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4話 黄金の鳥

 最初から葉花を連れていくことは、視野にいれていなかった。あきらに自分の手の内をすべて晒すことは、なんだか危険なことのように思えたからだ。

 しかし病人でもある葉花1人を置いて、外出するわけにはいかない。だから仁は、佑が帰るまで家で待つことにした。

葉花の体調は、目に見えて良くなっていった。今や穏やかな寝息をたて、ごにょごにょと寝言を唱えているほどだ。ハクバスは自分の言ったことを忠実に守っているのだろう。葉花に影響が行き渡らないように精力を尽くす、と彼は早口で仁に言ったばかりだ。

だが、そもそも葉花を苦しめる一因を作りだしたのは他でもない、ハクバス自身である。

仁は葉花を回復に向かわせてくれたことに感謝する一方で、彼のその調子の良さを憎らしくも感じていた。いまのハクバスの姿は、悪戯を咎められて「悪いことをしたから謝るよ。ごめんね。これでいいんでしょ? 許してくれるよね」と唾を吐きながら言い募る、子どものように思えてしかたがなかった。

スタンドミラーはいま、鏡面を下にして、机に立てかけてある。あのあと、ハクバスは忽然と鏡の中から姿を消した。まるで、視界という名のホワイトボードに描かれていたハクバスの像を、白板消しで拭い去ったかのようだった。

無責任だと思いはしたものの、このままハクバスと顔を突き合わせていても腹がたつばかりだったので、ちょうどいいと自分を納得させる。

ハクバスが去ったあとも、仁はしばらく葉花の部屋にいた。石化の激烈なイメージが脳裏にこびりついて、離れなかったからだ。少し目を離した隙に、葉花の体がまた体温を失い、無機質の塊になってしまうのではないかという恐怖があった。

しかし、その寝顔を穴が開くほどに見つめていると、葉花が「うーん」と寝づらそうな声をあげたので、後ろ髪を引かれる思いながらも、しぶしぶと部屋を出た。

それから気を紛らわせるためリビングのテレビを点け、仁は椅子に腰かけた。テレビでは、ドラマをやっていた。背広を着た男と、白いドレス姿の女がシャンデリアの揺れる大ホールで、くるくると華やかに踊っている。当然、内容は頭に入ってこない。薄暗い部屋の中でテレビの画面だけが、ストロボが瞬くように色とりどりの光を発している。

あきらと会って、何か変わるのだろうか。仁は画面からの光を顔に浴びながら、懸念を抱く。自分のしようとしていることは果たして正しいのだろうか。もしかしたら、まったく見当違いのことをしようとしているのではないか。また、そこで仮に答えを得たとしても、自分にできることは結局何もないのではないか。

そうだとしたら、この試みも徒労に終わってしまう。仁は考えながら席を立ち、キッチンに向かった。スイカの香気のためか、それとも先の見通しがついたことにより、緊張が和らいできているためなのか分からないが、空腹を感じていた。冷凍室を開け、そこから焼きおにぎりを取り出す。レンジで3分、というやつだ。葉花も佑も好きなので、白石家ではたくさん買いだめをして、冷凍室に放り込んであった。

皿に、凍ったままの焼きおにぎりを3つ乗せてレンジに入れ、スイッチを押しながら、「だけど」と口に出す。

このまま座っていて何も変わらないのなら、何か動いたほうがいい。嘆くのは、死にものぐるいで足掻いた者だけに許される特権だ。有言実行は、結果以上にその精神こそが大事なのだ。それらはすべて義父の受け売りだったが、間違ったことは何1つ言っていないと思う。やるしかない、と仁は自分自身を鼓舞させる。

少なくとも、“黄金の鳥”についての詳細をあきらが有しているのは間違いない。そうでなければ、鳥というワードで、仁に接触してくる理由がわからないからだ。

 鳥に関する情報を聞き出すことだけでも、大きな前進になるだろう。橙色に照らされたレンジを覗き込みながら、仁は期待に胸を膨らませる。先ほどテレビに映っていた男女のように、丸い舞台の上で焼きおにぎりたちが、飾り気のない舞いを披露している。個人の意思を介することなく、他人によってやらされている踊りという意味では同じだな、と仁は気づき、その滑稽さに思わず笑みを浮かべた。食欲をそそる香ばしい匂いが、キッチンに漂ってきた。


 佑は4時ちょっと過ぎに帰ってきた。階段を昇ってくる足音を耳にし、仁はテレビを消して、蛍光灯のスイッチを入れる。

リビングに現れた佑は、うんざりした面持ちだった。訊くと、宿題が山のように出たために直帰せざるを得なくなったらしい。そのため今日はバンド練習の日だったが、しぶしぶ延期にした、とのことだった。

「うちの先生バカだろ。夏休み前に、なんで提出期限がある宿題出すんだよ」

愚痴をこぼしながら、佑は肩に担いでいたギターケースを壁に立て掛ける。

佑には申し訳ないが、仁は内心で、顔も知らないその先生に感謝した。余計な不安や懸念を積もらせる前に、行動に移したかったからだ。

手洗いから帰ってきた佑に、仁は葉花が熱を出したから看病するために早く店を閉めた、と手早く説明した。嘘はない。葉花に異変が起こったために、商売を切り上げたのは事実だ。

佑はその話を聞くなり、途端に慌てだした。眉間に皺を刻み、大丈夫なのかよと仁を見上げる。

全然大丈夫じゃないよ、と返すわけにもいかず、仁は曖昧に笑って頷いた。

「とりあえず、いまは下がったみたい。今日は様子みて、明日まで長引くようなお医者さんに連れて行くよ」

「なんだ……まったく、心配させんなよ。馬鹿でも引くんだなぁ、最近の風邪はたちが悪い」

 佑はとりあえず安心したようだった。息を漏らすと、ソファーに腰かけ、足を組む。その様子を一瞥してから、仁はテーブルの上から携帯電話をとり、ジーンズのポケットに滑り込ませる。それから車のキーを戸棚の中から引っ掴む仁を見て、佑は首をかしげた。

「あれ、仁さん。どこか行くの?」

「うん。それで、佑を待ってたんだよ。葉花1人置いていくわけにもいかないしね。お粥を作っておいたから、葉花が起きたら食べさせておいてくれる?」

「それはいいですけど。一体どこに?」

 佑の疑問は最もだ。まさか、葉花の同級生に会いに行く、とも言えない。仁は素早く頭を働かせ、適当な言い訳を繕った。

「仕事の関係さ。最近、しろうまも忙しくなってきたから。僕も、スーパー白石君にならなくちゃいけないしね」

「マジっすか。おかしいな……全然、経営がよくなったように見えないんですけど」

「佑の知らないところで、いろいろなものが動いてるんだよ。あ、そうだ。佑、それと」

 仁はちらりと、葉花の部屋のほうに目をやった。仁は留守にしている間、葉花がまた石になってしまわないとも限らない。なるべくなら佑には、真実を知らせたくなかった。彼はいまいる、仁とは別の世界にいつまでも立っていて欲しかった。

「なんか葉花に変なことがおきたら、部屋を出て、すぐ僕に電話して。駆けつけるから」

 仁の真剣な気持ちが届いたのか、佑は組んでいた足を元に戻し、素直に頷いた。

「はぁ。まぁ、分かりました。でも大丈夫でしょ。あいつ、殺しても死ななそうだし。心臓強そうじゃん、ちっこいくせに」

 僕も昨日まではそう考えていたよ、と心の中で答えて、仁は下り階段に足をかける。それからソファーでふんぞり返り、疲れた顔で天井を眺めている佑を振り返った。

「佑も、素直じゃないね」

「なにが、ですか?」

「心配してた、って言ってみれば? きっと葉花、すごく喜ぶよ」

 佑は目に見えて、取り乱した。ソファーから勢いよく立ち上がり、語気を荒くする。

「なんで俺があんな奴、心配しなくちゃいけないんだよ!」

「あぁ、そうだね。じゃあ、夕飯には帰るよ」

 仁は堪えきれずに噴き出しながら、階段を下っていく。車のキーに取り付けられた、キーホルダーのリングに指を通し、くるくると回しながら、やはりこれが日常だな、と自分の中で確かめる。


 『しろうま』から歩いて10分ほどの月極め駐車場に、仁の所有しているセダンはある。

仁が行くと、いつでも満席で、車を出すのに少々手のかかるのが欠点だが、料金が安く、防犯も割としっかりしているため、仁はこの駐車場を選んだのは正解だったと自負している。

 乗車すると仁はアクセルをふかし、二車線の道路へと躍り出た。道は、時間の割に空いていた。信号にもそれほど引っかからず、セダンは快調に進んでいく。空はまだ明るく、太い腕のようにみえる雲が、高く立ち昇っている。歩道に目をやると、自転車で移動する学生服を着た少年たちの群れが目に入った。

 彼らの姿を仁は、無意識のうちに自分と重ね合わせている。だが、それが幻想であることに気づき、ハッと目が覚めたような気持ちになる。それから左の窓ガラスに視線を転じ、隣の車線を走り抜けていく車たちを目で追った。

 そうしながら世界はこんなに鈍感で、緩慢だっただろうか、と仁は疑問を抱く。それから、そういえばこの世界は、昨日まで自分がいた世界とは違うんだっけと思い出し、アクセルをさらに強く踏みこんだ。伴って青いセダンも、まるでこの世の空気から逃れようとするかのように、白い煙を吐き出しながら速度をあげる。


目的地には、予想よりも10分ほど早く着いた。

仁が車を停めたのは、小さなラーメン屋の、これまた窮屈な駐車スペースだった。国道から少し小道に逸れた場所にある店だ。周囲に目を運ぶと、居酒屋や飲食店が多く存在していることに気付く。この店も、その1つのようだった。ここがルーズリーフに書かれた地図に、赤丸がくれてあった場所のはずである。

店の前に区切られたそのスペースには、車を4台分しか置くことができない。いまそこには、一番右端に、白い軽自動車が1台停めてあるだけだった。

一番左側のスペースに車を停めると仁は、エンジンを切り、ドアを半分だけ開く。途端に、けだるい空気が体に纏わりついた。人々の話声や車の音が、意識を集中させなくても、ひっきりなしに耳に飛び込んでくる。

降りるために仁は、ドアを全開させようと腕に力を込めた。だが、いくら押そうとも、そのドアはこれ以上、開こうとはしなかった。まるで壁に阻まれたような感触を覚えるが、左端に停めたため、運転席側に障害物があるわけはない。不思議に思い、仁はふと視線を上向かせた。

するとそこに、華永あきらが立っていた。

白いワンピース姿で、いつもの通り、青っぽい髪の毛をポニーテールしている。

彼女は口元に頬笑みを湛え、片手で車のドアを掴んだまま、仁をじっと見下ろしていた。

仁は目を見張った表情のまま、その場で凍りつく。それから、あきらはドアから手を離し、一歩後ろに退いた。

「こんにちは」

「あぁ、うん」

 あきらの挨拶に答えることで初めて、仁は、自分が呼吸を止めていたことを知った。軽い眩暈を感じながらも、身を屈めて車から降りる。後ろ手にキーをロックすると仁は、あきらと向かい合った。彼女は右腕に、薄い金色のフレームをもつ腕時計をはめていた。その掌には、幾重にも包帯が巻かれている。

 あきらは手を体の前で組んで、嬉しそうに仁を見上げながら言った。

「こんなに早く来てくれるとは思わなかったです。見つかったんですね、叶えたい願い?」

「あぁ、まぁね。僕も、こんなに早く来ることになるなんて、思ってなかったよ」

 今朝までは、あきらの話を悪戯だと思い込もうとしていたのだから、と心の中で続ける。もし、昨日の仁が今の光景を目にしたら、不審げに眉を寄せていたに違いない。

 葉花のことで気がはやる一方、焦っては水の泡になると叱咤するもう1人の自分がいる。まずは対話から、と仁はその声に耳を傾け、胸に据え置く。葉花のことは、悔しくもあるが、ハクバスに任せておこう。自分はやるべきことをやるだけだ、とまた必死に自分に言い聞かす。

 仁は、あきらの瞳を見つめた。目の前に立つ青髪の少女の目は陽光が差し込んで、きらきらと輝いてみえる。アーチ状の眉毛は、彼女の表情全体を穏やかに見せるのに役立っていた。

 しばし、視線をあきらに固定したまま、仁は思考を巡らす。この少女はどちら側の世界に立つ人間なのか。そもそも人間なのか、同じく“黄金の鳥”という言葉を口にしたハクバスのように別の存在ではないのか。見極めようとするが、彼女の全体像には靄のようなものがうっすらとかかっており、それが詮索を拒む。

 仁が目を注いでいたからだろう、あきらは訝しそうに首をかしげた。仁は慌てて、視線をあきらの手元へと転じる。悟られたら食いちぎられる、という予感があった。

「それ、どうしたの?」

 右手に幾重にも巻かれた包帯を指さすと、あきらはあぁ、と言って掌を仁にかざした。

「夕ご飯作ってて、ちょっと包丁で切っちゃったんです。ボク結構ドジですから。でも大したことないです。バイ菌とか嫌だから、一応こんなことしちゃってますけど」

 掌を包丁で切るなんて珍しいな、と疑念を抱きながら、仁はその気持ちを表に出さないように笑顔で応じる。

「それは大変だね。そういえば、今日学校にこなかった、って葉花が言ってたけど」

「寝坊しちゃって。行くのが嫌になっちゃったんです。だから、このケガとは全然関係ないです」

 あきらもまた、終始笑顔で答える。仁は、この会話に例えようのない違和感を覚えていた。

「じゃあ、行きましょうか」 

 言いながら、突然あきらが踵を返そうとするので、仁は反射的に「どこに?」と訊き返してしまう。

 その無防備な発言にあきらは、いかにも不思議そうに眉を上げた。

「黄金の鳥のいるところに、ですよ。その正体を探るために、ここにきたんじゃないですか? 違いますか?」

「黄金の鳥が、いる場所……?」

 予想外の事態に、仁の声は自然に震えた。暗闇の中に葬られていた目先の道が繋がり、頭の上に、光明が差し込んでくるような気さえした。

 鳥について細かい話が聞き出せれば上出来。そう考えて、あまり過度の期待を寄せずにここに来たから、この展開には驚愕の色を隠せない。黄金の鳥を目の当たりにすることができるのは、願ってもないことだった。

 だから仁は踊り始める心臓を、唇の端から息を吐いて抑え込みながら、小さく頷いた。

「うん、そうだよ。僕は、黄金の鳥が気になって、会いに来たんだ。見せてくれるのかい?」

 やっぱり、とあきらは両手を叩き合わせる。そしてもちろんです、と頬をあげた。

「なら、ついてきてください。ここから歩いて10分ぐらいですから」

 そう言ってあきらはくるりと回れ右をして、足早に歩いていく。仁は心の中でラーメン屋の主人に詫びながら、その背中を追いかける。


徐々に人気がなくなり、入り組んだ小道には、低いビルが影を背負って立ち並んでいた。店はそのうち営業しているもののほうが少なくなり、電気がついているな、と思うと違法の臭いしかしない事務所や、女性の写真が貼りたくられている風俗、または地味な看板の掲げられた金貸し屋だったりする。

それらのせいで、辺り一帯は日陰となっており、まだ陽が出ているというのに薄暗い。

ゴミ袋があたりに散乱しているのも、そんな印象を助長している。壁の至るところにはカラースプレーで文字や絵が描かれ、地面には猫や鳥の死骸が道端に転がったままになっていた。女性のみならず男性でも、1人歩きを拒みたくなるような場所だ。間違いなく、ここに法律の眼は敷かれていないのだろうと断言することができる。

 鳥の糞や得体のしれない染みで汚れたアスファルトの上を、無言のまま2人は歩く。そのうち舗装された道ですらなくなり、大小様々な石が敷き詰められている砂利道になってきて、あのラーメン屋のある繁華街とは別の世界に来てしまったのではないか、と錯覚しそうになる。

 あきらの少し後ろを歩き、その歩く度にふらふらと揺れる、小さな肩を見つめながら、仁は思考を働かせていた。

 対話をするうえで、同じ人間なのか、それとも違うのか、という点はとても重要だった。昨日までの仁なら、人間じゃないなら何さ、と笑い飛ばしていたかもしれないが、鏡の中にしかいない生物を見てしまった以上、どんな非現実な出来事でもありえそうな気がする。

あきらに対し、恐怖感を抱いていることは、すでに自覚していた。その原因は、“黄金の鳥”という言葉を彼女が口にしたせいかもしれないし、実はそんなことまったく関係なくて、その異様な髪の色から人間ではないものを勝手に連想してしまっているからかもしれない。

 そう多く会話を交わしたわけではないが、普段のあきらは、どこにでもいるごく一般的な女子高生のように思えた。実際、そうなのだろう。まるで犬の尻尾のように、ゆらゆらと揺れる彼女のポニーテールを見ているうち、その感情が自分の中で色濃くなっていくのを感じる。そしてその気持ちが心を占めていくうち、何故自分はあきらを恐れているのだろう、とさえ悩みをもってしまう

 まずは話をしなければ、何も始まらない。仁は歩幅を広げ、あきらの横に並ぶと、口元に笑みを作ってからあえて訊いた。

「黄金の鳥、っていうのはそもそも何なんだい?」

「黄金の鳥は、黄金の鳥ですよ」

 あきらもまた、口角をあげて返事をする。それから、仁のほうを向いたまま付け加えた。

「白石さんの叶えたい願いが、一体何かは聞きません。だけど、黄金の鳥に頼めば大抵のことは叶いますから、安心してください」

 黄金の鳥は命を操る魔鳥、というハクバスの発言を思い出す。なるほど。すべての命を掌中に収めることができるなら、「不老不死になりたい」や「誰かを生き返らせたい」、「誰かを殺したい」、さらには「お金持ちになりたい」などという願いも叶ってしまいそうだ。

 そして、そんな力が個人の手に渡ってしまえば、と想像し仁は身震いする。葉花を巻き込んだことを許すつもりはないが、ハクバスが必死に黄金の鳥を奪取し、自らの命を懸けて封印した、という話にも頷ける。

 そこで、仁はふいに足を止めた。黄金の鳥で願いを叶えると、いまあきらは口にした。それはつまり、どういうことになるのか――。

 まさか。

 頭に浮かべてしまった最悪の事態に慄然としつつも、確証を得るまではまだだ、と自制し、仁はあきらとの会話を続ける。声が上擦ってしまわないように、最大限の注意を払う必要があった。

「あきらちゃんも、そういうお願いがあるのかい? 黄金の鳥に対して、さ」

「はい、ありますよ。ボクが欲しいのは、誇りなんです」

「誇り?」

 はい、とあきらは心の底から嬉しそうに体全体で頷く。

「ボクはそのために、生きていますから」

 あきらの言っていることが理解できず、仁はしばし口がきけなくなる。黄金の鳥で願いを叶えることが、生きていること、どういう意味なのか。

「そんなに、黄金の鳥が大切なの?」

「はい! だから、白石さんもボクのことなんか信用してくれなくてもいいから、黄金の鳥だけを信じてください。そうすれば、みんな幸せになれるんです」

 あきらのあまりにも極端な発言に、仁は唖然となる。

「みんな、幸せに……?」

「はい、そうですよ。望みがかなって、嫌な顔をする人はいないんじゃないですか?」

 目をくりくりさせて、あきらは仁を見る。仁は「そうだね」と短く返答し、彼女から目を逸らした。そこに黒々とした、先の見えない暗雲が立ち込めているようで、あきらの顔を見ることが辛くなってきたからだ。

 その話を最後に、再び2人の間に沈黙が広がる。足音だけが、影の向こうに広がる、青空の下で跳ねまわっている。

 このまま無言を許していると、余計なことを考えてしまいそうだったので、仁は何か話題がないものかと恐る恐る、あきらの体を視線で探る。なるべくなら、黄金の鳥に関する以外のものがいい。

 その時、ビルの間から差し込んだ日を反射して、あきらの手元が白く光った。何かと思い見ると、それはあの金縁の腕時計だった。水色の盤面の上で、3本の針が踊っている。ベルトはこげ茶色の革製で、その時計がけして安物ではないことを窺わせた。

 よしこれにしよう、と特に思い悩むことなく話題の矛先を決めた。

「その時計、可愛いね。自分で買ったの?」

 あきらの右手を指さしながら仁が訊くと、彼女は時計に目をやりながら、あぁと声をあげる。それから仁を見上げ、笑顔になった。

「これ、彼氏に買ってもらったんです。ボクも、すごく気に入ってて……この時計ほめられると、なんだか自分が褒められたみたいで、嬉しいんです!」

 その表情はとても自然で、あきらは16歳の女の子なんだな、と初めて本心から思えるものだった。

 胸の中に渦巻いていた不安が、りんごの皮を剥くように、螺旋を描いて削られていく気がして、なんだか仁の心も華やいだ。

「彼、いい人?」

 仁の質問に、あきらは胸の前で組んだ両手をもごもごと動かしながら、頬を染めて答える。

「はい、すごく優しくて、いい人です――あ、ここですね」

話を切り、突然、あきらが立ち止まった。それに従って仁も歩みを止める。顔をあげるといつのまにか、目の前に大きな洋館が立ちふさがっていた。

 全体的に黒くすすけており、ツタがところどころに巻きついている建物である。部屋ごとに配置されているのだろう窓ガラスは、そのほとんどが割られており、そこから餌を咥えたカラスが次々と侵入していくのが見えた。周りには画面の割れたテレビや、足の折れたテーブルなどの粗大ゴミがうち捨てられており、透明のゴミ袋が山になっている。不法投棄された物たちだ。それらの物たちによるうめき声が、今にも、あたりからから聞こえてくるような気さえする。

すぐ側には国道が走っているはずなのに、車の走る音は一切聞こえなかった。ここは本当に『しろうま』があるのと同じ東京なのか、と疑いたくもなってしまう。

あまり衛生的に、よろしくない場所であることは確かだ。この建物に名をつけるなら、まさに“廃墟”という言葉以上にふさわしいものはないように思える。

 ツタと汚れのせいで観づらいことこの上ないが、洋館の上のほうには『HOTEL クラーケン』と書かれていた。その表示のおかげで、この洋館がホテルであることに初めて気づく。しかし名前が分かったとしても、どの道、廃墟であることに変わりはない。いつからこのような状態なのか、知る由もないが、1年そこらの年月ではこうはならないはずだ。

 あきらは口を閉ざしたまま、このホテルを見つめている。その相貌に陰が差しているように見えたので、仁はわざと軽口を叩いた。

「黄金の鳥は、ホテルに宿泊中なのかい?」

 するとあきらは含蓄ある笑みをうっすらと浮かべ、進行を再開した。そのままゴミの間を縫うようにして、ホテルの入口へと向かう。仁は彼女についていく以外に道はない。

 ロビーにつながるドアは押し戸式の両扉で、ガラス張りになっていた。そのガラスは白くくすんではいたが、蜘蛛の巣もなく、思いのほか綺麗であることに仁は気づいた。もしかしたらあきらは、ここに頻繁に訪れているのかもしれない。

 あきらがゆっくりとドアを押すと、油の切れたような甲高い声をあげながら、それは開いた。頭の上で一斉にカラスが飛び立ち、激しい羽音を周囲に響かせる。それらが太陽を隠し、青空を瞬時に黒く染め上げる。気づくとあきらはドアの隙間から、中に入っていたので、仁も急いでそれに続いた。

 ホテルの中は、ひどくカビ臭かった。

高い天井にはシャンデリアが見えるが、電気がついていないため、まるで影法師の中に収まってしまったかのように薄暗い。時折聞こえるカラスの羽音以外に、音はなかった。

足元に敷き詰められた、えんじ色のカーペットには固まった埃が落ちており、ふと上を見れば室内なのに鳥や蜂の巣ができている。

 広いロビーにはカウンターの他に、2人掛け用のソファーが2つと、ディスプレイテーブルが置かれていた。

仁はその家具に目を留めながら、何年前のことなのか分からないが、ホテルにやって来た客が、そのソファーに座っていたときのことを想像する。親子や老夫婦、または恋人なんかが泊まりに来て、あのソファーで受け付けの順番を待っていたのだろうか。また来ようね、とでも約束を交わしたのかもしれない。あの場所で、積み重なった旅行の思い出を楽しげに話していたのかもしれない。

 だがいまや、そのソファーの上には灰色の埃が積まれ、カラスの寝どこと化している。ソファーもこのホテルに来た当初は、まさかこんなことになるとは思っていなかったに違いない。色褪せ、年月に取り残されたまま佇む家具たちを見回しながら、仁は感傷深い気持ちに浸る。

「白石さん、こっちです」

 気付くとあきらは、ロビーの中央あたりにいて、仁を振り返っていた。ロビーは奥のほうで左右に分かれ、それらはそのまま廊下に繋がっているようだった。仁はあきらの向かうままに、左の道に折れる。そこにはまた埃っぽい、平坦な廊下があった。

 廊下の幅は、大人が2人並んだらいっぱいになってしまうほどに狭い。両側の壁にはドアがずらりと並んでおり、その光景はホテルというよりも、カラオケボックスに近かった。

 仁のすぐ左隣にあるドアには、『001』と数字が打たれている。右手のほうに目を向けると、そこには『020』とあった。つまり、この廊下を真っ直ぐ前に進むと、実に20もの部屋に出会うことになる。それほど廊下に奥行きがあるように見えなかったので、これには驚いた。

「結構、大きなホテルなんだね」

「このホテル全体で、宿泊室は150あるんです。1階に40、2階に60、3階に50」

 あきらが流暢に告げていく部屋の数を聞いて、仁はへぇ、と感嘆の声をあげる。いまや人気もなく、薄暗がりの中に沈んでさえいるが、やはり一時期、このホテルはかなり繁盛していたのではないか。

 あきらと仁は、さらに廊下を奥に進んでいく。左側のドアに刻まれた数字が、少しずつ大きくなっていく様を見ながら、仁は漫然と言った。

「そういえば、あきらちゃん。このホテルのこと、よく知ってるね」

「昔、このホテルには来たことがあって。何となく、覚えてたんです」

「あ、そうなんだ。僕はこんなところ、全然知らなかったよ」

 仁は目を丸くして、あきらの顔を見た。まさかこんな近くに、このホテルの過去を知る人物がいたとは。生き証人の話が聞いてみたくなり、仁は続けた。

「ここ、結構いいホテルだったでしょ。造りが立派だ」

「えぇ! いまはこんな感じですけど。なかなか高いホテルだったんですよ。入口にソファーがあったじゃないですか。あれも、前に聞いたら凄い高価なものらしいんですよ」

「へぇ。なんで、持主はもっていかなかったのかな?」

「みんな使うんで、潰れる前の時点ですでにボロボロでしたから……。ホテルと一緒に処分したんだと思います」

「やっぱり詳しいね。そんなに頻繁に来てたのかい?」

「はい! 父が好きだったんですよ。この知る人ぞ知る、みたいな雰囲気が。そういえば、あのソファーのうえで小さい頃、父に食べ物散らかすなよ、なんて叱られました。懐かしいなぁ」

 そうか、この娘にも父親がいるんだ、と仁は今更のように思った。そしてまた少し、嬉しくなった。やはりあきらは自分とおなじ人間なんだ、対話をすることができるんだ、という自信が膨らむ。しかしそうなると、あきらの父はどのような人物なのか、気になった。

「そういえば、あきらちゃんのお父さんはいま、なにしてる人なの?」

「死にました」

 あまりに自然な口調だったので、仁は危うくそのまま聞き流しそうになった。え、と短く声を発すると、あきらは寂寞のこもった笑い顔を見せて、もう1度繰り返した。

「父は7年前、2003年に事故で死んだんです」

 空気がわずかに、冷えこんだように感じられた。仁は、押し黙る。何と返したらいいのか、ドアのほうに視線を泳がせながら悩む。

そうしているうちに、あきらは「ここです」と言って、立ち止まった。その部屋のドアには、『015』と数字が刻まれていた。

 あきらはワンピースのポケットから、鍵の束を取り出すと、そのうちの1本を15号室のドアノブに差し込んだ。鍵を捻ると、がちゃりと錠の外れる音がする。彼女は鍵束をポケットにしまう。

 あきらはドアを、開いた。するとそこには、またドアがあった。というよりも、それは壁だった。鉄製の板のようなものが、ドアの囲いいっぱいに立ちふさがっている。しかし、その板にはドアノブはおろか、手を引っ掛けるような窪みすらない。

 どうするのかと仁が見ていると、あきらは目を瞑り、右手をそっと差し出して、その壁に触れた。すると、指紋センサーか何かが搭載されていたのか、鉄製の壁は無音のまま横にスライドし、いそいそと2人の前から姿を消してしまった。

 入口も、宿泊室の多くのドアもすべて手動なのに、何故ここだけ近代的なのか、そもそもこの廃屋同然のホテルに電気が通っているのか、と様々な疑念が仁の中で沸きあがる。

 仁は感じていた。この扉の向こうに潜む、ものものしい雰囲気を。肌が無自覚のうちに粟立ち、知らず知らずのうちに仁は拳を握りしめていた。

 あきらがスイッチを入れたのか、カチリと音がしてから少しして、部屋の中は明かりに満たされた。

暗がりの中から現れたのは、3畳ほどの洋室だった。部屋の隅に、固そうなシングルベットと、中身のないキャビネットが見える。逆をいえば、それ以外に何もなかった。宿泊室、と呼ぶにはあまりにも味気のない部屋だ。ホテルが潰れたのと同時に、売り払えるような家具は、すべて取り払ってしまったらしい。

 だがその品々は、部屋の中央に置かれたものに目を向けた瞬間、霞んでいってしまう。

 部屋の真ん中には、ぽつんと椅子があった。リビングテーブルとセットになっているもので、それ単体なら特に気を引く要素はない。

 問題は、その椅子に腰かけているものだった。

 仁は息を呑んだ。二の句が継げず、その場で立ち尽くす。しばらくして、慄然とした感情をぶら下げながら、仁は1歩、また1歩と慎重にそれに向けて接近していく。

 椅子の上にいたのは、鷹を彷彿させる仮面を顔に装着し、全身を黒いマントでくるんだ、痩身の何かだった。

 背中には白熱灯を照り返し、爛々と金色に輝く翼がある。マントの上から鎖でぐるぐる巻きに縛られており、それは胸の前で南京錠によって留められている。マントから飛び出した手足は赤錆び色をしており、肉がほとんどついておらず、ぱっと見てミイラのようだった。

 そして何より目を引くのが、その頭に深々と突き刺さっている剣だ。西洋の騎士が持っているような、両刃のものである。柄の部分には銀色で、羽を象ったマークが刻まれている。

「これが、黄金の鳥です」

 はっきりとした声で、あきらが告げる。彼女は壁に寄りかかるようにして、立っていた。

仁はあきらを一瞥したあと、“黄金の鳥”に肉薄し、指を近づけてみる。その骨しかない腕に触れると、鳥肌が立つほどの冷やかな感触が指先に跳ね返ってきた。

 その手触りが、石化した葉花の体温のない手に似ていて、仁は慌てて指を引っ込め、その手をジーンズで拭った。

「冷たいでしょう? 黄金の鳥は見ての通り、封印されているんです。もう自力で解くのが不可能なくらいに」

「これが、本物であるっていう証拠は?」

 仁は動揺を押し隠しながら、質問した。実物を見たことのない仁が、目の前にあるこれを偽物か本物であるか判断できるわけがない。だからこそ確証を得るために、仁はあきらの目を真っ直ぐに見据えた。

するとあきらは、「黄金の鳥を信じてください」と何度目かになるセリフを吐き出した。その目は憤りを映し出しているように吊り上っていて、唇は固く結ばれている。

「信じてください。もし、疑ったら」

「疑ったら?」

「たいへんなことになります」

 非常に曖昧模糊な答えである。だが、つらつらとこの鳥が本物であることの証明を長たらしく語るよりは正直で、逆に説得力があるように思えた。

あきらは、切実な表情で仁を睨んでいる。

このままでは話が進まないようだったので、仁はとりあえず納得をしてみせた。

「分かった、信じるよ。これは黄金の鳥だ」

 仁が認めると彼女は息をついて壁から離れ、こちらに寄ってきた。それから黄金の鳥を挟んで、仁の前に立つ。そして腰を屈め、前髪を手でどかしながら、黄金の鳥をまじまじと見つめ出した。黄金の光に浮かび上がる、あきらの白い顔は、どこか少女らしくない艶やかさがある。

「分かってくれればいいんです。とりあえず、つまり、その封印が解ければ、願いは叶うんです。信じられない話かもしれないですけど……本当の話なんです」

「うん、大丈夫。僕は信じてるよ」

「ボクは、白石さんを信じます」

 あきらの顔に焦点を合わせながら仁は、自分の心音がだんだん高鳴っていくのを感じていた。それが彼女に聞こえてしまうのではないか、と怖くなり、無駄だと分かりつつも胸を押さえる。

 確信を得た、と頭の中で自分の声が聞こえる。いまのあきらのセリフは、仁の予想を裏付ける決定的なものだった。

 あきらはやはり、黄金の鳥の封印を解こうとしているのだ。つまり、その封印を行った張本人であるハクバスとは、完全な敵対関係にあるということだ。

 ならば1つ、聞いてみたいことがあった。あきらはどこまで、ハクバスの実情を理解しているのか、ということだ。

「それで、どうやってその、封印ってやつを解くのか、分かっているのかい?」

 仁は喉を鳴らした。うまくいけば、ここで葉花を救える方法が訊き出せるかもしれない、という期待があった。だが、その期待は完膚無きまでに、仁の目の前で粉々に打ち砕かれる。

 あきらは仁を見た。その蝋のように白い表情には、わずかな笑みを浮かべていた。

「いちばん簡単なのは、鍵を探して、殺すことです」

 鍵。殺す。

 2つのワードが頭の中で錯綜し、それから時間をおいて、ぴたりと重なり合う。

 二重となり、輪郭をさらに明瞭にしたその言葉の意味は、仁でも理解することができた。

 あきらの話す鍵というのは、ハクバスのことだ。彼は言っていたではないか。自分の命を鍵にして黄金の鳥を封印した、と。

 そして彼は、こうも言っていた。自分は葉花と体を一体化している。だから、葉花にダメージが行き渡ってしまった……。

 一体となっている。つまりそれは葉花が死ねば、連鎖的にハクバスも消滅する、と言っているに等しいのではないか。そしてハクバスの命が尽きれば、黄金の鳥は復活を遂げる。

 そこから得られる答えは、ただ1つ。

 あきらは、葉花を殺そうとしている。

 糸をたどるようにして事実にたどり着き、仁は腰が砕けそうになった。あきらの話に同意するふりをして首を曲げ、上目づかいにあきらの顔を覗く。その表情は、まるで楽しい旅行の計画を練るかのようで、その笑みが、ひどく不気味に思えた。

 だが、あきらはまだ葉花が鍵であることを知らないはずだ。彼女は葉花の友達である。もし、葉花の正体を察しているのであれば、これまでいくらでも殺すチャンスはあったはずである。しかし反して、葉花は今日まで無事に毎日を過ごしている。それは、あきらが鍵の正体に気づいていないからに他ならない。そしてまた、黄金の鳥の封印が解けかかっていることも、分かっていないはずだ。

 そしておそらく、その全貌を知っているのは、想定する範囲内でも仁、ただ1人だ。

 さて、これからどうしようと仁が思考を巡らせていると、あきらは「でも」と黄金の鳥から離れた。そのまま部屋の中を歩きだす。その度に、腐りかけた床が軋んだ音を放った。

「でも、なかなか鍵は見つからなくて。だから、切り口を変えてみようかなぁ、と思ってるんですよね」

 あきらの言葉に、仁は顔をあげた。

「切り口を?」

「はい。邪道ではあるんですけど、いま、もう1つの方法を考えてるんです」

「鍵を壊さなくても、いい方法があるのかい?」

 鍵を、つまり葉花を殺さずに黄金の鳥を呪縛から解放する方法。それこそが、まさしく仁の求めている方法だ。そしてその方法を、あきらも実行しようとしている。そうなれば、仁とあきらの利害は一致する。いいことずくめだった。

「聞かせてくれないかい? それは、どんな方法?」

語気を強めて尋ねると、あきらは歩きながら。バツが悪そうに言った。

「黒い鳥」

「黒い、鳥?」

 金の次は黒か。そしてまたしても、意味の分からない言葉である。眉をひそめ、質問を返そうとすると、あきらは素早く、仁の前にかざした。

「詳しくはあとで……でもそのためには、白石さんにも協力してもらわなくちゃいけないんです」

「協力、というと……?」

 仁は、あきらの提案に対して協力を惜しまないつもりだった。自分が手を加えることで、あきらが標的を変え、葉花を救うことができるのなら本望だ。

 するとあきらは足を止め、途端に真顔になった。その豹変ぶりに、仁はたじろぐ。そして部屋の湿っぽい空気を貫くような声で、彼女は言った。

「覚悟はありますか?」

 “覚悟”。

その重たい響きに面食らっていると、あきらは怒ったような声を出した。

「ここで頷いたら、もう引き返す道はなくなります。白石さんの叶えようとしている望みは、その覚悟に値するものなんですか?」

 望み。それは、葉花を死の運命から救い出すこと。あまりに非現実的なことが重なって、激流に流されるように、ここまでたどり着いてしまった。

 ここで逃げてどうする、と耳の奥で声がする。そうだよね、と喉の奥で答える。もう目の前にある現実から目を逸らすことはしない。

まぶたを閉じ、それから肺にたまった空気を一度に吐き出す。そして仁は、あきらを正面から見据えた。

「うん。僕は、願いを叶えたい。覚悟は、とっくの昔にできてる」

「本当ですか?」

「本当だよ」

「もう、逃げられませんよ?」

「ここまできて、逃げるつもりはさすがにないよ」

 あきらの黒目を見返し、真摯な気持ちを込めて訴える。しばらくそうやって、衣擦れ1つ起こさず、互いに見つめ合っていたが、突然あきらが表情を綻ばせた。その手元で、あの腕時計がきらりと白く光った。

「分かりました。じゃあ、これで白石さんもボクたちの仲間です」

「仲間?」

 初めて耳にした仲間、という響きに仁は動揺する。あきらはその疑問に、軽く揺その場で揺れながら、笑顔で答えた。

「はい。ボクが集めた仲間たちです。黄金の鳥再生同好会“デビルズオーダー”といいます」

「デビルズオーダー?」

「はい。楽しいですよ」

 笑みを絶やさないあきらの表情から、その真意は読み取れない。

 答えを求めて横目で黄金の鳥を見ると、それは済ました顔で仁を見ている。この鳥は仮面の向こうで、一体何を考えているのだろう。ハクバスをいまでも恨み続けているのか、それとも自分を復活させてくれる、新たな人間が参入したことに歓喜しているのだろうか。

 どんどん、というくぐもった音が、突然聞こえた。

 何かと思い、音のした方角に目をやると、あきらがベッドを掌で何度も叩いていた。埃が舞い上がり、羽虫のように膨れ広がる。気管に埃が入り、仁は咳きこんだ。

「白石さん、ここに寝てください」

「ここに?」

 あきらの言葉を確かめるために、仁は訊き返した。すると彼女は跳ねるような声で、当然のように言った。

「仲間になるためには、儀式をする必要があるんです」

 疑問符を頭の上に浮かべながらも、仁はあきらの言うとおりにすることにした。覚悟する、といった以上、拒むことはできない。ベッドは予想通り固く、それも湿っぽかった。

 背の高い仁はベッドに入りきらず、胎児のように横を向いて、体をくの字に曲げなければならなかった。

 視線の先には、ちょうど黄金の鳥の横顔が見える。あの体中を縛り付けている鎖が解かれたとき、何が起こるのだろうか。命を支配する魔物が解き放たれることは、正直恐ろしい。だがそれ以上に、葉花がこのまま成す術もなく死んでしまうことのほうが、いまの仁にはもっと恐ろしかった。

 有言実行だ、と義父の声が聞こえる。分かってるよ、と仁は小声で答える。自分もまた義父さんのように、一面のスイカ畑を作りだしてみせると決意を刻む。

「白石さん」

 声に導かれるように視線を上げると、あきらが見下ろしていた。白熱灯が頭の後ろにあるため、その顔は影の中に落ちている。それでもその瞳だけは、不自然なくらいに爛々と輝いていた。その中で見る彼女の髪は、月のない夜に佇む、湖畔の水面のようだ。

彼女は手に何かを握っているな、と思ったらそれは注射器だった。針は光に照らされると姿をくらますほどに、長くて細い。仁はふいに去年やったインフルエンザの予防接種のことを想起し、それから、何故あきらがそんなものを持っているのかと、疑問が立ち昇った。

「大丈夫です。ボク、上手にやりますから」

 恐怖がなかったわけではない。だがそれでも仁は、これは自分が選んだ道だ、と言い聞かせていた。おかしな力を身につけ、それでも何もできなかった数年前の自分を思い返すと、やりきれない気持ちになる。もう、あんな思いはしたくない。その強い気持ちが、怯えを押しのけていた。

 あきらが、体を近づけてくる。ベッドに片足をかけ、体を前のめりにして、仁の腰に手をかける。そして、注射器を持った手をゆっくりと、狙いを定めるようにして、首筋に伸ばしてくる。だがその体勢では上手くいかないようで、足を動かしたり、体をくねらせたりして、注射の打ちやすい姿勢を探している。仁はただ、その息遣いに耳を傾けている。そうしているうちに眠気が訪れ、気づくとゆっくり、まぶたを下ろしていた。

 あきらが体を動かすたびに、甘い匂いが漂う。それが彼女の服からなのか、髪からなのか、それとも彼女の魂そのものがそういう匂いを発しているのか、瞭然としない。

 そしてそれはケーキの香りだ、と気づいた次の瞬間には、仁の意識は暗闇の中に途絶えていった。





登場人物


華永はななが あきら

16歳。私立高校に通う1年生。

葉花のクラスメートで、親友。

青っぽい髪と、「ボク」という一人称が特徴的な女の子。

「黄金の鳥」と深い関わりを持っているようだが……?

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