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5話:さよなら現実、おかえり悪夢

 目が覚めると、あきらはおらず、部屋のドアは開け放されていた。まるで二日酔いのように、頭ががんがんと痛い。全身がけだるく、鉄の毛布を被っているかのようだ。

 仁は数分、ベッドに座ったまま時を過ごし、それから部屋を出た。廊下に出てあきらの名前を呼ぶが、誰もいないであろう建物内に、その声はむなしく反響するだけだった。

 廊下はいつの間にか暗くなっており、1メートル先に何があるのかさえよく分からない。視線を感じて目を落としてみれば、足もとでカラスがうごめいていた。5、6羽はいる。闇の中に混じっているため目を凝らさなければならないが、歩く先にも、たくさんのカラスがいるようだった。

 仁は足を止め、携帯電話を取り出した。しかし圏外だった。画面に表示された時間は、すでに午後9時をまわっていた。ラーメン屋に車を停めたのが、4時半過ぎだったから実に4時間近く外出したままということになる。着信履歴をみると、1時間おきに佑から電話が入っていた。心配をかけてしまっていることが申し訳なくて、仁は早足でホテルの入口へと向かう。カラスを蹴とばしてしまわないか、わずかに不安を抱きながら。

 廊下を抜け、ロビーを斜めに突っ切りながら、仁は指先にちりちりとした痛みを感じていた。体中が熱を帯びて、火照っている。目の前がぐらりと揺らぎ、ソファーが二重見える。ピントの合わないカメラのレンズのように、視界がぼやけ始め、仁は慌てて立ち止まり、目頭を押さえた。

 まだ起きてから、100メートルも歩いていないのに、息が切れていた。肩が重く、意識しなければこの場に座り込んでしまいそうだ。なぜ、これ程までに自分が疲れているのか、仁は不思議だった。

 ふと脳裏に、あきらの手にあった注射器が浮かぶ。一体あの中には、何の薬品が入っていたのだろうか。あれが原因で、疲労に苛まれているのではないか。

 だが、実際そうだとしても投薬を承認したのは仁自身だ。別段、ベッドに縛り付けられていたわけでもない。逃げ出そうと思えば、いくらでもそうすることができた。

あの室内であきらは、しつこいと思えるくらいに仁に対し、確認を取ってきた。それに対し、ここで逃げるわけにはいかない、とはっきり返したのは他でもない、仁である。葉花を救うためなら、どんな苦難でも乗り越えると決意したのだ。

 とにかく、今日は休もうと思った。明日になったら、葉花を介してあきらに連絡をつけてもらえばいい。あきらには、聞きたいことが山ほどあった。

 思考が上手く働かない。まるで、切れ味の悪い包丁で人参を切るかのようだ。仁はただ、本能に導かれるようにして、ホテルの入口のドアに手をかけた。

 外は、ひどく蒸し暑かった。完全に夜が訪れており、どこかで蝉が鳴いている。星が見えず、空はコールタールを思わせる黒一色で染まっている。日中はあれだけ自己を表現していた粗大ゴミたちが、今や凄惨な土地の上で静かに眠る、墓石の群れのようだ。

 仁はとりあえず、佑に連絡をつけようと、携帯電話を取り出した。力の入らない指でボタンを押そうとしたそのとき、仁は50メートル先に生物の気配を感じた。手を止め、顔をあげると、数メートル先に、動く影を見つけた。

 カラスではないことは明らかだ。白い体をしているし、人間の大人ほどの大きさをもっている。ならば人間か、と思えばそれも違うようだった。仁は嫌な雰囲気を嗅ぎとりながらも、その何かを観察する。先ほどから、ぜえぜえと鳴る呼吸が止まらないのが鬱陶しい。

 そいつは、頭に鬼のような角を2本生やしていた。顔面は彫刻かなにかのようで、目にあたる窪みの部分には、赤い宝石が組み込まれてある。腰には巾着を巻いており、左手は、大きな鋏になっていた。その刃は暗闇の中で、てらてらと無情な輝きを発している。

 “怪人”というワードが、仁の頭に過った。何故その言葉が、と考えれば、最近巷を賑わせている噂話からだった。怪人が人々を誘拐して回っている、というあれだ。

 あの話は本当だったのか、と目を丸くしながら周囲に首を巡らせると、“怪人”から5メートルほど離れた場所に、女性が倒れていた。女性と分かったのは、肌の露出面積の多い、花柄のキャミソールを纏っていたからだ。死んでいるのか、それとも気を失っているだけなのか、この場所から判断づけることは容易なことではない。

 その女性に、“怪人”がじりじりと迫っていた。ぴくりとも動く様子をみせない女性目がけて、鋏の腕を振り下ろそうとしている。夜の中に、その白い体躯だけが、篝火のように浮かんで見えた。

 仁は無自覚のうちに、手を動かしていた。粗大ごみの山の中からゴミ袋を持ちあげ、それを投げ飛ばす。運がいいのか悪いのか、ゴミ袋は空に美しい弧を描きだし、見事に“怪人”の頭部を捉えた。

 ”怪人”が女性からこちらに視線を転じるまで、仁は自分が今、何をしたのか理解できずにいた。そのひび割れ、岩石のような顔で睨みつけられたとき、初めて仁は震えた。

 なぜこんなことを、と悔やむ間もなく、”怪人”は標的を変えたとも言わんばかりに、仁へと体を向けてくる。

 直後、”怪人”は膝を折り、身をかがめ始めた。と思うとその状態のまま、つま先で地面を蹴り、空高く跳びあがる。闇の中に吸い込まれていく、白い像を見上げながら、仁は前方に走りだそうとした。いまなら、この場から逃げ出すことができると思ったからだ。だがその予測は、あまりにも浅はかすぎた。

 次の瞬間、”怪人”はまるで射られた矢のような速度で、仁目がけて飛び降りてきた。それも両足をぴんと伸ばした姿勢で、だ。ドロップキックだ、と気づいた時には”怪人”の体は、耳障りな破壊音を伴い、仁のすぐ隣に放置された冷蔵庫に埋まっていた。

 冷蔵庫の表面を形作っていたプラスックの破片が周囲に飛散し、それらはまるで刃物のように、仁の腕を切り裂いた。鋭い痛みとともに、生暖かいものが手首を伝う。見るまでもなく、それは傷口からあふれ出た血液だった。

 それにしても何という脚力だろう、と仁は走りながら驚嘆する。あの”怪人”の蹴りは、完全に冷蔵庫を砕き、貫いてしまっていた。あんなものまともに人間がくらったら、ひとたまりもないだろう。仁は白く淀み、目眩すらする頭で一心不乱に疾走した。

 目の前に、あの女性が横たわっている。赤い口紅と青いマスカラが目立つ顔をもち、30代前半であることを匂わせる。遠目でも生死の判定が難しかったが、顔形がはっきりするほど近くに来ても、まだ微妙なところだった。

 仁は女性に少しずつ近づきながら、少し迷った。女性を捨てて、自分1人で逃げるのも忍びない。かといってここで足を止めれば、”怪人”に追いつかれてしまうのではないか、という懸念があった。

 だが仁は邪念を振り切り、小石を蹴とばしながら立ち止まった。そして腰を曲げ、女性を起こすと、片手で支え、首に担ぐ。体は相変わらず気だるくて、指の先まで神経が通っていないような感覚だったが、この場においてはあまり気にはならなかった。

 女性の吐息を耳の裏に感じることで、初めて女性の生存を確認する。気を失っているだけらしい。死体と寄り添っているのかもしれない、というおぞましさから脱却することができたため、仁は少し気が楽になった。

「大丈夫ですか?……って、聞いてないか。とりあえず、安全な場所へ」

 言いながら、安全な場所とはどこを指すのだろうと唇を噛んだ。この化け物からは、どこまでいけば逃げることができるのか。

 そう思った時だった。背骨が折れたのではないか、というほどの衝撃とともに、仁の体は前に突き飛ばされた。女性はその手からもぎ取られ、人形さながらに飛んでいく。

 砂利道に頭から落下し、小石が全身にめりこむ。世界がぐるぐる回って、一体どっちが上なのか分からなくなった。灰色の石たちと、黒い空が交互に入れ替わり、そのうちそれらは混ざり合って1つの線を描いていく。

体の動きは止まっても、いまだ三半規管は狂ったままで、仁は猛烈な吐き気を催した。口の中いっぱいに入り込んだ、砂粒を吐き出す。そうしながら仁は、手足の指先に強い痺れを感じていた。それも体の中心から、端末に伝導するかのような痛みで、体をまったく動かすことができない。

 仁の頭から血が引いていく。まさか本当に背骨をやってしまったのだろうか。だとしたら、もうこの場から立ち去ることですら不可能ではないのか。

 仰向けに転がっている仁は、”怪人”の姿を目にすることはできない。しかし、その接近は足音で分かった。小石を踏みしめる、じゃりじゃりという音が耳朶を打つ。

 ”怪人”が女性を見下ろしている。そして、鋏を振りかざす。その二対の刃は女性の喉を切っ先で引っ掛け、そのまま腕を反して、皮膚を破り、肉をえぐり取っていく。まるで噴水のように血が飛び出し、砂利の上に鮮血が舞い散る。女性は悲鳴もなく、自分がなぜ、どのようにして死んだのかも理解せぬまま、地獄の峠をさまよっていく。

 その光景が、まざまざとイメージできる。しかもそれはけして虚構ではなく、今まさに現実に起ころうとしているのである。

 体の奥底が、溶けるように熱い。呼吸が乱れ、心臓が暴れ狂う。激しくあえぎながら、仁は地面を爪で引っ掻いた。痺れが全身に浸透し、ついには骨まで達する。そして全身を覆う痛みに目を見張ったとき、仁はそこに映し出された夜空に、青い蝋燭の炎を見た。

 仁は弾かれるように起き上がると、振り返った。痛みも痺れもいまや、まったく感じない。ついに、痛痒を知らせる感覚さえも麻痺してしまったのか、と思えるぐらいだった。凍えるような風が、頭の中で吹き荒れている。だが体の芯は熱した鉄串のように熱く、いまにも皮膚の裏側から湯気が立ち昇ってきそうだ。

想像通り、“怪人”は鋏をぎらつかせ、女性に切りかかるところだった。仁は“怪人”に2歩で近付くと、拳を握り、その白い顔を全力で殴り飛ばした。

軋んだ音をあげて、“怪人”は怯む。まさか仁が反撃してくるとは思わなかったのだろう。不思議なものを前にしたかのような目つきで、仁の体を上から下まで眺めてくる。

しかし驚愕したのは、仁も同様だった。まさか、こんなことのできる人間だったということが、自分自身のことなのに信じられない。“怪人”の顔はその見た目通り、まるで石像を叩いたような感触だったが、拳に痛みはない。だが、それほど奇妙だとは思わなかった。あぁ、これは夢をみているんだなと勝手に得心する。自分はきっと背中を強く打ち付けた時に気を失い、いまは夢でその続きを見ているのだ。そうに違いない。

“怪人”は、完全に仁を敵とみなしたようだった。女性のような甲高い叫び声をあげると、鋏を振り回しながら近づいてきた。だが仁の眼には、そのがむしゃらな“怪人“の攻撃は、まるでスローモーション映像のように映っている。突き出される凶刃の軌跡がくっきりと宙に刻まれ、その度にちらちらと銀色の輝きが瞬くのを1つも逃すことなく見て取ることができる。仁はその攻撃を、反応の成すままに次々と回避すると、鋏のついている腕の、肘あたりを掴んだ。そしてその腕を強く前に引っ張ると、膝打ちを浴びせ、その鋏を根元から叩き折る。

きぃ、と短い悲鳴をあげる“怪人”の胸を殴って突き放し、仁は地面に落ちた鋏を即座に拾い上げた。

まるで目の前にするべき行動の書かれた、脚本が置かれているかのように。仁は熱に浮かされるまま、霞んだ景色の中で、“怪人”を追い詰めていく。無自覚に、無意識に、無頓着に、仁は“怪人”に駆け寄り、その腹部目がけてミドルキックを打ち出した。

だが、そのキックは宙を切った。攻撃対象が、忽然と姿を消したからだ。まさかと思い、見上げれば、そこには空中でドロップキックの姿勢をとる、“怪人”の輪郭があった。

次の瞬間、くぐもった音が耳に届き、視界が真っ暗になった。直後、脳みそを揺さぶられるような衝撃を受ける。急に外界から切り離されたような虚無感に、平衡感覚が保っていられなくなり、たまらず後ろに倒れこんでしまう。

尻もちをつくと、そこでやっと目の前が明るくなり、同時に迫りくる“怪人”の足の裏が見えた。その足首にはめられた赤いアンクレットに、今更ながら目が留まる。そしてその両足はぶれることなく、仁の胸に吸い込まれていった。

軋む音が鳴り響き、肺への圧迫感を覚えるとともに、呼吸が詰まった。吐くことはできるが、外から酸素を取り入れることができず、急速に頭から空気が抜けていく。

だが、仁はけして後ろに引くことを選ばなかった。これはチャンスだ、とどこからか声がする。声に従うままに、胸に突き立てられたままになっている2本の足の腿を、左手で掴む。

そして仁はそのまま、有無も言わせず、“怪人”の体を地面に引き倒した。まるで、柔道の一本背負いが決まったかのような、すがすがしさがあった。小石と砂埃が舞い上がる中、仁は短い深呼吸で空気を肺に満たし、脳血管の隅々まで新鮮な酸素を流し込む。そして腹をみせて倒れている“怪人”にすかさず飛びかかり、そのまま馬乗りになった。

 壊れたスピーカーのような声で喚き散らしながら、“怪人”は切歯扼腕といった様子で残された右手と両足を激しくばたつかせ、もがく。歯茎を剥き、宝石のような目をちかちかとさせて、唾を飛ばしてくる。仁はタイミングをつき、その肘を押さえつけることで、右腕全体を封じ込めた。

 もちろん、危険な両足も同様に、自分の膝を使って拘束する。

 そして仁は、自分の空いた左手を高く振り上げた。その手には、つい数分前まで“怪人”の左腕を担っていた、あの鋭利な鋏が握られている。

仁はその冷やかな感触を手の中に潜めながら、目で狙いを定める。着地点は、一ヶ所しか考えつかなかった。まるで糸に引っ張られるかのように、腕を振り下ろす。そして鋏の切っ先を、“怪人”の胸に突き刺した。

“怪人”は全身を痙攣させ、喉の奥からえづくような音を出した。耳触りなほどだった、あの金切り声が一瞬にして消え失せたことで、手ごたえを感じる。そのまま鋏をぐりぐりと回転させながら、皮膚の奥深くまでさらにねじ込んでいく。皮膚を裂く、初めての感触が指先に伝うが、仁はあまり気にしなかった。ただ何かにとり憑かれたように、自分の下敷きになっている異形の胸を、突貫する作業に熱中していた。いまが夜で、夏であることさえもその間は忘れた。

 鋏をうずめる度に、げぇげぇという低い声が湿度の高い空気に響き渡ったが、仁には聞こえていなかった。そのうち、その声さえも途切れ呼吸が止まっても、まだなお仁は鋏を押し込み続けていた。

 その間中、仁の瞳の裏側にはまったく別の景色が展開していた。それは現像した写真を順番に見せられているような、つぎはぎの映像だ。それは青い芝生、突風に吹かれる風見鶏、くゆる煙草の煙。すべて、仁の記憶の中にはしまわれていない、初見の光景だった。

 意識はどことも判断のつかない異空間に吸い込まれていき、そのしみに塗れた壁を這いずりまわっていく。いよいよどこだか分からない。脳がじわじわと、得体のしれないものに侵食されていく気がして、仁は強く下唇を噛んだ。

 そして、唇の裂ける痛みとともに気が付いた。今のは、自分の“能力”によって見えた映像だ。“怪人”の体に残されていた記憶が、仁の頭に直接情報を送り込んできたのだ。

ぱちん、と頭の後ろのほうで音がして、仁は危うく前に倒れこみそうになった。地面に手をついて、何とか姿勢を持ち直す。

視線を落とすと、いつの間にか鋏は根元まで“怪人”の中に埋まっていた。“怪人”は口の端からだらしなく舌を飛び出させたまま、動かなくなっている。血はなかったが、死んでいる、と一目見て分かった。

あまりにも無残な、しかも自分が作り出してしまった死体を見ても、自身でも違和感を覚えるほど、無感動だった。殺してしまった、という罪悪感も、異形の生物との戦いの末、得られた勝利に浸る気持ちも、まったくなかった。仁は鋏から手を離すと、立ち上がった。そしてそれから、自分があれほど派手な立ち回りを演じた後にもかかわらず、息1つ切れていないことに気がついた。

女性のことを思い出し、周囲に視線を巡らせる。だが、すでに彼女の姿はどこにもなかった。仁が戦っている間に、逃げたのだろうか。そして彼女のそういった行為に気づかないほど、“怪物”殺しに熱をあげてしまっていたというのだろうか。

その時、ふと仁の目はある一点で釘付けになった。見てはいけないものを、見てしまったかのような釈然としない気分に陥ったからだ。それは粗大ゴミの山の中で眠る、黒い大型テレビだ。厚みのある旧式で、もはや電機屋には置いていない型である。

何かがおかしい。心が騒ぎ、はやる気持ちを抑えきれない。とんでもないことが自分に起こっているのではないか、と駆け足でテレビの画面に近づく。

テレビは当然のことながら番組を映すことはなく、まるで鏡のように、画面の前に立つ景色を浮かびあがらせている。仁はまず、目を瞑って画面と向き合った。

片頭痛がして、相変わらず体は熱っぽい。そして自分の心臓が大人しくなるのを待ってから、目を開けた。そしてそこに映し出されていた光景に、唖然とした。

そこに、仁はいなかった。代わりにあったのは黒の鎧で全身を包み、憔悴した様子でテレビの前に立つ、怪物の姿だった。

額からは1本の長い角が伸び、その表情は漆黒のマスクで防がれている。鎧には金色の直線がいくつも走っており、それは全体像として展望してみると、一貫して大きな模様を形成しているように見えた。腹部には円盤状に切り取られた茶色の石がかざされ、腰に巻いたベルトの右側には、フェンシングのサーベルのようなものが抜き身のまま差してある。

その姿形は嫌でもハクバスを彷彿させるが、彼が「鎧を身に纏っている」というイメージだったのに対して、この怪物は「鎧そのものに命があり、動いている」という印象を受けた。

仁が手をあげると、テレビの中でその怪物も同じ方の手をあげた。首を曲げると、同じように首をかしげ、踵を鳴らせば、同じように踵を立てる。

改めて仁は目を落とし、自らの手を見た。すると、いつの間にかその手には黒いゴム手袋のようなものがはめられており、それはテレビの中にいる怪物と同等の光沢を放っていた。

ぎゅっと目を閉じ、10数えてから、恐る恐る開く。

するとその手は、元の人間のものに戻っていた。視線をあげ、テレビを見ると鎧の怪物は姿をくらまし、代わって疲れ果てた仁の全景が映し出されている。

仁は肩を落とした。

今のは何だったのだろうか、と視線を泳がせる。あまりに疲労が重なりすぎて、ついに幻覚まで見るようになってしまったのだろうか。それとも、今の鏡像が示すとおり、自分も怪物に変身して、その力を使役して怪人を殺したのだろうか。

ありそうだな、と仁はひどく波立った頭で思った。気を抜けば、卒倒してしまいそうだった。視野狭窄が始まり、自分を俯瞰してみることが不可能に近くなってきている。

鏡の中に人はいた。命を操る鳥もいた。人間を襲う怪人もいた。もう何を疑って、何を信じていいのかさえ判断がつかない。今の自分は正常なのか、それとも異常なのか。世界が狂っているのか、それとも狂っているのは自分のほうなのか。

早朝のテレビのように、頭の中で砂嵐が吹き荒れ、ノイズが走る。ぐちゃぐちゃに乱された思考回路の中で、仁はまだテレビに目を奪われていた。

「帰ら、なくちゃ」

自分を説得するように、ふいに呟く。日常に、帰らなくちゃ。

仁は踵を返し、壁伝いに歩きながら、空を見上げた。そこには月はなく、カラスの群れが一直線に、夜闇の中を突っ切っていく。これはこれで綺麗だな、とかすかに目を細めた。




 疲労困憊のまま車を運転して、仁は家にたどり着いた。まるで千里の道のりを辿ったかのようだった。事故を起こさず、無事にたどり着けたのが奇跡的なほどだ。頭痛も眩暈もひどくて、項垂れた姿勢のまま、裏口のドアに鍵を刺す。開くと同時に階段を駆け下りてくる音が聞こえ、顔をあげると、壁に寄りかかるようにして佑が立っていた。

 佑は仁をみるなり、大仰に溜息をつき、それから怒気を孕んだ声を出した。

「どうしたんだよ仁さん。心配したんですよ」

「ごめん。ちょっと……色々あった。本当に、ごめん」

 謝罪の言葉しか浮かばない。頭を下げたまま、ひたすらに仁は佑に謝る。そうすることでしか、気持ちを伝える方法を知らなかったからだ。すると佑は気力を削がれたような顔をして、仁に頭を上げるように言った。

「もう、いいですよ。それよりも大丈夫ですか。なんか顔色悪いけど」

「僕は大丈夫だよ。それより葉花は? なんともない?」

 ただそれだけが気がかりで、車を飛ばしてきたのだ。すると佑は仏頂面から一転して、表情を崩した。その笑顔に仁は、あぁここは自分がいていい場所だったんだな、と再確認する。ここは仁の家なのだ。

「あいつが体調悪いなんて嘘でしょ? めっちゃくちゃ元気で跳ねまわってたよ。さっき疲れて寝ちゃったけど」

「本当に?」

「ホント。さっきまで、一緒にゲームしてたし。まぁ、コテンパンに俺がのしてやったけどさ!」

「それなら、良かった」

 全身から力が抜け、膝が勝手にくず折れて、前に倒れそうになった。だが咄嗟に唇を噛むことで意識を覚醒させ、壁に手をのばして体を支える。どん、と音がして家がわずかに揺れた。

「大丈夫っすか!」

 駆けようとしてくる佑を手で制し、仁は靴を脱いで家にあがった。足の裏にフローリングの懐かしい感触が蘇る。もう10年近くもこの家に住んでいるのに、そういう感想を持ってしまうのは何故なのだろう。

深く思案する間もなく、また足がもつれそうになり、仁はバランスを崩して肩を強く、壁に打ち付けた。佑が顔を手で覆い、その指の隙間からこちらを見てくる。その瞳が不審さに揺らいでいたので、仁は笑って佑の横を通り過ぎた。

「ごめん、佑。やっぱり僕、あんまり体調がよくないみたいだ。今日は、さっさと寝ておくね。今日は留守番してくれて、本当にありがとう。遅くなって、悪かったね」

「仁さん」

 階段に足をかけようとすると、呼び止められた。肩越しに振り返ると、佑が神妙な面持ちで仁を見ている。その様子があまりにも真剣味のこもったものだったので、仁は無意識のうちに笑みを消していた。

「なんだい?」

「無理、しないでよ」

 仁は胸の奥から、熱いものがこみ上げてくるのを感じた。それはじわりじわりと頬の裏側に広がり、涙線を撫でるように刺激する。そのたった一言が、自分でも理由が分からないほど、深く心に浸透する。

 言葉にされることで、自分は無理してたんだな、と初めて自覚した。この疲れは心労からくるものも混じっているのかもしれないなと新たな考えを取り入れる。

「うん。ありがとう。佑も、早く寝たほうがいいよ」

 そう告げるのが、やっとだった。顔を伏せたまま、仁は階段を昇る。下から電気を消す音が聞こえ、少し遅れて、佑も上がってきた。2つの足音が、静寂の中にある家の中に響き渡る。2人は無言で、頭の上にあるリビングを目指す。

 リビングのテーブルには、数学の教科書とノートが広げられている。その傍らには、イヤホンの繋がったMP3プレイヤーもある。佑が音楽を聴きながら勉強をしていたのだと、一目で分かった。

 この場所に帰ってくると、今日体験してきたことが、すべて夢のように思えるから不思議だった。ハクバスも、黄金の鳥も、怪人もすべてでたらめだ。誇張された妄想だ。断言したい気持ちが、ガスを吹き込まれた風船のように心の中で膨張していく。

「俺、宿題終わらせるまでまだちょっとかかるから、電気とかは任せてください」

 佑が言うのを、霞がかった脳で聞きながら、仁は寝室へと足を向けた。普段、帰宅時の手洗いうがいを同居人たちに促しているが、今日はそれさえも億劫だった。ぺたぺたと音を鳴らし、リビングを横切る。足元が覚束なくて、気を抜けば壁に激突してしまいそうだ。

 自分の部屋へと続くドアに手をかけてから仁はふと、背後に立つドアに目線だけをやった。そこを開けば、葉花の元にたどり着くことができる。彼女は元気なのだろうか。いつの間にか、また石になっているということはないだろうか。様々な憶測が頭に積み重なっていき、その重量に心が悲鳴をあげる。気づくと仁は、くるりと体を半回転させて、目の前に浮かんでいるドアノブに手をかけていた。

 室内は当然のことながら、電気が消されていて真っ暗だった。一度強く目を瞑り、それから開くことを数度繰り返してやっと、何とかそこにあるものたちの輪郭を視覚に捉えるができるようになる。部屋の窓は開け放たれたままにされており、ささやかな風が室内に入り込んでは、カーテンを揺らしている。スタンドミラーは、出かける前と同様、勉強机に寄りかけてあるままだ。

 まるでこの部屋だけが、外の世界と切り離されているかのようだった。波の立たない夜の海のような雰囲気がある。だが、寂寥や戦慄は感じなかった。むしろ、この部屋全体が奏でている調べに、引きこまれてしまうぐらいだ。

 葉花は小さな寝息をたてて、ベッドで眠りについていた。その安らかな表情は、まるで生まれて間もない赤子のようだ。仁は脇の勉強机から手探りで椅子を引っ張り出し、昼間と同じように座った。

 背中を少し前に曲げ、葉花の寝顔を凝視する。そうしていると、彼女の吐息が首筋にかかるような錯覚さえも感じることができそうだった。

「葉花……君が死ぬなんて、嘘なんだよね?」

 誰にともなく、仁は声に出して言ってみる。明かりのない部屋の中では、目に映るものすべてがモノクロであったが、仁にはしっかりと見えていた。葉花の張りのある白い肌、そして瑞々しい黒髪。その全てが、手にとるように分かる。

仁は、葉花に向けて手を伸ばした。指先で、その餅のような頬に触れてみる。すると跳ね返ってきたそのふくよかな感触に、自然と頬が緩んでしまう。

 この子を守らなければならない、と心に責任が帯びる。そしてそれができるのは、すべてを知っている自分だけだ。頬から伝う温もりが、指を昇り、やがて仁の全身を満たしていく。この子だけは、絶対に死なせちゃいけない。

その時、突然、葉花のその頬がひんやりと固く、冷たくなった。思わず、「え」と声を漏らしてしまう。嫌な気配を感じ、仁はゆっくりと自分の指先を注視した。

 次の瞬間、頭の中が真っ白に染まった。全身がいっぺんに凍えだす。その急激な温度差に、体がひび割れ、そのまま砕け散ってしまうのではないかというほどだった。

 仁の指を中心にして、葉花の頬が石化を始めていた。声をあげる暇さえ与えられず、彼女の顔はひどく無機質な白へと塗りたぐられていく。

 瞳の奥に今日の昼間、同じ場所で遭遇したワンシーンが蘇る。葉花が石になる。葉花が死んでしまう。まるで頬を鋭く張られ、夢から叩き出されたような気分だった。

 狼狽しながら仁は、とにかく指を頬から離した。とくに考えがあったわけではない。気づくとそうしていて、さらに立ち上がり、彼女のベッドから後退していた。

 だが、その選択は功を奏したようだった。葉花の石化は止まり、おまけに侵食されてしまっていた部分も、人間の肌の色に戻っていたのだ。葉花はこの一連の変化にまったく気づかぬ様子で、相変わらず気持ちよさそうな寝息をたてている。

 一体、なんだったのだろう。

 仁は壁に寄りかかったまま、自身の掌に目を落とした。その指先は麻薬患者のように、大きく震えている。何かが変だ、何かがおかしい。

 肺に息が取り込めなくなり、仁は肩を大きく上下させながら、その場に座り込んだ。またあの、ぜえぜえ呼吸が復活する。仁は自分の意識が、あの“怪人”を見つけたときに舞い戻ってしまったかのように感じた。

 足を踏み入れたとき、確かにこの部屋では、神妙で、それでいて懐かしい、眠りを誘うような演奏が行われていたはずだった。だがその演奏がいま、激しくうねりはじめ、不協和音になり、ぎしぎしと悲鳴のような旋律にすり代わっていく。

 暗闇の中に恐怖と孤独が芽生え、その枝は餌を前にした蛙の舌のように、素早く枝を伸ばして仁に巻きついていく。逃れることなど到底できず、仁は自分で自分を抱くようにして大きな体を縮こませるしかない。

「あなたは、誰だ」

 男の声が聞こえ、仁は弾かれるようにしてスタンドミラーに目をやった。そして鏡に掴みかかって起こし、鏡面を自分の方に向けた。もはやハクバスに対する義憤や怨恨など吹き飛んでいた。つかみどころのない焦燥感だけが、仁の背中をぐいぐいと押している。

するとそこには予想通り、カーペットに膝をつく、ハクバスの姿があった。こちら側の世界と同じように、鏡の中の彼にも色がついていなかった。

「今のは、どういうことだよ!」

 鏡面に顔を近づけ、仁はうわずった声で叫ぶ。周囲に聞こえるかも知れない、という危険性は頭の中から除外されていた。

「今、葉花がまた石になった! 君は言ったじゃないか。葉花に影響がいかないように頑張るって。なのに、どういうことなんだよ」

 仁の詰問にも、ハクバスは無言だった。逆に憤りを含んだ視線を、ひたすら仁に投げかけてくる。そのことに気づき、仁は興奮冷めぬまま、とりあえず鏡から顔を遠ざけた。

 するとハクバスは、毅然とした語調でもう1度訊いてきた。

「あなたは、何者だ」

「何者って……昼間にあったじゃないか」

「違う。いまのあなたは、前に会った時のあなたじゃない」

 一体何が言いたいのだろうか。その真意を引っ張り続けるハクバスに、仁は苛立ちを積もらせていく。1つ怒鳴ってやろうか、とも思った時、ハクバスは口を開いた。

「いまのあなたは、黄金の鳥だ」

 思考が停止する。黄金の鳥? 僕が? 何を言っているんだ?

「どういうこと?」

「昼間に話したな。俺の体が、ある種の毒に蝕まれていることを」

 仁は力なく頷く。もちろん、忘れるわけがない。黄金の鳥の力に触れることで、その威力を発揮する極めて特殊な毒だ。ハクバスは自らの体で鳥を封印してしまったがために、この毒の影響を、常時受け続けることになってしまった、という話のはずである。

「率直に言うと、いま、あなたの指先が楓葉花、つまりこの俺に触れた瞬間、俺の中の毒の力が急激に強まった。この毒のことを周知しているわけではないが、単純に考えて、その結果から導きだされる答えは1つしかない」

「僕の体から、鳥の力と同じものが出てる、と。そういうことを言いたいのかい?」

 そんな馬鹿な、と言いかけて、仁は表情を凍らせた。ベッドで気を失う直前、あきらが口にしていた言葉を思い出したからだ。

 今日から、ボクたちの仲間になる。覚悟はあるか――。

もしかして、あれは、そういう意味だったのか? 

 そして同時に、“怪人”の命を奪ったときのことが頭の中に蘇った。まるで、絡まった糸の一端を引っ張ったら、別の糸の端っこも引っ張り出てきてしまった、という感じだった。

 何人もの女性をさらい、殺してきた異形の存在を軽々と手にかけてしまった事実。そして戦いのあと、テレビの画面に映し出されていた、黒い騎士のような怪物の姿。

 夢でも何でもない。あれはすべて、現実に起こったことだ。そして話の順序建てとしては、あきらに寝ている間、何かをされたことで自分は怪物になり、“怪人”を殺してしまうほどの大きな力を手に入れた、と考えるのが妥当だ。

そしてあきらにされた何か、とは。答えは、ハクバスの話と実体験を照らし合わせれば、おのずと見えてくる。徐々に実感が沸いてきて、仁は自分の胸を掻き毟りたい気分になった。その事実があまりにも、おぞましくて、歯をかたかたと鳴らしてしまう。

 黄金の鳥の力を、体内に埋め込まれたのだ。

 仁は自分の胸に手を当て、心音を聞いた。だが、体に手を加えられたことを確信し始めると、その音でさえも作り物のように感じてしまって、すぐに手をのけた。それから愕然とし、中空に視線をさまよわせる。現実に行き場を失って、仁は思わず宙を舞っている夢の世界に、自分のいるべき場所を探してしまう。

「心あたりが、あるようだな」

 言って、ハクバスはため息をついた。この部屋の空気が濁ったように見えるほど、それは深いものだった。それから彼は、諦念を滲ませた声で断言する。仮面越しにでも、もはや希望すらない、という表情が透けてみえてきそうだった。

「残念ながら、もはやあなたは俺の天敵だ。楓葉花に、触れることすら許されない」

 仁はよろよろと視線を鏡に戻した。そして、鍋の噴きこぼれのように、抗いようもなく唇の端から言葉が漏れていく。

「そんな。だって僕は、葉花を救うために……。そのために、やったのに。そんなの、ないよ」

「だったら、もう1度触ってみるがいいさ。さっきと同じことが起きるはずだ。俺は確かに努力すると言った。だがそれにも、さすがに限度というものがある。あなたはもう、この娘に近づかない方がいい。あなたは、もはや存在自体が、毒なんだ」

 仁は葉花に目をやった。その姿が、真相を耳にした今では、隔てられた絶壁の向こう側にいるかのようにひどく遠く感じられる。

 この娘に近づかない方がいい。ハクバスのセリフが心に突き刺さり、そこからとめどもなく血が流れていく。そうか、もう葉花の近くにいることすらできないのか、と思うと泣くことすらできなかった。そんな自分がひどく、みじめだった。

「同じだよ。俺もあなたも。己を信じてやったことが、すべて裏目に出るんだ。そんなに、うまくいかないもんだよ」

 ハクバスが寂しく笑う。その笑みに自嘲のようなものが込められているのに、気づいてはいたが、仁は自分が笑われているような気分にもなった。

 葉花を救えると信じ、あきらの言葉を受け入れたのに、それが葉花を苦しめる結果となってしまった。言う通りだ。今の仁と、ハクバスに何ら違いはない。どちらも自分の勝手な行いによって、葉花を巻き込んでしまっているという点においては、まったく一緒だった。

「葉花、ごめん」

 無邪気な寝顔に向かって、仁はただ謝ることを重ねる。それは掠れて声にすらならなかったが、何度でもその言葉を繰り返した。

「ごめん……ごめん」

 もはや涙も出なかった。仁は自身の不甲斐なさに打ちひしがれ、佑が心配してやってくるまで、その場所から動けなかった。




2010年 7月24日


 どんな風にして過ごしていても、同じような朝はやって来る。

 今朝はここ数日に比べて、若干涼しく感じる朝だった。おかげでそれほど寝間着を汗で濡らすことなく、すっきりと目覚めることができた。こういう1日の始まりは、とても気持ちがいい。フライパンの前で大きく伸びをし、仁は夏の朝の空気を肺に満たす。

 仁はいつものように、キッチンからご飯とみそ汁を持ってくると、佑と葉花の前に置いた。葉花はテーブルの下で足を忙しなく足をばたつかせ、その隣で佑は眠たそうにあくびをかいている。葉花は乱れた制服姿、佑は寝間着、というスタイルもいつも通りだ。

 佑が箸を手に取りながら、不服そうに言う。

「今日、土曜日なのに。なんで俺まで起きなくちゃ……」

「いただきます。タンス君うるさい!」

「うるさいことねぇだろ! お前は学校あるかもしれないけどなぁ、うちは休みなんだよ! あぁ、俺の貴重な睡眠時間が」

 嘆きながら天井を仰ぐ佑を見ながら、仁も席に着いた。テーブルの中央には、菜っ葉の漬物と卵焼き、ミートボールが乗っている。

 佑の通う都立高校は昨日で終業式を終え、すでに夏休みに入っていた。一方、葉花の通う私立高校は今日が夏休み前、最後の授業日だった。1時間だけ授業をやって、その後お昼まで終業式を行うらしい。仁が高校に通っていた頃は、終業式のある日は式だけやって終りというのが普通だったので、授業のあとに式をやる、と聞いた時は時代の流れをひしひしと感じたものだった。

「まぁ、いいじゃない佑。僕はみんなで一緒にご飯食べられる方がいいよ」

 味噌汁を箸でかき混ぜながら仁が言うと、ミートボールを頬張りながら佑は渋面で返してきた。

「まぁ、1人よかいいですけど。やっぱり、起こされるのはきついよ……」

「タンス君は、おねぼうさんだからね」

「お前には言われたかねぇよ! 今日も今日とで大音量轟かせやがって。やっぱり俺の目覚まし時計返せよ!」

「私の部屋にある時点で、そこにあるものは全部私のものなのさ! 私に物を貸したのが、運の尽きだったね」

「お前っ。やっぱりお前、ずっと寝てろよ。もう起きなくていい!」

「そんなわけにはいかないよ。私が死ぬ時は、もう世界のほうが滅んでるからね。なんか私、長生きする気がするもん」

 ご飯をかき込みながら、葉花は答える。仁は漬物を取り、湯気のたつご飯と一緒に食しながら心から同意した。

「そうだね、葉花はきっと長生きするよ。生命線長そうだもん」

 すると佑は大げさなため息をつき、それからうんざりしたような顔つきになった。

「あぁあぁ、そうだな。お前、殺しても死ななそうだもんな。せいぜい長く生きるよ」

「でしょー。タンス君も見習った方がいいよ、私を。この生命パワーを」

「俺はいいよ、人間らしい年齢で死ぬから。それといい加減に、タンスはやめろ。俺は家具じゃねぇんだよ!」

「ふーん。あ、ごちそうさま! もう時間ないから、白石君片づけておいて」

 椅子から飛び降りると、葉花は自分の部屋へと走り去っていく。聞いちゃいねぇよ、と毒づく佑に苦笑しながら、仁は彼女の座っていた席を見た。そこには空の茶碗が置かれたままになっており、テーブルには大量のご飯粒が転がっていた。卵焼きの焦げカスや、ミートボールのタレなども付着している。

 仁の視線の向きに気がついたのか、佑は隣に目をやって顔をしかめた。それからテーブルの隅にある布巾を手に取り、しかたねぇなとぼやきながら拭きとっていく。

「そういえば仁さん。もう体調は戻ったの?」

 布巾をたたみ、卵焼きを咀嚼しながら心配してくる佑に、仁は力瘤をつくるジェスチャーで答える。昨日は1日、店を臨時休業にして、ベッドで休んでいたのだ。そのおかげなのか、今朝目覚めると、体調は万全に戻っていた。

「あぁ、もうばっちりさ。今日からまた店始めるしね。そうそう休んでもいられないよ」

「今日は午後の練習まで暇だし。午前中は店、手伝うよ。久々にウェイターもやってみたいし」

 佑は時々、『しろうま』の手伝いをしてくれる。その時は仁がカウンターに立ち、佑がウェイターの役割を担うのだが、佑のお客さんからの評判は大変良かった。彼のその明るい性格と、細かいところに目がいくところが気に入られているようだった。仁はその姿を見るなり、自分よりも佑の方がよほどこの店に向いているではないか、と思ってしまう。

「あぁ、じゃあお願いするよ。佑がいると、何か売上が上がる気がする。奥様がたからの評判すごいからね、佑。大人気だよ」

 正直に言うと、佑は照れた。黒目を動かし、そそくさと椅子から立ち上がる。

「そ、そんなことないですよ。あ、じゃあ俺もごちそうさまです」

 自分の食器を掴み、葉花の分と一緒に佑はキッチンに持っていく。佑の背中に感謝の言葉を投げかけてから、仁はソファーのほうに目をやった。そこはまばゆい朝の眩い日差しに照らされ、まるでスポットライトを浴びせられたかのように浮かんで見える。

 その陽だまりをぼんやりと見つめていると、後ろから服の裾を引っ張られた。振り返ると、そこには無邪気な笑顔をみせる葉花がいた。手には学生鞄を持っている。

「葉花」

「ね、白石君。髪やって、髪」

 寝ぐせのひどい自分の頭を指さしながら、葉花は甘い声を出す。一昨日の自分なら、ここで気のいい返事をして、彼女の髪をとかしていただろう。そして鏡の中で綺麗になっていく葉花を見つめた後、そのまま学校に送り出す。それは、他愛もない、日常の中での一コマのはずだった。

 だが、いまは違う。当り前の日常は、もう終わってしまったのだ。

 葉花の黒い髪に手を伸ばそうとして、引っ込める。そして笑顔を保ち続けながら、仁は言った。

「葉花。今日から、自分でやってみない?」

 彼女からすれば、予想だにしなかった返答だったのだろう。目を丸くしたまま、無言で仁を見つめている。仁も、葉花の目を見た。哀しみがその視線から滲み出てしまわぬように、気を張り詰めておく必要があった。

 時計の針が時を刻む音が、室内に響き渡る。

 時間にして10秒とかからなかったはずだが、仁には無限の時間が過ぎ去ったように感じられた。しばらくしてから、葉花は頷いた。それから先ほどと、なんら変わらぬ笑顔を見せる。

「うん、分かった。私もいつまでも、白石君に頼ってばっかいらんないもん! がんばってみるよ!」

 仁は胸がふわりと浮きあがるのを感じた。嬉しさと寂しさのないまぜとなった感情が、血流に乗って体中を駆け巡る。

「うん、葉花は偉いね。きっと、君ならなんでもできるよ」

 嬉しそうに飛び跳ねながら、洗面台に向かう葉花の背中を見ながら、仁は胸のあたりにぽっかりと穴の空いたような気分になった。そこを埋めてくれるものは何もなくて、思わず自分の胸を押さえる。

「白石君」

 洗面台に続くドアから顔だけを覗かせながら、葉花は仁の名を呼んだ。仁は口元に笑みを携え、首を傾げてみる。すると葉花は両頬をあげて、その小さな口を開いた。

「今まで、ありがとうね」

 ばたん、と音がしてドアが閉まる。そして葉花の姿は見えなくなる。仁はしばらく呆然とした後、椅子から立って、導かれるようにソファーに腰を下ろした。

 電源の入っていない、テレビの真っ黒な画面を見る。そうしているとどこからか、ハクバスの諦めのこもった低い声が、聞こえてくるような気がした。

「結局、彼女の前から離れないのか。このまま今まで通り、暮らしていけるとでも?」

 仁はソファーの背にもたれかかりながら、口には出さずに答える。

「昨日1日考えてみたんだ。最初は葉花の元から去ることも考えたけど……それじゃあ、何もならないことに気がついたんだよ」

「どういうこと?」

「僕は誓ったんだ。葉花に。危ない時は、何があっても助けるって」

 『しろうま』の陽だまりの中で、誓いを交わした。ここで逃げたら、あの約束が嘘になる。有言実行。その格言を胸に抱いて、仁はあきらに覚悟がある、と返答したのではなかった。

「辛いことも、苦しいこともあるかもしれない。だけど、これは僕の覚悟だ。僕はこの手で葉花を救いだしてみせる。そして必ず彼女を、幸せにしてみせる」

「あなた自身が、彼女の毒なのに?」

 ハクバスは仁をあざけるように言う。だがそれは、彼にとって自嘲の意味合いも含まれているように感じた。俺もあなたも同じ、というハクバスの言葉が鼓膜に蘇る。

「毒だからって、黙って身をひそめてることはないさ。君だって、葉花のために頑張ると言ってたじゃないか。だから、僕も頑張るんだ」

返事はなかった。言い残す言葉はなにもなく、ハクバスの声は忽然と消えてしまった。それとも最初からハクバスはそこにいなくて、自分の頭が作り出した幻聴だったのかもしれない。

仁は腰を上げ、テーブルに放置されたたまの自分の食器をキッチンへと運んだ。流し場では、まだ佑がスポンジで2人分の食器を洗っていた。仁はその隣に並び、もう1つのスポンジを手に取ると、自分の食器に泡を立て始める。

 さよなら日常、おかえり悪夢。

 しかしそこに1つでも光が差し込んでいるのなら、たとえ絶望に満ちた地獄のような道のりだとしても、笑いながら歩いていけるような気がする。光は頭の上にあるものではなく、いつでもその心で輝いているものだと、今なら言い切ることができる。

「仁さん」

「ん?」

「今日も、暑くなりそうですね」

手元に目を落としたまま、佑は茶碗のへりに指を這わせながら、言った。仁もまた手を泡まみれにしながら、茶碗の中をぐるぐるとかき回す。自分の手で目に見えて汚れが消えていくのは、何だか気分が良かった。

「うん。今日も、いい日になるといいね」

 背後のリビングでいってきます、と葉花の声が聞こえたので、仁と佑は同時に振り返り、返事をした。それから顔を見合わせ、2人で笑った。

 鬱陶しいまでの蝉の大合唱が、鼓膜に響く。今日もまた、同じように世界は流れていく。

 その中で、どうやってこの1日を有意義に過ごしていけるだろう。

茶碗の水分を布巾で拭いとりながら、仁は初めて、蝉の声に、その短い命の中でかき鳴らされる魂の鼓動に、耳を傾けていた。


1章完


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