3話 鏡の中の男
仁が感謝の言葉を告げると、青年は恥ずかしそうに顔をそむけ、そそくさと帰っていってしまった。
葉花はいま、仁の背中でまるで抜け殻のように、ぼんやりとしている。その眼差しに光は宿されておらず、黒々とした瞳は虚無を映し出している。
その日は菅谷と女性2人を最後に、店を閉めた。
頭を下げて謝る仁を、3人はやむを得ないといった様子で許してくれた。こんな事態だから、と残念そうにしていたあの表情を、仁はいまでも鮮明に思い出すことができる。
菅谷が救急車に連絡を入れようと、咄嗟に携帯電話を取り出したのだが、うすら目を開けた葉花はそれを頑なに拒んだ。
そんなものいらないから、とにかく部屋で寝かせてほしいと言う。仁は困惑したが、いくら説得しようとも聞こうとしないので、とりあえず彼女に従うことにした。
仁はすぐさま、彼女を部屋のベッドに運んだ。
青年の話では、葉花は林道に差し掛かったあたりで倒れていたらしい。帰ろうとしたところで、草陰に倒れているのを見つけて、彼女の言うまま、慌ててここにとって返してきたとのことだ。この辺りは、人通りが少ないから発見されるのも遅れたのだろう。長時間、草の上に倒れたまま身動きの取れない、葉花の孤独を思うと、仁は行き場のない悔しさを覚える。
葉花に布団をかけてから仁は、勉強机から背丈の低い椅子を引っ張り出し、そこに腰かけた。そこでやっと、肺に溜め込み続けていた空気を吐き出すことができる。
室内はよく片付けられていた。3畳ほどの洋室で、入って右手にベッド、左手に目覚まし時計のたくさん乗った、勉強机が置かれている。机の隣には洋服ダンスと小さな本棚があり、本棚には、漫画やゲームの攻略本などが色鮮やかに収納されていた。
入り口の正面には窓があり、その前には大きなスタンドミラーが置かれている。白に縁取られた、シンプルなものだ。彼女の全身を映すことが可能なほど巨大なもので、2か月ほど前に仁が葉花に買ってやったものだった。その表面にはいま、ベッドの脇に座る仁の体がまるまる入り込んでいる。
足元には淡い緑色のカーペットが敷かれており、その上には学校で配布されたと思われる、プリント類が山積みされている。
仁はそれらを持ち上げ、勉強机の上に移動させると、立ちあがり、窓の前に立った。
部屋の中は少し蒸していた。天気予報で、今日は猛暑日になると報じられていたのを思い出す。仁は通せんぼする鏡をベッドのほうに向けると、体を前のめりにし、窓を開けた。
菅谷の言った通りどおりだった。窓を開け放つとすぐさま、まるで拍手の喝采を浴びせかけるように、大勢の蝉の鳴き声が一斉に部屋へと入り込んできた。彼がぼやく気持ちもわかる気がする。この大合唱は、鼓膜に優しいものではない。
それから机の上にある、小さな扇風機のスイッチも入れた。仁は椅子に座り直ると、手を顔の前で組み合わせ、改めて吐息をついた。背中に降りかかる、扇風機の風が心地よい。だがそれとは対照的に、仁の心はじめじめとした嫌なものでたぎっていた。
「葉花、本当に大丈夫なのかい?」
仁が訊くと、葉花はまたうっすらと目を開けた。相変わらず顔色は悪く、いつもの元気がない。短く息を吐いており、呼吸をするのも辛そうだ。彼女の腫れた額に手を軽く当ててみるが、幸いにも熱はないようだった。
「とりあえず、朝のおでこの傷だけでも何とかしないと……」
仁は救急箱を取りにいくため、立ちあがろうとする。だが、葉花は蚊の鳴くような声を発して、それを引き留めた。
「いいよ。こんなの、大丈夫だって。もう痛くないし」
「でも……」
煮え切れない仁に、葉花は笑って返した。だがその相貌も、ひどく弱弱しかった。
「まったく、白石くんは心配性だなぁ。私が大丈夫だって言うんだから、大丈夫だよ」
「だけど僕にはちっとも、大丈夫そうには見えないんだ」
葉花はふっと息をついて、また目を瞑った。もう葉花は目を開けないのではないのか、と怖くなって、仁は彼女の名前を慌てて呟く。
その嫌な想像は、杞憂に終わったようだった。葉花はまた瞼を上げ、やせ細った瞳で仁を見つめた。それからちらりと、自分のほうを向いている鏡のほうを見た。
仁は、椅子から立った。
「あ、鏡に映ってると落ち着かないよね。ごめん。すぐに直すよ」
「今日ね。午前中で終わりだったの」
仁が鏡に手をかけようとしたところで、葉花はぽつりと言った。それから、頭をあげ、少し体を起こした。
鏡を直さぬまま、仁は葉花に手を伸ばした。
「ダメだよ、葉花。寝てないと」
肩を掴み、そのまま彼女をベッドに押し戻す。葉花は従いながらも、仁を見据えたまま口を動かす。
「まだ事件が終わってないからだって。先生は今日、休みにしようと思ったんだけど、連絡が遅れたからとりあえず、午前中だけでもやったんだって」
あの時間に、葉花があの場所にいたのはそのせいか、と仁は納得した。私立高校は、そういうところに融通が利くものなのか、と新しい世界を垣間見たような気分になる。
「分かったから葉花。もう、寝たほうがいいよ。そうすれば、きっと良くなるからさ」
葉花が寝たら、こっそりと仁は医者に連絡をつけるつもりでいた。いくら本人に止められていたとしても、彼女の元気のなさは尋常ではない。葉花のためにも早急に、医療を施したほうがいいと判断した。
だが、葉花は続けた。か細く、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「でもね。青いのは、来なかったの」
仁は前かがみの体勢のまま、固まった。自分の頬が、強張るのを感じる。
「青いのって……華永あきら、ちゃん?」
葉花はわずかに顎を引いた。
「うん。メールしても返ってこないし心配だなー、って思ってたら。なんだかくらくらきちゃって……。白石くん、どうしたの?」
茫然と口を開けたまま、葉花の顔を見ていた仁はその言葉で、我に返った。急いで微笑み、取り繕うが、それがひどくぎこちないものになっていたことを自覚していた。
昨日、あきらの言っていた言葉が、ふわりと記憶の水面に浮き上がってくる。
逃げたらきっと、あなたは不幸になります――。
「いや、何でもない。ちょっと軽く店の片づけしてくるから、ちゃんと寝てるんだよ。あ、何か食べたいものはない?」
「あ、うん。じゃあ、オレンジジュース。30パーセントでね」
それは食べ物じゃないよ、と笑いながら仁は葉花の部屋を後にする。後ろ手にドアを閉めてから、顔を片手で拭い、それから歩きだした。
不幸が何を示しているのか。仁にはよく分からなかった。しかし、と向かいにある自分の部屋のドアを開けながら、自問する。
ただそれは、見てみない振りをしているだけではないのか。その意味を本当は理解しているのではないのか、と自分の気持ちを勘ぐってしまう。
自分の気持ちが見えなくて、ただ仁は焦る。そして自身の体を見下ろすとその手が、わずかに震えていることに気づく。
この不安は、恐怖は。その根源は、一体どこからのものなのか。
だが仁は頭を振って、それら崩落の足音を払拭しようとした。
病は気から。笑う門には福来たる。そんな諺もあるではないか。悪いほうに思考を働かせることは、必ず悪い結果を引き寄せてくる。
いまは、あきらのことは忘れて、葉花の症状だけに気を向けるべきだ。仁は自分に言い聞かせ、自室にある戸棚に手をかけた。
戸棚の中には、奇麗に折りたたまれたハンカチが整列していた。その中に仁は自分の財布を見つけ、取り出す。そして中から、プラスチック製の診察カードを引っ張り出した。
カードには「村松内科医院」と名が打たれていた。その下には電話番号も載っている。
以前、佑が風邪を引いたときに連れて行った医者だった。仁も1度、インフルエンザの予防接種をここで受けたことがある。看護師が3、4人勤務する小さな医院で、女医が経営していたことが記憶に残っている。
車でそんなに遠くはない。これから仁は、この医院に葉花を連れて行こうと企図していた。だがその計画は、葉花が寝ている隙にこっそり連れていくことが前提だ。
そこまで考え、眠りに落ちようとしていた葉花を、先ほど引き留めてしまったことを思い出す。ずいぶんと自分も勝手だ、と仁は自嘲の思いで苦笑した。
財布の中にカードを戻すと仁は、リビングに足を向けた。そして冷蔵庫からオレンジジュースの入った紙パックを持ち上げ、コップに注ぐ。
それから葉花の部屋に戻ると、彼女は眠っていた。横向きで、シーツを握りしめたまま、寝息をたてている。
その純真な赤子さながらの寝顔を見ていると、仁の胸はちくりと痛んだ。
寝ている間に医者に連れていくことは、彼女の意に反することであるし、その思いを裏切る行為だったからだ。
だがこればかりは、おいそれと首肯するわけにはいかない。
葉花は大丈夫だと言い張っていたが、それは虚勢にしか感じなかった。葉花は苦しんでいる。大体、今朝からどこか様子がおかしかったのだ。
彼女があんなところでふらつき、足を滑らせる姿など、仁は今まで目にしたこともなかった。あんな風に見えて、葉花はそれほど運動能力が低いわけでもない。それに割と、てきぱきとしている部分もある。
とりあえず医者に見せ、何らかの検査をすれば、たとえ何事もなかったとしても、安心材料にはなるかもしれない。
自身に説得をかけながら仁は、布団をはぎ、葉花の首のあたりに手をかける。
その時、すぐ近くで小さな物音がした。ガラスに小石がぶつかるような、軽い音だった。
気をとられ、仁は首を捻って周囲に視線を配る。だが、とくに違和感はみられない。部屋の中は静かで、扇風機のモーター音だけが鋭く冴えわたっている。
気のせいかとも思い、再び葉花に目を戻す。すると、今度は仁のすぐ隣のほうから男の声が聞こえてきた。
「彼女の言う通り、医者など行っても意味がない」
「え?」
仁は思わず振り返った。だが先ほどと同じく、何も変わったところはない。扇風機の風に当たって、机にあげたプリントたちがパラパラと音をたてている。
また空耳か――。昨日、今日と衝撃的なことが続いて、思う以上に疲労がたまっているのだろうか。そう考えた矢先、またもやあの男の声が部屋の空気を濁した。
「このまま俺と共に、彼女は命を落とすだろう」
「誰だ?」
すぐ近くで聞こえることは、確かだった。しかし姿は見えない。仁は身構えながら、部屋をぐるりと見回した。
布団を最後までまくったり、洋服ダンスを開けてみたり、仁は手当たり次第に部屋中を探索した。
だが、何者の姿も見当たらない。声を再生させるような機械類も、発見することができなかった。
最後に窓の外を覗いてみたが、いつも通り、木々が連なる小道が見えるだけで、人間の気配すらしない。鼓膜を揺さぶるような声をあげて、相変わらず蝉が鳴き喚いている。
当惑し、考え込む仁の真隣で、またあの声が聞こえてきた。その不気味さに、思わず唇を強く噛む。
「ここ。俺は、ここにいる」
まさか、と思いながら。仁は恐る恐る、視線を横に移した。そこには、まるで連れ添うようにあの大きなスタンドミラーが立っている。
先ほど、元に戻そうとしてそのまま放置してしまったのだ。だからいま、それはベッドのほう、つまり仁を映し出している。
鏡に視線をやり、それから仁は目を丸くした。素早く後ろに首を回し、そこに何もいないことを確認してから、後ずさる。
すぐ背後にはベッドがあったので、その腹にひざの裏を引っ掛け、そのまま葉花の顔すれすれに尻もちをつく。
何度も瞬きをし、目をこするが、そこに佇んでいたのは、現実だった。
声の主は、スタンドミラーの中にいた。
十字架と鳥の翼を組み合わせたような仮面を被り、全身に装飾の施された銀色の甲冑を纏った男が、すべてが反転した葉花の部屋に立っている。
男、と判るのはその声からだけで、実際には性別どころか人間であることすら曖昧だ。
いや、人間ではないな、と仁は凍りつきかけた頭で確信する。
この部屋には男の影もない。形もない。いる、という感覚すらない。だが、男の姿は確かに鏡に映っている。ここから導き出される答えは、1つしかない。
この男は、鏡の中だけにいた。仁の姿を見せまいとするかのように、その鏡像の前に立ちふさがっている。
そんな馬鹿な、とも思うが、確かに男はそこにいる。と同時にこっちの世界にはいない。
仁は唾を飲み込み、それから何度もつっかえながら、やっとのことで声を発した。すでに喉はからからだった。
「これは、どういう……」
甲冑の男が、仁の言葉をどう捉えたのかは分からない。だが、首を傾げた後、男はあぁと何かに気づいたように声をあげた。
「俺の名前はハクバス。この通り、鏡の中から話す無礼を、まずは深くお詫びしたい」
ハクバス、と名乗るその男は首を折り、自分の胸のあたりを見てから言った。
仁は声を発することすらできない。自己紹介をしてくれたのは分かったが、だからなんだろう、という感想しか抱けなかった。何がなんだか分からない。鏡の中から話すことが、果たして失礼に値する行為なのだろうか、とくだらないことを思いめぐらせてしまう。
ハクバスは大分、くたびれているように見えた。時折よろめき、呻くような声をあげる。目を凝らしてみると、鎧の装飾だと思い込んでいたそれは、無数の傷跡だった。背筋に冷たいものが這うくらい深々と、銀色のそれに幾重にも刻まれている。
そして彼は息を深く吐き出し、それからその様子と違わず、辛そうな声で言った。
「偶然、あなたと話をすることができた。そこで1つ、急ぎで伝えたいことがある」
突然呼吸が詰まり、心臓が大きな脈を打った。視界が揺れ、そのうちピントが合わなくなる。ハクバスの姿が、小さくなったり、ぼやけてみえたりする。先ほど、青年が葉花を背負って店に入ってきた時と、同じ感覚だ。
相槌を打つ前に、ハクバスは声を発していた。それは絶望的な響きを持って、ひとりでにうねる軟体動物の手足のように、室内を粘っこく這いずりまわっていく。
「この娘は、葉花は、もうじき死ぬ。この俺と一緒に」
胸が強く圧迫され、仁は、自分の意識がゆっくりと遠のいていくのを感じた。
あれから1時間後。仁は灯りのない、リビングのテーブルに突っ伏していた。
なんだかどっと疲れていて、このまま眠りにつきたい気分だった。そのまま、一生目覚めなくてもいいとさえ考えていた。
昼食の時間だったが、まったく食欲はない。疲労と閉塞感で内臓がやつれているように思える。口の中で、むせ返るような胃液の味が広がっている。
壁時計の音だけが、やけに大きくリビングに響いている。いつもは目立たぬ時計たちが、ここぞとばかりに声をあげているような気がして、仁はその騒々しさに耳を塞いだ。
クーラーはついておらず、窓も閉め切ってあるのでシャツが体にへばりつくほど暑かったが、気にはならなかった。体の芯は感覚を失うほどに、ひどく冷え切っていた。
葉花は部屋に寝かせたままだ。顔色はだいぶ良くなり、時折笑みさえみせて眠っている。その回復模様は、先ほどまでの憔悴が嘘だと思えてしまうほどだ。
鏡の中だけで生きている男、ハクバス。その存在だけでもにわかに信じがたいのに、彼の口から飛び出た言葉は、さらに極まって荒唐無稽なものだった。
彼の話の大半は、仁には到底理解できないことだった。というよりも、あまりに現実離れをしていて、どう反応していいのか分からなかった。
これと同じ話をもし、普通の人間が真顔で話しているのを聞いたのなら、仁は笑い飛ばしていただろう。葉花が死ぬ、という話を頑なにするのならば、眉を吊り上げていたかも分からない。
だが、現実には前提が異なる。
この話を持ちかけてきた、その本人がまず現実にはありえない存在なのだ。
どれほど奇妙な話であろうとも、自分はそれ以上に不思議な存在からその話を聞いているのだから、信じざるを得ない。
彼の話を根底から否定することは、彼自身の存在を揺らがすことになり、最終的に自分の目や頭を疑うことになる。
1時間前、仁は何度も手の甲をつねり、夢でないことを確認した。それから頭を振ってみたり、幾度も瞬きをしてみる。それでも、鏡の中にいる鎧の男は消えなかった。
そうやって自分の頭が正常に機能していることを確認してから、仁は椅子に腰掛け、スタンドミラーをこちらに向けて、改めて話を聞くことにしたのだった。
「やはり、信じられないか」
寂しそうに笑いながら、ハクバスが言う。自分の心を見事に見透かされ、仁は手持ちぶさたに額を掻いた。
「まぁね。正直、頭が混乱してる。夢みたいだよ。もちろん、悪夢のほうだけど」
「その感覚は正常だ。すぐに話を受け入れたら、そのほうがおかしいだろう」
ハクバスは肩をすくめる。そしてそれから、その相好に苦痛を色濃くさせた。
「ならば、これなら信じてくれるかな。彼女の命が、危機に陥っているということを」
するとハクバスは膝を落とし、腕を垂らして、顔を下向けた。全身の力を抜いた体勢だ。しばらくそのまま眠ったように動かないので、いったい何事かと仁が話しかけようとしたとき、彼の体に異変は起きた。
指先から掌、手首、肘へと、炎が油を追うようなスピードで、彼の体を白いものが昇っていく。それはあっという間に肩のあたりまで到達し、今度は首と胸に鎌首をもたげ、侵食を続けていく。
仁は唖然とするほかない。それは粘土細工に、絵の具で彩色をする作業を見ているかのようだった。
しかし、色が塗られた粘土には魂が吹き込まれるが、彼の様子は真逆だ。
白の進行が激しくなるにつれ、ハクバスは喋らなくなり、動かなくなる。追い詰められたかのように仮面は歪み、全身からオーラが剥がれ落ちていく様を見ることができる。立て膝の姿勢をとるのも困難になってきたようで、彼の体は前に横に傾ぎ始めている。
彼の体躯の半分以上が染め上げられたとき、仁の頭に1つの単語が過った。それはハクバスの現状を表現するのに、一番的確であるように思われた。
石像。いま目の前で、命が砂へと変わり、魂は抜き取られ、有機が無機へと追いやられていく。
ハクバスは、一言でいえば石化していた。そういえばあの白の色は、石膏のそれであることに思い当たる。
鏡の中で石に変わり果てていく人物を前に、一体何ができるというのだろう。
しばらくその光景に目を奪われていた仁だったが、ふと嫌な気配を感じ、葉花のほうに視線をやった。そして思わず、椅子から立ち上がる。あまりにもその動作が激しかったので、椅子はカーペットの上に音をたてて転げた。
ハクバスと同じように、葉花の腕も白に変色を始めていた。石化だ。つい数秒前まで鏡の向こう側で起こっていたことの再現が、1メートルと離れていない場所で行われている。
仁は、戦慄を感じた。背筋に氷を突き立てられたような思いになる。当然のことながら、人が石に変わっていく様をみるのは、これが初めてだった。
みるみるうちに、その変色はまるでシーツにこぼした絵の具のように、喉や顎のあたりにまで広がっていく。その様子に、勢いを殺す素振りはまったく見られない。
「葉花!」
仁は葉花に駆け寄り、その白色化した手をつかんだ。しかし次の瞬間、熱いものに触れたときのように、反射的な動作で腕を引っ込めていた。
温かく、柔らかな人間らしい感触を期待していた仁は、心臓が飛びだすくらいの衝撃を受けた。今までの常識が粉々に打ち砕かれ、その破片が心に深く刺さっていく。仁は唾を飲み込むと、心の中で覚悟を紡ぎ、今度は恐る恐る葉花の手に触れてみた。
その感触は先ほど触れた時と、なんら変わっていなかった。その小さな手は冷たく、固い。見た目のまま、と言われればその通りだが、それはまるで人間のもつ感触ではなかった。
これは石だ。石、そのものだ。仁は葉花を見ながら、改めて思う。そして、そうしている間にも、白の汚染は彼女の体を蹂躙し続けている。
葉花の体が、石化している。その手が、顔が、胸が、腰が、セメントで塗り固められていく。ありえない、という理性と、現実になっているじゃないか、という感情とが胸の中でぐちゃぐちゃに絡まり合う。そしてそれは混乱という形で、仁の体内から滲みでていく。
「葉花……葉花っ!」
いくら呼びかけても、答えは返ってこない。ぐったりと仁の腕に寄りかかるその姿は一見、物言わぬ姿と化していく自分の末路に、身を預けているようにも見える。
もしかしたら葉花はもう、諦めているのだろうか、と仁はふと思う。こうなることを知っていて、覚悟していたのだろか、と。
だが、葉花のまだ石になっていない目尻が、湿り気を帯びているのを見て、仁はすぐさまその妄想を振り払った。
決めつけるのは周囲じゃない。彼女の凍りついたまぶたに付着する涙こそが、その内心を何よりも雄弁に語っている。葉花は、生きることを深く望んでいる。
仁は徐々に冷え固まっていく葉花の手を、強く握りしめる。ずっとこうしていれば、自分の体温が彼女に乗り移って、温もりを取り戻してくれるのではないか――。そう、頑なに信じながら。
その腕はベッドに揺れが伝わるほどに、ひどく震えている。頭の中が黒い影に侵食されて、何も考えることができない。目の前は豪雨にさらされた窓ガラスのように、ひどくぼやけきっていた。
葉花が泣いて苦しんでいるのに、何もすることのできない自分が、惨めで、悔しかった。
もはや彼女の体の半分以上は石と化し、手の施しようのないスピードで、無生物への道を猛進している。よく喋る大きな口はただの窪みとなり、瞼は小さな隆起となり、あの綿毛のような黒髪は、岩に刻まれた無数の直線へと姿を変える。
仁は変わりゆく葉花の姿を見つめながら、それでも手は離さないように努めた。
どうせならこのまま一緒に、石になってしまいたいとさえ願った。理解の範疇をはるかに超えた出来事を前に、仁はただ祈りを捧げることしかできない。
仁の脳裏に、ある光景がフラッシュバックする。
蒼穹に向けてうねり、昇る黒い煙。皮膚を焼くような熱をもって、うず高くそびえる炎の壁が、日常を焼き尽くしていく。あちこちで人々の恐怖と動揺の入り混じった悲鳴があがる。
また、あれを繰り返すのか。
自問し、仁は歯噛みする。そんなことはさせない、と心の中で答えるが、かといって何をするでもない。あまりにも惨めな自身の姿に、笑えさえしてくる。
「これで、わかってくれたかな。彼女に起ころうとしている現実、が」
ハクバスが呻吟を漏らしながら、鏡面の向こうで呟く。仁はハッとなり、ハクバスの姿を見つめた。
彼はいつの間にか、顔をあげていた。そして驚くことに、その体はすっかり元に戻っていた。石化していたことが、すべて夢だったかのようだ。初めは何がなんだか分からず、理解が追いつくにつれさらに唖然とした。
仁は素早く首を戻し、一抹の期待を抱いて、葉花に視線を返す。
すると葉花もまた、元の人間の姿に戻っていた。彼女が呼吸をするたびに、その胸が上下する。すぅすぅと気持ちよさそうな寝息をたて、葉花は、生きていた。
手の中に確かな体温を感じ、仁はへたへたと力なく、ベッドの脇にくずれ落ちる。
ハクバスはそんな仁を見ながら立ち上がると、諦念の沁みた声で言った。
「少しでも力を抜けば、すぐにこうなってしまうというわけだ。そして俺にもそれほど力が残されていない。もはや、時間の問題だ」
仁の耳に彼の言葉は届いていない。自分の心音のほうが大きく、耳の奥ではごうごうと血液の濁流音がする。そのくせに顔は氷のように冷たく、立ち上がろうとすると眩暈がして、危うくカーペットの上に倒れこみそうになった。
それでも何とか、腰を上げ、椅子に座りなおす。手がまだ細かに震えていることに気づき、仁は2回、大きく深呼吸をして、心を鎮めた。
少しの間、2人に会話はなかった。扇風機の回る音と、外から入り込んでくる蝉の合唱だけが部屋を満たす。仁はふと、視線を下向けた。すると足元に、机のうえから落ちてきたプリントが1枚、風に吹かれて落ちてきたところだった。
拾い上げずに座ったまま見ると、それは葉花の字で書かれた計算プリントだった。数学の宿題だろうか。その答えにはことごとく赤い斜線が引かれ、名前の隣には30と数字が刻まれている。
その時、葉花は数学がとくに苦手であったことを、昔のことのように思い出した。そして答案用紙を見つめながら、今まで生きてきた日常のほうが今となっては現実味がないな、と疲れた頭で思った。
悪夢と現実の逆転。どこで、その立場が入れ換わってしまったのか。今となっては明確に答えることは不可能だ。悪魔の足音は気付かぬうちに、仁の背後にやってきていた。
いや、自分は気づいていたのだ、と仁は頭の中ですぐさま訂正する。不幸が迫りつつあることは、分かっていた。それをあえて見て見ないふりをしたのは、自分ではないか。
もう1度深呼吸をし、気持ちを落ち着かせてから、仁はハクバスのやつれた姿を見据えた。
頭の中は相変わらず混乱状態だったが、事態は痛いほどに飲み込むことができた。ならば、これ以上に重要な質問は考えられない。仁は小さく息を吸ってから、口を開いた。
「何で、葉花が?」
臆面を隠すこともなく、仁は掠れた声でまず尋ねる。
ハクバスはしばらく仁の顔を凝視した後、俯いて、短くこう返してきた。
「毒だ」
「毒?」
毒。ひどく物騒な響きだ。そしてハクバスはそこでいったん言葉を切ると、小さく息を吸い込み、それから続けた。
「俺の、そして同時に彼女の体も、ある種の毒に犯されているんだ」
仁は目を剥いて、思わず立ち上がった。その途端に、また机から大量にプリントがこぼれおちる。だが仁はそれらに気を向ける余裕もなく、語気を強めて訊いた。
「それは、どんな毒?」
するとハクバスはそこで、いきなり鏡の中のカーペットに座り込んだ。
片膝を立て、立ちあがろうとするが、その力もなくつんのめった、という感じだった。
膝を立たせ、肩を震わせる彼のその姿は、いまの葉花と同じくらい弱く痛ましく見えた。
実際ダメージは大して彼女と変わらないのだろう。彼もまた、少し前には石化しかけていたのだから。
「それ単体では、とくに何の効力も発揮しない毒なんだ。だけど、あるものと一緒になると、途端に体を蝕んでいく」
仁は話を聞きながら、中学時代に家庭科の授業で聞いた、洗剤のことを思い出していた。
単体ではとくに問題はないが、2種類以上の洗剤を混ぜ合わせると化学反応を起こし、猛毒のガスを噴出する。
なら今回の場合、葉花の体を蝕んでいるもう1つの要因とはなんだ。
「その、あるものっていうのは?」
するとハクバスは、仮面越しにみえる瞳を突然、怒りと憎悪にぎらつかせた。
あまりにもその変化が顕著であったため、仁は息を呑んだ。ただならぬ雰囲気である。
それからハクバスは、口にするのも腹立たしいといった様子で、低い声を出した。激昂がにじみ出ていて、その心の輪郭が透けてみえるかのようだった。
「黄金の、鳥だ」
仁は全身に電撃が走るのを感じた。心臓の鼓動が速くなる。頭の中で雪崩が押し寄せ、徐々に意識を白銀の世界で埋めていく。
“黄金の鳥”。
この単語が彼の口から出ることを、まったく予想していなかったわけではない。彼の話も黄金の鳥という単語も、不可解であることに違いはないから、どこかで繋がっているのではないかと予測していたからだ。
だがそれが現実のものとなったとき、仁はやはり驚嘆した。
途端に、昨日あきらの唇から紡がれた言葉が、脳裏に蘇る。そして、1つ身震いした。
黄金の鳥を、疑わないでください。逃げたらきっと、あなたは不幸になります――。
「彼女、というよりも、俺はその黄金の鳥を封印している。いわば人柱なんだ」
「人柱?」
質問したいことはたくさんあったが、何から尋ねたらいいかも分からなかったので、仁はとりあえずその言葉に焦点を浴びせた。
あまり聞き慣れない言葉で、しかも暗澹とした印象を受けたから、という理由もある。
するとハクバスは何かを考え込むかのように天井を見上げ、それから恥じ入るようにため息をついた。頭を下げ、仁に向き直る。
「悪かった、少し興奮していたようだ。ちょっと先走りすぎたな。初めから話そう」
「そうしてくれると、助かるよ」
仁は着席し、真っ直ぐにハクバスを見た。鏡の中でハクバスは、人差し指を立てる。
「まずは、黄金の鳥とは何か」
仁は頷く。昨日から、頭を悩ませていたワードだ。背筋をぴんと伸ばして、耳を傾ける。
ハクバスもまた端厳な姿を纏わせ、それから説明を始めた。
「黄金の鳥とは命を食い、命を生み出す魔鳥のこと。10年前、その力を使って、巨大な野望を企てた1人の男がいた。その男は同胞を募り、黄金の鳥の力を皆にふるい分けるような、そんな馬鹿げた組織を作り出した」
「組織?」
「“蘇生”という。聞いたことは?」
仁は、かぶりを振った。記憶の中を探っても、やはりそのワードは検出できなかった。
「どうかな。ないと思うけど」
「そうだろうな」とハクバスは小さく笑う。それからすぐに仕切りなおすように、真剣さの透けた声色で続けた。
「まぁ、その組織の詳細はここではいい。とにかく俺はその組織を潰すために、対抗勢力を生み出した。命を自在に操作するような力を人間の側においておけるわけがないからな。だが、対話もむなしく結局、戦いが始まった」
話しながらハクバスは、なぜか苦しげに目を落とした。毒のせいかとも思ったが、胸のあたりを掴み、その手は震え、どことなく別の要因からのものであることを匂わせた。
「過程はこの際、割愛する。とにかく結果だけを話せば、俺は、いや俺たちは“蘇生”を叩き潰した。そして黄金の鳥を略奪し、俺の命を鍵とすることで封印した。見ての通り、俺はこの世にいない、魂だけのような存在だ。だから死ぬこともない。つまり、黄金の鳥は永久に封印されたことになる。人柱というのはそういうことだ」
「まぁ、細かいことはよく分からないけど。とりあえず、そういうことになるね」
人柱の意味に、仁はとりあえず得心してみせる。完全に理解したか、と問われると弱いが、とにかく「黄金の鳥という危ないものを、ハクバスが自分の命をかけて封印したんだよ」ということだけを、頭の中のノートに板書する。
だが、そうなるといまのハクバスの話には決定的な矛盾が生じている。話を後頭部のあたりで咀嚼しながら、仁は気づいた。そしてそれは指摘するまでもなく、ハクバス自身が一番理解している様子だった。
それを裏付けるかのように、「だが」と彼はため息まじりに続けた。
「俺はある日、先ほども言ったような毒を浴びてしまった。まさにあれは、青天の霹靂だった。あんな毒を開発していたとは思いもよらなかったんだ。俺は“蘇生”の生き残りを追い詰め、毒の効力を効きだした。そこで、あまりにも情けない真実を知った。それは」
そこまで聞いて、仁は何となく彼が次に話そうとすることがわかってしまった。だから気付くと、口を開いていた。
「命と連動して封印。つまりそれは、黄金の鳥といつも触れ合っているような状態なんだ。だから生きているだけで、毒素を受け続けるはめになってしまった。しかも、君が死んだら鳥は甦る」
仁が後を繋ぐと、ハクバスは感嘆するような素振りをみせたあと、こくりと頷いた。
自分が永遠の命を持っていると思いこんでいたから、命をかけて黄金の鳥を封じたのに。それが自身の命を滅ぼし、また黄金の鳥を解き放つリミットまでをも作り出す原因になってしまった。ハクバスにとっては、すべてが裏目に出てしまったというわけだ。
酌量の余地はあると思う。だが同時に、全部自分のせいじゃないか、とハクバスを責めたいような気持も沸く。
その時、仁はふとある違和感を覚えた。
これまでの会話を、思い返す。そもそもなぜ、こんな会話になったのか。自分がした質問は何だったのか。そこから得た回答は。
「……あ」
仁は声をあげた。そしてその正体に気づいた瞬間、体の奥から波が寄せるように、憤激が立ちあがってくるのを感じた。
話がすり替えられていることに気がついたのは、それからだ。仁が困惑しているのをいいことに、ハクバスは大事なことを隠ぺいしようとしている。
仁は震える声で訊いた。抑えきれなかった。それは畏怖や不安からのものではなく、怒りからのものであることを、仁は自分で知っていた。
「もう1つ、聞きたいことがある。これは、大事なことなんだけど」
仁はいったん言葉を切ると、鼻から息を吐きだした。そして、鋭く鏡中のハクバスを強く睨んだ。
「今の話に、なんで葉花が関係あるの?」
仁の発した剣幕に、ハクバスは固まった。仁は膝の上で拳を固めると、さらに追い打ちをかけるように言い募った。
「今の話はつまりまとめると、君が黄金の鳥と関わっているがために死にかけている、っていうことだよね? それはよく分ったよ。黄金の鳥が何であるかも分かってすっきりしたし、そこは素直にお礼を言いたい」
でも、と仁はまたそこで言葉を切った。酸素を肺に取り込み、声と一緒に吐き出す。
「僕は最初に言ったはずだ。なんで葉花が死ぬの、って。その答えを、僕はまだもらっていない」
ハクバスは俯いている。その状態のまま、無言の時を刻んでいこうとしている。仁は無下に時間を費やすことに我慢できなくなり、もう1度同じ質問を彼に浴びせた。
「そこを、聞かせてほしいんだ」
するとハクバスは観念したかのように面を上げ、それから斜め下に視線の向きを置きながら、答えた。
「俺の体が、彼女と一体になっているからだ」
「一体に?」
意味が分からず、訊き返す。するとハクバスは、やせ細った声で答えた。
「毒を浴び、傷ついた俺は不安定な精神体のままでは生命を維持することができなくなった。俺が死ねば、黄金の鳥は復活する、とは先ほども言ったはずだ」
仁は首肯する。その胸中に、浜辺の砂のようにざらつくものを感じながら。そして細かい砂は徐々に体温に照らされて熱を帯び、じりじりと内臓を焼いていく。そのただれるような痛みに思わず仁は目を伏せ、奥歯を噛みしめた。
「うん、言ってたね」
「俺としては、それだけは何としても阻止しなければならない。そのために、肉体が必要だった。しかし、俺は誰の体にも入れるというわけではない」
ハクバスは顔をあげ、仁を見やる。仁は顔を歪めたまま、ハクバスに視線を返す。彼は再び目を反らし、それから悄然とした声で言った。
「そこで現れたのが、楓葉花だった。彼女は私の住処にピッタリだった」
住処。その言い方に、仁はかちんときた。ハクバスはさらに続ける。
「だが、いまとなっては悪いことをした。まさか彼女にまで毒が回るなんて思いもしなかったんだ」
今度は言い訳か。仁はこの昇りついた憤怒を、もう抑えることができなかった。体が、かっと熱くなる。
「じゃあ、葉花は何も関係ないじゃないか」
仁は声を荒らげた。鏡の中でハクバスが、びくりと体を引きつらせる。仁はスタンドミラーのフレームを両手で掴み、その鏡面に顔を近づけた。
「分かってるんだろ、自分勝手だって。勝手に戦い始めて、勝手に封印して、勝手に毒を受けて死にかけて。そんな君たちの都合で、何で葉花が死にかけてるんだよ。おかしいじゃないか。 黄金の鳥だか何だか知らないけど、葉花を巻き込むことないだろ!」
ハクバスは何も言わない。ただ顔を伏せているだけだ。その体にどうしても触れることができないことが悔しく、そして憎らしかった。鏡の盤面に爪を立て、引っ掻くと、白く明るい傷痕だけが残る。
「分かってる」
ハクバスは、小さく言葉をこぼした。仁は膝立ちになり、片手をフレーム、もう片方を鏡にかけたまま、頭を垂れた。もう彼の言うことを聞きたくなかった。どんな言葉をかけられようとも、偽善的に思えてしまう気がしたからだ。
仁は石になった葉花の姿を今一度思い浮かべ、深く凍えるような水の中に沈んでいく感覚に陥った。再び心臓が騒ぎ出し、目には涙が滲んでくる。
「だから俺も、なるべく彼女に影響がいかないように考慮するつもりではいる。本当に、すまないとは思っている。俺も、後悔してるんだ。しかしあれは、どうしようもなかった」
返せ。昨日まではあって当然だった、だけど幸せだった、ありきたりの日常を返せ。
ハクバスのしおれた仮面に詰問しようとするが、その言葉は口を飛び出すことなく、胸の中で渦巻いて――そのうち氾濫を起こし、滴となってこぼれ落ちた。
「どうしようもなかったって」
信じられない思いで、仁は鼻先にいる、しかし手の届かないハクバスを見つめる。ハクバスは暗い面差しで、カーペットに目を落としたままだ。
仁は鏡の表面を、拳で強く叩きつけた。くぐもった音が跳ね返り、衝撃にスタンドミラーが震える。頑丈な鏡はびくともしない。仁は指を鏡面に滑らせ、そのまま前に倒れこむようにして、カーペットに手をついた。
「そんなの、あんまりにも、葉花がかわいそうじゃないか」
むせび泣きながら、仁は叫ぶ。ハクバスは沈黙を守ったまま、鏡の中で佇んでいる。
蝉の声が一斉に鳴きやんだ。扇風機の駆動音だけが、あたりに澄み渡っていく。その人工的なそよ風を受けて、机の上に取り残された最後のプリントたちが、羽のように舞っていった。
そんなやりとりがあって、1時間後の仁は暗いリビングにいるのだった。テーブルに頬をつけながら仁は、いまの自分は日が落ちた“しろうま”のようだと思った。
あまりにも頼りにならず、また気休めにもならない明りに照らされながら、暗闇をさまよっている。危険であることは重々承知している。だが、誰もが無関心を装って、さらに自分でもどうしようもなくて、結局その道のりを歩むしかなくなっている。$
葉花が死ぬことは、今でもにわかに信じ難い事実だった。脳の片隅が麻痺しているかのように、ぴりぴりと痛む。思考は鈍く、そこに霞がかかっているようで、あまり深く考えを巡らすことができなくなっていた。
だが、あの葉花のやつれた表情や、石化現象が夢だったとはとても思えない。それらの光景は網膜の裏にくっきりと焼き付いているし、あの背中の毛が逆立つような寒々しい、葉花の肌の感触は指先が覚えている。
仁は顔をあげ、斜向かいにある葉花の席に目をやる。
昨日まであの席で葉花は笑い、怒り、ご飯を食べたり、テレビを見たりして暮らしていた。そんな彼女のイメージが、叩き破られたガラスのように粉々と化し、フローリングの上にけたまましい音をたてて散らばっていく。
葉花を治さなければ。
それらの散乱したイメージを拾い集めようと、仁は必死に手を伸ばす。しかしその時、突如現れた薄い影が、仁の掌からそれら葉花の欠片を奪い取り、握りつぶしてしまう。その影は音もなく、気配も発せぬまま、仁の眼前にまで接近していたのだ。
お前は誰だ、と仁は叫ぶ。すると影は白い歯を見せ、愉しそうにこう返す。
俺は、お前自身さ。
1階から、チャイムの音が聞こえた。
最初は動くのもだるく、無視していたが、2度、3度と続けられるとさすがに良心が痛む。仁はまるで操り人形のように椅子から立ち、見えざる手に背中を押されているような気持ちで、階段を降りた。
「はい」
「あ、こんにちわ。宅配便でぇす」
閉まったドアに向け、無愛想に応答すると、そのどんよりとした空気を剥がすかのような、明朗な声が返ってきた。
ドアを開けると、明るい灰色の上下を身にまとった男が立っていた。一目で、宅配便の配達員だと分かる。配達員は両手で段ボール箱を、重たそうに抱えている。
仁の顔を見るなり、彼は片眉を下げた。あまりにも、仁が生気のない顔をしていたからだろう。視線を荷物に向けながらも時折怪訝そうに、こちらの表情をちらちらと窺ってくる。
配達員が立っている玄関と、仁が立っている廊下の間には、3センチほどの段差がある。彼の様子を眺めながら、仁はそこに、深く掘りこまれた絶壁を見ていた。
足がすくむほどの高さで、向こう岸まで50メートルはあり、そこに立つ配達員の姿は、豆粒のようにしか見えない。
2人の間は潔いまでに断絶されていて、もう同じ場所に立つことは二度とないのではないか、とまでに思わせるような絶対的な距離があった。
昨日まで、いや今朝まで。仁も葉花も、彼と同じ場所に立っていたはずだった。
昨夜のスーパーにいた多くの客たちと同じように、自らに毒がかからないように祈りながら、ソファーに寝そべって、テレビの中の世界を眺めている立場のはずだった。
だが、いまは違う。悪夢が現実に、現実が遠い夢の中へと吸い込まれていってしまった。呆気なく、それも唐突に。いつの日からか、仁たちの立つ世界と、配達員の立つ世界とでは、まったくの別ものになってしまった。
よく日焼けした顔に汗を滲ませながら配達員が、荷物を下ろす。仁はその様子を見降ろしながら、羨望に似た感情を抱いていた。
この男にもいつか、不幸が訪れるかもしれない。人生はいつ、どんな場所で落とし穴が待っているか分からない、とはよくいわれる話だ。だが少なくとも今のところ、男はその道のりを悠々と歩いているように、仁には見えた。
それが、羨ましくてしかたがない。そして自分の現状を重ね合わせ、何故、自分なのだろう。何故、葉花なのだろうと思わざるを得ない。
仁は差し出されたボールペンで用紙にサインをすると、荷物を受け取った。心なしか、筆圧が強くなってしまった気がする。
挨拶をしてドアの向こうに去っていく男を見送ることもせずに、仁は背を向け、荷物に手をかけた。
荷物はそれなりに重かった。配達員が顔を歪め、汗を滴らせるだけのことはある。仁は心の中で掛け声を唱え、息を止めると一気に胸のあたりまで荷物を抱えあげた。
このまま階段を昇るのも辛いので、とりあえず、店へと運ぶことに決める。
仁はよたよたと、ペンギンのように左右に揺れながら店へと移動し、荷物をカウンターの上に放った。荷物は中身が詰まっていたようで、段ボール箱特有の重重しい音をあげて着地する
息をつき、手首をぶらぶらと振りながら、仁は二の腕に疲労を感じた。腕を軽く揉み解しながら、そういえば最近、ろくに運動をしていなかったことを思い出す。
店は当然のことながら薄暗く、閑散としていた。明かりは点けられておらず、クラシック音楽も流れていない。同じような光度、静けさなのに、2階のリビングよりも何だかもの寂しく思えるのは、けして気のせいではないはずだ。
人はいつも、光の中に希望を見出す。その光はいつも煌煌と頭上を照らし続けているから、人はみな身勝手に、それが永遠のものだと勘違いしている。火が消えるその瞬間を、多くの人が予想さえしていない。
だからそれが、ふとした拍子になくなってしまったとき、人はそこに広がる絶望と空漠を目の当たりにする。
いまの店内の様子も、それに似ている。
普段、この店は“しろうま”という名を背負って煌びやかなスポットライトを浴びている。だからこそ余計に、こうした裏の顔を目の当たりにしてしまうと、悄然とした雰囲気を一身に纏ってしまうのである。
仁はしばらく店内を見回したあと、手近な椅子を引っ張り出し、荷物の前に腰かけた。
荷物の上に貼られたラベルに目をやると、荷物の配送元は山梨からになっていた。配送人は叔母の名前になっている。立ち上がり、カウンター内の戸棚から鋏を取ると、ガムテープの封を解き、ふたを開いた。
すると程なくして中から、甘い匂いが立ち昇ってきた。仁は思わず、口元を緩ませる。スイカだ。箱の中で狭そうに2つ並んでいる。小ぶりではあるが、叩くと身が詰まっているのか、弾むような音がした。
その新聞紙にくるまれたスイカを見ているうちに、仁は昔、叔母から聞いた話を思い出す。
山梨には、義父の実家がある。数年前まで広いが何もない、更地のような庭をもっていた家だ。片隅にちまちまと木が立ち並んでいるだけで、幼かった仁の目からしてみても、荒涼としていてまったく華がなかった。
そこで義父は幼い頃、大きくなったらその庭をスイカで埋め尽くしてやる、と高らかに宣言したらしい。
当時は叔母も含め、家族全員が子どもの思いつきだと、笑って済ませたらしい。それが当然の反応だと思う。子どもの叩く大口に、いちいち真剣に取り合ってはいられないだろう。
しかし、子ども時代の誇大な思いつきを、時の流れで風化させないのが義父という男だった。“有言実行”の思想は、その頃から既に完成していたのだ。
義父は、実家の庭を本当にスイカ畑にしてしまった。仁は2年ほど前に山梨に行ったが、そこには一面緑で覆い尽くされた、スイカ畑が広がっていた。
だが義父は翌年から、スイカの世話をしなくなった。義父に言わせれば、「俺は畑を作るとはいったが、育てると言った覚えはない」ということらしい。結局いまは、実家に住まう叔母が、スイカ畑を育んでいるらしい。
それから毎年、この家には、畑でできたスイカが届く。
叔母が義父に自分のやった成果を見せつけるために、わざわざ送りつけるのだという。数や大きさはその年の出来栄えによって違うが、仁がこの家にきてから、1年足りともその習慣が欠けることはなかった。
義父がいないので、今年は来ないのではないかと勝手に勘ぐっていたが、こうしてスイカは今年もやってきた。自分を取り囲む状況がどれほど変化しても、世界はいつも通り動いているのだな、と実感させられる。
仁はスイカから、壁に掛った写真へと視線を移した。小学生の仁と義父の写った写真だ。この写真は、焼石岳で撮ったものだ。空気が張り詰めるように澄んでいて、紅葉が鮮やかだったあの景色は、目を瞑ればいまでもまぶたの裏に見えるようだ。
この頃は楽しかったな、と仁はしばし感傷に浸る。何も考えないで、誰かによって照らされた道を、恐れもなく歩いていけた。子どもながらの無責任さと未熟さが、ひどく懐かしい。
そして写真に残るその山の、生命が躍動するような空気を見つめているうち、仁のなかでゆっくりと、決意が固まりつつあった。
入口のドアに前にある、陽だまりに向かって、目を細める。
昨日、仁はこの場所で、葉花と約束を交わした。葉花が危ない目にあったら、どんなことをしても救い出す。小指を重ね、長閑なぬくもりの中で、そう誓い合ったはずだった。
「有言実行、か」
呟きながら仁は、もう1度、写真の中の義父を見据える。すると写真の中でピースしている笑顔の義父が、「そうだ、男は自分の言ったことに責任をもつもんだ」とお決まりの台詞を語り返してくれたような気がした。
義父は言葉を続ける。男に二言はない。約束を破ることは、何よりもやっちゃいけないことだ。人間の恥だ。そんな奴は、死んだほうがましだ。
「分かってるよ、義父さん」
頭の中で、義父が喋りかけてくる。晩酌の度に、顔を赤くして喚いていたので仁はその言葉を一字一句間違いなく、復唱することができた。
有言実行。いまが、その時だ。
仁はジーンズの後ろポケットに手を突っ込んだ。入口が狭くて指を滑り込ませるのに苦労する。探り、中から丸まった紙を取り出す。
それはあきらから渡された、地図の書かれたあのルーズリーフだ。それをカウンターの上に広げ直し、地図上に赤く示された場所を、頭の中にインプットする。
それから、地図の上に女の子文字で書かれた「オウゴンノトリ」に目をやった。しわが寄って見づらいものになっていたが、その言葉は仁を待っていたといわんばかりに、青い罫線の間に堂々と居座り続けている。
あきらは黄金の鳥を信じなければ不幸になる、と言った。
ならば信じてみよう。葉花を救うために、このあまりにも不確かな藁へとしがみついてやろう。
仁はルーズリーフを握りしめた。くしゃりと手の中で音がして、それはいとも簡単に潰れていってしまう。
登場人物
ハクバス
葉花の寝室にある、スタンドミラーの中だけに出現する、鎧を纏った男。
精神体のため、命を保つために葉花と一体化している。
2003年、組織を率いて「黄金の鳥」を封印するものの、その代償として強力な毒を受けてしまい、現在は憔悴状態にある。