2話 足音
「もう死んじゃったのかい?」
リビングの椅子に、背もたれを前にして座りながら、葉花のやっているゲーム画面を見ていた仁は、思わず呟いた。しかし、無神経に発したそれはまずい一言だったらしい。
葉花は仁のほうを振り返ると、熟れたトマトのように頬をふくらませた。
「私の実力はこんなもんじゃないやい! みてろぉ、次こそは」
フローリングにあぐらをかいた葉花は意気込み、再びテレビ画面に目を戻す。画面の中で、彼女の操るキャラクターが爆弾を生み、周りを取り巻くブロックを破壊し始める。
仁はやれやれと眉を寄せ、こめかみのあたりを掻いた。
『しろうま』の2階はそのまま、仁たちの居住スペースになっていた。
3LKの住まいで、暮らしていく分にはまったく不自由のない作りである。リビングには24型のプラズマ液晶テレビと、食事に使う4人掛けのテーブル、そして大人2人がゆったりと座れるソファーが置かれている。
テーブルの中心には丸いホットプレートが1つ置かれ、それを取り囲むように花柄の皿が3つ、並べられていた。
しばらくゲーム画面を眺めていた仁だったが、下からチャイムの音が聞こえると、腰をあげた。時計を見上げると、7時を少し回ったところである。
この家には“しろうま”としての店の入り口の他に、裏の勝手口が存在する。閉店時間の6時以降、店の入り口には施錠を行ってしまうためである。
だから基本、閉店以降の出入りには裏口を使うことになるのだが、そのドアがあるのは表口よりもさらに見通しが悪く、外灯がそれこそ一本もないような、より闇が濃い場所だった。
そのため仁は、葉花にはその出入り口を使うことを固く禁じている。万が一のための処置だ。
しかし、もう1人の同居人に至っては別だ。
彼は店が閉まってからくることが多い。一度、仁は「連絡すれば表のほうを開けておく」と提言したのだが、「自分のためにいちいち表を開けてもらうのも悪い」と本人が断ったのである。
仁が席を立つと、葉花も下からの音に気づいていたようだった。握っていたコントローラーをフローリングに放り投げ、仁の側に嬉しそうに寄ってくる。
「来たみたい?」
「うん、そうみたいだね。どうしたの葉花、なんか嬉しそうじゃないか」
「まぁ、ちょっと約束をねっ。白石君には内緒さ」
含みありげに笑うと葉花は、後ろ手に何かを隠した。そのどことなく浮かれた様子に、仁は首を傾げるばかりだ。
裏口は階段を下りて折り返すと、すぐ正面に見えるところにあった。仁と葉花は揃って階段を降りると、玄関の前に立った。
そこに立ちはだかるのは、小さな押し戸である。くぐもった窓ガラスが上部についているだけの、単純なドアだ。勝手口、と呼ぶのがふさわしいようにも思える。
仁たちの足音が聞こえたのか、外から間延びした少年の声が聞こえてきた。
「おじゃましまっす。開けてくれよー」
間違いない。仁は確信する。その声とフランクな喋り口は、彼以外にはいない。
仁は微笑すると、ドアについているチェーンを外し、ドアノブに取り付いているつまみを捻って、ドアにかかっていたロックを解除する。ガチャ、と呆気ない音がして錠が解ける。
中に向かってドアを引っ張り開けると、そこには生意気そうな顔をぶら下げた、天村佑が立っていた。
茶色みがかった髪の毛を栗のように立てた、小柄な少年である。年は葉花と同じくらいだろう。黒いノースリーブのTシャツ姿で、下はジーンズを履いている。
右手には青いボストンバック、左肩には大きなギターケース。佑は仁を前にして、まだ幼さの垣間見える、やんちゃな笑みを浮かべた。
「こんばんは、仁さん。今日からまたお世話になります」
「うん。こちらこそ、よろしく頼むよ。ほら挨拶はいいから。あがってあがって」
おじゃまします、と佑はスニーカーを脱いで廊下にあがる。その手からバックを取りながら、仁は訊いた。
「天村さん……お父さんは元気だったかい?」
佑は慌てて仁の手からバックを取り返しながら、答える。
「あ、大丈夫。俺が持ちますって。父さん? まぁ一週間のうち3日くらいしか会わなかった気がするけど」
佑はバックを胸の中で抱く。そして中空を睨み、少し考える素振りをみせたあと、遠い目をして言った。
「まぁ、元気といえば元気だったかなぁ」
「それなら良かった。次はいつだって?」
「さぁ。まぁ、そのうち電話するって。そろそろみんなで、悠のところにも行きたいって言ってたし。だから、今度は長く帰れると思うんだけど」
苦笑いとともに飛び出した佑の言葉に、仁は少し目を丸くする。
「へぇ、いいね。それは悠ちゃんも喜ぶと思うよ」
悠は佑の妹である。昔から心臓が悪いらしく、入退院を繰り返し、あまり学校にも通えていないと聞いていた。
それと合わさって佑の両親も、家にほとんど帰ることが許されないほど、ひどく忙しい身分だった。そのため、彼の家族が全員顔を揃えることなど、1年に3回あれば上出来と言ってもよい。
そんな背景下での、佑の父親の提案は、病室にこもりがちな悠にとって何よりのプレゼントになるだろうと仁は想像した。考えると、自然に胸が躍るような気分になった。
会話を交わしながら階段を昇ろうとする仁と佑の前に、人影が立ちふさがった。葉花である。相変わらず、両手を背後に隠し、意味深な笑みを佑目がけて発している。
佑はバックを持った片手を軽くあげ、もう1人の同居人に挨拶を送った。
「よう、お前もしばらくぶりだな」
「ときにタンスくん」
第一声。自分に向けられた呼び名を、佑は嘆息混じりにすぐさま否定する。
「俺はタンスじゃねぇ。いい加減、その呼び名はやめろ!」
「そこはどうでもいいよ」
「よくねぇよ!」
「そんな小さなことよりも、この大惨事を目に焼き付けてよ」
言いながら、葉花が佑の前に差し出したのは、ペンギンのおもちゃだった。掌の真ん中にちょこんと乗っている程度の、小さなものだ。背中にはネジ回しがついており、ブリキでできている。
いや、ネジ回しがついていた、と表現するほうが正しいだろう。確かにペンギンの背中には、それがついていたような形跡があった。
ところが今やそのおもちゃのネジ回しは外れ、そこに空いたささやかな空洞には代用品とばかりに、何故かしましまストローが突っ込んである。さらにペンギンの片目は削り取られ、片手が折れてなくなり、全身には白い傷跡が刻んであった。
その状況は確かに、大惨事と形容するのに間違いはないように思われた。
「ね?」
葉花がその壊れたおもちゃを、佑の眼前にかざす。佑は不得要領な顔をしている。
「だからなんだよ」
「ね」
「なんだよ!」
少しずつ顔を近づけてくる葉花に気圧されて、佑はたじろぐ。葉花は佑の手を取ると、その掌にペンギンのおもちゃを押し付けた。彼女の瞳は星のように輝いている。
「治してよ。私、タンス君が来るのをすっごく待ち望んでたんだから」
「だからタンスじゃねぇって。それに何で俺なんだよ。そういうのは、おもちゃ屋に持ってけよ!」
不躾に佑は、おもちゃを葉花に突っ返す。女子の中でも小さい部類に入る葉花よりも、少しだけしか背の違わない佑は、男子の中で結構小さい部類に入る。
そのため真っ直ぐに突き出された佑の腕は、葉花のちょうど胸のあたりを小突いた。葉花はむっと眉を寄せ、負けじとおもちゃを押し返す。
「この前、車治してくれたじゃん。あの手腕をもう1度発揮すればいいじゃん」
「あれは自分で組み立てる奴だろうが。あんなの、説明書があれば誰でも治せるだろ!」
「私は治せなかったもん」
「それはお前が、俺以上にぶきっちょだからだろ」
「なんだとぉ!」
仁は階段に片足だけを預けた体勢のまま、2人の痴話喧嘩を微笑ましく見守る。最初にこの家で会ったときから2人は、こんな風に互いに一歩も譲り合わない、丁々発止の関係だった。
だが佑も葉花も、仲が悪いようで、実はその中に着実な信頼関係を築いている。そんな2人のやり取りは、同じ屋根の下で暮らすもの同士、悪くはないのではないかと、仁は考えていた。
「とにかく俺は何でも屋じゃねぇんだからな。そいつは、どっかで直してもらってこいよ」
仁の後に続いて階段を昇りながら、佑は腰を捻って、下の段にいる葉花に喋りかける。佑の突き放した言葉に葉花はまた、頬をぷくりと脹らます。
「ケチだなぁ。ギターやってるくせに。なんか、そういうテクニックあるんでしょ?」
佑の腕の中で大事にされているギターケースを見ながら、葉花が拗ねたように言う。佑はギターケースを担いだ肩を、示すように軽く揺さぶった。
「うっせー。ギター弾けるのと、手先が器用なことはまた別なんだよ!」
佑の説明に葉花は、眉の間に幾重ものしわを寄せる。そして愚痴るように言った。
「なにそれ。タンスくん、変態みたい」
「俺はタンスでも変態でもねぇ!」
階段を上がり終えると、先ほどまで仁と葉花がくつろいでいたリビングにたどり着く。
部屋に入るともう1度佑がおじゃまします、と言ったので仁もどうぞ、と笑いながら返した。
ゲームの電源は落としてあったが、テレビは点いたままだった。ペンキをひっくり返したような黒い画面の中から、時折じりじりといった音が聞こえてくる。
佑はソファーにギターケースを立て掛け、その脇にボストンバックを下ろすと、大きく背伸びをした。
「やっぱり、ここが落ち着くよ。我が家に帰ってきた、って感じでさ」
「昨日まで帰ってたのが、自分ちじゃんか」
即座に葉花が指摘する。その言葉には、若干の棘が見える。彼女が持っていたペンギンのおもちゃは早くも、テーブルの上に放り捨ててある。
すると佑は、遠慮がちにソファーに腰かけながら反論した。
「まぁ、そうなんだけどさ。やっぱり、人がいるのが落ち着くっていうか。安心感があるっていうか。やっぱり、こういうのが本物だよなぁ、って思うんだよ」
頭の後ろで手を組み、天井を見上げる佑。その顔が翳って見えるのは、けして採光の問題ではないだろう。
気丈に振る舞いながらも、やはり両親と会話することすらままならない状況に、佑は寂寥を覚えているのだ。そしてその気持ちは今や、彼の中に隠しておくことが困難なくらいに大きく膨らんでしまっているに違いない。
しかし葉花や仁の前では、つよがりを演じているその様が意地らしくて、仁は胸が詰まるような思いになる。
家族に巡り合えない者の痛みや苦しみは、仁もよく知っているつもりだった。
だからこういう時には、下手に同情をかけないほうがいい。仁は椅子に座り、佑を無言で眺める。そうしていると、佑は仁を見てしみじみと言ってきた。
「だから、仁さんには感謝してるんですよ。あんま恩返しはできないけど」
「いやいや、僕こそ何もしてあげられてないし。佑が気にすることでもないよ」
「でも」
「タンスくん!」
そんな佑の気持ちを知ってか知らずか、葉花はいつもの調子で、佑の前に仁王立ちしていた。もう機嫌が直ったらしく、先ほどまでのことがなかったかのように、にこにこしている。
「タンスくん。さっさと荷物は部屋に置いて、始めようよ。この一週間、ずっと特訓してきたんだから!」
そう言って葉花は佑に、横に広がる楕円型のゲームコントローラーを押し付けた。
それはテレビの前に置かれた、灰色のゲーム機と1本の太いコードで繋がっている。
赤、青、緑、黄色の四色に色分けされた丸いボタンと、十字型のキーで構成されたコントローラーである。
このゲーム機は20年近く前に発売された機種なのだが、葉花はなぜか最新のものよりも、自分よりも年寄りなこの機種を愛用していた。
佑はしばらく口を開けたまま葉花を見上げていたが、ふいに笑みをこぼすと、そのコントローラーを受け取った。
「俺だって、この一週間遊んでたわけじゃないんだ。暇さえあれば特訓してたからな。返り討ちにしてやるよ」
「へへん。それはこっちのセリフだよ!」
「よし待ってろ。5秒で戻ってきてやるからな」
佑はそう言い残してソファーから腰をあげ、ギターケースとバックを引っ掴み、リビングから出ていく。
先ほど昇ってきた階段とちょうど対面する位置には、廊下が伸びている。その奥には向かい合う、2つのドアがあった。それらはそれぞれ、仁と佑の寝室と、葉花の寝室に繋がっている。
右手にあるドアを乱暴に開き、自分の寝室へと佑は消えていく。そしてものの3秒もしないうちに、手ぶらの佑はすぐに出てきた。
滑り込むように、佑はリビングに帰ってくる。その顔を見るなり、時間切れーと宣言する葉花と、絶対間に合ったと主張する佑を後にして、仁はキッチンに向かった。低い食器棚の上にあるエプロンを手際よく付け、冷蔵庫を開く。
冷蔵庫の中に充満していた冷気が顔にかかり、仁は少し顔をしかめた。
今日の夕飯は昨日から決めてあった。佑が来る初日は、いつしかこのメニューが定番になってしまっていた。
しかし、冷蔵室の中身にざっと目を運んで仁は、あれ、と声をあげた。
食材をどかして見てみるが、目的のものは見つからない。冷蔵室を閉め、野菜室や冷凍室を開けて探ってみたが、やはりそれは見つからなかった。
昼間の騒動で、すっかり失念してしまっていたらしい。仁は腰に手をあてがい、溜息をついた。まさかこれを忘れてしまうとは、と仁は自嘲気味に思う。あまりに当たり前のもの過ぎて、逆に重要度を見失っていたのかもしれない。
仁は頬を掻きながら、リビングのほうに目をやる。
葉花と佑は並んでテレビゲームに熱中していた。まだゲームを始めて間もないというのに大声をあげ、全身を揺らして、よほど白熱しているように見える。
葉花1人を残すのは気が重いが、今日は佑がいる。それに肉の売っている店には車を走らせれば、ものの10分足らずで着くことができるだろう。仁は、様々な憶測を巡らせ、検討し、その結果、家を空けても大丈夫だという結論に行き着く。
決めたからには、行動に移さなくては。1秒1分も惜しい。2人の同居人は夕飯を待っているのだ。仁はエプロンを脱ぎ、テーブルの上に丸めて置いた。
そして、決まり悪い気分を抱きながらリビングに顔を出す。
「ごめん。焼き肉なのに、ちょっと肉買い忘れちゃってたみたい。ちょっと、そのへんまで買ってくるよ。留守番頼んでもいいかい?」
少しの間があって葉花と佑は、ほとんど一斉に振り返った。停止したゲーム画面の中央には、白抜き文字で「POUSE」と書かれている。
葉花は意外にもそれほど機嫌を損ねてはおらず、素直に頷いた。
「うん、いいよー。この戦いでお腹空かせとく」
「任せてくださいよ、仁さん。泥棒がきたら、俺がばしばしっと追い出してやるから!」
そりゃ心強い、と笑いながら仁は、ポケットに財布と車の鍵を突っ込む。そしてリビングで充電していた携帯電話を手に取ると、階段につま先を向けた。
仁が車で向かったのは、近所のスーパー・マーケットだった。
30台ほどの駐車スペースが設けられた、小規模な店である。
しかし昔ながらの家屋が周囲に多く存在するためなのか、ひっきりなしに自動ドアを通過する人々の姿を見ることができ、店内はそこそこ賑わっているようだった。
車を停める場所がなかなか見つからず、仁はブレーキを踏みながら、緩慢なスピードで周囲を見渡す。
するとちょうど、右前方の車の車内が光りを帯びた。真っ赤なワゴンである。運転席には黒髪に紫色のエクステーションを付けた、若い女性が乗っていた。
ワゴンが出ていき、空いた場所に仁はすかさず自分の車を滑り込ませる。
エンジンを切り、シートベルトを外して降りる。車内はクーラーを効かせていたため、アスファルトに足を着けた途端、体を圧迫するような熱気が襲いかかってきた。
それでも空はすっかり暗くなり、日中よりははるかに過ごしやすくなっている。少し歩くとこの湿った空気にも順応し、逆にこの気だるい暑さが心地よく感じられてくるから不思議だった。
今宵は糸のように細い三日月が、空に浮かんでいた。月を仰ぎながら、仁は夏の夜の中に足音を刻んでいく。そうしていると自然に、笑みが零れてきた。夏の夜特有の、静かに熱い、青い炎のような雰囲気が仁は好きだった。
月の光を浴びながら、電飾に飾られたスーパーの自動ドアをくぐる。生ものを取り扱っているからなのか、店内は寒いくらいに冷房が効いていて、仁は思わず腕をさすった。
時刻は7時半ちょうどで、夕飯時のためか、レジの店員は忙しそうに客をさばいている。店内を軽く見まわしてみても、老夫婦や子ども連れの母親、制服を着た高校生や、派手な格好をした男女まで客層は彩り豊かだった。
誘拐事件が多発していても、人々の生活は続いていく。日が落ちても繁盛し続けるスーパーの様相は、事件をブラウン管越しに観ている人々の気持ちを、そのまま代弁しているかのようだった。
そして客観的にそんな感想を抱いている仁もまた、それら大衆と同じ考えであることを自覚している。怖い怖いと、うそぶきながら皆、それら犯罪が自分にはまったく関係のない、遠い世界の出来事だと心の片隅で考えているのだ。
人間は残酷だ、と思う。その一方で、だからこそ人間だと思う。
他人のことよりもまず、自分のことに目を向けていかなければ生きてはいけない。
仁は他の物には目もくれず、まっしぐらに精肉コーナーを目指す。
たどり着くと同時に、かごに豚肉と牛肉を何種類か放りこむ。さすがにこの時間ともなると、肉類は残り少なかった。パッケージには割引のシールが貼られていたため、いつもより少し安く買えたことは不幸中の幸いだった。
それから菅谷にもらったプリンのことを思い出して、ドリンクコーナーに足を運び、2リットルペットボトルの紅茶も入れた。
こんなものか、とかごの中身を見下ろす。
自宅と『しろうま』を思い出し、その隅々まで脳裏に再生してみるが、早急に必要なものは他に思い浮かばなかった。
早くしないと葉花に文句を言われるな、と仁は微笑し、早足でレジに向かう。
その時、背後で誰かに呼びかけられた。
足を止めて振り返ると、そこに青髪の少女が立っていた。ブラウスに黒いデニムという装いである。
こんばんは、と少女は仁に笑いかける。彼女が首を傾けると、ゴムでひとくくりにまとめたポニーテールが揺れた。
「君は……」
仁はこの少女に見覚えがあった。黙っていても目についてしまう、この青みがかった髪の色をそう簡単に忘れるわけがない。だから、これが初見でないことだけは確かだった。
しかしこれ以上の明瞭としたビジョンは、試験管にはまったピンポン玉のように、後頭部でつっかえたまま出てこない。
少女の鼻筋の通った、端正な顔立ちを見つめ、仁は自分の記憶を探る。
向こうはこちらのことを知っている風だったので、ここで真正面から素性を問うのはさすがに失礼な気がして、仁は少し考え込んだ。
年齢や背格好からして、おそらく葉花と同じくらいの歳だろう。
葉花の友達か。それとも『しろうま』に来店するお客さんか。
後者の説は、ありえなくもないと思った。リピーターがそのほとんどを占める『しろうま』だが、新客が来ないわけではない。1度だけでも来たことのあるお客さんが、連れていなかったか?
そして、同時に前者の説も通っている。葉花はよく、家に友達をあげ、一緒に遊ぶことがある。そのうちの1人にいなかったか?
しばし頭を悩ませていると、少女は困ったように首を傾げて笑った。
「あ、やっぱり覚えてないんですね。まぁ、あんまり会ったことないからしかたないですけど」
「ごめんよ。どこかで見た覚えはあるんだけどね」
仁は素直に申し訳ないと思った。今日の肉のことといい、だんだん物忘れが激しくなってきてるのではないか、と心配にもなる。
少女はいえいえ、と顔の前で手を振ると、両手を腹の前で組み合わせ、大きく体を前に折った。
「改めて、こんばんは。華永あきらといいます。葉花さんに、お世話になってます」
そっちだったか、と仁は納得した。同時に安心も覚える。葉花の友達なら忘れていい、というわけではけしてないが、お客さんの名前を忘れるよりもリスクは小さい。
あきらは簡単に自己紹介をして、小さく頭を下げる。仁もそれに倣って、自分の名前を告げようとすると。
「白石さん、ですよね。喫茶店のマスターの」
「知っていたのかい?」
「葉花さんがいつも、学校で話してますから」
1つの情報を元にして、まるでビリヤードの玉のように、弾かれて記憶は次から次へと流れ出していく。この華永あきらという少女は葉花の友達だった。何度か、店にも遊びにきたことがあったはずだ。そのときに、彼女の姿を目にしていたことを、仁はだんだんと思い出す。
そういえば青い頭髪をもつ彼女のことについて、葉花は幾度も夕食の団欒に口にしていたような気がする。
「確か、同じクラスだったよね? 葉花と」
「はい、そうです。去年からずっといっしょです!」
「あぁ、そうだそうだ。よく葉花が君のことを話してるよ。青いの、ってあきらちゃんのことでいいんだよね?」
仁が訊くと、あきらは照れくさそうに笑った。
「はい、初対面からそう呼ばれてます。髪が青いから、今日から青いのとか言われまして。それから今までずっと」
「彼女らしいよ」
仁も笑う。佑のことをタンスと呼ぶ彼女のことだ。おかしなあだ名をつけることは得意技であり、その話はいかにも葉花が言いそうなことではあった。
するとあきらは首を傾けて、仁を見上げた。口元に、はにかむような笑みを宿したままに。
「でも葉花さんの言う通りですね、白石さん」
「なにがだい?」
足元を、子ども追いかけっこをしながら駆け抜けていく。そこで仁は、自分が通路の真ん中で話していることに気づき、急いで片側に避けた。
それに準じて移動しながら、あきらは胸の前で手を組み合わせ、その場でステップを踏むように、左右に揺れながら言った。
「葉花さんの言う通り、かっこよくて素敵な人だってことです」
仁は戸惑った。視線を天井に向けたあと、あきらの笑顔を見つめる。言葉が少したどたどしくなった。
「本当に葉花がそう言ったの?」
あきらは嬉しそうに、手を1つ叩いた。
「はい! いつも白石さんの自慢してますよ。もう、こっちがうらやましくなるくらいに」
「それは嬉しいね」
「葉花さん、白石さんのこと大好きなんですね」
今度は仁が照れくささに、顔をそむける番だった。はっきりと第3者からそう指摘されると、なんだか余計に恥ずかしかった。
相変わらずあきらは楽しそうに、踵をつけたり離したりを繰り返して、今度は上下にステップを踏んでいる。
仁は耳にかかった髪の毛を指先でいじりながら、やっと言葉を発した。
「あとで、葉花にお礼言っておくよ」
そうしてください、とあきらが返す。相変わらずにこにこと笑ったままだ。
仁は視線をさまよわせ自分のかごを、ふと見下ろした。
そういえば、あきらとどのくらいの時間話しただろう。家では葉花や佑が待っている。ジーンズのポケットから携帯電話を取り出し、電話やメールがきてないことを確認する。
連絡が来ないうちなら、まだ黄色信号だ。仁は携帯電話を元の場所に放り込み、改めてあきらと向かい合った。
「ごめん。葉花が待ってるから、もう行かなくちゃ。またいつでもうちにおいでよ」
「仲良しなんですね。はい。また、遊びにいきます。今度は、葉花さんに勝てるように頑張らないと」
いま高校生の間では、あのゲーム機が流行っているんだろうか。そんなことをふと心に掠めながら、仁はかごを持っていない手をあげて、あきらと別れようとする。
別れようとした。そのまま脇目もふらず、レジに直行するはずだった。
だがそのとき、仁は気づいてしまった。
あきらの両手には、何もない。仁や周囲の人のように、買い物かごや商品を持っていないのである。
親と買い物をしにきたのだろうか、と目線でまわりを窺うが、それらしき姿はない。
あきらはぽつりと立って、仁を見ている。動こうとする気配はまるでない。
このあと買い物をするつもりなのか。それとも、単に望んだものが手に入らなかっただけなのか。
どちらにしても、大した理由ではあるまい。
仁は体を元に戻すと別れ際の挨拶のような軽い気持ちで、思ったことを口にしていた。
「あきらちゃんは、何を買いに来たんだい?」
その発言を境にして、はっきりと空気が入れ替わった。
体にぴったりと貼りついていた生活臭が消え失せ、じめじめとした悪寒が背中のほうから這い上がってくる。
あきらの表情から、笑顔が忽然と抜け落ちた。急に真顔になる。代わりにどこか生気のない、黒いビー玉のような瞳が仁を下から捉える。
息が詰まるような感覚を覚えて、仁は1歩、後ろに退いた。だがそれを追うようにして、あきらは一歩前に出る。
まるで、全方位が見えない敵意で囲まれたような感覚に陥り、仁の背中は嫌な汗でじとりと湿った。
明るい音楽や子どものはしゃぎまわる声が、店内には絶えず満ちているはずだったが、それはビニールでできたカーテン越しに見える光景のように、仁には感じられた。
何か、まずいことを言ってしまったのだろうかと仁は急いで思い返すが、その要素は見当たらない。ごくごく自然な会話だったはずだ。
「あきらちゃん?」
鼻白む仁に向けて、あきらが音もなく手を伸ばした。そしてその腕を、白石の提げている買い物かごの真上で止めると、機械的な動作で掌を開いた。
あきらの手からかごの中に転がり出たのは、くしゃくしゃに丸めた小さな紙きれだった。青い罫線が表面にいくつも引かれた、ルーズリーフの切れ端である。
これは何かと問い質すこともできず、仁は無言であきらを見る。
あきらも仁の目を見ながら、その薄く白っぽい唇を上下に開いた。
「白石さん」
「なんだい?」
唾を飲み込み、仁は慎重に声を出す。やはりあきらの表情には、つい先ほどまであった妙齢な雰囲気は一欠けらも残されていない。
そしてあきらは一呼吸、間をおいた後、はっきりとした声で告げた。
「あなたの、叶えたい願いはなんですか?」
叶えたい願い? とおうむ返しに尋ねようとするが、その言葉は咽喉までよじ登ってきたところで、再び胸の奥へ墜落していった。
さらに続けて、あきらは言った。今度は囁くような声だった。しかしその声は、店内の喧噪のなかでも、やけに透明感を持って仁の耳朶を打った。
「黄金の鳥を、疑わないでください。逃げたらきっと、あなたは不幸になります」
「黄金の、鳥?」
今度は喉元まで駆け上がってきた言葉を、無事に外界へと解き放つことができた。
しかしあきらは仁の質問には答えず、頬をあげて笑うと短く言った。
「待ってますよ」
あきらはそれだけ残すと、仁の横を通って背後に抜け、歩いていってしまった。
体を他の世界から遮断していた、見えないビニールシートが悲鳴のような音をあげて破けた後も、仁はしばらくその場で固まっていた。
首を軽く振り、いまのは夢だったのではないかとも一瞬思うが、そんな現実逃避の行き場を塞ぐように、かごの中にはあの丸めた紙きれが入ったままだった。
かごを腕にかけ、紙きれを拾い上げる。吸い込まれるように、両手でそれを開いていく。
破けないように気を配り、指先を使って、その皺だらけの紙を広げる。
そこには黒いボールペンで、奇麗に地図が書かれていた。道を表す線が淀みなくまっすぐで、丁寧に定規を使って引いたことが分かる。
そして地図の一部分には目立つように赤いボールペンで丸がくれてあった。そこは見る限りあまり遠くはなく、しかし近いともいえない微妙な場所だった。仁が今まで、出向いたことのない所だ。
地図の上にこれもまたボールペンで、文字が書かれている。それはいかにも女の子らしい、丸っこい字体だった。
だがその書かれていた単語をみて、仁は緊張に全身を強張らせる。
オウゴンノトリ
力強く、明確な字で、ただそれだけ記してあった。
仁はしばらくその文字を見つめたあと、ゆっくりと体ごと振り返った。もちろんすでにそこに、あきらの姿はない。だが追いかける気にもなれず、もう1度紙に目を落とす。
「黄金の、鳥」
仁は気づくと紙に書かれていた、そしてあきらが言ったその単語を口にしていた。
カートに乗せた買い物かごに、商品を山のように詰め込んだ主婦が、仁の目の前を通過していく。店員がやってきて、目の前に並べられたドリンク類をてきぱきと整理し始める。
時は元通り、流れ始める。だがそれでも、そこに流れる空気の流れは今までと異なるように感じられる。それは何故なのか。仁は、心の中で分りきっているつもりだった。
ドリンク置き場から吹き流れる冷房の寒ささえも忘れ、仁はまたしばらく、あきらの最後の表情を思い出しながら、そこに立ち尽くしていた。
2010年 7月22日
緩やかに太陽が昇り、夏特有の蒸し暑さが少しずつ舞い戻ってくる。
また今日も、朝がやってきた。青い葉の隙間から射す陽が眩しくて、仁は窓に水玉模様のカーテンをかける。
白石宅の朝はいつもながら、ひどく騒がしい。
仁は青色のパジャマに、エプロン姿だった。寝起きなので、まだ前髪は下ろしたままだ。
あくび混じりに、火にかかったみそ汁をかきまわす。このままではいけないと思い、大きく伸びをし、首の関節を鳴らして、鈍い体を無理やり起こしつける。
昨晩はあきらの言葉と、あの泰然とした迫力が脳裏にこびりついていて、ベッドに入ってもなかなか寝付けなかった。
いくら考えても、「黄金の鳥」という単語の意味はまったく分からず、謎は胸の中で渦巻くばかりだった。渡された紙きれは、ジーンズのポケットに突っ込んだままだ。
瞬きを繰り返して眠気を飛ばしながら、とりあえず仁はそのことは忘れようと思った。
ひょっとしたら、単なるいたずらかもしれない。違和感のある出来事に遭遇すると、すぐにいらぬ不安を抱いてしまうのが欠点であることを、仁は自覚していた。
せっかくの気持ちのいい朝だ。昨日始めて会話を交わした少女のことで、頭を悩ませるのはもう止めにしよう。
「よしっ。 じゃあ始めようかなっ」
声に出し、気持ちを切り替える。空腹感もあった。朝食の時間だ。
炊飯器を開けると、中からお米のいい香りとともに、白い湯気が立ち昇ってきた。しゃもじを手に取り、ガラス棚にしまわれた茶碗を掴む。
どんなに忙しくても、朝食を外してはいけない。耳にたこができるほど義父に何度も言われたことを、仁はいまでは同居人の2人に教えていた。
そのため仁は遅くとも6時半には起きて、毎朝、3人分の食事を作ることにしている。
昨晩と同じように朝食も、リビングのテーブルで取ることになっていた。葉花と佑が隣あい、仁が佑の向いという座席だ。
それは誰が取り決めたわけでもなく、佑の来る日が焼き肉で定例となっているように、いつの間にか決まっていた。ちなみに佑が自宅に帰った時は、仁と葉花が向き合って食べることになっている。
「白石くん、早く早く!」
テーブルの下で足をばたつかせながら、葉花が急かす。仁は赤い小ぶりな茶碗にご飯をよそると、キッチンから腕を伸ばし、葉花の前に置いた。
「はいはーい。ご飯。ちょっと待ってね、すぐ味噌汁持ってくるから」
「いいよいいよ、どうせ熱くて飲めないから。じゃあ、いただきます!」
食事の挨拶も慌ただしく、葉花は箸を取ると、焼き鮭をつまみ、同時にご飯を口にかきこんでいく。葉花は学校の制服姿だったが、髪はところどころが跳ね、急ごしらえのためか緑のネクタイはひどく曲がっていた。
同じく食卓についていた佑は、呆れた目で葉花の横顔を見つめている。彼はまだ無地のTシャツ1枚の寝巻きスタイルで、湯呑に注がれた緑茶を飲んでいた。
「お前、本当に進歩ねーな。何で毎日寝坊してるんだよ。目ざまし3個もあるじゃんかよ」
「4個だよ、タンスくん。それに勝負を分けるのは数じゃなくて、質なんだよ。多分」
「っ、ご飯粒飛ばすな! ったく。大体そのうちの1個は、俺のところからパクったやつじゃねぇか。返せよ。返さないなら、俺のパワーで目覚めろよ!」
「タンスくんのパワーじゃ無理だね。あと500ワットは足りないよ」
「んだとぉ……よし、仁さん、俺にも飯を! これで2000ワットは絞り出してやるよ!」
はいはい、と仁はお盆で運んできたご飯とみそ汁を、それぞれの席に置いた。今日のみそ汁の具は、ねぎと豆腐だ。
仁は自分も席に着くと、箸を手に取りながら2人を見比べた。
「いただきまーす。そういえば佑って、いつも余裕あるよね。昔からそうだったのかい?」
仁が訊くと、頬をご飯で膨らませていた佑は、お茶でそれを流し込んでから答えた。
「ん……まぁ、昔から早く起きるようにしてたけど。今は習慣って言うより、こいつの目覚ましのせいで早く起きざるを得ないっていうか」
言いながら佑は、恨みがましそうに葉花を横目で見る。葉花は佑のそんな視線に気がつかないのか、時計を見ながら必死にご飯を消化しようとしていた。
口に付けていたみそ汁のお椀を、テーブルに戻しながら、仁は苦笑した。
葉花と佑の余裕に、これだけ雲泥の差があるのには起床時間の他に理由がある。
それは2人がそれぞれ、違う高校に通っていることにあった。
葉花は中高一貫の私立高校で、ここからバス停まで歩き、バスで学校まで通学している。
佑の場合は都立高校で、ここから歩いて15分ぐらいの、比較的近場にあった。佑は自転車を使うので、実際にはもう少し早く到着する。
そのため、バスの時刻という社会的なリミットが存在する葉花に対し、すべてが自分の足にかかっている佑は、時間調整を自己の判断で行うことができ、彼女に比べてかなり安心感を持って、朝の時間を過ごすことができているようだった。
だが、それにしても葉花は起きるのが遅い。それは仁もずっと感じていることだった。
「まぁ、確かに。葉花のは時間差セットじゃなくて、いっぺんに鳴らすからねぇ」
「そうだよ。それそれ!」
仁が言うと、佑は隣の葉花のほうに身を乗り出し、テーブルを掌で強く叩いた。
葉花の前に注がれた味噌汁の水面が、激しく揺れる。
「覚まし時計3個……4個もあんのに、なんで全部一斉に鳴らすんだ! 意味ねぇだろ。普通1分ごとにかけて二度寝、三度寝を阻止するんだろうが!」
「だから、数より質だってさっきも言ったじゃん。そういうことなんだよ。きっと。あ、白石くん。やっぱり味噌汁熱くて飲めない」
「あ、じゃあそこに置いといていいよー。飲む量じゃなくて、少しでも飲んだ、ってことが大事だからさ」
「だからお前さっきから、多分、だとか、きっと、だとか曖昧なことしか言ってねぇだろ! もうちょっとなんとかして、俺をゆっくり寝かせてくれよ」
「はいはい、タンスは部屋の隅で勝手に寝ててね。それで私は、ごちそうさまでしたー」
「お前っ。俺の叫びを軽く流したな!」
気色ばむ佑を尻目に、葉花はご飯をたいらげた。そして箸と空の茶碗を運び、流し台に置くとテーブルにとって返してくる。
そして葉花は仁のエプロンの肩掛け紐を、軽く引っ張ってきた。仁が振り向くと、葉花は両頬に笑みを浮かべている。
「白石くん。髪とかすの手伝ってぇ」
仁は顔を緩ませた。これもまた、日課の1つになっていることだったからだ。いつも通り、箸をとりあえず置き、立ちあがる。
「はいはい。今行くよ」
エプロンを取り、椅子の背にかける。
佑が味噌汁を吸いながら、仁さんも大変だねぇと口にするのを背に、洗面所へと向かった。
リビングから洗面所までは、そう離れてはいない。歩いて5,6歩という距離だ。
その短い道程を進みながら、仁は先ほどの佑の言葉に、心の中で答えた。
別に大変だとは思っちゃいないよ。誰かに頼られることは、すごく幸せなことなんだから。それはずっと、こうありたいと思い描いていた未来なのだから――。
佑と葉花と3人で、毎朝の食事をとれる。3人とも血は繋がっていないけれど、その雰囲気まるで家族のようで、仁はそれだけで幸せを感じていた。
そしてそんな毎日がなるべく続きますように。
昨日、あきらに願いを聞かれたが、今ならすぐにそう答えることができる。迷わずに、揺らぐことすらせずに。
そして、その願いを誰が聞き入れてくれたかは分からないが、今日もまた、朝日はいつもと同じ顔でやってきた。明日も明後日も、雨が降ったって、太陽はいつもささやかな陽光を差出し続けてくれる。
根拠も何もあったものではないが、仁はそんな毎日を強く信じていた。
足取りも軽く洗面台に到着すると、葉花は椅子に腰掛け、すでに鏡の前で歯を磨いていた。
その小さな背中に近づくと仁は、洗面台の上のほうに掛っている小物入れから、スプレーの整髪料とくしを拾い上げる。
「おまたせ。ドライヤーの準備はいいかい?」
「むん」
葉花は口の周りを泡で汚し、歯ブラシを咥えたまま、鏡の中で頷く。
仁は葉花の髪に向けて、整髪料を吹きかけた。冷たい水滴が手にかかり、同時に甘い香水のような匂いが、仁の鼻孔を刺激した。
コンセントに差し込まれたドライヤーを、葉花が肩ごしに渡してきた。それを受け取り、スイッチを入れると、唸るような音とともにドライヤーから風が飛び出す。
風を自分の手に向けて吹きかけ、調節し、それから温風を彼女の寝癖に当てた。
くしで、その滑らかな黒髪を撫でつけながら、仁はいつものことながら葉花の髪の指通りの良さに驚いていた。その綿毛の髪質は、傷むことなど知らないかのようだ。くしもまったく引っかからず、その無数の突起の隙間を、なめらかに落ちていく。
その奇麗な髪を傷つける要因を1つでも、自分が作り出すわけにはいかない。
使命感を心に抱き、仁はドライヤーを慎重に握りなおす。その手には自然、汗がにじんでいく。その腕を引き、風がうまく当たるような、遠からず近からず、といった場所を探り出す。
そしてくしを動かし、寝癖をとかしながら、仁はさりげなく小指で彼女の髪をすくった。
自分でも姑息だな、とは思うが。だがこうしていると、その柔らかな絹織物にも似た感触を持つ髪に、触れたい衝動を抑えきれなくなる。
その髪はくすぐるような感触を残して、花のような香りとともに、指の腹をすり抜けていく。
いつまでもこうしていたい、とも思うがそうもいかない。時間は刻々と迫っている。仁はドライヤーを切ると、最後にくしを使って、全体的に髪を軽く整えた。
「はい、これで完成! これで学校に行く準備が満タンだね」
仁は後ろに数歩下がると、くしと整髪料を元あった場所に戻す。鏡に目をやると、葉花は何度かうがいをした後、タオルで顔を拭いているところだった。
そして、仁の頭の上にある丸い壁時計を見上げると、途端に慌てだした。
「あぁ!時間が。白石くん、ありがとうっ。じゃあ、いってきます!」
「うん。葉花、気を付けて」
仁がそう言いかけた瞬間、葉花はよろめき、足がもつれ、勢いあまって壁に額をぶつけた。
ごん、と乾いた音が部屋中に響きわたる。その音を聞きつけたのか、唇にご飯粒をつけた佑が洗面所に駆けつけてくる。
「なんだ今の。って、やっぱりお前か!」
「葉花、大丈夫?」
その場に崩れ落ちた葉花は、額を抑え、小さな声で呻いている。だがやがて壁で体を支えながら立ち上がると、顔をあげた。涙目だった。
「うん、平気。ちょっと、くらっときちゃって……。うん、だけど全然大丈夫!」
額を撫でながら言う葉花に、佑は眉間にしわを寄せた。
「ホントか? おでこ、赤いけど。すげぇ、痛そう」
確かに葉花の額は赤みを帯び、腫れていた。よほど強く打ちつけたのだろう。
仁も心配になり、腰を曲げて、葉花の額を凝視した。
「本当に、大丈夫? 腫れてるみたいだよ?」
2人の気遣わしい視線に触れ、葉花はその空気を跳ね飛ばすように笑った。
「大丈夫大丈夫。ぶつけたぐらいで、2人とも心配性だなぁ。あ、そろそろもう、間に合わないから、行くね。改めていってきます!」
いつもの明快な調子で声をあげ、葉花は洗面所からせわしげに飛び出していった。まるでそれは嵐の後の静けさのようで、状況がうまく飲み込めずに、仁と佑は顔を合わせる。
少しして、佑は肩をすくめて嘆息した。それから唇についていたご飯を指で拭い、口に入れる。
「まぁ、いつも忙しない奴だしな。放っておいても、大丈夫だろ。仁さん、さっさと朝飯食べちゃおうよ。冷めちゃうぜ」
「あ、うん。すぐ行くよ」
佑は鼻歌を口ずさみながら、洗面所から撤退していく。仁は立ち尽くしたまま、首だけを動かし、鏡を覗き込んだ。
そこには茶色に髪を染めた色白な、パジャマ姿の男が映っている。その顔には、不安と困惑の色が滲んでいた。
何か不吉なものを感じる。それは影のように、ぴったり跡をつけてきて、いつ牙を剝こうか、虎視眈々と待っている気がする。
だが仁はすぐに、その気持ちを心の中から振り落とそうとした。そして鏡に向かって、無理やり笑顔を作る。
大丈夫だ。何もない。今日もまた、いつも通りの日々が始まっていくだけだ。
鏡の中の男に向かって言い聞かせ、仁は胸の前で軽く拳を握る。
その指先にはまだ葉花の黒髪の、たおやかな感触が残されたままだった。
『しろうま』のカウンターに立ちながら、仁は恐る恐るポットを手に取った。だがその指を通じて、何の声も聞こえてこなかったので、ホッと胸を撫で下ろす。そのままポットを傾け、マグカップに湯を注ぐ。
やはり昨日はイレギュラーな事態だったのだ、と湯気と一緒にポットの口から流れ出る、湯の曲線を眺めながら、仁は強く思いこむ。
大丈夫。コントロールはできている。
“力”はけして、自分の手を離れて這いまわっているわけではない。
暗示するように何度も頭の中で復唱し、息を吐きだすと、大分気が楽になった気がした。
エプロンの紐を絞め直し、改めて気合いを注入する。目を覚ますため、注いだお湯を一口で飲みほした。
時刻は10時少し過ぎ。『しろうま』のテーブル席は2つ埋まっていた。
1つは先ほど、頼んだグレープジュースを飲みながら、携帯電話を使っている若者である。仁よりも3つくらい年下に見える。スーツを着ているがネクタイはしておらず、頭は金色にブリーチをかけているようだ。
もう1つのテーブルに腰を下しているのは、主婦とみられる2人の女性だった。2人ともハーブティーを注文しており、それを時折口に運びながら談笑している。
この時間にしては悪くない客の入り具合だな、と仁は判断した。正直、あまり流行ってはいない部類に属する『しろうま』は、客1人の入りが結果として、売上を大きく左右することになる。
当初、義父から店を任された時に仁は、この店を大きく宣伝することも考えた。しかし、結局やめた。営業にはまったくの素人である自分が下手をやって、この店を廃業に追い込んだら元もこうもない、と考えたからだ。
それに新顧客が増えることで、常連客が居づらくなるという事態も予測できた。いくら売上が伸びたとしても、それは義父の願うことではないように感じた。
そんな理由もあって、『しろうま』は儲かるわけでもなく、しかし廃業に追い込まれることもなく。本当にぎりぎりの橋を渡りながら、月日を重ねていた。
入口のベルが鳴ったので、仁は顔をあげた。ドアをくぐってきたのは、菅谷だった。
いつもの黒ぶちメガネの向こうに見える目の周りには、細かくしわが刻んである。見るからに、あまり機嫌がよくなさそうだった。
その表情に、仁は内心緊張した。だが、営業スマイルでその動揺を無理やり体内に閉じ込める。
「いらっしゃい」
仁が挨拶すると、菅谷は目の前のカウンター席に座った。人差し指を立ててコーヒーを注文してきたのですぐに淹れ、彼の目の前に置いた。
「おう。今日も暑いな。蝉がうるさいの何の。いい加減黙れっていうんだよな。一週間の命だから、何でもしていいとでも思ってんのかね」
ハンカチで額の汗をぬぐいながら、うんざりとした口調で菅谷は吐き捨てる。仁は流しで手を軽く洗いながら、あえて笑って返した。
「それでも、コーヒーはホットなんだ?」
「おいおい、仁くん。大の男はホットを飲むもんだ。アイスコーヒーなんざ、女子供の飲み物だね。あんなもの、コーヒーとして認めたくはない」
「相変わらず、すごい主張だ。理屈合戦なら、うちの同居人にも勝てるんじゃないかなぁ」
「なに、こっちは大したことのない人間だ。これぐらい、誰でも体の中にポテンシャルとして秘めている。若い分、君の同居人のほうが確実に上だね」
彼は初めて会ったときから、自信満々に独自の主張を並べ立てる割には、自分が一番弱者だと思い込んでいる、不思議な男だった。
憮然とした口調で下手に出る、そんな菅谷の性格を仁は嫌いではない。
同居人という言葉で思い出して、そういえばと仁は昨日のプリンのお礼を言った。
焼き肉のあとに出したのだが、4個あったので当然のことながら、葉花と佑の取り合いとなった。負けん気の強い2人だ。どちらもけして譲ることはなく、結局、テレビゲームで勝敗を競うことになり、辛くも勝利した佑が2個食べていた。
そのことを話すと、菅谷は歯の隙間から空気を出すようにして笑った。
「そうか、君のところは3人だったな。うっかりしてたよ。それは悪いことをした。次からは気をつけないとな」
「いやいや、2人もなんやかんやで楽しんでたし。それに、何のいがみ合いもなしに行き渡るよりも、競う要素があったほうが、スリルがあるじゃない。菅谷さんの判断は、意外と素晴らしかったと思うよ」
仁がそう話すと、菅谷は目を丸くした。にやりと唇を歪める。
「ほう。君も、おやじさんに似てきたようだな。彼はスリルがなきゃ人生じゃない、とかいつも大口叩いてたよ。まぁ、結果的にどっかいっちゃったけどさ。有言実行だったな、今考えれば」
「まぁ、あんな人だったから。子どもながらに、いつか行くとは思ってたけどね」
遠い目になり、仁は昔のことを思い出す。そう、義父はいつも大きなことを話しながらも、それを嘘や冗談でごまかさない人だった。
自分の言ったことには責任を持てよ、とは幼いころに何度も言い聞かされことだが、義父の口から紡がれるその言葉には、妙な説得力があった。
「ま、あの人も、現役で旅なんかできて幸せだろうよ。仁くん様々じゃないか」
「はい。仁くん、すごく頑張ってます!」
おどけると、菅谷は唇を笑わせた。すると仁もなんだか可笑しくなって、噴き出した。
その様子を見て、菅谷は体を揺らしながら言った。黒々としたコーヒーを口に含む。
「その具合だと、大丈夫なようだな」
「え?」
「昨日、なんか体調悪そうだっただろ? 心配だったんだよ」
仁は笑った顔のまま固まった。菅谷はコーヒーを口に運びながら続ける。
「ま、何があったかは聞かないが。仁くんもその若さで店を任されて、大変なことはこちちも十分に承知しているつもりだ。何かあったら、相談に――どうした?」
仁の凍りついた表情を見て、菅谷はコーヒーカップを持ったまま、訝しげに眉を寄せる。
ハッとして、仁は菅谷の顔を見つめ返した。そしてカウンターの陰で、自分のジーンズをしわが寄るほどに強く掴みながら、またあの言葉を頭の中で繰り返す。
大丈夫だ。もうあんなことが起きることは、絶対にない。あってはならない。大丈夫だ。もうコントロールは完全にとれている。
仁は慌てて笑顔を作り、胸の前でガッツポーズをとった。我ながら、わざとらしいな、と思った。
「まぁ、おかげさまで。いまはぴんぴんしてるよ。もう全然大丈夫」
無意識に仁は今朝、葉花が言ったのと同じセリフを口にしていた。喋り終えてから、気づき、自分でぞっとする。
葉花もこのセリフを吐きながら、今の自分と同じ気持ちだったではないかと、ふと考えてしまったからだ。
大丈夫。自分は何ともない。今日もまた、何事もない毎日が繰り返されるはずだ。彼女はいつものように笑いながら、そんな風に悩み苦しんで、呪文のようにそんな言葉を唱え続けていたのかもしれない。
考えすぎかも分からない。だが、そう一旦思い込むと、葉花に対する不安が去来してきて、心拍数をあげた。
そして、まるでその考えを見透かしたかのように、菅谷が言った。
「まぁ、それならいいが。そういえば、君の同居人の女の子、大丈夫かい?」
今朝のことか、とも思うが菅谷にそのことを話してはいない。すると菅谷は、脇に置いた黒い革の鞄から、新聞を引っ張り出した。それは、今朝のものだった。
「昨日、高校生が行方不明になったらしいじゃないか。しかもまた、手がかりゼロらしい。仁くんも心配だろう?」
昨日、葉花の話していた事件である。その女子生徒が通っている高校はここから電車で6駅は離れていたが、同じ都内である以上、そんな些細な距離は気休めにもならないだろう。
日本は狭い。その中の一都市であるに過ぎない東京は、もっと狭い。
眼鏡の隙間から、菅谷は仁を上目づかいに覗き込む。仁は口を強く結び、頷いた。
「もちろん。こうしている間も、不安が絶えないくらい」
仁は本音を言った。すると菅谷は鼻から息を吐き出した。思ったとおり、とでも言いたそうな顔だった。
「ま、誰でも不安だろうな。独り身はこういうとき、気楽でいいよ。自分の身だけ案じればいいからな」
呟きながら、菅谷はコーヒーを傾ける。菅谷の家族構成はまったく知らなかったが、いまの発言から察するに独身であることを匂わせた。
そのとき金髪の青年が立ち上がり、こちらに向かってきた。そして無言でカウンターに、500円玉を乗せてくる。仁はにこやかにそれを受け取ると、レジからおつりを出し、青年の手に乗せた。
「ありがとうございましたー」
くるりと背中を向け、右手をスキニージーンズのポケットに突っ込んだまま、青年はドアの向こうに消える。
営業スマイルが上手くなったな、と茶化す菅谷に背を向けて、仁は男の立ったテーブル席に残された、コップを回収するため、カウンターから出た。
コップをトレイに乗せていると、テーブル席で会話に花を咲かせていた女性の1人が、仁に声をかけてきた。
「そういえば仁ちゃん。また怪物が出たっていうの、知ってる?」
「怪物、ですか?」
テレビのニュースではやってなかったと思う。少なくとも、仁は初耳だった。
そんな仁の反応を見て、もう1人の女性がどこか嬉しそうに付け加えた。
「今度は埼玉だそうよ。どうも物音がすると思って外をみたら、いたって。友達からの情報なんだけどね」
なんだ口コミか、と仁は内心がっかりした。出没するとまことしやかに囁かれる怪人に興味はなくはないが、この情報は、あまりあてにはならなそうだと感じた。
だがけして、その感情を表に出すことはせず、「へぇ、そうなんですか。お友達も恐ろしいもの見ちゃいましたね」と驚嘆した様子で返す。
女性たちから離れながら、ちらりと菅谷のほうに視線をやると、彼は何か物申したそうな顔をしていた。目を細め、仁と女性たちを見比べている。どこか落ち着かない雰囲気だ。
どうしたのか、と聞こうとしたその時、乱暴に入口のドアが開いた。けたまましい音をたてて、ベルが揺れる。
顔をしかめながらドアのほうに目を向けると、そこには先ほど出て行ったばかりの金髪の青年が立っていた。
瞬間的に仁は、青年が忘れものかなにかを取りに戻ってきたのだと思った。
この小さい店の中でも、よくある話だからだ。だが、明らかに様子がおかしい。
青年はぜえぜえと息を切らしていた。頬が赤く染まり、ここまで全速力で駆けてきたのだろうか、肩を激しく上下させている。
そして青年は、誰かを背負っていた。少し、体をかがめていることから、それが分かる。
何か嫌な予感を覚えた。仁は高まる緊張を抑え、青年に低い声で尋ねた。
「どうしたんですか?」
口の中が乾いて、喉が貼りついてしまっているのか、青年は何度か息だけを吐き出したあと、やっとのことでかすれた声を出した。
「そこで、倒れてて。聞いたら、ここのうちだって言うから。つれてきて」
すると青年はその場で、よろよろと回転した。仁に背中を見せつけるような格好になる。
青年の背中を目にして、仁は絶句した。手からコップが落ちて、床に当たり、粉々に砕け散る。店内は突然のことに静まり返り、ただその事態に無関心なクラシック音楽だけが、平然と流れ続けている。
仁は顔が冷たくなるのを感じ、次の瞬間には、青年に向かって駆け出していた。
「……葉花!」
彼の背中にしがみついていたのは、目をつむった葉花だった。
その顔は青白く、脂汗が滲み、苦しげに歪んでいた。
登場人物
天村 佑
16歳。都立高校に通う1年生。
両親が多忙のため、仁の家に預けられている。
ギターが得意な、活発で面倒見のいい男の子。
父親は大企業、「黒城グループ」の幹部。