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6話:巨人の足許(2章)


2章



 暗がりの中で、子どもが泣いている

 その当時彼は、小学3年生、すなわち9歳の男の子だった。

 ロープで手足を縛られ、口にはさるぐつわをはめられて、埃臭い板張りの床に転がされている。

泣き疲れた彼は、投げ出された人形のようにぐったりとしていた。子どもながらにこの状況を理解しており、もう助からないかもしれない、という諦念が彼の心の中で渦巻いていることだろう。絶望に浸るが、泣きじゃくる体力はもはや残っておらず、嗚咽を漏らすまでにとどまってしまう。

周囲に室内の異変を嗅ぎとられないようにするためか、天井の蛍光灯のスイッチは入れられていなかった。くたびれた机の上に置かれた電気スタンドの灯りだけが、唯一室内にこもる暗闇を剥がし取っている。いまがいつの何時なのか、ここは一体どこなのか、まったくといっていいほど判然としない。彼は気を失った状態で、車に乗せられ、ここに連れてこられたのだからそれも無理はなかった。

 その電気スタンドの前で、男がぼそぼそと何事か呟いていた。喉にこもるような声なので、話の内容は全く判断がつかない。男は怒声をあげ、机を拳で強く叩いている。机が割れてしまうのではないか、とも思えるほどの力だ。そうしながら、どうやら誰かと電話をしているようだった。

男は相当苛立った様子で、椅子から立ち上がっては、机を何度も蹴り飛ばし、子機を耳に当てたまま部屋の中をぐるぐると回っている。時の針が刻まれるごとに、舌打ちの回数が増えていっているように感じられるのは、けして気のせいではないはずだ。

 そんな状況が、どのくらい続いただろう。本当は5分程度であったのかもしれないが、彼は半日以上経過したように感じた。身を動かす体力さえもなく、あるはずの食欲や睡眠欲でさえも恐怖と不安の中に埋もれていく。声を出すことさえも許されず、もはや出し過ぎて枯れ果てたとばかり思い込んでいた涙が、再び頬を伝い始める。始めはガラス窓を流れる雨の滴のようだった涙は、徐々に幾重にも枝分かれする川のように姿を変えていく。

 さるぐつわを通過して聞こえてくる子どもの泣き声を、鬱陶しいと思ったに違いない。男は受話器を荒々しく電話機に置くと、大股で彼の方に歩いてきた。そしてまるでゴールを前にしたサッカー選手のように、彼をボールに見立て、右足を大きく振り上げてきた。 

蹴られる、ということを彼は直感的に察知し、痛みと衝撃に備えて身を縮ませ、まぶたを固く閉じる。この室内に入るときに男によって受けた暴力は、まだ体が覚えていた。頬が腫れ、腹にあざができているのは鏡で見なくとも痛覚が訴えていた。

 その時、突然、勢いよくドアが開け放たれ、部屋の中に光が漏れ広がった。陰鬱とした暗闇はいそいそと隅のほうに姿を消し、部屋中が太陽の温もりで埋め尽くされる。その眩しさに思わず、開けたばかりの目を再び瞑ってしまう。

 何事か、と思った直後、部屋に突入してきた警官たちによって男は床にねじ伏せられ、あっという間に、もがくその両腕に手錠をはめられていた。激しく抵抗する男を立ち上がらせ、3人の警官がその周りを取り囲んで部屋を出ていく。

まさに嵐が1つ過ぎ去るかのような出来事だった。頭が目の前の光景についていかず、唖然とする他ない彼に向かって、男が1人、近づいてきた。

年齢は30ちょっと過ぎに見える。ダッフルコートを身に纏い、頭には黒いテンガロンハットを被った男だ。扉から放たれる光を背負い、慌てた様子もなく毅然とした態度で、こちらに向かってくる。

その深く皺の刻まれた男の笑顔に、しばし魅入る。男は彼を真正面から見据えると声を出して笑い、彼の体を拘束していたさるぐつわと手足のロープを、手なれた様子で外してくれた。

「良かった。お母さんとお父さんも心配してる。おじさんと一緒に、おうちに帰ろうな」

 そう言って頭をくしゃくしゃと力強く撫でてくれたときの、その感触を、その大きな掌を、あれから20年近くたった今でも彼は克明に思い出すことができる。光を背負って微笑み、励ましてくれたその男の姿は、人の形となって網膜に焼きつけられている。

 男が探偵であり、誘拐された自分を救いだしてくれたことを彼が知ったのは、それから一週間後のことだった。


 そこで意識はタイムスリップし、今度は救急車の中に移る。3年前のこと。彼が20歳の頃だ。

 救急車の中は、鉄の臭いでむせかえるほどだった。

 車内のストレッチャーに横たわり、忙しなく胸を上下させて、女性が苦しげにあえいでいる。口の端から血の塊が零れおち、喉から擦り切れるような音がして、その度に全身を痙攣させる。そのひどく青白い相貌に、生気は映り込んでいない。彼女に繋がれた心電図は低数値を計測し続け、その数字も刻々と0へと近づいている。

 愛する人の死の臭いを感じ取った彼は、ただひたすらに彼女に向かって叫んだ。いくら呼びかけようとも、酸素吸入器をつけられた彼女が何も返すことはないだろうとは分かっている。しかしかといって黙って突っ立っていることもできず、現実から少しでも遠ざかろうとする気持ちもあって、胸の奥底から声が枯れてもなお、彼は彼女の名前を喚き続けるしかなかった。しかしその声は救急車のサイレンと、道路を走る振動の中に飲み込まれ、虚しく車外に放り出されていく。

 その華奢でか細い手をとってみても、やはりそこから生きた人間の温かさは伝わってくることはなく、暗澹としたものがさらに心の天窓を覆う。彼女の薬指には金色のリングが光っていて、なおさら胸を締めつけた。

 人生にはひょんなところで、落とし穴が待ち受けている。穴に嵌ってみてから始めて、人はその深さと暗さを知るものだ。落ちないうちは、目の前に穴があることにすら気がつかない。

 だから子どもの頃、絶望の淵で光を負うあの探偵に出会った時、心に決めたのだ。穴に落ちた人に光を注いであげられるような、そこから這い上がることのできる力を捧げることができるような、そんな人間になりたいと。あの男に救われたとの同じように、もっと多くの人を助け出すことができるではないかと考えた。

 だが、理想と現実はそごするものに違いない。そのあまりにも無残な仕打ちに直面した今、怒りよりも情けなさの方が勝る。自分は何をやっているのだろうと、猛烈に詰りたくなる。

 自分を幼少のころに救ってくれた探偵になることは、できなかった。

救急車の中には一抹の光さえも届かず、藍色の影が淡々と落ちている。その影の中で、彼女は薄目を開けた。興奮に裏返った声で、すぐさまその名を呼ぶ。だが、彼女は黒目を剥いた後、何も発することなく、糸が切れたように意識を失ってしまった。心臓マッサージを行う医師の、切迫した掛声が車内に轟く。その声を耳にしながらも、相変わらず名前を叫び散らすことしかできることはない。医師の腕に合わせて彼女の体が揺れると、その度にストレートの髪の毛が、まるで別の生き物のようにふわふわと蠢く。

そうやって肩にかかっていた髪がどかされると、首筋が露になった。

街中の高架橋の下で、1DKの部屋の中で、それからベッドの上で。目を瞑ればそこに浮かび上がってくるほど、幾度もなく目にしてきた彼女の体であったが、今、そこには見慣れないものがあった。鳥の形をした、痣だ。血を浴びることもなく、くっきりと黒く残っている。見間違いかと思い、瞬きを繰り返すが、やはり何度見てもそれは鳥のようだった。

翼を大きく広げ、いまにも空にはためこうとしている鳥。その鋭さを備えた姿形は、図らずとも不吉な予感を換気させる。この痣は、一体何を訴えようとしているのだろうか。

まるでその鳥が鳴き声をあげたかのように、ストレッチャーの足が甲高い物音を発した。その瞬間、彼女の胸の上下運動が音もなく、止んだ。




 そして今、23歳の坂井直也は墓の前で手を合わせている。

 都市部からあまり離れてはいない、住宅地の片隅にひっそりとある墓地だ。お盆にはまだシーズンが速いためか、それとも墓地全体が発する独特の雰囲気のためなのか、ひどく閑散としているように感じられる。

直也の手首にみえる、金色に縁取られた腕時計が高い太陽の光を反射して、虹色に輝いている。時刻は1時を過ぎたころで、やはり他に墓を参る人の姿はなく、カラスの鳴き声と、蠅の羽音だけが耳の近くで鳴り響いている。

 直也は立ち上がると、墓石を背にし、駐車場に足を向けた。今日もまたひどく暑い日で、こうして立っているだけでも、徐々にシャツが湿ってくる。見上げてみれば、雲1つない夏空だ。皮膚をつままれるような暑さだが、悪い気はしない。日光に頭上を照らされていると、それだけで重苦しい鉄格子に閉ざされていたような心が徐々に安らぎ、心なしか足取りも軽やかになっていくような気がする。

 駐車場の隅に停めた、バイクのもとにたどり着く。赤と黒の絶妙なコントラストがボディを覆う、250ccの車種だ。すでに3年は乗り回している、直也の愛車だった。少しずつガタがきていたが、まだしばらく買い換える予定はない。この車体にはかけがえのない記憶がぎっしりと詰め込まれているからだ。

ヘルメットを手に取ったところで、直也はバイクの前輪のあたりにいる、小さなミミズに目を留めた。そのミミズは潰されアスファルトに張り付けになった状態で、干からびて死んでいる。ぱっと見、捨てられた煙草の吸殻に見えなくもない。

 車に轢かれたのか、それとも人間の足に踏み潰されてしまったのか。どちらにしても、ミミズを殺した本人は自分がやったことなど気にも留めなかったに違いない。たとえ気がついたとしても、感情を動かすことなく、その朽ち果てた生き物をゴミのように見下しながら、通り過ぎていってしまったことだろう。直也自身だってきっと、そうする。逆に靴の裏が汚れたことに、腹を立てていたかもしれない。

 結局、そういうことなのかとヘルメットを被り、バイクに跨りながら直也はぼんやりと考える。巨人の目には、ちっぽけな生物は映らない。同じように巨大な力の前では、大衆はただ震え、祈り、逃げ惑いながら、その裁きが下される瞬間を待つしかないのではないか。

 思考を巡らせながら、直也はエンジンをかけ、一方通行の狭い車道へと飛び出していく。空腹に悲鳴をあげる内臓の声を全身で感じ、そういえば、まだ昼食をとっていなかったことを思い出した。

 難しいことを考えるのは、腹ごしらえをしてからでもいい。どこにあるかも分からない陥穽を恐れているよりも、今日1日を刻んでいくことのほうが大切であることを、直也は十分に知っているつもりだった。

 黒々としたアスファルトの道を、排気ガスをまき散らしながら進んでいく。その行く手には、茫洋たる青空がまるで静かな海のように待ち構えていた。今日も晴天だ。




2010年7月25日


 前方の信号が赤になったので、直也はバイクのブレーキをかけた。

目の前では大通りの交差点にかかる太い横断歩道の上を、人々が移動している。完全に車体の動きが停まるのを待ってから、直也は振り返った。誰かに、後をつけられているような気がしたからだ。

 背後の白いワゴンに目をやる。運転席にはあくびを欠き、つまらなそうに耳を掻く男の姿がある。右の車線を見る。そこにはカラフルな色合いに包まれた都バスが止まっていて、乗客たちは皆、ぼんやりと音楽を聴いたり、本を読んだり、携帯電話をいじったりしている。左隣の歩道に目を移す。そこには携帯ショップがあって、店の前では女子高生の集団が、甲高い声をあげて騒いでいる。その横では、携帯電話の写真の貼られた看板を持つ女性店員が通行人に向かって大声をあげている。だが誰も彼女には見向くことはせず、その前を皆、他のことに気を取られながら通り過ぎていく。空を仰いでみれば、そこには燦然と光を放つ太陽があって、眩しさに思わず目を細めた。

そうこうしているうちに、追跡者の気配は完全に消え失せていた。

人のごった返す東京の街中では、自分を射止める視線を探すのさえ困難だ。ひとたび懸念を抱けば、周囲に立つ何百人という人間すべてが容疑者に思えてくる。木の葉を隠すなら森に隠せ、とはよくいったものだと感心したくもなってしまう。

 最初から気のせいだったのかもしれないな。直也はヘルメットで重い頭を左右に振ると、前に向き直った。するとちょうど、信号が青に変わった。アクセルをふかし、交差点を突っ切っていく。

 高層ビルの立ち並ぶ街中を走っていると、風に紛れてどこからか、食欲を刺激するいい匂いが漂ってきた。これは何の匂いだ、と少し考えて、すぐにラーメンのそれであることに思い至る。その香りはすぐに喧噪のなかに掻き消えていってしまい、代わりに排気ガスの刺激臭が、鼻に飛び込んできた。

 仕事柄、外食をすることは多いが、ラーメンは久しく口にしていない。そして改めて周囲に目を凝らすと、タイミングのいいことに直也が昔よく通っていたラーメン屋の近くであることに気が付いた。

 腹も減っている。久々に足を向けてみるのもいいかもしれない。

 直也はウィンカーを点灯させると、対向車線に車が途切れる瞬間を狙い、ハンドルを切った。小さな弧を描き、バイクは狭い路地に吸い込まれていく。

 人通りも車の通りも少ない、じめじめした日陰の道を進みながら、直也はあの店にいくのはいつぶりだろうと思考を働かせていた。

 最後に行ってから、少なくとも3年は経過していると断言することができる。そのラーメン屋を教えてくれた上司が亡くなってから、直也は一度もその店に出向いていないからだ。

上司は面倒見がよく、直也と20は歳の離れた、豪放磊落な男だった。普段はおどけていてどこか頼りなさそうなイメージを振りまいているが、一度仕事となると途端に眼光を鋭くさせ、険しい面持ちになるような男だった。直也に飛ばす指示も的確かつ迅速で、一秒たりとも無駄な動きがなくなる。そのめりはりの付け方は実に見事で、仕事と私用とがないまぜになってしまうことの多い直也は、様々な面において彼を深く尊敬していた。

そんな上司と毎日のように通っていたのが、今向かっているラーメン屋だった。その店の中で直也は仕事のノウハウや、人生において使うか使わないのか判断に困るような蘊蓄まで、多くのことを教わった。あの場所は直也にとって、第2の仕事場といってもけして言い過ぎではなかった。

店の情景には、くっきりと跡が残るくらいに今でもその上司の姿が刻み込まれている。引き戸を開け、入ってすぐ右側のテーブル席に座り、ビールを注文する。今でもまぶたの裏に、その姿が焼きついていて離れない。だから、彼のいない今となってはいつになっても、あのラーメン屋は直也の中で未完成のままなのだ。もし今、店ののれんをくぐってしまったとしたら、それは欠けたピースが一生かけても戻ってこないという現実に直面してしまうこととなり、その光景を想像するだけでもひどく虚しく、寂しい気持ちでいっぱいになった。

失った命は元に戻らない。頭では分かっていたつもりだったのに、実際に身に受ける立ち場になると、やはり辛い。

だがいつまでも逃げてばかりいられない。3年という歳月は直也の心に冷静さと、未来に向かって歩いていこうとする意思を植え付けた。そろそろ新しい道を歩んでいくのも悪くないのではないか。そんな感情が最近、直也の中でやっと腰を据えるようになってきた。

雨が降ろうが、雪が降ろうが、太陽ってやつは雲の上にいつでもあるもんなんだよ。でも俺たちの依頼者は、たとえ太陽が出ていたってそこに曇りを見出そうとするんだ。それってすごく、損なことだと思わねぇか? 

かつて上司がジョッキビールをぐいぐい飲み干しながら、ラーメン屋で話していたことを唐突に思い出し、直也は自然に頬を緩める。風が束になって、ほてった体の中心をすり抜けていくのが心地よい。

その時、まるで何か重たいものが落下したかのような、地を震わす轟音が前方のあたりから聞こえてきた。

「なんだ、今の……?」

直也はブレーキをかけると路肩にバイクを停め、ヘルメットのバイザー越しに目の前の景色を窺った。薄暗く、アスファルトの目の粗い道だ。都会から隔離されているような雰囲気さえある。通行人は直也の他におらず、周囲には黒い汚れの滲みた建物ばかりが軒を連ねている。

物音は左前方にある、建物と建物の間に挟まれた小道の先から聞こえてきたようだった。直也はバイクのエンジンを切り、キーを抜きとってバイクから降りると、躊躇なくその建物の間へと足を進めていく。

大半の人間ならば何もないような顔をして通り過ぎてしまうような音だとしても、直也は自分の目で確かめなくてはいられない。直也が物事を行う判断基準となるのは、いつだって“好奇心”と“正義感”だった。自分とまったく関係のない事柄でも、傍観していることなどできず、首を突っ込んでいってしまう性分なのだ。その性格のせいで、貧乏くじを引き続けていることを、直也自身でも自覚していた。

たとえば見知らぬ人同士による喧嘩の、仲介をしようとして殴られたことは一度や二度ではないし、いわゆる“おやじ狩り“に励んでいた、自分とそう歳の変わらない若者たちに注意をし、危うくひどい目に合わされそうになったこともある。悪を目の前にすると、自分のことが一切見えなくなってしまう。かつての恋人に何度も叱られたが、結局彼女が死んでも、その癖はとうとう直ることはなかった。

そしてそれは、今でも健在だ。

一度疑念を抱いたならば、その正体を見届けなければならない。好奇心によって生み出された義務感に背中を押されながら、直也は狭い路地を進んでいく。むき出しになったパイプが建物の表面に這い、道の左右にはエアコンの白い室外機が置かれていて、それはごうごうと大きな音をあげながら回転していた。

空腹にあえぐ胃を手でさすりながらしばらく進んでいくと、程なくして開けた場所に出た。

正面には銀色のフェンスに囲まれた灰色の工場がそびえており、その膝下に広いアスファルトの庭が広がっているという場所だ。先ほどの大音量はこの工場からのものなのだろうか、とも思うが直也は即座にその考えを取り下げる。

工場はまるで夜の墓場のように静まりかえっており、稼働している雰囲気を一切纏っていなかったからだ。機械の稼働している音も当然なく、人が出入りしている様子すらない。赤褐色の鉄扉は入口を、剛健に塞いでいる。

ふと視線を横に移すと、そこに電信柱が立っていた。その影に青年が1人隠れている。茶髪で青色のリュックを背負った男で、どこか大学生らしさを匂わせていた。彼は電柱から頭だけを出し、工場の庭を覗き込むようにしている。

一体何をしているのだろうと訝しみ、直也は「おい」と男に声をかけた。すると男は大袈裟なくらいに体をびくつかせ、背筋をぴんと伸ばすと、ゆるゆると直也の方に振り返った。

その目は脅えをはらんでおり、頬はひどく引きつっている。一目だけで、男が強い恐怖にさらされていることを直也は悟る。

男は直也を見つけると、まるで嵐の中で救助艇に遭遇した漂流者のように、今にも泣き出しそうな喚き声をあげながら胸に飛び込んできた。男に抱きつかれる経験はあまりなかったので、直也は面食らう。男の肩を掴み、自分の体から引き離すと、彼の目を真っ直ぐに見据えた。

人から事情を聞きだすときは、目をそらすことは絶対にするな、というのも上司から耳が痛くなるほどに教わった技術だった。

「待て。まずは、状況を話せよ。一体、何があったんだ?」

「か、怪人が」

「怪人? それってあの噂の、あれか?」

「そ、そう。あそこ、あそこに」

 ひどく上擦った声で言いながら、男は電信柱の向こうのほうを指さす。

 “怪物”。

そのワードに、直也は敏感に反応せざるを得ない。

男を押し退けると、電信柱に駆け足で近寄った。そして電信柱の隣に立ち、そこから見える景色を目にした途端、絶句する。

男の言葉通り、そこには“怪物”がいた。二足歩行で、標準的な成人男性と、ほぼ同じくらいの身長。だが、そのシルエットは人間とはあまりにかけ離れている。

体は蟹のような赤色の甲殻で形成されており、胸には大きな牙のひしめく、大きな口がある。直立した状態でも、地面に指先が触れるほどに長い両腕が特徴的な“怪人”だ。その腕の先には鋭い爪が生え揃っている。顔には人間と同じような目がついているが、その瞳は黄色く、太陽の下にいるというのに不気味な輝きを帯びている。鼻はなく、口のあるべき部分には、ビー玉サイズの黒い穴が開いている。いまその穴からは、けばけばしい紫色の舌が飛び出していた。

“怪人”はいま、腰の砕けた男ににじり寄っている。桃色のTシャツを着た男で、ひどく整った顔立ちをしており、同性の直也が見ても美形と納得するほどだった。 

今その顔が、怯えの色に滲んでいる。舌をちろちろと揺らしながら、男の歪んだ表情を楽しむかのようにじらす足取りを刻んでいる。

「……お前、ここであいつが殺されるまでそこで見ていたつもりなのかよ?」

 直也は前を向いたまま、怒気を孕ませて背中の男に問いかける。男はひっ、と短く悲鳴をあげてから、たどたどしい口調で言葉を並べ始めた。

「だ、だって、どうしたらいいかわかんなくて。警察もあてにならないでしょ? でも、に、逃げるのはさすがに悪いと思ったから、ここに隠れて、それで……」

「……ふざけんな!」

 見て見ぬふりをする人間。無関係を装うとする人間。いじめの被害者を殺すのは、加害者ではなく、そんな第三者であるという話をどこかで耳に挟んで以来、直也はそんな彼らに対し、強い不快感を抱いてきた。その気持ちがいま、暴風雨となって直也の心に吹き荒れる。胸がざわめき、いてもたってもいられなくなる。

 直也は電信柱から飛びだすと、その勢いのままに“怪人”にタックルを浴びせた。バランスを崩し、激しく転倒する“怪人”を尻目に、直也は男の元へと駆け寄る。

「大丈夫か? 早くあいつと一緒に逃げろ。ここは俺が何とかする」

「でも……」

「早くしろ、死にたいのか!」

 直也の言葉に弾かれるように、男は電信柱のほうへと逃げていく。その道中に何度も心配そうに、こちらを振り返ってくる男を見て、直也は軽く右手をあげ、自分の無事を示した。

 2人の男が立ち去るのを視界の端で認めてから、直也は起き上がる“怪人”と向き合った。“怪人”は激しく息を立て、黄色い目をくりくりと忙しくなく動かして、周囲を観察している。アリクイのように長く細い舌は、今やだらしなく、胸のあたりまで垂れ下がっていた。

「お前たちは、一体何が目的なんだよ?」

 返事はない。代わりに瞳の動きがぴたりと止まり、目を見張って、いよいよこちらに焦点を定めてきた。直也は後ろに跳んだ。ほぼ同じタイミングで“怪人”がその長い右腕を振り上げ、襲いかかってくる。

 その指先に伸びる鋭利な爪が、直也の肩をかすめ取った。破けた服の切れ端が宙にちぎれ飛ぶ。

 痛みはない。紙一重で皮膚までは達しなかったらしい。直也は横に転がると、素早くつま先で地面を蹴り、“怪人”の懐に飛び込んだ。

“怪人”の両肩を手で掴み、その腹に膝打ちを連打する。苦悶の声をあげる“怪人”に、続けて今度はその顔面を拳で打ちのめす。さらに流れるような動作でハイキックを繰り出すが、それは掌で受け止められてしまった

「しまっ……!」

 失意の声が、夏の空気の中に消えていく。

 “怪人”は今まで受けた苦痛をお返しせんとばかりに、不穏な吐息を漏らすと、片手で直也の体を投げ飛ばした。直也は灰色のコンクリートに叩きつけられ、呻き声を洩らす。さらに“怪人”は両腕を突き伸ばし、直也に追撃をかける。

 地面を転げることで、直也は咄嗟にその攻撃を回避した。つい数刻前まで彼が寝ころんでいた地面に10個の小さな穴が開く。

その隙を突いて、直也は高い塀を背に立ちあがった。全身の骨が軋むのを感じ、顔を歪める。やはり先ほど投げ飛ばされたダメージは、相当のものだったらしい。

 両腕を真っ直ぐ伸ばした状態では、敵はすぐに攻撃することもできないだろう。地面から腕を引き抜いている間を使って横に回避し、“怪人”から距離をとろうと画策する。

だが直也の算段に反し、“怪人”は腕をぴんと突き出したまま、鋭く、まるで銃弾のように舌を飛ばしてきた。先ほどまでの、赤ん坊の涎かけのようにぶら下がっていた様子からは、予測だにできなかった動きである。

 人間の防衛本能が促した、反射的な行動だったのだろうか。直也は無意識に、向かってくる舌に対し右手をかざしていた。

 ちくりとした痛み。そしてなだれかかるように、激痛が右手を襲った。目をやると、そこには、直也の掌を舌が貫通し、再び掃除機のコンセントのように、“怪人”の口へと戻っていく光景があった。

 鮮血が空に舞い、直也は意識が傾くのを感じた。だが気を強く保ち、今度こそ横にまろびのくと、間髪いれずに“怪人”に突っ込み、脇腹に蹴りを入れた。

痛みを振り払うために、よろめく“怪人”にさらに追撃を与えようとするが、敵はまたもやその長い腕からストレートを放ってくる。

避ける判断が追いつかず、その攻撃をまともに胸に受けてしまった。突き飛ばされ、アスファルトに背中をぶつける。起き上がる暇も与えられず、“怪人”のもう1つの腕が、直也の顔面目がけて迫っていた。

「こんなところで……死ねるわけねぇだろ!」

 直也は寝返りを打つように体を傾けると、右足を空に向かって伸ばし、その足で “怪人”の肘を強く蹴りやった。

すると攻撃の軌道が逸れ、その拳は直也の耳すれすれの地面に叩きつけられる。直也はそこに生まれたわずかな時間をついて、立ち上がり、“怪人”から離れた。

 血が掌から指先を伝い、地面に滴り落ちていく。もはや体のどこが痛いのか分からなくなるほどに、全身がひたすら重かった。気を抜けば、今にこの場で崩れ落ちてしまいそうになる。そうなれば、殺されることはもはや必然だ。左手の掌に爪を立て、意識をこの場に保とうとする。鼻から息を吐き、乱れていこうとしている呼吸を何とか整える。

 なかなか直也を仕留められないことに業を煮やしたのか、そこで“怪人”は奇声をあげながら、めちゃくちゃに両腕を振り回してきた。直也は体を“怪人”のほうに向けたまま横っ跳びと後ろ跳びによるステップを繰り返して、その規則性など皆無に近い、あまりにもがむしゃらな攻撃をただ回避していくほかない。

 リーチが違いすぎて、手も足も出ない。“怪人”の長い腕から放たれる拳は、地を抉り、電柱を引っ掻き、壁を砕いていく。ただ体力と時間だけが消耗されていく戦いに、直也の意識も徐々に削り取られていく。

 そしてついに、直也の足に力が入らなくなった。膝から折れ、前のめりになって倒れる。その間にも蛇のようにしなり、食肉類のように凶暴な腕が、直也の肉を削ごうと迫ってくる。

 死を予感し、直也は思わず視線を逸らした。緊張が全身の毛を逆立たせ、瞳の裏には自分の死のイメージが焼きついて見える。青空が赤く染まり、白い雲がまるでインクをこぼしたかのような無機質な黒単色へと染まっていく。

その時、空に向けた目の先に、何かうすぼんやりとしたものが光った。

 あれは何だろう、と思考を働かせる暇もなく、全身を妙なスーツで包んだ人間が、直也の目の前に落下してきた。体にぴったりとそのスーツは密着しており、胸元や胴回り、手足などの各部分には装甲がとり付けられている。その姿はまるで甲冑を着こんでいる人間のようだ。その彼の足の下でアスファルトが砕け、黒っぽい粉塵が周囲の景色を覆い隠す。衝撃が風の塊となって押し寄せ、周囲に点在する木や花を激しく揺さぶった。

 直也は右腕で顔を埃から覆うようにしながら、薄く開けた目で謎の甲冑人間に注目する。

 甲冑人間は直也に背を向け、立っていた。片手で、“怪人”の腕を受け止めている。

 またか、と直也はその背中を見つめながら思った。以前、直也はこれと同じ体験をしたことがあったからだ。身を呈して直也を救ってくれた後姿。そしてその鎧の体。まるで過去の再現映像を見せられているかのようだ。

 もしやとある憶測が頭を過り、直也は口を開きかけた。

「あ……」

 すると突然、その甲冑人間はくるりと半回転し、直也の方を向いた。しかし頭をすっぽりと仮面で覆っているため、そうして向き合ったとしてもその者の性別すら判然としない。

 直也は拍子抜けしたような気分だった。予測は見事に外れ、その姿にまったく見覚えがなかったからだ。だが人違いに落胆する一方で、じわじわと心に安堵の念が広がっていくのを直也は自覚していた。

甲冑人間の目にあたる部分には黒いバイザーが敷かれており、左耳から口元にかけてインカムが伸びている。こめかみの辺りには、翼状の突起物が付いていた。スーツは黒で、全身のいたる部位を覆っている鎧は、深い緑色と明るい黄色で着色されている。ところどころ、泥や傷で汚れてはいたが、全体像としてみればその鎧はまだまだ眩い光沢を放っており、そう使って長くはないことが窺える。

 腰からは黒い布が、踵にかけて長く吊り下がっており、今それは風を受けて大きくたなびいている。腰には銀色のベルトが装着されており、その腹部のバックルには長方形で、黄色に塗られた板が差し込まれている。

 直也の視線は、自然とそのバックルに吸い込まれる。記憶が揺さぶられ、これまで目の前に大きく立ちふさがっていた強固な壁に、わずかながらも亀裂が走っていくような気がした。

思わず声にしかけるが、それは言葉となって出てこない。胸が震え、いまにも心臓が裏返り、飛びだしてしまうのではないかと思うほどだった。心拍数が短い間隔で刻まれ、目の前の景色が、凹凸レンズで透かしたように歪んだ。

 そのバックルに、直也は見覚えがあった。いや、記憶だけではない。直也はそれと同じものを所持している。この3年間、肌身離さず持っている。見紛うことなど、絶対にあり得ない。あれは、直也がずっと追い続けていた、真実への扉を開く鍵と同じ形をしたバックルだ。

 数十秒と経たぬ間に、あまりにも多くの情報が脳に押し寄せてきて、しばし直也はこの状況にも関わらず、その場で棒立ちになってしまう。自分の脈の音だけが鼓膜の裏で力強く鳴り響き、血が掌からあふれ出ているのにも関わらず、その時だけは痛みすらも忘れた。

 甲冑人間は長い腕を肩に担ぐと、そのまま背負い投げの要領で、力強く、前方の“怪人”を投げ飛ばした。直也の頭上を“怪人”の赤い体躯が通り過ぎ、電信柱を破壊して止まる。雷撃が目の前に降り注いだかのような衝撃音が生じ、そこで直也はようやく我に返った。それから、黒い回線のむき出しとなった電信柱と、倒れ伏す“怪人”とを交互に眺め、その非現実さに戸惑う。

 直也の頭に浮かぶ様々な疑問符を置き去りにして、甲冑人間は直也のすぐ横を走り抜け、“怪人”に迫った。満身創痍の様子で身を起こす“怪人”に、反撃の隙さえも与えず、甲冑人間はボディブローのラッシュを繰り出す。黄色い手袋のはめられた拳が、次々と“怪人”の肉体にめりこみ、鈍い音を轟かせて、その体を弾き飛ばしていく。長い腕が肩からへし折られ、甲殻類の体表のようでもあった体からは、粉々になった破片が飛散する。一撃が加えられる度に、“怪人”の口からは悲鳴混じりの声が吐き出され、1分も経過したころには、その体はコンクリートの塀に押し付けられていた。

 甲冑人間は右の拳を、もう1つの手で拭うような仕草をみせた後、左耳のあたりに手をやった。まるでずり落ちたヘッドホンを治すかのような動作から、戦いに対する余裕さを垣間見ることができたためなのか、直也はこの不思議な存在をどこか頼もしく感じていた。これから、何をしようというのだろうか。そしてどのようにして、“怪人”を倒すのだろう。休止中の工場前が一瞬、不穏な空気に包まれる。

 その時、直也は気づいた。“怪人”の目の奥が、不気味な光を帯びたことに。そしてその表情は、直也に大打撃を与えたときと、まったく同じ色に染まっていたことを。

 中空に、紫色が舞った。“怪人”の舌だ。あの弓から射られた矢のように鋭利な舌を射出して、直也の掌を抉ったときのように、甲冑人間にカウンターをくらわせようとしている。

 しかし次の瞬間、その舌は甲冑人間の手中に収められていた。甲冑人間は空中でその攻撃を見切り、自分にぶつかる前に受け止めたのだ。さらに、まったく動じるような素振りを見せることなく甲冑人間はその舌を引っ張ると、腕を捻ってちぎり取ってしまった。

 ぶちっ、という鈍い音があがる。そして後を追うように、“怪人”の悲鳴が周囲に残響した。甲冑人間は裂いた舌を、背後に投げ捨てる。口から垂れている“怪人”の残された舌は、悶えるヒルのようにその胸元で揺れている。

それから“怪人”は自身の死期の急迫を感じ取ったのか、それとも甲冑の男には敵わないことを本能的に察知したのか、えづきながら無我夢中といった様子で高く跳躍した。

 右に傾いた電信柱を蹴って上に跳び、さらにそこから背の高い木を蹴っては跳び上がり、という動きを繰り返しながら、“怪人”は周囲のものを次々と蹴とばしてはその反動を利用して、じぐざぐに空中を突き進んでいく。

 少しずつ、しかし着実に“怪人”は戦いの場から離れ行こうとする。実際、その速度は目を見張るものがあり、直也が一歩前に足を踏み出したその時には、すでにその姿は波のように起立するビルの群れの中に、消えていこうとしている。

「おい、追わないのか?」

 そう直也が甲冑人間に言葉を投げかける間にも、“怪人”はどんどん遠ざかっていく。甲冑人間は、肩越しに直也のほうを振り返ると、とくに面倒そうな様子もみせず、さわやかにはにかむ青年をイメージさせるような、そんな穏やかな声で言った。

「そう急かさなくても大丈夫さ。ちゃっちゃっとやるから、見てろ!」

 その声を耳にしたことで、初めて直也の中で甲冑人間が、甲冑の男に姿を変えた。まだ溌剌としたものが言葉の底に残っているような声調だった。直也とそう年は違わないのかもしれない。

 甲冑の男は、左耳に手をあてた。そこにはインカムの耳当てがある。男がビンの蓋を捻るのと同じような仕草で丸い耳当てを回転させると、そこからカチリと音がした。

 何の音だろう、と注目すると、そのヘッドホン自体がダイヤルのような構造になっていることがすぐに分かった。男はそれを手で二目盛り分ほど回すと、高層ビルの壁面を跳ねる“怪人”に表情を向けた。

「目が焼けるかもしれないから。なるべく、地面を見ていてくれよな!」

 一方的に直也に言い残し、甲冑の男はアスファルトを蹴り、跳び上がった。同時に、その鎧の肩から乳白色の板のようなものが伸び、さらにその板の先端が、細かく先割れていく。まるで開封したばかりの紙粘土に、ナイフで線を入れたかのようだ。そして徐々にその板は、柔軟さを帯び、さらに男の背中で大きく広がって、数刻と経たぬ間に淡く白い光によって構成された、雄々しい大翼へと変化を遂げた。

 甲冑の男は翼を大きく扇ぐと、空へ逃げていく“怪人”を追いかける。彼はある一定の高さまで飛びあがると、翼を自分の体と平行にし、片足で空気を蹴りやって、弾丸のような勢いで前方に飛びだす。まるで水泳選手のようだ、と直也は空を見上げながら思った。はるか彼方まで続く青空を、まるで水中と言い張るかのように彼は悠々と泳いでいる。

 ”怪人”に猛スピードで接近するのと同時に、男は再び耳のダイヤルを回すような動作を見せた。すると男の体が突如、翼の淡白な輝きとは対照的な、瞳を貫くような強烈な輝きに包まれ始める。まるで男が、光そのものに変わってしまったかのようだ。

 そのあまりの眩しさに直視していることなどできず、直也は男の言い残した通り、頭を垂らして足もとに視線を落とす他ない。そして次の瞬間、肌を照りつけるような熱さを感じ、それから煌煌たる光が頭上に広がった。顔を背けていたとしても、それに気づくことができるほど、燦然とした光だった。世界がこのまま、真っ白に染め上げられてしまうのではないかという不安に駆られる。

 恐る恐る顔をあげると、空には昼間であるにも関わらず、花火が上がった直後のように、光のイメージがぼやけて映し出されていた。それは、時折街中で見かける、デフォルメされた天使の羽のような形を描き出している。徐々にそのイメージは太陽の輝きの中に消え失せ、時間を要すこともなく完全に見えなくなっていってしまった。

 すべてが元に戻った。かのように思えた。

遠くからは車の走る音がひっきりなしに、町を伝い、遠くからは雑踏の声が耳に届いてくる。配電線のむき出しになった電信柱からはスパークが発せられている。辺りに人の気配がしないことから、あの2人の青年たちはどうやら無事に逃げることができたようだった。

 足音が聞こえ、振り返ると、そこには甲冑の男が立っていた。戦慄を覚え、直也は気づけば後ろに跳び、男を前に身構えている。だが男のほうは、後ろで手を組みながら、のんびりと直也のほうに歩み寄ってくる。

 男の仮面がどちらかというと、他者に威圧感を与えるようなデザインであるためか、そうやって朗らかな態度で迫ってこられることは、なんだかひどく滑稽な姿のように思えた。

「怪人は始末した。もう安心していい」

「俺をつけていたのは、あんたなのか?」

 直也が問うと、男は小さく首を傾げた。その顔面を覆っている仮面のせいで一体何を考えているのか、まったく察することができない。

「あんたなんだろ?」

 心に沸いた苛立ちを隠すこともなく、直也はもう1度同じことを問いかける。だが男の反応は同じだった。こちらがまったく見当違いのことを話しているのか、それとも男がしらばくれているだけなのか。もし前者だとするなら、あの直也をつけていた気配は誰の者なのだろうか、という新たな謎が浮上することになる。

 すると男は無言のまま、直也の手元に視線を落とし、それから急に慌てふためきだした。直也の左手首を掴みあげ、彼は上擦った声をあげた。

「大変だ。君、大けがをしているじゃないか! すぐに治療をしないと」

 実際、いま男に掴まれている直也の掌には、直径1センチほどの風穴が開いていた。“怪人”の舌によって貫通させられた傷跡だった。そこからは先ほどから間断なく血が零れおちており、気づけば足もとのアスファルトには赤い染みが広がっていた。

「別にこんなの、なんてこともねぇよ」

 奥歯をこっそりと、しかし強く食いしばりながら、直也は自分の声が弱弱しく聞こえないように意識しながら答える。

本当は”怪人”によって負傷させられた左手は、もはや痛み以外の感覚を失っている状態だった。指の第一関節をたった1ミリ、動かそうとするだけで全身を裂かれるような激痛が走る。まるで鉛の腕輪でもはめられているかのように、その手は重い。

 だが、男は直也の言葉にはまったく耳を貸さなかった。彼はいきなり、自分の腰から垂れ下がっているあの黒い布に手をかけると、突然それを引っ張り、そのまま破いてしまった。直也は唖然とする他ない。

 1センチぐらいの長さに切りだしたその布を、包帯として直也の掌の患部に巻きつけながら、男は穏やかな声で説明する。

「この布は、特別製なんだ。生命力に満ち溢れているから、この程度の傷なら2、3日で完治するはずだ。消毒も必要ない。菌は、体に備わっている抵抗力が勝手に弾きだしてくれるからな。だから、もう安心だ」

 布を傷口にあてられたときは、跳びあがるほどの痛みが走ったが、顔を歪めただけで何とか耐え忍んだ。抵抗する気力もなく、おとなしく解説を聞きながら、直也は男の仮面を眺める。ヒーローのように颯爽と現れ、”怪人”を倒してしまったこのあまりにも謎の多い鎧の男。その男にいま、直也は怪我の治療を施されている。その光景は端から見たら、さぞ不可思議なものに違いない。

「あんたは一体、なんなんだよ?」

 直也は思い切って尋ねてみた。すると男は手を動かしながらちらりと、こちらに顔を向けてきた。

「助けてくれたことは、感謝するけど、なんだかこのままじゃすっきりしないんだよ。こうして関わった以上、俺にも聞く権利があると思うぜ?」

「残念ながら。教えることなんて、何もないんだよ。それが。よし、できたっと」

 布の端を縛ると男は一歩後ろに下がって直也から離れ、両手を叩いた。直也は布の巻かれた掌に視線を落とす。そこには程よい締めつけがあり、しっかりと患部が固定されているようだった。わずかながらも、指を動かすことができるようになっている。空気に傷口が晒されていた時よりは、痛みも大分ましになったようだった。

 直也は眉を寄せながら、顔をあげた。

「嘘つけよ。謎しかねぇだろ」

 全身を仮面と鎧で覆いながら、白昼堂々と出歩いている人間に謎がないと言う方がおかしい。何からつっこんでいいかが分からず、逆に質問に困るぐらいだ。すると男は、仮面のバイザー部分に人差し指を這わせながら言った。

「謎しかないからこそ、教えることがなにもないんだよ。口に出した瞬間、謎は謎でなくなってしまう」

「なんだか、いいように言いくるめられているような気がするけどな」

「実は俺も、そのつもりで話しているんだ」

「本当に、あの化け物を倒したのか?」

 無数に点在する質問の矛先を定め、それから尋ねると男は深く頷いた。

「あぁ、殺した。俺たちは死体を残さないんだ。光と熱で、音もなく消滅させる。それがやり方だ」

「原爆みたいだな。悪いが、あんまりいいイメージはしねぇな」

「実際似たようなもんだから。どうしようもないな」

「どうしようもない、って言葉はあんま好きじゃない。諦めるのは、やってみてからでも充分間に合うだろ」

「でも、こればかりはなぁ。それしか表現できないんだから。どうしようもない」

 どうしようもない、どうしようもない、とリズムをつけて歌いながら男は何の前振りもなく、突然踵を返した。直也に背を向けて、あの折れた電信柱の横を素通りし、立ち去ろうとする。

「おい、待てよ!」

 直也はその予測できない行動に鼻白みながらも、男を追った。走ると、軽く眩暈がして、体がよろけた。怪我のせいで、貧血を起こしているのかもしれない。頭を小さく振って、意識をこの場に留めながら、あまりにも閑散とした工場前を駆ける。

 遠方でパトカーのサイレンの音が聞こえ、犬が遠吠えを始める。小道のすぐ側を、バイクのエンジン音が通りすぎていく。

「1つ、聞きたいことがあるんだ」

男は別段、直也から逃げるような意識はないらしく、すぐに追いつくことができた。

呼びかけに応じ、鼻歌を口ずさむのを止めて男は振り返ると、とくに面倒そうな様子もなくまた首を傾げた。

「なんだろう? 謎じゃないことだったら、話そう」

「その基準がよくわかんないけど」

 直也は、男の腹のあたりを指さした。そこには黄色い板が装着されている。近くで見て、やはり、と確信の気持ちを抱いた。やはり直也が所持しているものと、同じ板だ。直也のものには板全体に羽のような印が彫り込まれているが、違いといえばそこぐらいで、全体像としてみればその程度は許容できる範囲の違いであるように思えた。

 心臓の高鳴りを感じる。3年間探し続けて、その尻尾も掴むことのできなかった真相を、この男が知っているかもしれない。そう思うだけで、心がふわふわと地に着かなくなってしまう。直也は唾を飲み込むと、平常心を保つように努めながら、一文字一文字、キーボードを打つかのように、ゆっくりと発音した。

「それについて、教えてくれよ」

 その言葉を、最後まで言い切れたかも怪しかった。男がいきなり直也の顔の前で両腕を伸ばし、手を叩いたからだ。思わず目を瞑り、猫だましか、と気づいて瞼を上げた時には、すでに男は肩から翼を広げ、直也の頭上を浮遊しているところだった。

 澄んだ空の中に佇む、男の緑と黄色の鎧はひどく浮いて見えた。男はその姿勢のまま大声をあげた。

「早寝早起きして、野菜をたくさん食べるんだ。ビタミンは体にいいからな。そうすれば、すぐに怪我なんて吹っ飛んでいくさ。安心するべきだ」

「お前、人の質問に答えろよ!」

 男の姿を仰ぎ、直也は大声をあげる。すると男は胸の前で腕を組み、困ったように肩をすくめた。

「言ったじゃないか。謎には答えられないって。君の質問は、残念ながらそれに該当してしまっている。よって、答えることは不可能なのだ」

「そんなことで納得できるかよ! 頼む、教えてくれ。その板は一体、なんだ。俺はそれに似たようなものを持っているんだ。だから、ただその正体を知りたいだけなんだよ」

 叫ぶ直也の声が、周囲をコンクリートの壁で囲まれたここ一帯に反響し、広がっていく。男は地上の直也をじっと見下ろしている。その視線は、値踏みをされているようでもあり、あまり気持ち良くはなかったが、直也は無言で男のその、あまりにも無機質な仮面を見つめ返す他ない。

「頼む、教えてくれ」

 それから1分ほど、空白が生じた。そして男は周囲を窺うような素振りを見せた後、直也に向かって囁くような声を出した。

「人が、来ている。君も余計な詮索をされたくはないだろう。俺だってそうさ。よって、ここで解散させてもらおう。君もそうするといい」

「おい、待て!」

 直也の懇願も空しく、男は翼を大きく羽ばたかせ、大空の中に溶け込んでいってしまった。声が掠れるまで呼びかけ続けたが、男は一度も振り返ることなく、餌目がけて急降下する鳥のような人並み外れたスピードで、姿を消していってしまう。

喧騒から逸れた小道の中で直也はぽつんと1人、取り残される。

体は代わらず重かったが、歩けないほどではなかった。少しなら走ることすらできそうな予感がする。2、3日すれば治るだろうと考え、直也は深くため息をつく。

 次第に、パトカーのサイレンが近づいてきた。人の話し声や、足音もここに向かって押し寄せてくる。男の言っていたことは、あながち嘘でもなさそうだ。

 直也は悔しさと歯がゆさと憤りを背負いながら、痺れるように痛む掌を握りしめ、走って逃げることにする。まだ頭がぼんやりし、右手には力が入らないが、徐々に収まっていくだろうと楽観的な思考を心に植え付け、耐える。

 今度、男に会った時には縄で縛りあげてでも、本当のことを問い詰めてやる。いや、詰問しなくてはいけない。これはようやく視界に収めた、手がかりなのだから。深く意気込みながら直也は壁に跳びかかり、そのまま片足で蹴って跳びあがると、壁の向こう側へと脱出を成功させた。





坂井さかい 直也なおや

23歳。なんでも屋、「ノアール」に所属している雇われ探偵。

何にでも首を突っ込みたがる、正義感の強い青年。

2007年に何者かによって当時の恋人と上司を殺害されており、その事件に秘められた謎を追っている。

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