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14話:お前は誰だ

 夜の公園で、うつ伏せになって倒れているライと出会ったのは、3年前のことだった。

父親と一緒に、花火大会に出かけた帰り道で、じっとりとした暑さが滲みているような、月の明るい夜だった。

花火の会場から離れており、丈のある雑草が伸び放題になっているような公園であったため、ブランコの斜面に寝そべっているライの存在に気づいたのは、レイたちだけだった。

話しかけると、ライは「お腹空いた」だとか、すでに寝ているのにも関わらず「眠い」だとか、ひたすらに単発的な言葉を発した。その表情は疲れきっており、空腹であるのも確からしかったが、服は新品同然のものを着ていたことから、家出をしてまもない子なのかな、とレイは素早く分析した。

 レイは歳も近く、さらに自分と同じ髪の色をもつその少女に、一目で親近感が沸いた。そして警察に通報しようかと至極まっとうな提案をする父親に、とりあえず今日だけでも、うちで休ませてあげようと懇願したのだ。

 改めて当時のことを思い返すと、その記憶が本当に自分自身のものなのか怪しくなる。普段のレイだったら、けしてどこの馬の骨とも知らぬ浮浪少女を、自宅に招き入れてくれなんていうことは、天地がひっくり返ったとしても言うはずがなかった。

 あの時の自分は、よほど興奮していたんだな、とレイは3年経った今になって自身を評価する。それほどまでに、寂しかったのかもしれない。

 黒城から「実は、私とお前に血の繋がりはないんだ」と昼時のファミレスであっさりと告白され、「じゃあ、私は誰から生まれたの?」と訊くと、オレンジジュースをストローで吸いこみながら「その時期になったら教えよう。いまは、この私の娘であることを誇りに思うがよい」と胸を張りながら返された直後のことだったから、余計だったのかもしれない。

 レイは心の拠り所が欲しかったのだ。そしておそらく、伸ばした手の圏内にいたのが自分と似た空気を持つ、ライだったのだと思う。

あまり乗り気ではなさそうな父親に、レイは頭を何度も下げ、家の手伝いを何でもすることを約束し、しまいには『一生のお願い』という回数制限のない片道切符を持ちだして、無理やり自分の意思を押し通した。意固地なレイに、黒城は唸りながらも、最終的にはその意見を承諾してくれた。

「あなたの名前は、なんていうの?」

 黒城に負ぶさり、彼の歩幅に合わせて船のように揺れているライに向かって、レイはまずその質問をした。

 するとライは半分だけ目を開けた状態で、「わかんない」と言った。「名前も、生まれも、全然分かんないんだ。私、記憶喪失にかかったのかもしれない」

 風邪とか催眠術でもあるまいし、記憶喪失はかかるものではなく、なるものだろうと思うが口には出さなかった。そんな些細な指摘よりも、喜びのほうが勝っていた。

 同じくらいの歳、同じ色の髪というわけでもなく、記憶の状態までも似ていることにレイはさらに強い共感を、彼女に覚えた。これこそ運命ではないのか、とレイは今でも思っている。ライに会うために自分は生まれて来たのではないか、と柄でもないことを当時は思った。

 その夜は眠らずに、ずっとライの寝顔を眺めていたことを覚えている。妹ができるんだと思うと、胸が高鳴ってどうしても寝付けなかった。

 次の日、黒城が警察に電話を入れようとすると、ライはそれを断固拒否した。それを無視すると、黒城に噛みつき、蹴り飛ばし、地団駄を踏んで、とにかく暴れた。

「なんでもするからさ。しばらく、ここに置いてくれよ。お願いします」

 拙い敬語を使って、ライは顔の前で手を合わせる。その目は脅えきっており、嵐の海のようにうねりをあげて、震えていた。

 その不安にさざめいた瞳を見過ごすことはできず、また新しい家族の誕生に胸をときめかせていたレイも、彼女の申し出に便乗し、しばらくこの子を置いてくれないだろうかとお願いした。

今度は2人揃って頭を下げると、黒城はまた唇をひん曲げて一旦、部屋に引っ込んだ。そして小一時間程してから出てくると、開口一番、腕組をしながら、ライを見て言った。

「お前は、ライだ!」

「ライダー?」

茶化すつもりは毛頭なく、本当にそう聞こえたため、レイは尋ね返した。ライも口をぽかんと開けたまま、唖然としている。黒城はそんな場の空気を一掃するような、威風堂々とした語調で続けた。

「レイと、語感が似てるだろう。お前のことは、今日から娘としてライと呼ぶ。異論は認めん! 反論も却下だ!」

 そうして、名のない少女にライという固有名詞が付いた。あれから3年が経過し、ライはいまだに本当の両親を明かさぬまま、レイと黒城と、同じ屋根の下で暮らしている。




 朝食を終えて部屋に戻ってくると、ネズミは部屋の中央で仰向けに倒れていた。

「どうした!」

 ライは部屋に入るなり素っ頓狂な声をあげて、ネズミに駆け寄った。レイも一緒になってネズミの横に片膝をつき、その表情を覗き込む。ネズミの顔は、先ほどの活気に満ちたものとは対称的に、ひどくやつれていた。

「大丈夫か、おい、おいネズミ!」

 ネズミを抱きかかえたライが、必死に呼びかける。薄目を開いたまま、ぐったりと彼女の腕の中で横たわるネズミは、ゆっくりとレイのほうに目を移してから、蚊の鳴くような声を発した。

「すみませぬ、お母ちゃん。お腹が減り過ぎて動けません」

 ネズミの申し出に、レイとライは顔を見合わせ、ほぼ同時に安堵の息をついた。

「こんな変なのでも、お腹は空くんだね」

「そりゃあ、空くだろ。ネズミなんだから。それで、ネズミってなに食べるんだ? チーズ?」

「チーズは昨日、ライが全部食べちゃったじゃない。トマトジュースのつまみ、とかわけわからないこと言って。ベビーチーズ。30個もあったのに」

「あ……。じゃあ、どうするんだよ」

 適当でいいんじゃないの、ネズミなんだし。とくに思考を絡めることなく、レイが漫然に返すと、ライは何だか納得したような声をあげて、部屋から出て行った。

レイはぐったりと倒れているネズミに視線をやりながら、扇風機のスイッチを入れる。空気が淀んでいた。じっとしていても、シャツが体に貼りつくかのようだ。今日も暑い日になりそうだ。

 茶碗に盛ったご飯の上に、卵焼きを乗せただけというシンプルな料理をライは部屋に運んできた。レイの鼻先を、焦げ臭いものが過る。そしてその嗅覚が示した通り、その卵焼きの表面は半部以上黒く変色していた。

ネズミはくんくんと料理の匂いを嗅いだあと、それで安心したのか、茶碗に顔を突っ込むようにして食べ始めた。ライの作る料理はことごとく濃い味だから、ご飯のおかずに最適だろうな、と思いながらレイはその光景をぼんやりと眺めている。

「おいしいか? そんなに慌てて食べなくても、おかわりはいっぱいあるからな」

 ネズミの隣に座って、その姿を見守るライの表情は慈愛に満ちていた。これほどまでに嬉しそうなライを、最近見た覚えがない。

気づくと、レイは3年前の自分といまのライを重ねている。あの頃の自分は、過保護という言葉でも足りないくらい、ライに至り尽くせりやっていたと思う。

 そんなことを考えながらレイは、卵焼きご飯と一緒に配膳されてきた、水の入った赤いガラスコップにいつのまにか目を奪われていた。視界を吸い込まれた、といってもいい。視野狭窄が起きたかのように、そのコップだけはっきりと実像を結んでいて、その周囲はぼんやりと褪せている。

 ステンドグラス模様に加工されたコップだ。綺麗なワインレッドをしており、日に当てるとその表面がきらきらと輝く。しかし、レイの目にその光は映っていなかった。

 なぜかレイの意識に浮かんできたのは、色合いとしては対照的な青色のガラスコップだった。

このイメージがどこからきたものなのか、レイ自身にもまったく見当がつかない。さらにそのガラスコップは、頭の中の映像でひとりでに砕け散ってしまう。修繕不可能なくらいに、粉々に。破片は粒のようになって、白塗りの床に飛散している。

 この感覚の出所は、どこなのだろう。なんだか全身がむずかゆいような気がして、レイは少し身をくねらせる。

 ライがコップを持ち上げたので、レイは我に返った。

妹はコップを傾けて、中の水をネズミに飲ませている。これだけライが面倒見のいい人間だったとは、至極意外だった。2人とも端から見る限り、本当に楽しそうに食事をしている。まるで親子か、仲のいい姉弟であるかのように。

「よし、ディッキーだ!」

 出し抜けに、ライがそう宣言した。椅子を後ろ前に座っていたレイは、その単語が何を指すものなのか分からず、眉間に皺を刻むしかない。反射的に、レイの脳みそには3年前の父親の立ち姿が蘇る。声のトーンや、そのまったく脈絡のないタイミングまで、当時の父親にそっくりだった。

「なにが」

「こいつの名前だよ。ネズミといえば、遊園地だろ?」

 あまりにも、安直なライのネーミング。レイは車の後部座席で笑うネズミのぬいぐるみを思い出した。自分の名前が話題に出されて、あのぬいぐるみは今頃、車内でさぞご満悦だろう。そのしたり顔を思い浮かべるだけで、腹に据えかねた。

 レイの心模様など露知らず、ライは口の周りに食べカスを付けたネズミを抱えあげ、満面の笑みを浮かべている。

レイは深く息を吸いこむと、それから大袈裟にため息を零した。

「なんでもいいけど、まだ飼うって決めたわけじゃないよ」

「えー、いいじゃんよ。お前の子どもだろ?」

「だから私はそんな変なの、産んだ覚えないってば」

 手をひらひらとさせ、ライの発言を即座に否定する。すると、ライに抱えられたまま、ディッキーは顔だけをこちらに向けて、折り目正しくおじぎをしてきた。

「お母ちゃん、私、今日からディッキーです。よろしくお願いいたします」

「あ、その名前で確定なんだ」

 “お母ちゃん”が了承した名前でもないのに。それよりも、よろしく、ということはネズミ自身もここに居座る気なのか。レイは唖然としながら、その横に長い灰色の相貌を見つめ返す。

「なぁ、レイ」

 そんな憮然とした面持ちのレイの上を、ライの言葉が通りかかる。ライはネズミ――ディッキーを床に下ろし、その顎のあたりをくすぐりながらレイに真剣な眼差しをぶつけてきた。

「こいつも私も、ここに拾われてきたってことは違いないじゃないか」

 レイはどきりとした。ライの言うことが珍しく的を射ていたから、ということもあるが、それがまさしくレイの心のくすぶりを、日の下に晒すような言葉だったからだ。

 黒城とレイ。レイとライ。黒城とライ。同じ屋根の下で、家族同然に暮らしているのにも関わらず、1人としておなじ血は流れていない。しかしそれでも、レイとライがこうして不自由もなく暮らしていけるのは、一重に父親、黒城のおかげだった。

「私はディッキーの気持ち分かるよ。私は父さんに拾われたから、こうして生きてられるわけだし。別に本当の両親がどうとか、どうでもいいよ。血が繋がっていなかったとしても、私の父さんは世界に1人しかいない」

 レイは妹の真っ直ぐな視線に目を背けながらも、心の中で首肯した。レイにとっても、父親は黒城以外にいない。

それというのも、レイも黒城に預けられる以前の記憶が、非常に曖昧なのだった。自分は生まれたときから10代だったのではないのか、という冗談さえ真実味が帯びてしまうほど、黒城と出会う以前、つまり4年より前の記憶が欠落している。

どうやって、黒城と出会ったのかさえレイは覚えていなかった。大半の赤ん坊が自分の生まれ落ちた瞬間を記憶していないのと同様に、いつの間にか、黒城は自分の父親となっていた。

だから尚更、その黒城に実は血縁関係がないと申し渡されたときは、何が何だかわからなくなるほどに驚異し、混乱し、憂患した。

 本当の両親について、知りたい気持ちは十分にある。しかし、その衝動に相反するように、今はその時ではないと気づいてもいた。

今の状況を大切にしようと、ということだ。黒城が父親であることに、今のところ大きな不満はない。確かに色物じみた要素はあるものの、不自由のない生活をさせてくれているいい父親だと思う。これ以上、現状に何を望むのだろう。

本当の両親について知るのは、もう少し大人になってからでいい。父親の手を離れてから、ゆっくり探せばいい。今は黒城に感謝をするべきだ。紆余曲折を経験しながらも、ようやくレイはその結論にたどり着いたのだった。そういう考え方もできることを教えてくれたのが、ライであることは重々承知していた。

「私もそれは分かっているけど……」

 レイが躊躇いがちに返答すると、ライは実にあっけらかんと言った。人の気持ちを汲まないで、楽観的なことを口にするところが、ライにはあった。

「だったら、いいじゃんか。住ませてやろうよ。2人いようが、3人いようが、もうあんま関係ないだろ。私を拾って、ディッキーを拾わないなんて、わけわからないしさ」

「わけわからないのは、ライのほうだよ。ライは人間で、ディッキーは変なのじゃない」

「生物はみんな友達だろ? 気持ちさえあれば、大抵何とかなるって。な?」

 ディッキーの頭を軽く叩いて、ライは微笑む。ライの掌で耳が潰れ、ディッキーは「ひゅう」と空気が喉から漏れるような声を発した。

「それで何とかなったら、おまわりさんはいらないよ」

「どこいくんだ?」

 立ち上がり、部屋のドアに向かうレイを見て、ライが問いかけてきた。レイはドアの前で足を止め、振り返る。ライはまたいつの間にか、胸にディッキーを抱いていた。まるで人形扱いだ。髭や顔の皮膚を引っ張られるディッキーは、間の抜けたうめき声あげている。

「トイレ。ちょっと、これからについて考えてみる」

「トイレに答えがあるのか?」

「あの場所は、人類の作った最初のタイムマシーンと呼ばれているからね。違う時空にいる自分と対話ができるんだよ。じゃあ、対話してくるね」

 適当なことを捲し立て、レイは後ろ手にドアを閉めた。ドア越しにライの、「よろしく頼むぞ!」という応援が聞こえたので、思わず頬を上げた。

奥にあるトイレに足を向ける。2Kという小さな間取りのオンボロアパートは、部屋と部屋を渡るのに大した労力を必要としないのが楽でいい。レイとライが過ごしている6畳間のすぐ向かい側には、黒城の部屋に繋がるドアがあった。

いまそのドアには鍵がかかっていて、中に人はいない。黒城は仕事に出かけてしまっているのだ。雑居ビルの一角を借りて、なんでも屋を開いているらしい。別段行く理由もないので、レイは近づいたことすらないが、好奇心旺盛なライは頻繁にその部屋に出入りしているようだった。

 レイはトイレを済ますと、洗面台の正面に吊り下げられた、丸く大きな鏡に目をやった。手を簡単に洗い、蛇口を閉める。それから自分のこめかみのあたりに、人差し指を当てた。

 妙だった。ディッキーはいかなる角度から見ようとも、ネズミではなく怪人の類に属するであろう生物にも関わらず、レイの頭の中にある、いわゆる“怪人探知機”がいつものように作動しないのだった。

いつもなら、怪人が遠方に出現するだけでひどい頭痛が生じ、気分が悪くなるというのに、手が触れられるほど近くにいてなぜ、自分は平然としていられるのかが不思議でたまらなかった。鏡の中にいる自分に問いかけてみても、当然のことながら、その答えは見つからない。あれは怪人じゃないのか? では一体あれはなんなのだ? レイから生まれてきたとはどういうことなんだ? 氾濫する川のように次々と疑問が、レイの心になだれこんでくる。

 しかし自ら頭を1つ小突いて、レイはその洪水を追い返した。疑問の波を、沈着という名の堤防でせき止める。それから鏡の中の自分を、思い切り睨みつけてやる。

もともと、“怪人探知機”はその出所や詳細まで不明瞭なものなのだ。小休止状態になっているということもありえる。そう取り乱すことではないのでは、と自分に言い聞かす。そうすると鏡の中の少女が鬼の形相で睨んできたので、慌てて意識しながら頬を上げた。

ディッキーが怪人であり、何かの目的があってこの家にもぐりこんだという説に揺らぎはない。そうとなれば、やることは1つ。ライに被害が及ぶ前に、ディッキーをこの家から引き剥がすことである。

追い出すとライには言ったが、レイの意図としては預ける、としたほうがより正確だ。

レイは“怪人探知機”にも引っかからず、人語を解し、三頭身の愛くるしい姿をもつこの特異な怪人を、マスカレイダーズに調査してもらうことを考えていた。怪人退治を目的として活動している彼らに引き渡せば、有益な情報を得ることができるに違いない。

今日は集合日ではない。翌日、ディッキーを会議の席に連れていこう。1日だけの辛抱だ。明日になれば、あの怪人の正体が解明されるはずだ。

予定を頭の中で組み上げ、レイは「よし」と声に出して意気込んだ。そしていま一度、鏡に視線を戻す。手に付着した水分を、指の間までタオルでよく拭き取りながら。

そうしながらレイはあっ、と思わず呟いた。一昨日から髪に付けていた青いヘアピンのことを、すっかり失念していたのだ。鏡をみて、ようやく先ほどから感じてた違和感に気がついた。

「あれ、どこにおいたっけ」

額を指で押し、小さく呟きながら、記憶を呼び戻そうとする。

洗面所にないのだとすれば、風呂場か、それとも机の上のどちらかだ。机の上には、何も置いてなかった覚えがある。そうなると、昨日入浴をしたときに外したまま、風呂場に置き去りとなっているのだろうか。

考え始めると、いてもたってもいられなくなり、レイは急いで洗面所のドアを開いた。途端に、湿り気を帯びた空気が顔にかかる。じめじめとした空間に身を預けながら、レイは浴場を覗き、脱衣場をさっと眺めた。しかしヘアピンは見当たらない。小さいものだから、床にでも転がっているのかもしれない。

レイは身をかがめて、コンタクトレンズを落とした人がそうするように、床に視線を這わせた。そして一通り、捜索を終えたところで、後ろから元気な声が聞こえた。

「お母ちゃん!」

 それは若い少年の声だった。声質だけとってみれば、明らかにレイよりも年下の男の子の声だ。しかし振り向くと、足もとに立っていたのは二本の足で歩く、灰色のネズミだった。レイは周囲を素早く見渡し、父親が不在であることを思い出してから、釈然としない気持ちでディッキーを見下ろした。

「どうしたの? ライと遊ぶの、飽きた?」

「違いまする。お母ちゃんが、これを望んでいたようなので。持ってきた次第でございます」

 赤子のような手を広げ、ディッキーがレイの前に差し出したのは、いままさに周章狼狽になって探していた、あの青いヘアピンだった。

 レイは瞠目すると、受け取ることよりも先にその場でしゃがみこみ、ディッキーと顔を突き合わせた。

「なんで、あんたがこれ持ってるの? ライになんか言われたの?」

「いえ、違います」

 そうひとまず否定してから、ディッキーは誇らしそうに、髭をひくひくと動かした。

「私にはお母ちゃんの考えていることが、なんでも分かるのでございます」

 その意味深な返答に、レイはさらに戸惑う。両腕で膝を抱き、腰を浮かせた体育座りのような姿勢で、怪訝を表情に出した。

「どういうこと?」

 その質問にディッキーはしばらく答えなかった。小首を傾げたまま、目をぱちぱちとさせている。一体何を考えているのか。その絶妙な間に、レイはひたすら唾を飲み込む。

「私にも、よくは分かりません。ただ……」

「ただ?」

「これを持ってくれば、お母ちゃんが喜んでくれると。そう、思いまして……。迷惑でしたか?」

 大人びた口を利きながら、子どものように純朴な視線をレイに向けてくる。その瞳の濁りのなさに驚きつつも、レイは気付くと何かに導かれるようにして口を開いていた。

「ううん。そんなことないよ。ありがとう、ディッキー」

 ディッキーの手から、ヘアピンを受け取る。するとディッキーは満面の笑みを浮かべて、目をきらきらと輝かせた。褒められて、感激しているのだろうか。その目の縁はわずかに潤んでいた。

 そんなディッキーの様子を前にして、レイは今度こそ自然に微笑んだ。そうしていると自分の中で、何かが氷解していくような気がした。レイの心を取り巻いていたしがらみが、なくなっていく。からん、という氷の転がる音が耳の奥に反響する。

「2人して、なにやってんだよ。私だけ部屋に置き去りにして。それでなに、タイムマシーンはトイレから風呂場に移動したのか?」

 そこに、頬を膨らませたライが顔を覗かせた。その手には、黒革のベルトと縞模様のトランクスが握られている。見る限り、2つとも黒城の私物のようだった。

 レイは腰を上げると、ヘアピンをスカートのポケットに滑り込ませた。今度はなくさないように、意識の中に叩き込む。

「まぁね。ライこそ、それなに。手に持ってるやつ」

 手にある2つの品を指差すと、ライはそれらをレイのほうに突き出すようにしてきた。まるで大物を釣り上げた釣り人のようだとレイは何となく、思う。

「あぁ、これか。ディッキーさ、いつまでも裸じゃ可哀想だろ? だからこれを履かせてやろうと思って。最初私のでもいいかなと思ったんだけど、こいつ男っぽいから、わざわざ父さんの借りたんだよ。どうだ、かっこいいだろ?」

「えー。私はパンツ一丁のほうが、可哀想だと思うけど」

「なんで可哀想なんだよ。同じ遊園地の熊野郎だって、赤パン一丁だろうが!」

「違うよ。黄色い熊でしょ? 彼は下半身何も履いてないよ。赤チョッキ1枚だよ」

 説明しながら、この熊は夢の国に似つかわしくないほどの変質者だな、とレイは思う。もし彼が熊ではなくて人間なら、世界に発信されることはなかっただろう。

しばらく考えるようにしてから、ライは己の勘違いに気付いたのか、顔を耳まで赤く染めた。その様子にレイは思わず苦笑いを浮かべてしまい、それがさらに彼女の感情を逆撫でした。

「屁理屈言うな! とにかく、私は裸のほうが嫌だからな。ほら、ディッキー、来い! 私がフォームアップしてやるから」

 高らかに言い放ち、両手を広げるライ。しかしディッキーは不安そうな面持ちで、レイを見上げている。その怯えようは、絞首台にかけられる寸前の死刑囚さながらだ。レイはゆるゆるとかぶりを降って返しながら、はじめてディッキーに同情を覚えた。




 今日だけはディッキーを家に置いてもいい、という旨を伝えると、ライは手放しに喜んだ。スーパーマーケットの魚コーナーの前で、歓喜の声をあげながらレイに飛びついてくる。レイは圧し掛かってくるライの体重を受け止めきれず、後ろによろめいた。背後の陳列棚に半身を寄りかからせ、片足1本で何とか体を支える。

「さすがレイ! 最後はやっぱり分かってくれるよなぁ。これでうちにも、家族がまた1人。あぁ、これで念願の……」

「はいはい。なんでもいいから。とりあえず、離れてよ。恥ずかしいから」

 周囲の注目を浴びていることは、明らかだ。ライもようやくそれらの視線に気が付いたのか、決まり悪そうにレイから離れた。

「というか、気が早過ぎ。私は今日だけは、って言ったの。ディッキーは家族になるわけじゃないから。今日だけ、お泊まりするだけだよ」

「そんなこと言いながら、どうせ家族の一員にするんだろ? レイの考えてることなんか分かってるって。お前、あまのじゃくだからなぁ。口ではそう言いながらも、もう腹の中ではディッキーの仲間入り確定なんだろ?」

「ならその期待を、私は全力で裏切るよ。予想に反した行動を起こすことに関しては、各分野から定評があるからね」

「嘘つけ。お前ぐらいに分かりやすいやつがいるかよ。まったく単純なんだから」

「それは、ライだけには言われたくなかったよ」

 何でもない会話を交わしながら、2人はお菓子コーナーの前を通りすぎていく。並んで歩いていると、ライの左右に束ねた髪が揺れているのがよく分かる。レイはそれを横目で見つめながら、エビのようだと、いつも思う。その髪型はいつみても、鼻先から垂れ下がるエビの髭にとてもよく似ている。

しかしそんなライの外観に、気を取られてばかりはいられない。執拗にチョコ菓子を買い物カゴに投げ入れようとするライの魔手を、その列を通過するまでの間、レイは何度もブロックし続けなければならなかった。

これで何度目になるだろう。チョコ菓子を床にたたき落とすと、ライは地団太を踏んで抗議した。

「邪魔するなよ! チョコくらい、買ってもいいじゃんか」

「駄目だよ。うちはただでさえ貧乏なんだから、お金は計画的に使わないと。黒字なんていう言葉は、うちの財政に存在しないからね」

 ライはレイの腕の隙間を縫うようにして、下手投げでチョコ菓子をカゴに投げ入れようとする。しかしレイはわきを締めて、チョコ菓子を空中で挟みこむと、陳列棚に放り投げた。ライの舌打ちが、耳のすぐ側を掠める。

「ディッキーの家族入団記念パーティーに使うんだよ! トマトジュースのつまみと言ったら、チョコに決まってるだろうが!」

「昨日はチーズって言ってたじゃん。そんなに欲しければ、自分の小遣いで買えばいいよ。それなら私も文句ないし」

 そう言い放つと、ライは急に押し黙った。ライの小遣いがこの時期までもたないことは、予測済みだ。確信的に吐いた言葉だったが、ここまで効果てきめんだったとは思わなかった。

 ようやくライが諦めたのは、お菓子コーナーからつまみコーナーに差し掛かるときになってからだった。彼女は肩を落とし、みるからに悄然としていた。

「分かったよ。チョコは、諦める。代わりにチーズを買ってくれよ」

「嫌だよ。買ってもライが全部食べちゃうんだもん」

「いつ私がそんなことしたんだよ、ケチンボ」

「つい昨日だよ、バカ」

 どさくさに紛れて、ライが菓子を買い物カゴに放り込もうとする。レイはその手首を掴んで止め、首を大きく左右に振る。ライは口を尖らせて、そのお菓子をスルメイカの積まれた棚に放り込んだ。




 自分が何者なのか、という問いは、レイはの中でずっと渦巻いているテーマだった。それはけして哲学的な意味ではなく、つまり誰から自分は生まれてきたのかという、遺伝子的な解答を求めていた。

 考えないようにしようと決意はしてみたものの、半ば衝動的に、日常の些細なことをきっかけにして、この思いは溢れてくる。

 たとえば、両親と楽しげに遊ぶ子どもを見たとき。たとえば、不倫を扱っているテレビドラマを観たとき。たとえば、友達が母親と買い物に出かけたことをさぞ、当り前のように口にしているとき。

 羨む気持ちや、己を卑しむ心はないが、それでも胸のあたりにぽっかり穴が生じて、そこを隙間風がくぐり抜けているような気分に陥ることがある。

 そんな時、レイはいつもライに同じ質問をする。最近だと遊園地の観覧車の中で、地上に点在する親子たちを見下ろしながら、不意に問いかけた。

「ライは、本当のお母さんとか、お父さんに会いたくないの?」

 するとライは嫌な顔1つ見せることなく、ひどくあっけらかんとした口ぶりでいつも答える。

「じゃあ、いまのお父さんは偽物なのかよ」

 そう返答されると、レイとしては黙りこくるしかない。しかし幾度となく繰り返されてきたこのやりとりに何度も救われてきたことは、確かだった。




 買い物を終えた2人は、自宅へと帰る近道のために、近所の公園を横切っていた。大きな丘のある公園で、小学校の校庭ぐらいの面積はあった。バーベキューの機材などが備えつけられているため、休日などは家族連れで賑わいをみせる。いまは小学生ぐらいの少年たちが、2チームに分かれ、猛々しい大声をあげてサッカーに励んでいた。

 2人の片手にはそれぞれ、品物の入ったビニール袋が握られている。ライは歩きながら、先ほど買ったばかりのベビーチーズの封を破り、頬張っていた。

「それ、パーティー用じゃなかったの?」

「私の中では、もうパーティーは始まってるからな。前菜みたいなもんだよ」

「ライは年中無休で、頭の中がパーティー状態じゃない」

「そういえば、ディッキーはちゃんと留守番してるかな」

 あんなネズミを持って外には出られない、という理由でディッキーは家に置いてきた。水と御飯だけを用意して、けして外出しないようにと念を押したが、その約束が守られるかどうかは正直、怪しいところだった。レイはまだ、ディッキーを完全に信用したわけではない。

 しかし、ライと2人残していくよりはずっといい。それに逃げたら逃げたで、ライを説得する口実にもなる。そうなれば、あとはマスカレイダーズに連絡をして捕獲してもらえばいい。トラブルは確実に、そして早急に、できるならば安全に解消するべきだ。

「さぁ。コンセントを噛み切られてなければいいけどね。もしテレビが映らなくなったら、ライが責任とってね」

「なんで私なんだよ、お前の息子だろ? 親が子どもの責任とるべきだろ!」

「いまは私の子どもじゃなくて、ライのペットでしょ? ペットの責任は飼い主がとるに決まってるじゃん」

「……分かったよ。でも、ディッキーは天才だからそんなことしないぞ。そこらへんで、フン落としてるような、犬畜生と一緒にするな!」

「はいはい。ディッキーはパンツ履いてるし、トイレは安心だよね」

 サッカーの邪魔にならないように、公園の隅のほうを歩いていく。中央を通過するよりも、木々が折り重なるようになっていて、日陰が作られており、はるかに涼しいのだ。空にはぎらぎらと輝く太陽が佇み、強烈な熱と光を発散し続けている。アスファルトは揺らぎ、空気はぼんやりと霞んで、歩いているだけでも汗が流れ出てくる。レイは袋からペットボトルのスポーツドリンクを取り出し、それで乾いた喉を湿らせた。

 これなら明後日の旅行も大丈夫かもしれない。白い雲が闊歩する晴天を見上げ、レイは胸を躍らせる。この空が、潮風の吹く浜辺に繋がっていることを思うと、自然に顔がほころんでくる。このまま、天気が安定してくれれば御の字なのだが。

見つめる先で、鳥の群れが横切った。彼らも、海に向かっていくのだろうか。

「旅行、楽しみだね」

 胸の奥から押し寄せてくる昂りを抑えきれずに呟くと、ライはチーズを呑みこみながら頷いた。

「あぁ、しばらく東京から出てなかったしなぁ。それに、別荘だなんてすごいよ、感動だよ。そういやレイは水着どうすんの? なんか海が凄いらしいぞ」

「うん、茨木だからね。私は去年、悠と買いに行った奴があるから、それでいいよ」

「うちの学校、水泳ないから面倒臭いよなぁ……。新しいの欲しかったけど、去年のでいいかなぁ」

「誰もライになんか興味ないから、どうでもいいと思うよ」

「なんだと!」

 声を張り上げるライを無視して、レイは公園の一角にある木立ちに目を向けた。いかにも毛虫の落ちてきそうな、その木々の密集地に、レイは見ているだけで背筋に冷たいものが走るような気分だった。あんなところ、近づきたくもない。早く通り過ぎてしまおう。

 レイは心持ち早足になり、公園の出口へと急ぐ。

「おい、レイ。あれ、なんだ?」

 その時、背後のライが突如声を上げた。振り返ると、30メートルぐらい後ろに、ライの姿が見えた。このまま置いていってもいいかな、という考えがふと頭に過るが、すぐに引き返すことにする。ライの顔が、わずかだが強張っているように思えたからだ。

「どうしたの、ライ」

 ライは木立ちのほうを指さしている。暗澹としていて、不潔そうな。中にトイレを内包した木々の群だ。嫌な妄想を振り切りながら、レイが恐る恐るそちらに目を向けると、ライは眉をひそめながら、不思議そうな声を出した。

「あの黒いの、何だろう」

 目を細め、レイは小立を凝視する。するとライの言うとおり、トイレの脇にある1本の木の根元に、何か黒い塊があるのを発見した。ここからだと、ゴミ袋のようにも見える。しかしそれにしては大きい。まるで山の頂上付近に転がる、岩のようだ。

「ゴミ袋にしちゃでかいし、それに、真っ黒いのなんてあんま見ないだろ? すごい気になるよな」

「うん、そうだね」

「すごい気になるよな?」

「うん、そうだね。すごく気になるね」

 じゃあ、早くうちに帰ろうよ。そう続けようとした。だが、その言葉はライの無情な声にあえなくかき消された。

「じゃあ、ちょっと見に行こう! このままじゃ、寝つきも悪くなりそうだし。そんなに時間かかんないだから、いいだろ?」

「え……」

 ライの提案に、レイは一瞬戸惑った。しかし狼狽を表皮の裏にぎりぎり閉じ込めて、それからその鍵を閉めるようなつもりで大きく頷いた。

「う、うんいいよ。じゃあ、確かめに行こうよ」

「よし、そうこなくちゃ」

毛虫がいるかもしれないからいけない、とは妹の前で言いづらい。勇気を振り絞り、率先して小立へとつまさきを向ける。

 頭上を気にしながら小立に入り、その黒いものに近づく。靴下とスカートの隙間から覗く肌に、冷たいものが掠めた。トイレの裏という条件のためか、湿気が高く、そして他の日陰よりも温度が低い。踏みしめるだけで崩れてしまうほど、水気を吸い込んだ土は非常に柔らかかった。しきりに頭上を気にするレイを見て、首を傾げるライの視線を、咳払いで弾き飛ばす。しかしそうして体裁を取り繕っても、いまにも、首筋に毛虫が落ちてきそうで、心穏やかにいられそうにはなかった。

遠くからはゴミにしか見えなかったが、接近してみて、そこでようやくそれが人間であることに気が付いた。足首まですっぽり覆うような、厚手の黒いロングコートで身を包んだ人間だ。頭をコートの中にうずめ、両ひざを抱えた姿勢で木にもたれかかっている。黒い髪は襟に達するほど長い。しかしもみあげの刈り込んだ痕から、男性であることがかろうじて分かる。髪の隙間から見える肌は、日の光に触れなかった葉のように白い。

彼の体には、蠅がいくつもたかっていた。実際に側に寄ると、ひどく臭うのだ。その要因が汗なのか埃なのかは分からないが、近寄りがたいことに違いはない。

「ホームレスか?」

 ライが疑問を投げかけてくるが、レイに分かるはずもない。それにレイにしてみれば、このみすぼらしい男のことよりも、木の上で虎視眈々としているであろう悪魔のような虫の方に関心があった。一刻も早く、この場から立ち去りたいという思いが胸にひしめいている。

「ほら、分かったでしょ。早くうちに帰ろう。ディッキーが待ってるんじゃないの?」

「あ、ううん。でも、なんかこいつ気になるじゃん」

 ライはどこから拾ってきたのか、いつのまにか持っていた木の枝で男の体をつついている。まるでレイの言うことが耳に入っていない様子で、完全に心をこの黒づくめの男に乗っ取られているようだ。

ライに突かれても男は微動だにしない。それを見ているうちに、実は死んでいるのではないかという考えがふとレイの頭に過り、伴って冷たいものが背筋に昇ってきた。この男は死体なのではないか。それが事実ならば、この蠅の量や異常に白い肌にも得心がいく。一度それを思うと、男の黒コートが不気味なものに思えてしょうがなかった。死神の衣装だ、という感想を抱く。

「ライ、止めなよ。早く帰ろうってば」

 二重に襲いかかってくる恐怖に体を突き動かされ、レイはライと男の間に割って入った。枝を持つライの手首を袋を持った手で、横から乱暴に掴むと、はずみで肘が男の腕に当たってしまった。

 すみません。反射的に謝ろうとしてレイは振り返り、そして目を見開いた。ライがひっ、と悲鳴を押し殺す。レイは首をよじった格好のまま、固まってしまった。指先1つ動かすことができない。頭からゆっくりと血の気が失せていく。反面、心臓は脈を速めていく。

 胸が衝撃に押されて息ができない。声も出せない。レイは口をぱくぱくとさせながら、目の前の光景を凝視した。

 少しも動く様子を見せなかった男が、死体とさえ思った男のその腕が、いま、レイの手首を強く掴んでいた。本当に血が通っていないのではと錯覚するほどに、その手の感触は冷たい。掴まれている箇所に温度が乗り移り、そのまま手首が凍てついてしまうような気さえする。

 慌てて振り払おうとするが、その握力は異様なほど強かった。少なくとも、中学生の女の子の力で解けるものではなかった。しかも男は爪を立ててくるため、肌に突き刺さるような痛みも加わっている。

 男はゆっくりと顔をあげた。その顔立ちは意外にも端正だった。年は30代前半といったところか。色白だが目もとには屈強なものが宿っており、思わず惹き込まれてしまいそうになる。しかし左目は前髪ですっかり隠れているためか、男の姿は洋画に出てくる幽霊さながらだった。その要素が、レイの理性をぎりぎりのところで引きとめている。

「お前は、レイか」

 掠れてはいるが低く、凛々しささえも含んだ声で男は確かにそう言った。初対面であるはずの、レイの名前を呼ぶ。

「久しいな。7年、ぶりか……」

 弱弱しく、途切れ途切れに男は言葉を紡ぐ。レイは絶句し、茫然自失とする他ない。

「お、おい。レイ、このおっさんと知りあいか?」

 ライの問いかけに、レイは力いっぱいかぶりを振った。髪が乱れ、顔にかかる。口に入った自分の髪を舌で追いだしながら、レイは裏返った声で否定する。

「し、知らないよ、こんな人。会ったこともないし」

 すると男は小さく声をあげて、笑った。鼻息を吐き出すような、短く太い笑い方だった。

「随分な言いようだな。あれだけ、ふっかけてやったのに……。まぁ、いい。佐伯は、どこだ」

「さ、さえき?」

 人の名前のようだが、レイに聞き覚えはない。ただただ襲いかかってくる恐怖に鼻白んでいると、ライの威勢のいい声を聴覚が捉えてくれた。少し遠くのほうから聞こえてくる。レイは声が聞こえてくる方角をたどり、首を前に戻した。

「おっさん、レイから離れろ!」

ライがいつのまにか、斜め前方にいた。およそ30メートルは遠くにいる。叫びながら、こちらに向けて駆けてくる。そしてレイのすぐ隣までくると力強く踏み切り、男の腕へと跳び蹴りをくらわせた。

衝撃に、男の手がレイから離れた。

男は左肩を幹に打ち付けると、咄嗟に受け身をとりかけて失敗したのか、体をねじるようにして顔から地面に落ちた。

支えを失った拍子に、レイも彼と一緒に引き倒される。後頭部を湿った地面に打ち付け、跳ねた泥が目に入ってしまう。ちくりとした痛みが走り、涙が瞼の裏にたまってきた。

「いや、お前は、違うな」

 うつ伏せに倒れたままの体勢で、男は囁くように言った。男の頭のすぐ側で、仰向けに寝そべっている、レイにしか聞き取れないほどの小声だった。

 レイが無言のままでいると、構わず男は先を続けた。その言葉は、レイの心の底を激しく揺さぶらせるものだった。

「お前は、レイではないな」

 自分自身の否定だ。何を言われたのか咄嗟には分からず、レイはさらに呆然とする。さらに男は土に爪を立て、半ば呻くようにして言った。

「お前は、違うな。レイじゃない。お前は……」

「レイ! ほら早く立てよ、逃げるぞ!」

ライはしゃにむにレイの手を取って引っ張り上げると、そのまま公園の出口へと一目散に駆けだした。レイは前につんのめるような姿勢で、ライに無理やり連れ去られていく。男の姿が、徐々に小さくなり、そのうちまたゴミ袋にしか見えなくなっていく。

 レイではない。

男は苦渋に満ちた声音で、そう発言した。そしてさらに男は続けてこうも言った。ライの声でほとんどかき消され、聞きとりづらかったが、レイの耳にはしっかり届いた。おそらく、聞き間違いではない。こんなに心に痛みを伴って響いているのだから。

 お前はあの悪魔の、娘か。

 男は憤激と執念を滲ませた声で、確かにそう言った。

 レイは震えた。夏の太陽が燦然と頭上に輝いているのに、それでも寒くてしかたがなかった。

「おい、レイ。お前……大丈夫か?」

 その声にレイは、ようやく我に返った。周りを見渡すと、横断歩道の前にいた。公園を背にして、立っている。左右に人影は見当たらない。目の前には4車線の道路があり、自動車が黙々と、レイの前を矢継ぎ早に走り抜けていく。どうやら無意識のうちに、ライにここまで引っ張られて来てしまったらしい。

「うん。なんとか、大丈夫」

「泥、ついてるぞ」

 ライがそっと腕を伸ばし、レイの頬に付いた泥を払い落してくれる。礼を口にしながら、レイは目を何度も瞬かせる。まだ目がちくちくと痛む。砂礫がまだ、瞳のプールを泳いでいるのかもしれない。

「あいつ、なんだったんだろうな。本当にレイは知らないのか?」

「知らないよ。全然知らない。見たことも、聞いたこともない」

 レイはまた激しく首を振る。これまで生きてきたなかで、とはいってもここ4年の記憶に限るが、男の顔に見覚えはなかった。だとすれば、抜け落ちている4年前以前に、会ったことのある人なのだろうか。

 急激に疲労が、体に殺到してきた。レイは顔を伏せ、額に手をあてがった。脳が激しく揺さぶられているような、あるいはジェットコースターに乗っているかのような気分だ。いつもの怪人を探知したときの症状とは、微妙に違っている。

「ねぇ、ライ」

「なんだよ?」

「私って、黒城レイ、だよね」

 突然の質問に、ライは面食らったに違いない。少し間が空き、それから怒りだした。

「当り前じゃないか。私たちのお父さんは、いまのお父さんだけだって、今朝もその話題を出したばっかじゃないかよ。もう忘れたのか?」

「でも、あの人。私はレイじゃないって、そう言ってた」

 レイではない。男はそう強く断言していた。あの時の、困惑を上から無理やり抑え込んだような声をレイは忘れることができない。

「レイじゃないなら、私は一体、誰なんだろう」

 今まで、抱くことすら許されないと思っていた、疑問。自分自身の存在をも揺るがしかねない禁忌だと、ずっと思いこみ、心の中に封じてきた。だがいま、その疑惑が形を成して、レイの前に初めて立ちふさがる。

 一体、自分は誰なのか。なぜ、4年前までの記憶がないのか。産んでくれた両親は一体誰なのか。

 疑問の奔流に飲みこまれそうになり、顔を俯かせるレイのもとに、毅然とした声が聞こえてきた。それは隣に立つ、ライの口から放たれたものだった。

「何言ってんだよ。お前は、レイだろ」

 それもまた、断言だった。レイは顔をあげ、ライを見た。ライはかすかに微笑みを湛えていた。その表情に、波立った心が平穏を取り戻していくようだった。

「黒城レイだろ。ケチで無愛想な私の姉貴じゃないかよ。それを忘れられちゃ、私の立場がないじゃないか」

 心の中で腕組みする暗雲を手でちぎって放るような、そんな言葉だった。黒々とした雲の向こうには光が待っている。それが、待っていたとばかりに、さんさんと陽光を降り注ぎ始める。レイは無言で顎を引いた。

「あんな奴のことなんか、信じるなよ。お前らしくもない。お前は人の言うことには何でも突っかかるようなキャラじゃないかよ!」

 ライの言い様に、レイは口端を上げるようにして、笑った。曇り空は、もはや胸の内から完全に消え去っていた。

「そうだね。そうだった……なんか、ちょっとおかしかったのかもしれない。ごめん」

 素直に謝ると、ライは胸を張るようにした。背中を思いの外強く、何度も叩いてきたので、レイは顔を歪めた。

「そうそう。そういうことだよ。まったく、世話の焼ける奴だよ」

「それは……ライにだけは言われたくなかったよ」

 男に掴まれた手首には、青痣が生じていた。5本の指の形に白い爪跡もくっきり残っている。痣からは脈打つような鈍痛が走り、レイは思わず顔をしかめた。それを目にするとライは唇を曲げて、嚇怒を顕にした。

「あいつ信じられないよな、こんなけがさせるなんて。変態オヤジだよ、きっと。気にすんな、レイ。あんな奴、近いうちに警察が捕まえてくれるからさ」

「あ、うん……」

「ほら、今日はパーティーだろ? そんなしけた顔してないで、うち帰ったら盛り上がろうよ。な?」

 力のない返事をするレイの肩を、ライが強めに叩く。どうやら彼女なりに、レイを励まそうとしてくれているらしい。その気遣いを正直に受け取り、レイは瞳に魂を灯す。

「うん。そうだね。ディッキーのパーティー。1日だけでも、してあげなくちゃね」

「そうだよ。そうそう。まぁ、多分明日になったら、今日のパーティーの名目が“ディッキー家族入り記念”に変わってると思うけどな」

「だから、それはないよ。私は気が変わらないことで定評があるからね」

 轟音を上げて、右手側から大型トラックが猛進してくるのが見えた。貨物をがちゃがちゃと震わせ、タイヤを軋ませて、手前のワゴン車の尻を追いかけるように公然と近づいてくる。

 歩道の左手側からは、スーツを着た1人の男性が歩いてきた。目深に野球帽を被っているため、顔は見えない。変なファッションだな、とレイは思った。しかし、ここは東京だし、とすぐに自分の中で納得してしまう。東京ならば何でも許されるような風潮が、この国にはある。

ライは少し前に出て、避ける。レイもそれに準じた。道幅が狭いため、横断歩道の前で待つと通行の邪魔になってしまうのが厄介だった。信号はまだ青にならない。レイはつまさきでアスファルトを小突き始める。こつこつこつと、足で秒針を刻んでいく。

「悪いな、俺の親父に、頼まれたんだ」

 耳元で、男の囁きが通過した。レイは首をそちらに巡らせようとする。

だがその時、突然、レイの体が前に傾いた。

たたらを踏むが、体の制動を効かせるには足りず、前方にふらつくようにして、そのままレイは道路へと投げ出された。

 咄嗟に右側に目線だけを動かすと、大型トラックの重厚なボディが鼻先に迫っていた。

 避ける時間も、手で体を守る動作をとる余裕さえもなかった。レイの全身ほどもあるタイヤと、銀光りする車体がレイを押しつぶそうと、牙を剥いてくる。みしり、というアスファルトの軋轢音がすぐ耳もとで聞こえた。

 時速50キロ前後で駆け抜けてくる、トラックの前に放り出されたことに気付いたのは、その直後だった。

 すべてがスローモーションに見える。死ぬ間際に見える光景とはこのことか、とレイは最後に、思った。

 しかし次の瞬間、腹を強く押しこまれるような衝撃とともに背後へと突き飛ばされ、気づくとレイは歩道に横たわっていた。

つい数秒前まで立っていた、公園の前だ。目の前を滑らかに自動車が通過していく。手元にはビニール袋が投げ出され、転がっていた。中の品物が道路にばらまかれている。

 はじめは何がなんだか、分からなかった。しかし一度、時計の針が時間を刻み始めると、途端に先ほど自身の身に起こったことが、ひと塊りになって降りかかってきた。

レイは、走行中のトラックの前に飛び出したのだ。

それは断じて疲労のせいではない。ましてや、自殺をしようと思ったわけでもない。無意識のうちに、というわけでもなさそうだ。1つずつ頭の中で可能性を潰していくうち、思い出した。歩道に立っていたとき、後ろから肩のあたりを強く突かれたのだ。

 誰かに、押された。その結論に至る頃には、レイは上半身を起こしていた。おそらくあのとき、左手側から歩いてきた野球帽の男が犯人だ。

レイはあの男に背中を叩かれ、トラックの前に押し込まれたのだ。男はいま、背中を見せて、逃げるように走り去っていく。

何のために。

そんなの、決まっている。善意を持って、レイを轢き殺そうとするものか。

 レイを、殺害するためだ。最初から男はそれを目的としてレイに近づいてきたのだ。

 膝を折り、足の裏をしっかり地面に付けて立ちあがろうとするが、それは叶わなかった。

 膝が笑っている。それだけではない、心臓は早鐘をうち、耳鳴りも生じている。口の中は舌が口内に貼り付いてしまうほど、からからに乾いていた。自然に、歯がかちかち鳴り始めていた。震えが止まらない。寒気が全身をくまなく包みこんでいく。目の前が霞み、周囲がぼやけ始めた。

薄ぼんやりとした視界の中に、取り乱した様子のライが駆け寄ってきた。安心のためなのか、それとも義憤のせいなのか、彼女は目の周りをひどく紅潮させていた。

「レイ、大丈夫か! あいつ……!」

 逃走していく野球帽の男の後ろ姿が見える。男は腕を振り、跳ぶように足を大股で動かしながら、一心不乱に疾走している。1秒でも早く、レイのもとから離れたいという願望がその全身から滲み出ていた。

 ライは奥歯を音がでるほど強く噛むと、アスファルトを蹴って、その男の背中を追いかけようとする。しかしレイはその足を絡め取ろうと、胸から絞り出すようにして、少し音程のおかしくなった声をあげた。

「ライ。いいよ、追いかけなくて」

「そんなわけいくか! あいつはお前を殺そうとしたんだぞ。私は見たんだ。放っておけるか!」

「ライ!」

 いきり立つライを鎮めるために、レイは腹の底から大声を出した。そうしなければ、声が荒い息に紛れてしまって、ライの耳に言葉が届かないような気がした。

 レイの声に、ライは前につんのめるようにして止まった。そして、振り返る。そうしているうちに、男の姿は曲がり角の向こうへと消えていってしまった。

 ライは舌打ちをすると、地団太を踏んだ。

「なんで、止めるんだよ。あいつは、いま!」

「ありがとう、でも」

 自身の指先が細かく揺れていることを認めてから、レイは微笑んだ。それがひどく引きつった笑みになってしまったということは、自分でも分かった。

「ちょっといまは、側にいて欲しい、かも」

 レイがあまりにも、凍えるような声を発したからであろうか。ライは苦虫を噛み潰したような顔をして、完全に足を止めた。それから男の去って行った方向に顔を向け、唾を吐いた。

「分かったよ。いまはレイのほうが心配だもんな。おい、立てるか?」

「うん、なんとか」

 ライに背中を支えてもらいながら、レイは少しずつ身を起こすようにした。すぐ側に、妹の顔がある。それだけで粘りつくような死の恐怖が体から、少しずつ剥がれ落ちていくような気がした。

 両肩が痛い。どうやら強くアスファルトに打ちつけてしまったようだ。とくに右肩は上げることすらままならないほど、痛んだ。顔をしかめると、ライはまた心配を表情に載せた。

「おい、大丈夫か? 痛かったらこのまま寝ててもいいんだぞ。病院に電話するし」

「ちょっと痛いけど、なんとか、なりそう。かも。いいよ、自力で、大丈夫」

 嘘ではなかった。しかしそれでも精神的なショックも重なって、全身が鉛のように重かった。

 感覚が全身に舞い戻ってくるのと同時に、レイは腹部に違和感を覚えた。なにやら重い。内臓ではない。外からの圧力だ。何かにのしかかられているような気がする。

 レイは黒目だけを動かして、仰向け姿勢のまま、自分の腹のあたりをみた。

 そこには、ディッキーがいた。トランクス姿だ。そのままだと、ぶかぶかでずり落ちてしまうため、ベルトで無理やり固定されている。

ディッキーはレイの腹の上で、小さな手を胸の前で落ち着きなく、しきりに擦り合わせていた。レイの目がその姿を捉えると、全身の毛を逆立たせて飛び降り、「すみません。お母ちゃん。お許しくださいませ」と丁重に詫びた。

「なんで、あなたがいるの」

 上半身を完全に起こしてからレイが思わず呟くと、横から顔を出したライがむっとして答えた。

「そういうなよ! お前を助けてくれたのは、ディッキーだよ。こいつがいなけりゃ、お前、今頃死んでたんだぞ」

 言われてレイは、ハッとした。トラックの前に飛び出したレイを、歩道に押し戻してくれた力。腹部にかかった衝撃。小柄な影。明瞭な輪郭を持って、死の瀬戸際をレイは想起する。

それからレイは恐る恐る指を伸ばして、ディッキーの頭を撫でた。その毛並みは細やかで、陽だまりのような温もりを持っていた。

「あなただったんだね、私を、助けてくれたのは」

「お母ちゃんが無事で、私も、嬉しいです」

 レイが感謝を告げると、ディッキーはわずかに体を震わせながら言った。やはり恐ろしかったのだろう。その目の縁は赤く腫れていた。それを見て、レイは思わず呟いていた。その声はディッキーの体と一緒で、ひどく揺れていた。

「怖かっただろうに。なんで、私のために、ここまで」

「私は、お母ちゃんのためなら自らの死をも辞さない覚悟でございますから、大丈夫です。覚悟はいつだってできています。お母ちゃんのために死ねるなら、本望ですから」

 レイのことを見据えながら、ディッキーは上擦った声で言う。内容とは裏腹に、その声色には臆病さが顔を出していた。死ぬのが恐ろしくてしょうがないと、その声は叫んでいる。

レイはディッキーの頭をさらに強く、その毛並みがくしゃくしゃになるほど撫でた。そうしながら、ふとこみあげてきた疑問を口に出した。

「なんで、私たちのいる場所が、分かったの?」

 問いかけると、ディッキーは瞳をきらきらとさせて、にっこりと微笑んだ。

その表情は、レイの胸に満ちていたわだかまりを決壊させた。心から幸せを感じている表情、とでもいうのだろうか。その視線を向けられているこちらまでも、釣られて幸福を抱いてしまいそうになる、そんな表情。

「言ったではありませんか。お母ちゃんのことなら、なんでも分かると。私はどこにいたって、お母ちゃんを守ります。だって私のお母ちゃんは、この世に1人しかいないのですから」

 レイは奥歯を噛んで涙をこらえた。それからやはり泣きそうな顔をしているライをちらりと窺って、もう1度ディッキーに視線を向け直した。ディッキーの体の震えはまだ収まっていない。だからレイもまだ泣くわけにはいかない。レイは頭を下げ、そして心から言った。

「ありがとう」

 誰もしばらくは、何も言わなかった。少ししてからライが、照れくさそうに頬を掻きながら「そんなことより、早く医者行こうぜ。肩、痛そうじゃないか」と提案してきた。

 レイはそれに同意し、ライに体を支えられながら立ち上がる。ディッキーに目をやると、その小さなネズミは鼻をくんくんさせたあと、片目を不器用に瞑り、小さなウィンクを返してきてくれた。

 ハツカネズミのウィンク。その仕草があまりにもぎこちなくて、気づけばレイは微笑みを浮かべていた。

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