13話:ハロー・マイ・マザー
2010年 7月29日
「あ、鳥だ」
レイの親友である天村悠は、病室のベッドに上半身を起こした姿勢で、ぼんやりとそう呟いた。穏やかで悠然とした、囁き声だ。彼女はいつも、風に揺れるろうそくの火のように、声が小さい。
純白の壁に囲まれた、個室部屋である。壁に沿うようにして小さなテレビや冷蔵庫、山吹色のクローゼットなどが備え付けられているが、それでも見舞客が4、5人座れるほどに広い。また、5階の角部屋という位置にあるため、とても静かだ。
医師や看護師たちのいる部屋から多少離れているのが欠点ではあるが、それも他の病室と比べれば、というだけの話で、同じ階層にある限り、多少の距離の違いはあえて取り上げるべき問題ではないように思われた。
緑色のカーテンが、風を受けて大きく膨らんでいる。その様子はまるで、草で埋め尽くされたサバンナの大平原が一陣の風に見舞われて、一斉にさざめくかのようだ。
カーテンの隙間から覗く空は、白い雲たちがのんびりと泳ぐ晴天である。強烈な日光はそのカーテンによってほとんど遮断されていたが、その妨害から逃れたわずかな光が、窓の真下の床に丸い陽だまりを作っている。まるで太陽の子どもが、産み落とされたみたいに。
レイはベッドの傍らに置かれた丸椅子に座っていた。背後では女性の看護師が、洗濯を終えて戻ってきた悠の衣類を畳んで、次々とタンスの中に収納していっている。そちらに気を配りながら、レイは少しベッドの方に身を乗り出した。
「どこどこ?」
「うん、あそこ。あ、いま飛んだよ」
悠は風で翻るカーテンの隙間から、空の様子を窺っている。レイは椅子から立ち上がり、ベッドを回り込んで窓際に近づくと、一息でカーテンを開いた。途端に、大量の陽光が、室内に降り注いでくる。レイも悠もその眩さに思わず、顔を逸らした。
窓の外には雲舞う空が漫漫と広がっていた。遠くのほうで、入道雲が立ち昇っている。まるで縁日の屋台に並ぶ綿あめのように。しかし、筋肉を見せつけるボディービルダーのように力強く、青空を背景にして浮かんでいる。
悠は空を通り過ぎる一羽の野鳥を、人差し指の先で追っていた。レイにも、すぐにそれは分かった。全身を黄色に染めた、やけに派手やかな外観をもつ鳥だ。スズメよりも一回り大きく、カラスよりは大分小さい。確かにあまり、街中を飛び回っているところを見かけない鳥である。
「本当だ。綺麗……。インコかな?」
「インコなんて、珍しいね。私、本物初めて見た」
両頬をあげ、穏やかに悠は笑う。血色の悪い、白白とした彼女の肌がその時だけ、少し明るい力を取り戻したかのようにレイの目には映った。
悠はレイと同じ、中学3年生の15歳だった。しかし桃色の寝間着を着て、下半身を掛け布団の中にうずめたその姿は、実年齢より小さく見える。その体は痩せていて、腕はちょっと握ったら折れてしまうのではないか、と気を使ってしまうぐらいに、細い。
髪の毛は黒く、両端で短く束ねていた。悠の髪は肩スレスレの長さであるにも関わらず、量が多いので、それらの束ねた箇所は頭の中に埋もれており、正面から見ると、まるで耳を垂らしたダックスフンドのようになっている。いや、悠は丸顔なのでどちらかというと、パグといったほうが比喩として正しいだろうか。彼女の顔には、皺は1つも刻まれていないけれど。あまり外の環境に触れていないためか、その肌は雪のようにきめが細かく、たおやかで、それでいて儚げに、美しかった。
レイはカーテンを閉めると、再び丸椅子に腰を下ろした。下ろしながら、会話を続けた。
「意外だね。悠の家なら、インコの1匹や2匹飼ってるもんだと思ってた」
「お母さんが生き物飼うの嫌いらしくて……。あ、でも、鷹の剥製ならあるよ。お父さんの部屋に飾ってあるんだ。昔、買ったんだって」
「へぇ。私はそっちのほうが見たことないかも。今度、見せてよ」
「じゃあ、今度うちにおいでよ。タヌキとか、くまの剥製もあるんだよ。夜になると、動きだしそうでちょっと怖いけど」
熊、と口に出すとき悠の声が沈んだ。まるで「熊」という言葉自体に敬意を払っているかのように。実は口に出すのも憚れるんだけど、という感じだ。
レイは少し頭を働かせ、なんだか悠をからかってやりたい気持ちになった。
「実際、動いてるのかもね」
「え?」
「私、悠のお父さんから聞いたことあるもん。床をぎしぎし言わせて、リビングに乗り込み、冷蔵庫からおつまみを取り出して、夜な夜な宴会を開いているんだって」
「え」
悠の喉がわずかに震えた。目を大きくして、レイを正面から見る。その眼差しがあまりに真剣なので、面白い。
「くまとか、タヌキって成人式終えてたの?」
「もうバリバリだよ。そのくまの名前はトラキチ。38歳独身で、肉が入っていたころは証券会社で働くサラリーマンだったそうだよ」
「そんなプロフィール。だ、誰に聞いたの?」
「悠のお父さんだよ。大きな家だから、そういう真夜中のパーティーが開かれることもあるって、そう言ってたよ。ちなみに幹事は虎のクマゴロウだって」
「え、えぇ!」
むろん、レイは悠の父親に会ったことすらない。勝手に名前を出してすみませんと、心の中で謝った。
そう、悠の父親は、もっと言えば悠の家庭は裕福だ。レイは一度家の外観だけ見たことがあるが、千葉県にある彼女の自宅は紛れもなく、豪邸と呼べる立派な建物だった。白塗りの二階家で、バドミントンのできそうな広い庭の前には、真鍮製の豪奢な門が構えられていたことを覚えている。
『黒城グループ』という有名な企業が、この日本にはある。印刷会社として起業当初しばらくは無名だったものの、4、5年前に急成長を遂げた企業で、今では自動車産業や、電化製品、文房具、出版関係、挙句の果てに最近では宇宙開発までも手を出し始めたと噂される、モンスター企業だ。
現在力をつけている企業について論じるとき、この『黒城グループ』を外して語ることはできないだろう。その儲かり方は半端ではなく、見る見るうちに本社ビルが大きくなる様は、その力の強大さを何よりも誇示しているように思えた。若者たちの間では黒城グループに入れば、一生安泰であるとの評価が波及し、さらに中小企業では、この企業の傘下に入れば乱れ来る不況の波を乗り越えることができるのではないか、という出所のはっきりしない噂さえ広がっていた。
誰も知らなかった1つの小さな企業が、いまや社会を引っ張る大企業に成長している。そんな未来を当時、誰が予想できただろうか。
そして悠の父親は、その誰もが認める大企業、『黒城グループ』の幹部を務めていた。それならばあの豪邸から醸し出されている、気品に満ちた雰囲気にも得心がいく。
「きっと今日の夜あたり、剥製の鷹が悠の枕もとに立つよ。よくも俺を皮だけにしてくれたなーって。ガブリといくよ。頭とかを」
「く、くまとかもくるかな?」
どうやら悠は熊が怖いらしい。いや、誰でも怯えるか。枕もとにタヌキが立っていたら少し声をあげるだけに留まるが、もし熊がいたら卒倒ものだ。レイは真剣に怖がっている悠の姿が面白くて、また自分の適当に繕った話に耳を傾けてくれるのが嬉しくて、「うん、いっぱいくるよ。53人くらい」と弾んだ声で応じた。
「ご、ごじゅうさんにん! 寝てる間に、くまに取り囲まれちゃう!」
部屋いっぱいに雄々しく、血の臭いを全身から発散させた大勢の熊が、室内にひしめきあっている光景を想像したのだろう。悠は1つ身震いをし、毛布を頭から被った。季節が変遷し、真夏になっても変わらず、このベッドには毛布が置かれている。胃腸の弱い悠に考慮したというのが医師からの説明だった。
「こらこら、悠ちゃんを怖がらせるのはそのへんにしときなよ」
そう口を挟んできたのは、衣類を整理していた女性看護師だった。右胸に付けられたネームプレートには橘、と記されている。この看護師の名前だろう。まだ若く、20代後半に差し掛かったばかりのように見える。彼女はまるで蕎麦の出前配達人のように、積み重ねたタオルを片手に乗せていた。そしてもう片方の手で、レイの頭を小突いてくる。
橘看護師のヘアースタイルはショートカットで、その髪の色は茶に染まっていた。癖っ毛なのか、白い帽子の端から覗く髪の毛は左右に跳ねている。唇に引かれたルージュがとてもよく似合っていた。眉毛は細く吊り上っており、そのせいか冷たい印象を表情全体に漂わせている。タオルを持ち上げている左手の、その甲には正方形の大きな絆創膏が貼ってあった。
ずいぶん器用な怪我をする人だな――レイは横目で看護師の手元を観察しながら、不思議に思う。彼女はそんなレイの怪訝に満ちた視線に気づくはずもなく、タオルを戸棚の上に積み重ね終えると、腰に手をやり、体を反らすようにして伸びをした。それから、小さく笑ってレイを見た。
そうすると、一見したときの感想に反して、彼女の顔が太陽を振り仰ぐひまわりのように、光に満ちていることが分かった。顔立ちは冷たそうに見えるけれど、その心中には温かい心を秘めていることに思い至り、レイは何だか大発見をしたような気分に陥る。
「悠ちゃんってば、こういうの苦手なんだから。最近多いだろ? この前、テレビでやってた心霊特集を観ちゃったときなんて大変で。夜中にトイレ行きたいって、ナースコールを連打しちゃって」
「はぁ、そんなことが」
その番組なら観ていたかもしれない。レイはとくに感慨もなく、メロドラマを鑑賞したのとほとんど同じような気持ちで、その恐怖映像集を見終えたのだけれど。最近のCG技術は凄いなぁ、日本も頑張ってるなぁとか思いながら、テレビの前でトマトジュースを飲みほしていた記憶がある。
橘看護師は笑いを堪えきれない、といった様子で片頬だけを上げながら、話を続ける。
「もう、なにがあったのかと大騒ぎでさ。みんなで駆けつけてみたら、床にしゃがみこんだまま、涙目になってて。それでこう、こっちを上目づかいで見ながら……」
「や、やめてっ!」
たまらずといった様子で悠が、毛布の中から飛び出してきた。茹でられたタコのように耳まで真っ赤にしながら、彼女には珍しく声を張り上げる。本当に恥ずかしかったのだろう。目の輪郭が細かく震えている。上唇を噛んで、襲い来る恥辱に耐えている悠のそんな姿を見て、レイは心が縄で絞めつけられたかのように、ときめくのを感じた。
「ごめんごめん。悪かったよ。謝る。これじゃあ、私がいじめっこみたいじゃないか。そうそう、そういえば、あなた黒城レイちゃんって言うんだって? もしかしてあんたもいいところの人だったりするのかい?」
悠の頭をくしゃくしゃと撫でて慰めながら、橘看護師はレイのほうに首をよじって尋ねてきた。
レイはうんざりした。自己紹介をした相手には、必ずと言っていいほど同じ質問をされるからだ。名を馳せる大企業と、同じ苗字をもつばかりに。
「違います。うちは、しがない自営業ですから。小遣いだって一か月1000円ですし」
幾度となく返してきたのと同じ答えを、また口にする。すると御多分に漏れることなく、橘看護師も「あら、そうなの」と意外そうな返事をよこしてきた。この受け答えをするのも、何度目になるだろう。レイはつい、ため息を零してしまう。
「じゃあ、お大事に。なんかあったら、遠慮なくナースコールを押すんだよ。別に恥ずかしがらなくてもいいからね」
口元に手を添え、若干肩を震わせながら、橘看護師は病室から退散していく。扉が完全に閉まりきるのを待ってから、レイはその花の蕾のような唇を開いた。
「悠、あれで泣いちゃったんだ」
「こ、怖かったから。本当に怖かったから!」
毛布を胸のあたりまで引き寄せながら、悠にしては珍しく必死に説明しようとする。こういう変なところで見せる粘り気の強さが悠の魅力の1つではあるのだけれど。
「うん、分かった分かった。怖かったね、確かに」
心にもないことを、レイは言う。この世に毛虫よりおぞましく、恐ろしいものはないはずだ。それからレイはドアのほうを一瞥し、橘看護婦のことを話題に出した。
「ずいぶんさばさばした人だね、あの人。凄く、でっかい気迫を持っている気がするよ」
悠の頬は、まだわずかに朱を帯びていた。彼女は顔をあげると、気を取り直すように数度瞬きをした後、レイの言葉に微笑んだ。
「うん、橘さん。結構前からお世話になってる人なんだ。ちょっと意地悪だけど、いい人だよ」
「悠にとっちゃ、みんないい人なんじゃないの?」
悠が他人の悪口を言ったり、陰口を叩いたりしていることを、見たことも聞いたこともない。悠は稀に見る、10人いれば10人頷くほどの「いい人」だった。他者を貶すより、褒めることに心を使う。レイも彼女を見習いたいとは常日頃から思っているが、この角立った物言いはどうしても治らなかった。最近ではむしろ開き直り、私は私だ、と達観した意思を貫き続けることを考えている。
悠は瞳を上向かせ、少しの間、何かを考えるようにした後、遠慮勝ちに言葉を発した。
「うん。でも、みんないい人なんだから、当り前だよ。いい悪いは、自分の心持ち次第じゃないのかな?」
なんて心の広い人なんだろう。レイは悠の、茶色みがかった瞳を見つめながら、心から感嘆を覚えた。その口ぶりこそ、のんびりとしているが、その精神は素早く他者の気持ちを察知しているに違いない。そうでなければ、こんなセリフを堂々と吐けるわけがない。レイにはここまで他者を信じきることは、到底できない。
「さすがだね」
レイが直球で嗟嘆をほうると、悠は目に見えて戸惑った。声を上擦らせ、汗ばんだ手でシーツを握りしめている。
「そ、そうでもないよ。レイちゃんのほうが、さすがだよ」
「なにが?」
「え。えーと……あ、髪型変えたんだ。可愛いね」
「えー。気づくの遅いよ。しかも、微妙にしょぼいよ」
前髪に挿した青いヘアピンを使って、中分けにしてある。悠が指摘したのはそこだった。昨晩車内で適当にいじってみたら思いの外、気に入った形になったので、今日もこの髪型にしたのだった。
レイは前髪を人差し指ですくい上げながら、わざと憮然な相貌を保つように努めた。
「それに私を褒めても、何も出ないよ」
「マーブルチョコがあったら、食べたいな」
「それならあるよ」
スカートのポケットからチョコの入った小箱を取り出すと、その中から、煮豆のような形をした黄色いチョコを一粒、悠の掌に乗せた。
悠は満面の笑みで、そのたった一粒を美味しそうに頬張る。レイもチョコを口の中に投じた。
「ありがとうレイちゃん。さすがだね」
「なにが?」
「チョコを、くれるところとか」
「チョコが、偶然あったからね。ポケットに」
「これ、美味しいよ」
「私も、美味しい」
2人して親指くらいの大きさの、小さなチョコを口にしながら、雑感を交わしあう。1粒、また1粒と量を重ねていくうち、ついに箱の中のチョコは潰えてしまった。
「そういえば、チョコとか食べて。体とか大丈夫なの?」
すべて食し終えてから今更ながらに、レイは悠のことが心配になってきて、そう尋ねた。悠は薄い唇を舐めてから「大丈夫だと、思う。多分」と心もとなく言った。
「多分、なんだ」
「でも、レイちゃんにもらったチョコだもん。体に悪いわけはないと思うけど……」
またしても悠は、根拠のないことを言う。レイは「そっか」と何の掴みどころもない、単純な言葉を呟くことしかできない。力不足と憐れみを浮かべれることよりも、買い被られて過剰な期待を寄せられるほうが、何倍もやっかいだ。
「そういえば、昨日、爆発があったよね」
窓の方に顔を向けると、悠は思いだすように突然言った。そうやって彼女は昨日見たという爆発が空を漂う情景と、いま目の前に広がる青空とを頭の中で照らしあわせているようだった。髪の山でできた悠の後ろ頭を見つめながら、レイは心臓が1つ高鳴るのを感じた。
「爆発?」
唾を呑みこむ。歯の裏側に貼りついたチョコが、甘味を放出している。その濃い味が匂いとともに喉に流れこむ。
「うん。遠くの方が、ピカンって光って。なんか花火が打ち上げられたみたいな音がして。凄かったよね。お祭りかと思ったのに。その前から、ドンドン、音がしてたから」
位置と距離からして、間違いない。怪人を倒した痕跡だ。アークがバズーカ砲で、怪人を撃ち抜いた時の、爆発だ。あの場所からこの病院は大分離れているはずなのに、それでも戦いの様子ははるかな距離をまたいで、ここまで届いていたのだ。この、平穏に囲まれ、愛しさに満ちた、花の咲く街の中まで。
朝のニュースで報じられていたのを目にした時点で気付いていたのにも関わらず、レイは衝撃を覚えた。血が凍りつき、身が竦むような凄惨な戦闘の現場と、こうして悠と過ごしているあまりにも長閑な時間。対称的ともいえる、このあまりにも異なる2つの空間は切り離された世界での出来事ではなく、同じ世界の中で起こっている事なのだということを否応なしにも実感させられる。
ごめん。それ私、と告白するわけにもいかず、レイは膝の上で手をもじもじさせて、困惑した。うまい切り返しが思いつかない。なんと返答していいのかさえ、分からなかった。
悠はまだ空を眺めている。これ以上沈黙が続けば、怪しまれる。早く何かしら発言をしなければならない。腹を決めて喉先から言葉を発しようとすると、悠が先に切りだした。
「ねぇ、レイちゃん。怪人っているのかな」
まだ悠はこちらを向いてはいない。レイは虚を衝かれた表情を慌てて隠し、舌で乾いた唇を湿らせた。
「何を急に」
「ううん。あの爆発、ニュースで原因不明って言ってたから、もしかしたらまた怪人なのかなーと思って」
確かに朝目にしたテレビのニュースでは、「埼玉県でおきた謎の爆発事故」と見出しがでていた。昨晩、あの現場で煙のように消えてしまった女の子のことも書かれていないかと、レイは目を皿のようにして探したのだが、その件については一切触れられていなかった。
それがただ1つの、レイの心を今でも震わせている懸念材料だった。
レイには悠は怪人のことなど知らずに暮らしていってほしい、という気持ちがあった。自分が真実を知っているからこそ、このあまりにも血生臭い事実を認めてほしくない。傷つくことしかない闇の中を、わざわざ覗かせる必要などないのだ。表と裏の世界が融和することなど、あってはならない。
だからこそレイは、この場で言い切らなくてはならなかった。怪人など、ただの都市伝説だ。それでいい。
「いないと思うよ。怪物なんてファンタジーだよ、おとぎ話だよ。誰かが作った妄想だよ。あの爆発だっていまは分からないけど、すぐに原因が見つかるよ。たくちゃん先生も言ってたじゃない、物事には必ず理由があるって」
「うーん。でも私は、それでも、いると思う」
根拠があっての発言なのか、それともただの勘なのか。レイは悠の背中を注視し、その真意を読み取ろうとする。そうしてみると悠は腕だけではなく、肩も驚くほど痩せていることが初めて分かった。本当に骨と皮しかないみたいだ。
「なんで、そう思うの?」
いくら睨んでみてもその小さな背中からは悲愴さしか見えてこないので、レイは疑問を投げかけることにした。やはり言葉にするのが、一番てっとり早い。しかし悠はレイに向き直ると、首を傾げて微笑んだ。ひまわりにはなり得ないが、野山にひっそりと咲くほんの小さな花のような笑顔。
「なんでだろう」
「なんでだろうって、なんでだろう」
「そういえば、怪人とはちょっと話題が外れるんだけど」
「うん」
悠はよく話題をころころと転換する。悠だけじゃなく、女性はみんなそういう会話の仕方をする、とバラエティ番組で見た覚えがあった。話題の焦点から外れ、ピンボール玉のようにあらぬ方向へと転がり落ちていく。そのおかげで暇を持て余すこともなく、何時間でも話が続けられるのだけれど。
悠はまた、たなびくカーテンから見え隠れする空に目を移した。瞳を細め、じっと遠くを見ている。しばらくしてようやく、悠は重たそうな口を開いた。
「私ふとね、空はどこまで続いてるのかな?って考えたことがあって」
「うんうん」
レイも2年くらい前に、考えたことがある。中学生というこの時期は、なまじ中途半端な知識を持ちあわせているばかりに、無駄なことに頭を働かせてしまうものなのだ。
「それを夜寝るまでずーっと考えてて。そうしているうちいつの間にか寝ちゃったんだけど、その時、夢を見たんだ」
「夢?」
すると悠はレイを見て、大きく頷いた。彼女の小さな体がベッドの上で揺れた。
「うん。空の果てにはね、大きな壁があるんだって」
「壁」
レイは視界の隅で、病室の真っ白い壁を確認する。壁面には、傷1つない。この部屋は作られてからあまり日が経っていないのかもしれなかった。
「うん。その壁はこう、おっきな鏡みたいになってて。その壁の向こうには私たちと同じような姿形をした人間が、同じように生活しているんだって」
「パラレルワールドってやつ?」
レイは時折小説を読む。知識の吸収のためという大それた目的ではなく、物語を追うのが好きという大衆的な目的でもなく、ただ単純に文字を目で追う作業が好きだからだ。
そしてつい一か月ほど前に読んだSF小説に、そんなような言葉が出てきたような覚えがあった。
パラレルワールド、つまりは平行世界のことだ。いまレイたちがいるこの世界のほかに、同じような時間軸で進む世界があるという、掻い摘んで説明してみても、よく分からない理論である。正直なところ、レイ自身もまた、よく分かっていなかった。
「それが、世界の果て?」
レイが尋ね直すと、悠は恥ずかしそうに笑った。
「私の夢の中では、だけどね。その壁の向こうには、普通の人はいけないの。だけど、1つだけ方法があるんだって」
「どんな?」
すると今まで流暢に説明をしていた悠の口ぶりが、急に鈍った。首をかしげ、唸り声をあげている。そして悠は申し訳なさそうに言った。
「実はそこで、夢が覚めちゃって。だから、どうやって行くかは全然分かんないの。ごめんね」
「ふぅん……。それは残念だね。でも、すごい発想だと思うよ。でっかい鏡なんて、私の夢には出てこないもん」
悠は浅く息を吸うと、下半身を覆う毛布の中で足を組みかえた。レイも軽く深呼吸をする、すると病院独特の薬臭い匂いが鼻孔を突いた。
悠はしきりに視線を泳がせていた。レイのほうを一瞥し、また毛布を見下ろし、という動作を繰り返している。頭に浮かんだ言葉を、口にするかしまいか、悩んでいる様子だった。その、ゲージの中に入れられた小動物のような動きがじれったくて、レイは先を促すことにした。
「なに? なんか、言いたいことがありそうだけど」
「う、うん。あのね」
悠はしばらく自分の手を見つめ、なんだかまだ迷っている様子だった。しかしふっと息を吐くと、意を決したように面を上げて、レイを見た。
「私。実はね、本当にそれはあると思ってるの」
「それって……鏡?」
悠は頷く。力強い表情だ。その殊勝顔に、笑い飛ばすこともできず、レイは唇を結んだ。
「あんまり口じゃ説明できないけど。そのときの夢は、なんかいつもと違ったの。はっきりしているというか……。私、夢の中で。見たこともないようなビルの中にいたんだけど、その部屋の匂いから、感触から、全部今でも思い出せる。レイちゃんも、こういうことある?」
レイはかぶりを振った。少なくともレイには、そんな経験はなかった。夢はいつだって曖昧模糊としていて、目覚めれば目の前から消え去ってしまうものだと認識していた。
「確かにそれは珍しいね。だけど私にないってだけで、他の人にはあるかもしれない。それが現実とは、言い切れないんじゃない?」
「怪人がいたの」
悠の上擦った声に、レイは瞠目した。
「そのビルには、怪人がいたの。でっかい目をしてて、ワニと人が混ざっちゃったみたいな……そんな形をしてた。だから、怪人もいるのかなぁって思って。あの凄い唸り声も、爪も鋭さも、全部頭に残ってる。生々しいくらいに」
悠の体がわずかに震えていることに、その時、レイは気づいた。まるで痙攣するかのように、頬と指先がひくりひくりと細かく上下している。歯の根が合わぬようで、耳を澄ませてみれば、前歯同士が短い間隔でぶつかり合う音も聞こえる。悠は、明らかに何かに対して怯えていた。
「考えすぎだよ」
レイは顔に喜色を浮かべて、言った。自分で自分を抱くようにして縮こまっていた悠が、弾かれるようにこちらを向く。
「悠って、ちょっと考えすぎなところがあるから。怪人も、そんなでっかい鏡もないって。たとえあるとしたって、それが何なの? 私たちは別に何の影響もないまま、こうやって暮らしてるじゃない」
「そ、そうかな……」
悠の体を襲っていた震えが、徐々に消えていく。しかしその瞳にはまだ不安の色が残っている。
レイは「そうだよ」と断言し、それから悠の手を取った。彼女の手は真夏であるにも関わらず、ひどく、冷たかった。レイは自分の体温を少しでもその手に移そうと、握る手に力を込めながら、頬を上げた。
「だって悠ってよく、歩くファンタジスタって言われるじゃん。そりゃ、奇跡的な夢も見るよ。見なきゃ、逆に嘘だよ」
「そ、そんなこと言われたことないけど……。でも、ちょっと安心した気がする、ありがとう。ずっと、怖かったから」
「どうしたしまして」
レイはわざと恭しく、頭を下げた。すると悠は声をたてて笑った。その明るい顔と、小さく並ぶ白い歯を見て、レイも微笑んだ。
「でも、レイちゃんって結構、現実を見る人だよね。お父さんは凄いのに」
悠はレイの父親を知っている、少ない友達の1人だ。あんな父親、おいそれと紹介できるはずがない。家に友達を呼ぶときは、部屋に籠っているように言いつけるぐらいだ。
「私は日夜、お父さんみたいにならないように頑張っているからね。あんな大人になったらダメっていう、反面教師だよ」
「でも、言葉づかいとか、すごくかっこいいと思うよ。あと、ゴキブリ退治のときにマント姿に着替えたりとか。遊び心が満載というか」
そのときの光景を思い出したらしく、悠は喋りながら噴きだしている。レイも当時を振り返り、なんだか悲壮感で心がいっぱいになった。
「ああいうB級映画の悪役みたいなことばっかりしてるから、なんか奮わないんだよね。うち、貧乏だし。悠の家みたいにでっかいうちに、なんか憧れるよ」
「でも、楽しくて私はいいなぁと思うよ。明後日旅行にも行くんでしょ? うちはお母さんにも、お父さんにも、あんまり会えないから」
悠はそう言って、わずかに微笑む。レイは彼女の手の甲をそっと撫でながら、唇の端を舐めた。
「でも、両親が2人ともいるだけいいよ。うちは、お母さんいないし。お父さんとも血が繋がってないから」
外で甲高い鳴き声が聞こえた。2人して窓の外に目を向けると、ちょうど強風にカーテンが大きく翻った。
病院の前にある背の高い木の枝に、先ほど飛び去ったはずの黄色い鳥が止まっていた。イチョウの葉のように小さな足で枝に掴まり、周囲に歌声を響かせている。その鳴き声が珍しく、そして美しかったので、知らず知らずのうちにレイも悠も耳を傾けていた。
「レイちゃんは、さすがだね」
鳥の鳴き声が止んだ隙を突くように、悠がレイの口ぶりを真似して言った。面食らったレイは眉を寄せ、悠の涼やかな表情を窺う。
「なにが?」
「悩みとか、そういうことも色々いっぱいあるけど、私もレイちゃんもいま、こうやって楽しく暮らしてる。それだけいいかなぁ、って私、いまそんな気がしてきたんだ」
満面の笑みをみせながら、悠は滞りない口ぶりで言う。まるで大切なものの詰まっている宝箱を、洞窟の奥底でようやく発見した、探検者のように。
レイは彼女の瞳の奥にある光を見出し、それに満足してから口を開いた。
「そうだね。でも、悠もさすがだね」
「えっと。なにがだろう?」
「さぁ。なにがだろうね」
悠の手を今までよりも少しだけ、強く握ってみる。そうすると弾力とともに、太陽の子どものような温もりが跳ね返ってきた。
2010年 7月30日
その晩、レイは夢を見た。
五感の全てを吸い込んでしまうかのような、濃い暗闇の中で1人佇む夢である。
手足をいくら伸ばそうとも、その先が何かに触れることなどなく、何度瞬きをしようとも一向に光が瞳に宿る気配はない。耳を澄まそうとも、そこに返ってくるのは闇の産声だけだ。あまりに音がしないので、役割を危ぶんだ鼓膜が必死にレイの中で耳鳴りを起こしている。
だがしばらくすると、レイの前に何かが現れてきた。ぼんやりとしていて、掴みどころのない、煙のようにゆらゆらと漂う何かだ。紫色に発光している。その立ち昇った煙はだんだん一か所へ集中していき、カラフルな光の粒を振りまきながら、何かに姿を変えていく。かなり大きい。10階建てのビルぐらいはある。
レイは走って、その何かに近づこうとした。周囲に存在する光は、煙が寄せ集まってできたあの巨大な物体だけだ。蛍光灯に飛び込んでいく羽虫の気持ちで、レイは光目指して必死に駆けた。
しかしいくら足を動かそうとも、その物体との距離を縮めることはできなかった。むしろ標的から遠ざかっていくような気さえする。またはルームランナーのように、同じ位置で足踏みをしているかのようだ。
そのうちに息も切れ、レイはその場に力尽きて倒れた。口からはぜえぜえという呼吸しか吐き出すことはできず、胸が締めつけられるように苦しい。
レイは疲労の圧し掛かる体を無理に起こしつけ、首だけを上向かせて、光の渦を振り仰いだ。
そして、声を失った。
密集した光は、翼をもっていた。胴体部分は縦に細く、下腹部に当たる部分からは2本の枝のようなものが飛び出している。さらに全身から煙を間断なく吐きだし、それはタンポポの綿毛のように小さな粒となって周囲に発散している。
鳥だ。
レイはようやく形の見えてきたその物体の巨躯を目の当たりにし、心の中で呟いた。
あれは鳥だ。
雄大なる翼を広げ、矢尻のように鋭い嘴を天に突きつけ、舌をだらりと垂らし、咆哮している。両足は木の幹のように太く、その鉤爪でしっかりと黒い地面を踏みしめている。
その姿を前にした途端、レイは意識が揺らぐのを感じた。足音が聞こえる。地面を激しく揺り動かすほど重量感に溢れたもので、それは少しずつレイに近づいてくる。このままでは踏み潰されてしまう、という危機感や焦燥感は沸くものの、体のほうはまったく思い通りに動いてくれない。あがいているうちにも時は待たず、足音はさらに重く、大きくなっていく。
そして巨大な影が、レイの伏した全身をすっぽりと覆った。吹き抜ける風がレイの髪を持ち上げる。ぬめぬめとした液体が、頬を伝った。その影は漸次濃度を増していき、ついに三又で皺だらけの足が、音もなく、レイに降りかかってきた。
レイは恐怖と急迫する死の予感に、思わず目を瞑った。瞳の奥には、暗闇よりもまだ濃厚で陰険な、黒い世界が待ち受けていた。
目覚まし時計の、耳障りな雑音。
レイの意識は海底から浮かび上がるようにして、現実世界に呼び戻された。窓からの斜光が顔に触れているようで、なんだか頬のあたりが熱い。
畳に敷いた布団の上を横向きに寝ていたので、目を開けるとまず隣の布団が目に入った。レイの隣に並んで敷かれたその布団の上には、両手足を投げ出した状態で腹を出し、熟睡している少女の姿が見える。そのクマ柄の青いパジャマに袖を通し、金色の髪を肩のあたりまで垂らしているその少女は、1歳年下の妹であるライだった。
先ほどから喚いている目覚まし時計は、彼女の頭上で鳴り響いているものだった。レイは耳を押さえなければ我慢できないほどなのに、同じ状況でライはうつ伏せになって、気持ちよさそうな寝息を立てている。その安息に満ちた表情が、レイの心をふつふつと煮えたぎらせていく。
ライの周囲には薄手の掛け布団や枕などが、雑然と転がっている。それらは、寝ているライに布団の上から弾き出されたものたちであるということが、一目で分かった。ライの寝相の悪さには定評がある。
そして枕を並べて寝ているレイは、おそらくその実害を最も被っている人間に違いない。夜中に何度、蹴られ、殴られて起こされたか。もはや両手でも数えきれないくらいだ。
レイは掛け布団の中から這い出るようにして身を起こすと、苛立ちのままに目覚まし時計の頭をぶっ叩いた。ガン、という鈍い音が生じ、目覚まし時計は途端に鳴くのを止める。それから、呆気なく後ろに倒れた。まるで、城の絵が描かれた張りぼてを指で強く押しやったかのような気分だ。騒音を発しなければ、ただの時を刻む道具に過ぎない。
しかしそんな騒ぎが頭すれすれのところで行われたというのに、ライは身じろぎもしない。布団に涎で池を作り、鼻をひくつかせてすらいる。
朝の格闘も意に介さず、眠りこけているその姿にレイの中では怒りよりも、むしろ諦念の気持ちが募っていった。もとより人の行動に難癖つけるような性格ではない。
まぁ、いいか。レイは呆れながら、布団から出ようと上半身を起こそうとする。するとその時、足の辺りに伝う違和感にはたと気が付いた。
柔らかいものが指先に当たっている。探ろうと五本の指でその何かをまさぐると、わずかにそれは動きをみせた。反応が返ってくる。これは生き物なのだ。しかも感触から察するに、その体は毛皮のようなもので覆われている。細かい毛が足の爪の間に入り込み、容赦なくくすぐってきた。
なんだかやけに、布団の中がぬくぬくしていたと思ったら。レイは緊張に身をこわばらせながら思い返す。いつも以上になんだか暑くて、幾度もなく夜中に目を覚ましてしまった。そのせいで、いまは喉がからからだ。汗で下着もパジャマも湿っていて気持ち悪い。変な夢を見てしまったのも、このせいではないかと責任を押しつけたくもなる。
とにかく、このまま確認しないわけにはいかない。毛に包まれた正体不明の何かと一緒に寝ているなんて、考えるだけでも怖気が走る。レイにとって『毛皮』という単語は一般的な哺乳類よりもむしろ、蠕動する毛虫のおぞましい姿を喚起させる。
レイは上半身を完全に起き上がらせると、スッと短く息を吸い込み、それから意を決して、布団を跳ねのけた。すると一斉に埃が舞って、くしゃみが出てきた。目もしばしばする。陽光を浴びている部分の、埃の流れは肉眼でも認めることができた。
鼻をすすりながら目を、開いた。
舞い散る埃のその先に、レイの足元で丸くなっている何かが見えた。
その外観はまるで、ゴマのおはぎのようだ。しかし両腕で抱えなければならないほどに、その物体は大きい。そしてレイの予想通り、それは灰色の毛皮で全身をくるんでいた。ふさふさして、いかにも温かそうだ。もし、いまが蝉の鳴く季節でなければ、迷わずこの物体を抱きしめて二度寝をしていたことだろう。
レイの前で、その物体が動きをみせた。丸みを帯びた姿は少しずつ崩れていって、そこから首が生え、手足が出て、尻尾が伸びていく。尻尾は細く肌色で、一見するとミミズのようだった。それだけが独立した意思をもつ生物のように、うようよと空気をなぞっている。
同じく肌色の手足には、人間と同じように5本の指がある。それはわずかに湿り気を含んでおり、赤ん坊の掌を彷彿とさせた。しかしその大きさは人間の赤子のものよりもさらに小さく、着せ替え人形のようだ。
その物体は首の先についた頭を、ゆっくりと、レイのほうに向けた。
顔の輪郭は縦に細く、頭の左右には丸いものがそれぞれ付いている。耳だ。
黒が大半を占めている大きな目で見つめられたとき、そこでレイはようやくその物体の正体を掴んだ。そして掴むのと同時に、胸の震える音が外に飛び出してこないように、唇を意識して結んでおく必要があった。ここで叫び声をあげるのはまずいと、本能的に悟ったからだ。
「おはようございます」
悲鳴を押し殺すレイに対して、その物体は悠長に挨拶を投げかけてきた。その声質が柔らかい少年のものだったので、ことさらレイは仰天した。
灰色の毛で覆われた顔の先にあるのは、ピンク色の鼻先と針金のように繊細な髭だった。鼻の左右に4本ずつある。耳は皿のように丸く、大きい。その中心もまた、ピンク色に染まっていた。
ネズミだ。2、3歳児くらいの身長をもつ、あまりにも巨大な灰色のネズミ。それだけでも驚きなのに、加えて、二本の足で布団の上に立っている。しかしその双眸に輝きが生まれているからなのか、その姿にはどこか愛嬌があって、不思議と気味悪さは感じなかった。
「ラ、ライ!」
舌をもつれさせながら、レイは熟睡している妹の肩を激しく揺さぶる。それでも目覚める兆候すらないので、枕を持ち上げ、それでライの後頭部を力の限りを尽くして殴りつけてやった。衝撃に、ライの顔面が布団に沈む。
「ライ!」
「う、うぅん」
ようやく、ライは眠りの淵から離脱したようだ。掠れ声をあげながら、両手をつき、緩慢な動作でぼんやりと身を起こす。しかしまだ、意識の半分は夢の中に持っていかれたままらしい。閉じたままの瞼が、それを何よりも雄弁に語っている。
そしてライの復活を待つことなく、そのネズミは腹の前で手を組みあわせた直立姿勢で、丁寧におじぎをしてくる。それから慇懃な口調で、とんでもないことを口にし出した。
「おはようございます、お母ちゃん」
「え?」
ネズミは真っ直ぐ、指をレイの顔に向け、にっこりとほほ笑んだ。
「お母ちゃん」
「え……お母……え、ライ!」
このままでは埒があかない。レイは右手に掴んだままの枕で、ライの頭を何度も叩きのめした。枕を受けるたびに、その頭はがくんがくんと大きく揺れる。もう眠っているとか目覚めているとか関係なく、とにかくレイは心にざわめく当惑を、紛らわすかのように、夢中で腕を振り回した。
枕による攻撃の応酬を浴びたライは、そこでようやくふらふらと面を上げた。寝起きのためか、それとも外から強制されて起こされたためなのか、ぶすっとしていて、唇をひん曲げている。
「朝からうるさいなぁ……一体なんだよ」
喉の奥まで覗きこめそうな大きなあくびをかくと、ライは不機嫌そうに第一声をあげた。まだ目が完全に開いていない。左目など、あからさまに閉じていた。右目のほうも途中までしか瞼が上がりきっておらず、このまままた眠ってしまいそうだ。レイよりもわずかに短い金髪が、ところどころよじれて寝癖になっている。ライは胡坐をかいた姿勢で、うつらうつらと船をこいでいた。
「寝てる場合じゃないよ。ちょっと見てよ、これ」
ライの頭を掴み、無理やり引っ張って、ネズミの正面まで持ってこさせる。ライは依然として寝ぼけ顔のまま、ネズミと視線を突きつけ合わせた。しかしネズミの方はびくともせず、じっとライの顔を凝視している。
「どう? 私の錯覚じゃないよね。ライにも、ネズミが見えるよね?」
目をこすりながら、ライはネズミをじっと眺めている。視界の焦点を合わせようとしているかのように、瞼をしきりに瞬かせながら。
一定の距離を保ったまま、見つめ合うネズミと妹。それから何をするわけでもなく、ライはがくんと首を垂らした。そしてそのまま、いびきをかき始める。そうやってライは、座ったままの姿勢で器用にも再び眠りについた。
「ライ!」
レイは振り上げた枕を、ライの後頭部に向けて体ごとぶつけていた。前に突き飛ばされたライは布団に強く額をぶつけ、そのまま弾んで、畳をごろごろと転げた。
布団を押入れにしまうと、レイとライの2人は畳の上に並んで正座をした。向かい合う先には、あの巨大ネズミの姿がある。
ネズミはぺたんと尻を床につけ、両足を広げた、まるで赤ん坊のようなポーズで座っていた。その目は電灯の光を映し出して、きらきらと光っている。短い手をばたばたさせ、何をしているのかと思えば、胸を一生懸命にこすっているのだった。
「それで、こいつは一体なんなんだよ。ネズミ?」
寝ぐせでボサボサの髪を掻きながら、ライが眠たげに言う。それから大きなあくびを1つ。洗顔はしたものの、まだしぶとく眠気がこびりついているようだ。
レイは横目で、まだ夢うつつな妹の姿を認めつつ、その発言をばっさり切り捨てた。
「日本語を喋るネズミなんていないよ。そんなのメルヘンだよ」
「じゃあ、なにさ? どう見てもネズミじゃんかよ」
「そりゃあ」
そりゃあこんな生物、怪人の他にいないよ。そう言いかけたところで、危うく口を噤んだ。大衆の見地に立てば、怪人の存在はただの都市伝説に過ぎないということを思い出したのだ。悠と同じように、ライも怪人の存在は知らない。ライにもまた、世界の裏を知らずにいて欲しいという気持ちが、レイの中にはあった。
「そりゃあ、のあと、なに?」
途中で言葉を切ったレイを怪しんでいるのだろう。ライが不審をちらつかせた眼差しで、レイの横顔を凝視してくる。レイはあえてその質問を聞き流すと、ネズミに向けて体を前に乗り出した。
「あなた、どこから入ってきたの? なんで、私の布団の中にいるの」
尋ねると、ネズミは鼻先をくんくんいわせた。どうやらそれが、考えているときの仕草らしい。丸い目でじっと見つめられると、なんだかこっちが照れ臭くなってくる。そのため、レイは少しだけ目を伏せなければならなかった。
「私は昨晩、お母ちゃんから生まれたのでございます。布団にいたのは、そのためでして」
まだ生まれた数時間しか経っていないと言う割には、流暢で礼儀正しい日本語でネズミは一息に説明してくれた。しかしレイにはその内容が理解できない。いや、言葉の意味は分かるのだが、その内容が現実からあまりにも乖離しすぎているために、納得するには難がありすぎる。
「お母ちゃんって、こいつのことか?」
ライが、レイの肩を突きながらネズミに確認を求めた。ネズミは鋭い出っ歯を見せつけるようにして、笑みを浮かべる。
「はい、そうです。私のお母ちゃんでございます。お母ちゃーん」
「だってよ」
ぽん、と肩を叩いてくるライの手を払いのけ、レイはネズミに肉薄した。
恐る恐るその灰色の頭を撫でたり、腹をまさぐったりすると、くすぐったそうに体を揺する。その指先に跳ね返ってくる温もりは、明らかに生物のそれだった。その巨体に目を瞑れば、ちらっと見た限りではただのネズミにしか見えない。瞳のくりくりした、行儀のよろしいハツカネズミ。
「ネズミだ」
分かっているのに、レイは口に出して、言ってみた。するとネズミはレイの指を小さな手でぺちぺちと叩き返してきた。何だか嬉しそうだ。それはレイの一方的な感想ではなく、実際、ネズミは弾んだ声で「はい、外見はこの通り、ネズミでございます」と応えた。
「それで、どっからこんなの拾ってきたんだよ。昨日から飼い始めたんなら、私にも教えてくれれば良かったのに。同じ部屋に住んでるのに、水臭いじゃんか」
ライがネズミの耳を引っ張りながら、口を尖らせて言う。レイは、呆れの混じったため息を零した。
「私はライと違って、そんな卑しいことはしないよ。第一、さすがのライでもこんなでっかいネズミが布団にいれば、気づくでしょ。日本語喋るんだし。動けば明らかに分かるし」
「まぁ、それはそうなんだけど……。ということはだ。じゃあ、本当に、こいつの言うとおり、こいつはレイから生まれたのか? そうだとしたら、一体どこのどいつとの子どもなんだよ!」
「まったく。私はライと違って、そんなにいい加減じゃないよ。それに私は人間だし。何をどうすれば人から、喋るネズミが産まれるの。進化論とか超越しすぎだよ」
「まぁ、そっか……」
うぅんと、ライは腕組をして唸りだす。思いついたことを、先行きも考えず、とりあえず口に出してしまう傾向がライにはあった。とりあえず意見だけは豊富で、口は達者なのだが、穴を攻められると全く太刀打ちできずに、言葉に詰まってしまうことが今までも多々あった。今回もそのケースだ。
しかしライは、めげることを知らない少女でもある。
唸っていたのも束の間、ライはまた何か思いついたようで、掌を叩き合わせるとネズミを勢いよく指差した。妹のその瞳は、眩いまでに輝いている。
「分かった、こいつはミミゴンだ! そうだよレイ。こいつだよ、あの有名な。ミミゴンが我が家に来たんだよ!」
「えー」
ネズミを指した指を激しく上下に揺らしながら、ライは興奮気味に捲し立てる。
ミミゴンとは、夜の学校に出没すると言われている妖怪のことである。全国の小中学生の間で、まことしやかに囁かれている噂話だ。こちらも怪人と同様に都市伝説というカテゴリーに属しているが、両者における真実味には雲泥の差がある。どちらかというとミミゴンは、口裂け女や人面犬並に信憑性の低い、子どもたちのたくましい想像によって作られた妖怪だった。
「ミミゴンって、ネズミだったの?」
純粋な疑問をぶつけると、ライは何だか得意気に鼻を鳴らした。
「誰も本物を見てないんだ。ネズミだろうが、モモンガだろうが、あり得ない話じゃないだろ?」
「まぁ、そりゃそうだけど……。なんでミミゴンがうちにいるの」
学校妖怪のはずなのに。だが、依然ライは強気だ。ネズミに肉薄し、にやついている。なぜ妖怪がいることを喜ぶのか、レイにしてみれば、それは理解の外だ。
「そんなの私が知るかよ。でも、本人に聞けばわかるさ。な、お前はミミゴンだよな? そうだろ?」
「いえ、真に残念ながら、私はそれとは違います」
きっぱりとネズミに言い捨てられ、ライは愕然と頭を垂れた。レイは噴きだすのをかろうじて我慢しながら、「だってさ」と、その肩に手を乗せてやる。彼女の発言タイムは、これにて終了のようだった。
ライが初歩的な穴を丁寧に埋めてくれたおかげで、レイの心にも徐々に余裕が生まれてきた。不安と困惑が薄まっていき、伴って理解が光ともに頭の中へと差し込まれてくる。それから息を吸い込み、吐いて、ネズミを改めて瞳に収めると、そこに不信感が忍び寄ってきた。
畳を睨みながら唸っているライを置き去りにして、レイはまたネズミに訊いた。
「あなたさっき、外見は、って答えてたよね。ネズミだって、私が言ったとき」
するとネズミは、ちょっと困ったように眉間に皺を寄せた。ネズミでも不安を顔で示すことができるのかと、レイはほんの少し驚いた。だがその表情の変化が、質問の是非を何よりも雄弁に語っている。
「ということは、実はネズミじゃないってことじゃん。一体、何者なの? それで、なにが目的?」
強い口調でレイが言うと、ネズミはわずかに怯んだ。そして顔を俯かせ、しょぼくれる。そして沈黙を抱いたまま、ただちらちらとレイの顔色を窺うような仕草を繰り返した。
レイは肩を大きく上下させて、疲労のこもった重たい吐息をつく。そのため息に、ネズミははっきりと体を強張らせた。
レイは怖々と身をすくめるネズミに対し、はっきりと言い放ってやった。
「自分のことを説明できないような、わけわからないのと、とてもないじゃなけど一緒に生活なんてできないよ。お母ちゃんって言うのも、わけわからないし」
外面はネズミそのものであるが、その正体はいかなる色眼鏡を通して見ても、怪人の類であることに違いはない。そんな存在を家族のもとに置いておけるほど、あいにくレイは楽観的な思考を持ち合わせていなかった。日常を危険に追い込む要素のあるものは、早急に排除すべきだ。
しかし、ネズミに上目遣いを使って不安そうな視線を突きつけられると、良心がちくりと痛むのも確かだった。その瞳は迷子の子どものように、孤独を抱えているように思えたからだ。だからレイは目を逸らし、わざと押し入れのふすまを見つめるようにした。自分の中にある柱が、ひしゃげてしまわないように。
可愛い顔をしていても、このネズミは、怪人なのだ。女性たちを誘拐して殺している輩と何も変わらない。
「追い出すのか?」
レイの前に回り込むと、ライが不安そうに言った。眉を寄せ、今にも怒りだしそうな顔をしている。その視線が辛くて、レイは妹の目からも逃げ、さまよった末に畳へと目を落とす。
「しかたないでしょ。なにを企んでるのか、分かったもんじゃないんだから」
「お前のことを、お母ちゃんって呼んでるのに、それでも捨てるのか? 本気かよ。人間のすることじゃないぞ」
ライの真摯な眼差しが、心に突き刺さる。レイは胸を軽く押さえながら、さらに深く首を折った。
「私……身に覚えないもん。お母ちゃんなんかじゃ、ないし」
自分でも無情な発言だと思ったが、こればかりは事実だからしょうがない。ライに目を合わさぬまま、空気中に放り込むように応じる。ネズミはレイとライとを交互に見比べ、不安に表情を曇らせている。
視界の端で、ライがぐっと息を呑んだ。その音が離れていても聞こえてきた。それからライは、唇を曲げるとネズミを腕の中で抱きかかえるようにした。
「お前が追い出すなら、私が飼う! 両親さえ分かんないのに放りだすなんて、さすがにかわいそうだろ!」
ぎゅっとライはネズミを抱きしめる。妹が、怪人を胸に抱えている。その事実が、レイの気を短くさせた。私の気も知らないくせに、というあまりに理不尽な怒りが暴発する。
「この前ミミマル殺しちゃった人が、どの口で言ってんの。無理だよ、ライが生き物を飼うなんて」
ミミマルというのは、2週間前まで飼っていたカブトムシの名前である。ライがどこかの山から捕まえてきたのだが、途中で飽きたのか、1週間もすると頻繁に世話を欠かすようになり、結局干からびて死んでしまった。
痛いところを突いたのか、ライはぐっと呻いてたじろいだ。だが、すぐに畳を掌で強打すると、ネズミを端にどかし、威勢よくレイに向かって身を乗り出してきた。
「失敗したから、今度は成功させるために頑張るんだよ!」
「その度に殺される生き物はたまったもんじゃないよ。生き物の命をなんだと思ってるの。このバカ」
「バカって言うな! なんだよこのケチ! ひとでなし!」
「はいはい、分かった分かった。でもライに飼ってもらうよりも、この変なのも、外を自由に駆け回ったほうが何倍も幸せだと思うよ。ライに捕まったら殺されちゃうもん」
「なんだと! このっ……」
いきり立ったライが、唾を飛ばし、何かを言いかけた。しかしそこでぶつ切れになった。レイも言葉を発するのを止めた。
部屋のドアが、開いたからだ。それも外からの力により、ノブを回されて。やがて蝶つがいが軋んだ音をあげ、ゆっくりと扉が開け放たれていく。伴って燃えたぎっていた室内の空気が、瞬時にクールダウンされていく。
仲互いをしている最中であった2人だが、その瞬間だけは見事に息が合った。
レイは立ち上がると、前に倒れこむようにして押入れに手を伸ばし、その取っ手をしゃにむに掴んだ。続けてライがネズミの首根っこを鷲掴みにし、まるでボウリングをするかのような姿勢で、ネズミを押入れに向けて投げ飛ばす。
周囲は確認せずに気配だけを察知して、レイは押入れをわずかに開いた。
柱と押し入れの間に生まれたのは、ちょうど子ども1人が入れるかどうかというぐらいの細い隙間だ。しかしライの放り投げたネズミはその隙間を見事にくぐり抜け、押し入れ内の布団の上に着地した。弾み、布団の奥へと転がりこんでいくネズミの姿を、レイは最後に確認した。
それからぴしゃりと押入れを閉めると、そこでちょうどドアの向こう側から黒城が姿を現した。長袖の黒い寝間着に、片手には丸めた新聞。いつものスタイルで、黒城は2人の娘をしげしげと観察している。廊下からは、味噌汁の匂いが漂ってくる。
「おはよう、諸君。今日は早いな」
「おはようお父さん」
「お、おはよう」
2人で揃って、父親に挨拶を返す。レイは緊張で表情が強張らないように注意した。隣をちらりと窺うと、あからさまに不自然な笑みを浮かべたライがいたので、そっとお尻をつねってやる。
黒城は部屋中を見渡していた。鼻をくんくん言わせ、押し入れをじっと見つめる。その視線の先が自分のもとに戻ってくるまで、レイは気が気でなかった。心拍数が少しずつ、だが確実に上がっていくのを感じる。ライは額を汗で光らせていた。
「朝から騒がしいが……何かあったのか?」
言い争いが、部屋の外にまで聞こえてしまっていたのだろう。しかしどう説明するべきか。レイは黒城から視線を壁に移しながら、思考を働かせる。
「でっかいネ、ネズミなんていなかったよ!」
慌てふためきながら、堂々と暴露するライをまたつねりあげ、レイは平静を保ちながら落ち着いて口を開いた。
「別に。いつものことだよ。ライの目覚ましがうるさかったから、蹴とばしただけ」
「そうそう、私が蹴とばされただけ! なんにも問題ないって。ほらほら、着替えるんだからお父さんは出ていってくれよっ」
歩み寄るとライは力づくで、黒城を押しやっていく。ずるずると廊下に押し出されていきながら、それでも黒城の顔は無表情に部屋中を見渡していた。時折また鼻の穴を動かしては、首を傾げている。やはり、なにか異変に気が付いているのだ。レイは背中に冷たい汗が伝うのを感じた。
黒城が、口を開く。ちょび髭が口元の皺においやられ太く、短くなった。レイは身構えるが、そこから放たれた言葉に拍子抜けした。
「あぁ、分かった。朝食はできてる。冷めるといけないから、すぐに来るがいい」
「はいはい。分かった分かった。分かったついでに、おさらばっと!」
黒城を追い出したライは捨て台詞を吐き、部屋が揺れるほどの勢いをこめてドアを閉めた。レイはそこでようやく胸をなで下ろし、床にへたり込む。
「怖かった……」
「でも、父さんには話してもいいんじゃないか? 驚かなさそうだし。いいアドバイスくれる気もするけど」
ライの提案は最もだ。しかし、レイはかぶりを振った。
「多分、もっとややこしいことになるだけだよ。このことはいま、私たちしか知らない。だから今のうちに、どうにかしようよ。問題が小さいうちに」
「どうにかしろって言ってもなぁ……」
珍しくライは首をひねり、真剣に悩みだす。その横顔に目をやりながら、レイはすっかり冷え切った思いを、熱をもつ呼吸に乗せて吐きだした。
「ごめん、ライ。さっきはちょっと、言いすぎだ」
するとライは目を大きく見開き、それからきまり悪そうに頭の後ろを掻いた。
「あ、あぁ。こっちこそ、色々変なこと言っちゃって……ごめん」
「そういえば、押し入れから出してあげないとね」
レイは押入れに近づくと、その扉を開け、中を覗き込んだ。押し入れの中は暗く、また積み上げられた布団が邪魔をしていたが、すぐにネズミは発見できた。畳んである布団の隙間から、にゅっと顔を突きだして現れたのだ。涙目になっている。発する声も、掠れていた。
「お母ちゃん、もう大丈夫ですか?」
突然眼前に出てこられたので、レイは心の底から仰天した。妹の手前上、情けない悲鳴をあげるわけにはいかない。声をかみ殺し、ひたすら騒ぐ心臓を押さえつけて、レイはぎこちなく顎を引いた。
「うん。もういいよ。でも、私はお母ちゃんじゃないからね」
よほど押入れの暗闇が怖かったのか、それとも母親に何の説明もなく閉じ込められたのが恐ろしかったのか、ネズミは嬉しそうに布団から出てきた。
えいっ、と声をあげて畳に着地するネズミを、ライは温かく迎えた。拍手をしながらネズミの横に座り込むと、従順な犬を褒めるときのそれと同じように、その頭をたっぷりと撫でてやっている。
「お前、静かにしてたなぁ。えらいえらい。ほら、頭もいいじゃん。やっぱりうちに置いといてやろうよ。お父さんには、しばらくしたら話せばいいし。な、お前もちゃんと言うこと聞くよな?」
頭を叩きながら、ライはネズミに問いかける。するとネズミはライを見て、それからレイを仰ぎながら、またぞろ丁寧な声で答えた。
「はい。私めは、お母ちゃんとそのご家族様の言いつけを、ちゃんと守ります」
「ほらぁ」
「ほらぁ、じゃないよ。そういう問題じゃないんだってば」
レイが戸を閉めようとすると、ひらひらと押し入れの中から1枚のA4用紙が落ちてきた。無地のコピー用紙だ。裏をめくると、そこには9桁の数字が並んでいた。
「なんだよ、それ」
ライが手を伸ばすのよりも早く、レイはその紙を自分の顔の前まで持ち上げている。その数字を何度か暗唱していると、なんとネズミが大きな声でその数字を読み上げ始めた。
「うるさいよ」
用紙から顔をあげてレイが睨むと、ネズミは「ごにゅ」と変な声をだして黙り込んだ。するとライが眉間に皺を寄せて、すかさず突っかかってきた。
「なんだよ、ネズミは頑張っただろ!」
「なに怒ってんの。 そうそう、やっと思い出したよ、これお父さんの携帯番号だ」
「携帯番号? なんでそんなの書いてあんだよ」
「多分、バザーのときにメモしたんだと思う。この押し入れ、バザーの品物いっぱい入ってるから」
「ふぅん」
関心がなさそうに、ライが頷く。レイも別段、これ以上説明するつもりはなかったので、紙を押入れに放り込み、その戸を閉めた。
「まぁ、いいや。じゃあ、とりあえず」
レイは腹をさすりながら、壁時計に視線を投じた。時刻は7時をちょっと過ぎたところだった。外では蝉が鳴きだしている。1日経過するたびに、徐々にだが鳴き声が小さくなっているのは、気のせいではないはずだ。夏は早くも、終焉のための準備を始めている。
大人になってから七日で命尽きるといわれる蝉にも、母である瞬間があるのだろうか。レイは漫然と、そんなことを考えた。考えながら、小さく笑った。そして言った。
「ご飯食べてから、これからのことは考えようよ」