20話:グッバイ・マイ・ベイビィ
2010年 8月3日
蝉の声が、最近大分落ち着いてきたような気がする。太陽は相変わらず天高く昇っているが、それでも徐々に陽は短くなってきており、秋の気配が迫りつつあることを予感させた。
今日はしとしとした、嫌らしい雨が朝から降り続いていた。気温もそれほど上がらないため、半袖では少し肌寒い。深呼吸をすると、雨の日独特の匂いが鼻に飛び込んでくる。森の中で吸い込む雨の匂いは、独特な感じがした。水の香りに加えて、土と葉の香りもミックスされている。
この自然界全体を表現したかのような匂いに、レイは悠と以前話した、ミックスジュース味の飴のことを思い出した。フルーツ飴をたくさん食べても、ミックスジュース味になるかは分からないけれど、雨はこんなに色々なものをたくさん吸収して、新しい匂いを作り出している。人の涙も、怒りも、恐怖も同じだとレイは思う。
たくさんのことを感じながら、人は失敗に気づき、反省し、そして様々なものを取り込みながら進化していくのだろう。その先にきっと、光は待っていてくれる。
「レイ、大丈夫か?」
少し前を歩いていたライが、心配そうな面持ちでレイを振り返っている。レイは差した傘を揺らしながら足を早め、彼女の横に並んだ。
「うん、平気。それより、急ごうよ。ディッキーが濡れたら、可哀想だし」
「あぁ、そうだな」
ライは腕に抱えた、大きな風呂敷に目を落とした。右手の人差し指には紙袋もぶら下がっている。それらの荷物で両手がふさがっているため、彼女は黄色い雨合羽を着ていた。その風貌がなんとなく小さな子供のようで、可愛らしい。
2人は森の中を一直線に貫いている、土の道を歩いていた。足元はぬかるみ、さらにところどころ水たまりが発生している。レイもライも、その水たまりに幾度ともなく足を突っ込んでしまい、靴下までびしょ濡れという有様だった。ライなどは、跳ねた水でスカートまでぐっしょりと湿らせている。
レイは左腕を包帯で吊り、片足を引きずるようにして、ライに遅れないように精一杯頑張った。頬には湿布も貼ってある。前髪を挟んだ青い髪留めが、湿布に触れて掠れた音をあげている。熱は抜けていたが、それでもけがのためか、頭がぼうっとした。
ナイフで刺し貫かれた箇所には、包帯の下に黒い布を敷いていた。これは“ダンテ”こと、たくちゃん先生からもらったもので、なんだか早く治るおまじないみたいなものらしい。はじめは胡散臭かったが、つけてみると、本当に治りが早くなっていたので、驚いた。もう肩を動かすこともできるようになっている。医者によれば、この調子なら1週間もしないで傷口が塞がるとのことだった。
ライは相変わらず、口数が少なかった。昨日レイが病室で目覚めたときから、なんだか様子がおかしい。しかし、それも無理はないなと思った。
朝起きたら父親とレイは大けがを負い、ディッキーは無残な死体と化していたのだから。ライが心に受けた衝撃は計り知れない。その気持ちを汲もうとすればするほど、なんだか罪悪感がこみ上げてきて、レイもまた押し黙るしかなかった。
ライはレイの生還を喜んでくれるばかりで、けして責めたりはしなかった。そのことはレイの心をほんの少しだけ軽くした。ライは分かっているのだ。ディッキーの死の憤りをレイにぶつけることはまったくのお門違いだということを。
だからこそ、レイは心配だった。素直に自分に怒りをぶつけてきてくれたほうが、まだ不安も拭えたかもしれない。
黙々と歩いていくライの後ろ姿は、何も語っていない。その朴訥とした様子がレイにはどことなく不気味で、なんだか恐ろしかった。あの雨合羽を着た少女は、本当に自分の妹なのだろうかと疑いたくもなってしまう。
その姿に視線を這わせているうち、レイの頭に突如として差し込んでくる疑問があった。
金髪である時点で気付け、と“ファルス”が橘看護師を揶揄していたことを思い出したのだ。その会話だけを抜き出せば、金髪であることが怪人の条件の1つであることを示しているようにも聞こえる。
レイは自分の肩にかかった、ブロンド色の髪を撫でた。そして、吸い込まれるようにライを見た。ライの髪の色もまた、レイと同じ色をしている。
ライもまた、レイと同じく過去の記憶を持っていない。両親さえ分からないと、本人は言っている。
もしかしたら、とレイは慎重に自問を重ねていく。科学者が新しい薬品を開発するため、試験官に液体を一滴ずつ落としていくのと同じように、レイもまた頭に浮かんだ事柄を、心に一粒ずつ零していく。
白衣姿の男の持っていたファイルにあった写真が、レイの頭に閃く。ライのように見えた少女の顔が、網膜に焼き付けられていく。
まさか、ライも怪人なのではないか。レイは妹の背中から目が離せなくなっていた。彼女はレイの視線に気づかないのか、留まる様子は一切見せず、朴訥と歩を進めている。泥道にはその足跡がくっきりと彫り込まれていく。
もし、万が一、ライが怪人だと仮定するならば、レイと同じ最高の怪人としてカテゴリーされてしまうのであれば。
レイは喉を鳴らした。そして天を見上げる、黒い空から降り注ぐ雨は、まるで地獄がこの世の悲劇に頭を垂らし、泣き叫んでいるかのようだった。
ライを誕生させた。つまり黒い鳥に関与した、その親は一体、誰なのだろう。そしてライのもととなったのは、誰の死体なのだろう。
傘を逃れた雨粒が、肩をしめらせる。ひんやりとした感触が背筋を伝う。
レイは頭を2、3度頭を振り、雨雫と一緒に、そのわだかまりを振り払った。いまは、それを考えるべき時ではないと思った。疑うことで、真実を曇らせてはならない。他ならぬライの言葉が、頭の中に蘇る。
無言のまま、レイとライは森の中を突き進んでいく。互いに、互いの顔を見ようとも思わなかった。その表情をもし目にしてしまったら、心のダムが決壊し、ずっと我慢し続けていた何かが溢れ出して、2人の間に架かっていた橋が崩れ落ちてしまうような気がした。
2人はそれから、少し開けた場所に出た。先にある、木と木の間には『進入禁止』と書かれた黄色いテープが貼られている。そのため、これ以上先に進むことはできなくなっていた。
これまでは鬱蒼と木々が生い茂っていたのに、そこだけはまるで焼け野原のようになっている。木は軒並み倒され、焦げた草がそこらじゅうに散乱していた。深く抉られた地面が、なんだか痛々しい。
示し合わせたわけでもなく、レイとライはその場にしゃがみこんだ。そして手頃な木の幹を見つけると、持ってきたスコップでその根元に穴を掘った。
土がぬかるんでいたため、作業は大いにはかどった。適当な深さまで掘り終えると、スコップを置き、持ってきた風呂敷を広げた。
ライの手が震えている。見ると、彼女は唇を噛むようにして、いまにも泣きだしそうだった。レイはライの上に手を重ねると、一緒に風呂敷の結び目をほどいた。そして1つ1つ、ゆっくりとその布を広げていった。
完全に風呂敷を広げると、そこに裸のディッキーが横たわっていた。
真っ青な顔をして、目を深く瞑っている。体は傷だらけで、あちこち血が滲んでいた。もちろん片耳と片足は欠損した状態のままだ。額には大きな穴が穿たれている。しかしその表情は、とても安らかだった。天寿を全うし、もうこの世に悔いはないと死の直前に悟った者の顔をしていた。
ライは変わり果てたディッキーを見て、すすり泣きを始めた。レイも一緒に泣きたくなるが、妹の手前、そうしたくなるのを寸前で堪えた。奥歯をぎゅっと噛みしめ、傘を自分の頭上から、ディッキーの上に移動させる。
「ライ、私を恨んでもいいんだよ。ディッキーは、私のせいで」
「お前を恨んで、何になるんだ。ディッキーが生き返るのかよ」
その上擦った、しかし強い語調に反論することもできず、レイはただただ頭を震わすようにして頷いた。
「ごめん、そうだね……。ライ。私、片手が使えないから。……お願い」
傘で防ぐこともできなくなり、冷たい雨が、レイの頭に容赦なく降り注ぐ。しかしそれ以上にレイの心はずぶ濡れになって、冷え切っていた。おそらくライもそうだろう。この曇り空は、まさしく、レイとライの心を隅々まで映し出したものだった。2人の心にも、黒々とした雲が立ちこめ、声をあげて泣き叫んでいる。
ライは目をごしごしと拭うと、鼻をすすりながら、大きく頷いた。そしておずおずと両手を伸ばし、ディッキーを抱えあげた。
「ディッキーは立派、だったよな? 最後までレイのことが大好きで、ずっとレイのことを大切に思っていて、それでレイを守って……」
ライはディッキーを見下ろしたまま、鼻声でレイに尋ねる。最後の方は嗚咽でかき消されてしまっていた。レイは唇の端を無理やり上げながら、体全体で首肯した。
「うん。ディッキーは、立派だったよ。感謝しても、しきれないぐらい。だから、ここで眠らせてあげよう。ここなら、誰も邪魔しにこないから」
「私は、何度でもここに来るよ」
涙をぼろぼろ零しながら、ライは宣言した。ディッキーを掴む手に、力がこもる。
「ディッキーに、寂しい思いなんてさせるかよ」
「私も……同じ気持ちだよ」
レイはディッキーの相好を見つめながら、心から決意した。
この場所にディッキーを埋めることを提案したのは、レイ自身だった。初めてアークが怪人を倒し、そしてあの女の子が倒れていた地。ある意味、ここがディッキーの生まれ故郷と呼べるのではないだろうか、ということに気づいたからだった。
ひと目に触れ、騒がしい自宅周辺よりも、レイと初めて出会ったこの場所ならば、安らかに眠れるのではないかと考えた末の行動だった。
ディッキーの遺体は、ライの手によって埋められた。その腹の上には、ボロボロになった古着とトランクスを乗せておいた。スコップで完全に土を被せると、レイとライは両手を合わせ、雨に濡れながら合掌した。
紙袋から取り出した、大量のベビーチーズとチョコレートを側に供える。一緒に、バス停の屋根の下で濡れずにいた、黄色い野花も置いた。
お供えの花を店で購入せず、現地調達することをバスの中で提案したのは、レイだった。なんだかお金と引き替えに花を入手してしまうことで、ディッキーの死に値打ちをつけてしまうような気がしたからだった。それを伝えると、弱弱しい笑みを浮かべたライに「ケチだな」と毒づかれた。
反論の余地もない指摘にレイが黙り込んでしまうと、ライは「でも」と続けた。表情には陰が差し込んでいたが、力強く、確乎たるものを抱き込んでいるような語調だった。
「でも、だからこそお前なんだよな。私がバカじゃなくなったらライじゃないし、お前がケチじゃなくなったら、レイじゃない」
その言葉を思い出しながら、レイは隣のライの顔を窺った。ライはじっとディッキーの埋葬された土に視線を注いでいる。雨が目に入るからか、しきりに瞬きをしていた。
怪人だろうが、人間だろうが。レイはレイでありさえすればいい。みんなそうだ、と何ともなさげに言っていた河人の顔が脳裏に蘇る。家族は絆。その絆のおかげで、レイは自己を保っていられる。いい言葉じゃないか、と今更ながら河人に、喝采を送りたくなった。
レイもまたライと同じ場所に、視点を着地させた。それから、ぼんやりと口を開く。
「パーティー、してあげたかったね」
「きっと、楽しかっただろうな」
ライも涙声を出す。レイは目を細めた。
「チーズ、いっぱい買ったのにね」
「チョコも、奮発したのにな」
「ディッキー、喜んでくれるかな」
「くれるだろ。服で泣いて喜ぶほど、いい奴だったんだから」
「お友達、できるといいね」
「ミミマルのお墓も、ここに移してやるか。あいつならきっと、ディッキーの親友になってくれるだろ」
「それは、いいね。また、ミミマルも連れて来よう」
会話は続かなかった。しばらく、激しく地を打つ雨に身も心も委ねながら、2人とも無言を決め込んでいた。
「私、絶対に許さない」
怨恨を帯びた声で、ライは言った。その目が虚空を鋭く射抜いていたため、レイはぎょっとした。哀しみに瞳は揺れ、怒りで頬は強張っている。こんなライの横顔を見るのは、これまで暮らしてきて初めてのことだった
「レイや父さんに大けがさせて、ディッキーをこんなにして、私はそんな奴を絶対に許さない」
「ライ……」
ライには怪人や黒い鳥に関することを避けて、今回のことを説明していた。つまり、レイを車の前に押し出した男が、深夜に再びレイを呼びつけてきた。男は悠を人質にとっており、レイは1人でその場に出向くことを余儀なくされていた。
そして男はレイに暴行。救出に駆けつけたディッキーは男に飛びかかるが、帰り討ちにあってしまう。その後、遅れて現れた父親と殴り合いの喧嘩になり、その結果男は逃げ去っていった。そういう話になっていた。嘘は1つも言っていない。大筋は、正しいのではないかとレイは自負していた。ただ1つ、犯人の身柄が秘密裏に確保されているという事実を除けば、であるが。
「次にもし、会ったら。私が殺してやる。この手で、ディッキーの仇を取ってやるんだ」
顔の前でぎゅっと拳を握り、ライは憎悪を露わにする。その憤怒で歪まされた妹の形相に、レイは声を失ったまま、ただ見守ることしかできなかった。
雨脚はまだ、弱まる気配を見せない。夏の空気が抜け、町も森も空も、気概を失って冷たくなっていく。
まるで死んだ世界だ、とレイは幹の根元に腹を見せて転がっている蝉を凝視しながら、ふと思った。
悠が口にしていた、壁の向こう側の世界のことを思い出す。世界の果てにそびえたつ、巨大な鏡の形をした壁の話だ。
もしその向こうに、こことは別の世界が広がっているのだとしたら、その空にもこの暗雲は広がっているのだろうか。哀しみは別世界まで連鎖し、波をたてながら広がっているのだろうか。
ならばこの悲観に暮れた空は、どこまでいけば晴れてくれるのだろう。
空は、まだ暗い。雨は、止まない。レイの心がずきずきと疼いて、その痛みが消えるのにはまだ、もう少し時間がかかりそうだった。
行きと同じようにバスを使って帰ると、レイはライと別れ、その足で病院に向かった。雨は変わらず降り続けており、町中に湿った匂いをまき散らしている。道行く人々の傘は、まるで色とりどりに咲くアジサイのようだ。それらが雨の中を、ぷかぷかと浮かぶようにして移動している。
車道と歩道を挟んで、ガードレールが設置された道を選んで歩いた。やはりまだ、車道を滑るように、こちらに向かって走ってくるトラックを見ると震えが走る。しかし以前のように身を縮めて、心底怯えるということはなくなっていた。そのうち、トラックを見ても何も感じなくなる日を願って、レイは雨の中を早足で通り抜けていく。
病院で検査を受け、ロビーに戻る途中、廊下で悠に出会った。ピンク色の寝間着姿だ。キャンディ柄なのが、なんだか子どもっぽい。隣には見慣れぬ看護師が付き添っている。レイが軽く手をあげると、悠も微笑んで手を振り返してきてくれた。
廊下中央で立ち止まると、レイは悠の右手を見た。
「これから、検査?」
「うん。レイちゃんは、もう終わったの? 大丈夫だった?」
「もともと、そんなに酷くないからね。今日からもう、自宅療養だし」
「そっかぁ。やっぱりレイちゃんは凄いね」
良かったね、と悠は頬をあげて喜ぶ。良かったよ、とレイも笑って返す。どうやら悠は、自分が拉致されたという記憶すらないようだった。ずっと睡眠薬で眠らされていたので、当然といえば当然だが。そして驚くべきことに、あの誘拐事件を病院関係者で知っている人間は1人もいないのだった。つまり世間的には、悠はあの夜、ずっと病室で眠っていたということになっているのだった。
夜の見回りをどうかいくぐったのか、それにどうして悠が病院の外に連れ去られるのを、誰にも目撃されなかったのか。腑に落ちない点はいくつかある。しかし、レイにはそこで渦巻いている陰謀やトリックを暴く手立てはなかったし、それに橘看護師がどうにか手筈を整えたことは、何となく想像できた。
おそらく、橘看護師があの夜の見回り役か何かだったのだろう。生まれたばかりで経験の乏しいレイの脳みそでは、それ以外にこれらの謎を解明する方法は思いつかなかった。
レイは悠のすぐ横に立ち、能面のような笑顔を貼りつけている女性看護師のほうを一瞥してから、悠に尋ねた。
「そういえば、あの、橘さんは?」
「橘さんなら、もう辞めましたよ」
悠が口を開こうとすると、先になぜか女性看護師が答えた。レイは軽く会釈を返してから、改めて女性看護師に顔を向けた。
「え。知りませんでした。いつ、辞めたんですか?」
「うーん。一昨日だった……かな。朝、院長先生が出勤してきたら机の上に辞表があったらしいです。あれから彼女、連絡が一切とれなくって、私たちの間ではちょっとしたミステリーになってるんですよ」
この女性看護師は、勤勉そうな顔だちに反して、かなりお喋りな性格のようだった。誉めるべき点ではないのかもしれないが、レイとしては全貌が把握できるため、都合が良かった。
「あの、もしかして。そのいなくなった前日の夜って、橘さん、夜勤に入っていたりしました?」
彼女の軽口に期待して、さらに踏み込んだ質問を投げかけてみる。女性看護師はその奇妙な問いかけに、初めは唇を撫でながら訝しんでいたが、そのうち首をかしげつつも答えてくれた。
「ううん。あの夜は、橘さんは日勤だったはずですよ」
レイの予想は見事に外れたようだった。結局、あの真夜中にどうやって悠を部屋から連れ出したのか、そのトリックは分からずじまいだ。
怪人だろうが人間だろうが、そんなの関係ない。そう言い放ってくれた橘看護師が、レイの心の支えとなってくれていることは、明らかだった。あの言葉があるからレイは立ち直ることができた。彼女には感謝しなくてはならない。そして、悠の前で謝罪させなければならない。
いま、どこで何をしているのだろう。レイは昨日から、そんなことばかり考えていた。
レイはそれから悠と二言三言会話をしてから、別れた。これから検査に向かおうとしているのに、引きとめているのも悪い。
手を振り、踵を返そうとすると、悠の目がほのかに黄色みを帯びたように見えた。野球帽の男がシーラカンスに変化する、その光景が思い浮かぶ。レイは皮膚が粟立つのを感じ、慌てて、悠の背中に向き直った。
「悠!」
「なに?」
水をかけられたように、悠はびくりと振り返った。その瞳は、黒々と艶やかに光っている。なんら変わらない、悠の瞳の色だった。勘違いか、とレイは胸をなで下ろす。
「今度、遊ぼうよ。悠のお父さんと、うちのお父さんも一緒に」
楽しそうだね、と悠は笑った。楽しそうだよ、とレイも返す。そして次に会うことを約束し、2人は今度こそ廊下を逆方向に歩んでいった。
ロビーに向かうと、席はいっぱいに埋まっていた。雨でも病気はあるし、けがもする。平日のためか、割合としては老人が多かった。背を丸めながら、よちよちと診察室に足を運んでいくその様を、レイは今日だけでも4、5回は目にしていた。
そしてレイは、天井から吊り下がったテレビの真下に位置する席に、黒城の背中を発見した。席に座っている人々の間を縫うようにして、父親に近づく。
「お父さん」
「……レイか」
黒城が振り返る。彼は新聞を読んでいた。開かれているページの隅っこにある、小さな記事を見つけると、そこに書かれていた文字をレイは思わず読み上げていた。
「児童虐待」
娘が突如口にした、あまり明るくはない言葉に、黒城は面食らったに違いない。眉を上げ、それからレイが視線の先に、新聞の記事を捉えていることに気付くと、「あぁ」と得心のいった声をあげた。
「多いらしいな、最近に限ったことではないがね。まったく皮肉なことだ。血の通っている親子よりも、血の通っていない私たちのほうが、よほど愛情に満ちているとはな」
そうだね、と返しながら、レイは頭に女の子の太股にあった無数の傷跡を浮かべている。彼女の生活に、安息の場はあったのだろうか。死ぬことで初めて、その場を見つけたとしたならば、それはあまりにも悲しすぎないだろうか。
そりゃ地獄も涙を流すよね、とレイは胸の奥で自己完結させる。それから黒城を見た。父親のほうも、じっと食い入るようにしてレイを見上げていた。
「お父さん」
「なんだ」
「ジュース、買ってくれない?」
レイの予想外の懇願に当惑したのか、黒城はわずかに目を細めた。しかし、やがてため息をつくと、その手をスーツのポケットに突っ込んだ。
「いいだろう。退院祝いだ。好きなだけ、買ってやる」
「ありがとう。そういえば、二条裕美、行方不明なんだね」
レイの目が、今度はテレビ画面に釘付けになる。天井から吊り下がっている、小さなテレビだ。「やっぱり」とレイが足すと、黒城もまたテレビを見上げた。
「あぁ。私もいま、観ていたところだ」
テレビでは『政治コラムニスト。二条裕美、失踪か』とテロップが乗り、神経質そうな顔立ちの男が記者のインタビューに答えている。どうやら彼は、二条の記事を載せていた雑誌の編集長のようだった。
インタビューには、二条の知り合いという名目で多くの女性が登場していた。顔にモザイクがかけられ、音声が変えられている人もいれば、あけすけな素顔を晒している人もいた。女性たちの多くは、二条の行方不明という事実に直面すると、途端に当惑し、嘆き悲しんでいる様子だった。中には、喋りながら本当に泣きだしてしまう人もいるぐらいだった。
お気楽なものだな、とレイは冷徹な視線で女性たちを眺める。こうしてカメラの前で、二条のために涙を流している彼女らもまた、さらわれ、嬲り殺され、あげくに死体を怪人に再利用される対象に入っていたかもしれないというのに。
「世間には、波紋が広がっているらしいな。連続女性失踪事件よりも、物書き1人が消えたということのほうが、どうやら重大事件らしい」
「有名人は、大変だね」
皮肉る黒城に、レイも同調する。黒城はそれから、床に唾を吐き捨てるようにして言った。
「あぁ、大変だ。奴の居場所をとうに知った身からすれば。まったく、滑稽で観ていられんな。それにこの男がもてはやされるのは見ていて、気持ちよくはない」
画面の端に小さな写真として映っている、メガネをかけた端正な顔立ちの男を見ながら、苦々しげに黒城は頬を引き攣らせる。レイは、小さく頷いた。その写真の男が、話題の二条裕美であることは、ニュースに疎いレイでも知っていた。
「うん。そうだね。でも、お父さん、よく生き残ってこられたね。あんな凄いことになってたのに」
「ふん。当然だ、お前を傷つけた奴をこの手にかけられなかったのは残念だが……。まぁ、拘束されている以上、奴の生殺与奪は、私の手に委ねられているのも同然。しばらく、猶予を与えてやるのも、またいい」
レイは削り取られた大地と、その頭上だけに立ちこめた真っ黒な雲を思い出し、身震いした。自然の摂理が頭を垂らし、天が跪く。死屍累々、とまではいかないが、阿鼻叫喚な光景であることに間違いはなかった。
命のかけらや、魂の根っこでさえもことごとく吹き飛ばされたその情景の中で、どろどろに装甲の溶けた“ファルス”は倒れていた。
どうやらシーラカンスが盾になったおかげで、ファルスはなんとか原形を保つことができたようだった。敵ながらも、その一方的な、しかし自分などよりももっと強い、シーラカンスがみせた親への愛情にレイは敬意を感じた。
シーラカンスは、その灰色の大地に影だけを残して消滅していた。影の一部はファルスの装甲にも焦げた形で刻まれている。そんな、彼の死んだ証を前に両手を合わせるダンテの姿が、レイの網膜には何よりも鮮明に焼き付けられていた。
その後、悠はこっそりと、レイは正面から病院に預けられた。その後、“ダンテ”から聞いた話によると、ファルス装着者の身柄はマスカレイダーズが保護したらしい。彼の正体は、レイの推理した通りだった。
いまだ彼は昏睡状態にあるらしいが、回復を待って、多くの情報を引き出すと言っていた。
黒城は畳んだ新聞を小脇に挟むと、はずみをつけて立ち上がった。もう片方の手でソファーの背を掴み、右向け右をする。レイが身を引くと、黒城は顔をあげ、掠れた声を発した。
「お前を残して、死ねるはずがないだろう。私は死なんぞ。お前がこの世にいてくれるかぎり、永遠に」
レイの耳元に囁くと、黒城は一歩一歩、踏みしめる様に歩いていく。その姿は威風堂々としていて、彼を中心にして空間が道を紡ぎだすかのようだった。
その背中を、レイは追いかける。こんな父親がいてくれることを、黒城レイとして、こんなに愛しいと思ったのは、おそらくこれが初めてだ。
かくして、レイと黒城は地下の休憩室に移動した。相変わらず人気がなく、今日はクーラーの音も控えめであったため、隔離されている部屋という印象が前よりもさらに色濃かった。
電灯に照らされ、人の形をしたレイの影は床に磔になっている。それが父親の影と重なって、大きな橋梁のような形に変わる。その橋の上を渡るのは、一体どんな人なのだろう。
レイは天村氏に会った時と、同じ席に腰を下ろした。
黒城は2つのコーラを、両手で持ってきた。松葉杖を突きながらなので、移動に時間がかかる。1,2分を要してようやく、向かい側に座った。以前とまるで一緒だな、とレイは心の中で苦笑いを浮かべる。この前の光景を、まるまる再生しているかのようだ。
「お父さんも、コーラでいいの?」
レイは自分のもとに、コーラを1本引き寄せた。黒城はプルタブを開ける。ぷしゅ、という軽やかな音ともに、小さな缶の口から泡がわずかに飛び出した。
「お前こそ、コーラでいいのか? 適当に購入してしまったが」
「私は、若いから」
「若いとコーラだというのか? それならば、私は一生コーラを飲み続けようと思うがね」
「そういうわけじゃ、ないけど」
レイもプルタブを開け、コーラを口に含んだ。乾いた喉に炭酸は少し痛かった。黒城の顔を見ると、彼もまた渋面を浮かべている。さすがの高慢ちきな父親でも、炭酸には勝てないか。そう考えると、なんだかおかしかった。
頬をわずかに膨らませ、笑いに耐えていることを感づかれたのか、黒城は咳払いをした。そしてコーラをテーブルに置くと、険しい顔でレイを睨んだ。
「そういえば、レイ。お前を叱らなくてはならないようだ」
「え、なに?」
「お前も分かっているだろう。私の言いたいことは、ただ1つ……私の下着を盗むのを、止めてもらおうか」
突然、しかも大声で言われ、レイは思わずコーラを父親の顔に噴き出しそうになった。なんとかそれを堪えると、今度は逆流したコーラが気管に侵入し、思い切りむせ返った。
顔を真っ赤にして激しく咳きこむレイを、父親は恬淡とした調子で見つめている。相も変わらず強固な顔立ちだ。しかしそれでなくては、レイの父親ではない。
「お父さん、気づいてたんだ」
咳が収まるのを待ってから、レイは訊いた。すると黒城は眉を逆ハの字に動かした。
「気づかないことがあるものか。私は世界大統領になるべき男。世界を見渡す目が、身の周りで起きている異変を察知せぬはずがないわ」
「ごめん、なさい。ちょっと、お供えにしたくって」
「私の下着を供えてどうしようというのだ。しかも、熊や亀の似顔絵など描いて、お前の考えていることが何1つとして、分からない」
それはお父さんだけには言われたくなかったよ、と言いかけるのを、胸の奥に留めさせ、代わりに慌てて言い訳を繕った。
「し、喋るくまさんパンツでも作ろうと思って……。お父さんの観てたアニメでもあったじゃない、そういう服についた動物が喋りだすの」
「あれは蛙だ。しかし、なるほど。下着に動物の絵を描けば、その動物が喋りだすのではというその発想……私は、嫌いではないな」
黒城は冷やかに言う。あきらかに得心していない顔だ。レイはぎこちなく笑った。
「でしょ? 私だって、そういう途方もないことを、日ごろから考えているんだよ」
黒城が話していることは、妄言でもなければ勘違いでもなく、すべて真実だった。レイは午前中、一旦家に帰った際、隙を見てトランクスを盗み出し、そのお尻の部分にマジックで熊や亀の絵を描き続けていたのだ。隠れて作業をしていたつもりだったが、千里眼をもつ父親にはしっかり見透かされていたらしい。
レイを庇って命を散らしていったのは、ディッキーだけではない。熊さんたちや、カメキチもまたレイのための全力を尽くし、そして彼女を守って死んでいった。
彼らの高潔な魂もまた、讃えてやらねばならない。考えた末、レイは黒城のトランクスに絵を描いて、ディッキーの側に埋めてやることにした。そうすれば、ディッキーも寂しくない。そしてカメキチたちも、空の果てで楽しくやっていけるはずだ。
突飛な考えだとは自分でも思ったが、他にいい案も浮かばなかったので、それを実行することに決めた。明日あたり、それらを埋めにいこうと考えている。もちろん、ライも一緒にだ。
しかしそんなことを説明するわけにもいかず、苦しい言い訳もきかず、仕方なしに黙っていると、黒城はまたコーラを口に運び、「まぁ、いい」と呟いた。
「とにかく、無事で何よりだ。まぁ、そう言いながらも、私の娘だからまったく心配はしていなかったがな。こうして死なずにいられることこそが、私の血を引く所以だな」
「うん。ありがと、お父さん。そういえば」
「どうした? 言いたいことがあるなら、存分に口にするがいい」
「うん。あのさ……あの人は、もう出てこないよね」
あの人、というのはファルス装着者のことだ。黒城はレイの声から滲み出ている嫌悪感から、それを察したようだった。黒城は指先でテーブルを叩きながら、レイの顔から自動販売機に視線を転じた。
「私の部下を信用するがいい。おそらく、奴はゴンザレスと私の手によって死ぬよりもひどい目にあうことになるだろう。万が一、この先出所したとしても、お前を襲う気にならないくらい、徹底的にな。だから、もう安心していいぞ。お前を傷つけるものは、なにもない」
「でも、まだいるんだよ。男の人が」
“ファルス”は男の苗字らしきものを口にしていた覚えはあったが、レイはまったく記憶していなかった。あの窮地だったから、ということもある。思い返してみると、本当にあの夜は長かった。
男に関しての情報は、怪人を生み出していた首謀者だということだけだった。それ以外に得たことは、レイの中にはない。もしかしたらあの夜を隅々まで照らし出すことを、無意識のうちに避けているのかもしれなかった。
橘看護師のことは、誰にも口外していなかった。最後に別れたときの、あの悲しげな表情がレイの記憶にこびりついているからだ。彼女はレイの敵ではないのではないかと、実はいまでも思っている。あの男に、ただ脅されているだけではないのかと。
話したのは、あの白衣を着た男のことだけだ。レイが説明すると、黒城はなんだか自信ありげに胸を反らした。
「お前が示してくれた小屋を探したが、すでにもぬけの殻だった。まぁ、マスカレイダーズの諸君が必死に捜索をしてくれているがね。彼らはああ見えて優秀だ。すぐに悪は駆逐されることだろう」
「う、うん。それならいいけど……」
俯くレイの頭に、温もりが乗る。上目づかいを使って見ると、黒城のがっちりとした腕が伸びていた。その先にある大きな掌は、レイの頭をゆっくりと撫でている。レイはそのくすぐられるような感覚に身を預け、目を瞑った。
「大丈夫だ。お前は強い。あの時の用に、自分1人でいかなる困難も乗り越えられると、私は信じている。だから恐れも戸惑いも、すべてこの私に預けるがいい。お前が心配することなど、何1つとしてない」
どきり、と胸が高鳴る。顔がカッと熱くなる。レイはそのもやもやとした気持ちを隠すため、早口で質問を投げた。
「ありがとう、お父さん。そういえば、なんであそこに来れたの? あんな山奥だったのに」
最大の疑問を、吐き出す。なぜ、ダンテと黒城はあの場に参上することができたのか。レイは一切、証拠となりそうなものを残していなかったはずだ。それなのに、あんな山の中に黒城は助けに来てくれた。一体、なにがあったのだろう。
黒城はレイの頭から手を離すと、ふむ、と言ってちょび髭を撫でた。それから視線を天井に向け、自動販売機に転がし、テーブルに投じたあとで、レイを見据えた。
「私の千里眼……といいたいところだが、真実を話してやろう。真夜中に、電話があったのだよ」
「電話?」
レイは眉間に皺を寄せた。黒城はコーラを飲みながら、小さく顎を引く。
「少年のような声だった。早口で場所だけを伝えてきた。始めはいたずらだと思ったが、レイという言葉が出たのが気になってな。それから部屋を覗いてみて、レイがいなかったから、私はあの男を呼び出して山に向かったのだ」
ディッキーだ、とレイは席から身を乗り出し、叫んでしまいそうになった。ログハウスの外に落ちていた携帯電話。そして、車内をあさっていたというファルスからの証言。間違いなく、黒城に電話をしたのはディッキーだ。
電話番号はふすまにしまってあった、段ボール箱に書かれていたものを覚えたのだ。はじめ、押し入れに閉じ込めた時、ディッキーは瞬間的にその9桁を記憶した。そしてそのことを思い出し、窓ガラスを割って車内からファルスの携帯電話を奪取。それを使って電話をかけ、黒城に救いを求めたのだ。
そのせいでディッキーはファルスに見つかってしまい、結果、無残にも殺されてしまった。隠れてさえいれば、逃げてさえいれば、そもそもレイのもとに駆けつけないでいれば、ディッキーは命を捨てずに済んだだろうに。
レイは鼻をすすった。そしてディッキーの知恵と勇敢さに賞賛を送りながら、もう悲しむのは止めようと思った。ディッキーがくれたこの命を、しっかりと噛みしめるようにして、生きよう。
そしてそのためには、もう1つ、はっきりとさせておかなければならないことがある。
「お父さん」
改まって、レイは姿勢を正し、黒城と向き合った。その緊張が伝わったのか、黒城もわずかに表情を強張らせた。
「なんだ」
寸前まで、レイはどう切り出そうか悩んだ。しかしここまできて、通り道を使うのも馬鹿げている。肺に人工的な空気を送り込み、そうして昂る気持ちを抑えながら、口を開いた。
「私、自分がどうやって生まれたか分かったの。自分の正体も、あと、お父さんがやったことも。ごめんなさい、天村さんとの話、聞いちゃった」
レイの告白にも、黒城は顔色1つ変えなかった。しかしその喉仏が大きく上下したのを、レイは見逃さなかった。
「私、別にお父さんのことを責めるつもりなんてない。だけど、1つだけ質問させて」
黒城は無言のまま、こちらを見た。それを承諾の印を受け取り、レイはコーラを飲み干してから、言葉を続けた。
「私は、お父さんの、娘だよね」
「あぁ、そうだ」
淀みなく黒城は答える。その右目に光る瞳の色は、山奥に佇む湖畔の水のように清らかだ。
「お前は、私の娘だ」
たとえ怪人であっても、黒城の娘であることに違いないという事実は、レイの心を救った。ため息を零す。
「じゃあお父さんは、私を産んだことを、罪だと思ってるの?」
己が怪人だと知ったときから、レイの心に渦巻いていた懸念。それは父親がレイを重圧に感じているのではないか、ということだった。もしかして、自分は父親にとって邪魔なのではないか。そもそも、生まれてきたことが間違いなのではないか。
無意識にレイは、黒城の右腕を見つめている。そこには黒城自身が罪の証、と称した黒い鳥型の痣が刻まれている。怪人を作り出した証、と白衣姿の男は言っていた。あの男にも、そして橘看護師にも、それと同じものが刻まれていたのは記憶に新しい。
その疑念はぐるぐるとレイの心を行ったり来たりし、その度に黒城のビジョンを歪ませていた。こんな状態がずっと続いたら、いつ父親を拒絶してしまうか分からない。
それならばここで、本人から真意を聞きだした方がずっといい。自分の記憶の正体だとか、佳澄さんという女性のことだとか、黒城の罪のことだとか、自分が怪人であることなどというのは、それに比べればレイにとっては本当に些細なことだった。
これから、どうやって生きていけばいいのか。その指針だけでも、いまは欲しかった。
まるで受検結果を待つ学生のように首を垂らしながら、レイは落ち着かずに体を揺すって、父親の反応を待つ。その間、自動販売機の稼働音が、やけに大きく聞こえた。コーラの味が口の中で蒸発し、舌に溶けていく。
程なくして、黒城は咳を払った。レイがおずおずと面をあげると、黒城はスッと目を細めるようにした。どこかここにはない、過去の映像を模索しているかのような表情だ。
「未熟だった頃の私は、邪な心に敗北し、欲望のままに黒い鳥に縋ってしまった。それは、確かに罪だと思っている」
やはり、自分の生そのものが罪なのか。愕然とし、レイは呆けた。しかしその目を覚ますように力強く、テーブルを拳で叩きながら、黒城は「だが」と続けた。先ほどまで遠くを見るようだったその目は、いまやレイの顔にしっかりとその焦点が結ばれている。
「だが、矛盾をしているようだが、お前が生まれてきてくれたことを罪だと思った日はない。お前はこの私の、愛する娘だ。それを誇っていい」
お父さん。言おうとして、声が出なかった。胸が震える。頬がゆっくりと垂れ下がっていく。これが喜びだ、と気づいたのは頬に涙が伝ってからだった。
いまなら、服をプレゼントされて泣きだしたディッキーの気持ちが分かるような気がした。あまりに嬉しいと、人は泣くものなのだ。そのことを新たに発見したかのような心持だった。透き通った涙の軌跡は頬から顎を通って、テーブルに零れ落ちていく。溢れだした感情の奔流を、もはや自分自身ですら止めることはできなかった。
「私はお前を愛している。お前は佳澄ではない、お前は黒城レイだ。この私の娘だ」
真剣な顔で黒城が言う。レイは真っ赤に腫らした目で、父親の顔を見据えた。
「泣くな。お前は、世界大統領の娘となる男なんだぞ」
「……泣いてなんか、いないもん」
つよがりであることを自覚しながらも、レイは慌てて頬をごしごしと擦った。
「そういえば、なんで佐伯さんの娘さんに、私を似せたの?」
目頭を押さえながら、レイは訊いた。すると黒城は顎に手をやり、なんだか言いづらそうに答えた。
「創立記念パーティーで佳澄が、あの子を可愛がっていたからだ。理由はそれだけに過ぎない」
「だから、佳澄さんの死体を使って?」
「我ながら、愚かだったと今では思うがね。私と彼女の間には、子どもができなかった。だが、佳澄は佐伯の娘のような女の子を望んでいた。だから、彼女が死んだとき、私は咄嗟に思いついてしまったのだよ」
佐伯の娘と同じ顔をもつ怪人を、黒城は創造してしまった。しかしそのモデルとなった娘がその1年後、この世から旅立ってしまうことは夢にも思わなかっただろう。そしてその娘を殺した犯人が逆恨みをして、レイに襲いかかってくるなどということも。
「佐伯に謝罪をしたいとは何度も思ったが、私が目を覚ましたときには、すでに一家は離散していた。まったく、残念なことだ」
「でも、佳澄さんはお父さんのこと、最後まで好きだったよ。私の中で、佳澄さんがそう言ってる。コップのことも、怒ってないって」
気休みでも同情でもなく、それは本当のことだった。レイの恋心にも似た父親への思いは、そのまま佳澄さんの、黒城に対する愛の深さを物語っているのだとレイは確信していた。
それを話すと黒城は、レイをまじまじと見つめ、それから彼には珍しく、唇を緩めて笑みをこぼした。
「そうか」
顎に手をあてがい、歯を見せる。目尻には皺が寄った。
「それは、いいことだ」
「社長を辞めたのは、なんで?」
1つだけ、と言ったのに、打ち解けると次々に疑問が口を突いて出てくる。まるで涙と一緒に、遠慮や謙虚な心まで流れ出て行ってしまったかのようだ。
黒城はコーラの缶を握りつぶすと、わずかに鼻を寄せた。
「ゼロから始めようと思ってな。佳澄が死んで、お前が生まれて、だから父親として新たな道を刻もうと思い立ったのだ。それに、私は一企業の長として収まっていられるほど、小さな器は持ち合わせていないのでな。夢は、ただ1つ」
「世界、大統領?」
先まわりして答えると、黒城は目を見開いた。
「そうだ」
人差し指でレイの顔を指す。そしておどけるように、眉をあげた。
「その通りだ」
黒い鳥に出会ったのは、新宿の事件が起こる少し前だという。部下の1人が他の企業に対し、いわゆるところのスパイ行為を働いた際、その会社にあった黒い鳥を奪取してきたらしい。
「真嶋という男でな。その任務に成功したことで、いまは幹部の1人になっている。黒い鳥について、私にしばらく隠していたのは気に食わんがな」
「お父さんって、思った通り、黒いよね」
天村氏の話と併せると、結構、頻繁にスパイ活動を部下に命じていたらしい。しかし子どもの社会しかしらないレイに、父親を糾弾する権利などかけらもないので、そこはあまり追及しないでおいた。
「苗字が黒いからな」
父親が諧謔を弄するのを久々に聞いたので、レイは正直、戸惑った。「そうだね、黒城だもんね」としどろもどろに、どうにか答える。
黒城は「それで」とため息をつくように言い、目を細めると、憎々しげに片頬を引き攣らせた。
「黒い鳥……あれが何なのか、実はこの私でさえも、いまだに分からない。ただ、声が聞こえてきてな。導かれてしまった。それが私の生涯、唯一の恥だ」
黒城はしょげるが、レイに黒城を責める気持ちはまったくなかった。逆に尊敬したいくらいだった。愛する人が死んだのに、冷静沈着で心1つ動かさない人間よりは、そのほうがずっといいではないか。人は罪に罪を、積み木のように重ねて、バランスをとりながら、光に手を伸ばそうとする、そんなどうしようもない生き物なのだから。
「怪人が黒い鳥で作られてることは、知ってた?」
「当然だ」
黒城は目を閉じ、首を振って、肯定を表現した。
「しかし、誰にも話さなかった。知れば、お前が苛められると思ったからな」
レイが自分のせいで悠が傷つけられるのを恐れたように、黒城もまた自分の失言でレイが不幸になるのを懸念していたのだ。
「お父さんは、すごいね」
悠の口癖を、黒城に向けてみる。すると黒城は鼻の下の髭を触りながら、真顔で言った。
「あぁ、私はお前の父親だからな」
その時、階段を下りてくる足音が聞こえたので、レイはそちらのほうに注意を運んだ。黒城も急に真顔になり、ゆっくりと振り返る。
トントントン。一定の間隔で、4つの足音が刻まれてくる。どうやらこの部屋への来訪者は2人いるようだった。
ノブが回転し、タイムラグを置くことなく、すぐさまそのドアが開け放たれる。
室内に姿を見せたのは、紙袋を片手に提げた天村氏だった。レイは「あっ」と声をあげて今度こそ、椅子から立ちあがってしまった。
「し、社長!」
「あぁ」
天村氏が素っ頓狂な声をあげる。しかし、対する黒城は落ち着き払ったもので、軽く手をあげることで挨拶をすると、すぐ前に向き直ってしまった。
「社長に、またこんなところで会うとは……驚きです」
天村氏は、黒城の横に立つ。黒城は顎に手をやり、なにか考えるようにすると、彼のほうにちらりと目をやった。
「久々に会った娘はどうだ? 元気だったか?」
「はい、お陰様で。またこれから今日もお見舞いに向かうところです。そちらは、いかがですか? どうやら、また、怪我が増えているように見受けられますが……」
答えてやれ、とばかりに黒城がこちらを一瞥してきたので、レイは肩をすくめた。天村氏を見上げて、ほほ笑む。今度は肩を回すことは、さすがにしなかった。
「はい、色々ありましたけど。私は元気です。大丈夫です」
「あ、あぁ。それなら良かった。悠の友達のことは、私も心配だからね」
不審げに鼻を寄せたものの、天村氏はそれ以上追及してくることはなかった。すると黒城が足を組み直しながら、口を挟んできた。
「そういうことならば、心配ご無用だ。前にも言っただろう。私の娘に、心配をかけることなど、何1つないとな。この子は、神に守られている。お前は自分の娘の安泰だけを願っていたまえ」
「は、はぁ。申し訳ございません。確かに、社長の言うとおりですね……。もっと接しなくちゃダメだなぁ。このままじゃ、娘にも見捨てられてしまいますね」
天村氏は、弱弱しく苦笑を浮かべる。黒城は弱気な元部下を前に、1つ鼻を鳴らすと、力強く拳でテーブルを殴りつけた。
物々しい音が響き渡り、天村氏は身を縮めた。レイもまた飛びあがりそうになった。
「甘えるな」
蟻の密集している真ん中に石を投じるような力強さで、黒城はぽつりと言った。天村氏は上目づかいで、黒城を見やる。
「お前も、立派な家族を築け。今からでも遅くはない。私の部下であるお前なら、きっとできる。いいか、けして甘えるな。そのために、力を尽くしたまえ。家族の絆の強固さは、家の長である、お前の手に委ねられている。それをけして忘れてはならん!」
腕を組み、憮然とした態度で黒城が語りかける。天村氏は放心したような顔で「社長」と呟き、それから笑顔になって「ありがとうございます」と頭を下げた。
レイは椅子に深く腰掛けると、小さくため息をついた。黒城の声には張りがあり、荘厳なオーケストラのように腹に響いてくれるため、耳に心地がよかった。
邪魔をしてはいけない。もしかしたら、ここでの父親の言葉が、悠や天村氏の環境を変える手段になり得るかもしれない。天村氏に壮言を吹聴し続ける父親を尻目に、居場所を求めて、部外者であるレイは部屋の間取りを見渡した。
そこでようやく、ドア付近の壁に寄りかかっている少年の姿に気が付いた。彼が天村氏と共に階段を下りてきた、もう1つの足音の正体に違いないと思った。
白い半袖のワイシャツに、黒いズボンという姿だ。おそらく学校の制服なのだろう。年齢はレイと同じくらいか、少し上のように見える。茶色い髪にはパーマがかけられ、首からは重たそうなヘッドホンをぶら下げていた。
黒城と天村氏のやりとりをみて、なんだか疲れたような表情を浮かべている。こめかみの辺りを掻きながら、なんだか眠たそうだ。瞼が半分くらいまで落ちている。
レイの視線に、少年も気づいたようだった。レイを見つけると、彼は首だけを動かすようにして軽く会釈をしてくれた。レイも釣られて、つい小さく頭を下げてしまう。
なんだかその少年の表情に、レイは見覚えを感じていた。どこかで見たような覚えがあったのだ。数秒だけ考え、記憶を発掘し始めると、数メートルも掘り進まないうちに、その正体をすぐに思い出した。レイは目を剥き、その少年の精悍そうな顔立ちを凝視する。まさか、と思った。
少年はため息をつくと、壁から背中を引き剥がし、ポケットに手を突っこんだまま歩を進めた。彼はレイと黒城の顔をちらりと窺うと、余所余所しげに天村氏の肩を叩いた。
「親父。俺、先に悠のところ行ってるよ。なんか、時間かかりそうだしさ」
首を捻った天村氏は、わずかに目を見開いた。まるで少年がいたことを、ついさっきまで忘れていたと言わんばかりの表情だった。
天村氏は夢から覚めたような顔をして、取り乱した。父親の姿に、少年は呆れ顔を作る。
「あ、あぁちょっと待ってくれ。そうだ、社長。紹介しますよ」
天村氏が少年の肩を叩く。少年は眉間に皺を刻んでから、黒城を前にした。黒城は相変わらずしかめっ面を崩そうとせず、半ば少年に睨みを利かすようにしている。
レイは、心臓が高鳴るのを感じていた。
なぜ、これほどまでに緊張しているのか、自分でも分からなかった。そして天村氏は、少年の背中を押しながら、彼のことを紹介した。
「私の息子で、上の子の、佑です。今年、高校1年ですね」
「あ、よろしくお願いします」
父親に促されるままに、少年は黒城に向かって頭を下げた。黒城は不遜な態度で、「あぁ」とだけ返す。それからこちらに目をやると、掌でレイを示してきた。突然の指名に、レイの心臓は、ひときわ大きくとび跳ねる。口から飛び出してしまいそうだった。
「うちの娘のレイだ。そちらよりも、1つ年下だな。この機会に、その名を心に刻んでおくがいいぞ。近い将来、世界を統べる王女となる娘だからな」
「よろしく、お願いします」
便宜に則って、形式的な挨拶を返す。それから顔をあげて、改めて少年の顔を見た。すると少年の方もまた、何かを推し量るかのようにレイをじっと見つめている。
やはりか、とレイは予想が見事的中したことに手ごたえを感じていた。この少年こそが悠の兄に他ならない。悠を命がけで救いだし、ファルスを力と気迫で追い返した人。
たすく、だから、たぁくん。なるほど、とまた心の中で頷いてしまう。伴って、佑という名前を以前悠に教えてもらったことも、思い出した。それから自分の記憶力の脆さに、呆れた。
レイも佑も、悠を毎日のように見舞っていたにも関わらず、これまで不思議なことに一度も出会うことはなかった。悠はそれを、「巡りあわせ」と評した。レイもそれで納得してしまっていた。
ところがどうだろう。いまこの場で、2人はごく自然な形で顔を突き合わせてしまった。これもまた、巡りあわせなのだろうか。それとも、何かが瓦解を始めた証なのだろうか。
歯車が、音を立ててずれ込んでいく。その軋轢音を、レイは耳の奥で聞いていた。どうしようもなく、手の施しようもなく、手をかける必要もなく、その歯車は人の力とは無関係の部分で新たな回転を始めていく。
「あの」
佑が、気恥かしげにレイから目を逸らす。それからレイの吊られた左腕に、視線を動かした。
「けが、大丈夫? 痛そうだけど」
なんだか、ぎこちない喋り方だ。油の枯れた自転車のチェーンのような、歯切れの悪さがある。レイはそれが自分に向けられた言葉であることを、頭の中で何度も確認してから、口を開いた。
「はい、なんとか、大丈夫です」
腕を小さく振ってみせるレイの言葉も、強張りが生じていた。処理の追いついていないテレビゲームのような、何とも言えぬ歯がゆさが含まれている。
それでも、しっかりと伝わったらしく、佑はわずかに微笑んだ。その悠に似た表情に引き込まれるようにして、レイもまた唇の端を上げる。
「それなら、良かった、けど」
「ありがとう、ございます。あの名前は、悠から聞いてます」
「あぁ……」
悠の名前を出すと、彼は頬を緩めた。目を細くして、レイを見る。
「悠の友達? これからも、仲良くしてあげてくれよ。あいつずっと、病院にいるから。心配だったんだよ、そういうの」
「はい。望むところです。私も、悠のことが大好きですから」
「俺も、そうだよ。なんか気が合いそうで良かった」
「私も、そう思ってました」
ぎっちら、こっちら。
音をたてて、何事もなかったかのように、ずれた歯車同士が運動を再開する。その歯車がどんな道を作り出していくのか、それは誰にも知り得ない。行く先に待つのは、暗闇か、それとも溢れんばかりの白い光の世界か。
しかしレイには、たとえそこに待つのが落とし穴だらけの荒れた道のりだとしても、気後れすることなく胸を張って突き進んでいけるという自信があった。この胸に光が灯されている限り、恐怖に挫けても、残酷な現実にぶち当たっても、怒りや悲しみに負けそうになっても、何度でも立ち上がっていける。この数日間でレイが学んだのは、そういう生き方だった。
レイと佑はしばらく見つめ合い、そうやって新たな出会いが訪れた瞬間に、その身を任せていた。
ありがとう、ごめんなさい。薄い光の中から、小さな声が、聞こえる。
3章 完
簡単なあとがき
読んでくださった皆様、ありがとうございました。とりあえずこれで、第1幕は完結です。
とりあえず物語としてはひと段落ついたものの、謎を多く残しており……。しかしまだ長くなりそうなので、解決は第2幕でさせていただこうと思っております。
それではまた2幕で出会えることを、楽しみにしています。長い間お付き合いいただき、ありがとうございました!