眸で直也を見ていた。その背筋がゾッとするほどの炯眼に、直也は戸惑いを覚えた。

「な、なんすか?」

「お前さんは」

 すると老婆は、直也の鼻の頭あたりに目がけて、まるで枯れ枝のような指を向けてきた。その指は風が吹けば折れてしまうのではないかと心配してしまうほど頼りなく、細かく震えている。

 そして老婆は突然、目を見開き、歯茎を剥いて、唾を飛ばしながら叫んだ。

「お前さんは、風車に立ち向かう勇気はあるのかい?」

 老齢らしからぬ、空気が音を立てて弾けるような大声だった。電信柱に止まっていた鳥たちが一斉に飛び立ち、背後を歩いていた若者が早足で、逃げ去っていく。

 周囲の空気が凍りついた。

虚を衝かれた直也は、老婆を真正面から見据えるしかない。2人組のサラリーマンも、なんだか珍妙なものを見てしまったかのような表情で、絶句している。

しかし老婆はその漂う空気に気づいていないのか、それともそういう思考は過去に置いてきてしまったのか。憮然とした雰囲気すら漂わせて、直也を食い入るように見ている。

「ふ、風車?」

こちらの顔を見ながら言われたので、今の台詞は自分に向けて放たれたのだと直也は判断した。呆気にとられながらも聞き返すと、老婆は何事もなかったかのように、ゆっくりとベンチから腰を上げ、杖をつきながら立ち去っていってしまった。

老婆はもはや一度たりとも、直也を振り返らなかった。一体、今の発言は何だったのか。あの言葉の真意には何が潜んでいるのか。質問する気力もおきず、ただ直也は去っていく老婆の小さな背中を見送る。

広告が車体一面に貼られた、派手な都バスが到着するまでの間、誰1人として口を開かなかった。


バスの中は混んでもいなかったが、空いている座席も見当たらない、という状態だった。車内はほどよくクーラーで冷やされており、それほど寒くもなく、心地よかった。入口近くの吊皮につかまって、流れていく窓の外の景色を眺める。昨日乗ったばかりだというのに、バスを利用するのは久しぶりのように感じた。

直也の隣には大きなヘッドホンをつけた青年が立っていて、音楽にのって細かに体を揺らしている。すぐ隣の左側の席では、30代半ばとみられる女性が化粧をしていた。時折、大きく揺れる車内で、器用にも手鏡を片手に口紅を塗っている。

ちょうど直也の右手の先にある席には3歳ぐらいの男児と母親が並んで座っており、男児は大きな目で興味深そうに窓の外を覗き込んでいた。時折、思いだしたように「車―」と指を差して叫び、その度に母親が「そうだね、車だね」とにこやかに反応している。

周囲の乗客たちを軽く観察してから、直也は再び窓の外に目を向ける。するとちょうど、その目に飛び込んできたものに、直也は意識を奪われた。

それは、歩道の曲がり角に設置されたカーブミラーだった。橙色の長いポールの上に、丸い大きな鏡がついている。それだけなら何の変哲もない、日本全国どこにでもあるカーブミラーだ。しかし目の前を過ったそれは、ポールが無残にも半ばからへし曲がっていた。

窓に少し顔を近づけ、小さくなっていくカーブミラーを目で追うが、やはりそれは外から大きな力が一点に加えられたかのように、内側にへこんでいる。車が激突でもしたのだろうか。それとも、喧嘩か何かが起きたのか。

「ママー。あれみてー。へこんでるー」

 直也とちょうど逆側の窓を覗き込んでいた、男児が無邪気な声を発した。直也は思わず、男児の幼い指先が示す方向を見た。

 そこにはコマーシャルでよく目にする大手スーパーの巨大な看板が、でかでかと掲げられていた。8階建ての建物の屋上に設置されたそれは、まるで鳥を打ち落とすための強靭な盾のようだ。

 そして男児の発言通り、その看板はへこんでいた。先ほどのカーブミラーと同じく、一点に凄まじい力が込められたかのように、中心に向かってしわが刻まれている。

 訝しいとは思ったものの、直也はとくにこの出来事についてこのとき、特別な感情を抱かなかった。話題の種になるな、と思った程度だ。あの風車の話をしてきた老婆も同じだ。どちらも意味が深すぎて、どこから疑問を抱けばいいのか分からない点で、共通だった。やがて、その奇妙な看板もバスの速度に合わせて、後方へと消え去っていく。直也は扉に背を預け、長い息を吐き出す。


 バイクを受け取ると、職場までアクセルを吹かした。信号が運よく、青を示し続けたということもあり、予想よりも早く到着することができた。

 国道から小道に入り、入り組んだ住宅密集地をしばらく進んでいくと、そこに直也の職場はある。民家の立ち並ぶ景色の間に、ぽつんと置かれた雑居ビルだ。まるで酢豚の中のパイナップルのような異質感がある。

すぐ隣には公園があり、まだ幼稚園にも行けないような小さな子どもと、母親が声をあげて遊んでいる。時折、小学生くらいの自転車に乗った男児の集団が目の前を慌しく通り過ぎるのをみて、あぁもう夏休みなんだなと改めて実感する。少年たちのシャツから除く、こんがりと日焼けした細い腕が眩しい。

 雑居ビルは灰色で、ごらんの通りコンクリートですよ、と主張せんとばかりの外装を備えており、その壁面にはところどころ黒いくすみやひび割れが生じていた。見るからに新築ではない。50年以上、この町の中に物言わず起立しているという感じだった。

そのビルに1階のコンビニと、3階のマッサージ店に挟まれる形で、『なんでも屋 ノアール』の看板は掲げられていた。直也は外の赤く変色した階段を、足元に注意を払いながら昇ると、『ノアール』の青いドアの前に立った。

ドアノブを握り、回そうとすると、引っ張ってもいないのに勝手にドアがこちらに向かって開いた。驚き、咄嗟に身を引くと、開け放たれた扉から金髪の少女が猛然と飛び出してきた。長い髪を両側で縛っており、それが肩にかかっている。肌の色は白く、外人かと思わせるが、その活発そうな顔立ちは日本人のそれに近いように思われた。背丈は直也の胸ぐらいであきらよりも、また一回り歳は下のように見える。白いTシャツとジーンズを履いており、それが彼女のもつ正のエネルギーの塊のような雰囲気にとても似合っていた。

直也は謝罪1つなく立ち去っていく少女の背中にいきり立ち、語気を荒らげる。

「あぶねぇよ! いきなり出てくんな」

「あ、悪い。おっさん。お父さんが代わりに謝っておくから許してやって!」

 彼女はちょっと直也のほうを肩越しに振り返るだけで、足を止める素振りすら見せない。

 直也はベランダから身を乗り出し、階段を下っていく少女に叱咤した。

「お前が謝れよ!」

「私は忙しいんだよ。じゃあ、おっさんも頑張って!」

「おっさんじゃねぇ、俺はまだ20代だ!」

 そんなやり取りを交わす間も、少女は急かす足取りをまったく緩めることなく、道の曲がり角の向こうへと姿を消していった。

 憤りに頭を支配されながら、直也は乱暴にドアノブを握り、室内に入る。直也の背中でけたたましい音をあげてドアが閉まった。

 古めかしい外装とは似つかわしくないほどに、玄関は瀟洒で綺麗に片付けられていた。足元の茶色いタイルや、卵色の壁紙は清潔な印象を与えさせる。廊下の天井には等間隔に、明治時代のランプを髣髴とさせるような電灯が吊り下げられていた。下駄箱の上に飾られている、羽ばたく瞬間の鳩を描写した絵はそれなりに有名な画家が描いたものらしい。絵の隅に、筆記体でサインが施されてあった。

 玄関をあがるとすぐ右手に見える整理棚の上には、色とりどりの花瓶が並べてある。そこには花が生けてあり、ささやかながら心に平穏を与えるような、小さな花びらを咲かせていた。

 室内は音1つなく、別の世界に紛れ込んでしまったのではないかと毎回入るたびに、不安になる。人の出入りが激しい家らしいが、直也はここに来てからこの室内で1人の男としか会ったことがなかった。

 4,5歩廊下を歩くと、左側にドアが見えてきた。手の甲で数度叩く。返事はなかったが、直也はそのドアを一切の躊躇なく開いた。

「まったく、朝から騒がしいな。君は」

 いきなり低い声が投げかけられ、直也はドアを開け放したまま足を止めた。

 その部屋は、『ノアール』の事務室だった。部屋に入ってちょうど正面にあたる大きな机の前で1人の男が頬杖をついて、直也を見ていた。

眉を寄せながらも、愉快げに口元を緩ませている。黒いスーツを纏った、眼光の鋭い男だった。年齢は45だということを直也は知っていたが、どうみても30代後半のようにみえる。その肌は乾燥こそしているもののまだ若々しく、染み1つない。鼻が高く、目が糸のように細い。肩幅が広く、その割には体の線は細い。髪は長く、肩にかかっている。鼻の下には、いわゆるちょび髭があった。こうして対面しているだけでも背中に嫌な汗が伝いそうだ。

 男は全身から、高慢だがそれでいて老獪な雰囲気を醸し出しているような人間だった。すべての嘘がこの男の前に立つと、舞台でスポットライトを浴びせられる者のように、白日のもとに炙り出されてしまいそうだ。

 事務室の中は、廊下とはまた趣が異なっていた。左右にはずらりと、合計4つの本棚が立ち並んでおり、その中心には背の低い、ガラス張りの応接用テーブルが2人がけのソファーとセットになって置いてある。足元は高価そうな赤いカーペットが敷かれ、そこには擦り切れた跡もなければ、埃1つ落ちていなかった。室内はクーラーが効いていたが、それでもまだ少し蒸し暑く感じた。

 男は俗に言うところの社長イスの上でふんぞり返り、机に置かれた小さな扇風機の風を独占している。その扇風機のわきには、『所長』と書かれたネームプレートが立ててあった。

 この男こそ、『何でも屋 ノアール』の所長を務める直也のいまの上司、黒城和弥だった。

「ドアを開けたままでは、冷たい風が逃げてしまうだろう。閉めてもらおうか」

「あ、はい」

 言われるがまま、直也は後ろ手でドアを閉める。黒城がその行いを見て、満足そうに頷いた。直也は彼の前に立ち、さっそくメッセンジャーバッグから茶封筒を取り出す。

「うちの娘が、迷惑をかけてしまったようだね」

 封筒を取り出す直也に、黒城はのんびりとした様子で言った。先ほどこの部屋から出てきた金髪の少女が、この男の娘であることを直也はこれまでのやり取りから知っていた。

 直也は少し迷ったものの、自分の感情に正直になることにした。どんな上辺を繕っても、この男には無意味だ。

「えぇ、まあ。ちょっといらっとしたというか……。いきなり飛び出してきて、謝りもしなかったから」

「そうか。あとで叱っておこう。コーヒーと紅茶、どちらが好みだったかな?」

「いや、別にいらないです。あいつは、黒城さんに代わりに謝ってもらうとか言い残していきましたけど」

「くだらん。私が謝る必要など、どこにもないではないか。私は絶対に謝らんぞ」

 いや、そりゃその通りなんですけどと心の中で思いながら、行き場のない怒りを小さなため息にして吐き出す。両肩にどっと疲れがのしかかってきたような気がした。

ポットを持ち上げかけた黒城は、直也の拒否につまらなそうな顔で鼻から息を吐いた。彼のテーブルには、漫画の単行本がうず高く積まれていた。それらを片手で無造作にどかし、クリップで留まったA4用紙の束を発掘する。直也が持ってきた茶封筒を、自分のすぐ目の前に置いた。

「ところでだ、昨日ネットで面白い話を見つけたのだよ。あ、そこのソファーに腰を下ろしたまえ。立っていては疲れるだろう」

 A用紙の束をぱらぱらと捲りながら、黒城は直也に椅子を勧める。直也はその言葉に甘んじて、頭を下げたあと、応接用テーブルのわきにあるソファーに着席した。

 漫画の山に隠れていて先ほどは見えなかったが、黒城の右手のあたりには週刊少年ジャンプが伏せてあった。左手のほうには袋から出したばかりと見てとれる、食べかけのせんべいがある。直也が来るまで、くつろぎながら漫画雑誌を読んでいたことが火を見るより明らかだった。

「それで、どんな話なんすか?」

 すぐに仕事の話に入りたかったが、直也は彼にとりあえず調子を合わせることにした。黒城を不機嫌にするほど、面倒なことはない。

 よほど聞き手が欲しかったのか、黒城は小学生のように瞳をわずかに輝かせて、机から身を乗り出した。得意げに直也に指先を向けた。

「聞いて驚かないでおくれよ。それは、2010年の新聞だよ」

 は、と思わず直也は声をあげてしまう。いまはまさしく2010年だ。別に2010年の新聞があることで、おかしいことなど何もない。

 しかし黒城はそんな直也の疑問など承知していたとばかりに、むしろ、そう首を傾げられるのを待っていたとばかりに両の手を打った。

「いま君は一瞬、私がボケたと思ったろう?」

「いや、そこまでは」

 上司に対し強く出るわけにもいかず、直也は代わりに視線を逸らす。壁には布でできたさまざまな国の国旗が画鋲で止めてあったが、そのいずれにもやはり埃は被っていなかった。中国の真っ赤な旗を数秒見つめてから、黒城に顔を向け直す。

「思ってないですけど」

「確かにそれが、今年刷られたものなら何も疑いはないだろう。私だって、君にそんな話題は振らない。だがそれが、数年前に刷られたものだったなら、どうする?」

「印刷ミス、とかじゃないんですか?」

 常識的に考えれば、そう考えるのが普通だろう。それが新聞社の大げさないたずらか。

 しかし黒城は顔の中心にしわを寄せると、再び椅子の背にもたれかかった。天井を仰ぎ、それから胸の前で手を組む。

「そう考えるのが、一般的というものなのかな。大衆的とも言い換えようか。だがな私は、それが未来からきた新聞ではないかと信じている」

「未来からの?」

 片方の頬だけで笑いながら、直也は黒城の横顔を凝視した。黒城は時々こうして、荒唐無稽な妄想を臆面もなくひけらかすことがあった。周囲を一切寄せ付けないような、海千山千の雰囲気を持っているくせに、同時に彼は少年のような瞳を持っている。こういう人を純真とでもいうのだろうか。怪人がこの世に実在すると知ったら、彼はきっと手放しに歓喜することだろう。

「この新聞が見つかったのは、2003年のことらしい。これを見つけたときの様子も、ビデオカメラに録画されていて、動画サイトにアップロードされている」

「ネットの情報を鵜呑みするのも、どうかと思いますけど」

 インターネットの関連の知識にはひどく疎い直也だが、そこに記されているもののほとんどが真偽を疑うものである、という知識は持っていた。反論すると、黒城は難しそうな顔をして「そういう考え方もある」と前置きをしたあとに、「だが」と続けた。いつの間にかカップに注ぎ込まれていたコーヒーに、彼は口をつける。

「だが、男はロマンの中で一生を終えるものだ。その気持ちを忘れては、若さを失うだけだと私は思うがね。きらきら光るものは、いつでもそこらへんに転がっている。それを宝石とみるか、価値のない石ころとみるかはその人次第だと思うがね」

「言ってることはわからないでもないですけど。やっぱりそれは、深読みしすぎじゃないですか? 未来からきたなんて、まるで漫画の中の話じゃないですか」

「結構な話じゃないか。漫画の中の世界。私の憧れの1つだ。未知なる力というものを、私は一度手に入れてみたいものだよ」

「未知なる力?」

「大きな力だ。他人とは違う。他人は持っていない。私だけの、巨人の力だ。私にだけ見えるものがあり、私にしか届かないものがあり、よってどんなものも私にはかなわない。そんな力を得ることが、私の夢なんだ」

 巨人の力。直也は黒城の言葉に、皮膚がささくれ立つほどの反感を覚えた。昨日見た、ミミズの死体が脳裏に蘇る。

 直也はいまでも、この男の態度に慣れることができない。おそらく黒城とは一生、分かり合えないような予感すらする。

 一通り、喋った後、黒城はようやく直也の持ってきた茶封筒に手をかけた。中からA4用紙と数枚の写真を取り出し、そこに書かれた調査結果を確認している。

 それは直也が行った、浮気調査の結果を記した報告書だった。

 直也は簡単に言うと、『なんでも屋 ノアール』から仕事をもらって生活している。黒城が依頼された仕事の中から、ふさわしいものを選び、その仕事を請け負っているのだ。違う視点から見れば、依頼人と直也の間の仲介を黒城にやってもらっているということになる。

直也に任される仕事は、浮気調査や失踪者の捜索などの探偵業務がほとんどだ。これは直也自身の希望でもあった。探偵事務所で数年働いていた実績を生かしたかったのもあるが、それよりも探偵になることが直也の幼少時代からの夢だったということがどちらかというとウェイトを占めていた。

 今回の依頼人は40代半ばの主婦で、夫が浮気しているかもしれないので調査して欲しいという内容だった。男の仕事はとある企業のサラリーマンだったため、直也は会社の外で彼が帰るのを長時間待ち続けなくてはならなかった。幸いその会社の近くにファミレスがあったため、窓際の席を陣取り、日中はずっとその銀色に照り輝く建物とにらめっこしていた。結局、男は定時に帰されることはなく、会社を出てきたのは、夜10時を回ったころだった。

 結果は黒。直也は男を追跡し、雑誌でも取り上げられていた覚えのある高級レストランの前で、若い女性と出会っているところでカメラのフラッシュを焚いたのだった。

 とくに達成感を味わうこともなく、ただ疲労だけを引き連れて、あの日は自室に帰ってきたことを覚えている。直也はこの仕事をしてから、一度たりとも満足感を得たことはなかった。降り積もるのは、いつも虚無感と「やっと終わった」というため息の出る喜びだけだ。

「よし、いいだろう。ごくろう。よく調べてくれた」

 2、3分ほどしたから顔をあげ、黒城は直也を見て言った。直也はうつむきながら言葉を返す。

「まぁ、仕事だから。あんまり他人の生活をこそこそ嗅ぎまわるのは、気持ちいいもんじゃないですけど」

「日本の探偵というものは、そういうものじゃないか。それとも殺人現場とかで『犯人はお前だ!』とかやりたいのかね?」

「まぁ、それが夢っちゃ夢ですけど……。それが日本じゃ難しいことは知ってます。大人なんだから」

「大人が夢をみることが、おかしいのかね?」

 黒城は頬をあげて笑いながら、椅子に深くもたれかかり、遠い目で言う。

「やはり君も、フィクションの世界に憧れているのだね。結構なことだ。やはり男はそうでなくてはいけない。君も分かっているじゃあないか。親近感がわくよ」

 黒城の思考とひとくくりにされると、なんだか腹がたった。あんたの荒唐無稽な妄想とは違うんだよ、と怒鳴りつけたくもなるが、直也は拳を握ってその衝動を抑え込んだ。

「そんなことよりも、次の仕事をください。今度はなんですか?」

 直也はソファーから立ち、黒城の席に迫った。黒城はカップのコーヒーを一息で飲みほすと、空になったカップを強く机に叩きつけて、直也の目を見ながら言った。

「ない」

「は?」

 一瞬、黒城の発した言葉の意味が分からず、直也は不躾に返してしまう。

 すると黒城は先ほどのA4用紙の束を手に取り、適当にめくったあとで

「ないと言っている。君に紹介するべき仕事は、いまのところ本当にないんだ」

「ないって……そんな」

「最近は、なんでも屋では『カイザード』があるし。このへんでの探偵事務所といえば、『加美山探偵事務所』がある。適材適所というものだ。こんなごちゃまぜのところでは、仕事の割り振りが少なくなるのは当たり前ではないのかね?」

「そりゃ、そうですけど……」

 その仕事を持ってくるのが、あんたの仕事だろうと喉まで出かかる。しかし唾とともにその声を呑みこんだ。こういうとき、直也は自分も少しは大人になったなと身に感じる。

 直也は戸惑いと憤怒のない混ぜになった気持ちで、黒城に肉薄する。さらに机を掌で強く叩いた。いくつかの漫画本が雪崩のような音をたてて、山の上から一度に落ちてきた。

「じゃあ、俺はどうすればいいんですか?」

「すぐに依頼が舞い込んでくる。落ちついて待ちたまえ。仕事が入ったら、携帯電話に連絡をいれよう」

 崩れた漫画本をまた積み上げながら、しれっと黒城が言う。直也は内心で舌を打った。

「そんな、それまで待ってろと? そんな不定期な連絡のために? ただでさえ今月、仕事量少ないのに。探偵業以外もなんかないんですか?」

「介護業務も引っ越し業務も他がいるからね。残念だが、君をいかせる余裕なんてものはどこにもないのだよ」

「そんな……じゃあ、何のための仕事依頼所なんですか」

 困惑を顕にする直也の顔を押しのけて、黒城はせんべいを掴んだ。それをかじりながら、能天気そうに額のあたりを掻く。

「君は大人だろう。待ちたまえと言っているのだ。探偵業務を行えるのは今のところ、君しかいない。私にも君が必要なのだ。安心しろ。一時期のショックから持ち直したとはいえ、まだ不景気だ。社会が不安なら、人の心も不安になる。そこで探偵の仕事だ。大丈夫、我々のところにも仕事が零れてくるさ。気を強くもつんだ」

「気を強くったって」

「大丈夫だ。君は恵まれているよ。この日本には働くことのできない人は大勢いる。その中で仕事ができるというだけでも素晴らしいのに、さらに加えてこの私という優秀な人間のもとで働けるのだからな。君がうらやましいよ」

 反論の余地さえない。どこからその自信はやってくるのか。黒城黒城は自分を、ひたすら盲信するようなきらいがあった。根拠も筋道もなく、ほとんど場合「何とかなる」で物事を済ませようとするのだ。直也は深く肩を落とし、嘆息の息をついた。何だか青筋を立てるのも馬鹿らしくなってきて、乱暴にソファーを立った。

「……分かりました。待ちますよ。所長がジャンプを読み終わるまでに来てくれると嬉しいんですけどね。失礼します」

 直也はメッセンジャーバッグを肩に担ぐと、早足でドアのほうに向かった。すると、突然黒城が直也の背中に声をかけてきた。期待を少しばかり胸に乗せて振り返ると、黒城は片手に緑色の紙袋を持ち上げていた。

「先日、依頼人にお菓子をいただいてね。そのお返しをしたいんだが、私は忙しい身だ。置いてきてくれないかね? 住所を書いた紙は袋の中にいれてある」

「それは仕事ですか?」

「私事だ。安心するがいい、駄賃ぐらいはくれてやる。ほら、早く行きたまえ。こうしている間にも、時間は過ぎ去って行ってしまうのだぞ」

 無視してこのまま帰ってしまってもよかったが、仕事がないおかげで、あいにく暇だった。それに少しでも金が欲しい状況であるし、黒城の機嫌をとっておくのに悪いことはない。

 直也は黒城の手から、紙袋をひっさらうと、大股歩きで部屋から出た。そして玄関をくぐり抜けると、階段を落ちるように下り、下のコンビニの駐車場に停めてある自分のバイクへと向かう。ヘルメットを手に取り、バイクにまたがらずに歩いて道に出た。それから「ふざけんじゃねぇ!」と、空に向かって声の限りを尽くし、叫んだ。そうしなくてはいられなかった。





黒城こくじょう 和哉かずや

45歳。なんでも屋「ノワール」の所長を務める男。

夢想家かつ、自分が世界の中心だと豪語する自信家。

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