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17話:涙

2010年 7月31日


 7月も、今日でようやく終わる。

気づけば蝉の声も月初めより弱まり、本当に微妙な差ではあるものの、日が早く落ちるようになってきた気がする。太陽が隅に追いやられ、夜闇が幅を利かせていく姿は、どこかいまの社会を象徴しているかのようでもあった。

 昨日の快晴と打って変わって、今日はどんよりとした天気だった。灰色の雲が空にひしめいている。いつ、雨が降ってきてもおかしくはない。空気は湿り気をたっぷりと含んでおり、単純な暑さで比べるのであれば、燦燦と太陽が照り輝いていた昨日よりも、陰鬱とした雲に閉ざされた本日の方が厳しかった。じっとしていても、汗がにじんでくる。

 そんな7月の最終日に、レイは寝込んでいた。昨夜から発熱が続いているのだ。体温は37度から38度のあたりを、いったりきたりしていた。

その原因はおそらく肉体的・精神的な疲労と、手足のけがからきているのだろうということを、レイは自覚していた。

首の傷には絆創膏が貼られ、鞭で攻撃された際にできた手足の傷口には、包帯が巻かれていた。安静にしている分には、傷の痛みはない。熱に浮かされていると、自分がけがを負っていることすら忘れてしまいそうなほどだった。

 昨日は夢を見た。“ファルス”に虐げられる夢だ。

その夢の中でレイは、裸電球だけが唯一の光源として機能しているような、薄暗く、物哀しく、非常に埃っぽい地下室にいた。夢の中であるはずなのに、かび臭く、蒸し暑い。そんな不快な要素が、否応なしにリアリティを押しつけてくる。室内は狭く、中心に置かれた長テーブルが面積の3分の2を占めているほどだった。

その微かに身じろぐだけで、軋んだ音をたてる長テーブルの上に、レイは寝かされていた。

両手足には錆びた釘を打たれ、その場から逃げ出すことのないよう、厳重に拘束されている。気づけばレイの体は泥まみれで、衣服はところどころが破かれ、日焼けを知らない柔肌が乱暴に引き裂かれた布の合間から、ところどころさらけ出ていた。

生温かい感触を指に覚え、視線をやると、釘の刺さった掌から音もなく血が流れていた。小川のせせらぎのように、その赤い水はテーブルの上を伝い、幾重にも枝分かれしている。

夢の中であるはずなのに、苦痛がレイの顔を歪める。手足が、首が、掻き毟られ、引き剥がされるかのように痛い。血の流れに伴って、その痛みは強さを増していくかのようだ。胸がつまり、喉が痙攣を起こしていて、発声することができない。声もなくレイは、ただ唇を血が滲むほどに強く、噛む。

足の裏で床を擦る音が聞こえ、レイは力なくそちらに目を向けた。そこには“ファルス”がいた。

“ファルス”は苦悶の表情を浮かべるレイを前に、腹の底から声をあげて笑っていた。1人で腹を抱えて、爆笑している。そのうち仮面の口元には深淵が宿り、見るだけで吸い込まれそうな大きな陥穽が開かれる。

“ファルス”の声は、絶望に姿を変えて、容赦なくレイの体に降り注いでくる。その重みでさらに深々と釘が手首に埋まっていくかのようだった。

手足をばたつかせることもできず、レイは腰を浮かせ、胸を激しく上下させながら、必死にその苦しみから脱出しようと、全身で足掻く。

そうして死の恐怖が頭を真っ白に染め上げ、“ファルス”の笑いが聴覚全体を支配したところで、レイは弾きだされるようにして、現実へと引き戻された。

「助けて……!」

 掛け布団を跳ね飛ばし、勢いのままに上半身を起こす。寝起き一番、口から飛び出したのは、救いを請う、切迫した悲鳴だった。

時計の針が時を刻む音。自分の部屋の天井。自分の布団の感触。寝息をたてるディッキーとライ。

ひとつずつ、これが現実であることと、今のが夢であったことを確認し、それからようやく留飲を下す。それでも心臓が激しく脈打ち、全身は粘り気のある汗で濡れ、体の震えがしばらくは止まらない。

 そんな風にして、昨晩だけでも3度起こされた。

その後も“ファルス”の仮面が瞼の裏をちらついて、寝つくことを許してくれないため、結局夜はほとんど一睡もすることができなかった。

 やっと寝ることができたのは、夜が明けてからだった。たとえ太陽が曇り空に覆われていたとしても、朝の清潔な雰囲気は、レイの心の暗幕を剥がし取る役目を負ってくれたようだった。

 黒城やライが何度も心配して部屋を覗きこんでいたのに気が付いていたが、レイはそれを無視して結局、眠りについた。疲労を体の隅々にまで、塗りたくられているような、そんな感覚だった。

 次に目を覚まし、枕もとに置かれた携帯電話を手繰り寄せ、時間確認をした時には、お昼を回っていた。数秒、天井の壁をじっと見つめ、気力を全身に巡らせてから、上半身を起こす。まだ熱があるのか、頭がひどく重かったが、恐怖は薄らいでいるようだったので安心する。

 ふと、額に触れる。そこには冷却湿布が貼られていた。レイの体温で冷たさが奪われ、生温い感触だけを残している。指先で強く押さえつけると、ひんやりとした感触がかすかに蘇るようだった。

「おはようございます、お母ちゃん。ご加減はいかがですか?」

 その声に引っ張られるようにして、レイは頭を動かした。

すると視線の先で、ディッキーが正座をしていた。腕にはペットボトルに入った水を抱えていた。彼は相変わらずトランクス一丁、という出で立ちだったが、その柄は昨日とは違っていた。

「おはよう、ディッキー。うん。まぁまぁ、みたい。ちょっとはよくなったみたいだけど」

 首を傾けると、それだけで関節が音をたてる。なんだか体中の関節がぎこちない感じがする。1日の大半をベッドの上で過ごしている悠が不平を口にしてしまうのも、無理はないなと思った。寝てばかりいるのも、けして楽ではない。

「それは、良かったです」

 ディッキーが、鋭い前歯を見せた。レイもその笑顔に釣られて、頬を上げる。

「昨日、あの公園に来れたのは、やっぱりディッキーのおかげ?」

 ディッキーから水を受け取り、キャップを開けながら、尋ねた。あんな人気のない公園に、タイミングよく2人が登場するなど、常識的に考えれば不可能に近いのではないか。しかしディッキーが言う「レイの気持ちを知る能力」という、非常に胡散臭い代物ならば、それができてもおかしくはないと思った。眉唾ものではあるが、その能力の信憑性は、髪どめや、トラックの件で実証済みだ。

 しかし、ディッキーは「いえ」と首を振った。そしてドアの方を振り返った。するとまるで、ディッキーの神通力が働いたかのように、ちょうどそのドアが外側から開いた。

 ドアの向こうから、ライが顔を覗かせた。頭の両端で結んだブロンドの髪の毛が、触角のように揺れている。ライはレイが目を覚ましていることを確認すると、パッと表情に花を咲かせ、室内に足を踏み入れた。

「お、起きてんじゃん! よかったよかった。大丈夫か?」

「うん。まだちょっと、熱があるみたいだけど」

 ライはディッキーの隣に腰を下ろす。あぐらをかくと、それからわざとらしく大きなため息をついて見せた。

「ったく、昨日はびっくりしたよ。本当にあんなところにいるんだもなぁ。私の予感が当たってよかったよ」

「じゃあ、あの場所が分かったのは、ライが?」

 自分のこめかみの辺りを指差しながら、「当たり前だろ!」とライは即答する。「当たり前じゃないよ」と呆けたまま、レイは言葉を返した。

意外だった。まだディッキーが指し示した、といわれたほうが信じる余地もある。なぜライが、あの場所を言い当てられたのだろう。知らず知らずのうちに疑問を表情に出していたのだろう。ライは口をもごもごさせると、途端に表情を暗くした。

「お前、あの変態オヤジに会ったあとから、なんだか変だったからさ。なかなか帰ってこなかったし。あそこにいるんじゃないかなぁ、って探してたんだよ」

 レイは瞬時に理解した。それから、ライの目を正面から見据えた。

「それで、大当たりだったんだね。なんか心配かけちゃって、ごめん」

「いや、あのオヤジにちょっかいだしたのは、私だしさ。なんかそう考えると、すごく悪い気がしてきちゃって……。こっちこそ、ごめんな」

 ライの面持ちが優れないのは、それが理由かとレイは得心した。もちろんライに落ち度はない。黒城の話に衝撃を受け、河人に相談を持ちかけに行ったのは、レイ自身だ。だからこそ、その気持ちをはっきりと伝えたくて、レイは意識して微笑んだ。

「そんなことないよ。ライは私を心配してくれたんだから、ありがとう」

「そう言ってくれると、なんだか助かるよ」

 照れくさそうに笑いながら、ライはディッキーの頭を何度も叩いている。掌で耳が潰される度に、ディッキーは黒い瞳をくりくりと動かした。

 それからライは昨日から今日にかけての話をしてくれた。

気を失ったレイを、ライがおぶって家まで送ってくれたこと。それから、ディッキーと協力して布団を敷き、遅くまで2人で看病をしてくれていたこと。疲れてライが寝てしまうと、黒城がずっとレイを見守っていてくれたこと。

「お父さんが?」

 訊き返すと、ディッキーは首を体にうずめるようにして肯定した。

「はい。私は押入れから覗いていたのですが、お母ちゃんをずっと枕もとで見ておりました。私もすぐ寝てしまったので、何時までいたのかは分からないのですが」

「そう……」

 父親が、側にいてくれた。その事実だけで、体中の血液が熱を帯びていくようだった。懐疑的になっているのに、しかしそれでもまだ、黒城のことを好きなままでいられることが、レイは嬉しかった。

「お父さんは、仕事?」

 壁にかかったカレンダーを見る。2010年の7月31日は、土曜日だ。黒城の仕事は基本的に土日が休みなのだが、その職業柄、土曜日も出勤することも少なくはなかった。ライもまたカレンダーを確認してから、眉を寄せて頷いた。

「仕事とは言ってなかったけどな。どうしても外せない用事が入っちゃったんだってさ。看ていてやれないのは無念だ、って残念がってたよ。コーンフレーク掻きこみながら」

 仕事以外の用事。考えるまでもなく、レイは合点した。今日は、マスカレイダーズの集合日だ。

 そして同時にレイは自分の心境の変化に、驚いた。昨日まではあれほどディッキーをライから突き放し、あげくにマスカレイダーズに保護させようと熱をあげていたのに、いまやそんな気はまったく起こらなかった。

 ライの言う通りになってしまったのは悔しいが、それでもレイは、知らず知らずのうちに、いつのまにかディッキーと一緒に暮らすことを考えている。

 家族は繋がり、絆。河人の言っていたことが、ふと頭に蘇る。

 血の繋がりのない3人で、ずっと家族をやってきた。そこにまた1人、新たな命が参入するだけだ。何の問題もない、と言っていたライの声が耳を横切り、今更それに同意する。

ディッキーは丸い目で、じっとレイの顔を見つめている。そのあどけない表情に、レイの顔もほころんだ。

「ま、お父さんの分まで私たちが見ててやるからさ。まったく、昨日はオセロしながら、合間合間でお前のことを心配してたんだぞ? 私たちに感謝しろよ」

「4回やって、私は3回勝ったのでございます」

 ディッキーが胸を張る。ライはむっと唇を結んだ。レイもまた眉間に皺を寄せた。

「心配してる割には、楽しく2人で遊んでるじゃない。それに、さりげなくライはボロ負けじゃん。どうしたの?」

「しょうがないだろ。こいつ、意外と強いんだから。将来は絶対プロオセラーだな。賭けてもういい。私が保証するよ。こいつはでっかいネズミになるぞ」

「ディッキーはもう十分大きいよ。それに、そんな職業はないよ」

「細かいこと言うなよ。だってディッキーは生まれたときから、敬語使えるんだぞ? こんな奴、他にいるか? 将来有望にも程があるだろ!」

「まぁ、それには同感だけど。おいで、ディッキー」

レイは手招きをしてディッキーを呼んだ。とてとてと足音をたてて歩いてきたディッキーの頭を、何度か撫でてやる、するとディッキーは気持ちよさそうに体をくねらせた。

「そうだね、ディッキーはきっとすごい大人になるよね。生まれて2日で、私の命を救ってくれたんだもん」

「お母ちゃんの幸せは、私の幸せですから。そう、何度もお礼を言わないでくださいまし」

「こいつ、すぐ赤くなるよなぁ。分かりやすいやつ」

 毛にくるまれている白い皮膚を赤らめるディッキーを、ライが茶化す。「ライにだけは、ディッキーも言われたくないと思うよ」とレイはすかさず言い返した。

「そういえば、ちょっとディッキーに渡したいものがあるんだけど」

 それは昨日、ふと思いついた考えだった。レイは水を置き、布団から這いだすと、押し入れのドアを開けた。熱で頭が浮かされていたが、足がちゃんと床についていることに安心する。押し入れに体の半分ぐらいまでを突っ込み、中を探る。目的のものは、すぐに発見できた。

「これなんだけど」

 布団に再び足を入れ、押し入れから運んできたものを、ライとディッキーの前に置く。

「なんだこりゃ」

 ライが不審さのこもった声をあげる。

「これは、立派でございます!」

 目を輝かせながら、ディッキーが両手をあげて大喜びする。

 畳の上にぽつんと置かれたもの。それは、小さな子ども用の半袖Tシャツだった。青い、アヒルの絵がプリントされたシャツで、皺が寄っているのを除けば、目立った汚れや痛んだ箇所も見つからない。

「これ、どうしたんだ?」

 シャツを擦った指に鼻を寄せながら、ライが尋ねる。レイは掛け布団を胸に引き寄せながら、人差し指を立てた。

「中1のときに、みんなでフリーマーケットして売れ残った品物だよ。捨てるのももったいないから持ち帰ってきて、しまったままだったの」

「ふぅん。お前、なんでも持ち帰ってくるからな。給食のパンとかさ」

「人を犬みたいに言わないでよ。まぁ、それでね、なんかやっぱり、パンツ一丁はかわいそうだと思って。これなら、ディッキーにぴったり合うでしょ」

「なんだよ。赤パンの熊がそんなに嫌いなのかよ」

 パンツ一丁という自分の提案を、遠まわしに却下されたからだろう。ライは不服そうに唇を曲げた。レイはそんなライの鼻を、指先で小突いてやった。

「嫌だよ。ライだって、朝起きたら自分の周りを53人の熊が取り囲んでたら嫌でしょ?」

「いいや、私だったら53人くらい一撃でノックアウトするな。熊ぐらい、楽勝だろ」

 勝ち気に言い放ちながら、拳で空気を切り、ボクシングの真似事をする。つよがりというわけでもなさそうだな、とレイは思ってしまう。ライなら本当にやりかねない。目的を前にしたライの強さは、これまでの経験から重々承知しているつもりだった。

「まぁ、それはそれとして。とりあえず、ディッキーに似合うと思うんだよ。どう?」

 ライの意見を無視して、シャツの袖を持ち、ディッキーの前で広げてみせる。丈や袖の長さに問題はないようだった。

「これを、私にくださるのですか……?」

 ディッキーは小さな手で自身の顎のあたりを指さしながら、目を丸くしている。

「いらない? なら、しまっちゃうけど」

 シャツを遠ざけ、布団から立ち上がるふりをすると、ディッキーは面白いくらいに慌てふためいた。「やーやーやー」と変な悲鳴をあげている。

「嫌?」

「あ、や、くださるのであれば……喜んでちょうだいいたします」

 動揺しながらも、謙虚さを忘れず、おずおずと手を伸ばしているのが可愛い。レイはシャツを再びディッキーの体にかざした。

「あげるために、わざわざ出したんだよ。ほら、腕上げて」

 降伏のサインのように、両手を上げるディッキーにレイはシャツを着せてやった。大きな丸い耳が邪魔だったが、ライと2人がかりで無理やり押し込むと、何とか頭をくぐらせることができた。ディッキーは、ようやく、よちよち歩きを始めたばかりの赤ん坊のように、足取りが覚束ない。

「お、いいじゃないか」

「いいね。サイズぴったりだし」

 レイとライは、揃って笑顔を見合せる。

まるでこの日のために押し入れの中で眠っていたんだ、と言わんばかりに、シャツのサイズはディッキーにぴったりだった。目測に反して若干裾は長かったが、そのおかげでトランクスを隠すことができた。

 ディッキーは初めて身に纏う衣服に戸惑いながらも、嬉しそうだった。ぴょんぴょんととび跳ねては、喜びを体全体で表現している。

「なんか、こうしてみると、可愛いね」

 服を着たディッキーは、まるで赤ん坊のようだ。いや、実際赤ん坊らしいのだけれど、その丁寧すぎる口調と巨大ネズミという外観のせいで、つい忘れそうになる。しかし服を着て、座っているレイの目線よりもまだ下の位置ではしゃぎ回るディッキーは、可愛らしかった。

「私は最初みたときから、可愛いと思ってたぞ」

 なぜか、自慢げにライが張り合ってくる。はいはい、と適当にあしらうと、レイはディッキーの頭に手を乗せた。ディッキーの頭はいつもふかふかで、毛糸の塊を掴んでいるかのようだ。

「ディッキー、よく似合ってるよ」

「お母ちゃん、ありがとうございます。私、本当に嬉しいでございます」

 首をいっぱいまで傾け、ディッキーはこちらに顔を向けてくれる。

レイはぎょっとした。

ディッキーは涙を零していた。喜びながら、泣いている。落ちた雫が、畳に染みを作っていく。

「なにも、泣かなくても」

 始めのうち、レイは驚きに苦笑いを浮かべていた。しかし、顔を覆うようにしてぼろぼろ泣きだすディッキーを見ているうち、なんだか胸を締め付けられるかのような感覚を抱いた。いままで生きてきた中で、これほどまでに感謝されたことがあっただろうか。自分に向けられた喜色の涙に、出会ったことがあっただろうか。

胸は苦しいのに、心は優しい気持ちにくるまれている。こんな気分になったのは、初めてだった。気づけばレイは、熱の帯びた目頭を冷ますために瞬きを繰り返している。

「ありがとう、ございます、ありがとう……」

 何度も何度も、ディッキーは嗚咽混じりにそう呟いている。鼻をすする音が聞こえるので横に目をやると、ライが目を潤ませていた。ディッキーに抱きつくと、一緒になって声をあげて泣いた。これがもらい泣き、というやつなのだろうか。

「よかったなぁ、よかったなぁ」

 ディッキーと頬をすり合わせながら、なぜかライも感極まっている。レイはため息をつくと、顔をほころばせた。レイもまた、喜びの絶頂にある。だからライの気持ちもよく分かった。

「本当に、良かった」

 涙を流さないまでも、レイは瞳が水気を帯びていくのを自覚していた。恐怖の涙でも、絶望の涙でもない。人のために流す涙は、清らかで、潤っている。ライとディッキーの足元に刻まれていく、歓喜の足跡を見つながらレイはそれを実感した。



 昼食は、ライが作ってくれたおかゆだった。

「熱があるときは、おかゆだろ」というのはライの持論らしく、熱が下がるまでおかゆしか食べさせてくれないらしい。一刻も早く治さなくてはという気力が、それまで以上に沸いた。

「そういえばさ、ライにちょっと聞きたいことがあるんだけど」

 お椀に盛られたおかゆをライから受け取る。時計を見ると、午後1時を回ったところだった。

「なんだよ、できることなら何でも答えたいけど。ディッキー、梅干し」

「梅干しでございます」

「それはたくわんだ」

 まぁ、いいか。いいよな、と1人で納得しながら、ライはおかゆの上にたくわんを、丸ごと1本放りいれる。食べる人が目の前にいるのだからこちらに聞いてほしい、とレイは思ったが厚意を否定するのも野暮だと考え、あえて黙っていた。

「そういえば、ごめんね、ライ」

「なにが?」

 ディッキーの口に、延べ棒のような形をしたたくわんを突っ込みながら、ライは漫然と返してくる。レイは目線を下げた。

「パーティー、できなくなってさ。明日の旅行も怪しくなっちゃったし」

 これは本当に、気に病んでいることだった。自分のけがのせいで、家族全員が一致団結して、楽しみにしていた旅行が延期になるのは、心苦しい。

 だが、ライは優しかった。唇にカーブを描くようにして、にやりと笑うとレイの肩を思い切りはたいてきた。突然の衝撃にレイは前のめりになる。

「ばっか。そんなこと気にすんなよ。旅行ならいつでもできるよ。いまは、お前のほうが大事だ。そう、心配すんなって」

 このような磊落な態度は、ライの短所であるとともに、最大の長所でもあった。レイはまたライの言葉に救われる。「ありがとう」と、感謝を告げると、再度背中を張られた。

 じんじんと疼くような痛みを感じながら、レイは唐突にライにまたあの質問を投じてみたくなった。しかし今までと同じでは芸がないので、角度を、変えてみる。

「ライはさ、自分のお母さんとか、お父さんのこととか、知りたくならないの?」

 レンゲを渡そうとした、ライの手がぴたりと止まった。それから、憐れみと憤りの混ざった視線をレイに向けてきた。その目に気圧され、レイは慌てて「別に探そうとかそういうんじゃなくて、好奇心でだよ」と補足する。ここまで顕著に、表情を変えるのは、予想外だった。

 その説明でライは心底安堵したかのように肩を落とすと、レイの手にレンゲを握らせた。

「逆にさ、もし、私の前に『俺がお前の父親だ!』とか言ってくる野郎がいたとしてもさ」

「うん」

「私はたぶん、戸惑うと思う。母さんはともかく、父さんの記憶なんて塵1つもないし。そんで、絶対に思うんだよ。こっちのほうが、今の方が、良かったなぁって」

 言い切ったあと、ライはそこでなぜか、「なっ?」と同意を求めながらディッキーの頭を叩いた。たくわんをかじっていたディッキーは全身の毛を逆立て、「さようでございます!」と繕ったように叫ぶ。

「なんか上手く言えないけどさ、ミミゴンと似たようなもんなんだよ」

 狼狽するディッキーの背中をわしわしと撫でてやりながら、ライは都市伝説に出てくる妖怪の名前を口にした。

「ディッキーは、ミミゴンじゃないよ」 レイが先回りして言うと、ライは他人事のように「どう見ても、ミミゴンじゃないだろ」と唇を前に突き出した。

「なんか上手く言えないけどさ」

 再び同じセリフを口にしながら、ライは自分の髪の毛を掴んだ。レイとまったく同じ色をした、その髪の毛を、だ。

「ディッキーって、なんだか分かんないわけだろ? でも、私たちは仲良しだ。私の両親も誰だか分からない。だけど、私は楽しく暮らしてる」

「つまり、今が良ければなんでもいいってこと?」

「乱暴だなぁ」

 ライは不服そうに、今度は唇をすぼめた。レイは下唇を弱く、噛む。妹の言いたいことはそれとなく分かるのだが、うまく声に乗って出てこない。

「そうじゃなくてさ、そりゃなんでも信じるバカになれってことじゃないけど、たまには無条件に信じてもいいんじゃね、ってことを言いたいんだよ。大切なのは、正しいことだろ。疑うことで、私たちの今までやってきたこととか、されたこととか、そういうのまで曇るのは、間違ってると思うんだよ」

「ライにしては、まともなこと言うじゃない」

 感嘆の思いで、レイは目を細めてライを見る。反論の余地がなかった。ディッキーが怪人でも、黒城が重大な秘密を握っていても、自分の過去に何が隠されていようとも。大切な日常を、共に過ごしたことは嘘にならない。

 胸に宿る青い光から目を逸らすな。誰かが言う。どれだけ世界が、凄惨としたものに変遷していこうとも、光がいつもこの胸にあるのだから。

「なに言ってんだ、私はいつもまともだろ。なー、ディッキー」

「すみません。ちょっと聞いていなかったので、もう1度お願いしたいのですが……」

 確信的なのか、それとも本当に聞き逃していたのかはともかく、ディッキーの容赦ない一撃に、ライはうなだれた。しかし起き上がりこぼしを、彷彿とさせるような速度で、すぐに面をあげると、「このでかい耳は飾りか!」とディッキーの頭を力強くはたいた。

 ひぃ、と詰まった悲鳴をあげるディッキーを横目に、ライはまたレイに視線を戻してくる。それから「それに、たとえば本当の両親見つけようとしてもさ。私じゃ思ったとしても見つからないよ。1日で飽きる自信があるね。人探すのは、探偵だけでいいんじゃね? くだらないけど」と頭の後ろで手を組みながら、いつもの調子で言った。

 探偵に仕事を与えるのが仕事である父親の娘が、言うべきセリフではないな、と呆れながら、レイは数日前のことをふと思い出す。

「そういえば、お父さんが雇ってる探偵がいるじゃない。その人がこの前家に来て、なんか写真みせてきたんだよ」

「写真? 私たちに?」

 ライが、要領を得ない表情を浮かべる。その気持ちに、レイは同調する。父親にならまだしも、その娘に雇われ探偵が関わることなど、めったにないことだった。実際、レイはその若い茶髪の男探偵と会話を交わしたのは、それが初めてだった。

「どんな写真だったんだ?」

「女の人の写真。それ見せられながら、この人知らないか、って聞かれて。あと、この日はなにしてたのか、とかも質問されたんだけど」

 探偵が示したのは、確か3年くらい前だったと思う。1週間前に食べた朝食のメニューでさえ怪しいのに、そんな昔のことを記憶しているはずはなかった。また、写真に写っていた女性にもまったく見覚えがなかった。それを伝えると、彼はがっくりとうなだれていた。

「へぇ。なんか、刑事っぽいじゃないか。アリバイ捜査とか、そういうやつだろ?」

 ライの瞳が無邪気に輝き始める。ドラマや漫画でよく目にするような出来事にぶつかると、あからさまに興奮するところは、実に黒城によく似ていると、レイは常々感じている。

「分かんないよ。それでその人、ライにも見せてやってくれ、って写真置いていったんだよ。すっかり忘れてた。たぶんいまは、お父さんが持ってると思うけど」

「そうかぁ。じゃあ、私たちは容疑者ってことじゃないか! うわぁ、どうするんだよ。なんかわくわくしてきた。早くその写真見たいなぁ。父さん帰ってこないかなぁ」

 なぜ容疑をかけられて昂揚しているのか、レイにはかけらほども理解できない。それを言葉に出すのも億劫に思え、レイは代わりにお椀へと視線を落とした。

お椀からは白い湯気と共に、湿った米の匂いが立ち昇っている。レイはとりあえずたくわんを脇にのけると、レンゲでおかゆだけをすくい、口に運んだ。

不意に視線を感じて目線を向ければ、ライとディッキー、4つの目が固唾を呑んでこちらを見守っていた。レイは唇の前で手を留め、顔をしかめる。

「何で見てんの。見られてると、食べづらいじゃない」

「いいから、早く食えよ」

 嘆息し、おかゆを口に入れる。

するとまず、舌に軽い刺激が走った。無理やり呑みこむと、今度は喉が一撃で干上がる。胃に落ちると、なんだか腹のあたりが重くなってきた。レイは、激しく咳きこみながらライを睨んだ。

「なにすれば、こんなに、おかゆまで、味が、濃くなるの?」

 喉がいがいがして、咳が止まらない。ライは頬を掻きながら、申し訳なさそうに言った。

「それがちょっと、塩を入れ過ぎたみたいなんだよ。まぁ、味がないよりはいいだろ?  ほら、人間には塩が必要って、こないだテレビでやってたし」

 すでに開き直っている。レイは、2本の目のペットボトルを飲み干すと、お椀を畳に置いた。体内の水分を一撃で半分以上、持っていかれた気分だった。体中の細胞が我先にと、水分を吸収しているのが分かる。

 ライの真心がこもった料理だ。当然、すべて食べつくすつもりだった。そのつもりだったけれど、鍋の中で山のように積み上がっているおかゆを見ると、自然に胃がきりりと痛みを発するようだった。

「たくわん、おいしいです」

 服を汚さず、代わりに畳に黄色い汁を呑ませながら、ディッキーは小気味のいい音をたてて、たくわんを丸かじりしている。その様子をじっと眺めていると、なんだか塩辛いおかゆを食べる気が、レイの中でふつふつと沸いてきた。

 息子がたくわんを水分なしに猛然と食しているのだ。母親がちょっと塩気の多いおかゆくらいで、へこたれるわけにはいかないと、執念にも似た感情を抱く。



 ライとディッキーが、洗い物をするために部屋を出ていったのを見計らって、レイは携帯電話を手に取った。父親に電話をかける。1度は留守番電話サービスに切り替わってしまったが、それから1分も経たない間に、折り返しの着信音が鳴った。

 レイは唾をごくりと飲みこんでから、通話ボタンに恐る恐る指を当てた。

「お父、さん?」

「もしもし。レイか。悪いな、会議の途中だった」

「いま、忙しいの?」

 黒城の背後から、なにやら人の話し声が聞こえてくる。複数人による会話であることは、すぐに分かった。

「大丈夫だ。私が戻らない限り、会議室の時は止められたままだからな。それよりレイ、具合はどうかね? 昨晩は大分うなされていたようだったが」

 一緒に暮らしているものしか分からないほど微妙であるが、黒城の声音が優しくなった。それに気づけたことが、なんだか嬉しい。

「心配掛けて、ごめんなさい。でも大丈夫だよ。私は、お父さんの娘だし」

「だろうな。最強の私の娘なのだから、最強ではないはずはない。お前はやはり、さすがだな」

 滑らかに黒城は言う。いつもの調子だ。レイは笑いを噛み殺すと、本題に入った。

「そこ、ゴンザレスさんのところだよね?」

「いかにも、そうだが」

「それなら、伝えてもらえない? 私を襲った人は、装甲服を着ていたって」

 この報告には、黒城も絶句したようだった。数秒してから、ようやく「なるほど」と小さな声が返ってくる。

「それにその人、怪人も操ってた。たぶんあの人が、怪人事件の犯人だと思うんだけど」

 私は怪人を作り出した、という黒城の言葉が脳裏に蘇る。多くの女性を誘拐している犯人と父親になんらかの関わりがあるとは、はなから思っていなかった。だから正直に、こうして話を持ちかけることにした。

 しかし怪人事件の犯人の手掛かり、という大きな鍵を差し出したのにもかかわらず、黒城はそれには無感動だった。ふん、と鼻で笑い、それから口を開く。

「そうか。しかし、なぜその犯人がお前を狙う?」

 疑問を投げかけたあとで、黒城は何かに気づいたように、「まさか」と呟いた。それからしばし唸ってから、強張った口調で言葉を発した。

「まさか、私を狙ったのではあるまいな。世界大統領候補である、この私を」

 世界大統領電々は無視するとしても、その説はレイも考えていた。つまり、怪人を退治しているマスカレイダーズを脅迫するため、構成員の中で一番脆弱であろう、レイに剣先を向けた、という説だ。

 ありえない話ではない。だが、レイはファルスを纏ったあの男から、脅迫という受け身の姿勢としては、異様なほどの憎悪と執念を感じていた。あれは、どうみてもレイ個人に怨みを募らせているようだった。レイを亡霊と呼び、本気でレイを殺そうと襲いかかってきた。脅迫などというまどろっこしい感情を、あの男からは一切受け取ることはできなかった。

 殺意、怨恨の塊。負の衝動からなる集合体。男を称するのであれば、そう形容するのがふさわしいように思えた。

「お父さん」

 様々な説を電話の向こうで垂れ流している黒城を、レイは今一度、呼んだ。携帯電話を持つ手が震える。ファルスのことを話すだけで、虐げられたことを思い出し、身がすくむ。

「どうした」

 その怯えが声にも出てしまっていたのか、黒城は心配そうに尋ね返してくる。レイは手に力をこめて、震えを無理やり抑え込むと、唇を舌で湿らせた。

「お父さんは、いつか、話してくれるんだよね? 私の、過去のこと」

「当り前だろう。その時が来たら、お前にすべてを打ち明けよう。それまでは、お前は私の娘として、せいぜい生きるがいい」

 当惑した様子も、思考を働かせている間さえ空けることなく、黒城は即座に答えた。

 せいぜい生きるがいい、という物言いに父親の気遣いを感じる。レイは小さく息を吸い込むと、もう1つの問いを口にした。

「あのさ、関係ないんだけど。もう1つ、いい」

「うむ」

「あのね。お父さんはさ。もし、あの、昔、好きな人がいたとするじゃない。その人をさ、今でも好きでいられる?」

 佳澄さん。自分と好き嫌いの似た、父親がかつて愛した女性。彼女のことを念頭に置いて、レイは尋ねた。

 突然の質問に、さすがの黒城も少し面食らったようだったが、そう大きな空白を生じさせることなく、強い語調で言った。

「それも当然だ。私を誰だと思っている。世界のクロニクルとなるべき男だ。私はこの心に芽生えた愛も、幸福も、憎悪も、そして悲しみでさえも、絶対に忘れることなどない」

 なぜだかその答えに、レイはこの上ない幸福を覚えた。自分のことではないはずなのに、瞼がじわりと熱を帯びるほどの満足感を覚える。なぜ、こんなに幸せな思いに満たされているのか、自分自身でも不思議だった。

「安心しろ。お前はこの私と、私の優秀な部下どもが守ってやる。いまは余計なことは考えず、眠りにつきたまえ。目覚めたときには、お前の不安などすべて消え去っている。だから、ゆっくりと体調を整えるんだ」

 最後にそう言い残して、黒城は電話を切った。

レイは先ほどまで、父親と繋がっていた携帯電話を胸に抱きしめた。そうしていないと胸が痛んで、その傷口から血が溢れてしまいそうで、ただただ恐ろしかった。



 2人は湿ったタオルと着替えを持って、帰ってきた。ディッキーは鼻の頭に泡をつけている。レイはそれを指で拭ってから、頭をそっと撫でてやった。

「偉いねディッキー。洗い物、してくれたんだ」

「あぁ、こいつ凄いんだぞ! 将来は絶対、プロウォッシャーだな。賭けてもいい」

 ライがなぜか誇らしげに言う。レイの『一生のお願い』と同じくらい、ライの『賭けてもいい』は信頼性のない、オレオレ詐欺常習者も裸足で逃げ出すほどの、便利な嘘だ。

「お母ちゃん、私、たくさんお皿を洗ったのでございます!」

 ディッキーは短い手で万歳をする。先ほどあげたばかりの服は、もうびしょ濡れになっていた。しかし、神経質で人の顔色を窺うような子になってほしくはないので、あえてレイはディッキーにそのことを伝えなかった。

「偉い偉い。ディッキーは私の息子だもんね。凄いに決まってるもんね」

「私は、お母ちゃんの息子でございます」

 飛び跳ねながらそんなことを言うので、灰色の毛を、わしわしとさらに強く撫でてやる。その感触が、温もりが、恐怖に荒んだレイの心を穏やかにさせた。


「犯人は、お前だ!」

 真剣な表情で、ライが前触れなくディッキーに指先を向ける。ディッキーは「ひえー」と口を縦に開きながら、大きく背伸びをした。

「なにしてんの?」

 シャツを脱いで、下着を外し、上半身裸になって、お湯に浸したタオルで体をふきながら、レイは妹の奇行に戸惑った。それまでライは何だか俯き加減で、いきなり言葉数も減ったため、一体どうしたのか、と心配をし始めた、その矢先の出来事だった。

 するとライは神妙な笑みを口元に宿し、レイを見た。その清閑な表情に、レイは体を拭く手を、腹部のあたりで止め、固まってしまった。この子は本当にライなんだろうか、としばらく考えこんでしまう。

「練習だよ。実践に向けての」

「写真のことなら、私たちは被害者役のはずだけど」

 犯人を指名するのは、探偵の役目であるはずだ。それを伝えると、ライは静かに顔をしかめた。

「そっちじゃない。お前を襲った、犯人のほうだ」

 レイは息を呑んだ。ライは、レイをじっと睨みつけている。目を逸らすことさえ許されないような威圧感が、そこにはあった。

「黒いおじさんじゃ、ないよ」

「そんなこと、分かるに決まってんだろ!」

「ご、ごめん」

 怒鳴られ、睨まれ、レイは妹のその迫力に思わず謝ってしまった。ライもそこで自分が必要以上に興奮していることに気付いたのか、熱気を深呼吸と一緒に吐き出すと、「すまん」と素直に頭を下げた。しかしその顔はまだ、怒気を存分に孕んでいる。

「でも、あいつなんだろ? お前を道路に押しやがった、あの野球帽の奴。あいつが、また現れて、お前をボコボコにしたんだろ?」

 ライは何だか、泣き顔になっていた。哀しみの涙ではなく、ましてや嬉し涙でもない。おそらく悔しさに胸を腫らしているのだろう。

妹の脅迫めいた問いかけに、はっきりと答えようもなく、レイは「多分」と答えた。続けて、憶測を口にする。「多分あの人の、仲間、だと思う」

「あいつは、何者なんだよ。お前は、一体、何から狙われてるんだ。本当に心当たりないのか?」

「あったら、私が聞きたいよ。私だって、なんだか、わからないんだもん」

「なんだよ、それ! 警察とかには届けなくていいのか?」

「あ。さっきお父さんに電話したら、届けておいたって」

 レイは淀みなく嘘をつく。警察に届けたところで、怪人や装甲服を着た男をなんとかできるとは、到底思えなかった。

 しかし、それでもライは悔恨にくすんだ表情を崩すことはなかった。

 被害者の立場からしても、なぜあれほどまでに一方的な憎しみを、ぶつけられなければならないのか。実に不可解で、理不尽だった。自分の閉ざされた過去が影響しているのか、それとも知らず知らずのうちに、レイが男を怒らせるようなことをしたのか、一切わからない。どちらもありえそうで、それがまた恐ろしい。

 ライは畳を殴りつけた。ディッキーは驚いて飛びあがり、レイもあまりに突然の出来事に、目を丸くした。

 妹の顔を窺うと、その表情は怒りに歪み、細かく震えていた。唇を噛み、その目は畳の目を噛み砕こうとしているかの如く、大きく見開かれている。

「私は、何もできないのか。こんなところで、待ってることしか……できないのかよ!」

 何度も何度も、畳に拳を打ち付ける。まるで畳がレイを傷つけた犯人だと決めつけているかのような、容赦のなさだった。

「レイをこんなにしやがって……。あいつも、同じ目にあえばいいんだ。今度会ったら私が絶対、あいつにレイと同じ痛みを与えてやる」

 それは決意だった。拳を畳に擦りつけるようにして、ライは手首をねじっている。その表明にレイは、頼もしさや嬉しさよりも、一種の危うさを覚えた。

 下着を纏い、新しいシャツに首をくぐらせて気持ちを落ち着かせてから、レイは改めてライを見た。妹の頬は強張り、わずかに紅潮している。いまのライなら、熊100体が相手でも、その眼力だけで押し潰すことが可能だろうと思われた。

 怒りに、しかも自分を気遣っての義憤に気持ちを奪われたライにかける言葉など見つかるわけもなく、それでも無言のままではいられなくて、レイは続ける言葉も見つからぬまま、ライの名前を呼ぼうとした。

 しかしそれを予期したかのように、ライのほうが先に声を発した。

「レイ」

「……なに?」

「お前、死なないよな」

 レイは妹の顔を凝視した。今度は、ライは悲観に埋もれているような表情をしている。隣に立つディッキーもまた、暗い顔をして俯いていた。

「どうしたの、藪から棒に」

「お母ちゃん。私たちは、お母ちゃんが心配なのです」

 高い声に心痛を詰め込んで、ディッキーが言った。小さくジャンプし、レイの膝に飛び乗ってくる。掛け布団越しに、ずっしりとした重みが膝にかかる。

 重力に仕向けられたかの如く、レイが視線を落とすと、ディッキーと目が合った。ディッキーはレイの手を取ると、その掌に頬を擦り寄せてきた。

「お母ちゃん、私はあなたがいないとダメなのでございます。絶対に、死なないでくださいまし。私からの、一生のお願いでございます」

 長いひげがちくちくと指に刺さって、痛い。しかしずっと、そうしていてもらいたかった。それから心の中で、一生のお願いは反則だよ、と呟いてみる。

「私だってそうだよ。お前が必要なんだ。お前がいなくなったら、私はどうすればいいんだよ」

 ライも身を乗り出してくる。その目は真っ赤に充血していて、頬は軽く痙攣をおこしていた。切羽詰まった表情だ。鬼気迫る表情、と言い換えてもいいかもしれない。ライは、レイの代わりに悲しみ、怒り、憎しみ、慄いてくれているのかもしれなかった。

 ライとディッキーの顔を交互に見てから、レイは強く頷いた。その瞬間だけ、レイは、父親との確執であるとか、閉ざされた過去への戸惑いであるとか、自分を狙う襲撃者への恐れというものを、すべて忘れた。

「私も死にたくない。大丈夫だよ、私はずっとこの家にいる。ライとお父さんとディッキーと一緒に、ずっと暮らしたい」

 家族は絆、と河人は言った。ようやくレイはそれを肌で、心で、体で理解したような気分だった。




その夜、携帯電話の着信によって、レイは叩き起こされた。

いつごろ寝たのか判断もつかなかったため、室内が真っ暗になっていることを認めると、なんだか時間を飛び越えてしまったかのように感じた。

マナーモードに設定してあるので着信音こそ鳴らなかったものの、枕の振動を感じたため目を覚ますことができた。暗闇の中で、携帯電話は青い光を発しながら身悶えている。まるでそれ自体が生を抱いているかのように

ライの目覚まし時計を見ると、午前2時だった。そんな真夜中にも関わらず、午前中いっぱい寝て、日中もうつらうつらとしていたためか、レイの目は冴えていた。額に手を当て確認すると、熱は大分引いたようだった。

ライは掛け布団を蹴り飛ばして、布団からもはみだし、畳の上で大の字になって眠っている。ライと同じ布団で寝ていたはずのディッキーは、ライの背中の下で潰れていた。

だがそんな悲劇に見舞われた状態でも、その大きなネズミは濁り気のある大いびきをかいている。2人とも、よくこんな環境で寝られるものだなと、レイは常々感心した。

布団から起き上がると、携帯電話を手に取った。そしてその画面に映し出されていた名前を見て、目を疑った。そこには『天村悠』と表示されていたからだ。

悠と電話やメールのやりとりをしたのは、覚えている限りでも2、3度しかなかった。そのどの場合も、彼女は病院の庭など外からかけてきたと言っていた。院内では、携帯電話の使用は禁じられている。

昼間なら外からかけているということで弁はたつが、この時間はどうだろう。真夜中の2時。おそらく、外出すら許されていない時間帯ではないのだろうか。仮にその要素を度外視したとしても、悠はこんな時間に電話をかけてくるような、非常識な人間ではけしてない。

携帯電話はくぐもったような音を発しながら、ひたすらに身悶えている。

レイは一呼吸置くと、緊張を抑えながら、ゆっくりと通話ボタンに指を伸ばした。戸惑いつつも、携帯電話を耳に押し当てる。それから咳払いをして、喉の調子を整えながら、第一声を吐き出した。

「もしもし」

 無言。しかし電話の向こうからは、救急車のサイレンが聞こえてくる。どうやら通話自体は繋がっているらしい。

「もしもし」

 サイレンが通り過ぎる。悠どころか、人の声すら返ってこない。この頃には、レイは胸を不審で満たしていた。電話越しではなく、頭の隅の方でサイレンがわめている。日中は水分を求めていた体中の細胞たちが、今度は躍起になってレイに何かを伝えようとしているかのようだった。

しばらく、そのまま沈黙に身を委ねていると。微かなざわめきが聞こえてきた。それから程なくして、電話の向こうから女性の声が返ってきた。

「もしもし。そこにいるの、黒城レイちゃん?」

 息を呑む。唾で喉を湿らせる。

 それは、聞き覚えのある声だった。しかし画面の表示に反して、悠ではなかった。幼さをとうの昔に切り捨て、そうやって身を削りながら、自分の形を見出した。そんな女性の声だった。

その正体に、レイが行き着くまで、そう時間はかからなかった。

その声の主は、橘看護師だった。彼女の唇に重ねられていたルージュと、手の甲に貼ってあった大きな絆創膏が、レイの脳裏に蘇る。

「はい、そうですけど」

「私、誰だか分かる? 悠ちゃんじゃないよ?」

「橘さん、ですよね。看護師さんの」

 即答すると、橘看護師は言葉を弾ませた。口笛でも吹きそうだな、と思っていると、本当にひゅう、と音が聞こえてきたから驚いた。

「お、嬉しいねぇ。名前覚えててくれたんだ。そうさ、ご名答だよ。看護師をやってる、橘さんさ」

「こんな時間に、どうしたんですか」

 色々訊きたいことはあったが、レイはぐっと胸の内側でその疑念の奔流をせき止めた。電話越しの橘看護師は、努めて明るい声を出しているかのようだった。

「まぁ、色々あってね。レイちゃん、いま時間大丈夫?」

「こんな時間ですから寝てましたけど。大丈夫です」

「周りには、誰もいない?」

「こんな時間ですから、誰もいません」

 滑らかに答えると、そこで数秒、沈黙があった。彼女は時計を振り返ったのかもしれない。これから話すことを、もう1度頭の中で整理し直しているのかもしれない。どちらにもとれるような、空白の時間だった。レイは空唾を呑み込んで、橘看護師が次の言葉を紡ぐのを待った。

「なら良かったよ。最近、どう?」

 まるで世間話をふっかけて、相手の心を奪い去ろうとするセールスマンのような口ぶりだった。レイは携帯電話を握り直すと、慎重に口を開く。

「どうって、別に、普通ですけど」

 すると橘看護師はふふ、と小さく笑った。なぜ一笑されたのかまるでわからず、レイは不快感を声に出す。

「なにか、おかしいですか?」

「怒んないでよ。ほら、私、一応看護師やってるからさ。けがの具合とか、心配になっただけさ」

 ぞくりと、レイは背筋を何かになぞられた様な気がした。

 振り向くが、もちろんそこには誰もいない。

 レイは念のため、周囲を見渡した。そして無防備に眠りこけているライとディッキーを一瞥してから、会話口に唇を寄せた。

「それは、おかげさまです」

「ま、私としては助かるんだけどね。誰もけがしないんじゃ、商売あがったりだからね」

「それはそうですけど。それを患者に直接言う看護師さんって、いたんですね」

「あぁ、いるさ。私だよ。なんか文句ある?」

 別にないです、と返しながら、レイはまるで掴みどころのない会話に慄きを覚えていた。痺れを切らし、一体なんの用なんですか、と問おうとする。しかし橘看護師の低い声によって、その言葉は無理やり胸に押し込められた。

「それにしても、大変だったねぇ。レイちゃん」

 そこで音をたてて、橘看護師は唇を舐めた。それは状況によっては、大人の色気を発散するような艶めかしい動作だったのかもしれないが、レイにとってその音は、闇の中で涎をすする肉食動物のそれとしか思えなかった。

「なにが、ですか」

「公園であんなに血を流しちゃって。よく死ななかったって思うよ。あんたもしぶといねぇ。ま、看護師としては大歓迎なんだけどさ。けが人は神様だ、ってね」

 胸の中にあった不安が、瞬く間に膨れ上がった。首元に走るミミズ腫れを指でなぞるようにする。

 公園のけがは、病院で治療を受けてはいない。なぜ、そのことを橘看護師が知っているのだろう。あの現場にいたわけでもないのに。

 そしてその謎が示す答えは、レイに考えつく限り、1つしか見当たらなかった。

 頭から血の気が引いていく。もはや機会を窺っている余裕も、理由もなかった。レイは、目の前に立ちはだかっている最大の疑問を思い切って口にした。

「なんで、悠の携帯を使ってるんですか」

 橘看護師はまた黙った。今度はその時間が長かったので、通話画面を見てまだ電話が繋がっていることを確認してしまった。耳に当てなおしても、まだ何も返ってこない。レイはふと不安に襲われ、つい声を荒らげた。

「悠は、どこにいるんですか」

「大きな声、出さないでよ。周り起きちゃうでしょ?」

 レイの蛮行をたしなめるように、橘看護師は言った。それから、彼女は声をひそめた。

「レイちゃん。いま、1人で病院に来れる?」

「いま、ですか……?」

 レイは反射的に目覚まし時計を見て、それからカーテンに閉ざされた窓のほうに目をやった。明らかに、健全な中学生が独り歩きをする時間ではないように思えた。

「そう、いま。お父さんも、ヒーローも、見知らぬおっさんも、連れてきちゃ駄目だよ。レイちゃん1人で来るの。来れるよねぇ? レイちゃんは、悠ちゃんと違って1人でトイレ行けるもんね」

 レイと悠を嘲弄するような物言いに、レイは腹が立った。自分はともかく、親友を軽んじられるのは、我慢ならない。つい語調を強めてしまう。

「悠は、どうしたんですか。なんであなたが悠の携帯を使ってるんですか。あなたは一体、なにを言ってるんですか」

 矢継ぎ早に質問を募らせると、橘看護師はため息をついた。それから、檻の中でくつろぐキツネの如く、気だるそうに言った。

「悠ちゃんなら、私たちがいま預かってるよ。心配しないで。あんたが1人できたら、おうちに帰してあげるつもりだから」

「そんなこと、信じろっていうんですか」

「随分懐疑的じゃないか。ま、別に信じろとは言わないけど」

 そこで橘看護師は、さらに声を落とした。くぐもったその声は、暗闇の中を反響して、レイの鼓膜にしんしんと鳴り渡る。

「そのときはまぁ、悠ちゃんが、レイちゃんの身代りになるだけだね」

 世界がくるりと回った。眩暈がする。ちらちらと瞳の奥にちらつく映像に、悠の顔が混ざっていた。レイはこめかみのあたりを、片手で押さえると、声を絞り出した。

「そんなこと、そんな……」

「ま、嘘だと思うなら、私は構わないけど。レイちゃんが来ないと、困る人もいるからね。前向きに検討頼むよ。悠ちゃんを殺さないように、頑張ってね」

「待って!」

 レイの懇願は叶わず、無情な音を残して、通話は途切れた。ツーツー。いくら耳を澄ましてみても、電話の向こうからは無機質な音しか返ってこない。

 汗に溺れた携帯電話を、レイは畳に落とした。携帯電話が青く光っている。それはメールが届いている印だった。

 焦点の定まらない手で、何度も落としそうになりながら携帯電話を拾いあげ、メールを開く。差出人は、悠からになっていた。

 そして、そのメールに添付されていた写真を見て、レイは絶句した。写真に写っていたのは、悠だった。頭の垂れた状態で、椅子に縛り付けられている。周囲は黒画用紙のような暗闇に閉ざされており、写真を撮られたのがどんな場所であるのか、予想することすら叶わなかった。

「悠……!」

 視覚にまざまざと飛び込んできた、親友の痛々しい姿に、レイは呟く。その自分の声の、あまりの救えなさに、胸が震えて涙が出てきそうになる。心のどこかでは、橘看護師の悪い冗談だと思う気持ちがあったのかもしれない。しかし、こうして件名も本文もないメールで、ぽんと放るように写真を送りつけられると、一気にそんな気持ちも吹き飛んだ。

 悠が、レイのためにさらわれたというのは事実だった。橘看護師に裏切られたことよりも、その事実の方がレイの体を深々と貫いていった。

悩みとか、そういうことも色々いっぱいあるけど、私もレイちゃんもいま、こうやって楽しく暮らしてる。それだけいいかなぁ、って私、いまそんな気がしてきたんだ――。

 レイの脳裏に、悠の声が蘇る。悠の話す楽しく、だけど平凡な生活でさえも、目の前で崩れ去ろうとしている。拘束された親友の写真を指でなぞりながら、レイは肺の片隅からこみあげてくる何かを耐え忍ぶ。

携帯電話を開いたまま、レイは寝ている2人に、ゆるゆると視線を移した。2人のもとには、いつも通りの平和な夜が広がっているようだった。レイ1人だけ、分厚い暗雲のひしめく異空間に取り残されたような、そんな気分に陥る。

 死なないでください、死んだら困る。ライとディッキーは、レイの無事を祈り、生を願い、命を大切に思ってくれていた。

 もちろん、レイもまだ死にたくはない。家族に囲まれ、友達にも恵まれたこの環境にまだ浸っていたかった。

 死ぬことは恐ろしい。レイはトラックに轢かれそうになり、ファルスに殺されかけたことで、再認識した。あれらのことを現実であったと理解しようものなら、体の奥底から震えが滲みでてきて、抑えることができなくなる。

 だがいまは、悠が自分の身代りとなることのほうが、もっと恐ろしかった。この恐怖をあの誰よりも優しくて、誰よりも穏やかな悠に植え付けることなど、あってはならない。あの笑顔を、柔らかな体温を壊すことは、何としても避けたかった。

 膝が笑い、立ち上がるのすら困難を極めた。自分が死に歩を進めているという恐怖と、悠が虐げられるのではという恐怖がいっぺんに、体全体を押し潰そうとしてくる。

 灯りのない、藍色の部屋でライとディッキーは夢の中で寝ている。その穏やかな寝顔を前に、レイは流れてくる涙を止められずにいた。

 手で目をこすり、頬を何度拭おうが、涙は留まる事を知らない。

「お父さん、私、死にたくない」

 感情を吐露したレイは1人声を殺して、泣きじゃくった。その静かな泣き声はディッキーのいびきにも、ライの寝息にも遮られることなく、夜の部屋に沁みていった。


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