1話:木洩れ日(1章)
2010年 7月21日
『しろうま』は、東京の郊外でささやかに営まれている、小さな喫茶店である。
店名さながらの白い瀟洒な外装をもつ、2階建ての店だ。
駅からは遠く、住宅街の隅に引っかけられるようにして設立されているため、お世辞にも繁盛している、とは言いがたい。
しかしこの店はどこか、人々が日常の中でうっかりなくしてしまいそうなものを大事に抱え込んでいるような印象を、常日頃から放っていた。常連を繋ぎとめ、離そうとしない魅力はそこにあるのかもしれない。
新参者は限りなく少ないが、リピーターによって何とか支えられているのがこの店の大きな特徴だった。
その『しろうま』の店内、カウンターの内側で、白石仁はサンドイッチを切り分けていた。180センチを超える仁の身長は、窮屈な店の中では、実測よりもさらに大柄に見える。
カウンター席が4つ、テーブル席が3つしかない、外見に違わずささやかな店内だ。すべてのテーブル席の中央に置かれた花瓶には、花が活けられている。それらの花々から発せられるほのかな芳香が、店内に柔らかく漂っている。
店の壁には様々な山を描いた絵画が、ずらりと並べられている。添える程度に店内を流れるBGMは、重厚なクラシック音楽だ。
マスター、と呼びかけられ、仁は笑顔で振り返った。はい、とその声に応じる。ちょうど、ハムとレタスの入ったサンドイッチを、まな板の上で4分割し終えたところだった。
「コーヒーのおかわりを頼むよ。あと、皿を引っ込めてくれ」
「はいはい。すぐに。サンドイッチのおかわりはいかが?」
「それはいい。とにかく、コーヒー一杯だ」
注文を終えると、スーツ姿の男は再び新聞に目を戻した。
4,50歳程の体格のいい男である。新聞の文章を上に下に顔ごと動かして見ては時折、うんうんと一人で唸っている。目を細めているのは、老眼が始まっているからだろう。
時刻は午前10時。テーブル席で足を組み、ふんぞりかえっているその男こそが、この『しろうま』に今現在、唯一存在する客だった。
仁は軽く流し台で手を洗うと、カウンターを横から抜け、男のもとへと向かう。
狭い店内は、オーダーに向かうのにも、品物を運ぶのにも大した手間のかからないのが、大きな利点だった。来客も少ないので、オーダー票もめったに使うことはない。
空のコーヒーカップは丁寧に皿の上に重ねられ、テーブルの端のほうに追いやられていた。失礼します、と断り、仁は皿を下から掴み、持ち上げる。仁が踵を返す時になっても、男の目は終始新聞の文面に注がれたままだった。
男を尻目にカウンターへと帰りながら仁は、今日は何か特別なニュースでもあったかな、と思案しながらテレビの記憶を探る。しかしいくら頭を悩ませても、今日のニュースで脳裏に蘇ることといえば、お天気キャスターがやけに言葉を噛んでいたことだけだった。
ならば寝耳に水、というほどの、これといったニュースはなかったんだな、と勝手に結論づける。
今日もまた、良い意味でも、そして最悪の意味でも、社会はいつも通りだったのだろう。
悪いことでもないが、良いことでもないな、と思いながら仁は男の新聞紙を改めて見つめる。
その時、軽やかな鈴の音色が鳴り響いて、仁は入口のドアに目をやった。店名の記された入口のドアが開いており、その上部に取り付けられた鈴が細かに揺れている。
いらっしゃいませ、と挨拶をしようとして、仁は言葉に詰まった。それから、唇の両端をあげ、ドアの前に立つ人物に笑顔を送った。
「久しぶりですね」
「久しぶりだな」
後ろ手にドアをしめる男もまた、片手をあげて、微笑みを返す。短く刈り込んだ髪に、あごに蓄えられた黒ひげ、角ばった顔。その輪郭にフィットした、黒ぶちのメガネ。
男は前に会ったときと、何一つ変わってはいなかった。仁はその事実に、自分でもなぜだかはわからないが、微かな感動を覚えていた。
「まぁ、実際2週間ぶりくらいなんだけどな」
持っていた白い紙袋を足元に置くと、菅谷紀彦はカウンター席に腰を下した。黒ぶちメガネを外し、スーツの胸ポケットから取り出したメガネ拭きで、レンズを拭う。
仁はやはりその光景に、どこか懐かしさを覚え、頬を緩ませた。
「でも、それまではほぼ毎日来てくれてましたから。やっぱり、懐かしいですよ。しばらくいらっしゃらなかったのは、仕事関係?」
「まぁ」
菅谷はメガネをかけなおし、仁を見た。白髪混じりの頭を掻く。
「そんなとこか。ここらへん、ろくに眠れてないんだよ。やっと昨日、久々にまともな睡眠がとれたところだ」
「大変ですね。肩でもお揉みしましょうか?」
「最近の喫茶店は、そんなサービスも始めているのか?」
「仕事に疲れてそうな常連の、中年男性限定でございます」
「特別扱いは好きじゃない。丁重にお断りしよう。それと」
そこで菅谷は右手につけた時計の盤面を、指で拭くような動作を見せた。これもまた、菅谷がよくみせる癖だった。
「何度も言うように、敬語は使わなくていい。自分は敬われるような器じゃないんだ。それにこっちは常連なんだから、そろそろお客様と主人って関係から脱したいじゃないか。な?」
時折、菅谷はよくわからないことを言う。
しかし鼻の穴をふくらませて訴える、菅谷のまなざしは真剣そのものだ。
その意図はなんとなく察することができたので、仁は笑って、オールバックに整えた茶髪を軽く撫でつけた。
「しばらく見なかったもんだから、なかなかお客さん相手に使いづらくて……。じゃあ、これからは敬語はなしで」
「そのほうが、気が楽だ。こっちは日夜、大きな器になろうと小さな努力を続けている身分だからな」
菅谷の背後で、新聞を読んでいたあの男が立ち上がった。新聞を折りたたみ、乱暴に通勤カバンの中に詰め込むと、テーブルの上に千円札を叩きつける。男は澄ました顔で、首だけ仁のほうを向けながら言った。
「ごちそうさん。またいつも通り、釣りはとっといてくれ」
「はい。ありがとうございましたー」
男はドアを開くと、立ち去っていた。店の中はこの瞬間、仁と菅谷の2人きりになる。また鈴の音が、店内に響き渡る。その音が止むのを見計らっていたかのように、菅谷は仁を見上げて口を開いた。
「いつもながら、中途半端に豪快な人だ。モーニング、340円だろ? 一体、何の仕事してるんだか」
「前聞いたんですけど、じゃなくて、だけど、黒城グループの重役らしいよ。だから出勤が遅くていいんだとか、何とか」
仁が直接男から話を聞いたわけではなく、小耳に挟んだ話だった。今日と同じあのテーブル席で、一か月くらい前、あの男が向かい側に座る女性に、「俺は黒城グループで、重要な役を任されてて」と自慢げに、大きな声で話していたのを聞いたのだ。
菅谷は男の出て行ったドアを振り返りながら深く息をついた。
「黒城は凄いな。前に一度、仕事で探ってみたことがあるが、あそこは得体が知れない。この世のブラックホールだよ。黒城だけに」
菅谷が何の仕事をしているのか、仁は深くは知らない。ただ自由業、と前に言っていたことを覚えていたので、個人経営の店でもやっているのだと勝手に思っていた。
だからいま、菅谷の口から「探る」という言葉が出てきたとき、心の中で驚いた。しかもいまや日本を代表する大企業、「黒城グループ」を相手取ってだという。
それだけで十分、菅谷は尊敬されるべき器ではないのか、と仁は感じてやまない。
改めて、仁は菅谷を見る。どう色眼鏡を使ってみても40代の中年にしか見えない。がっちとした肩幅をもつが、運動をしていれば、この年でもなかなかに筋肉のある中年はそこらへんにいるわけで。それほどそれが特筆するべき事項だとも思えなかった。
一体何の仕事をしているのか、と以前尋ねたことはあったが、その時には「言うほどのもんじゃない」と含み笑いを浮かべられただけだった。
興味はある。菅谷がどんな仕事に就いているのか、ここまで伏線を張られて、知りたくないはずはない。だが仁は何とか、溢れるばかりの好奇心を胸の奥に押し込む。そしてその丸めておいた疑問が外に出てしまわないように、自分の仕事を思い出した。
「注文は、どういたしますか?」
菅谷はまるでいまここが喫茶店であることに気付いた、とでも言いたげな顔をし、メニューに手を伸ばそうとして、直前で止めた。
1つ咳払いをし、眼鏡をあげて、真摯な顔で仁を見つめる。
「なるほど。いまはお客様と主人、なわけか。よし」
菅谷は体を仁から見て斜めに傾けると、人差し指をまっすぐに立てた。
「いつもので」
「いつもの……」 仁はしばし思案し、それから訊き返した。「サンドイッチセット?」
「じゃあ、それで。確かに、一番高確率で頼んでた記憶がある。よく覚えてたな」
「まぁ、毎日来てたから。何となく」
「2週間前までな」
仁は奥に引っ込むと、手を石鹸で入念に洗った。そして先ほど作っておいたサンドイッチをまな板の上から、皿に乗せる。さらに花柄のポットを取り、戸棚から取り出したカップにコーヒーを注いだ。冷蔵庫を開け、作り置きしているポテトサラダを取り出すとそこにかかっていたラップを除ける。そして出揃ったそれらを、おぼんの上に並べていく。
「そういえば、仁君。いま、いくつだっけ?」
何の脈絡もなく、唐突に菅谷は問いかけてきた。仁はおぼんを掴むとそれを慎重に運び、菅谷の前に差し出した。エプロンで軽く手を拭く。
「今年で23だけど」
「そうか。いや、エプロンが似合ってきたなと思ってな」
菅谷は山の絵画たちの中に混じって展示されている、ある写真に目をやった。小さな男の子と、菅谷と同じ歳くらいの男が並んで映っている写真だ。2人とも笑顔で、カメラに向けてピースサインを作っている。背景にはやはり山があり、美しい稜線が立体感をもって映し出されていた。仁もつられるように、菅谷の視線を追う。
その写真に写っている少年は、幼き日の仁だった。
「おやじさんから、連絡はない?」
コーヒーを啜りながら、菅谷が訊ねる。仁はカウンターから出て、テーブルに放置されたままの1000円札を手に取った。そして体を屈め、布巾でテーブルを拭きながら答える。
「月に1度くらい、手紙が来るよ。いまはアメリカを転々としているらしいけど」
確か、カルフォルニアって言ってたっけな、と続けると、菅谷は途端に破顔した。
「あの人らしい」
「確かに。義父さんらしい」
ついでに仁は、他のテーブルも続けて拭いた。狭い店内は、掃除する手間も少なくて済む。これもまた、大きな利点だ。
「しかし、おやじさんもアレだな」
菅谷はサンドイッチを口に運びながら、仁を振り返る。店内を流れるクラシックはちょうど佳境に突入しているらしく、金管楽器がひたすらに盛り上がっていた。
「20歳そこらの息子に自分の店任せて、自分は旅三昧とは。相当だ。昔からそういうところはあったけど。奥さん亡くなって、色々吹っ切れたのかなぁ」
菅谷の達観した発言に、仁はテーブルに向けて苦笑いを浮かべる。
ちょっとカンボジアに行ってくる、と義父が言い出したのはちょうど1年前のことだ。だが仁は当時、それほど驚きはしなかった。その一か月くらい前から、義父はそわそわしていたし、妙に優しかったからだ。にこにこしながら車を一括払いで買ってくれたのも、確かそのあたりの時期だった。
仁は大して咎めることなく、義父を送り出した。ここまで世話をしてくれた義父に少しでも恩返しを、と素直に思ったからだ。
それに義父が長年営んできたこの店を継がせてもらえるのは、一人前と認められた気がして、何だか嬉しかった。
「まぁ、お義父さんには色々世話になったしね。親孝行、ってわけでもないけど。楽しんでもらおうと思って」
「泣かせるねぇ。久々に、こっちも実家に帰りたくなったぞ」
「仁くんの、感動小劇場でした。ちゃんちゃん」
布巾を畳み、花瓶を覗き込んで水をチェックしてから、仁はカウンターにとって返す。その時、その背中を菅谷に呼び止められた。
仁が菅谷のほうに目をやると、彼は足元に置かれていた紙袋を片手で持ち上げていた。
何のロゴも書かれていない、純白の紙袋である。
菅谷は、紙袋の隣で片方の頬だけをあげて笑う。
「泣かせるついでに、これ。昨日、福引きで当たったんだ。プリン。4個。こっちは甘いもの好きじゃないから、仁君のところで食べちゃってくれよ」
「あ、いいんですか?」
「敬語はいらないけど。まぁ、いい。4個なんて。こっちから見れば地獄だ。賞味期限切らして捨てるのも勿体ないし。持っていきなよ」
まだ数ヶ月の付き合いだったが、菅谷が何よりも遠慮というものを嫌がることを、仁は知っていた。そして2人の同居人の顔を、瞬時に頭の上に思い浮かべる。プリンは、2人も好物のはずだ。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「はいはい。せいぜい甘えてくれ」
菅谷は適当に手をひらひらと振って、残りのサンドイッチにかぶりついた。カウンターに置かれた紙袋を、仁は手に取る。中を覗き込むと、白く小さな箱が紙袋の底辺にぴったりとはめ込まれていた。
菅谷は得意げに足を組みながら、コーヒーを口に運ぶ。
「結構、いい品だそうだから。みんな喜ぶだろうよ。みんな喜べば、こっちも嬉しい」
クラシック音楽が終わった。次の音楽に移るまで、店内にほんの4,5秒程度の静寂が訪れる。
そのわずかな空白に、仁はいつも通りの笑顔で応じた。
「どうもどうも。きっと喜ぶよ。スーパー丸橋でも、なかなかいいもん出すんだね」
菅谷が呻いた。そしてコーヒーが気管に入ったらしく、激しく咳きこむ。仁はその様子を目の当たりにしながら、しまった、と思った。頭から血の気が引く。
慌てて背中をさすろうとする仁の腕を、菅谷は制した。
「あぁ、結構。大丈夫だ」
菅谷はズボンのポケットから、緑のハンカチを取り出し、それで口元を拭う。仁は菅谷を前に茫然と、立ち尽くすことしかできない。
菅谷は真っ赤になった顔で、まだ時折むせながら、怪訝そうに仁を見た。
「それにしても何で、こいつを丸橋で買ったって知ってる? わざわざそれを隠すために、紙袋も無地のやつに取り換えてきたってのに」
仁は思わず、目を逸らした。
頭の中がショックでぐちゃぐちゃになっていて、なかなか、つじつまのあった言い訳が思い浮かばない。手の中が汗で濡れる。菅谷の奇妙なものをみるような視線が、ゆっくりと皮膚を抉り、深々と突き刺さってくるような気さえした。
このプリンを菅谷はどこのくじで引き当てたのか。仁はそれを事前に知っていたわけではない。ほんのたった今、紙袋を手に取った瞬間に、知り得たのだ。
視覚ではなく聴覚ではなく、ましてや嗅覚や触覚ではない。あえて言うなれば、第六感ともいうべき感覚。しかもそれはけして、気のせいや山勘といった言葉で片付けられるような、あやふやなものではなく。確固たる実像を結んで、仁の頭の中に直接飛び込んできた情報だった。
制御できたと思っていたのに。仁はエプロンの胸のあたりを強く握りしめる。
ふとした拍子に、この“情報”は仁の脳内に滑り込んでくる。それは抗いようもなくて、少しでも油断すると牙を剥いて襲いかかってくる。
この場に及んで、まだ自分を苦しめようというのか。ここ数カ月、この力が発現することなどなかった。とっくに失われたと、治ったと思ったのに。
仁の心を、衝撃が包み込む。そして麻痺しかけた頭で、とりあえず、この場をなんとかしなければと思った。菅谷は心配そうに、仁に向かって何度も呼びかけている。
目をぱちぱちさせながら、何とか言い訳を作り出す。干上がった喉を、唾を飲み込んで軽く湿らすと、やっとの思いで声を出した。
「お、お客さんが、言ってたのを聞いたんだよ。とりあえずこれ、ありがとうございます。みんなで食べますから、ち、ちょっとしまってくるよ」
そんないかにも取り繕ったような理由で、菅谷が納得してくれたのは分らない。いや、急に挙動不審になった男の言葉を、怪しまないわけはないだろう。しかしそれでも、いまはどうにもならない。
仁は、菅谷の視線から必死に逃れたくてたまらなくなり、早足でカウンターの奥に引っ込んだ。
追いかけてくる菅谷の視線が、恐ろしくて、足が震えた。
午後2時を過ぎたころ、仁は客のいない店内で、カウンターにうなだれていた。
結局終始、菅谷は気がかりのありそうな表情を浮かべたままで、久々に会ったにもかかわらず、ぎこちない別れを迎えてしまった。
あれから客が来てもどうにも手につかず、手を滑らせて皿を何枚か割ってしまったり、うっかり料理を焦がしてしまったりするような始末だった。
昼ごはんも喉を通らず、仁はただ無気力に、軽やかなクラシックが流れる店内で時を過ごしていた。この体勢のままで、すでに1時間半が経過しようとしている。
なぜだろう、と疑問だけが頭の中に湧き上がっては、行き場もなく泡のように消えていく。その繰り返しだった。
普通の生活が取り戻せると思ったのに。この無責任な力は、期待させておいて、いつだって仁を苦しめる。
あの時だけそうだった、と仁は下唇を噛む。それは忘れてはいけない、だけど思い出したくはない。酷い火傷のようにいつまでも消えることのない、焼きつくような記憶だった。
顔をあげ、自分の両手を見つめる。そうして、またため息を落とす。どうにもならない怒りと不安が心の中で渦巻き、仁はさらにうなだれる。
その時だった。大きな音をたて、派手に入口のドアが開かれる。外界と繋がった四角い空間の中に少女が1人、立っていた。少女は仁が声をかける間もなく、軽やかな足取りで店内に飛び込んでくる。
「ただいまー」
間延びした、どこか舌たらずな声で仁に挨拶を送ると、少女はカウンターの横を駆け足ですり抜ける。茫然自失としていた仁は、その挨拶に素早く返事をすることができなかった。
「白石君。オレンジジュース用意しといてね!」
それだけを言い残し、少女は店の奥にある階段へと姿を消す。だが仁が何も言葉を返さずにいると、すぐに慌てて戻ってきた。
カウンターに両肘を立て、気だるそうにしている仁と向かい合い、少女は眉根を寄せる。
学校の指定制服である、白いワイシャツにスカート姿だ。首には緑色のネクタイを巻いている。
黒く繊細な髪の毛は肩のあたりまで伸ばしてあり、黒目がちの大きな目と、丸っこい顔が印象的だ。その要素のせいか高校1年生、という実際の年齢よりも大分幼く見える。
その顔がいま、不安に揺れていた。
「どうしたの白石君。どっか体悪いの?」
心配そうに、顔を覗き込んでくる小柄な少女の姿に、どこか小動物の様相を重ね、仁は思わず微笑した。彼女の頭を軽く撫で、身を起こす。
「大丈夫だよ、葉花。うん、僕は今日も元気いっぱいさ」
「本当? 本当に元気まんぱん? さっきはどうみてもげんなりしてたよ?」
「うん。さっきまでのは仮の僕だよ。葉花が帰ってきたその瞬間、僕は新しい僕に生まれ変わったのさ」
「うわぁ、うらしまさんみたいだね」
「お爺さんにはならないけどね」
なら良かった、と楓葉花は表情を笑顔で満たして、再び階段を駆け上がっていく。
その後ろ姿をみながら、仁は強くこめかみの辺りを叩いた。
何を悩んでいたんだ、と先ほどまでの自分を仁は恥じる。いくら悩んで、絶望して過ごしていても、同じように時は流れていく。
確かに、“力”は仁の手元を離れて歩き回り続けている。しかし、だからといって1人で俯いているだけでは何も変わらないのではないか。
仁は階段のほうに改めて視線を移す。
それに、自分には葉花がいる。彼女が自分の傍にいてくれる限り、どんな困難も何とかなるのではないか、という気さえしていた。
「そういえば、今日は早いんだね」
カウンター席に腰を下ろし、おいしそうにオレンジジュースをストローで吸う葉花を前に、仁は壁の時計を一瞥した。葉花は制服から、動きやすいTシャツに着替えていた。
針は、2時半を回ったところを指している。高校が終わる時間には、いささか早い。
仁が訊くと、葉花は少し興奮気味に身を乗り出した。
身長が150あるかないか、というくらいのあまりにも小柄な葉花は、椅子に両膝で乗っかっても、立っている仁と同じ視線にはならない。だから仁は、カウンターの内側の椅子に座って、彼女と同じ目線に立った。
「白石君、今日のニュース見た?」
朝のニュースを葉花と一緒に見たのが、最後に観たテレビだった。店内にはテレビを置いていないし、今日は寡黙な1人客が多かったから、お昼頃の情報が耳に入ることはなかったのだ。
だから仁は正直に、首を横に振った。
「ううん。朝に見たっきりだけど」
「隣の学校の人が、行方不明になっちゃったんだって」
行方不明。仁は頭の中で、葉花の口から出た言葉を復唱する。
「だから、夏休みまでちょっと早く学校終わるんだってさ」
「その行方不明って、やっぱり、例のあれかい?」
例のあれ、とは。最近ニュースを騒がせているある事件のことだった。
東京、神奈川、埼玉の3箇所に渡り、ここ一週間、女性の行方不明事件が多発しているのだという。
しかも行方不明者は3歳に満たない幼女から、80歳を超えた老婆まで年齢の幅が広く、「女なら何でもいい」という風な状況なのだという。
昨日までに行方不明者の数は10人。今日で11人目ということになる。手がかりは一切残されておらず、捜査は早くも暗礁に乗り上げていると、ニュースキャスターが報じていた。
「警察もなんだか、あてになんない感じだよね」
オレンジジュースを口に運びながら、葉花は急に大人びたことを言う。それがなんだかおかしくて、仁は不謹慎ながらも笑ってしまった。
「まぁ、そうだね」
「だって怪人を見たって人がいるんだよ? もはや警察なんかじゃ、どうにもならないよ。ウルトラマン呼ばなくちゃ」
それは仁も耳にはさんだことのある、最近巷で有名な噂だった。
「行方不明事件」と「怪人」。
怪人が人々を誘拐している、とまことしやかに囁かれているらしいが、警察としてはそんな怪情報をまともに受けて「はい、そうですか。じゃあ、怪人のせいにしときますね」とするわけにもいかず、怪人説は当然のことながら捜査上、除外されているらしい。
「ウルトラマン? 仮面ライダーじゃダメなのかい?」
「仮面ライダーは、怪人一匹倒すのにいちいち手間取るから駄目だよ。ウルトラマンなら、怪人ごとき踏みつければ一発だ!」
空気を殴って力説する葉花に、仁はなるほど、と納得させられてしまう。しかしそれは、番組的にはつまらないだろうなぁとも一緒に思いながら。
仁はコーヒーカップを戸棚から取ると、自分用のコーヒーをそこに注ぎ、粉砂糖を1つ入れた。
「そういえば、一週間くらい前までは別の事件で盛り上がってたよね。女の人の死体がそのへんに転がってて、どれも体の一部分が欠けている、ってやつ」
「あったあった! 今度のも怖いけど、前のほうがホラーチックだったよね」
自分の体を抱いて、凍えるような動作をみせる葉花。
そんな彼女を目にしながら仁は、コーヒーを口に含んだ。少し熱く、舌を軽く痺れさせる黒い液体は、喉を通りぬけ、胃を痛いほどに刺激する。
7月に入ってからしばらくの間、紙面をにぎわせていたのは「行方不明事件」ではなく、「死体遺棄事件」だった。仁の記憶が正しければ、確かこれも、女性の死体ばかりが見つかっていたはずだった。これもまた相当大きな事件だったが、世間的にはすでに、軽く忘れされている。新しい事件が、人々の記憶を塗り替えてしまったためだ。
2つの事件は同一犯の犯行、との意見もあるが双方ともに証拠が一切出てこないため、なんとも結論が出せないまま個別の事件として捜査を続けている、というわけだ。
この一か月、世の女性は気の抜けない日々を送っていることだろう。そしてそれは仁も範囲の外ではけしてなかった。
「でも、学校を早く終わらせたのは正しい判断だと思うよ。ちょっと遅すぎるくらいだけど」
「だよねぇ」と葉花は頬杖を突く。「今頃早帰りやられてもさ。夏休み、もう始まっちゃうじゃん」
仁は缶のクッキーを開け、広い皿の上にそれらをいくつか取り出して並べると、葉花の前に差し出した。
「でも、無駄じゃないとは思うよ」
「何で?」
小首を傾げる葉花。仁はそのきめの細かい、彼女の髪に手を伸ばし、軽く撫でた。葉花の耳元を流れる黒髪は、仁の指の間をくすぐるように滑り落ちていく。
「ずっとずっと、心配でたまらなかったから」
仁は目を伏せた。コーヒーの苦々しい香りが鼻を突く。
「葉花が学校行ってる間も、不安で不安でしょうがないんだ」
仁の慈しみの言葉を、葉花は透き通った瞳を向けて、黙って聞いている。
行方不明になったのが、葉花と同年代の少女だと聞いた時から、仁は毎日のように胸騒ぎに捉われていた。一歩何かが間違えば、葉花は犠牲になっていたかもしれない。
そんな考えを巡らすだけで、ぎゅっと胸が絞めつけられるような思いになる。頭から血の気が失せ、眩暈が生じてくる。
「まったく、白石君は心配性だなぁ」
徐々に蔭りが生じる仁の心に、葉花はまた輝かんばかりの笑顔をみせる。仁は顔をあげた。
そして葉花は、右腕で小さなガッツポーズをとって言う。
「私がピンチになっても。白石君が、きっと何とかしてくれるもん、ね」
仁は喉の奥が震えるような感覚を覚えた。
この子を守れるのは、自分しかいない。そう思うと、胸に熱いものがこみ上げてくる。
強い使命感を覚え、仁は熱くなっていく目頭に、目を強く瞑ることで耐えた。
仁は身を少し前に傾けて、葉花の前に小指をたててよこした。
「うん。約束するよ。葉花がピンチのときは、僕が助ける。絶対に」
葉花は柔らかく笑い、頷きを返す。相変わらずその表情には、満開の笑みを湛えて。
「うん。ありがとう」
かすかなクラシック音楽だけが空気に揺れる、静かな店内で、仁と葉花は小指を絡ませ合う。仁はその指先に、ろうそくの火のような誓いを灯した。
窓から差し込む陽光が、2人の間に置かれたオレンジジュースとコーヒーに当たり、その水面を音もなく揺らしていた。
夏の日の入りは遅い。
この時期は、空の色が1年の中で最も頼りにならない季節である。まだ早い、と遊び呆けていると、気がついた時には大幅に時間が通り過ぎていていたりする。
今日もまた、午後6時を回ったというのに、夜の気配が一切感じらい日だった。太陽は少しずつ傾いてはいるものの、それでもいまだ気温は高く、多くの人が額の汗を拭いながら横断歩道を渡っている。
どこからともなく、蝉の声が聞こえてくる。それもまた、この暑さを助長する1つの要因となっているようだった。
『しろうま』は林の中に通った一本の道の脇に、ひっそりと建っている店である。そのため、店にいながら森林浴を楽しむことができ、町よりも1度か2度くらいは気温が低いので、ここの辺りでは小さな避暑地となっている。
しかしその分、人気も少なく、隣の家の明かりが目を凝らしてようやく見えるほどである。
通行人も、『しろうま』への来客か、この辺りを散歩する人々以外にはない。それだけでこの店が、東京にありながらも都会にない、時代に取り残された浮島だということが説明できる。
そのためこの辺りに光を運ぶ源は、『しろうま』自身が放つ光を除くと、林道に沿って置かれた、いくつかの侘しい外灯しかなかった。木々に囲まれたこの場所は、それでなくても暗く、光が隅々まで届きにくい環境下にある。数本の外灯では辺りを照らし出すのには、あまりにも覚束無い。
「犯罪が起こりそうな場所」でアンケートを取ったら間違いなく、上位にこの店の近辺はランクインしていることだろう。
だが幸か不幸か。店が設立されて40年間、この林道で、大きな犯罪が起きた試しはなかった。
そのため、後手に回ることでは優秀な才能を発揮する日本警察や役場は、ここでもその才能を如何なく発揮し、林道は危うい夜道のまま放置されているというわけだ。
まわりで殺人事件が起ころうとも、誘拐事件が起ころうとも。この場所で事件が起きない限り、たとえ10年後でも、20年後でも、現状保持されているような、そんな気配があった。
そのような設置条件にある『しろうま』の隣に、1本のクスノキがそびえている。その木の根本にいま、少女が1人立ち尽くしていた。葉花だった。
時々周囲を窺うような素振りをみせ、誰かを待っている様子である。
その目の前を、ランニング姿の老人が走り抜ける。その逆側からは自転車に乗った男子高校生が駆けてきて、葉花の前で2人の人物がちょうど交錯する。
通行人がいないと、この辺りは静かなもので、蝉や鳥などの生命の声以外は何も耳にすることができなくなる。風が吹いていれば木々のざわめきの1つや2つも聞こえるだろうが、生憎なことに今日は無風である。
淡々とした、夏のこもった空気だけが、葉花の体をねちっこく啄む。数秒起きにつま先で地面を叩いていることから、彼女が大分苛立っていることが窺える。
その時、葉花は右手の方向から歩いてくる人影を認め、両手で大仰に手を振った。その人物が待ち人だったらしい。彼女はクスノキから離れると、その人影に向かって跳ねるように近づいた。
「おっそいよ、青いの。外暑いんだもん。汗こんなにかいちゃったよ」
こーんなに、ともう1度言いながら、葉花は両手を胸の前で目いっぱいに広げる。その姿に、葉花の前に立つ人物は笑い声を立てた。
「すみません。ちょっと、迷っちゃって。いまだにこのへん、あんまり覚えられないんですよね」
そう眉尻を垂らすのは、葉花と同年代の少女である。葉花が先ほど言った青いの、という呼称はその少女自身のことを指している。
葉花が彼女のことをその名で呼ぶ所以は、その髪の色にあった。
髪がまるで白けた青空のように、青色なのである。また、木々の間から差し込む光に当ると、その色は銀色に輝いてもみえる。少女はその髪を後ろで結い、ポニーテールにしていた。
少女は白いワイシャツに緑色のネクタイを留め、紺色の膝上スカートを履いていた。つまりそれは、高校の制服だった。手には黒い学生鞄を持っている。
葉花は少女のその格好にまず、疑問を覚えたようだった。首をかしげ、指摘する。
「なんで制服のままなの? うち帰んなかったん?」
少女はまるで今気づいたとも言わんばかりに、自分の着ている服を軽く見下ろす。それから、笑って葉花に顔を向けた。
「あっ。ちょっと色々あって、まだうちに帰ってないんですよ。葉花さんに会ったら、帰ろうと思って」
「ふぅん。せっかく早く終わったのに。勿体ないね」
「いつも損してばっかりです。今日も結局、ミートボール食べられなかったですし」。
「まぁ、あれは拓ちゃん先生が悪いよね。貸してみろ、俺がミートボールを14個に増やしてやろう!とか。いま覚えば、胡散臭いよね。当時、気づくべきだった」
「あの時賛同してたの、葉花さんだけでしたよ!」
「え、そうなの?」
「はい。みんな、結構しぶしぶでした」
少女は困ったような可笑しいような顔で、眉の間に皺を寄せる。葉花よりも背丈が高いからか、その慇懃じみた物言いのためか、そうしていると少女は葉花よりも大人びて見える。
「でも、ミートボール渡したのは青いのじゃん。私は死守したもん」
「だって、みんな一斉に食べちゃうじゃないですか! だから、あんな結果に……」
「それは青いのが遅いからだよ。でもあの瞬間、クラスが一丸となったもんね。あれはあれで面白かったよ」
「そうですね。ボクは、ミートボールを失っただけですけど」
ボク、という一人称もこの少女の特徴だ。そのどこかボーイッシュにも聞こえる響きは、少女の全身から漂う雰囲気には、どことなく不釣り合いにみえる。
いじける少女の背後に自転車が迫っていたので、道のど真ん中で会話を交わしていた2人は、急いで道の端に避ける。
葉花が店に入ろうか、と提案したが少女はすぐ終わる用事だからと言って、申し訳なさそうにそれを断った。だから2人はまだ作動していない外灯の下で、短い草の茂る地面に直接座り込むことにした。
そのまま2人は、他愛もない世間話に花を咲かせる。学校のこと、町で見つけた変なもののこと、それから世間をにぎわせているあの事件のこと。
2人の会話内容はめまぐるしく移り代わり、いつまでたっても話題が尽きないように思える。あまりにも楽しげな2人に、思わず通行人も目を向けてしまうほどだった。
だが無常にも、時は流れる。暑さばかりだった空気が違う顔色を見せ、夜の大人びた静けさが足音をたててやってくる。
色の褪せていく空模様を見ると、話の切れ目を狙い、少女は鞄の金具に手をかけた。
「そういえば、ちゃんと持ってきましたよ」
少女は学生鞄を開けると、中から何か物の入ったビニール袋を取り出し、葉花に手渡した。葉花はそれを受け取ると、その場で中を覗いて確認する。
「うん。うん。1巻、2巻、3巻……全部ある。よかったよかった。青いのの苦労は無駄にならなかったよ」
「ありがとうございます。面白かったですよ」
「でもわざわざ来なくても、明日学校で良かったのに。今日はどうしたのさ?」
不思議そうに見てくる葉花に、少女は手持ぶさたに足元の草を引きちぎりながら、言葉を返す。
「今日、学校持って行ったんですけど返すのすっかり忘れてて。また明日忘れたら嫌だから思い立ったらすぐ行動しようかなぁと思って」
「なぁるほど」
分かったのか分からないのか、曖昧な相槌を打って、葉花は手を叩き合わせた。
「まぁ、気分が変わらないうちに始めるのは大事だよね。私はいつも、思った時にはすでにやるように心がけてるもん」
「ボクはそれができないから。これが、今年の抱負なんです。葉花さんを少し見習いたいなぁとも思いまして」
照れくさそうに笑う少女に、葉花はしばしきょとんとしていたが、ぱっと明るい顔になり、腕を曲げて力こぶを作る真似ごとをした。
「うん、じゃあ私も青色っぽくなるように頑張る!」
「じゃあ、2人で頑張りましょう!」
空が少し藍色を帯びてきたような気がする。2人の真上にある外灯が、音もなく光を灯し始めた。示し合わせたわけでもなく、それを合図に2人は立ち上がった。
蝉の声は先ほどよりもかなり小さくなっている。蒸し暑さだけをそのままに、昼は追いやられ、少しずつ夜が迫りつつあった。先ほどのランニング姿の老人が、今度は先ほどとは逆のほうから走ってきて、2人の前を通り過ぎた。
「また明日、学校で。明日は遅刻しないでくださいよ」
「うん、気が向いたらね」
少女は葉花に手を振りながら、最後に『しろうま』に目をやった。
それからしばらく、少女は葉花を視界に収めることなく、じっとその背後にある店を見つめている。
その視線は、年齢に不相応と思えるほどの、ひどく鋭いものだった。その眼光は上空から、逃げ惑う獲物を見つけた時の鷹のものによく似ている。
あまりにもはっきりとした少女の変化に、周囲の蝉たちも、鳴き声を発するのを止めた。
緊迫した静寂が、林道を包み込む。
少女のその様子に葉花も気付いたようで、店を振り返り、そして濁りのない白い肌にクエスチョンマークを浮かべた。
「なに? お店になんか用があった?」
葉花の声に少女は身をすくめた。それから頬を朱色に染め、両手を激しく振って否定する。
「い、いえいえ別に何も。じゃあ、葉花さん。また明日学校で」
「青いの!」
急いで踵を返そうとする少女を、葉花は呼び止めた。少女は振り返った。青いポニーテールが大きく揺れて、彼女の肩に当たる。
葉花は笑顔で、顔にかかった黒髪を手の甲でどけながら、少女に言葉を投げかけた。
「誘拐されないように、気をつけてね」
葉花の言葉に少女は、頬を緩ませた。先ほどまでの剣呑とした気配は影をひそめ、すっかり元の明るい少女の姿を取り戻している。
「はい! 葉花さんも気を付けて」
「ばいばーい」
2人は手を振り合って別れた。葉花は少女の姿が見えなくなるまで、店の前で手を頭上で大きく振りまわし続けた。
友達の身のことを思って、ぎりぎりまで見届けるために葉花は長い間そうしていたのだろう。だから、彼女は気がつかなかったに違いない。
林道の傍らにある、真っ直ぐに空に向かって生い茂る木と木との間で。
外灯の光も届かない、薄暗い夕闇が佇む、いわば死角の中で。
笑みをたたえ続ける、つぎはぎだらけのオオカミのキャラクターの着ぐるみが、ずっと2人の姿を観察していたことを。
「情けない」
オオカミの着ぐるみが、ぼそりと言葉を零す。それはボイスチェンジャーを用いて作られたような、人為的ながらがら声だった。
その首からは、シルバーネックレスがぶら下がっている。先にはレスラーの覆面のような模様の捺された、銀色の箔が取り付けられていた。
そのネックレスを激しく揺らしながら、憤りを抑えたような口調で、狼の着ぐるみは1人呟く。
その眼の先には、いまだ友達を見送る葉花と、徐々に小さくなっていく少女の姿がある。
そのオオカミの着ぐるみが次に発した一言は、青みがかっていく景色の中へ、焼きつくように伝導していった。
「あぁ、さっさと死んでくれればいいのに」
登場人物
白石 仁
23歳。清閑な喫茶店、「しろうま」のマスターを務める青年。
物に残された記憶を読み取る力、サイコメトラー能力をもつ。
楓 葉花
15歳。私立高校に通う1年生。
5か月前から、仁の家に居候している。
外見も中身も、実際年齢よりも幼く見える。天真爛漫な女の子。
菅谷 紀彦
47歳。
黒ぶち眼鏡と、あご髭が特徴的な「しろうま」の常連客。