16話:写真の中の女の子
「あの、すみません!」
走りながら、天村氏の広い背中に呼びかける。彼は立ち止まり、振り返るとレイを一瞥し、それから周囲を見渡して、もう1度レイを見た。そして、自身の胸のあたりを指した。
「僕?」
レイは天村氏の前で停止すると、息を整えながら、彼の顔を見上げた。周囲には多くの人が行き交っている。すぐ横を通り過ぎる看護師が、院内を走ったことを咎めるように顔をしかめていた。看護師に小さく頭を下げると、レイは天村氏の前で体を2つに折った。
「いきなり、すみません。悠のお父さんですよね」
「君は?」
「私、悠の友達の黒城レイといいます」
「……あぁ」
天村氏は、始めこそ怪訝な表情を浮かべていたが、レイが自己紹介をすると、得心した様子で相好を崩した。
「そうか、君が。始めまして、悠がお世話になってるね。そうだ。僕が、悠の父だ。よろしく」
挨拶を口にしながら、彼は手を差し出してきた。レイは突然握手を求められたことに戸惑いながらも、その乾燥した掌を握り返す。挨拶代わりの握手というのはなんだか大人っぽくて、レイはなぜだか誇らしいような気分になった。
病院を地下に降りると、2つのテーブル席と自動販売機だけで占められた、ささやかな休憩室がある。レイと天村氏は、人気のないその部屋に移動した。
中に人はおらず、クーラーと自動販売機の稼働音だけが、静かな室内に響き渡っている。この部屋だけは病院の中で唯一、薬の臭いがしないことにレイは気づいた。まるで質素な喫茶店のようだ。階段1つ昇れば病院に直結しているという構造が、今ではにわかに信じがたい。
「悠は僕のことを恨んでいるだろ? 僕も妻も、あまりかまってやれないから。お見舞いだって、1週間ぶりだ」
自動販売機を前にしながら、天村氏は自虐的にそう言った。椅子に座るレイはなんと返したらいいものか逡巡し、黙りこくる。「そんなことないです」と取り乱すのもおかしいし、「そんなことあります」と白状するのも気が引けた。考えながら、悠は寂しがってはいるものの怒ってはいないのでないか、という結論に至る。しかし、それを口にしていいものか、またしても判断に迷う。
天村氏はその沈黙を、肯定の証として受け取ったようだった。レイを振り返ると、目を糸のようにして笑った。
「正直な子だ。そういうところは、お父さん譲りだね」
「すみません」
「いや、いいんだよ。今のは、褒め言葉だ」
「ありがとうございます」
がこん、がこん、と缶ジュースが取り出し口へ続けざまに落ちる音がした。天村氏は腰を屈めて、取り出し口に腕を突っ込む。
「それにしても、あの方にこんな大きな娘さんがいたなんて、驚きだ。さっきお父さんに会って、昔話に花を咲かせていたんだけど、そこで君のことも話題にあがってね。けが、大丈夫かい?」
「実は盗み見をしていたんです」と告白をするわけにもいかず、レイは痛む右肩を撫でながら、小さく頷いた。
「はい。ありがとう、ございます。なんとか大丈夫みたいです」
「それは良かった。君のお父さんが、君は神に守られていると言っていた」
「恥ずかしい父で、すみません」
「今のも褒め言葉だよ。半分ね」
「半分だけ、ありがとうございます」
天村氏はレイの向かい側の席に、腰を下ろした。右手には350mlのコーラ、左手には缶コーヒーを持っている。赤と黒のコントラストは絶妙な色合わせで、目が惹きつけられてしまう。中身の液体の色は同じようなのに、パッケージには大きな差異が生じているのが、なんだか面白い。人は所詮外見だよ、と飲料水たちが語りかけてくるようでもあった。
「君はコーラでいいかな。若者が炭酸飲料と決めつけるのは、おじさんの考え方だとは思うんだけどね」
声もたてずに笑いながら、天村氏は右手のコーラをレイの前に置いた。その笑顔はとても優しくて、悠の表情と重なるものがあった。悠はおそらく、父親似なのだろう。彼の目元に刻まれる皺など、悠そっくりだ。血の繋がりを目の当たりにし、なんだかレイはこそばゆいような気持ちに陥る。
「あ、私は若者ですから、大丈夫です。ありがとうございます」
「それで、一体なにかな。僕に訊きたいことっていうのは」
缶コーヒーのプルタブを空けながら、天村氏はいきなり本題に切り込んできた。いつ話を始めるべきか、ずっとタイミングを窺っていたレイは面食らったものの、膝の上に置いた拳に力をこめてから、口を開いた。
「あの、勘違いかもしれないんですけど」
「うん?」
唾を呑み込む。緊張しているのが、自分で分かった。口の中を十分に唾液で湿らせてから、言葉を継ぐ。
「うちのお父さんって、もしかして、あの大企業の社長、だったんですか?」
天村氏は、途端に目を見開いた。持ち上げかけた缶コーヒーをテーブルに下ろし、少し身を乗り出してくる。予想以上に天村氏が食いついてきたので、レイは戸惑った。
「あ、知らなかったのかい?」
「はぁ」
「もしかして、君にはそのことを、話してないのかい?」
「は、はぁ……」
「……そうか」
天村氏は数度、体を揺するようにして頷いた。レイに対してではなく、自分自身を納得させるかのような、首肯の仕方だった。視線をテーブルに傾け、その木目に映った景色を検分するかのように、口の中でぶつぶつと何事かを唱えている。
やがて天村氏は顔をあげると、レイを正面から捉えた。
「あぁ、それは間違いない。あの方は、黒城和弥さんは、黒城グループの元社長だ。僕にとっては、かつての上司でもある」
それは、つい数分前に聞かされた真実であったが、改めて面と向かって断言されると、心にずしりと響くものがあった。同時にいままで天高く聳えていたものが、一瞬で手の届く高さにまで縮こまってしまったかのような、ある種の呆気なさを覚える。
「いまは、あの方の従兄が跡を継いでいるけどね。それも一部の人間だけが知っている情報だよ。世間的には、社長はずっと同じ人間だと思われているからね」
「なんでお父さんは、私にそれを隠していたんでしょう?」
さらに質問を重ねると、天村氏は缶コーヒーの側面を指で小突きながら、大きく眉を寄せた。しわの寄った顔であることに違いはなかったが、その目に穏やかではない光の宿っている点が、先ほどの笑顔とは根本的に異なっていた。
「それは、分からない。まず、なぜ社長の座を辞して、あまつさえ会社まで捨てたのか。そこからして謎だらけなんだ。あまりに突然すぎて、舵取りを失った黒城グループは転覆するんじゃないかって一時期、社内は騒然としていたよ。まぁなんとか持ち直したけどね」
「うちの父が、ご迷惑をおかけしました」
「いや、いいんだ。別に僕は社長を……おっと、君の前ではお父さん、って言った方がしっくりくるかな。別に僕は、お父さんを責めているわけではないんだ。ただ、真実を知りたい。それだけなんだよ。なぜ、誰の相談も得ずに会社を辞めたのか。腑に落ちない点が多すぎるからね」
天村氏は、そこでようやく缶コーヒーに口をつけた。レイもプルタブを開け、思い出したようにコーラを飲む。乾いた口内に、炭酸の刺激はちくちくと痛んだ。冷たいものが喉を通り抜け、それだけで体の細胞1つ1つが潤っていくような気がする。けがと暑さで思いの外、体が疲労を背負っていたことを、そこで初めて知った。
レイは口元を手で拭うと、コーラをテーブルに下ろした。質問の切り口を、若干変えてみることにする。
「お父さんが会社を辞めたのって、どのくらい前なんですか?」
天村氏は肘を突き、顔の前で指を組み合わせた姿勢のまま、黒目を上向かせ、頭の中で数字を数えるようにした。
「新宿の事件から2年後だから、2006年になるのかな。いまから数えれば4年前だよ。こう口にしてみると、もうそんなに経つのか、って思うけどね」
4年前。
天村氏の唇から紡がれた年月に、レイは言葉を失う。4年前という数字は、レイの中で大きな意味を持っていた。
それは、自身の記憶に関してのことだ。レイの記憶は、4年前より昔のものがない。どういう理由でそうなったのかは分からないが、それでもその空白の時間に“本当の自分”が待っていることを、レイは確信していた。
そして黒城が社長の座を辞したのも、ちょうど同じ頃のことだったという。これを単なる偶然の一致として、片付けていいものだろうか。
「あの。新宿の事件って、なんですか?」
とりあえず多くの情報を得るため、父親と天村氏の会話に出た、わからない単語を暴いていく作業から始めることにした。知識を集めないことには、進展するものもしないのではと考えていた。
レイが訊ねると天村氏は、喉仏を大きく上下させて息を呑んだ。それから信じられないものを前にしたような目つきで、レイの顔をまじまじと眺めた。
「あの事件のことを、知らないのかい?」
「え、あ、すみません」
どうやら、知っていることが当り前の事柄だったようだ。レイは自分の顔が熱くなるのを感じた。知らぬは一時の恥、という諺があるが、たとえ一瞬であっても恥ずかしいものは、恥ずかしい。
そんなレイの顔色の変化に気付いたのか、天村氏は泡を食ったように慌てて、弁解をしてきた。
「いやいや、そんなに気にしないで。僕の方こそ悪かった。でも、あの事件のことは覚えておいた方がいい。しっかりと、心に刻みこんでおくんだ」
天村氏の表情が急に厳格なものへと変わったので、レイは緊張した。表情を引き締め、2度瞬きを返す。天村氏はすっと短く息を吸うと、顔の前で組みあわせた手を、固く握りながら話し始めた。
「2004年の2月のことだ。新宿駅で、何者かによる爆破事件が起きた」
爆破事件。物々しい単語を、レイは頭の中で復唱する。
天村氏はさらに続けて、丁寧に説明をしてくれた。
「爆発したのは、駅の売店近くに置かれていたボストンバッグらしい。その爆発で数十人が死に、数百人がけがを負った。僕はテレビの画面越しに、現場を見ただけだったんだけど、それでも混乱と惨劇は十分伝わってきた。本当にひどい、ありさまだったよ」
死屍累々、地獄絵図とはこのようなことを言うに違いない。それほどに現場はひどいありさまだった。泣き叫ぶ人、痛みに呻く人、パニックに陥り絶叫する人。数多くの悲鳴が、街中を埋め尽くした。アスファルトは削り取られ、車もビルも人間も、何もかもが炎にくるまれ、天に向けて焦げた煙を噴出していた。そこには、これまでの新宿駅としての姿は微塵も残されていなかった。
そう身ぶり手ぶりを交えながら、レイに訴えかけるように状況をこと細やかに説明しながら、天村氏は目を潤ませていた。
この人もまた、悠と同じように他人の痛みで涙を流すことができるのだ。頬を強張らせ、悲観を表情に出す天村氏を見ていると、こちらまでなんだか目頭に熱がこもってくるようだった。胸がぎゅっと苦しくなる。始めて耳にした事件であるはずなのに、人ごととは思えないのが不思議だった。
「これが俗に言う、新宿の事件だ。捜査の結果、複数犯による犯行であることが分かったけど、いまだに犯行グループは見つかっていない。このまま迷宮入りになるんじゃないかとも言われている」
「犯人の……手掛かりとかは、なかったんですか?」
レイの指摘に天村氏は顎を引いた。それから、右手の人差し指を立てた。
「1つだけ、あった。事件が起こる1時間くらい前、ホームレスが新宿駅の交番に常駐している警察官に、一通の手紙をよこしたんだ。それは後の捜査で判明したらしく、そのホームレスは金で雇われた、と証言しているらしい」
「その手紙には、なんて書いてあったんですか?」
天村氏は、一気に缶コーヒーを飲み干した。そしてさっきよりも乱暴に唇を掌で拭き取ると、脳みその中に彫り込まれた文字を読み取るかのように、一本調子の声で言った。
「『鳥を飼うものたちよ。これは、お前らに対する見せしめだ』」
「どういう、ことですか?」
瞬ぎながら疑問を口にすると、天村氏は無言でかぶりを振った。その様子からは、行き場所を失った無念さが滲み出ているかのようだった。
「分からない。“鳥”とは何なのか、“お前ら”が指し示しているのは誰なのか。とにかく、謎の多い文章であることに違いはないよ。警察でも、いまだ解読できていないらしい」
鳥、という言葉でまずレイが思い出したのは、黒城の腕にあったあの痣だった。
夢に出てきた黒い巨大な鳥を彷彿とさせる、あの翼を広げた姿。見るものを威嚇しようとする意思が、存分に伝わってくる絶望のシンボル。
天村氏も同じことを考えているのだろうか、と目を上げるが、彼は机をじっと見つめたまま思考を働かせているようだった。その瞳に何が映し出されているのか、レイに知る術はない。ただ、ひどく憔悴した表情だなとは思った。黒城よりも年下のはずなのに、天村氏には父親よりも多くの皺が刻まれている。苦労してるんだなぁ、と漫然な感想をレイは抱いた。
「佳澄さんって人も、その事件で亡くなったんですか?」
尋ねると、天村氏は目を丸くした。しまった、と思いレイは遅れて自分の口に手をあてがうった。父親と天村氏の会話を盗み聞きしていたことを、うっかり自白してしまったことに気づいたからだ。
しかし、天村氏はそれについて深く追及することはしなかった。彼はため息をつきながら、先ほどまでコーヒーの入っていた空き缶を掴んだ。
「ああ、そうだ。彼女はそれでも、2年くらいはもってたんだけどね。お父さんが辞める4、5カ月前だったかな。病院で、眠るように亡くなった」
「あの、今更なんで訊きづらいんですけど……」
「なんだい、どんどん訊くといい。知らぬは、一時の恥だ」
またその慣用句か、と心中で苦笑しながらも、レイは恐縮する思いで尋ねた。
「佳澄さんって、誰なんですか?」
単刀直入に訊いてみる。すると天村氏はまたレイの顔をまじまじと見つめたあと、「そうか」と独り言のように呟いた。
「そうか、君の年じゃ計算が合わないものな。君は、黒城さんの養子とかなのかい?」
「えっと、はい。そんなようなものだと、聞いています」
間違いではない。血が繋がっていないと、父親自身から説明を受けているのだから。するとまた天村氏はぶつぶつと、口の中に含むように何事か発したあと、レイに言った。
「こんなことを言っていいのか分からない。本当はお父さんの口から聞いた方がいいんだが……だが、どうしても聞きたいのなら僕が説明しよう」
天村氏は、なんだか慎重だった。もとよりレイから質問したことだ。ここまできて、怖気づくわけにはいかない。
「お願いします」
「……佳澄さんは、お父さんの秘書だった人なんだよ。同時に、恋人でもあった。そういう、女性だ」
「お父さんの……恋人!」
レイは思わず、跳ねるようにして椅子から立ち上がってしまった。これまで聞いた様々な事実の中でも、それは最も衝撃的だった。父親は恋愛とかそういう俗的な部分を、はるかに超越した次元に立っていると半分本気、半分冗談で思っていたからだ。
父親は世界で一番、恋という概念の似合わない男と評しても、けして言い過ぎではないだろう。
「まぁ、今となっては昔の話だけどね」
頓狂な声をあげたレイを気遣ってか、天村氏はわずかに微笑を浮かべながら、そう付け加えた。レイは我に返り、慌てて腰を下ろすと天村氏に向き合った。
「その人って、どういう人だったんですか?」
完全に好奇心からの発言だった。やはり、父親が愛した女性とはどんな人だったのか、娘としては聞かないわけにはいくまい。
天村氏は腕組をして唸りながら、天井を見た。まるで、蛍光灯の灯りを反射している白い天井板に、彼女の像が投影されているとでも言うかのようだった。
「月並みの表現でいえば、明るい人、ってことになるのかな。いや、僕もあまり彼女のことは知らないんだ。あまり表だって出てこない人だったしね。完全に社長の専属秘書だったから」
「そうですか……」
「今となっては、もう少し関わっておきたかったっていう気持ちが、なきにしもあらずだけどね。もうその願いも叶わないな」
そう言って、天村氏は席を立った。ポケットから小銭を取り出し、自動販売機の前に立つ。そうしてまた、缶コーヒーを購入している。
父親が愛した、それでいて企業の重鎮でさえも深くは知らない、謎のベールに抱かれた女性。彼女の存在と、レイの記憶の欠落とに関連性はあるのだろうか。そして黒城が会社を辞めた理由とも、繋がってくるのだろうか。
まだ判断材料が足りない。レイは下唇を弱く噛むと、歯の隙間からため息を吐き出すようにした。
「あ。そういえば、思い出した」
缶コーヒーの口を開けながら、天村氏は不意に声をあげた。レイは視線だけ動かして、彼の顔を見据える。
「なにを、ですか……?」
「佳澄さんについてのことさ。彼女が死ぬ1年くらい前に、社でお花見をやったんだよ」
「はい」
「他のみんなはやはり、社の行事であるから行かなきゃいけない。だから半ば強制のような形でほぼ社の全員が参加していたんだけど、なぜかそこに佳澄さんは来なかったんだ」
社長の専属秘書なのに。社の規律などは知らないが確かに、なんだか奇妙な話ではある。
当惑するレイの前で、天村氏はクイズの出題者のように、訳知り顔でにやりと微笑んだ。
「だけどお父さんに聞くと、その原因をすぐに教えてくれたんだ。なぜだと思う?」
「えっと……なんか用事とかですか?」
「それが違うんだ。彼女は、毛虫が嫌いだったんだよ。なめくじも、カマキリも、幽霊でさえ平気なのに。毛虫にはひどく怯えるらしいんだ。だから花見を辞退したとのことだった。あの時期には、毛虫なんか大量発生するらしいからね。側に寄るのも嫌だったんだろう」
レイは頭を、がつんと叩かれたような気分になった。そしてひどく、不気味なものを感じた。
レイもまた、毛虫が苦手だったからだ。他の昆虫は触っても何とも思わないのに、毛虫に限っては近づくのもダメだった。なぜあんなにちっぽけな虫に、あれほど怯えを抱かなくてはならないのか、理由は自分でもまったく分からない。
レイは頭の底から熱く、こみ上げてくる感情をコーラで押し流すと、思い切ってもう1つ質問をしてみることにした。もはや隠す意味があるようには思えなかった。
「そういえば、あの、すみません。さっき立ち聞きしちゃったんですけど」
「さっき?」
首を捻る天村氏だったが、「あの、喫煙所での」と補足すると、何かを思い出したように苦笑した。
「やはり、あれは君だったのか。誰かいるような気配はしたんだけどね」
「あの時、最後にお父さん、写真がなんとかって言ってたじゃないですか。あれって、いま見れますか?」
すると天村氏は、途端に唇を結び、厳しい顔になった。それから顎に手をやり、1度頷く。
「私の娘のモデルがそこにいる……そう言ってた。あれだね?」
レイもまた、表情を引き締めて顎を引いた。
「僕もあれは、ちょっと調べたいと思ってた。最後の発言は、僕にもよく分からなかったからね。ちょっと待ってて、この病院にあるはずだから。頼んでみよう」
「ここに、ですか? 写真が?」
席を立ちながら、天村氏は空き缶を手に取った。
「ここの院長も、あのパーティーには参加していたからね。お父さんの学生時代からの知り合いらしいんだ。あの人は、そういうところに顔が広いらしいからね」
なるほど。この病院の医師と妙に親しそうにしていたのは、そのためか。天村氏は缶をゴミ箱に投げいれると、階段を昇って行ってしまった。レイは1人、部屋にとり残される。
クーラーだけが語りかけてくれる個室の中で、レイは思慮にふけった。
娘のモデル、という父親の物言いも気にかかったが、それよりもその前に述べていたことが心に深く食い込んでいた。
“私は怪人を作り出した”
あの言葉が示す意味は、一体何だったのだろうか。最も簡単に行き着く答えは、あの巷で暴れており、レイたちが始末をしているあの怪人たちのことであるが、それよりも自体はもっとねじくれていて、混沌としているような予感を覚えていた。
レイの背筋に、怖気が走る。これ以上は考えるなと全身の細胞が口々に叫び散らしているかのようだ。冷房の風が首筋を這い、それがこの感情に拍車をかけているように思えた。
お前はレイではないと、あのコートの男は言った。
ならば自分は、一体何者なのか。長い間考えることはあったが、調査しようとは思わなかった。悩むことも止めていた。だが、あの男に直接そうぶつけられたことによって、レイの心はまるで、停止寸前にある独楽のように、大きく傾き倒れそうになっている。もしそれが転んでしまったなら、その時レイはどうなってしまうのか。それは自分自身でも分からなかった。
それほど待つことなく、天村氏は戻ってきた。手にはA3サイズの青いアルバムを抱えている。
よいしょ、と声をあげてアルバムをテーブルに置くと、天村氏はまた自動販売機に硬貨を入れた。今度はコーラを2本。レイと、自分の前に置いて、それから腰を下ろす。
「今度は天村さんも、若者ですか」
2本のコーラを交互に眺めながら、レイはふと呟く。
「心はいつでも、若者でありたいと思ってるよ。年を重ねることに、コーラで逆らうんだ」
なんだか自信ありげに、天村氏が嘯く。
「確か、あれは、あの時だから……あ、これだ」
それからアルバムを慎重に捲っていき、天村氏はあるページでその手を止めた。レイは身を乗り出して、天村氏が指で指し示している写真に注目する。
それは創立記念パーティーの参加者による、集合写真だ。全員スーツを着込み、片手にはワイングラスが添えられている。中には赤い液体がなみなみと注がれていた。
写真の中には、父親の姿があった。社長らしく、中央を陣取っている。その右横には少し窮屈そうに天村氏が立っていた。髪型がすっきりしているためなのか、それとも単に光の加減のせいなのかは分からないが、現在よりも大分若々しい。背後に掲げられた看板を見ると、『平成17年度』と書かれているから、5年前ということになる。
「お父さん、全然変わってない」
自信に満ち溢れた顔つきと、仁王立ちに近い立ち姿は、本当に今のままだ。口に出すと、天村氏は苦笑いを浮かべた。
「多分、いまと、中身も大して変わってないと思う」
「うちの父親が、迷惑をおかけしましてすみません」
「いえいえ。いいお父さんだと思うよ。この人に付いていけば大丈夫っていう、安心感があったからね」
謝罪しながらもレイは、それに同意した。そして天村氏に対する好感度が、さらに上がった。やはり長年、父親に付き添っていただけのことはある。ただ父親がひたすらに高慢なだけの人間ではないことを、ちゃんと分かってくれている。
「佳澄さん、って人はいないんですか?」
横並びになっている人々の中から、レイは女性の顔だけを目で追う。天村氏も指で女性の顔を1人ずつ指し、確認しながら探している。
「佳澄さん、か……あぁ、そうだ。このパーティーには出席してたんだけど、写真を撮る前に帰っちゃったんだ。習い事があるとかで」
「習い事?」
「ピアノだよ。お父さんは、下手の横好きだって言ってたけど。割合、上手かった記憶があるよ」
「習い事で、抜けてもいいんですか?」
「本当は駄目なんだけどね。でもほら、正社員でもないし。なにより彼女は、社長のお墨付きだから」
自由奔放というか、縦横無尽というか、厚顔無恥というか。なんだか父親と似通っている部分がある。だからこそ、恋に落ちたのかもしれないが。
写真に写る参加者は皆、30代から60代くらいまでの男女だったが、そのなかでひときわ異彩を放つ存在があった。スーツを着込みメガネをかけた男性の足元に、彼女はいた。
桃色のドレスに身を包み、真顔でこちらを見ている。そのあどけない丸顔と、背丈からおそらく幼稚園に入るかどうかという年齢だろう。
レイはその幼女の顔から、視線を外せなくなった。額から嫌な汗が流れ伝ってくる。
天村氏も同じだった。「そんな」と、音程の狂った掠れ声で呟いている。明らかにその声音は、突きつけられた現実に動揺していた。レイもまた、全身が一気に冷え込んでいくのを感じていた。
その小さな女の子の顔は、レイと瓜二つだった。
異なる部分をあえて取り上げるならば、髪の色と、その年齢だけだった。レイは金髪だが、写真の女の子は黒髪だった。その2つの要素を除外するならば、まるで彼女は鏡写しのように、レイそのものだった。
「嘘」
レイは思わず声に出して、言ってしまった。こんなにそっくりな、目鼻の形や顔の大きささまで、ぴたりと一致する人間が果たして存在するのだろうか。
昔読んだSF小説に、ドッペルゲンガーの話があったことをレイは思い出した。自分とまったく同じ相貌の人間がこの世にはいて、その人間と出会ってしまったら最後、自身は絶命してしまうという。
まさか、それではないのか。しかしレイにはもう1つ、都市伝説めいたものではなく、もっと現実感に溢れた選択肢が存在している。
それはレイが、4年前以前の記憶を失っているという点だ。その事実は、この写真に写っているのが、まさにレイ自身ではないかという可能性を示唆している。なんらかの出来事があってその後、11歳のときになって、記憶障害を起こしてしまったのではないか。
ドッペルゲンガーよりも、そっちの説の方がいくらか現実的だ。
「この娘、いまはどこにいるのか。分かりますか?」
興奮を抑えきれずに、レイは尋ねた。しかし天村氏はなんだか、歯切れが悪そうだった。写真の中にいる幼女と、レイを見比べてはごくりと喉を鳴らしている。それから最後に、何か恐ろしいものを見るような目つきで、レイの顔を眺めた。明らかに様子がおかしい。
「……一体、どうしたんですか?」
「いや、あの……」
天村氏は言葉を呑みこんだ。口の中でその言えなかったことを、もごもごと咀嚼している。だが、レイのあまりにも真剣さを孕んだ目つきに耐えられなくなったのか、深いため息とともに、言葉を発し始めた。
「死んだよ」
「え」
聞き取れたにも関わらず、レイはもう1度尋ね直してしまう。天村氏はレイそっくりな幼女の顔を、指先で軽くなぞるようにした。
「死んだんだ。ひき逃げで。結構、大きなニュースになったんだけどね」
期待していたものが、すべて心の奥底で木っ端みじんに砕け散ったような気がした。破片がレイの喉を深く突き刺していく。もうこの写真の中で不安そうな顔をしている女の子は、この世にいない。ようやく、天村氏の視線の意味が理解できた。これでは、レイが幽霊であると思われてもしかたがない。自分自身でも、恐ろしいのだ。
「犯人は、式原とかいう指名手配中の医者だった。あとで自首してきたんだけど、監獄の中で自殺したんだっけかな。それまで黒髪だったのに、なぜかその時は金髪に染めてて、いろいろ物議を醸したものだった」
レイが相槌すら打たず、呆然自失としていると、天村氏はコーラを飲みながらさらに雄弁になって続けた。
「そうだ。二条裕美。最近よくテレビにでている、彼の車がひき逃げに使われたとかいう話だった。それまで、二条のことは一部の人間しか知らなかったのに、その事件をきっかけにして、彼は一躍名を知られる存在になったんだ。まぁ、悪名を弾き返す彼の実力も凄かったけどね。いまや、彼はヒーローだ。腐敗した政治に物申す、救世主になっているよ」
病院のテレビで、政治について忌憚のない言葉を吐きだしていた、あの男だ。橘看護師が近寄りがたい雰囲気を周囲にばら撒きながら、じっと彼のことを見つめていたのを思い出した。
レイはあまり二条裕美という人間のことを知らなかったが、そうか、そんなに凄い人だったのかと感心した。
「この当時、僕は彼に仕事を頼んでいたんだけどね」
「政治のことを、なんやかんや言う人じゃなかったんですか?」
覚えたての知識を、レイは振りかざす。すると天村氏は目線で周囲を窺うようにしてから、口の前に手をやった。内緒話をする格好だ。
「今ではそれ専門になってるけど、昔は企業に関しての執筆もしてたからね。社長に頼まれて、当時不正の見え隠れしていた企業についてのコラムを依頼してたんだよ」
「つまり、悪口をお願いしたんですか」
「なかなか、痛いことを言うね」
「お父さんの、娘ですから」
「なるほど。でも、そういういざこざがあって、その件は白紙になっちゃったんだ。どっちみちそんなことしなくても、向こうの不正はすぐ明るみに出たからね」
「えらいひとも、大変ですね」
皮肉るつもりはなく、レイは本心から言った。天村氏は目を細めながら、頬を掻いている。
「うん。お父さんに、こっぴどく叱られた。当時は、ひやひやしたもんだよ」
「うちの父が」
すみません、と続けようとしたところで、天村氏が苦笑いを浮かべ、その言葉を制した。
「それはもう、止めてくれよ。僕の運がなかったんだ。生きてれば、こんなこともあるさ」
顔をくしゃりと歪ませて笑ってから、天村氏は咳払いを1つして、再び表情を固くした。
「この娘が死んだあと。確か、父親は失踪したらしい。そのうち残った母親も行方知らずになって、一家崩壊したらしいよ。本当に無残な話だ。マスコミに対する責任も問われたけど、結論がでないうちに流されていったな」
事件は次々に起こる。いつまでも1つの話題について、議論している時間はないということか。世知辛いが、こればかりはどうしようもない。人が生きて、時間が進む限り、大衆の興味もまた移り変わっていかなければならない。
レイはもう1度、写真に目を落とした。幼女の肩を掴んでいる、この長身痩躯なメガネの男が、この子の父親なのだろう。娘の死後、妻を置いて出て行った父親。カメラに向かって、癖のある笑みを零しているその姿からは、そんな事実は見えてこない。
男の隣には、同じくメガネをかけた女性が立っている。アーチ状の眉毛をもち、どこか優しげな雰囲気を纏った女性だ。直感的におそらくこの人が、幼女の母親であるとレイは推測した。
「この人、なんていうんですか? あの、名字。この子のお父さん、ですよね」
レイはメガネの男の顔に指を置いた。天村氏は写真に顔を近づけると、自信なさげに考え込んだ。
「あぁ、父親だよ。すごく娘さんを可愛がっていたんだ。名前は確か……」
天村氏は顎に手をあてがい、唸っている。それから少しして彼は目の奥に光を宿し、両手を叩き合わせた。
「佐伯、だったかな。そうだ、佐伯さんだ。この人も医者で、他の参加者からの紹介で呼ばれたんじゃなかったかな。おそらく、社長とは関わりの薄い人物だった」
「佐伯……さん」
どこかで聞いた覚えのある名前だ。
さえき、さえきと何度も頭の中で発音し、そうしているうちに頭に閃くものがあった。
あの、黒コートの男だ。
彼はレイに向かって、佐伯という名前を出していなかっただろうか。レイを見て、佐伯の名前を連想する理由としては1つしかない。
あの男は、この写真にいる幼女とレイを見間違えたのではないのか。無理もない。外見だけみれば、まさに同一人物なのだから。レイはまるで、自分の幼少時代の写真を見つけたような気分になる。しかしそれが他人であることを思い出すと、やはりこみ上げてくるのは、疑問と違和感、そして不気味さだった。
「それにしても、似てる。ここまで似てるのは……しかし、モデル、怪人、か」
瞳を細め、しみじみといった様子で天村氏が言う。レイは混乱するばかりでオーバーヒートを起こしそうな頭を、コーラを飲むことで一気に冷却した。
自分と同じ顔をした女の子が、写真の中から見つめている。
その目は、どこか自分を責めているように思えて、レイはたまらず瞼を閉じた。
天村氏に別れを告げると、レイは病院を出たその足で、公園に向かった。
ライは断言してくれたが、それでもレイはこの沸き上がる気持ちを、もう抑えることができなかった。
自分は、一体誰なのか。その答えを知りたいという、波打つような欲求だけは。
レイと瓜二つの幼女は、3年前に死亡している。あの娘と、自分との関係はなんなのだろう。あそこまで姿形が酷似しているのは、果たして偶然の産物なのだろうか。では、黒城が言っていた「私の娘のモデル」とはどういうことなのか。怪人を作った、という言葉とその関係性はなんなのか。なぜ、レイには4年前よりも昔の記憶がないのか。
そして、レイの本当の両親は誰なのか。一体、どこにいるのか。
しかしこれらのことを父親に直接問いただすことは、したくなかった。今でも、奮え立つ感情と、後ろめたさが同居しているのだ。黒城に対する恩があり、現在の状況に満足している。ここで過去について追及することは、父親に対する裏切り行為なのではという懸念があった。
それでも、やはり知りたい。
それにそうしなければ、このままでは、父親に対して疑念を募らせたまま共に暮らしていかなくては、ならなくなってしまうような気がした。それがレイにとっては最も恐ろしいことだった。
愛の尺度を目で図ることのできないこの世界で、人と人との絆を支えてくれるのは、信頼と情熱だけだとレイは信じていた。
信頼を繋ぎ止め、情熱を固めるためには、まずは疑うしかない。
空は日が落ちて、茜色に染まっている。蝉の消え入るような鳴き声は夏の風情を感じさせるようで、耳に心地いい。空気に湿り気は少なく、どうやら本日の夕立は見送られたようだった。このまま、明後日まで雨は降らないでくれ、と心中で祈るばかりだ。
レイは車通りの少ない、小道を選んで帰った。左右にはアパートや一軒家がずらりと並んでおり、その中心を道路が走っている。遠回りになるが、車が走り去るすぐ脇を通るよりはましだ。しばらくは、動いている車の横をすり抜けることもできそうになかった。
小道は少し薄暗く感じたものの、それでも自転車で行き交う人たちや、早足で家路に着くサラリーマンなどの姿を多く見ることができ、それなりに賑やかだった。夕陽を背負い、赤く溶けたアスファルトの上ではしゃぎ回る、子どもの声が聞こえる。車がほとんど通らない、一方通行の狭い道だからこそ、縦横無尽に遊ぶことができているのだ。
クラクションが鳴る。
レイは文字通り、その場で跳びあがった。前方を見ると、夕闇を切り裂いて2本の光が射している。それはゆっくりと、こちらに近づいてくる。初め、瞳の中心にぽつりと落とされた点のようだった光は、見る見るうちに、レイの視界いっぱいに広がっていく。
地面を震わせて、低い唸り声をともに猛進してくるのは、鉄色に赤いラインの入った10トントラックだった。
道幅ぎりぎりのところに、体を無理やりねじ込ませながら侵入してくる。レイは弾かれるようにして、道の端に避けた。そしてそのまましゃがみこむと、頭を抱えて、事が過ぎ去るのを震えながら待った。まったく膝に力が入らず、しゃがんだ姿勢さえも、すぐに崩れてしまいそうだった。
空気の塊が、レイの背中に降りかかってくる。アスファルトの上を転がるタイヤの低い音が、鼓膜を震わせる。
レイは腕で耳を抑え、必死に祈った。いまにも涙が滲み出てきそうだ。恐ろしくて身じろぐことさえできない。これまでの世界が遠く、小さくなっていく。音が聞こえなくなり、目の前は黒くすすけていく。
誰か、助けて。
心の中で、レイは絶叫した。しかしその声は、胸の戦慄きを剥がし取るという役目を負うことなく、乾ききった体内の表層をなぞりながら、薄く広がっていくだけだ。それがあまりに虚しく響くので、レイは泣きだしそうになってしまう。涙腺がじわりと濡れていく。
しかし、すんでのところでレイは涙を流さずに済んだ。地鳴りが通り過ぎ、タイヤの音も遠くなっていったからだ。
恐る恐る、レイは立ち上がった。首だけを巡らせて周囲を窺うと、たくさんの人がレイを思い思いの視線で見つめていた。
子どもたちは奇異のこもった眼差しを向け、年配の女性たちはひそひそと会話を交わしている。通りかかる青年や女性たちは、レイの惨めな姿を見て、笑いながら通りすぎていく。
レイは居心地の悪さと、慙死の思いにかられ、逃げるように駆けだした。膝の動きがぎこちなく、何度も転がりそうになりながらも、レイは足を止めなかった。息を切らして、必死に走った。このまま心臓が胸を突き破って、死んでしまってもいい。酸素の循環が間に合わなくなり、窒息寸前になった頭でそんなことさえ考えた。
ふらふらになりながら公園にたどり着くと、そこには誰もいなかった。日中、賑わいをみせている公園が静まり返っているのは、なんだか物哀しかった。何かが草陰や遊具の後ろ側に隠れて、虎視眈々とレイを見つめているのではないか。そんな根拠のない想像が、頭の中を否応なしに蹂躙していく。
蝉の音が妙に空々しくて、それが暗澹とした雰囲気をさらに助長していた。レイは早足でトイレの裏へと向かう。もう、毛虫のことを考えてもいられなかった。
人がいない、というのはその場所も例外ではなく、あの背の低い木の下に男の姿はなかった。
柳の下の泥鰌とは、まさにこういう状況のことを指すのだろう。地面には何匹か蠅の死骸が転がっており、そこだけ若干ではあるが地面が沈んでいた。
男がそこにいたことが、とりあえず夢ではなかったことを確認できたことだけでも、収穫だろう。そう思わなければ、このもやもやとした感情を取り払うことはできそうになかった。
悄然と肩を落とし、踵を返す。
そして公園の出口に向かおうとしてレイは、不意に足を止めた。向かい側から、何者かがにじり寄ってくるのを視界に捉えたからだ。
暗い空の色と同化して、視認することは困難を極めたが、目を凝らすとなんとかその形が分かり始めてきた。人の姿をしている。影は2つあり、2人は並んでこちらに歩を進めていた。
突然、右側の影が鈍い光を放った。そして次の瞬間、レイの体を衝撃が襲い、気づけば背後に突き飛ばされていた。
「え……え?」
なにが起こったのか分からず、レイは尻もちをついたまま困惑した。左腕に激痛が走る。血の臭いが嗅覚を刺激する。痛む箇所に触れた掌に目をやると、そこはぬめりと赤い液体で湿っていた。
「亡霊め、ようやく追い詰めましたよ」
慇懃な、男の声。それが影の1つから発せられていることに、レイは1テンポ遅れて気がついた。
右手で木を掴み、体を支えながらレイはじりじりと身を起こす。だが完全に立ち上がらない間に、今度は右足を痛みが通り抜けた。爪で木の表皮を削り取りながら、今度は背中から地面に落下する。肺が揺さぶられ、レイは激しく咳きこんだ。
「あなたは、ここにいてはならない人間です。一刻も早く、地獄に舞い戻っていただかないと……」
動けない。まるで両方の翅をビスで留められた標本の蝶のように、レイは膝を立てることさえも、できなくなっていた。けがをした箇所が、激しく脈打っている。その鼓動が一つ打たれる度に、力が抜けていくような気がした。
仰向けに倒れるレイの視界には、いかにも毛虫が蠢いていそうな葉が密集している。その背景の果てに、しぼんでいく赤いものが見える。夕焼けの、残り糟だ。昼間が終わり、あらゆるものを溶かしこんでしまうような夜の時間がやってくる証だ。
そしてその証が完全に消え去る前に、レイの視界を、ぬうっと脇から飛び出してきた人影が覆った。レイは寝転んだまま、目を見開いた。
その人影の顔は、仮面で覆われていた。顔だけではない、その全身も強固な装甲服に覆われている。レイは反射的に、父親の纏うアークを思い出した。細部さえ違えど、あれにひどく酷似している。顔面には金色に照り輝く、鉄格子のようなスリットを付け、額にはVの字型の装飾品が飾られていた。
ベルトのバックルには、羽を象ったマークが彫り込まれている。その羽の上には『4』という数字が太く書きこまれていた。
「誰……?」
腹の底から、声を絞り出して尋ねる。装甲服の男は質問には答えず、右足を上げると、レイの腹部をそのまま踏みつけた。その動作に、微塵も躊躇はみられない。
レイは呻き声をあげ、また咳きこんだ。みぞおちを圧迫されたことで、大量の唾液が口角から頬を伝って流れ出る。
「いいでしょう。あなたを殺す男の名前くらい、教えてあげますよ……私の名前はファルス、といいます」
“ファルス”。父親に対しての“アーク”のようなものか、とレイは凍える頭で納得する。
「さて、それではこれを最後の質問にしてもらいたいですね。あなたには、私に尋ねる権利などひとつ足りとして、ない」
言いながら、彼は足首を回して、レイの腹を踏みにじる。咳が切れかけたところで、また深く腹につま先をめりこまされるものだから、レイはいつまでたっても咳が止まらなかった。先ほど絶えた涙まで次から次へと溢れ出てくる。呼吸ができない。
そんなレイを見下ろしながら、男は仮面越しに笑っていた。哄笑だ。レイが無残に倒れ伏し、苦しむ姿を心から歓喜して、高笑いをあげている。
「私が、何を、したっていうの」
咳込む合間を縫って、途切れ途切れに尋ねる。すると、突然“ファルス”の笑いが止まった。
まるで音楽が流れているMDコンボのコンセントを抜いたような、テレビを見ている最中にブレーカーを落とされたような、そんな唐突さがあった。
“ファルス”は舌打ちをした。それからレイの腹から足をどかすと、今度はTシャツの首周りを掴み、片手でレイを持ち上げた。喉が圧迫され、レイはまた咳きこんだ。咳こんだあとに、今度は息苦しくなる。
濡れたレイの顔に“ファルス”は仮面を肉薄させると、精神を嬲り、抉るような低い声で言った。
「質問はナシと言ったはずですが。少しは、人の話を聞いたらどうです? ……亡霊ごときが調子に乗るな!」
怒鳴りながらレイの体を、力任せに投げつける。レイは木の幹に後頭部と背中を強く打ちつけ、地面を跳ねた。
服やスカートから露出した素肌が、土まみれになる。意識は朦朧としていて、もう自分がどっちを向いていて、どこにいるのかさえも定かではなかった。激しい呼吸が細く、狭まった喉から漏れ出ている。
横向きに倒れたレイの腰のあたりを、“ファルス”は踏みつけた。その右手には何かが握られている。長い紐のようなもので、その表面には長い針がびっしりと生え揃っていた。紐の一端には柄があり、その部分を“ファルス”は握っている。鞭だ、とレイは視界の端で認め、理解した。
「残念ですが、私に拷問趣味はないのでね。そろそろ、一息にいかせてもらうことにしましょう」
肩に担いでいた鞭を“ファルス”はひと振りすると、レイの首に巻きつけた。生暖かい鉄の感触が首筋を伝う。無数の棘は皮膚の手前で止まっているためか、痛みはほとんど感じなかった。レイは場違いに、学校の理科の授業でやった実験を思い出す。
1個の画鋲の針に指先で触れれば痛いが、剣山に掌を押しつけてもさほど痛いとは感じない。それと、まったく同じ理屈なのだろう。いまでは逆に、それが恐怖を煽る。処刑台への階段を昇る、死刑囚の気分だ。
悲鳴をあげることも、身を凍えさせることもできず、短い間隔の息遣いだけが夜闇に溶けてなくなっていく。レイは息をすることさえも、ままならなかった。
「まだ痛くはないでしょう? 大丈夫です、すぐに終わります。あとは、これを一気に引くだけ。それだけで、鞭はあなたの喉をかっ切り、頸動脈を裂いて、命を絶たせます。その恐怖もあと、数秒の辛抱ですよ」
笑いを噛み殺した、声。拷問趣味を自分で否定した癖に、脅えるレイを見て明らかに“ファルス”は喜色を浮かべている。完全に、狂っている。
助けてお父さん、とレイはまた心の中で助けを呼んでいた。
しかし、こんな人気のない夜の公園に、誰かが駆けつける望みは限りなく薄い。ましてや父親が駆けつけてくるはずもない。
死にたくない、とレイは胸の内で叫んだ。その思いを裏切るように、音をたてて鞭はレイの細い首を締めあげていく。針が皮膚に食い込み、痛みが強くなってきた。レイは痛みのない片足だけで、地面を必死に蹴り、もがく。しかしその行為はただ、土を掘り返すだけに終わった。
夢中になって声を出そうとすると、強く腹を蹴り上げられる。舌を思い切り噛んで、その拍子にますます針が喉に深く突き刺さった。声にならない苦痛の叫びを、レイはその度に、夜へと吐き出す。
「死に急がないでくださいよ。あなたは、私の手でなぶり殺されなければならない。亡霊をこの手で、完膚無きまでに消し去ってやる……」
憤怒を吐き捨て、“ファルス”は鞭を持つ腕をゆっくりと、スローモーションをかけるように引いていく。少しずつ、時間をかけて、鞭もレイの首の皮を削りながら、引っ張られていく。
お父さん! 死の光が目の奥で瞬く寸前、レイは枯れた声で父の名を叫んだ。
その時、鞭の動きが止まった。視線を上向かせると、“ファルス”の動きも静止している。目を凝らしてみると、その手首は横から出てきた手によって、乱暴に掴まれていることが分かった。黒い衣服から、その生気のない手は伸びていた。
「なんだ、貴様は」
最後まで言えずに、ぐっ、と“ファルス”が呻く。その手から鞭が離れた。持ち主を奪われた鞭の柄が、木から落ちた蛇のように地面に落ちる。
「お前、少し、うるさいぞ」
低い声。“ファルス”とは違う男のものだ。レイは、どこかでこの声に聞き覚えがあった。しかし疲弊しきった脳では、その声が誰のものなのか咄嗟に思い出すことはできない。
声の主である男は、レイと“ファルス”の間に立っていた。男はこちらに背を向けている。真黒だ。黒い塊が言葉を発している。レイには少なくとも、そう見えた。
「子どもの泣き声を聞きながら眠りにつくのは、実に、夢見が悪そうだ」
男は纏っている黒いロングコートを翻した。
黒い塊が口を利いていたのではなく、単に男が真っ黒なコートを羽織っていただけであるということに、レイはそこで初めて気がついた。暗がりに、男の姿が紛れてしまっていたのだ。
影の中に、垣間見えた男の相貌。その端正な顔立ちは、見紛うことなく、昼間ここに倒れていたあの黒コートの男だった。
「睡眠の邪魔だ。とっとと、ここから消え失せろ」
「ハン。馬鹿が。消え失せるのは、あなたのほうです。そこをどかないと、痛い目にあいますよ」
「どっちがな」
あくまで高圧的に、男は“ファルス”を挑発する。“ファルス”はまた舌打ちをすると、片腕を振るって、男を横に跳ね飛ばした。
それだけでは倒れるはずがないだろう。レイだけではなく、“ファルス”もそう考えていたはずだ。あれだけ、自信満々に容喙してきたのだから、それに見合う力を持ち合わせているに違いない、と。
だが、その予想はものの見事に裏切られた。
あれほど毅然とした態度で出てきたのにも関わらず、男はその一撃で、あっさりと地面に転げてしまった。しかも即座に反撃する素振りさえもみせない。そればかりか、横たわったまま指1つ動かすこともしなくなった。
あまりの調子外れに、“ファルス”は男を見下しながら、失笑を漏らす。レイも男の姿を呆気ない倒れ姿を見やり、失望が全身を支配するのを感じた。
「ハン。呆気ない。私が出る幕もありませんね。あなたがやっておきなさい、メモリア」
“ファルス”の声に応じるように、ずっと行動を起こさずにいたもう1つの影が彼の背後で動いた。レイは一歩前に出てきた、その人影を見上げ、息を呑んだ。
その影がずっと人間であると、思いこんでいたからだ。しかしこうしてすぐ眼の先に立たれると、その姿が人間のものとはあまりにかけ離れていることに気付く。それはまさしく、誰がどう見ても、明らかに怪人だった。
そして気付いた瞬間、レイの頭の中で光が照り広がった。遅いよ、と自分の中の怪人探知機に毒づく。やはりディッキーに出会って以来、探知機の精度は鈍っているようだった。
レイが人と勘違いしたのは、単にその風貌のせいだった。まるでピンク色のドレスを着ているかのような外観を持っているのだ。ふわりとスカートが持ちあがり、胸元をはだけさせている、ように見える。あくまで、そう認識できるだけだ。
実際には、ドレスではなくそれは怪人の皮膚の一部なのだった。しかし近くで見ないと判別がつかないほど、繊細で精巧な造りをしている。何だか、逆さにするとコンドルから老婆に早変わりする、だまし絵のようだった。
頭には笠のようなものを被っている。その顔には、ルビーをそのまま埋め込んだような両眼と、三角形の口しかない。のっぺりとしており、質感がまったく、感じられてこない。
肌の色は紫だ。ドレスからはしわくちゃに丸めた紙のような、ごわごわとした手足が生え伸びている。10の指にはどれも鋭い爪が光っている。爪は黄ばんでいて、この位置から見てもあまり清潔そうではなかった。
“メモリア”と呼ばれたその怪人の片手には、黒い傘が握られている。しかし、一般的なものよりも先端の金属部分が鋭く、そして長い。まるで西洋の騎士たちが持つ、荘厳な槍のようだ。
“メモリア”はその傘をひと振るいすると、いまだ倒れたままの男に歩を進める。
威風堂々とした“メモリア”の姿を一瞥し、“ファルス”はまた歓喜の声をあげた。
「あなたもすぐに、この男の後を追わせてあげましょう。その前に自分が死んだらどれだけ無残な汚物と化すのか、その目に焼き付けておくといいですよ」
“メモリア”はまず、男をつまさきで蹴り飛ばした。男の体は衝撃に宙を浮き、肩から地べたに叩き落とされる。それを確認してから、ゆっくりと天に向けて黒塗りの傘を振り上げた。
「ジ・エンド」
“ファルス”が得意気に呟く。その声に呼応するかのように、“メモリア”の握る傘が空を一閃し、男の頭目がけて落下していく。
レイは思わず、目を閉じた。閉じようとして、レイは自分の手に伝わってくる温もりに気がついた。血とは違う、肌の触れあう感触だ。
首をほんの少し傾け、そちらに目をやる。すると黒コートの男の伸ばした手が、レイの手の上に重なっていた。レイは驚いて、男の方を見る。すると男の瞳が、暗闇の中でひときわ大きく煌めいた。
鋼鉄同士が猛スピードで正面衝突したような、甲高い音が公園内に鳴り渡った。その音は空気を振動させ、レイの頬をくすぐっていく。しかし、それに反応が向かないほど、レイの意識はある一点に注がれていた。
「……なんだ、お前の力はこの程度だったのか」
右手一本で、“メモリア”の傘を受け止めながら、“怪物”が呟く。その声が、黒コートの男のものだったので、そこでようやくレイはこの怪物が、男の変化した姿であるという事実に行き着いた。
“怪物”の全身は、青と黒の皮膚で覆われていた。その表面はけして滑らかではなく、岩山のようにところどころ突起物が飛び出し、非常にでこぼことしている。全身には金色の線が施され、遠目に見てみれば、それが1つの大きな模様を形成しているのが分かる。腹部には、二等辺三角形の石が1つ装着されている。色は灰色で、表面には薄く線が引かれているのが見えた。
顔には吊りあがった赤く大きな双眸と、牙の並んだ大きな口があった。口は頬のあたりまで深く裂けており、その全体像はどこか狼をイメージさせるものだった。
傘を掴む手には、短いが鋭利な爪が伸びている。そしてもう片方の腕はいままさに、レイの手を固く握りしめていた。
「貴様は、一体、なんだ」
ようやく、“ファルス”が声を出した。その声音はひどく怯えている。先ほどまでの嗜虐的な態度は、その姿からは想像できない。
黒コートの男が変身した“怪物”は真紅の眼差しで、“ファルス”をちらりとだけ見ると、拳に力をこめ、傘を一息のうちに握り潰した。
「俺は、単なる、狼だ」
ひっ、と“ファルス”が短い悲鳴をあげて、1歩後退する。彼の膝は笑い、全身からは怯えと混乱が存分に発散されている。
「ふん。やはり、この場所に、俺の体はまだなじまん。少し、準備運動が必要だな」
“怪物”はぼやくと、憔悴したレイの体を引っ張りあげ、有無もいわせず自身の背中に乗せてしまった。
体が思うように動かないレイは、うろたえつつも成すがままさにされる。“怪物”の背中は、まるで海岸の岩場に寝そべっているかのように、ごつごつとしていた。
「あの、ちょっと」
「掴まってろ。離したら、俺もお前も死ぬぞ」
終わりまで言い切らないうちに、“怪物”は地面を蹴った。そして音もたてず、“メモリア”の体に、拳を数発打ちこんだ。ひるむ相手に対し、さらに続けて頭突きをくらわせる。頭に直撃をくらった“メモリア”は後ろに、大きくよろめいた。
「やはり、この程度か。勘を取り戻すには、まだ足りんな」
つまさきを素早く出し、“メモリア”の足元をすくった。バランスの崩れた相手の首を片手で掴み、そのまま木に叩きつける。みしり、と幹が軋み、葉がぱらぱらとレイの頭に降り注ぐ。
「もっと俺を、楽しませてみせろ」
“怪物”は“メモリア”を木にこすり付けた後、横に投げ飛ばした。それから地を転げる“メモリア”を追いかけ、その怪人の体を踏みつけようと右足を上げる。
「フゥッ!」
しかし“メモリア”はまるで威嚇する猫のような声を発すると、転がってその攻撃をかわした。それから両方の掌をしっかりと地べたに付け、ブリッジをするようにして、腕の力と腹筋を柔軟に利用して立ちあがる。
レイを乗せた“怪物”は後ろへ跳ぶと、身構えた。その動作が終わらないうちに、“メモリア”はこちらに躍りかかってくる。右腕には、包丁の形をしたカッターが夜の中でぎらついていた。
“怪物”の鼻先で、“メモリア”は右腕を大きく振り回した。すると2秒ほど遅れて、“怪物”の頬から盛大に赤い血が噴き出した。
レイは顔に、その返り血を浴びた。生暖かさが頬に貼り付き、鉄の臭いが鼻をつく。意識が遠ざかりそうになるのを、何とかこらえた。落ちてしまわぬように、“怪物”の首に回した腕に、力を込める。
だが突然、その体が大きく揺れたので、レイは危うく“怪物”から振り落とされそうになった。視線を下向かせると、“怪物”が大きく肩を揺らして笑っていた。大笑いではなく、こみ上げてくるものを必死に押し殺すような笑い方だ。こめかみのあたりまで裂けた口が、三日月のように揺らめく。
「あ、あの一体、どうしたの?」
血が流れたので、おかしくなったのだろうかとも思ったが、違った。“怪物”は歓喜に体を震わせて、言った。
「なに。ようやく、戦いらしくなってきたと思ってな」
“メモリア”が再び、カッターの備わった右手を横薙ぎにしてくる。“怪物”は素早く自分の左腕を差し出すと、自らカッターをその腕に食い込ませた。
鈍い音がレイの顎の下で聞こえる。骨が削れる音だと、すぐに理解した。“怪物”の骨に、敵のカッターが到着したのだ。
しかし、“怪物”は冷静沈着そのものだった。自身の体のことなど構わず、眼中にも含めず、自分の左腕に突き刺さったままの“メモリア”の腕を、もう片方の腕で掴んだ。
それまで、会心の笑みのようなものを浮かべていた“メモリア”の表情に翳りが射した。“怪物”は敵の腕を掴む掌に力を込めながら、にっとほほ笑む。
「馬鹿め。逃げられないのは、お前のほうだ」
今度は、ぐしゃりと生生しい音がした。今度は肉が裂ける音だ、と思った。レイがそれを理解したのは、実際に“メモリア”の腕がもぎ取られていたからだ。肘から上が、ちぎりとられている。血は一切出ていなかったが、その断面からは灰色の骨が露出している。
腕を失い、“メモリア”は身悶えながら悲鳴をあげた。喉が隆起し、その度に全身を構成しているドレスがばたばた揺れる。
レイはその、あまりにも凄惨な光景に言葉を失うしかない。全身がまた、かすかに震え出しているのが分かった。
「そう、腕の1本で喚くな。耳触りだ」
“怪物”は自分の腕に刺さったままになっている、“メモリア”の肘から下の部分を引き抜き、背後に放り捨てた。そして夜空に長い叫びを放ち続ける、“メモリア”の脇腹にミドルキックをくらわせる。
足をもつれさせた敵に、“怪物”は続けて右腕を突き出した。指先を揃え、まるで突貫する槍のような迫力を纏ったその腕は、“メモリア”の腹部を穿ち、そのまま背中側まで貫いた。
「この程度の力で、俺に向かってくるから、こういうことになる」
“怪物”はぼやくと、腕を夜空へと真っ直ぐ伸ばし、“メモリア”の体を天に掲げた。
そして、“怪物”はその体勢のまま口を限界まで大きく開ききり、咆哮した。
狼の遠吠えが、公園の隅々まで広がっていく。びりびりと空気が痺れ、レイはまた落ちないように全身を固くしなければならなかった。
尾の長い叫びをあげ終えると、“怪物”は“メモリア”をトイレのほうに放り投げた。胴体に風穴を開けられた“メモリア”は全身を痙攣させながら、白目を向いている。動く気配はなさそうだ。
“怪物”は体を反転させた。するとレイの視界も、ぐるりと180度回転する。体を向けたその先には、明らかに腰の引けている“ファルス”がいた。
“ファルス”は怒りと動揺に打ち震え、拳を握りしめている。
「馬鹿な……私の作ったメモリアが、こうも容易く」
「心配するな。俺を相手にしたのが、悪かっただけだ。こいつも不幸だったな。はむかう相手が、悪すぎる」
そう言って、“怪物”は死骸と化した“メモリア”を一瞥する。レイは振り返って、その死体を今一度、見た。しかしそれは夜の闇に溶け込んで、もうあまり見えなくなってしまっていた。
それから、“怪物”は顎をしゃくって“ファルス”を示すようにした。
「それで、お前はどうする。まだ戦うか?」
“怪物”の話など、最後まで聞いていなかったに違いない。“ファルス”はこちらにまで聞こえるほど、大きな歯軋りをたてると、自分の左腰に素早く手を持っていった。そこには、掌サイズの小さな缶ケースがぶら下がっていた。その缶ケースの蓋をあけ、そこから何かを取り出そうする。
「それは俺の遊びに、付き合ってくれるということでいいんだな」
浅くため息をつくと、“怪物”は精錬された動作で回し蹴りを繰り出し、“ファルス”の胸を突き飛ばした。“ファルス”の体は大きく宙を舞い、トイレの壁に叩きつけられる。その拍子に缶ケースはベルトから外れ、草むらに飛んでいった。
“怪物”は身を翻して、“ファルス”にゆっくりと歩み寄っていく。準備運動でもするかのように右手首を回しながら、嬉しげな笑い声をたてる。
「立ち向かってきた敵に対しては、徹底的にしてやらないと、失礼だな」
地面を踏み詰るようにして、“怪物”は一歩一歩、“ファルス”に近寄っていく。“ファルス”は腰を砕けさせたまま、たじろいでいる。慌てふためき、すぐに立ちあがることすらできない様子だ。
「こ、この、化け物……」
「あぁ、化け物だ。だが、貴様よりはずっと正当な生き方をしているがな」
“ファルス”の顔面を粗雑な手ぶりで掴むと、“怪物”はその体をそのまま持ち上げ、トイレの白い壁に叩きつけた。磔にされた“ファルス”はつい数分前のレイと同じように、手足を必死にばたつかせ、もがいている。その姿はまるで、蟻地獄に落ちた哀れな虫のようだった。
「貴様は、間違いを犯した」
“怪物”は“ファルス”の顔を持った腕を、そっと後ろに引いた。すぐ目の先に、“ファルス”の仮面が迫ったことで、レイは息を呑む。つい数分前まで自分を虐げていた男を正面から捉えることもできず、結果、目を泳がせる。
すぐに“ファルス”の仮面は、レイから遠ざかった。同時に、“怪物”から憤懣のこもった声があがる。
「俺の眠りを妨げた」
“ファルス”の後頭部を、“怪物”は壁に叩きつける。“ファルス”は衝撃に、びくりと全身を引き攣らせるようにした。
「俺の住処で、何の武器ももたぬ小娘を虐げた」
ガン。鈍い音が反響する。1回目よりも若干、強く、壁に押し付ける。“ファルス”の仮面越しに血を吐くような悲鳴があがった。しかしその声は、3度目の衝撃によって殺される。
「そして、俺に刃を向けた。……最後のだけは、少し評価してやってもいいがな。しょせん、蛮勇だ」
ガン、ガン、ガン。短い間隔で、幾度もなく“ファルス”の頭を壁にぶつける。そして“怪物”は掴んだ時と遜色ない乱暴さと無情さで、“ファルス”の背中を壁で削ると、地面に打ち捨てた。
「うっ、うっ……うっ」
“ファルス”は息絶え絶えといった様子で、ようやく上半身を起こした。もはや戦いを続ける気力は残っていないようだった。脅えに支配された細い声を絶え間なく発しながら、“怪物”に対して完全に背を向け、壁伝いに逃げようとしている。
“怪物”はそれ以上、“ファルス”に対して追撃を加えることはしなかった。真っ赤な、波の立たない水面のような瞳には、敗北者として心をくじかれた敵の姿はもはや映し出されていない。“怪物”の背中から伝わってくる心臓の鼓動が、レイにその事実を雄弁に語っていた。
“ファルス”は足を何度ももつれさせ、不器用に体を傾けながら、トイレの裏側へと姿を消していった。
「雑魚が」
夏の空気の中に吐き捨て、“怪物”は踵を返す。
レイは“怪物”の背中に、無事な片腕で必死にへばりついていた。そうでなければ、目の前に存在する光がすべて消失し、そのまま何も見えない夜の闇の中に置き去りになってしまうような気がしたからだ。
“怪物”は“ファルス”が残していった、鞭と缶ケースを目ざとく見つけだし、拾い上げた。
鞭の両面には、びっしりと刃がひしめいている。そのシルエットだけを捉えると、まるで毛虫のようだったのでレイはぞっとした。刃には赤い液体ところどころ付着しており、それが自分の血液だと気付くと、さらに鳥肌がたった。
狼顔の“怪物”は月の下で、しばらくそれら遺留品を眺めていた。どうしたの、とレイが訊ねようとすると、いきなりそれらを口の中に放り込んだ。
「えー」
ぼりぼりと、鞭と缶ケースを“怪物“は噛み砕いている。音だけ聞くと、せんべいを食しているかのようだが、口の端からは刃の先っぽが飛び出している。夢中になって武器を貪り食うその様子に圧倒されながらも、レイは体を前屈みにし、”怪物“の顔を覗きこんだ。
「あの、それ、美味しい?」
“怪物”は口を動かすのを止め、瞳だけをレイに動かした。彼の口からは細長い何かが飛び出ている。あれは焼きそばではなく、鞭なのだろうと考えた。
口内にあるものを飲みこみ、飛びだしている鞭をすすってから、“怪物”はうんざりとした声調で言った。
「……まずいに決まってるだろ。小娘、お前もいっぺん食べてみるか」
結構です、と答えた時には、再び“怪物”は咀嚼に夢中になっている。レイは何だか、船主のいない遊覧船に乗せられたような気分になりながら、深く息を吐きだした。
公園の中央にそびえる、なだらかな丘のふもとにあるベンチに、“怪物”は腰を下ろした。すぐ隣には自動販売機が煌煌とした光を放っている。ディスプレイに黒い点が見える、と思ったら、それはすべて電灯に寄り付いてきた羽虫たちだった。
自動販売機の上の方には、レイの掌よりも大きな黄土色の蛾も止まっている。周囲が黒く閉ざされてしまえば、否応なしに光へとすがりついてしまう。たとえ、それが偽物の光だとしても、その熱に触れて死にゆく結果になろうとも。それは、人間も虫も代わらない。疑う気持ちもなく、一直線に光の射す場所へと猛進していく。だが、それはけして悲観するべきことでは、ないのではとレイはぼんやり思った。
レイをベンチに下ろすと、“怪物”の姿は途端に萎み、黒い粒子を周囲に振りまきながら男の姿へと戻ってしまった。足元をよろけさせて、どっかりとベンチに深く腰掛ける。目を細め、いかにも疲労困憊そうだ。
レイもまた動けなかった。傷つけられた手足の出血はいつのまにか止んでいたが、当然のことながらまだ痛みは強かった。気を抜けば、眠ってしまいそうだ。だが、まだ気を失うわけにはいかなかった。この男に、聞きたいことがあるのだ。
重い体に鞭打って、男のほうに顔を向けるとちょうど、男が手を差し出してきたところだった。その手には、くしゃくしゃになったピンク色のハンカチが握られている。男のイメージにまったくそぐわないほど、それはファンシーな柄だった。四角と丸だけで構成された車の柄が一面に描かれている。
「顔を拭け。見るに堪えないぞ」
まっすぐ前を向いたまま、男は短くそれだけ言う。レイはけがのしていない方の手でハンカチを受け取ると、それで顔全体を拭った。ハンカチは冬を越え、久々に作動させたクーラーのような、かびのにおいがした。
「ありがとう。あ、そうだ。これ、あげる」
礼を言うとレイはポケットの中から飴玉を取り出し、ハンカチと一緒に渡した。悠からもらった、フルーツキャンディだ。
すると明らかに、男の表情が変わった。ほんの少しだけ目を見開き、そのあと瞳を細めて懐かしむように、飴玉を見つめた。男に漂っていた異様な、現世離れしたような雰囲気が剥がれ、レイとの距離がささいではあるが縮まったような気がした。
「……受け取っておこう」
“ファルス”を掴んだ手とは、同じ器官だとは思えないほど、男は丁重にハンカチと飴玉をレイから受け取った。それから、ハンカチをコートのポケットに押し込む。それからレイは、彼のコートの袖が他の箇所と比べて黒ずんでいることに気づいた。そして思い出した。男は、怪人のナイフの前に腕を差し出していたのだ。
「腕、痛くないの?」
男の指からは、血液が伝っている。しかし顔色1つ変えずに男は自分の手に視線を落とした。
「この程度、けがのうちには入らんな」
「そうなんだ」
「……少なくとも、けが人に心配してもらうほどではないな」
足を動かそうとすると、太股に激痛が走る。腕もそうだ。血は止まっているようだったが、その傷口は赤くてらてらと輝いている。確かに男よりもレイのほうが数段、重傷のようだった。
「……こいつを、足に巻いてやろうか」
男が、先ほどレイが返したハンカチを2本の指で摘みながら、ひらひらとかざす。レイは眉尻を下げ、複雑な表情を顔に浮かべた。
「いいよ。なんか、傷口にそれ巻くと、悪化しそう」
「どういう意味だ」
「言葉通りの意味だよ」
「意味が、わからん」
男は眉を寄せ、結局、コートのポケットにハンカチを丸めて突っ込んだ。
息を深く、ゆっくりと吸い込んで痛みを緩和させる。その数秒の間だけ、苦痛を忘れることができそうだった。それから、レイは息を吐き出し、男の顔を改めて見た。
「あの、その、助けてくれて、ありがとう」
「礼には及ばん。別に俺は、お前を助けたわけではないからな」
男は手の中で、袋にくるまれたままの飴玉をもて遊ぶようにしている。なんだかその様子は、賞賛に照れる子どものようで、なんだか不覚にも愛らしかった。レイは自動販売機の蛾のほうに時々注意を運びながら、口を開く。
「おじさん、強いんだね」
「……あんな奴に、俺が負けるわけがない。あの戦いで俺の力を図られても、困る」
どうやら男は己の実力に相当自信を持っているらしい。だがそれも許せるほどのパワーが、男にはあった。ふさわしい力を持つ者は、どんな大胆なことを語ろうが嘲られることも、咎められることもない。父親を通して、レイはその理論を痛いほど知っているつもりだった。
「あいつは、なんなんだろう。私のこと、亡霊、とか言ってたけど」
「俺は知らんな。すでに、興味もない」
「鞭とか、食べちゃったしね」
「あれは、まずかったな。錦鯉のような、味がした」
「嘘」
「嘘に決まってるだろう、小娘。鯉のほうが、明らかに、美味だ」
“ファルス”の加虐的な笑い声を思い出そうとすると、心の芯まで震える。怪人を操り、アークに似た装甲服を着て、レイに襲いかかってきた男。しかも物言いからして、どうやら無差別というわけでもなく、レイにずっと狙いを定めていたような印象を受ける。
そしてレイの背中をトラックの前に押し出してきた男との、関係性はあるのだろうか。
様々な考えを巡らせていると、饐えた臭いが鼻を突いた。レイは咳きこみながら、男のほうを向いた。
「それにしても、おじさん。なんか臭いが凄いよ。お風呂、いつから入ってないの?」
レイの不躾な質問にも、男は眉1つ動かさず、なんでもないように答えた。顔面の筋肉が故障しているのではないか、と思うほど、男には表情がない。まるで白皙のお面をかぶっているかのようだ。
「……5、6年、か。いや、もっとかもしれないな。風呂という単語すら、すでに忘却の彼方にある」
「えー。汚いよ」
「大丈夫だ。俺にとって、もはや時間の流れは意味をもたない」
よく分からないことを言う。レイは、「はぁ、そうですか」と呆れるしかない。
「やはり、俺の予想は正しかったな」
突然、確信を孕ませた声で男は言った。前後と会話が繋がらず、レイは困惑する。
「なにが?」
落ちてきそうな瞼と格闘しながら、レイは聞き返す。寝苦しいはずのこの蒸し暑さも、疲労の前ではほとんど役に立たないようだった。
男はそこで初めて、レイの方を向いた。相変わらず、顔の左半分は前髪で隠れている。
「お前に触れている時だけ、俺は本来の力を取り戻すことができる、ということだ。まぁ、いまので大分蓄えられたがな。しばらくは大丈夫そうだ。一体、お前は何者だ? なぜ、そんなことができる」
それはこっちが、質問したかったことなのに。レイは不満を呑みこみながら、反問した。
「おじさんこそ、何者なの? もしかして怪人?」
「俺のことなど、どうでもいい」
レイの質問には答えず、代わりに男はトイレの方を見るようにした。そこにはまだ、怪人の死体が転がったままになっている。
「食べたいの?」とレイが訊くと、男はディッキーと同じように鼻をひくつかせた。「食べたいんだ」とさらに続けると、男は眉をひそめてレイを見る。なんだか顔全体に嫌悪感を漂わせている。
「お前は、ここになにしにきた。お子様はお子様らしく、家で寝てろ」
「私は、おじさんに会いに来たんだよ」
「俺は別に、お前と会いたくはない」
「私は会いたかったんだってば」
男は機嫌が悪そうに、鼻を鳴らす。レイはその顔に向かって、思い切って、ずっと胸に抱いていた疑問を口にしてみた。
「おじさん、私は誰なの?」
「知るか」
「おじさんなら、知ってるはずなんだけど」
「どうして俺が、お前のことを、知っていなければならない」
ふいと男はそっぽを向く。そのけんもほろろの応対に、レイは少しむっとした。
「私のこと、レイじゃないとか言ってたじゃない。あれ、どういう意味なの」
いま思えば、あの言葉こそがレイの心の中に陣取っていた防波堤を破る一石を投じたのだ。その責任を取ってほしい、と我ながら理不尽な怒りを、男に感じる。
「あれは、俺の勘違いだ」
男は悪びれる風もなく、あっさりと白状した。あまりに平然と返されたため、レイは逆に当惑する。
「勘……違い?」
「久々に目覚めたからな。あっちの世界と、こっちの世界と、意識がごっちゃになってた」
「嘘」
「質問してきたのは、お前の方だろ。なのに嘘つき呼ばわりか」
男の言うことは、1つも要領を得なかった。何が本当で、何が嘘なのか、さっぱり判断がつかない。男の話で真実味があるものをあげるとしたら、7年間風呂に入っていないということだけだ。
「佐伯さんって、誰?」
このままでは埒があかない。レイは質問の角度を変えた。すると男は、夜空をぼんやりと照らす月を睨みながら、吐息をついた。
「それも同じだ」
「同じ?」
「勘違いだ」
よりにもよって、最悪の部分とイコールを結ばれた。レイは落胆し、その一方で苛立ちながら、さらに質問を重ねる。
「じゃあ、悪魔の娘、って最後に聞こえたんだけど。あれは……?」
「別に」
男はレイの顔の中心に、視点を合わせた。冷やかな隻眼が、レイを威圧する。
「とくに、深い意味はない」
「なに、それ」
怒りを通り越して、レイは呆気にとられる。なんだか、ミスリードだらけで内容のない推理小説を読まされたような気分だった。レイはため息をつき、深く肩を落として、目を瞑った。そうするだけで、意識が傾いた。あとほんの少し、意識を手放すことを考えれば、すぐさま卒倒できる自信があった。
「カワトだ」
レイの最後の発言から、どのくらいの時間が経過したのか、定かではない。突然男がそう呟いたので、レイは目を開けた。そうしてからまだ意識を保っていられていることに、自分で驚く。
「なにが?」
「河に人で、河人だ」
「なにそれ」
「お前が訊いてきたのだろう。俺が、何者なのだと」
「はぁ」
「それが、俺の名前だ」
なぜ自分の周りは、半紙の中央に墨汁を垂らすように、前触れなく名前を宣言する人たちで溢れているのだろう、とレイは首をひねった。
「俺は、壁の向こうから来た」
河人、と名乗った男はまた、唐突に言う。レイは夢と現実の狭間を彷徨いながら、「壁?」と無意識に問い返した。
「俺の、元いた世界のことだ。そこに、俺はすべてを置いてきた」
壁、と、世界、という2つのキーワードでレイが想起したのは、悠との会話だった。
世界の果てにある、巨大な鏡の話だ。その向こうにはパラレルワールドが広がっていて、こちらと同じような人間が住んでいる。
先ほどから河人の言っている、『あちらの世界』とか『こちらの世界』という単語もその話を照会すれば、何となく道理が通ってくる。
「私の友達も、そんなようなこと言ってたよ」
夢を語る悠の不審そうな顔を思い出しながら、そう言ってみると、なぜか男に鼻で笑われた。
「……お前にもらった飴玉で、そこに残してきた、姪のことを思い出した」
それから遠い目をして、河人は言った。掌には飴玉を握りしめている。そんなことしたら熱で溶けてしまうのではなと、レイは他人事ながら心配になった。
「姪って、兄弟の子ども?」
一応確認すると、河人は目線で頷いた。相変わらず、動作以外では何も語らない顔だ。
「姉貴の、娘だ」
「そうなんだ」
「あいつは、飴を、たくさん持っていた。いくらでもポケットから出してきたんだ」
「猫型ロボットみたいだね」
「あいつをタヌキと一緒にするな」
「猫だよ。そういえば、おじさんには子ども、いないの?」
着衣したままプールに放り込まれたかのように、レイの意識は暗い水底までずぶりずぶりと沈んでいく。今にも、体から塩素の臭いが発散されていくのではないか、と思ってしまうほど、その状況といまの体調は似通っていた。体が重い。
そうしながら、レイは視線だけを上向かせ、河人を見ている。彼の年齢は目測ではあるが、30代前半のようだった。結婚して、子どもがいてもおかしくはない。
すると河人は、すっと鼻から息を吸い込んだあとで、「嫁はいるが、子どもはいない」と意外と正直に答えた。
「ふぅん」とレイは相槌を打つ。なんだか頭の中が雑然としていて、適当な返事が思いつかなかった。それに、そうする必要もないと感じていた。
「ねぇ、おじさん」
代わりに、レイはぷかぷかと記憶の水面に浮いている、漠然とした疑問を掴んで、胸に運んだ。胸に置かれたその疑問は、水に沈めた空のペットボトルのように、喉から口を通じて浮き上がってくる。
河人はレイの言葉には応じなかった。視線だけを送ってくる。レイはその目から伝わってくる言語の意味が、「続きをどうぞ」であると勝手に判断した。
「家族って、一体どういうもんなのかな」
「……家族か」
河人は目鼻を微動だにさせぬまま、ふぅと短く息を吐いた。その呼吸の意味は、レイにも測りかねる。そして数秒してから、河人はレイの方に顔を動かした。
「絆、だと思う」
掴みどころのない言葉を扱うように、河人は慎重な声音を用いた。
「絆?」
「絆は時に、非情だ」
「非情」
レイは男の言葉を、ほとんど無自覚に復唱している。
「しかし、それを許せるのも家族だからだ。赤の他人だろうが、血が繋がっていようが、家族というのは、そういうものだ」
「どういう、意味?」
その問いにまたしても、河人は答えなかった。夜闇の中で、彼の白い肌はぼんやりと浮かんでいるように見える。それが彼の持つ異質感を、妙に際立たせていた。黒と白が、彼の全体像には、折衷しながら存在している。
「お前はさっき、自分は誰なのだと尋ねてきたが」
河人は自分の髪をくしゃくしゃと掻きながら、再び口を開いた。そうすると埃やらふけやらが、白い羽のように夜の空気に舞い散った。
「それは、お前だけじゃない。俺にも分からない。ただ、別にそれを悲観することもない。俺の存在は、ここにある」
淡々と口を動かしながら、河人は自分の胸を指した。レイはその黒いコートの被さった男の胸板に視線を集中させる。
「……そしてその存在を示してくれるのが、家族というものだ、と思う」
河人は一切、表情を出さなかったが、その時はなんだか、笑っているように見えた。彼の笑い顔など、薬局の前に居座っているカエルの置物の怒り顔と同じくらいに、想像しがたいものだったから、それはレイの錯覚だったのかもしれない。あるいは、声音が穏やかなものだったからかもしれない。
己の存在を、示してくれるのが、家族。それは自分の人格の根っこを形成するものだということらしい。
黒城はレイの父親になってくれた。レイはライを妹だと認めた。黒城はライに名前をつけた。そしてライはディッキーに名前をつけた。
血の繋がりがどうこう、というのではなく。家族とはそういうものか。
男に聞かされた言葉を何度も口の中で噛みしめると、なんだかレイの心は晴れやかになっていった。
これまで頭の中で吹き荒れていた衝動が、落ち着いてきたのだろう。それは嵐が過ぎ去ったあとでゆっくりと背伸びを始める、街の様子によく似ていた。
レイはつい先ほど、死にかけた時に、咄嗟に父親に助けを請うてしまった。それこそが、まだレイには黒城が必要であるという何よりの証拠だ。
いまは黒城レイのままでもいいんじゃないだろうか。疲れていて、猛烈な眠気が体を支配しているということもあるだろうが、レイは波立つことのない穏やかな水面にその身を預けてもいいような気がしていた。
ありがとう、と河人に感謝を告げようとしたその時、走ってくる足音が聞こえた。どんどん近づいてくる。こちらに向かってくるのだ。
「お母ちゃん!」
「レイ!」
2つの重なり合う、声が聞こえた。深くベンチにもたれかかったまま睥睨すると、自動販売機の前にライとディッキーが立っていた。
ディッキーの持つ懐中電灯が、直接顔を照らしてくるため、レイは顔をしかめた。
「ディッキー、眩しいよ」
「あ、すみません。お母ちゃん。とんだ粗相を! 大丈夫ですか!」
慌てて、光の先を逸らす。そこでやっと、レイは2人の顔が見えるようになった。
「ネズミか」
河人が低い声で呟く。その目は、まっすぐディッキーを見つめている。二本足地を踏みしめ、流暢な日本語を駆使しているネズミを見ても、河人はたじろぐ様子もない。
指名されたディッキーは1つ身震いをしたあと、河人を振り仰いだ。どちらかというと、怯えているのはディッキーのほうのようだった。
「私、ディッキーでございます。よろしくお願いします」
なぜか、挨拶をしている。完全に動転しているようで、その黒目はきょろきょろと泳いでいた。男は突如丁寧な挨拶を繰り出してくるネズミにも、「そうか」とだけ淡白な反応を示した。
「お前、昼間の変態オヤジじゃないか!この野郎、レイをどこに連れていくつもりなんだよ!」
いきり立ちながら、ライがこちらに駆けてくる。真っ赤な顔をしながら、跳びかかり、男の跳び蹴りをくらわせた。しかし男がひょいと体を反らすと、ライはベンチに激突して独りでに転げた。
「痛っ」
「ライ、違うよ。この人は」
「ちくしょう! レイ、お前、けがしてるじゃないかよ! お前、レイになにしたんだよ!」
まるでおきあがりこぼしのように、ライはいつの間にか立ちあがっている。2対の縛った髪の毛を振り回し、喚きながら、ライは大きく足を振りかぶる。しかし男が膝を軽く突きだすと、「うわぁ」と声をあげて後ろによろけた。
「うるさい小娘だ」
河人はぼやくと、前屈みになり、そのままベンチから腰をあげた。必死の形相で立ち向かってくるライの顔面を片手で制しながら、彼はレイを見た。レイも立ちあがろうとするが、驚くべきことに、体には一切力が入らなかった。胸を押し出すようにして、掠れ気味の声をだすのが精いっぱいだ。
「おじさん、行っちゃうの?」
「……どうやら俺は、悪人らしいからな。お前から力はもらった。もうこの場に留まる理由はない。そうそうに、立ち去るとしよう」
このやろー、などと叫びながら腕をぶんぶんと振り回しているライを押し退けると、河人は踵を返した。ライは壮大な転び方をし、砂ぼこりの中で呻いている。
「壁の向こうに、帰るの?」
レイが問いかけると、男は足を止めた。そして振り返り、何度か瞬きした。その顔には溢れんばかりの使命感と、それと同じくらいに色濃い悲壮感が滾っているように見えた。
「俺はまだ帰れない。俺にはこちらの世界で、やるべきことがある」
「奥さんとか、姪さんのことは、心配じゃないの?」
「……別に。俺は、あいつらとの繋がりを、信じている」
そして河人は袋から取り出した飴玉を口の中に放り込むと、レイに背を向け、そのまま公園の中心を縦断して、行ってしまった。風のない夜なので、彼が纏うコートは歩幅に合わせて、ゆったり揺れ動く。まるで、青空になびくカーテンのように。
河人の去り際は、見事だった。その場に何も残さず、レイの心にだけ大きな波紋を広げて、去っていった。爽快感すら覚えるほどの、いさぎよさが、そこにはあった。
ライはディッキーの手伝いを受けながら立ち上がると、ぶんぶんと腕を天に突き上げた。
「帰れ、帰れ! お前なんか、もう私の前に現れるな! ほら、ディッキーも言ってやれ!」
「お帰りなさいませ! お帰りなさいませ!」
「それじゃ、帰ってきちゃうだろうが!」
ぎゃあぎゃあと夜の公園で騒ぎ、もう姿の見えない男の背中に野次を飛ばすライとディッキーの声が、遠くなっていく。
レイは大きく、ため息をついた。そうすると、意識がつるべ落としに暗闇へと沈んでいくようだった。
しかし、なぜかレイの心は波立つことを知らない水面のように、安らかだった。男が去り際に残した言葉が、レイの耳を通り抜け、喉を落ち、胸に沁み入っていく。
深海を沈みきった先に、レイは自分と同じ名前を持つ光を見つけた。今度こそ放すことがないように、しっかりとそれを胸に抱きしめたまま、月のない海面へと、急上昇していく。