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15話:黒い鳥

 病院についてから連絡をすると、黒城はタクシーを使って飛ぶように駆けつけてきてくれた。

表面上は平静を保っているが、ところどころに動揺が見て取れる。けがをしたことで、いつも毅然とした父親が取り乱してくれていることが可笑しく、そして嬉しかった。

ディッキーは、父親を待っている時間を利用して、あらかじめ隠しておいた。二本足で立つ巨大なネズミなど、周囲の人からの注目を浴びるに決まっている。病院につくまではディッキーにぬいぐるみのふりをしてもらい、ライが片手で引きずって歩くことで何とかやりすごした。あの公園前でのやりとりの間、通行人の姿がなく、また車が信号待ちなどで停車することもなかったのは、今思い出すと実に幸運だった。

タクシーから降りた黒城は、無表情だった。真夏なのに、冬物のスーツを着込んでいるその装いは、清々しくもあった。ライからとりとめのない説明を受けると、「状況はすべて理解した!」と豪語し、レイの手を横から掴みあげる。

「ライ! お前はここで私たちを待っていたまえ。すぐに終わらせてこよう。それまでお前を信用して、これを預けておく」

 左手に持っていた白い紙袋を、彼はライに手渡す。任務を与えられたライはしばらく黒城と手の紙袋とを見比べた後、使命感に燃えた顔つきで力強く頷いた。

「分かったぞ、父さん! 絶対にこいつは悪の手に渡さないからな、私に任せてくれ!」

「それでいい。それでこそ、我が娘だ。将来、私のクロニクルの名をお前にくれてやろう」

「どうでもいいから、早く行こうよお父さん」

 ライの見送りを受けて、レイと黒城は病院の玄関をくぐった。冷房によって適度に冷やされた空気が、体に絡み付いていく。

 レイは父親を見上げた。笑いを堪えながら、彼の首元を指さす。

「お父さん、ネクタイ曲がってるよ」

「ん。あ、あぁ」

「ポケットも出てるし」

「あぁ」

「襟も、乱れてる」

「あぁ……。もう、大丈夫か?」

「うん、完璧だよ」

「そうか。こんなことをせずとも、私はいつも完璧だが。完璧の中の完璧を目指すのも、悪くない。真の支配者たるものは、常に向上する心を胸に秘めているものだからな」

 よく分からない理屈を持ちだして、つよがりを口にする。いつもの父親であることに、レイは安心した。安堵と父親の手から伝わってくる体温がさらにレイの心を綻ばせ、思わず「そうだね、向上心は大事だよね」と心にもないことを返した。

 30分ほど待ち時間を過ごしたあと、ようやくレイの診察の順番が来た。診察室のドアに引かれた桃色のカーテンをくぐり、丸椅子に腰かける。隣には、険しい顔をした黒城が立っている。医者は角ばった顔に丸いメガネをつけた、頑固そうな男性だった。触診のあとにレントゲンを取り、診察はそれらすべてをひっくるめても2、30分ほどで終わった。

 それから5分ほどして、四角い顔をした医師から結果を言い渡された。

結果は単なる打撲とのことだった。医者から心配ないと告げられて、そこでようやくレイは安堵の息をつくことができた。

処方される塗り薬と湿布を欠かさなければ、1週間ちょっとで完治するという。湿布を貼り、さらにその上から包帯を何重にも巻いてもらった後で、レイと黒城は診察室から出た。

患者と医療関係者で騒がしい廊下を、並んで歩く。レイは両肩が包帯で確かに固定されていることを、首をすくめて確認してから、黒城を見上げた。

「すぐ治るって。良かった……夏休み初っ端から、骨折なんて、出鼻をくじかれるのにも程があるからね」

「さすがこの私の娘だな。そんじゃそこらの小童共とは、鍛え方からして違う」

 なぜか黒城が鼻を高くして言う。しかしそれが不安から解き離れた感情の裏返しであることに、レイは気づいていた。喜びとともに、照れくささがこみ上げてきて、レイは顔を伏せた。 

心から心配されるのは、なんだかんだ言いつつも、やはり嬉しい。

「うん。そういえば、お父さん。やけに、あの人と仲よさそうだったけど……知り合い?」

 前からやって来る、老人の乗った車椅子と、それを押す看護師を避けながらレイは尋ねた。黒城は子どもみたいに、壁を指でなぞりながら歩いている。

「あぁ。この病院には月2くらいの頻度で通っている。未来の大成者なるもの、己の健康管理を怠ることは、あってはならないからな」

「嘘」

 思わず、レイは言葉を零してしまった。てっきり黒城は、医者の手など借りない、他者の手を煩わせないというタイプの人間だと思っていたからだ。レイの呟きはしっかりと黒城の耳に入っていた。黒城は眉を潜め、レイを見た。わざとらしく、重々しいため息をつく。

「嘘ではない。私は根拠なく、自分が万能だと自負するような愚か者ではない。餅は餅屋。己の役割はこれでも十分に理解しているつもりだ。お前もまた、私のことを3割も理解していないようだな。わが娘よ」

「うん。でも、お父さんのことを理解しようとは、これっぽっちも思わないよ。まだ、スイカは何で縞模様なのかっていう疑問のほうが、理解したいと思うかも」

 いつも通りの軽口を叩くと、黒城は鼻を鳴らして、また純白に染め上げられた壁に視線を戻した。今度は、前から女性看護師が3人やってくる。レイは右側に避けて、その集団をやり過ごした。看護師たちが通過したあとには、ふわりと花のような、シャンプーの匂いが漂う。その瞬間、黒城がもう1度鼻を鳴らしたのを、レイは見逃さなかった。

 壁が途切れ、廊下は広いロビーに繋がった。待ち合いのソファーには、老若男女様々な患者がまだ多く座っている。それだけ人がいるのにも関わらず、ほとんど会話は交わされず、テレビの音声だけが響き渡っているのはどことなく、不気味でもあった。

 その中に、橘看護師の姿を見つけた。

ひどく腰の曲がった老婆の隣に腰かけ、その背中を撫でてやっている。手の甲には相変わらず、巨大な絆創膏が貼ってある。老婆はさかんに小声で橘看護婦に話しかけているが、彼女は天井に吊り下がった小さなテレビを仰いだまま、無感情な相槌を返すだけだ。

テレビでは、ワイドショーをやっていた。

画面では、眼鏡をかけた20代後半くらいの男性が、ストロボを浴び、あらゆる方向からマイクを向けられていた。

黒城と同じようにスーツ姿だ。インタビュアーからの質問に、滞りなく答えるその男の名前をレイは知っていた。おそらくこの日本で、知らない人の方が少数を占めるに違いない。

政治コラムニストであり、ノンフィクションライターでもあるその男の名前は、二条裕美といった。

レイのような子どもにはよく分からないが、2年ほど前に現代の日本政治ついて独自の持論を展開した本がベストセラーを記録し、そこから一躍有名になった人らしい。現在では政治家がなにか問題を起こすと、必ずテレビに出てくるほどだ。今日もまた、政治家の汚職問題や総理大臣の問題発言などについて、テレビカメラを前に檄を飛ばしている。

その二条裕美の顔を、橘看護婦はじっと見つめていた。まるで目を逸らしたら殺されると言わんばかりの、眼力だった。

その横顔は、どこか厳しい。声のかけづらい雰囲気を、その全身から醸し出していた。ピンク色の唇は一文字になっており、よく見ると瞬きもしていない。ただならぬ気配だ。レイは首を回して、橘看護師を観察し続けながら、その横を通り過ぎることにした。気づくと、黒城は大分前に行ってしまっていたので、早足で追いかける。

受付に向かって歩きながら黒城は追いついてきたレイを見下ろし、ふと言った。

「そういえば、例の旅行は明後日だろう。そのけがで、大丈夫なのか」

 もう少し早くそれに気づくべきではないのか、家族みんなが楽しみにしている重大行事なのに。呆れを感じながらも、レイはまた快く思った。

「私を、誰だと思ってるの? お父さんの、娘だよ」

 黒城の口調を真似て、レイはすぐに反問した。黒城は一瞬きょとんとしたものの、意味を察したのか、すぐににやりと白い歯を見せた。

「確かに、違いない」

 言いながら、レイの頭を黒城はそっと撫でた。そうされると、胸がぎゅっと締めつけられるように苦しくなった。幸せな気分が、体を温かく満たしていく。

黒城はそれからすぐにレイから手を離し、受付のほうへと歩を進めていった。慌てて後を追おうとすると、振り向きざまに制された。レイは黒城の大きな掌の前で、急停止する。

その黒城の形相が思いの外、真剣で恐ろしいものだったので、レイは言葉を発することができなかった。

「支払いは私に任せて、先に外に行ってなさい。ライも待ちくたびれているだろう。妹に付き合うのが、姉の役目でもある」

 その理由は建前だな、とレイは直感的に思った。その本音は、この場からレイを追い払いたい、その一心だ。ライのもとへ行けというのは、たまたま思いついた理由を付加したのに過ぎないのだろう。

言葉に少量の必死さが混ざり込んでいることが、その疑いに拍車をかけている。その声音には、この病院に駆けつけてきたときの黒城が、また見え隠れしてきていた。先ほどは父親のそんな姿に、微笑ましさ感じていたはずなのに、今度はそれが恐ろしくてたまらなかった。

黒城の真意が察せず、戸惑う。いままで、こんな感情をレイが父親に対して持ったことは、今まで一度もないことだった。

お前はレイではない。黒コートの男の声が、脳裏に蘇る。自分がレイではないなら、この目の前にいる男の人は自分の一体、なんなのだろう。

 見えない力に押しくるめられるようにして、レイは黒城からの提案に素直に頷いていた。しかし、外には出ず、回れ右をすると、正面玄関とは逆方向、昇り階段に体を向けた。

「この病院に友達がいるから。せっかくだから、ちょっと会ってくる」

 説明すると黒城は予想通り、引き留めることはせずに、素早く了承の意を示した。レイは釈然としない心持ちのまま、階段の方に向けて足を踏み出す。

「レイ」

 その時、レイの背中を黒城が呼んだ。首だけで振り返ると、黒城は神妙な面持ちでレイを真っ直ぐ見据えていた。レイはなぜか、緊張し、唾を呑む込む。喉仏が隆起するのが、自分でも分かった。

「なに?」

「お前のことだから、心配はしていなかった。だが、次はどうなるか分からない。未来を予知することは、世界大統領でも不可能だ。だから、今度は車には気をつけろ。己の身を守れるのは、最終的には、己の力だけだ。私の娘なら、それを忘れるな」

 黒城には、レイは車の前に不注意から飛び出したが、危うく自動車に轢かれそうになったところで踏みとどまり、転倒。そのおかげで事故には至らなかった、という説明をしていた。医師にも同じだ。だから黒城は、レイがけがをした要因は、自動車にあると思っている。

 レイはいつにもなく、威儀正しい黒城の言葉に、思わず背筋を正した。黒城はそんなレイの反応に、眉をわずかに顰めると、踵を返し、受付に行ってしまった。黒いスーツに纏われたその背中は、どことなく重苦しそうに見えた。

 己の身は、最終的には己で守れ。黒城のセリフが、物々しく心の奥底まで沈んでいく。

 まるで、海中に投げ入れた碇のように。それは、レイの魂をこの場に強く留めさせた。




 病室に入ると、悠はベッドから上半身を起してテレビを見ていた。映っているのはワイドショーではなく、ドラマの再放送だ。レイもここ数日、暇なときにぼんやりとその番組を眺めていたので、話の大筋だけは知っていた。病気で視力を失った女性が、ある日出会った男性に恋心を抱き、2人で支え合いながら生きていくという話であるはずだ。

「これ、観てるの?」

 丸椅子に腰かけながらレイが訊ねると、悠は笑って首を振った。片頬だけにえくぼが生まれる。いつも悠は可愛いけれど、えくぼを作るとその魅力は何倍にも増すな、とレイは常々考えていた。

「ううん。他に面白そうな番組もないから、何となく。興味もないけど、これを機に見始める、ってこともあるかもしれないかなぁって、思って」

「あ。私も同じだよ。暇つぶしには、ちょうどいいよね」

「寝てばっかりなのも、疲れちゃって」

 先ほどレイは夏休みの初めから、大けがをしてしまったら地獄だ、というような意味の発言をしてしまったが、夏休みでなくても病室から出ることをほとんど許されていない悠を前にすると、急に後ろめたい気持ちになった。自分の軽率な発言を恥じ、悠に頭を下げたい気持ちになる。

 しかしそれを実践する勇気もなく、レイは代わりに悠から目を逸らし、木造りのテーブルの方を見た。テーブルの上には、新しい花の生けてある花瓶と、花柄の缶ケースが置かれていた。昨日来たとき、その缶ケースはなかったはずだ。

缶に向けられた視線から、言いたいことを察したのか、悠はレイの質問に先回りして口を開いた。

「あ、それ。午前中に、たぁくんが持ってきてくれたの。お見舞いにって。中身、飴なんだよ」

 腕を伸ばして、胸に抱くほど大きなその缶ケースを引き寄せると、悠は中から飴を取り出した。そして、飴の乗った掌をそのままレイに差し出してくる。赤、青、緑の包みにくるまれた飴が一種類ずつ、その手にはあった。

「はい、レイちゃん。昨日のチョコのお礼。いちごと、ぶどうと、グレープフルーツがあるから、全種類」

「ありがとう。全部はいきなり無理だから、残りはあとで食べるよ」

「そういえば、前から気になってたんだけど」

「うん」

「フルーツ飴を全種類口の中に入れたら、ミックスジュース味になるのかな?」

「それは確かに気になるね。今度、うちのお父さんにやらせてみるよ」

 レイが表明すると、悠はくすりと肩を揺するようにして笑った。

「レイちゃんは、やんないんだ」

「私や悠みたいな、華奢な喉をもつ人は無謀だからね。ここはやっぱり、喉元広そうな人にやってもらわないと」

「じゃあ、私も、今度たぁくんにやってもらおうかな。せっかく、飴もらったし」

 たぁくんと言うのは、悠の兄のことだ。無論、あだ名である。前に本名を教えてもらったのだが、レイは覚えていなかった。顔も一度、病室のドアですれ違った時に、ちらりと見た程度だ。そちらもまた、記憶には残っていなかった。

 年は1つだけ離れていて、話から察するに悠のことを大層に可愛がっているらしい。いまは両親が忙しいため、どこか別の家に居候しているらしいが、それでもこの病院に、毎日のように見舞いに来てくれるのだという。しかしそれにしては、レイは悠の兄と行き合ったことがない。すれ違ったことすら、一度しかないのだ。

レイも結構頻繁に、悠と会っているのに。なぜ一向に彼と行き合わないのか前々から不思議でたまらなかった。

現実ではごくたまに、偶然とは思えない奇妙な出来事が巻き起こる。その疑問を以前口にすると、悠は「きっと、そういう巡りあわせなんだよ」という実に投げやりな返答よこしてきた。しかし、それ以外に理由が見当たらないことも確かだ。何度でも再開を繰り返すような、甘い運命の巡りあわせもあれば、その逆もまた存在するのかもしれない。「そうだね、そういう巡り合わせなんだね」とレイもまた、適当に返事をした覚えがあった。

 飴を1つ口の中に放り込むと、レイは襟口をはだけて肩の包帯を悠に見せ、けがの説明をした。父親や医師にしたのと同様に、誰かに押されたという部分は伏せておいた。悠を心配させたくないという気遣いもあったが、それよりもここで、殺されかけたことを口に出して説明してしまうことによって、記憶の底で眠りかけていたものが、現実として再び昇華されてしまうのではないか、という懸念の気持ちのほうが心を占めていた。誰かに殺意を持って襲われたということを考えると、いまでも怖気が走る。

たとえそれを伏せても、事故について話すだけで掌が汗ばみ、口内が乾いてきた。慌てて飴玉を、舌を使って転がす。

「痛そう……」

 まるで自分がけがをしているかのように、悠は顔をしかめた。そんな悠の優しさに触れ、レイはわずかに両頬を上げる。

「そんなでもないよ。大げさに包帯巻いてあるけど、ちゃんと腕の上げ下げもできるし」

 腕を振ってみせてみるが、実は少し痛かった。しかしここで、眉間に皺を刻もうものなら、そのまま悠に痛みが伝わってしまう。だからレイは奥歯を軽く噛んで、必死に苦痛を耐え忍ばなければならなかった。

「ほら、ね。これくらいのけが、私にとっては大したことないんだよ」

「う、うん。ならいいけど。そうだよね、レイちゃんは、凄いもんね」

「うん。私は、凄いんだよ。だから、へっちゃらなの」

 その時、尾を引くようなブレーキの甲高い音が、レイの聴覚を貫いた。レイは反射的に、びくりと体を緊張させてしまう。その音の発信源は、テレビドラマからだった。

 画面に目を向けると、急停止させたトラックの運転席から必死の形相を浮かべた主人公が飛び降り、道路に駆けだしていくシーンが映し出されていた。オーケストラ風のBGMをバックに、場面は否応なしに盛り上げられていく。その音楽の色合いから察するに、どうやらいままさにクライマックスシーンを放映しているらしい。

 しかし、その感動を煽るようなシーンとは裏腹に、レイはその画面に釘付けになりながら、震えていた。俳優などはまったく目に入らない。その視線が囚われていたのは、主人公が乗り捨てた、白い大型トラックのほうだった。

そのトラックを見ているうち、顔が冷たくなり、ふわふわと雲の上を歩いているような気分になる。現実感が喪失し、目の前が暗闇に閉ざされていく。喉に何かがへばりつくようで、声が出てこなかった。唾液さえも飲むことができない。そのうち、息をすることでさえも難儀になってきた。

目を逸らさなければとは思っているのに、逃れられない。首がまったく動かないのだ。瞬きすらもできなくなっている。全身の細胞が反旗を翻し、レイの心を蝕んでいるとしか思えなかった。

 テレビの中で、トラックのハザードランプが一定の間隔を挟んで瞬いている。その光が、画面を飛び出し、中空を渡って、レイに近づいてくる。はじめはぼんやりと、だが少しずつ実像を結んでいき、それはレイの瞳を焼こうという明確な意思を持って、鼻先まで迫りくる。その熱が、まつ毛を焼き、じりじりと焦げた臭いが嗅覚を刺激して――。

 悲鳴をあげそうになったところで、トラックは消えた。テレビの電源が切れたのだ。ぎこちなく振り向くと、テレビのリモコンを持った悠が憂え顔でこちらを見ていた。

「レイちゃん……平気?」

 気付くとレイは、全身汗だくなっていた。息も切れている。心臓が慌ただしく、胸の内側を叩いている。

「うん、ありがとう。なんとか、治まりそう、かも」

「やっぱり、怖いよね。ついさっき、死んじゃいそうになったんだから」

 悠は悄然とした様子で言いながら、レイの手を取った。その白く柔らかい手から伝わってくる、たおやかな感触に、恐怖も色褪せていくかのようだった。

 レイは無言のまま頷いた。トラックに怯える日々が、いつまで続くのだろうかと不安になる。今はブレーキ音を聞くだけで、気が遠くなってくるぐらいなのだ。自分に向かって走ってくるトラックなど見た日には、その場でショック死してしまうかもしれない。

「大丈夫。その気持ちは私も分かるし……」

 恐れに心を縮ませるレイに向けて、なんだか、悠は含蓄ありげな発言をする。単なる気休みの言葉ではなさそうだ。レイは指を、彼女の細い指に絡ませながら尋ねた。

「どういうこと?」

「うんとね。あの、私の話になっちゃうんだけど、いい?」

 少し迷うように、悠がそう切り出してきた。レイは顔をあげると、悠を見据え、また1つ頷く。動悸は治まってきていたが、なんだかのぼせたように体が重く、火照っていた。

「3年前か4年前だと思うんだけど……私、車に引き込まれそうになったことがあったんだ」

 思いもよらぬ告白に、レイは目を見開いた。悠とは出会って3年の付き合いだが、そんな話を今まで聞いたことがなかったからだ。

「そんなの、私、始めて聞いた」

「ごめんね。でも、そんなに率先して話すことでもないと思ったから。あ、それでね。あれはまだ学校によく通えてた頃の夏だと思ったんだけど」

 夕方の公園脇にある小道でのことだという。人通りが少なく、死角の多いその道を学校帰りに通っていたところ、1台の車が緩慢なスピードで、後ろから悠に近づいてきたのだというのだ。

「運転席に1人、お父さんぐらいの年齢の男の人がいて。その隣にはサングラスをかけた、女の人が座ってた。ちょっと変だなぁって思ったんだけど、無視して通り過ぎようとしたらね」

 車が停車し、後部座席からサングラスをかけた男が出てきた。男は後ろから悠の口を手で塞ぐようにすると、そのまま力任せに車内に引きずり込もうとしてきた。

 悠はその時のことを話しながら、ぶるりと体を震わせた。瞳が潤んでいるようにも見える。

「もう、話さなくてもいいよ。話を変えようよ。嫌なこと思い出したって、いいことはないし」

 しかし、悠はかぶりを振った。一緒になって、彼女のこんもりとした髪の毛までもふわふわと動く。まるで、羊の毛皮のようだ。悠の髪の毛は黒だけれど。

「ううん。もうちょっと、話させて。それでその時、すごく怖くて、いくらもがいても振りきれなくて……。ぶたれたりもして、もうダメかなぁ、って思ったんだけど、そのときにね」

 兄が来てくれたのだという。悠の兄は果敢にも男に立ち向かうと、揉み合い、殴り合いをした末に、どうにか悠を男から引き離したというのだ。そして彼は悠の手を取ると、大通りまで全力疾走したのだという。

 その話を終わりまで聞き終えると、まず感嘆の息が出た。口先では何とでも言えても、妹のためにそこまで実際にできる人は、数少ないのではないか。まさに自らの身を捨てる覚悟だ。

「悠のお兄ちゃん、すごいね」

「うん。たぁくんは、普段はとぼけてるけど、いざとなると凄く頼りになる人だから」

 悠の喜悦の色に染まった顔を見ていると、レイは、なんだか急に悠の兄に会いたくなってきた。妹のために自らを犠牲にできる人とは、どんな人なのだろう。その心模様は、どのような姿形で全身に現出されているのだろうか。その印を、見てみたいとレイは強く思った。

いつか、運命の車輪が乱れることによって、彼と出会える日が来るのだろうか。それは一体、いつの日になるのだろう。ポケットに入れた飴玉を、指先で転がしながら、レイは期待に胸を膨らます。

「あ、そういえば」

 思い出したように、悠が言い放った。その唐突さに、レイは小さく首を傾げる。

「どうしたの?」

「大通りに出たときね、怖がってる私を支えてくれながら、たぁくんが言ってたんだ。なんか、すごく切羽詰まった声で」

「なんて?」

 すると、急に悠は眉を寄せた。暗澹とした表情を、顔に浮き立たせる。明らかにこれまでとは毛色の異なる話だ。レイは心の中で身構えた。

「絶対に悠を安心させてやる、とか。そんなようなこと、言ってた。あんまりにもその顔が真剣だったから、ちょっと怖かったんだけど……。それからたぁくん、しばらくおかしかったし」

「おかしかった?」

「うん。なんか思いつめてるって言うか……あんまり、お見舞いにも来てくれなくなっちゃって。来てくれても、さっきと同じこと言ってばっかりだった気がする」

 ふぅん、とレイは返した。突然変わった兄の様子。それは悠を危険な目に合わせた男に対する義憤の気持ちの現れなのか、それともそれとは別の要因なのか。本人とまともに会ったことのないレイには、どうにも判断がつかない。

「でも、いまは優しいお兄ちゃんになったんでしょ? なら、いいじゃん」

「そうなんだけど……うん、そうだよね。いまは、たぁくん元に戻ったもん。ちょっと、昔を思い出しちゃっただけ」

 自身を納得させるように、悠は呟く。レイはその背中を後押しするように、「そうだよ。いまがいいなら、それでいいじゃない」と声をかけた。その声はレイ自身の心にも跳ね返ってきて、じんわりと胸の奥底を叩いた。

 ノックの後に、病室のドアが開いた。遠慮なく室内に入ってきたのは橘看護師だった。

「お、今日も来てたのかい。毎日、ごくろうだねぇ」

「あ、はい」

 レイを見るなり、橘看護師は薄い唇を曲げて言った。先ほどロビーで見た、神妙な表情はすっかり影をひそめ、明るくどこか男気のあるいつもの彼女に戻っている。

「さぁ。悠ちゃん、検温の時間だよ。この前みたいに、注射と勘違いして逃げないでね」

「も、もう大丈夫です。体温計は、痛くないですから」

「ところが残念。今日は注射だよ」

「え、えぇ……ち、注射はまた今度にしませんか」

 悠が小さな声で言うと、橘看護師は豪快に笑った。

「嘘だよ。まったく、悠ちゃん本当に可愛いんだから。ほら、体温計渡すから自分で計れるでしょ?」

 赤くなる悠の頬を指でつついて、橘看護婦がからかう。それを横目で見ながら、レイは席を立った。黒城やライが待っている。ここが切り上げ時だろう。

「じゃあ、そろそろ帰るね。飴ありがとうって、お兄さんに伝えておいて」

「あ、う、うん。じゃあ、また今度ね。レイちゃん」

 騒がしい2人を背に、レイはドアの取っ手に手をかけた。悠と話したことで、大分恐怖が薄らいだような気がする。親友の笑い声に後押しされて、レイは病室の外へと足を踏み出した。




 病院を出て、玄関を一通り見渡してみたがライとディッキーの姿は見当たらなかった。どこかへ遊びに行ったのだろうか。

 院内の冷房に慣れていたためか、外に出ると、その暑さに眩暈がした。もう午後も半分過ぎるというのに、まだ太陽は天高く昇っている。歩いているだけでゆだってしまいそうだ。うんざりとした気分で、日陰の中を歩いていく。

 庭に回り込もうとしたところで、レイは慌てて病院の陰に隠れた。庭に置かれた青いベンチに黒城の姿があった。反射的に身を引いてしまったのは、その隣に1人の男性が座っていたためだ。

 黒城と並んで座っているその男は、背広を着ていて、白いものの混じった髪の毛を片手でくしゃくしゃと掻いていた。顔を見る限り、黒城と同年齢くらいに見える。目が一重で切れ長く、眉は太い。それでいて、温和そうな雰囲気を湛えている。左手の薬指には、高価そうな指輪がはまっていた。

 黒城は煙草を1本ケースから抜き取ると、その男に手渡すようにした。だが、男は顔の前で手を振り、やんわりとそれを断る。黒城は片眉だけを上げてつまらなそうにすると、口に咥えた煙草に火を点けた。黒城が煙草を吸うことは、すごく珍しい。記憶にある4年間の中で、レイはその様子を1、2度しか目にしたことがなかった。

 あの男は何者なのだろう。レイは壁から顔を半分だけ出して、耳をそばだて、2人の動向を探ることにした。

 2人ともしばらく、物言わぬまま空を見上げていた。何かあるのかと思い、レイも首を上向かせるが、特に目を引くものはない。昨日と同じような空が、綿々と広がっている。

そんな中でようやく口火を切ったのは、黒城だった。

「久しぶりだな、天村。まさかこんなところで会うとは、思いもしなかった。他の幹部連中も、元気かね?」

「はい。私を含め4人。3年前より変わらず、精を出しております」

「そうか……それにしても、久しぶりだ。懐かしいな」

 灰色の煙を吐きだしながら、親しそうな口調で話す。どうやら男の名前は天村というらしい。天村氏は頬を崩すようにして、優しい笑みを浮かべた。その表情に、レイはなんだか既視感を覚える。この男と会ったことは、初めてであるはずなのに。

「私もです。ここで私の娘が入院していまして。仕事がひと段落ついたので、久々にお見舞いをと思いまして」

「相変わらず、仕事一辺倒なところは変わらないようだな。結構なことだ。娘の容態はどうなのかね?」

「ご心配ありがとうございます。良好なようですよ。あまり会ってあげられていない私が言うのも、何なのですが」

 天村氏が寂しそうな笑いを零す。その横顔は、この晴天の下ではとても場違いなもののように思えた。彼の周囲では、よどんだ空気が流れている。

 あぁ、とレイは思わず声をあげそうになった。そして自分の勘の悪さに、歯がゆい気持ちを抱く。男の姓が『天村』という時点で気付くべきだったのだ。

天村というのは、悠の苗字だ。あの男は悠の父親なのだ。仕事が多忙なあまり、見舞いに来てくれないと悠がぼやいていた父親。あの豪邸をもつ主人。夜な夜な動きだしそうな、多くの剥製をコレクションしているという男。

今まで得た情報を拾い集めてから改めて男を見ると、スーツの襟を正す動作ですらも、高貴さを振りまいているように映るから不思議だった。それにしても、自分の父親と悠の父親とが知り合いだったとは、驚きだった。しかも、なにやら黒城のほうが目上のようではないか。

そんなことを思っていると、天村氏の口から思わず目を瞠るような言葉が飛び出してきた。

「社長のほうは、今日はどうしてここに。また、ご趣味の健康診断ですか?」

「社長はよしたまえ。もう私に、君の上司たる資格はないのだからな。いまはしがない、自由業をやっている。だからいまはそんなことに、頻繁に金を使う余裕はない。君と同じく、娘を心配して出向いたまでだ」

「そうですか……。娘さんの具合はいかがですか?」

「私の娘だ。生まれたその日から、神の加護を賜っているからな。大丈夫に決まっている」

 至極当然といった様子で、とんでもないことを口にする黒城はいつものこととして。レイは天村氏が父親のことを、社長と呼んだことに驚いた。その時は所長と聞き間違えたのではないかと耳を疑ったが、続けて黒城までもがはっきりと、社長という言葉を使ったものだからそれは明らかな真実のようだった。

 しかも黒城は、天村氏の元上司であることを示唆するような発言をしていた。さらに天村氏は、黒城グループの幹部であると悠が言っていたことを思い出す。

 その2つを照らし合わせれば、そこから導き出される答えは自ずと1つに絞られてくる。

大企業の名前と、同じ名前。幾重も、うんざりするくらい間違えられてきたことが、本当は正しかったのではないかという考えがレイの鼓動を急がせた。父親は本当に黒城グループの関係者、しかもその社長だったのではないか。

 むろん、そんなことは初耳だった。

 またしばらく、2人の間に会話がなくなった。黒城は煙草をふかし、自分の吐きだした煙をじっと見つめている。まるでその靄の中に、過去の情景が映し出されているかのように。

 それからまた少しして、おずおずと天村氏が口を開いた。「こ」とだけ発音するが、すぐに言葉を切り、頬を緩ませる。

「やはり、社長でよろしいですか? なんだか、それ以外の呼び方だと自分の中で違和感が」

「……よかろう。特別に許可してやる。好きに呼ぶがいい」

「ありがとうございます。では、1つ、お訊きしてもよろしいですか?」

 黒城は鼻を鳴らした。

「いいだろう」

「しつこいということは、重々承知しております。しかしいま一度、お尋ねしたい。社長はもう、社に戻ってくることは考えていらっしゃらないのですか?」

 黒城は天村氏を一瞥した。腹の前においた指を絡ませ、何かを口に出そうか出すまいか逡巡しているようだ。なんだか父親らしくない、とレイは不安を抱く。普段なら、もっと堂々と相手を跳ねのけるような言葉を言ってのけるはずなのに。いま、その瞳は小さく、揺らいでいる。

 踏ん切りがつかない様子の黒城に、天村氏は躊躇いを引きずりながら、質問を重ねた。

「現社長に不満があるわけではありません。現に、社の業績も伸びています。あなたもご存じのとおり、宇宙開発事業にも着手し始めたくらいです。しかし、あなたではないとやはり、ダメなんです。最終的に黒城グループを背負って立つのは、私はあなた以外にいないと思っています。私は、いえ、私だけじゃない。社の人間全員が、あなたがなぜいきなり、社長を辞任なさったのか疑問に思っているんです。一体、なにがあったのか。まだ教えていただけないのですか?」

 声音こそ穏やかなままだったが、天村氏のその表情には若干の強張りが窺えた。2人の周りには、異様な緊張感が張り詰めている。レイは固唾を呑んで、そのやりとりを見守る。

 やがて、黒城はため息交じりに言葉を零した。

「黒城グループは、私だけの力でのし上がったわけではない」

「どういう、ことですか?」

 思わぬ解答に、天村氏は目に見えて動揺している。レイもまた同じだった。本当にあそこに座っているのは父親なのだろうか、と懐疑的な気分になる。

 黒城は短くなった煙草を、灰皿に押しつぶした。

「私の友人に、華永という男がいる。いや、いたの間違いか。7年前に命を落としたからな。私は他者を賞賛するということを知らぬ男だが、そいつだけは別だ。奴は、あらゆる意味で天才だった。そして、成功者だった」

 黒城がそこまで言い切るのだから、本当に偉大な人物だったのだろう。しかしその男の名前を、レイはこれまで聞いたことがなかった。そして、天村氏もまた同様らしかった。

「その方が、黒城グループの形成に多大な影響を及ぼしたということですか」

「あぁ」

「社長の友達は、昔から偉大な方ばかりと聞いています。その方も、その1人なのでしょうね」

 感心するように天村氏が言うと、黒城は少し自嘲気味に眉を上げた。

「偉大な者ばかりではない。犯罪者じみたのもいる。どうしようもないクズだ。まぁ、それでも若かりし頃の私はそういう奴らとも、一緒になってはしゃいだものだがね」

 犯罪者じみた、という部分を冗談だと受け取ったのか、天村氏は細かく笑った。しかし黒城に睨まれると、すぐに、表情を引き締め直した。

「しかし……やはり、私の中で社長は大きな存在なんです。私は、あなたに何度も助けていただきました。いまの私の地位があるのも、一重に、社長のお力があってこそです。その方ではなく、私からしてみれば、成功者はあなた1人なのですよ、社長」

 ふむ、と黒城は顎を撫でながら言った。そして2本目の煙草を取り出すと、火を点けぬまま咥えた。そして、目を細くする。遠くを見る、というよりは過去を思い出しているように見えた。

「新宿の事件を、覚えているかね?」

 唐突に、前を向いたまま黒城が尋ねた。レイはその言葉の意味が分からず、密かに首を傾げるが、天村氏は理解したようだった。殊勝な顔つきで、大きく頷く。

「えぇ。未曽有の大事件でしたからね。忘れられるはずもありません」

「ならば、佳澄のことは覚えているかね?」

 またも、レイの知らない単語だ。今度は人物名らしい。こちらのほうも分からないのはレイだけらしく、天村氏は表情に翳りを落としたあと、力なく顔を伏せた。

「えぇ、覚えています。あれからもう、4年経つんですね……まさか、社長をお辞めになったのは、彼女に関係が?」

 弾かれたように、天村氏は面を上げる。しかし、黒城は病院の庭をじっと見つめたままだった。病院の前にあるそれなりに広い庭は、車椅子に乗った人や、芝生に寝転んでいる人たちで賑わっている。

「私は、彼女のコップを割ってしまった。赤いガラスのコップだ。佳澄はそれを気に入っていた。しかし、私はつい手を滑らせてしまった。気づいた時には、コップは粉々になって、床に砕け散っていた」

 黒城のあまりにも今までの会話と乖離した告白に、天村氏は要領を得ない様子だ。だがこれまでとは逆に、レイは黒城の話すことの意味が分かっていた。青いコップを見た時に重なる、赤いコップのイメージ。記憶のプールの中で、それは容赦なきまでに粉砕されてしまう。レイは黒城の話から、咄嗟にその映像を思い出したのだ。

 偶然とは思えない。だが、それが何を意味するのか、レイにはまったく判断がつかない。

「それは私の数少ない過失だった。そして私は」

 そこで黒城は、一旦言葉を切った。それから瞳を閉じ、考え込むようにしてから、瞼を上げるとともに続けた。

「私は、罪を犯した。拭うことも、解き放つこともできない。永久の呪いだ」

「罪……ですか」

 天村氏の呟きに、黒城は頷くことで応じた。

「あぁ、罪だ。だが私はこの呪縛から解き離れたいと願った。それには、白紙から始めることが必要だったのだ。罪から目を背けることだが、どれほど愚かしいことなのかは理解している。だが、それでも私は悔い改めたかったのだ。この場に留まることは、できなかった」

「だから」

 天村氏は唾を呑んだ。この距離からでも、喉が大きく上下するのが分かった。レイは唇を、舌でなぞるように舐める。

「だから、社長の座を退いたと、そういうことですか。一体、あなたほどの人を追い込んだ罪とは、どのようなものだったんですか? よろしければ、お聞かせ願えませんか?」

 天村氏は目を瞬かせる。黒城は天村氏のほうをちらりとだけ見ると、荘厳ささえ漂う声で、投げ放つように言った。

「天村」

「はっ」

「お前には、覚悟があるか」

 天村氏は、黒城の正面から体当たりをくらわすような発言に鼻白むが、すぐさま真顔になり、力強く頷いた。

「社長の下に就いたその瞬間から、そんなこと、とうにできていますよ」

「……よかろう」

 黒城は結局火を灯さぬまま、唇に挟みこんでいた煙草を灰皿に放り込んだ。

 それから体を揺すると、おもむろにスーツのボタンに手をかけた。

すべてのボタンをホールから外し終えると、それから襟の辺りを掴み、何の前触れもなく、上っ張りを脱ぎ始めた。

 唐突に、公衆の面前で服を脱ぎだす中年男性の奇行に、レイも、そして天村氏でさえも唖然とした表情を浮かべるしかない。そうしている間にも、黒城はスーツの袖から腕を抜き、あっという間に青いチェック柄のワイシャツ姿になってしまった。

「社長?」

 たまらず、天村氏が言葉を挟む。しかし黒城は周囲の声にまったく耳を貸していない様子だった。自分の中の世界に入り込んでいる、とでもいうのだろうか。さらに無言のまま、手首のボタンまでをも外すと、袖をまくりあげ、右腕を白日のもとへとさらけ出させた。

「天村。しかと、その目に焼き付けたまえ。これが私の罪の証だ」

 ひょっとしたら、黒城の腕を見たのはこれが初めてかもしれない、とレイはふと思った。黒城の腕は色白だった。手首までがよく日焼けしているものだから、それが余計にはっきりと分かる。毛はなく、産毛すらあるのではないか、と目を凝らしてしまいそうになるほど、痩せ細っていて、鋭気に乏しかった。

 その腕に、大きな痣がある。黒々としていて、今にも脈動しだしそうな、生々しい傷痕だ。その痣は上腕の中央を陣取っていて、遠目には、腕章をつけているように見えなくもない。

 その痣の形はまるで、翼を大きく広げた、鳥のような姿をしていた。

 それを理解した瞬間、レイの頭に薄ぼんやりとしたビジョンがなだれ込んできた。

 夢で見た、あの黒い鳥だ。見上げるほど大きく、翼を羽ばたかせるごとに暴風が吹き荒れる。肉食動物の牙のような爪を備えた足で、地面を踏みしめて歩く。その度に、埃が舞い上がり、地鳴りが発生する。

 あの悪夢に現れた鳥と、黒城の腕に刻まれた鳥とは、無関係に思えなかった。しかし何故根拠もなく、そんなことが断言できるかはレイ自身にも不思議だった。

 頭の奥で、小さな光が生まれている。それは怪人探知機が発生する前触れの症状に、とてもよく似ていた。それ以上、頭の中心の方に近づいてくる様子がないのが、大きな違いだが。目の裏側がちかちかする。レイは目を瞑り、瞼を手の甲でごしごしと擦った。

「この、痣は」

 天村氏が、辟易した声をあげる。対する黒城は、落ち着き払っていた。

「黒い鳥だ」

「黒い、鳥」

 天村氏が復唱すると、黒城はそっと頷いた。長い髪がなびく。

「罪人の証だ。先ほども言っただろう。私は償うことさえも許されぬ、大きな過ちを犯した。それを忘れぬようにと、この体に打ち付けられた痣は、いつまでも消えることはない。これこそが、スティグマだ」

「悪人のレッテル、ということですか。社長、一体その罪とは、どういう類のものですか。私は、ここまで知ってしまったのです。差支えなければ、教えていただけませんか?」

 黒城がどんな顔をしたのか、レイには見えない。まだ目を擦っていたからだ。いくらそうしても、一向に痒みが消えない。目を閉じても瞳の中で火花が散っているかのようだ。頭痛さえもしてきた。こめかみのあたりが、何かに押さえつけられているかのように、痛む。

 息をゆっくり吸い込み、吐きだすくらいの時間を置いてから、黒城は観念したかのようにぽつりと呟いた。

「私は、怪人を作り出した」

 天村氏の息を呑む音が聞こえる。レイは、瞼から手を離すことができない。そうしているうち、眼球に血管が浮いてきたような気もする。赤いものが、闇の中に浮遊している。

「怪人とは、あの怪人ですか? それはどういう」

「私はこの世の摂理から、反した。この世界を構築している大きな歯車。私はそこから弾き飛ばされたのだよ。だから、私はその上に再び、舞い戻らなくてはいけない。この世界の地に足をつけ続けるためにも」

 目も、そして手も、摩擦で痛い。そしてひりひりと熱かった。でも、止めることはできない。たとえ皮がめくれても、瞼が破けても、レイは目を掻き毟り続ける。

 その痛痒が止まないから。その目の裏で跳ねる光がなくならないから。

「どういう、ことですか?」

「ゼロからのスタートとは、そういうことだと言っているのだよ。普通の人なら、そんなことは不可能だ。だが、私ならできる。私なら、歯車をよじのぼることができる」

 黒城が袖を下ろす音がした。ボタンを閉めている。ようやくレイは、目もとから手を遠ざけた。ゆっくりと瞼を上げると、強烈な日光が黒目を狙って飛び込んできた。

「君は、私の娘を見たかね?」

 白一色に染まった視界が、時間をかけて晴れていく。黒城と天村氏の姿や、そこに立つ木々、病院の巨観が浮き彫りになり、元の形を取り戻していく。ようやく目が慣れてから、初めて視覚が捉えたのは、かぶりを振る天村氏の姿だった。

「2005年の、創立記念パーティーに撮った記念写真。お前も持っているはずだ。あそこに小さな女の子が映っている。それを見てみたまえ」

 ぱちん。

 目の前が瞬いた。あまりにも強烈な光に、レイはよろける。壁に手を添えて、倒れかかった体を支えた。

「そこに私の娘がいる。いや、違うな」

 レイの目に、自虐的に微笑む黒城の姿が映り込んだ。その姿は引き伸ばされ、レイの視界いっぱいに広がっていった。

「私の娘の、モデルがいる。君にだけ教えておこう。長年、私に連れ添ってくれた君には、私の罪を知る権利がある。いや、義務だ。とくと見たまえ、私の心に潜む、邪悪な怨念の塊を」

 また、目が痒くなってきた。掻こうと手を持ち上げるが、手の甲が血で滲んでいるのを見つけ、止めた。代わりに溢れだす涙が、その顔に巣食うむずがゆさを、綺麗に洗い流してくれた。

 そしてレイは父親から逃げ出した。地面をつま先で引っ掻き、よろめきながら走る。

 なぜ走らなくてはいけないのか、ここから立ち去らなければならないのか、レイ自身にもその理由は、さっぱり分からなかった。

 ただ胸に潜むこのわだかまりだけが、レイの鼓動を突き動かしていた。

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