18話:哀悼のくまさん行進曲
きりきりと悲鳴をあげる足の傷口と、頭の内側から針で刺されているかのような頭痛に耐えながら、アパートの階段を駆け降りる。眠った町に綿々と横たわる歩道をがむしゃらに走って、ようやくレイは病院にたどり着いた。
足に巻いた包帯には血が滲んでいた。汗が滝のように額から流れ、鼻や頬を伝っていく。
両膝に手を置いて腰を折り曲げ、息を整える。限界値を優に振り切った仕事量に、肺も心臓も破裂してしまいそうだ。視界はわずかに白く濁っている。耳鳴りもした。また発熱が始まったらしい。鏡を覗きこめば、そこに映ったレイの顔は真っ赤に染まっているはずだ。
青いヘアピンを付け忘れたことに気付くが、道を引き返す気にもならない。
月のない濁った空色だ。アスファルトはところどころ滲んだ色をしており、寝ている間に一雨通り過ぎたことが窺えた。空気もひどく湿気っぽい。この暑さは、体調の芳しくない体に響いた。まるで鉛のコートを着せられているかのようだ。
大分呼吸が落ち着いてきたところで顔をあげると、そこに橘看護師はいた。病院の玄関へと続く階段の脇にある、植え込みの前に腰を下ろしている。昨日の昼間、ディッキーが隠れていたあの場所だ。
いつものナース服ではなく、黒いTシャツとジーンズに、灰色のハイヒールという出で立ちの橘看護師は、薄く笑っていた。その笑みが何を表わしているのか、闇に紛れて読み取ることはできない。
「夜分遅くにこんばんは。本当に1人で来たんだね。おりこうさんだよ、あんたは」
「悠は……悠は、無事なんですか?」
開口一番、まずは親友の安否を確認する。橘看護師は少し目を見開くと、また唇の両端を緩く上げた。
「無事だよ。まだ、と後につくけどね。いまは別の場所にいる。来な。あんたをそこに、連れて行ってやるよ」
トンと、音をたててつま先から着地すると、橘看護師はレイの是非も聞かず、すたすたと駐車場の方に歩きだして行ってしまった。レイは早足でその背中を追いかける。
橘看護師は背筋がとても良かった。
背も高いため、こうして私服で歩いている姿を目の当たりにすると、ファッションモデルに見えなくもない。そんな彼女に早歩きをされると、歩幅の小さなレイはほとんど走って追いつくしかなくなっていた。ハイヒールを履いているのに、なぜこんな速度が出せるのか、不思議でかなわない。
足の傷が痛んで、幾度となく立ち止まってしまいそうになりながらも、レイは彼女を見失わないように自分を奮い立たせて、進む。
「橘さんは、ずっと私たちを騙してたんですか?」
荒い呼吸を吐きだしながら、その吐息になんとか疑問を乗せる。橘看護師は、ちらりとレイを肩越しに振り返って、それでもまったくスピードを落とさぬまま、平然と答えた。
「別に騙したつもりはないよ。いつ、私があんたと友達になったんだい?」
「私とは違っても、悠とは仲良さそうだったじゃないですか」
レイの脳裏に、病室でじゃれあっていた橘看護師と悠の姿が思い出される。傍目から見れば姉と年の離れた妹のようだった2人の、仲睦まじい姿が虚像であったとは、どうしても思えなかった。
「裏切ったんですか」
さらに言葉を重ねる。しかし悠の名前を出しても尚、橘看護師は顔色1つ変えなかった。早足を緩める素振りさえもない。レイの方を見ず、前を向いたまま、口を開く。
「私は看護師だからね。患者と良好な関係を持つのは、当り前のことなのさ。それで騙した、騙されたと言われちゃどうしようもないね。あの子との関係は、あくまで仕事上の付き合いなの。分かった?」
「嘘」
「嘘じゃないよ。あんた静かな子だと思ったら、案外詮索家だねぇ。ちょっと意外だよ。割としゃべるんだね」
「普段は、猫被ってるんです」
「なら、私もそうさ。あんたが会っていた私は、看護師としての私。プライベートでは、まったく違う顔をしてたんだよ。それが分かったら、もうそんなことで騒がないこと。他人のことなんて、全然わかったもんじゃないんだから。そんなこと、口に出して言うだけ無駄ってもんよ」
一息にそう言い募ってから、橘看護師の目が細まるのを、レイは見逃さなかった。彼女は嘘をついている。その正体は曖昧としているが、袋小路に出くわしたかのような顔を、彼女はしていた。瞳がわずかに揺らぎ、頬に強張りがある。
「こんなことして、橘さんは平気なんですか?」
ひときわ大きな声をあげると、橘看護師はわずかに歩を緩めた。説得しようと声量を上げたのではなく、そうしなければ自分の息で声がかき消されてしまいそうだったからだ。
橘看護師が返事をよこさないので、レイは息を小さく吸い込み、先ほどと同じくらいの声量で続けた。
「悠が病室にいないってことは、橘さんの責任問題とかになっちゃうんじゃないですか? もしかしたら辞めなきゃいけなくなるかもしれないし……。そんなんで、本当にいいんですか?」
レイの言葉が、どれほど彼女の心に波紋を生じさせたのかは定かでないが、影響を与えたのは確かのようだった。その手ごたえを感じた。ハイヒールの踵によって、アスファルトの叩かれる間隔が次第に長くなっていく。
橘看護師は歩くペースを徐々に落としていき、そして病院関係者用の駐車場に差し掛かったところで、ついに足を止めた。
それから無言のまま、レイに体を向ける。
その表情は相変わらず、冷淡としていた。鋭利なつららのような雰囲気がある。人気のない駐車場で対面すると、2人の間に、狙い済ましたかのような、夜風が吹き抜けた。
「私はとっくの昔に、覚悟くらいできてるよ」
橘看護師の短い黒髪と、レイの長い金髪を揺らしながら、生ぬるい風が通り過ぎていく。おもむろに橘看護師は左手の甲を、レイに向けてかざすようにした。そこには大きな四角い絆創膏が貼られている
「覚悟ってのが、どんなものなのか? あんた知ってるのかい?」
レイは首を振った。すると橘看護師は、唇をひん曲げて笑った。高いところから、弱者を見下ろすかのような、優越感に溢れた笑みだった。
「ここまできたら見せてやるよ。他の誰にも、彼氏にさえ見せたことないんだから。感謝しな」
その絆創膏の端に指をひっかけ、そして彼女はそれを一息に、引き剥がした。
びりり、と小さな音がして、絆創膏は橘看護師の右人差し指にぶら下がる。遮るものを失って、空気に晒されたその素肌に、レイは瞠目した。声も出せず、ただ彼女の手の甲に意識を丸ごと奪われてしまう。
「見なよ。醜いだろ? これが私に課せられた、罪人の刻印さ」
自らを乏しめるように、橘看護師が空に向かって叫ぶ。その声は曇天に反射して、周囲一帯に広がっていく。
彼女の手の甲には、痣があった。
悠然と翼を広げる、鳥の形をした黒い痣。それはサイズさえ違えど、黒城の腕にあったのと全く同型のものだった。
「それ。その痣、もしかして……」
レイがようやく声を発しようとするのと同時に、背後から声が飛んできた。振り向くと、5メートルほど離れた位置に、“ファルス”が立っていた。彼は車体に寄りかかり、気だるそうな様子で、携帯電話のストラップを掴み、振り回している。
その姿を認めた瞬間、レイは全身の皮膚が粟立つのを感じた。夢の中の出来事が、頭に再生される。自分の叫び声が鼓膜に貼り付いて、離れない。
「遅いですよ、橘さん。彼が待ちくたびれている。あの人が時間にうるさいことぐらい、今までの付き合いから承知のはずですよね?」
彼の背後では、灰色のセダン車がエンジン音をあげながら停車していた。目の前でエンジンの音を聞くと、レイは少し気が遠くなるようだった。頭から血の気がさっと引く。
橘看護師は、痣のある手をジーンズのポケットに突っ込むと、表情をわずかに暗くした。それから“ファルス”に聞かせるかのように、わざとらしく大きな舌打ちをした。
「分かってるよ、そんなこと。ぐだぐだうるさい男は気に入らないね。さぁ、レイちゃん。行くよ」
橘看護師に背を押され、レイはほぼ強制的にファルスとの距離を縮めさせられていく。
心も体も断固拒否し、悲鳴をあげているのにも関わらず、歩みを止めることは許されない。知らず知らずのうちに、レイは歯の根が合わなくなっている。
近づいていくことで分かったのだが、彼の両腰には、それぞれ1本ずつ鞭が装備されていた。右は先端が尖っていて、左はレイが体に受けたのと同じタイプのものだ。双方とも、環状に巻かれて腰のでっぱりに引っ掛けてある。左腰には、加えてあの四角い缶ケースも付けてあった。せっかくおじさんが食べたのに、となんとなくレイは無念な気持ちを抱く。
ファルスがこの場にいることに、レイは別段意外性を感じてはいなかった。悠がさらわれたと聞かされた時点で、この男が関与しているのではないかという可能性を考えていたからだ。
そして、レイの予想は見事に的中した。“ファルス”はレイの顔を舐め回すように眺めると、心底憎らしげに舌打ちをした。それから、右手を差し出してくる。
「携帯電話をこちらに。連絡を取られると、やっかいですからね。私は同じ過ちを、二度と繰り返さない。そのためにも、この作戦に万全を尽くしたいのです」
レイは戸惑いながらも、ポケットから携帯電話を取り出し、“ファルス”の掌に乗せた。すると“ファルス”は即座に掌を閉じ、それを粉々に握りつぶしてしまった。
日常の象徴が砕かれてしまったかのようで、レイは心に風穴を開けられたかのような気分に陥る。喉のミミズばれが、嘆くように痒みを生じさせ始める。
「橘さん。ここにくるまでに、尾行者はいませんでしたか? 人でも車でも、目撃者がいることはあまり芳しくはない」
つい数秒前まで、携帯電話だった機械片を足元に零しながら“ファルス”はレイの背後に質問する。橘看護師はレイの横に並ぶと、自信なさげに眉を寄せた。
「あぁ、大丈夫だよ。私の見た限りでは、だけどさ。コートの男も、この子の父親も、いないみたいよ」
「そうですか。まぁ、邪魔者が入ったら入ったで、こちらには切り札があります。もし、この場であなたが騒いでも、または、こないだのように、あの黒コートの男が来るという事態に直面したとしても」
“ファルス”はレイの頭に手を乗せた。そしてそのままむんずと力を込め、その頭を握りつぶすようにしてくる。こめかみがひどく絞めつけられ、レイはたまらず悲痛の叫びをあげた。
彼はその状態のままレイの体を持ち上げると、鼻先まで自分の顔を近づけてきた。格子状になった仮面が視界を占める。
「私が仲間に電話1つかければ、あなたのお友達に対し、いかなる無残な仕打ちも発動することができる、とだけ伝えておきましょう。そこのところを、この小さな脳みそに叩きこんでおいていただきたいですね。私たちとしても、墓穴を2つ掘るつもりはない」
ねちっこく、首筋をなぞるような声で“ファルス”が忠告する。そしてレイは持ち上げられたまま、橘看護師が開けた車の後部座席へと、乱暴に投げ込まれた。
シート上を跳ね、背中から着地する。すでに後部座席には1人乗っていた。身を起こし、座席に座りながら、その人物の顔を仰ぎ見て、レイは息を呑んだ。
それはレイをトラックの前に突き飛ばした、あの野球帽の男だった。
レイは、下から覗き込むようにして男を正面から見た。
赤い野球帽に背広姿、年齢は20代前半ほどで、髪は茶色く染まっている。
男の右頬は血管が浮き出ていた。まるで木の枝を皮膚の裏側に埋め込まれているかのようだ。瞳は黄色に濁っており、そこに生気は一滴たりとも含まれていなかった。男はレイを見るなり、軽く会釈をすると、すぐに窓の外へと視線を戻した。頬杖を突き、退屈そうだ。
「私の新型ですよ。まぁ、あなたを殺すのに失敗したという落ち度はありますがね。まず、信頼できるでしょう」
レイの後から座席に乗り込んでくるなり、“ファルス”は慢心を声にした。そしてドアを閉めながら、彼はまた鼻で笑った。
「しかしあれぐらい、今となっては些細な失敗ですけどね。さぁ、橘さん出してください。同じ場所に留まって、いいことは1つもない。早急にここから立ち去りましょう」
いつの間にか、運転座席には橘看護師が座っていた。レイはスーツの男とファルスに挟まれる形になる。まるで護送される犯人のような扱いだ。
その時レイは、低い破裂音を聞いた。後ろからだ。首をよじろうとするが、“ファルス”に肩を強く掴まれ、無理やり前に向き直された。拍子に首の筋を捻り、じんとした熱さが首筋を伝う。
「自分の状況を分かってるんですか? あなたにはもう、自由はないんですよ。周囲を窺う自由も、家族のもとに帰る自由もね」
“ファルス”はレイの鼻先に、ロープと手錠を突きつけてきた。じゃらり、と冷たい音を鳴らす拘束器具に、レイは頬を硬直させる。その怯えきった様子に“ファルス”がまた、喉の奥から吐いて捨てるような哄笑をあげた。
やがて、すべてのドアのロックがかかると、車はエンジン音をあげて走り出した。レイは、ぎゅっと目を瞑って、内からこみ上げてくるものに抵抗を試みる。しかし脳裏にライや父親、ディッキーの顔が蘇るとやはり、どうしようもなく、胸が震えた。
4人を乗せたセダンは、町を外れ、山道を進んでいるようだった。
確信することができないのは、目隠しをされているからだ。発進した直後、“ファルス”によって、レイは黒いハチマキを目の上から縛りつけられたのだ。おまけに後ろ手に手錠をはめられ、足はこれまた黒い布で縛られている。
おまけに、野球坊の男とファルスによって挟まれている。車からの脱出は絶望的であるといえた。
「怖いか」
震えているレイを見て、“ファルス”は愉快そうに言った。それからレイの頬を片手で掴み、引っ張るようにして、自分の方を向かせる。
「ハン。本当に、気に食わない顔だ。何度見ても、吐き気がする」
“ファルス”が唾を吐く。なら見なければいいじゃん、と心の中で思うと、口に出していないのに強く頬を張られた。
装甲服を着た者に、生身の人間が全力で殴られたなら首が飛んでいるところだから、おそらく力を抑えたのだろうが、それでも犬歯がぐらついて、口内に鉄の味が広がるほど痛かった。
被害妄想が激しいのか、それとも心を読む術でも会得しているのか、この男は先ほどからレイが思ったことを、はっきりと行動で示し当てる。
トランクから、またしても物音が聞こえた。何かを探るような、微かな物音。風に吹かれて落ちてきた枝か何かが当たったのだと、レイは解釈した。
「ちょっと。あんまり、その子に傷をつけないほうがいいんじゃないの。あの人が怒るよ? 自分が他人の体を切り刻むくせに、他人が他人の体を傷つけると、すぐすねるんだから。私は、とばっちりを受けるのはごめんだよ」
橘看護師の声だ。
車は信号待ちなのか、停止していた。その声がはっきりとレイの耳に届いたのは、おそらく彼女が後部座席を振り返っているからに違いない。手足を縛られ、両眼を布で覆われたレイを目の当たりにして、橘看護師はどんな顔をしているのだろう。
きゅっ、と何か滑らかなもの同士が擦れ合う音がした。“ファルス”が足を組んだのだと思った。それからレイは、固いものが頭に乗せられるのを感じた。“ファルス”の手であることは視覚を封じられていても、すぐに分かった。
「ハン。分かっていますよ。彼の命令がなければ、今すぐ殺してやりたいところだ。まぁ、あなたにとっても恐らくそちらのほうが楽だったでしょうがね。本当に、運が悪い」
そこまで言うと“ファルス”はレイの耳に顔を寄せ、囁くようにした。それは嫌みたらしい、聞き手の精神を弄ぶような声だった。
「会えば分かりますが、あの人のことを人間だとは思わない方がいい。彼は、悪魔です。怪人さえも、亡霊さえも、すべてあの人の前では手駒と化す。あなたも、ただでは死ねないと考えたほうがよろしいですよ。ま、いまは待ちくたびれて、彼があなたのお友達を嬲っていないことを、願うばかりですが」
当然その発言は、悠の安否を気遣ってのものではない。人質がいなくなったら、何をされるか分からない、そう暗に“ファルス”が言っているようにレイには聞こえた。
“ファルス”は自分を恐れているのではないか、とレイは少し前から感じていた。
公園の一幕でも、その素振りがところどころ見受けられたからだ。理由は不明だが、彼はレイに対して畏怖とも呼べる感情を持っている。
この男は、やはり自分の秘密を何か握っているのではないか。それは確からしい。だから恐れている。この世から、消し去ってしまいたいほどに。
「……なんで私を、そんなに憎むの」
訊ねると、“ファルス”はまたハン、と笑った。どうやら答えるつもりはないらしい。しかしレイに対し、暴力が振るわれることもなかった。レイはまずそれに安堵してから、今度は運転をしている橘看護師に質問を向けた。鈍痛を発する歯を軽く舌で舐める。
「橘さん。なんで、悠をさらったんですか? 私と、仲が良かったからですか?」
悠以外なら良かった、というわけではけしてない。ただ単純に選定の基準を確認したかっただけだ。なぜ、病室で1年の大半を過ごしている悠が人質として選ばれたのか。ただ単純に、同じ場所にずっと留まっているから、誘拐をしやすかったためなのか、それとも他に難解複雑な理由が存在しているとでもいうのか。
代わりに、隣の“ファルス”からその答えは返ってきた。レイを鼻で笑いながら発してきたその言葉は、至極意外なものだった。
「ハン。おめでたいな。あなたを中心として、世界が回っているとでも思っているんですか? まったく馬鹿げている。自分がどれほど醜い存在なのか、知りもしないで。驕りにもほどがありますよ」
「……どういう、こと?」
キュッという音が、再び車内に反響した。“ファルス”が、組んでいた足を下ろしたのだ。また車が止まった。それから、今度はバックを始める。しばらく後ろに下がると、車は大きく前後に揺れ、再発進した。
気づけば、他の車が往来する音さえも聞こえなくなってきた。耳が詰まっている感じがする。どうやら、結構山道を登ったらしい。時間を追うごとに、人里から離れていっているのだ。その事実に気が付くと、レイは途端に寂寞としたものを覚えた。胸が絞めつけられ、不安が顔を覗かせる。
「実は、ちょっとあの娘の父親には個人的な恨みがありましてね。いざというときの切り札にしようと、彼の娘をずっとマークしていたんですよ。それをこんなところで使うとは、思いもよりませんでしたが」
そう言って“ファルス”が首をすくめる。すくめたような気がした。装甲服の擦れ合う音が聞こえたからだ。
「それで私がこの人から頼まれて、悠ちゃんを見張ってたってわけさ。あ、言っておくけどあの子が病気なのは事実だからね。そこをただ、こう、逆手に使わせてもらっただけで」
橘看護師が運転をしながら、言い訳めいたことを口にした。
2人の説明を聞きながら、レイはあることを思い出していた。悠が誘拐されたという話だ。彼女の兄のおかげで、大事に至らなかったというあの事件。病院のベッドの上で話してくれた、悠の憂い顔が目の前に見えるかのようだった。
レイは唾を呑みこんだ、それから慎重に言った。車内に浮かばせたその声は、ひどくひび割れていた。
「なら昔、悠を、誘拐しようとしたのも」
「それも私ですね」
“ファルス”がどこか得意気に、きっぱりと言った。レイはやはりか、という思いで目を瞑る。瞼を開けても閉じても、そこに映る暗闇の深さは変わらない。
「まぁ、あれはいまでは失敗して当然だったと、自分で評していますがね。あまりにも無計画で、無鉄砲すぎた。若気の至り、というやつですかね。あれからですよ。もっと慎重に長期間のスパンを念頭に置いて、作戦を練るようになったのは」
「一体、悠のお父さんが何をしたっていうの」
悠の父親、天村氏の朗らかな表情をレイは想起している。
天村氏はレイの突然の押しかけにも、嫌な顔を1つ見せることなく、淀みなく質問に答えてくれた。そんな彼が、他人の恨みを買うようなことをするとは、レイには到底思えなかった。やはり、大企業の重鎮という立場は人付き合いも難しいのか。本人さえもあずかり知らぬところで、恨みつらみの矛先を向けられてしまうものなのだろうか。
ファルスがまたしても、答えてくれなかったので、レイの質問は受け手のいないキャッチボールのように、車内を転がりどこかへ消えていってしまった。
レイが次の言葉を発する前に、車が停まった。サイドブレーキが踏まれ、ギアを切り替える音の後にキーが抜き取られ、さらにエンジンも切られた。そこでようやくレイは、車が目的地についたことを悟った。
物々しい音がして、ドアが開く。生暖かい空気と、湿った草特有の匂いが車内に飛び込んでくる。遠くの方から、虫の音と梟の鳴き声が聞こえてきた。視覚を奪われていても、山中であることが、それだけではっきりと分かった。
「私たちは先に降りますから、あなたはそいつを連れて来てください。あくまで慎重にお願いしますよ」
「あぁ……分かってるよ」
初めてレイは、野球帽の男の声を聞いた。凛々しく、精悍さすら漂う声だった。男は自分側のドアを開くと外に出て、車内のレイを両腕で抱き上げたようだった。
外に出されたレイは、男の腕に抱えられたまま運ばれていく。ちょうど、いわゆる、“お姫様だっこ”のような形だったがロマンチックなものは、微塵も感じなかった。
顔にかかる男の息は、アルコールの強い臭いがした。視界を布で閉ざされ、夜の音色だけが聴覚を支配するこの状況で、レイの嗅覚は嫌でもその臭いに敏感に反応してしまう。
なんだか、酔っぱらったかのような気分にくるまれながら、レイは夜の中を、まるで引越しの荷物のように運搬されていく。静けさに波紋を生じさせるような、木々のわずかなざわめきが、レイの恐怖をさらに煽りたててくるようだった。ここに味方はいないぞ、と山に脅迫されているような気もする。
小さく深呼吸をし、震えが出てこないように歯を食いしばっていると、レイの額にふわふわとしたものが触れてきた。眉をあげると、耳元で声が聞こえた。
「レイちゃん、悪かったね」
橘看護師の声だった。レイの額にあてがわれているのは、彼女の掌だ。黒い鳥の痣が刻まれた、あの手。これが私の罪だと、彼女が嘆くように夜空に向けて叫んでいたことを思い出す。
罪。
橘看護師と同じ痣を見せながら、父親も同じ言葉を使っていたことをレイは改めて思い出す。
あの痣は一体どのような意味があるのだろうか。尋ねようとするが、その前に、橘看護師はレイから離れていってしまった。ハイヒールが土を踏む足音の後に、背後で車のロックがかけられる音が響いた。
最後にまた、車のほうから音がした。それは車内で何度も耳にした、トランクからのものであることに違いなかった。気のせいかもしれない、とレイはまたしても思い込む。精神が疲弊ているのは、嫌というほど自覚をしているつもりだった。
ぎぃ、と前の方から音がする。ドアの開かれた音だということは、すぐに分かった。レイは否応なしに、男によってそのドアをくぐらされる。すると木の香りが一斉に、レイの鼻腔へと殺到してきた。
その芳しい香りで少し動悸が収まったように感じられたのは、確かだった。
レイは椅子に座らされ、そこでようやく目隠しを外された。光が瞳を直撃したため、慌てて瞼を下ろす。目が慣れるにはまだ少し、時間がかかりそうだった。
手錠と足の束縛は、当然のことながら外されぬままだった。両腕を後ろに回され、ぴったりと両足を揃えた、奇妙な姿勢でレイは前屈みに腰を下ろしている。
「に、おっと、ファルス君。約束通り、連れてきてくれたようだね。君にしてはやるじゃないか」
野球帽の男とも、ファルス装着者とも違う男の声。それは水っけのない、不毛な砂漠のような声だった。
「私を侮らないでいただきたいですね。あなたのほうこそ、人質をつまみ食いしていないでしょうね? この子を殺すまでは、彼女は大事な存在だ。傷つけられたらただではおきませんよ」
「そんなことしないさ。彼女はこの通り、ぐっすりと眠っている。睡眠薬が効いているらしいな。なんにせよ、とりあえず座ってくれ。そうみんなに見降ろされていると、落ち着かない」
うっすらとだけ瞼を上げ、だんだん光に目を慣らしていく。そして瞳へのダメージが少なくなってくると、レイはフライング気味に目を見開いた。瞳の縁がわずかに痛んだが、それも数秒のことだった。素早く、周囲を見渡す。状況を確認する。
ここは、木製の小屋のようだった。
広さは6畳くらいだろうか。壁や床のいたるところまで、木造だ。年輪さえもくっきりと残った木が、周りを囲っている。柱には丸太が使われていた。ヒノキだろうか。壁一面から、陽光に満ち溢れた森林をイメージさせるような香りが漂ってくる。
室内は小奇麗で、どこかこじゃれていた。ここに品物が並べば、そのまま土産物屋としても機能するかもしれない。狭い室内にも関わらず、天井には蛍光灯が3本配置されている。
小さな窓にはカーテンが敷かれ、外の景色を窺うことはできない。だがこの静謐とした周囲の雰囲気から、ここが山の中であるということはやはり、確からしかった。
その窓の下に置かれたソファーに、“ファルス”はどっしりと腰を下ろしていた。股を広げ、いかにもふてぶてしい態度だ。その隣に置かれた椅子には、橘看護師が両足を揃えて座っている。彼女は努めて、レイに視線を配らないようにしているかのようだった。先ほどから床のあたりを、じっと見つめている。
「さて、始めまして。黒城レイ、でいいのかな。名前は」
レイの正面に座る男が、にんまりと笑う。乾ききった果実のような、しゃがれ声だ。彼はベッドの端にお尻の半分だけを乗せるような姿勢で座っていた。声色よりも、その姿から、若干年齢は低く見えた。声から狡猾な老人の姿を想像していたのだが、目の前に現れた男は、せいぜい4、50歳くらいに見えた。髪も黒々としていて艶がある。
逆三角形の輪郭をした顔に、隈の浮いた目がついている。レイは男の相貌を目の当たりにするなり、そんな印象を抱いた。
頬はこけ、顔は青白く、その風貌はまるで病人のようだった。しかし男は、医療関係者用の白衣を身に纏っており、そこにギャップが生じていた。医者の不養生、という慣用句がレイの頭に浮かんでは消える。
白衣には袖を通しておらず、肩にひっかけるようにして纏っていた。
その暗澹とした男の眼差しに、レイは思わず逃げ出しそうになる。しかし両手足を縛られたままのこの状態では、そのような反射運動さえも叶わず、結局、椅子を激しく揺するだけで力尽きてしまった。
レイの背後には、あの酒臭い野球帽の男が歩哨のように立っている。いや、実際に歩哨なのかもしれない。あの殺気に満ちたたたずまいは、素人が短期間でおざなりで発散できる気配とは思えなかった。
この場から逃れることが不可能に近いという事実は、場所が移っただけで、車内から依然変わらぬようだった。1人人数が増えたのだから、余計に分が悪くなったかもしれない。
部屋の隅には、小さなテーブルが3つ並んでいる。その上には紫色の布が被せられていた。テーブルの上にあるものを覆うことを目的としているらしく、布は不自然に膨らんでいた。
レイが何も答えずにいると、男は唇をひん曲げるようにして笑った。そうすると、彼の前歯が金色に光っているのが見えた。金歯を差し込んでいるらしい。あまり清潔に保たれているとは思えない歯が、むき出しになる。
レイは慄然とした感情を胸の中に無理やり押し込み、上目づかいに男の方をちらちらと見ながら、口を開いた。
「悠は、無事なんですか?」
「友達のことが、心配か」
今度は、はっきりと首肯した。すると昨日“ファルス”によって、傷つけられた手足が痛んだ。喉も痒みが生じ始める。体中の細胞が男の発する空気に対して、わなないているかのようだ。
「私を殺したいなら、悠を巻き込まなくてもいいのに。なんで」
「馬鹿め」
ソファーに座したまま“ファルス”が、吐き捨てた。続けて、舌打ちをする。
「そんなに友達が大切なら、昨日大人しく、殺されていれば良かったんだ。そうすれば、万事上手くいっていたのに……。もういいでしょう? あなたの言う通り、ここまで連れてきたんだ。早く、殺しましょう。私だって忙しいんだ、これ以上無駄な時間を刻むつもりはありません」
“ファルス”は、体を激しく揺すっていた。落ち着かないためなのか、それとも恐怖のためなのか。ここにあるソファーだけが、地震を感知しているかのように、がたがたと音を立てている。
レイは目を瞑り、考えを巡らせたあと、ゆっくりと瞼を上げた。向かいに座る男が、値踏みをするような視線でレイを見ている。鼻の穴を広げ、興味深そうに。
「私が死んだら、悠を返してくれるんですか?」
「それは、私が保証するよ」
そう明快に返事をしてくれたのは、橘看護師だった。彼女の目は相変わらず剣呑としているが、その声には労りが感じられた。レイは砂漠の中に、不意にオアシスを発見したかのような気分で、彼女に視線を飛び付かせた。
「橘さん」
「私がかならず、家に帰してやるよ。こいつらを張り飛ばしてもな。あんたからすれば、自分を騙してた女の言うことなんか信じられない、って感じなんだろうけど。これだけは約束するよ。信じてほしい。悠ちゃんに危害は加えさせないよ」
部屋の奥にある鍵のついた鉄製のドアに目をやりながら、彼女はそんな頼もしいことを口にする。どうやらあのドアの向こうに悠は監禁されているらしい。“ファルス”は彼女の暴挙とも呼べる発言に、不服そうに唸ったが、対して、男は肩を揺すって笑っていた。
「ちょうどいい。橘君。この子に、人質を見せてあげようか。そのほうが、君も納得してくれるだろうからな。別にかまわないだろう?」
“ファルス”が鼻を鳴らす。橘看護師は何も言わずに椅子を立つと、男の背後を横切り、鉄製のドアの前で足を止めた。
ポケットから鍵を取り出し、それでドアに備えられた錠を外し始める。レイは彼女が手首を回すたびに、ちらちらとその甲で舞う、黒い鳥の痣に目を奪われていた。
レイの頭の奥深くに、夢の中で見た黒い鳥のイメージが過る。気を抜くと、その鳥はいつの間にか眼前に急迫していて、レイはその度に目をぎゅっと瞑り、イメージを追い払わなければならなかった。
瞼を上げると、ドアには元通り鍵がしめられていた。橘看護師も、先ほどと同じ椅子に腰かけている。なんだか遠い目をして、ある一点を見つめていた。彼女の視線の先にあるものを、追う。そしてレイは自分が椅子に縛り付けられていることも忘れ、思わず前に乗り出した。
平然とたたずむ白衣の男の背後に、悠はいた。レイとまったく同じように、そして写真と同じ格好で、椅子にロープで縛りつけられている。彼女は頭を垂らし、肩を小さく、ゆっくりと上下させていた。耳を澄ませば、寝息が聞こえてくる。
「いかがですか? これで、ちょっとは死んでみようという覚悟ができたとは思いますがね」
いつの間にか隣に移動していた“ファルス”が、レイの胸を殴った。レイは後ろに突き飛ばされ、背中を椅子の背でしたたか打ちつける。
肺を圧迫されたことで咳込み、胸の痛みに呻きながらも、レイは悠から目を離すことができなかった。病室で毎日、レイを待ってくれていた親友が、いま椅子に縛り付けられ、命の危機に晒されている。しかもそれは、他ならぬ、レイの責任なのだ。
レイは自分を恥じ、悔やみ、憎んだ。悠の白い顔が、ほのかに陰を落としていることに、胸を掻き毟りたいほどの罪悪感を覚える。
「まぁ、私としても橘君の意見に異論はない。あいにく、女には困っていないからな。彼女じゃなくても、別にいい。また別の女を連れてくればいいだけのことだ」
白衣の男は悠の髪をいじりながら、話す。こう見ると、まるで悠は人形のようだった。呼吸をしてはいるが、男の行為に一切反応を見せない。主人に従順な蝋人形、そんな感想をレイはふと、いまの悠に覚えた。
それから遅れて、男の言葉が耳に届いた。
また、別の女を連れてくる。
男が何気なく発した言葉に、レイは記憶を喚起された。怪人による、女性の誘拐事件。そしてつい先日ニュースで、体の一部分を奪われている女性の遺体が発見されたという事件が報道されたこと。そして、怪人を操っていたファルス。
「あなたが、あの事件の、犯人、さん?」
恐る恐る、男に尋ねる。すると男はそんなレイの躊躇を跳ね飛ばすくらいの呆気なさで、笑いながら答えた。悠から離れ、両手を広げて、誇らしそうに。
「どの事件のことを言っているかは知らんが、私は君が寝たり、食事を口にするのと同じように、女性を殺している」
男はあの紫色の布がかかったテーブルに、足先を向けた。そして布に手をかけると、もったいぶることはせず、いっぺんにそれをはぎ取った。
テーブルの上に置かれていたものの正体が、明らかになった。レイははじめ、一体それが何なのかまったく分からなかった。しかし、じっと見つめているうちに、まるで騙し絵のようにそれが何なのか、判断がつくようになってきた。
それはホルマリン漬けにされた、人間の手だった、足だった、耳だった、鼻だった。すべて小瓶の中に封じ込まれていて、それが20個近くある。この状況で、偽物がでてくるということはあり得ないだろう。ということは、あれは本物の人体なのだろう。おそらく、怪人を使って誘拐してきた女性たちの、だ。
「これは皆、別々の人間から切り出したものだ。1つの死体からパーツは1つ、というのが私のポリシーでね。こうしてみると、人体も美しいだろう? 私はこれを眺めながらでないと、安眠できないんだ」
男は瓶詰になっているそれらをレイに見せつけながら、自慢のコレクションを紹介するかのように胸を張り、腕を横に伸ばす。
「あぁ、あの洋館で発見されたものとはどれも違う死体だ。私が捉え、実験を施した死体は10や20で測れるものではない」
“ファルス”も橘看護師も、そしてもちろんレイも、何も尋ねていないのに男は勝手に詳細を付け加え始める。まるで、別の生き物のようにその口はよく動く。レイはその唇を、気づけばじっと見つめていた。
男はさらにテーブルの引き出しから、一冊のファイルを取り出した。空色の表紙には、「死体ファイル」とラベルが貼ってある。男はページを捲ると、その中身を広げ、レイに見せつけるようにした。
ページには女性の写真が、顔写真がずらりと並んでいた。どれも目を瞑っている。まるで卒業アルバムの、クラス写真のようだ。皆無表情なのは、学生証や免許証から切り出したものだからなのかもしれない。
「今まで殺してきた、私の愛人たちだよ」
狂気を隠しだてすることもなく、男は誇らしげにページを叩いた。着物を着た老婆の顔に、彼の指紋が付着する。
「こう、ずらりと並べると達成感がある。私は彼女たち1人1人の声や、血の匂いや、苦しみに歪んだ顔や、死に際に放った最期の言葉に至るまで、すべて記憶している。たとえば、この娘は最期に母親のことを必死に呼び、叫んでいた。血だまりを足元に作りながらも、まだまともな生活に帰っていけると信じていたんだね。まったく親子愛とは、素晴らしいものだ。私は感動したよ。咄嗟に、フランダースの犬を思い出した。犬も人も、似たようなものだね」
制服姿の利発そうな少女を親指で示しながら、男は顔をしわくちゃにして語らう。心から自分のしたことを誇りに思い、罪悪感などかけらも感じていないに違いない。そうでなければ、人の死を喜劇と認識するようなこんな笑い方が、できるはずもない。
ここで瓶詰めになっている手や耳も、この写真の中にいるのだと思うと、なんだか虚しい気持が過った。怒りや、気色悪さや、悲しみよりも、空虚だけがレイの心を占める。
見開きに20枚ずつ、老若様々な女性の写真は貼られていた。それが3、4ページ続いている。単純計算してもこの男は80人以上の人間をその手で、死に追いやっていることになる。
男の長々とした講釈が終わり、ようやくファイルを閉じかけたところで、レイの目はある1枚の写真を捉えた。それは本当に、瞳を掠めるくらいのスピードでしか見えなかったが、レイの心臓を高鳴らせるには十分すぎる情報だった。
その写真に写っていた少女が、ライに見えたのだ。しかし一瞬のことだったので、見間違いかもしれない。しかしそれを確かめる理由も、そして手段も、いまのレイにはなかった。きっと間違いだ、と己を信じ込ませる。
ファイルを元の場所に戻したあとも、男の話は続いた。唾を飛ばし、体中で興奮を表しながら、身ぶり手ぶりを交えて男は独白を続けている。
嬉しそうに死体のパーツを眺め、女性を殺した時の触感や、集めた時の感想などを勝手に語り、思いを馳せている。反論や痛罵を浴びせるつもりなどなかったのに、ひたすらに自慢話を続ける男を目の前にしているうちに、レイはたまらず口を開いていた。
その声はひどく慌てていたためなのか、上擦ってしまった。
「あなた、おかしいよ……なんで、こんなことをするの」
手放したくない思い出もあって、それぞれの人生があったはずなのに。この男の手によって、それらは一瞬で奪われてしまった。怒りよりも、悲しみが沸いた。唇を噛んで、こみあげる涙をこらえる。この男に、弱さをみせてはいけないと思った。
男は話すのを止めると、冷やかな目でレイを見た。それから、ニッと歯茎をむき出しにした。
「趣味だよ」
シュミ。その単語が、“趣味”という意味であることに気が付くのに、数秒を要した。
「趣味」
鸚鵡返しに言うと、男もまた「趣味」と重ねた。
「私には、昔から性欲というものがないんだ」
話が、飛躍する。尋ね返すのもくたびれ、レイはただ男の口を見つめている他ない。
「だから、女性を殺さなければいけないのだよ。私は人の内臓をみると、興奮するんだ。だから殺してしまう。これはしょうがないことだ。多くの人間が性欲を満たそうとするのと、私が女の腹を裂くのは、まったくの同義だ。大きな違いがそこに生じているとは、まったく思わないのだがね」
「意味、わかんないよ」
怒るわけでもなく、涙を流すわけでもなく、悔恨の情を抱くわけでもなく、呆気にとられながら正直な感想を、レイは吐いた。男の話すことの意味が、1つも理解できない。この世界に理解できる人が、いるとも思えなかった。
しかし男はレイの返答に満足したようだった。洞窟の中の蝙蝠のような卑屈な笑みを零す。それから、死体の入った小瓶を指先で撫でながら言った。
「まぁ、趣味であるのもそうだが。もう1つ、私には大いなる目的がある」
レイは無意識のうちに悠を眺めていたが、男がまた話し始めたのを聞いて、顔を動かした。男はにっと笑うと、人差し指を突きだし、空気に文字を書くようにした。
「“黄金の鳥、複製計画”」
空に声を浮かべるかのように、男は言った。それがあまりにも明瞭な輪郭を持った言葉だったので、レイには意味がわからずともその迫力だけは伝わってきた。さらに男は「人は誰でも、神になることができる」と流暢に続ける。
「神?」
そんな戯言、父親でさえも使わない。しかし、男はレイの反応など意にも介さず、歌うように説明を続けた。
「神が囚われたなら、私たちの手で作り出してしまえばいい。私の親愛なる友人は、そんなことを口にした。それからというもの私はこうして、神の誕生に身を窶してきた」
男は天井を仰ぎ、同じ場所を行ったり来たりしながら、言葉を紡いでいく。まるでこの世界には、自分とレイしかいないと言わんばかりの仕草だった。
「神に必要なもの。それは、命だ。若い命、老いた命、瑞々しい命、乾ききった命、温かい命、冷たい命、たくましい命、か弱い命。十人十色、千差万別、とにかく多くの命が神の複製には不可欠だった。そのために私はこの趣味を如何なく発揮し、神の複製に力を注いだというわけだ」
“ファルス”と橘看護師は顔を見合わせ、ため息をついている。いい加減待つことにくたびれたのか、“ファルス”は拳を固めて立ち上がろうとする。
そこで男は、喋ることを止めた。そしてレイに視線を運ぶと、あまりにも唐突に、さりげない調子で言った。
「それはそうと、君はどうやって自分が生まれたのか、知りたくはないか?」
「え」
とくん、と心臓が高鳴る。今度は、意味が分かった。頭の中で何度もいまの言葉を再生してみるが、聞き間違いはなさそうだ。
それこそ、レイが昨日から父を疑い、天村氏に問いかけ、コートの男に尋ねてまで、手に入れたかった事実だったからだ。
一体、自分は何者なのか。レイの予想通り、この男はそれを知っている。
「……それを知ってるの? なんで?」
レイは灼熱の太陽に飛び込んでいく気持ちで、尋ねた。覚悟をした。決意もした。あらゆる事実を想定して、身がまえた。それなのに現実は、あまりに無情で、それでいてレイの薄っぺらい覚悟など、薄紙のようにぶち破ってしまう。
男は平然と、口に笑いを湛えながら、答えた。
「あぁ、知っている。なぜかは、話が長くなるがね」
死体の入った、瓶を置く。ことん。小さな音が、静かな小屋の中に妙に冴えて聞こえた。
「教えて、私は、一体」
「怪人だ」
レイが喋り終わらないうちに、男は短く言った。聞きとれず、思わずレイは眉を上げる。
「え……」
「怪人だよ、君は。人間じゃない。人を襲う化け物。作られた存在」
「作られた、存在……?」
レイは、口をぱくぱくとさせ、唖然とする。頬が痙攣する。
「怪人だ」
怪人。
女性たちを襲い、捕えて、この男の前に差し出していた異形の存在。そんな怪人から人々を守るため、レイはマスカレイダーズに入団した。
君は怪人。
私は怪人。
一旦、その言葉はレイの耳を通り抜けた。だがすぐに脳に浸透し、響き渡って、そして心臓を掴まれるような衝撃が全身を貫いていった。
「嘘」
父親と血縁関係がないと分かったときは、ショックだった。本当の両親が分からないことも、4年前以前の記憶がないということも、初めて知った時はそれと同じくらい衝撃的なことだった。
だが、いま、突きつけられた真実は。そのどれよりも、レイの心に大きな風穴を開けた。
人間ではない。自分が、怪人。
「そんなの、嘘だよ。私が怪人なんて、そんな」
こんな狂った殺人犯の言うことを、真に受けるほうがおかしいことは分かっている。だがそれを否定しきれない心が、レイの中にはあった。それを認めてしまうのが、レイは怖かった。
だからレイは、口に出して断固否定する。心に巣食うもう1人のレイが叫び続ける真実に、耳をそむけながら。
レイは逃れる場所を探る気持ちで、視線をさまよわせた。誰かこの事実を、頭ごなしに否定してくれる人が欲しかった。
まずは悠に話しかけた。心の芯がぶれ、その声は激しく上擦っていた。
「悠。私、人間だよね。怪人じゃ、ないよね?」
しかし、悠は寡黙だった。俯いたまま、何も語り返してはくれない。レイは椅子を激しく揺さぶり、今度は全身で悠に向けて叫んだ。
「悠……何とか言ってよ。私は、人間だよ。この通り、どっからどうみても人間じゃない。ねぇ、悠! この人に言ってよ! 私は人間だって!」
いくら声を荒らげようとも、悠はびくともしない。レイは親友から、今度は橘看護師に視線を転じた。
橘看護師は、レイの注目を浴びると、びくりと全身を引き攣らせた。それからやがて、ゆるゆると首を横に振り始めた。
「これも、本当だよ。私も聞かされたときは驚いたけどね。最初はあんたのこと、普通の人間だと思っていたから」
「そんな……」
橘看護師も狼狽している。唇が青い。“ファルス”はそんな彼女を横目でみながら、勝ち誇ったように腕を組んでいる。
「ハン。金髪である時点で、そこに気付くべきでしたね。まったく、肝心なところで鈍い方だ」
すると橘看護師は目をいっぱいまで、見開いた。それから頭を垂れ、反省するように俯く。“ファルス”の言葉で、彼女は何かを悟ったらしい。レイにはその正体が分からない。金髪だということが、怪人の印であるとでもいうのだろうか。
「残念ながら、真実だ。いや、喜ばしいことに、と表現するべきかね」
男が喜色満面になって言う。レイにはまだ信じられない。そんなわけはないと切り捨てることができればいいのに、それができない自分に、ただただ困惑する。
「本当に、私が、怪人……?」
そうだよ、ともう1人のレイが言う。レイは自分自身の言葉を、言下に否定する。そんなわけがない。そんなわけが。何の確証もないのに、レイは一辺倒にそれだけを叫び続ける。
「本当だ。君にも、思い当たる節があるはずだがね。耳を傾けるといい。自分自身の、心の叫びに」
自分の心に、耳を澄ます。頭の中で流れる映像に、目を見開く。
“怪人探知機”が使えること。
悪魔の娘と河人がレイを称していたこと。
河人に力を注ぐことができたこと。
過去の記憶がないこと。
そして、父親と同じ血が流れていないこと。
レイが怪人であるという前提があるだけで、これらの疑問がすべて解決する。
“怪人探知機”は同属の位置を、本能的に察していたのだろう。河人に力を注ぐことができたのも、異形の力ならではだ。悪魔の娘というのも、そういうことだったのだろう。
レイは記憶を失っていたわけではない。最初から、記憶なんてなかったのだ。レイは4年前に、この世に生まれ落ちたのだから。父親の血が流れていないのも、当り前だ。父親は人間なのだから。
もし腕が自由になっていたならば、レイは頭を抱え、絶望に沈みこんでいただろう。だがいまはそれも許されない。呆然と俯き、襲いかかってきた現実に大人しく身を啄ばまれるしかない。
人間の耳が入った小瓶を胸に抱えたまま、男は再びベッドの端に座った。それから白衣のポケットをまさぐり始める。がさごそと、手をポケットの中で暴れさせ、やがて中から何かを引っ張りだした。
男の指に摘まれて、姿を表したもの、それは鳥の羽だった。
カラスのように黒く、スズメのように小さい。目を近づけなければ、黒い綿埃のようにも見える。
「これは、黒い鳥の一部だ。先ほど説明した、神の複製だよ」
その小さな羽をかざしながら、男が説明してくれた。
黒い鳥。その言葉からイメージできるものは、考え得る中でも2つある。
1つは、夢の中ででてきた巨大な怪鳥。そしてもう1つは、黒城や橘看護師に付いていた鳥の形をした痣。曰く、罪の証。
どちらにしても、その小さな羽との関連性が掴めない。片方は夢であるし、もう一方も痣というだけなので、圧倒的に証拠が足りないというのも否めないのであるが。
男がレイにそれを見せつけていると、“ファルス”が身を乗り出した。彼は落ち着かぬ様子で、指を絶え間なく動かしている。
「まさか、ここで怪人を作るつもりですか?」
信じがたいといった感情を込めながら、“ファルス”が訊く。しかし、彼の態度とは対称的に、男はひどく落ち着いていた。にこやかに笑み、体を楽しげに揺らしている。
「自分の生まれ方に、興味がありそうなんでね。1つ実践をしてやろうと思っている。私はこの娘に興味がある。事実を知った時の反応を、もっと観察してみたいんだ」
「あなたの知的好奇心のことなんて、知りませんよ。私が殺してやりたいのを我慢して、あなたの言うとおり、こいつをここに連れてきたんだ。殺すなら、早くやってもらいたい」
ソファーから立ちあがり“ファルス”は激昂する。その手は、ひどく凍えていた。
怖いんだ、とレイは思った。そしてそれは、レイが怪人だからという理由でもなさそうだ。この男は、レイの何かを恐れている。亡霊と呼んで、ひたすらに畏怖を抱いている。
いきり立つ“ファルス”に、男は子どものように唇を尖らせた。
「そう言うな。別に殺さないと言っているわけではない。少し待て、そう言っているだけだ」
「それは無理ですね。待てません。これ以上時間を浪費するならば私が、ここで」
“ファルス”の言葉に応えるかのように、レイの背後で野球帽の男が動いた。
足を一歩、前に踏み出す。首筋にぞっとするような殺気を感じ、レイは振り返ることもできず、身を凍らせた。
背後に立つ男が、腕を振り上げている。そしてその姿が、人のものではなくなっていく。その光景が直接見ずとも、手に取るように浮かんできた。
その時、レイの目の前が、もっと具体的に述べるならば白衣を着た男の指先が、ぽっと光を帯びた。まるで川瀬に浮くホタルか、終わりかけの線香花火のようだ。
その光はあの黒い羽から発せられていた。その光は平たく伸び、男が腕に挟んでいる小瓶を呑みこんでいく。
レイは目を見張りながら、頭痛を感じた。瞳の奥から眩いものが迫ってくる。“怪人探査機”が発動しているのだ。その反応は、いま男の手にある黒い羽から発せられていた。
苦痛に顔を歪めるレイの前で、小瓶を包んだ光は巨大な球体へと、姿を変えた。そして素早く横一直線に平行移動すると、男の身から離れ、ベッドの上に着地する。光はベッドの上で瞬く間に膨れ上がり、縦横に伸びながら徐々に人の輪郭を作り出していく。
光が、小さな音をあげて弾け飛んだ。そして光の溶けた後に現れた異形の姿に、レイは驚かずにいられなかった。
男の横に、“怪人”が座っていた。
まるで鎧を着込んだ戦国武将を彷彿とさせる、大柄な怪人だった。色はにび色で、両肩には亀の甲羅のような形をした肩当てが装備されている。顔の中心には目が1つ。口は小さい。胸には大の字になった亀の置物が貼り付いていた。
「さてこれ以上、私を困らせないでもらえると、ありがたいのだがね」
苛立ちを孕ませた言葉を、男は“ファルス”にぶつける。“ファルス”は小さな悲鳴をあげると、何度も首を振った後、悄然と踵を返した。
突然の心変わりを不思議に思い、よく見ると、“怪人”の右手を兼ねているドリル状の武器が、“ファルス”の胸にぴたりと照準を合わせていた。なぜか、それを見た野球帽の男が舌を打つ。彼はレイの背後に後ずさりした。
ここで仲間と争うのは得策ではないと踏んだのか、“ファルス”はあっさりと退いた。そして早足で室内を横切ると、出口のドアノブを掴んだ。
「私はどうなっても、知りませんからね。私は、あなたの言いつけに従ったまでなんだ。私には何の責任もない! それをけして忘れないでいただきたいですね……」
捨てセリフを吐いて、“ファルス”は強くドアを開け、小屋から出て行ってしまった。まるで怒りのすべてをぶつけるかのように、大きな音をあげて、ドアが閉められる。
男と橘看護師は顔を見合わせると、ふっと息を吐いた。それから男は、レイを見た。
「まぁ、こんなわけだ。分かったかね?」
男が何を尋ねているのかさえも見当がつかず、レイは目を泳がせる。男によって生み出された“怪人”は、じっと食い入るようにレイを見つめている。
そうしながらレイは、あることに気がついた。男に目をやり、そして唇をわななかせながら、訊いた。
「……瓶は、どこに、いったの?」
光にくるまった小瓶が、姿を消していた。人間から切り取った耳の入ったあの瓶だ。呑みこんだ光は、怪人に変化してしまった。ここから導き出される答えはなんだろう。
「あの人の耳は、一体どこに……?」
声が、震える。心臓の鼓動が高鳴っていく。まさか、と心の奥底で声があがる。レイはそれとなく真相を察していた。だがその追求は、声に出ることはなく、汗となって掌を滲ませていく。
「なにを言っている。ここに、あるではないか」
男が隣に座る“怪人”の肩を、軽く叩く。“怪人”は澄んだ隻眼で、レイをじっと見つめている。その瞳に悲観が映しこまれていることに、レイは気づいた。
この怪人は泣いている。叫んでいる。“ファルス”に襲われ、父親の名を必死に叫んだあのときの自分のように、この怪人も助けてくれと泣き喚いている。
「1つの死体から、怪人は1つだ。別にパーツでも構わないのだがね。とにかく1つ。死体から、怪人は生まれる」
蘊蓄をひけらかすのが生きがいだったとも言わんばかりに、男は喜々として説明をする。レイは“怪人”の、大きな瞳に吸い込まれるかのようだ。胸が苦しくなる。“怪人”の抱えている痛みが、見ているだけで伝わってくるかのようだった。
「いいか、もう1度言ってやる。死体は1つだ。それに加えて、黒い鳥と人間が1人必要とされるわけだ。つまり、黒い鳥とつがいになる、すなわち怪人の親となる人間が必要になるわけだが」
そこで男は、不意に白衣の下に着たTシャツの首元を、下に引っ張るようにした。そうすると、中年男性の赤焼けた胸板が、露わになった。
レイは“怪人”から視線を移し、瞠目した。呼吸が止まった。心臓さえ動かなくなるのではないかと思った。全身から血が音を立てて引き、指先まで冷たくなる。
男の胸には、黒い鳥型の痣があった。
橘看護師や、父親にもあったあの痣が。罪の証が、男にも刻まれていた。
「これが黒い鳥に魂を譲渡し、怪人を作り出した者に刻まれる証だ。美しいだろう? 人は罪だというが、私にとって、こいつは勲章でね。誇りに思っているのだよ」
橘看護師は両手を膝の上で重ね、頭を垂れている。その手の甲には、やはり黒い鳥の痣が刻まれている。
男は胸元から手を離すと、レイに近寄った。そして顔を近づけてくる。男の鼻息が、レイの耳をくすぐった。そのおぞましさに、思わず目を背ける。
「さて、ここから先は私も知らない。だから知りたい。答えてほしい……君の親は、誰だ。誰が黒い鳥と契約を交わして、君を作り出したのだ?」
生暖かい感触が、耳を伝う。怖気が全身を駆け、レイは声をあげて飛び上がった。
男の舌で、耳を舐めあげられたのだ。ぞくぞくとした感覚が、首筋を撫でている。男は怯えるレイのうなじを指先でなぞりながら、凄みのある声で言った。
「そして君は、誰の死体から生み出されたのだろう。君のような完璧な、怪人は」
ああ。それでも、2年くらいはもってたんだけどね。お父さんが辞める4、5カ月前だったかな。病院で、眠るように亡くなった――。
病院の休憩室で耳にした、天村氏の言葉だ。2006年に彼女は亡くなった。
私は、怪人を作り出した――。
これは父親、黒城の言葉だ。怪人を生み出してしまった。その大罪を犯したから2006年に大企業の社長という座を辞した。そう説明していた。
そして、レイは2006年に生み出された。4年前以前の記憶がないことから、それは決定的だ。レイはいま、目の前で男が怪人を作り出したのと同じようにして、4年前に生み出されたのだ。
怪人は誘拐されてきた女性の耳を資本として生まれた。では、レイは誰の体を使って生み出されたのだろう。
レイと同じ悲しみを所持し、苦手なものを携えている。
そこに浮かび上がってくる死体は、1人だけ。黒城和弥の愛した、女性だけだ。
しかしレイはそれ以上、考えるのを止めた。もはや、父親を疑うことでさえも、虚しくなってきてしまった。
そして自分の正体が怪人であることを知った今、生きていることさえも、なんだか大罪のような気がしてくる。ここで殺されるのも、いいのではないか。そんな考えが頭の中に広がっていく。
男は、小瓶が乗ったテーブルの引き出しのなかを探っている。そしてそこから1本、また1本と銀色に光るナイフを拾い上げ、テーブルの上に並べていく。
「このナイフは、イタリアから仕入れたものでね……。19世紀に実際に起きた連続殺人事件の犯人が使ったものと、同じナイフなんだ。これならきっと、彼も喜んでくれるだろうね」
にやにやと笑いを口元に湛えながら、男はこれからフランス料理でも振舞おうとしてくれているのかのように、几帳面にナイフを置いていく。橘看護師は、ファルスのどいたソファーを1人で占領し、しかめ面で男の背中をじっと眺めていた。
入口のドアが開いた。“ファルス”が帰ってきたのだ。レイを見るなり、「まだ生きていたんですか」と腹立たしそうに言う。彼は、左手を背面に回していた。後ろ手に、何かを隠している様子だ。
レイは息を呑みこんだ。続いて、橘看護師が眉をひそめ、最後に男が「その傷は、どうしたのだね?」と首を傾げた。
“ファルス”の胸の装甲には、刃物で袈裟掛けに斬られたかのような、大きな傷が生じていた。右腹部にも、大きな裂け目が生じている。“ファルス”は片足を引きずるようにして、部屋の中央までくると、「別に、どうもしないですよ」と嬉しそうに言った。
明らかに不審感の漂った動作だったが、男は耳の穴をほじくりながら、「まぁ、いい」と関心の薄そうな声を発した。「まぁ、いい」 もう1度、意味深に言い放つ。
「君を待っていたんだよ。彼女は君にしか見えない亡霊だろう? 君が倒さなくては、この行為にまったく意味がない。早くやりたまえ。時間が惜しいのだろう?」
男は引き出しを閉めると、並べておいたナイフを片手ですべてかっさらい、掌の中でそれらを纏めた。
“ファルス”は鼻を鳴らすと、レイと男を交互に見るようにした。それから「なるほど」と呟くと、男に歩み寄った。
「あなたの蘊蓄垂れが、終わったということですか。では今度こそ、よろしいですか?」
“ファルス”はベッドに腰かけている“怪人”を、ちらちらと窺いながら男の是非を問う。男は“ファルス”にナイフの束を手渡しながら、唇を舐めた。
「味も確かめたから、もういいな。私と橘は傍観者となろう。煮るも焼くも好きにするといいさ」
やられる本人を前にしているのに、勝手に決め付けられる。こんなことが昨日もあったな、とレイは想起した。ライとディッキーに、看病されていたときのことだ。ついこの間のことなのに、なんだかそのやりとりが随分昔のことのように思えた。
“ファルス”はレイの前に立った。そしてナイフの腹で、レイの頬をぴたぴたと叩きながら笑いを零す。
「ハン。ついに、この時が来ましたね。これで私は、ようやく枕を高くして眠ることができる」
「……悠を、絶対にうちに帰してあげてね。あの娘は、関係ないんだから」
“ファルス”の陰になって悠の姿は、レイは見ることができなかった。
分かったよ、と橘看護師が応じてくれる。優しげで、慈悲深い声だった。その声音に安心し、レイはゆっくりと瞼を閉じる。
もう心も体も擦り減ってしまっていて、ボロボロだった。雨に濡れたブリキのおもちゃのように、動きがぎこちなくなっている。これ以上、無理に足掻こうとすれば、そのままバラバラになってしまいそうで、いっそここで生を終えたほうが楽ではないのか、という思想がレイの頭の中を塗りつぶしていく。
「式原さん。あなたに、おもしろいものを見せてあげましょう」
“ファルス”が言う。式原、というのは誰のことだろうと思っていると、白衣の男が素っ頓狂な声をあげた。
「これはまさか、子ども、か?」
「ハン。あなたの言うとおりですよ。完璧な怪人というのは、こんなこともできるんですね。まったく、やっかいだ」
やっかいだ、と言いつつも“ファルス”の声には喜悦が混じっていた。橘看護師の息を呑む声が、耳朶を打つ。なにをそんなに驚いているのだろうか、とレイは瞼を上げようとした、その時。
「……殺す前に、あなたに冥土の土産、という奴を渡しておきましょうか」
噛み殺した笑い声。“ファルス”は小さく声をたてて笑いながら、目を瞑ったレイの鼻先に、何かを突き付けてきた。
レイの鼻は、とても柔らかく、それでいて弾力のあるその何かの中に埋もれてしまった。このままでは呼吸ができないので、反射的に顔を引いた。後頭部を椅子の背にぶつける。それでも鼻の先だけは、その何かに触れたままだった。
それはふかふかとしていて、温かった。その感触だけならば毛糸の塊か、干したばかりの布団のようだ。こんな状況なのにも関わらず、頬ずりをしたくなるほどの魅力がある。
レイは、うっすらとだけ目を開けた。温もり溢れるその正体が何なのか、確かめておきたかったのだ。
それは、灰色だった。薄汚れており、毛むくじゃらだ。やはり毛糸の塊か、とその時だけ、得心しそうになった。
さらにその形を見極めるためレイは、目を完全に開いた。そうすると、ようやくその全貌が明らかになる。
思考が、完全に凍りついた。
それは、レイを見つめ返していた。
それには目があった。レイと同じくように2つ。鼻は前に長く突き出ている。ピンク色の鼻腔をひくつかせ、生温かい呼吸が額に吹きかかった。
「完璧な怪人は、子どもを生みだす。推論がようやく現実のものとなったよ」
白衣の男が惚れ惚れとして言う。しかし、レイの耳にそれは入ってこない。
レイには分からない。なぜ、それがここにいるのか。この平穏な昨日とは切り離された空間にいるのか。なぜ、それが“ファルス”に足を掴まれ、宙吊りになっているのか。
なぜ、その足が片方しかないのか、大きな丸い耳が片方ちぎられているのか、腹に傷をこさえているのか。
なぜ、レイがプレゼントしてあげた服が刃物でボロボロに刻まれているのか、ライの履かせてあげたトランクスが破かれているのか。
レイには、何も分からなかった。そしてすべてを理解する前に、レイの心の芯には大きな戦慄が生じていた。
「ディッ、キー?」
喉が掠れて、声が出ない。それでもようやく、何度も唾液で喉を湿らせて、レイはその名前を呼んだ。
「お母、ちゃん」
変わり果てた姿になったディッキーは、それでも昨日、レイを慰めてくれたのと同じ笑顔を浮かべる。
絶対に死なないでくださいまし――。
レイの膝の上で、そう物哀しげに言ってきたディッキーの声がレイの記憶に蘇る。その姿はいまのディッキーと重なり、それから段々ぶれていく。
疑問だけがレイの心中をぐるぐると廻っていく。目の前の光景に、頭が、体がついていかない。ディッキーがなぜ苦しげに呻いているのか。足をもがれ、傷だらけになり、宙吊りになっているのか、理解が追いつかない。
ディッキーが小さな、ピンポン玉と同じくらいほんの小さな、稚い口を開ける。レイの鼓膜がおかしくなったのか、それともディッキーの声が蚊の鳴くように細くなっているのか。それは定かではない、だが、ディッキーは何かを喋ろうとしていた。声は届かないけれど、レイにも分かるように、精一杯口を開けて、ゆっくりと発音していく。レイはそれを必死に目で追う。
ディッキーはレイに、何を伝えようとしているのか。この状況で、どんな言葉を紡ぎだすつもりなのだろうか。
「どこから紛れ込んできたのか。この泥棒ネズミが、私の車をあさっていたのでね。身の程言うものを、叩きこんでやったのですよ。怪人のくせに、私に刃向うとは……生意気だ」
“ファルス”が嬉しそうに、手のナイフを掲げる。するとレイは、“ファルス”の腹部部分の装甲に小さな亀裂が生じているのを発見した。先ほどまでは、腕が邪魔をしていて見えなかったのだ。しかし、それは明らか彼が外に行く前は、なかった傷である。
その正体はすぐに分かった。
傷口に刻まれた歯形が、他の何よりも真相を雄弁に語っていた。ディッキーが、やったのだ。レイは気づき、愕然するとともに、胸が激しくざわめくのを感じた。
ディッキーが、なぜここにいるのか。
その答えはもはや無用だった。彼はレイに危険が生じたとき、いつも駆けつけてくれたではないか。その想いに、嘘はない。
ディッキーはなぜ、ファルスに牙を剥いたのか。それも簡単だ。ディッキーは、レイを守ろうとしたのだ。身を挺して。己の命も顧みず。レイを苦しめる“ファルス”を倒そうとした。
その結果が、これだった。
「……バカ。あんたが、勝てるわけないでしょ。まだ、赤ちゃんなんだから」
ディッキーが口を閉じた。そして小さく笑った。レイには、彼の発した言葉がしっかりと伝わった。少し考えたあと、レイは返事をしようと唇を離す。
離そうと、した。
その前に、“ファルス”が手に持ったナイフをディッキーの後頭部に突き刺した。
音は、なかった。本当は肉の裂かれる音がしたのかもしれないが、レイには聞こえなかった。
レイの目の先で、いきなりディッキーの額から剣先が飛び出した。
これまで瞬いていた目がひたと止まり、その黒い瞳がビー玉のように凝り固まる。その口から、赤い舌が垂れていく瞬間を、レイはまるでコマ送りするかのように見ていた。
「さて、あなたもすぐに後を追わせてあげますよ。お子さんも、そのほうがお喜びになるでしょうしね」
“ファルス”に足を離されたディッキーは、どすんと重々しい音をあげて、床に頭から落ちた。ディッキーは受け身をとることもしなければ、痛みを口にすることもなかった。ただぬいぐるみのように、床に転がっている。血が一滴も流れていないことが、さらにレイの現実感を消失させる。
「お母ちゃんと呼んでいたので、もしやとは思ったのですが……ハン。万が一、こういうことがあった場合、殺せと言われたのでね。まぁ、悪くは思わないでくださいよ」
「ディッキー……?」
底なし沼に沈んでいく、レイの絶望の重さをあざ笑うかのように、“ファルス”はディッキーの小さな体を踏みつける。
レイは、無意識に震えていた。がちゃがちゃと、激しく手錠のチェーンが擦り合って大きな音をたてる。足に巻かれた布が引っ張られて、いまにも千切れそうだ。
ディッキーはレイの呼びかけにも応じない。いつもなら、「お母ちゃん」と心から嬉しそうにレイの胸に飛び込んできてくれたのに。
あの甘えた声を聞くことは、二度とない。
それを自覚した瞬間、レイの中で何かが弾けた。
「なんで……なんで、こんなことするの」
夢の中に出てきた漆黒の怪鳥が、巨大な翼を広げて、こちらに向かって滑空してくる。そんなイメージが、頭の中心から瞳の裏側に飛び込んできた。鳥の体は羽毛ではなく、無数の影が折り重なるようにして形成されている。その1つ1つが蠢き、呼吸をしながら、周囲に飛散しているあらゆる夾雑物を、喰らい尽くしていく。
これは憎悪だ、とレイは気付いた。憤怒だ。悲愴だ。濁りきったタールのような液体が、レイの心の芯に注ぎこまれていく。いっぱいになって溢れ出ても、それは流し込まれ続けて、次第にレイの目を伝って外に排出されていく。
「私を殺せばいいのに……ディッキーは関係ないのに」
それは涙となって、ディッキーの体に、零れ落ちた。
壁に映しこまれたレイの影が、姿を変える。レイ自身はなんら変化を起こさないのに、その影だけがうようよと揺らぎ、伸びて、翻り、変容していく。
そしてレイの影は、巨大な黒い鳥の姿になった。その影は延々と広がり、ログハウスを丸ごと包みこんだ。
直後、“ファルス”の姿がレイの視界から消えた。入れ替わるかのごとく、レイの前に立っていたのは、あの亀のイメージを持った“怪人”だった。足元に視線を転じると“ファルス”は床に倒れ、肩を押さえて呻いていた。
この“怪人”が“ファルス”を突き飛ばしたということに気付くまで、レイはそれほどかからなかった。そして自分に何が起きているのか、レイはその全てを把握できていた。
「もう、死んでもいいなんて、二度と思わない。あなたたちなんかに、私の命をあげるなんて、絶対に嫌だ」
この力を存分に利用する。レイの頭の中は、台風の目の傘下にある街並みのように、静かで穏やかだった。ただ苛立ちだけが、心の奥底から源泉のように噴きでてくる。
“怪人”は唸り声をあげると、まずレイの手を拘束していた手錠を素手で引きちぎった。それから起き上がろうと手を突いた、ファルスの胸を力のままに踏みつけ、その体を再び床に叩きつけた。
「……ありがとう」
両手さえ使えれば、自由も同然だ。レイは足を縛っている布を手際よく解くと、まず“怪人”に礼を言った。“怪人”は嬉しそうに、天井に向かって大声をあげる。レイは布を放り捨てながら、男に向かって歩を進めた。
憮然とした態度で迫ってくるレイを前にして、男はベッドに座ったまま唇を緩め、ほくそ笑んだ。
「私の怪人のコントロールを、掌握したというのか。これは……面白い。私はいま、歴史的な瞬間に立ち会ったような気分だよ」
レイは男の言葉を無視して、テーブルに掌をかざした。具体的にいえばテーブルの上にある、死体の入った小瓶に向かって、だ。レイの動きに伴って、その影も動きを見せる。鳥の形をした影は、その翼で、20個あまりの小瓶すべてを覆った。テーブルのみを陰が包みこみ、まるでそこ一帯だが光を拒否しているかのようだ。
レイは影の上にひとつ残らず小瓶が乗ったことを確認すると、息を吸い込み、吐きだすとともに死体目がけて叫んだ。目元から涙が飛び散り、空気をほんの少し湿らせた。
「みなさん、私に……手を貸して下さい」
一応、了承を得る。そしてこの男たちによって、無残にも人生を奪われた彼女たちの怒りを、悲しみをその胸に受け取りながら、レイは拳をゆっくりと握り締めた。
レイは、想像した。
悠が怯え、ライを鼓舞させ、ディッキーに魂を注ぐきっかけとなった、その存在の姿を。その毛並み1つ1つ、鼻の形、目の色、口の大きさまで、思い描く。
これしかない、と思った。悠を救いだすという意味でも、ディッキーの命を受け継ぐという意味でも、この怪人以外にはありえない。
まず1つの瓶から音が生じた。誰も手を触れていないのに、独りでに震え始めたのである。その振動は他の瓶にも伝わっていき、やがてすべての瓶がもがくように動きだした。
そしてそれらが、光の球体に包みこまれるまでに、そう時間はかからなかった。さらにその球体たちが足並みを揃えるように飛びあがり、四散していくまでの流れにも、ほとんど間隔は開かなかった。
光が晴れ、テーブルの上におよそ20の影が立ち並ぶ。そしてその影達は、一斉に床へと飛び降りると、レイを素早く取り囲んだ。
まるでレイを捕える柵のような隊列を作るその影達に、一同は声を呑み、言葉を失う。呆気にとられているのか、恐怖に身を竦ませているのか、驚愕に腰が砕けているのか。それとも、そのすべてが当てはまっているのか。
レイに仕えるその影の正体は、熊だった。
しかもリアルな体系ではなく、目は黒い点、口は白い糸で表わされた、ひどくデフォルメされた熊だった。レイの膝小僧のあたりまでしか身長がなく、どう見てもぬいぐるみのようにしか見えない。
それらが眉毛を吊り上げ、レイを取り囲んでいるのだ。状況を考慮しても、珍妙で滑稽な光景であることに違いはなかった。
「クマさんたち、お願い。悠を、お願い」
「合点です、お母さん!」
レイが依頼すると20体の熊たちが一斉に動きだし、我先にと、男の股をくぐり抜け、壁を駆けあがり、テーブルの下を疾走して、椅子にくくりつけられている悠へと向かっていく。
熊たちが動きだしたことでようやく、小屋の中の緊張が溶け、時間が動きだした。
“怪人”の足の下でもがきながら、“ファルス”が怒号を散らす。その声はどこか情けなく、ひどく枯れていた。
「2人とも、なにをやってるんです? 早くしないと、人質が」
“ファルス”の言う2人とは、無論、男と橘看護師のことだ。しかし男はただ、にやにやとその熊たちを目で追っているばかりで、“ファルス”の言うことはまったく耳に入っていないようでもある。そればかりか、“ファルス”に顔を向けると、新しいおもちゃを前にした子どものように目を輝かせて、興奮した様子で捲し立てた。
「君も見たまえ。親、黒い鳥本体もないのに、怪人を作り出した……これは予想外だ。いや、私の予想の範疇を遥かに超越している。なんだこれは。これは、凄い。凄すぎるぞ。私は感動しているぞ!」
「この状況で、そんなことどうでもいいでしょう! 私は、あなたがここにつれてこいというから、ここに連れてきたんだ! それを……」
“ファルス”の言葉が止んだ。そしてしばし床をじっと見つめてから、上目づかいに男を仰ぎ、困惑の滲んだ声をあげた。
「まさか、あなたは、このために」
男が頬を緩ませる。そして、男はレイのほうを見やると、その瞳の輝きを一層強くさせた。
その男の表情で、“ファルス”は何かを察したようだった。“怪人”の足の下で手足をばたつかせながら、必死に声をあげる。
「ここに奴をつれてこさせたのも、黒い鳥について説明したのも、子どもを殺すように仕向けたのも、すべて、このためだというのですか……!」
「自覚することから、すべては始まる」
男は“ファルス”の言葉を払いのけると、それが自分の編み出した名言であるかのように、胸を張った。それから、レイを反した掌で指した。
「見たまえ。彼女は原石だよ。こんな素晴らしいものを、この場で壊してしまおうと言うのかね? さすがの私でもそれは躊躇せざるを得ない。まだ彼女を殺すのは、時期尚早が過ぎるとは思わないか?」
その発言は、“ファルス”にとって裏切り以外のなにものでもなかっただろう。愕然と頬を床につけた後、全身を震わせて、“ファルス”は床に拳を叩きつけた。あまりにその衝撃が強かったので、板張りの床は砕け、木の破片がレイの足元まで飛んできた。
「ふ、ふざけるな! 橘さん、人質をなんとかしてください。あなたなら、できるでしょう!」
橘看護師も困惑した表情を浮かべたまま、状況に取り残されている。彼女は眉をひそめたまま、“ファルス”を見下ろし、言った。
「そんなこと言われてもねぇ、もう、遅いみたいよ」
「遅いことがあるものですか! シーラカンス、1人残らずあのふざけた熊をひねり殺せ! あの人質を、絶対にとられるわけにはいかないんだ!」
野球帽男が、“ファルス”の呼びかけによって一歩前に、足を踏み出した。
男の体に異変が生じたのは、それからすぐのことだった。人間のシルエットが崩れ、異形の姿へと移り変わっていく。
男の顔が消え、手足が消え、体が消えた。引き伸ばされて、ただの横に長い線になり、その後から現れた新しい体に、呑みこまれていった。
レイはずきりと、頭の芯が疼くような痛みを覚えた。目の裏で光が瞬く。レイの持つ“怪人探知機”が作動したのだ。他でもなく、この目の前に立つ男が変化したこの怪物に対して、だ。
男から形を変えた“怪人”もとい、“シーラカンス”は、魚の干物を薄く伸ばしたような、奇妙な外見をしていた。両肩には黒いマントの切れ端のようなものが、引っ掛かっている。胸元には、魚の刺青のようなものが彫り込まれていた。腰には皮の布が巻き付けられ、胴周りには赤いベルトのようなものが巻きつけられている。
頭の中心には、回転鋸のようなものが備わり、口からは鋭利な牙が覗いている。全身の色は鈍い金で、魚の姿とも相まって、その容貌は名古屋城の屋根に陣取っている、しゃちほこを彷彿とさせる。
「待ってたよ、親父……。安心しろよ。俺がこいつら、ぶちのめしてやるから」
人間からの変化を終えた“シーラカンス”はそう呟くと、ベルトの左腰から、抜き身の鉈を引き抜いた。さらに続けて跳躍し、レイ目がけて兜割を繰り出してくる。
しかし、レイと急迫する刃物の間に、何者かが割って入ってきた。その何かと刃物は正面から激突し合い、甲高い音をあげて、宙に火花を散らす。
「カメキチ! そいつを、窓に向けて投げちゃって!」
“シーラカンス”の攻撃を受け止めた、亀のような“怪人”はレイの命令に一つ返事で頷いた。そして刃を防いでいる右腕のドリルを高速回転させると、その威力で鉈を弾き、大きく敵の姿勢を崩させた。
さらに続けて、その大柄な体からは想像もできないほど、機敏に動くと“シーラカンス”の腹に回し蹴りを打ち込んだ。“シーラカンス”は壁に背中から叩きつけられ、痛みを堪えるかのように身を折った。
「自分の意思も持たない野郎が……俺に反旗を翻す気か?」
「ジュワ!」
まるで、鉄板の上に肉を乗せたときのような鳴き声を発しながら、“怪人”は“シーラカンス”にタックルをくらわせた。空気がひしゃげるほどの、一定方向に対する力がかかり、“怪人”は“シーラカンス”ごと、小屋の壁を打ち破った。
ばりばりと、稲光が空を切り裂くときのような衝撃音が響き渡り、“怪人”は壁に開いた穴から外に転がり出た。ソファーが衝撃に吹き飛び、地面に叩きつけられて弾む。
鼓膜を焼き焦がすほどの轟音に顔をしかめながら、レイはディッキーを拾い上げた。それからディッキーの脇の下を掴み、正面からその姿を眺めるようにした。
ディッキーの目は見開かれた状態のまま、止まっていた。口に指を差し込むが、反応どころか呼吸さえも返ってこない。このディッキーと、昨日まで元気に動いていたディッキーが同一のものとは到底思えない。頭を貫いているナイフが、ひたすらに痛々しい。
レイはこみ上げてくる涙をこらえながら、ディッキーを胸に抱きしめた。その体にはまだ体温が残っている。その柔らかい感触が、レイの心の傷口に滲みた。
「よいしょ、よいしょ」
舌足らずな声の集団が聞こえてきたので、レイはそちらに目をやった。するとそこには、まるで餌を協力して運ぶ蟻のように、悠を担いで運搬する20体の熊の姿があった。悠は固く目を瞑り、眠っている。全身に巻かれていたロープは解かれたものの、両手足を固く縛ってあるものは、そのままだ。ざっと見た限り、彼女の体に外傷はみられなかった。
悠と熊は男のすぐ脇を通過していく。だが男はそれを止めることはせず、変わらずにやにやと気味の悪い笑みを浮かべている。
「悠……!」
「させるか!」
親友との再会に喜ぶ間も与えぬように、“ファルス”が熊たちへと躍りかかる。しかし悠の体を支えていた熊のうち、数体がその隊列から離れ、次々と“ファルス”の胴体に飛びついていった。
小柄とはいっても、3歳児位の体型はもっている。巨大な肉の塊を矢継ぎ早に浴び、“ファルス”はたまらず、多勢の力で床に押し倒された。その隙をついて、レイはディッキーを片腕に抱いたまま、もう1方の腕で悠の首根っこを掴むと、彼女を引きずりながら壁の穴へと急いだ。
“怪人”が開通させた壁の穴の前にはレイの行く手を阻むかのように、橘看護師が直立していた。
橘看護師は口を結んだまま、レイを見ている。レイもまた、彼女の顔を仰ぐ。数秒間そうやって睨めっこをしていると、先に破顔したのは橘看護師のほうだった。
にやりと、片頬だけを上げるようにして笑う。その表情は病室で、悠と話していた時のそれだった。彼女の魂から毒気が抜け、いままで仮面の下で眠っていた顔が、ようやく目を覚ました。そんな印象をレイは受けた。
「悠ちゃんを、頼んだよ。あんたらは本当にいいパートナーだ。これからも、きっと上手くやっていけるさ」
「橘さんは、一緒に来れないんですか?」
レイの質問が、意外なものだったからだろうか。橘看護師は目を大きく瞠った。そしてそれから寂しげな笑いを零すと、自分の手の甲を指で撫でるようにした。そこには、あの鳥型の痣がある。レイも、なんだかいまではなじみ深いものとなったその痣に、つられるようにして目を落とす。
「無理だね。私には、ここから離れられない理由がある。それに、あんたや悠ちゃんをを騙したんだ。どの面下げて戻れって言うんだい? 行きな。怪人だからってなんだい。あんたはあんたなんだ、せいぜいこれから頑張りなよ」
背後で鈍く、くぐもった音がした。驚いて振り返ると、頭を無残にも踏み砕かれた熊の姿があった。それも1体ではない。“ファルス”と果敢にも相対した熊全員が、体を引きちぎられていたり、頭を潰されていたりしてことごとく息絶えていた。無事でいるのは、まるで棺桶にに入った白雪姫を運ぶ小人のように、悠を担いで運んでいる班だけだ。その数、残り10体あまり。
屍になった熊たちの中心に、“ファルス”は立っていた。貧血を起こしたように、額のあたりを押さえながら、足もとをふらつかせている。
「あなたを逃がせるはずがないでしょう……!」
低い声を発し、“ファルス”はレイを見やった。そして乱暴に両腰に下がった鞭を手に取ると、早打ちのガンマンさながらに、それらをレイに向かって放った。
室内の蛍光灯の下を煌めきながら、2本の鞭がレイを穿とうと、迫る。1本は公園で、首に巻きつけられたのと同じ有刺鉄線のような形で、もう1本は先端にナイフが備えられた形をしていた。どちらを受けようとも、致命傷は避けられなさそうだ。
多くの人がそうするように、レイもまた反射的に顔を手で守ろうと腕を伸ばした。
すると、またしても小柄なぬいぐるみのような熊が凶刃からレイを守った。4匹が飛びあがり、鞭に掴みかかる。刃が熊の腹部を貫き、無数の棘が熊の胸を裂く。
「行きなさい、“ポイズンテイル”!」
、自分を庇って命を散らしていく熊の精鋭たちに対する、慟哭をぶちまける暇もなく、“ファルス”のもとから“ポイズンテイル”と呼ばれた怪人が、橘看護師を巻き沿いにすることも辞さないというような勢いで、レイに突進してきた。地に響くよう低い唸り声をあげ、床を踏み抜きながら襲いかかってくる。
明らかに今まで、ログハウスのどこにも潜んでいる気配すらなかった怪人である。蠍を思わせる風貌で、右肩には鋏、左肩には蠍の尻尾がそれぞれ飛び出ている。腹部には、バイクのタイヤが半分顔を見せた状態で埋め込んであった。
“ファルス”の足元に、蛍光灯を反射して何かが光っている。それは鏡だった。携帯電話の画面のサイズと同じくらいの、小さなものだ。四角いコンパクトミラーだった。
レイは熊の死の原因を、すべて迫りくる怪人に擦り付けるような気持ちで、睨みつけた。レイの鳥の形をした影が、夜に沈む地面の上を這って進む。そうしている間にも、“ポイズンテイル”は床を蹴り、固い皮にくるまれた腕を振り上げて、レイに近づいてくる。
はやる気持ちを押さえつけて、影の操作にすべての神経を集中させる。1ミリも狂わぬ、精細なコントロールが必要だった。そのためには頭を無にし、心を空っぽにして、ただひたすら目の前の敵に視線を突きつける必要があった。
やがてレイの影を、“ポイズンテイル”は踏みつけた。鳥の形をしたそれは、大きく翼を蠢かせ、そして“ポイズンテイル”の全身を有無も言わせぬスピードで包みこんだ。
成功した、という確信がレイの中にはあった。“ポイズンテイル”の目の色が、明らかに変わった。その証拠に“ポイズンテイル”は、あれほどまでに滾っていた気概を失い、橘看護師の手前で足を止めて、不安げに周囲を見渡している。
その姿は、まるで迷子の子どもさながらだった。暗闇に囲まれ、拠り所失った子には、親が光になってやらなければならない。光で道を示し、闇の中に活路を切り開いてやらねばならない。それが親の義務であり、使命だ。自分もこの4年間、父親にその役目を担ってもらいながら、生きてきた。
今度はそれを、自分が実行するべきだ。レイは目を見開くと、指を伸ばし、声高らかに命令を下した。
「ポイズンなんとかさん。お願いだから、ファルスと一緒にどこかへ消えちゃって!」
いまのレイは、レイの覚醒した能力は、怪人を自在に操ることができる。
これ以上ないほど、理不尽で無責任な暴論を“ポイズンテイル”は実にあっさりと承諾した。“ポイズンテイル”はレイに向かって頷くと、踵を返し、戻ってくるブーメランのごとく、“ファルス”目がけて襲いかかった。
「ポイズンテイル? あなたは、この私の、親のことが分からないんですか!」
鞭によって両腕を塞がれた“ファルス”は、怪人の突然の反逆に目に見えて、動揺している。あまりにその心の振り幅が多かったのか、それとも、信頼していた仲間の裏切りに恐怖を覚えたのか、“ファルス”は鞭を手放した。
しかしだからといって、対抗策を瞬時に肉体へとフィードバックできるはずもなく、“ファルス”は“ポイズンテイル”に襲われ、小屋の壁へと叩きつけられた。
ログハウスを激しく揺さぶるほどの轟音が、響き渡った。
レイのちょうど正面にあたる壁が、“ポイズンテイル”の力によって砕かれたのだ。“ファルス”は押し出される形で、破壊された壁と一緒になって小屋の中から飛び出した。
やがてファルスの尾を引くような叫び声が夜を引っ掻き、やがて聞こえなくなった。どうやら“ポイズンテイル”はレイの命令を忠実に実行し、ファルスと一緒に山道を転げていったらしい。
獣たちが飛び起きるような、その激しい物音に後押しされるように、命を失った熊たちに心の中で謝りながら、レイは生き残った熊たちを引き連れて、小屋の外へと躍り出た。橘看護師はドアの縁に掴まってバランスをとりながら最後まで微笑んで見送ってくれた。
完全に外に身をさらけ出すと、夜の静けさが、レイの体を奪い去ってやろうと手を伸ばしてくるようでもあった。橘看護師の運転してきた車は、まるで落石事故に見舞われたかのように、屋根はへこみ、窓ガラスは破られ、ボンネットがひしゃげている。おそらく怪人とシーラカンスとの争いに巻き込まれたのだと、予想することができた。
車の右前輪のあたりに、携帯電話が落ちている。それはファルスが持っていたものだった。
なぜ、この携帯電話だけが車内か飛び出し、無造作に捨てられているのだろうか。
しかしそれはいつまでも、気に留めている事項ではないように思えた。いま大切なことは、少なくとも、そんなことに思考を働かせることではない。
タイミングよく、夜の中で身を起こした“怪人”の背に悠を預ける。“怪人”はけして意外そうな反応をみせることなく、悠を受け取ると、レイの後ろを走ってついてきた。生き残った熊たちも、軽やかな足取りで“怪人”を追ってくる。
頭がぼんやりとし、全身のいたるところで苦痛が生まれている。それでもレイはけして足を止めることはせず、蒸し暑い森の中を一心不乱に走り抜けていった。
眠りこけた森は、当り前のことながら、非常に虫が多かった。全力疾走をしていても次々と顔や腕に貼り付いてくる。ただでさえ暑い夜だったので、ひっきりなしに汗が出てくる。体内の水分が、すべて流れ出てしまうのではないかと不安になるほどだ。体がべたついて気持ちが悪く、その大量の汗がまた熱さに助け船を出しているように感じた。何よりも、その汗に虫が吸い寄せられてくるのが、鬱陶しい。
前後も左右も足元も、暗闇に閉ざされていた。こんな山中、しかも獣道に外灯など設置されていないのだから、それも当然だった。地面が踏み固められておらず、そのうえ雨のせいでぬかるんでいるため、足が地にめりこみ、走りづらい。車で昇ってきた道路があるはずなのだが、あまりに無我夢中で飛び出して来てしまったために、大きくその道から外れてしまったらしい。
悠をおぶった“怪人”はレイと並走している。両腕を大きく振って、地面を踏みしめながら重たそうな体を揺り動かしている。熊たちもまた、アヒルの雛のようにちょこちょことレイの後ろを必死についてくる。
胸が苦しく、息があがる。それでも走り続ける。木のざわめき以外に何も音もない、そして行き先も分からない、道の上を。
「あ」
意識が、飛んだ。
目の前が真っ暗になり、気づくとレイは、地面に倒れこんでいた。口の中に土が入ってしまい、舌が苦い。まるで意識と肉体が分離してしまったかのように、体が動かせない。
立たなければ、追いつかれてしまう。こんなところで倒れていてどうする。心の中で己を叱咤するが、反して指1本さえも持ち上げることさえままならない。
その時、突然レイの体が宙を浮いた。“怪人”がレイを持ち上げたのだ。そして“怪人”は左腕でレイを抱くようにした。
「ありがとう、カメキチ。さっきも助けてくれたよね」
カメキチというのは、レイがこの怪人につけた名前だった。全体的に風貌が亀っぽいことに由来している。咄嗟に名付けたのであるが、呼びやすいので気に入っていた。“怪人”も嬉しそうに身をよじっているので、そう呼ばれることに嫌悪は抱いていないのだろう。
“怪人”、変わって“カメキチ”はレイをひとつ目で見つめると、ごろごろと声をあげた。そして、レイの手首をくぐっていた手錠を完全に砕き、外してくれる。
レイは“カメキチ”にもう1度、頭を下げることで礼を告げると、その顔を正面から見据えるようにした。
この怪人が見知らぬ女性の耳から作られた、ということを改めて意識してみると、なんだか不思議な気分だった。カメキチだけではない。この足もとに群がる熊たちもまた、誰かの死体から構成されている。
レイが佳澄さんの魂を受け継いでいるように、この怪人たちにもそれぞれ、生前の記憶がうっすらとでも残っているのだろうか。与えられたばかりの知識を使って、ついそんなことを考えてしまう。
いま一度、“カメキチ”の顔を見つめ返す。そのひとつ目の怪人は、なんだか嬉しそうに、目をぱちぱちと動かして微笑んだ。
レイは疲労のたまりきった体を、その胸に預けた。“カメキチ”の体は固く、まるで鉄の塊のようだった。
“カメキチ”の背中には悠がいた。まだ眠っている。息をしていないのではないかと不安になり、彼女の口に手をかざすと、そこに微かな吐息が返ってきた。
「良かった……」
手を伸ばし、悠の頭を撫でる。こんなことに巻き込んでごめんね、と呟きながら。
本当に無事でよかった。自分が死ぬことよりも、悠が酷い目にあわされることのほうが、レイにとっては辛いことだった。
「こんなところで、おやすみか」
男の声が森に反響した。どこから聞こえたものなのか判断がつかず、首を巡らせると、レイのすぐ脇にある木の上に、スーツの男の姿が見えた。
男は木の枝に座って、ウィスキーボトルに口をつけていた。足をぶらぶらさせて、レイを見下ろしている。その表情は、夜の暗がりのせいでほとんど確認できない。
「どこに逃げるつもりだ。このままいっても、遭難するのがオチだぞ」
傾けていたボトルを下ろしながら、男が忠告する。レイは“怪人”に抱かれたまま、男を、力いっぱい睨みつけた。
「あなたたちの、いないところまでだよ」
「親父をふっ飛ばしておいて、よく言うな。ま、別に心配はしてないけどよ。あれくらいで死ぬタマじゃないからな。お前なんかに、倒れるほど、あの人は柔じゃない」
レイは警戒心を滾らせ、目を細めた。人語を解する怪人の存在など、ディッキーを除外するならば、聞いたことすらなかった。人間から変化する、という特徴を足せば尚更だ。ファルスの言っていた、“新型”という説明が、頭をよぎる。
闇の中で、レイの鳥の姿をした影が無音のままに動く。それは闇の中で躍る黒猫のような敏捷さで、男の座る木全体を、素早く包みこんだ。
怪人ならば、レイの力を使って操ることができる。この“カメキチ”と同じように、だ。レイは体でも頭でもなく、本能で自分の力を端的ではあるが、理解しているつもりだった。
ところが、男は薄い笑みを浮かべた。レイの浅い思惑を嘲るかのように。
「残念ながら、その手に引っ掛かるわけにはいかねぇな」
男は木の上から飛び降りると、空中で一回転し、“カメキチ”の背後に着地した。同時にボトルを持った腕を、いっぱいまで振り抜く。
ばしゃり、という音とともに小さな熊たちが何かの液体を浴び、一斉に飛び上がった。
その液体は跳ね、レイの頬まで飛んでくる。アルコールの臭いがつんと鼻を過った。ウィスキーだ。“怪人”の足元で並ぶ熊たちに、男はボトルに入っていたウィスキーを浴びせたのだ。
「お前に直接恨みはないが……。親父の命令なんでね。残念だが、死んでくれ」
突き放すように告げると男は、ボトルを地面に落とした。ボトルは斜面を転がり落ち、木に引っ掛かって止まった。
「あなたは、ファルスの人を親として生み出された、怪人」
先ほど、白衣の男から受けた説明を頭の中で再構成し、知識を抽出する。怪人は黒い鳥と、親、それから死体1つという3つの要素が揃って初めて誕生する。
男は首肯した。そして帽子のつばを指で押し上げると、レイを見下すようにした。
「あぁ。そうだ。子は、親に従うものだ。その思想が間違っていようが、正しいだろうが、俺には関係がない」
「お父さんを、信じてるって、そう言いたいの?」
「そういうことだな。俺を産んでくれたことに、少なからず感謝もある。お前を親父の前につきだすことが、俺の親孝行ってやつだ」
同じだ、とレイは男の爛々と金色に輝く瞳を見据えながら、思った。レイもまた黒城のことを信じている。産んでくれたことに対する感謝の気持ちもある。
レイも男も、誰かから生み出された怪人だ。そしてその親を信頼し、感謝している。
要素を切りだして並べてみると、被害者と加害者という点に違いこそあるものの、2人の立ち位置にあまり違いはないように見えた。
「私も、そうだよ」
レイは男の顔を正面から睨んだ。男もまた、帽子の陰からレイを鋭く射抜き返す。
「お父さんを信じてる。感謝もしてる。だから私が生き続けることが……多分、親孝行になるんだと思う。だから、こんなところで、私は死ねない」
男はレイの宣言に唇を歪ませ、笑んだ。するとその黄色みがかった瞳がよりいっそう輝きを増し、男の姿は人間から、化け物へと滞りなく移り変わる。
そうして金色のうろこに身を包んだ魚型の怪人、“シーラカンス”へと男は変貌した。
「ならな、どちらが親孝行できるか。いっちょ、勝負といこうか」
“シーラカンス”は鉈を引き抜くと同時に、レイ、つまり“カメキチ”目がけて切りかかってきた。
“カメキチ”は左腕のレイをかばうように半身になると、右の肩当てで凶刃を防いだ。それからその肩を前に突き出すようにして、“シーラカンス”を押し退ける。
“シーラカンス”は後ろに跳躍すると、体勢を整え、掌を熊たちに向けてかざした。その手の中心に膨大な熱量が集中していくのが、レイにも分かった。その周囲の空気が歪んでいる。“シーラカンス”の掌が真っ赤に染まっていく。
熊さん逃げて、レイは不安のままに発するが、それは声にならなかった。
“シーラカンス”の手から、青白い電撃が放たれたからだ。それは耳を切りつけるような高音を響かせ、熊たちの頭上に落ちた。
そして電撃は一瞬で、業火へと変わった。赤い火がパッと瞬いたかと思うと、一気に炎が燃え広がり熊たちを包みこんだ。
「熊さん!」
熊たちは口々にうめき声をあげながら、次々と火の中で倒れていき、見る見るうちに真っ黒い炭と化していく。レイは反射的に手を伸ばし、熊たちを救いだすために身を乗り出したが、すんでのところで“カメキチ”に止められた。“怪人”はレイの目をその大きな手で覆い隠し、火から後ずさった。
たんぱく質の焼ける臭いが森に充満する。“シーラカンス”は火から逃れ、飛びかかってくる熊の頭を、鉈で割り、体を裂いて、叩き落とし、踏みにじって、一匹として自分の体に寄せつけようとはしなかった。そのうち、熊の鳴き声は細切れになっていき、叫喚も止み、そして森は再び静かになった。
炎はうねりをあげ、周囲の木々に引火してさらに燃え広がっている。暗闇に包まれていた空間が真っ赤に照らされ、いまや真昼間のように森全体が見渡せるようになった。
なぜあの小さな電撃1つで、こんなに被害が大きいのだろう。そう考え、レイはすぐに気づいた。
電撃がウィスキーに引火したのだ。アルコールは燃える。先ほど熊たちにウィスキーをかけたのは、1度の攻撃で熊たちを一掃するためだったのだ。効率的だが、あまりにも残酷な攻撃。レイは乾いた目で、“シーラカンス”を射抜くように睨んだ。
「あんな小さな奴らでも、ファルスを圧倒していたことは確かだ。掃討しておいて、悪いことはない」
“シーラカンス”が鉈を、横に薙いでくる。“怪人”は後ろに跳躍して、その攻撃をかわした。だが、刃物による攻撃は、“怪人”の姿勢を崩させるための囮だった。
“シーラカンス”の振り上げた足に、白い電撃が纏われたのをレイは視認した。しかしだからといって即座に対応できるはずがなく。その繰り出された回し蹴りは、“カメキチ”の腹部を確実に捉えた。
その衝撃は、腕の中にいるレイにも伝わった。“カメキチ”はレイと悠を巻き込んで吹き飛ばされ、地面に投げ出され、そのままほぼ絶壁とも呼べる斜面を転がり落ちていった。
ぐるぐると、激しく視界が回転する。どっちが上で下なのか、まったく分からない。平衡感覚が狂っていく。始めは石ころや枝先が体に刺さって痛かったが、その感覚さえも渦のなかに消えていった。
その視界は暗闇に閉ざされ、そのうちレイは今度こそ完全に意識を失った。