12話:超新星
2010年 7月28日
夕立のあがった直後だからなのか、ひどくじめじめとした、夜だった。
普段ならばやかましいほどに聞こえてくる蝉の音も、今夜はすっかり身を潜めている。ようやく夜がなじんできた、と評することができるくらいの空色で、星はない。歩道の脇ではわずかな風を察知して、灌木の葉が細かく身じろいでいる。空では雲が渦巻き、螺旋状の黒々とした絵を描き出していた。
黒城レイは、車の助手席から窓の外をぼんやりと見やりながら、ため息をこぼしていた。
ブロンドに染めあがった髪の毛を掌ですくいあげ、窓ガラスに映った自分を見つめる。外が暗いので、その姿は明瞭としていた。
後部座席には大きなネズミのキャラクターのぬいぐるみが、まるで要人の如く座っている。千葉県にある巨大遊園地に行った友達からの、土産物だった。しかしレイはそのぬいぐるみがあまり好きではなかった。単純に、なんだか偉そうだからだ。「俺は世界中のみんなから愛されているんだから、せいぜい大事に扱ってくれたまえ」という高慢な声が、ぬいぐるみから聞こえてくるかのようだった。
そしてレイは頭の中に響く、ネズミの驕りにいつも反論する。この車の中には、お前なんかよりももっと凄い人物が座っているのだよ、と。
多くの女子中学生がそうするように、レイもまた窓ガラスを鏡代わりにして、髪形を整え始めた。
とくに意欲を抱いて始めたわけではなく、自分の姿を見たら、自然にそうしたくなってしまった。とはいってもレイの髪の毛は背中に達するほどまでに長いので、いくら手ぐしでいじろうとも、あまり代わり映えした様子はない。前髪が目にかかっているのがどうも気にかかったので、スカートのポケットから青いヘアピンを取り出し、前髪に1つ付けてみた。
新鮮な自分の姿に、レイはなぜだか微笑んでしまう。新境地を発見したかのような気持ちになる。アメリカ大陸を発見したコロンブスの気分だ。よしこれでいいやと自分を納得させ、窓ガラスに額を付ける。今度は自分の姿ではなく、窓の外の景色を覗き込むためだ。
レイを乗せた車はカラスのように真っ黒なワゴンで、一心不乱に走行するそれは外から見れば、まるで銃口から飛び出した鉛玉のようでもあった。その巨大な鉄の塊が、湿ったアスファルトの上を滑走していく。その内部に乗り込んでいる様を想像すると、レイはなんだか奇妙な気分になった。
「なんかここ何日、天気が不安定だよね」
運転席に座る父親に、レイは声をかけた。ハンドルを握る黒城和弥は、娘の漫然とした呼びかけに、前方を向いたまま応じる。彼はこの真夏にも関わらず、その苗字に反することなく黒いスーツを着込んでいた。
「その前は、しばらく雨が降らなかったからな。日照りは水不足を引き起こす。そして水不足は秩序の崩壊と不安を生む。ここで雨が降ることは、まさに天からの恩恵だったということだ」
「だからお父さん、てるてる坊主を逆さに吊るしておいたの?」
レイは父親の部屋で見た、頭を下にしてカーテンのレールに吊り下がる、てるてる坊主を思いだしながら言う。丸めたティッシュに真っ白なハンカチを被せ、首にあたる部分を輪ゴムで留めて顔を描いただけの簡素なものだ。てるてる坊主は逆さ吊りの刑にあいながらも、満面の笑みを浮かべていた。
「そうだ」
黒城は誇らしそうに、鼻の下をこすりながら言った。そこには黒々とした、いわゆる、チョビ髭というやつが生えている。
「だからこの雨も、私の仕業だ。つまり私のおかげで、地球は救われたといっても過言ではないだろう。私のてるてる坊主で、秩序の崩壊はとどめられたのだ」
「ふぅん」
唯我独尊を素でいこうとする父親の戯言に、いちいちまともに付き合っていては気力がもたない。レイはまったく感情のこめられていない賞賛の言葉を口にしながら、窓の外側に付いた水滴を指でなぞるようにした。
大きく、車体が揺れた。道路の舗装されていない、剥きだしになった茶色い地面が綿々と続く道に入ったのだ。車のスピードが落ち、慣れない道を前に黒城の運転にも多少の緊張が窺えるようになる。
右側には灌木が続いており、左手のほうでは闇の中にいくつも田んぼが佇んでいた。畦道に立つかかしが一瞬、人間のように見えて、レイはぎょっとした。ヘッドライトによって照らしだされた道路標識を確認すると、どうやらここは埼玉県の南方のようだった。
「でもさ、明後日は雨降らさないで欲しいんだけど」
「明々後日……? はて、なにかあったか」
「えー」
レイは黒城を見上げると、口を尖らせた。黒城は知らん顔をして、運転を続けている。
「バーベキューとか、花火とかしにいくって言ってたじゃん。忘れたの?」
それはおよそ一か月前に、レイが父親とした約束だった。夏休みに入ったら、どこかに連れて行ってね。どうせ暇なんだから、いいでしょ?と強気に出てみたのだ。
最初は渋面を浮かべていた黒城だったが、すぐにそれを了承してくれた。そして、そこからじゃあ、花火やるか、バーベキューやるか、海にでも行くか、と次々に提案したのは他でもない、黒城自身である。彼も彼で、旅行に行くこと自体は初めから賛成だったのかもしれない。インターネットを使って旅行計画を立てる黒城の姿は、明らかに浮かれているように見えた。
日取りは一泊二日で、海の側にある別荘に宿泊することに決定した。「うちには別荘がある」と前々から父親に言われてはきたものの、出向くのはこれが初めてだったので、レイは一か月前から胸を躍らせていた。
そんな家族全員が昂揚している旅行が三日後に迫っている、という時にそれを黒城が忘れているというのは到底考えられないことだった。
数秒、2人の間に沈黙が落ちた。タイヤが水たまりの中を駆け抜け、水飛沫をまき散らす音が周囲に弾かれると、それから黒城は鼻を鳴らした。そうすると彼の鼻の下にある黒髭が、ふわりと浮きあがった。
「馬鹿な。この私が、忘れるわけがないだろう。なぜなら私は、生けるクロニクルとして世界に君臨する男なのだからな」
「ふぅん」
どこまで本当なんだか。目を細め、疑念に満ちた視線をレイは父親にぶつける。しかし黒城の老獪とした横顔は、実にけろりとしていた。けろり、という発音からレイは唐突に「蛙の面に水」ということわざを思い出す。この言葉は、黒城のことを言い当てているようにしかレイには思えなかった。父親がうろたえたり、目の色を変えたりしている様をこれまで一度たりとも見たことがない。いつでも冷静沈着で、自分だけ別次元に立っているような。そしてそれを自覚しているような人なのだ。
「クロニクルって、なに」
黒城との会話中に出た、耳慣れぬ言葉をレイは指摘する。黒城は肩にかかるほどの、男にしては長すぎる髪の毛を片手ですくいながら、眉間にしわを寄せた。
「私もよくは知らないが、今日読んだ漫画に出てきた。なんか、凄そうな響きがするだろう? この私にぴったりだと思ってな。これから流行らせていこうと考えている」
「あ、うん。そうだね。頑張って。私は手伝わないけど」
「あぁ、結構だ。娘の手を借りるほど、私は切迫していないからな。いや、私がそんな状況に至るころには、世界のほうが潰れるときに違いない」
適当な相槌を打つ。黒城は漫画がひどく好きだった。暇があれば、いや暇がなくても何かしら読んでいる。仕事場のデスクの上にも多くの漫画が積み上げてあったのを見て、レイは開いた口が塞がらなくなったものだった。
どこにこんな数の漫画を収納しているのか、というのが我が家に伝わる七不思議の1つだ。しかもよく見ると、部屋に置いてある漫画は、毎回確認する度に違った本なのだった。
「想像力は人類の英知だ。想像力と妄想力さえあれば、おのずとなんでも手にすることができる。その力を鍛えるには、漫画が一番の教科書なんだよ」とは黒城自身の言葉である。この理屈を初めて耳にした時、レイは呆れる他なかった。しかも本人としてはこれを真面目に言っているから、なおさらたちが悪い。
しかしこんな偏屈な父親を、レイは嫌っていなかった。むしろ誇らしいくらいに思っていた。いつも堂々としていて、威厳に満ち、心に波風を立たせず、自分というものを持っている父親。娘という身であるレイにしてみれば、これほど側にいて頼りになる存在はいなかった。朝顔の巻きつく竿のように、黒城はいつでもレイを支え、先行く道を指し示してくれる。こんな父親、周りを見渡してもそう多くいるものではない。
電話が鳴った。黒城の携帯電話だった。黒城は車を田んぼの端のほうに停めると、通話ボタンを押した。
「あぁ、私だ。君は……そうか、ゴンザレスか」
レイはその名前に表情を強張らせた。ゴンザレスという男のことなら、レイもよく知っていたからだ。あの男の全身から漲る戦慄の気配は、忘れようともそうさせない迫力がある。
「あぁ、もう少しで到着する。まだ奴の姿は見えないがな」
黒城は通話をしながら、レイの顔を一瞥する。レイは口を結ぶと、小さく顎を引いた。
「あぁ。あぁ……そうだ。心配するな。分かっている。“アーク”の初実戦だ。なぁに、私を誰だと思っている。黒城和弥だぞ。あぁ、心配するな。必ず、ミッションは成功させる」
自信たっぷりに言い捨てると、黒城は電話を切った。それからギアをドライブに変え、アクセルを踏みこむ。
それからしばらく、誰も何も言わなかった。暗がりを切り裂くライトが、道を作り出していく。足元のほうで、ばしゃばしゃとタイヤが水たまりをかき乱す音が、聞こえた。
それから3分ほど走った頃だろうか。レイは頭の中にちくりとした痛みを覚えた。思わず目を閉じる。脳の中に落ちた一点を中心として、光明がさざ波のように広がっていく。
その輝きの中に、合わせ鏡が現れ、その鏡面に様々な景色を映し出していく。何十、何百もの映像が瞳の裏に過り、レイは強烈な眩暈を感じた。額を抑え、頭が垂れそうになるのを何とか抑える。もう何度も経験しているはずなのに、この感触には一向に慣れることはなかった。暗幕の中で八方から、まったく別ジャンルの映画を大画面、大音量で見せられているような気分だ。容赦なく視覚、聴覚に襲いかかってくる情報に精神と肉体が削り取られていく。
「お父さん」
窓ガラスに爪を立て、苦痛に歯を食いしばりながら、レイは前を見た。相変わらず、平坦とした道のりが続いている。3分前との違いといえば、木々の姿がまばらになり、垢抜けていない一軒家がそこそこ見られるようになってきたことぐらいか。田舎と町中の中間地点、という感じがする。
レイは後頭部のあたりから、ざらざらとしたものが移動するのを察知しながら、掠れ切った声を喉の奥から絞り出した。口内から血の味がする。唇の裏側からいつの間にか出血していたのだった。
「ここ、だよ」
「そうか」
黒城はぽつりと、底なし沼の中に小石を投げ込むような返事をすると、ブレーキを踏みこんだ。その拍子に大きく車体が揺れ、レイは後頭部をシートにしたたか打ちつけてしまった。
思わず、「痛っ」と声が出てしまう。すると周囲の確認を終えた黒城が、ギアをパーキングに引きながら、レイに顔を近づけてきた。眉間には細かい皺が刻んである。表情をあまり動かさない黒城でも、眉間にはよく皺を寄せた。というよりもむしろ、感情の変化を目の周りでしか表わさない人だった。
黒城はいつものように高圧的な、だけれども不思議と優しく響く声で、謝罪を口にした。
「悪いな。いささかブレーキを強く踏み過ぎてしまったようだ。やはり慣れない道は、この私でも辛い」
黒城はレイの頭に手を乗せると、そのままその掌を小さく動かした。大きな手でそうやって撫でられると、安心感がじわじわと心に広がっていき、とても心地のいい気分になる。この父親の手が、レイはたまらず好きだった。温かく、あらゆる負の感情を追い出してくれるような、大人の手。
「あ、うん。大丈夫、だけど」
レイは頬が紅潮しているのを自覚し、思わず黒城から目を逸らした。黒城に真正面から見つけられると、時々心臓が高鳴ってしまうことがある。この感情の正体が分からず、いつもレイは戸惑わなくてはならなかった。
「行くぞ、初戦闘だ。私の、いや、私たちの力を、見せてやろう」
黒城の果敢な声に、レイは頷く。すでに頭の痛みは引いていた。代わりに胸の奥が脈打ち、緊張が体内をめぐっていく。
自分にしかできないことが、目の前にある。そしてそれをこの手で、父親と共にやり抜くことができる。これほど、嬉しいことはない。レイは使命感に、全身を1つ震わせた。
最近世間を賑わせている都市伝説の1つに、怪人存在説というものがある。
夜な夜な現れる怪人が、人々を誘拐して回っているという話だ。連続女性失踪事件という、実際に起きている事件とも相まって、また目撃情報も多数寄せられていたため、怪人は実在するとの向きが大衆の間では強かった。怪人が女性たちを誘拐し、どこかに連れ去っているという噂である。確かにこの事件には、一切の物的証拠が残されておらず、不明瞭な点が多々あるのも確かだった。
だがその実は、とりあえず怪人という不確かな存在に罪を被せておくことで、人々は安心しようとしているのかもしれない、ということだ。わけのわからない怪人に誘拐されるんだからどうしようもない、という半ば天災に出くわすような覚悟で毎日を過ごしているのではないか。それに警察の情報操作ということもありえない話ではない。
あらゆる事件に対し、「怪人の仕業だ!」ということにしてしまえるのならば、警察としてはこれほど楽なことはないだろう。難解な事件にぶち当たったら、その罪をすべて怪人に背負わせてしまえばいいのだから、捜査の手間も省ける。遺族や大衆はそれを許さないだろうが、これだけ立て続けに謎の失踪事件が続いてしまえば、怪人のせいではないとも言い切れない。
そしてつい2日前、その失踪事件によって行方をくらませていた11人の女性の遺体が、町外れにある民家の中で発見された。もちろんこの一件はニュースとなり、今でも日夜報道されている。
11の遺体はすべて、体のどこかしらが欠損しており、その状態で床に投げ出されていたという。その光景は、凄惨なものであったに違いない。第一発見者の驚愕と戦慄が相当なものだっただろうということは、容易に察することができる。
さらに現場には1人、生存者がいたということも話題をさらう要因となった。テレビでは20代前半の女性、とだけテロップに出されていたので詳細は分からないが、精神が衰弱しており、犯人の手掛かりを聞き出すのには時間がかかるだろうとのことだった。
そしてこの一件によって、怪人に関わる論争が再燃したことは言うまでもないだろう。やはりこれも怪人の仕業だと根強く都市伝説を信望する派閥と、やはりこれは猟奇殺人犯の犯行なのではないかという現実的な観点から事件を論じる派閥に分かれ、インターネット上だけではなくテレビの特番でも激しい論争が巻き起こっていた。しかしどちらが正しい、と審判を下せる者がいるはずもなく、ただ罵詈雑言を喚き散らすだけの途方もない争いが続いている。
だが、レイは怪人が実在すると断言することができた。何故か。レイはその怪人の存在を感知することのできる、確認されている中で唯一の人間だからだ。
なぜそんなことができるのか、という問いにレイは答えることができない。気づいたらそういう能力が備わっていたんだよ。そう返す他ないからだ。レイ自身にも、この力の正体は分からずにいるのだった。
まず怪人の動きを感じると、脳内にあらゆる映像が滑り込んでくる。それは怪人の目を通したものだったり、怪人の姿を俯瞰に映したものだったりする。とにかくざっくばらんとした情報が、瞼の裏を次々と通り抜けていく。さらにその1つ1つのイメージが頭の外に消えていく度に、ちかちかと瞬くのだ。強制的に体の内側から光が膨らんでくると、徐々に頭痛が生じ、目眩が現れ、吐き気を催してしまう。
今でもこの感覚には慣れないが、それでも体の異変の理由が分かっただけでも、精神的に多少楽になっていた。これは他の人が有していない、自分独自の能力であることに気がつくと、苦痛よりも誇らしい気持ちのほうが勝るようになっていった。怪人の気配を事前に察知することができるならば、1人でも犠牲者を減らすことができるかもしれない。
そしてその考えを実現させるため、レイはある日父親に連れられ、ある会合に出席した。それは怪人退治をしようと立ち上がった人々が集結したもの一種のサークルであり、その活動の概要を聞いているうち、レイはここならば自分の力を存分にいかせるということを確信した。
“マスカレイダーズ”というその集団に、レイは説明を受けたその場で入団表明をした。それも、黒城と一緒にだ。そして今のところ、レイの思惑は功を奏している。事前に怪人の出現を予知し、それを戦闘要員の人に伝えるのがレイの仕事だった。そしてその活躍もあり、犠牲者の数は11人を境に増えることはなかった。実に2週間以上、怪人が毎日のように現れていたことを考えると、かなり上出来な結果ではないかと自負していた。
そして今日もまたレイは怪人の気配を感じ取り、しかも初めてこうして戦いの舞台に赴いている。それも一重に、父親の初戦闘に関わりたいという一心からだった。これまでは戦闘システムが1つしかなかったため、自動的に戦闘員は1人のみだったが、つい先日2つ目の戦闘システムがようやく完成したことで、黒城がその装着者に選ばれたのだった。父親の華やかなデビューを見逃すわけにはいかない。だからこそレイは危険を承知で、現場まで付き添うことに決めたのである。
レイは車の外に出ると大きく伸びをし、外気で肺を満たした。雨上がり特有の瑞々しい匂いが鼻孔を突き、湿度の高い、意識を蝕まれるような暑さが全身をくるんでいく。
周囲は人気がなく、静謐とした雰囲気に囲まれていた。建物があるにはあるが、廃屋や資材置き場などがそのほとんどを占めているようで、あまり頻繁に人が行き来をしている様子はない。月のない、心もとない外灯だけが照らしだすそれらはまるで建造物の幽霊のようだ。腐り、剥がれ落ちた外装は白骨のように見える。
夏虫の甲高い、鈴のような羽音がどこからか聞こえてくる。その涼しげなメロディーとは真逆な、蚊や蠅の舞う音もまた耳元で聞こえてきて、そちらは非常に鬱陶しい。頭を振り、手で空中を薙ぐが、何度追い払ってもすぐに帰ってくる。この果敢な意欲をもっと別の有益なことに利用して欲しいと、レイはいつもいらぬ思考を働かせてしまう。
そうこうしているうちに、もう腕を蚊に食われてしまった。赤く円状に腫れていく箇所を手で軽く叩きながら、レイはすでに車から降りた黒城の背中を追っていく。
その時、レイのつまさきの辺りに何やら黒い塊が落下してきた。レイは急停止し、頭上にひしめく葉の群れを仰ぐ。この辺りは道なりに沿って、こんもりと緑の葉が乗った木々が植えてある。そんな木々の1つの足元に、レイはいま立っていた。
嫌な予感をひしひしと受けながら、レイは木の上から落ちてきたと思われるその黒い物体に恐る恐る視線を移す。
それは人差し指に乗っかってしまうほどの大きさで、丸い形状をしていた。お菓子袋の口を閉めるのに使う用具、モールを丸めたものにどこか似ている。果たしてその連想はどこから、と頭と目を働かせてみれば、その黒い物体の表面にはモールと同じように、うっすらとした繊毛が生え揃っていることが分かった。よく見れば、その1つ1つが独立した生き物のようにうようよと蠢いているように見える。
レイは頭から血の気が引いていくのを感じた。血液が足に向かって逃げていく足音を聴覚が捉え、顔が徐々に冷たくなっていく。
その丸い物体が身じろぎ、ゆっくりと円の体勢を崩していき、最終的に1本の棒のような姿に変わったからだ。その棒の一端で、無数の足がうようよとさざめき合っている。その度に全身を包んでいたあの、細かい毛が震え、さらに複雑な動きで応えていく。
毛虫だ。
触覚をくねらせ、漆黒の体毛の中に混じった緑色の毛をてかてかさせて、レイを見つめてくる。その自然のものとは思えぬ極彩色は、どことなく不気味な印象を周囲に植え付ける。全身をくねらせる毛虫の姿は、おぞましいと形容する他ない。実際、レイの白々とした腕にはびっしりと鳥肌が立っていた。
視覚の捉えた映像がようやく脳内に反映され、途端にレイの体に遅れて恐怖が生まれてきた。口の中から胃の中まで、砂を流し込まれたかのような感覚が襲いかかる。毛虫の繊毛1本1本がクローズアップされて、網膜に焼きついていく。
「ひゃあ!」
気の抜けた悲鳴をあげ、レイは跳びあがった。毛虫を飛び越えて走り、黒城に後ろから抱きつく。そうすると父親のがっちりとした胴体と、その皮製品のような独特の匂いを体全体で吸い込むことができ、それだけで少し落ち着くことができた。それでもまだ、毛虫の姿は頭から消え失せることはなかったが。
娘の異変にも、黒城は顔色1つ変えなかった。慌てふためくことも、不快を顔に出すこともしない。足を止めると、ゆっくり振り返った。
黒城はまず怯えているレイを見た。レイも黒城を見上げた。黒城はまるでレイの瞳の色から、感情を読み取ろうとするかのように彼女をしばらく凝視していた。それから、視線をその向こうの常闇へと移し、目を細め、今度は毛虫を見つけたようだった。
「……なるほど」
黒城は自分の腰に絡み付いているレイの手を解くと、踵を返し、毛虫に近寄った。
どうするつもりなんだろう。レイはただ立ち尽くし、黒城の動向を見守るしかない。外灯の少ない暗澹とした夜道に、地を踏みしめる父親の足音が聞こえてくる。
黒城は毛虫の前で立ち止まった。そして足を上げると――そのまま革靴の踵で、毛虫を踏み潰してしまった。
「えー」
思わず、レイは声を漏らしてしまう。驚愕の叫びなのか、それとも畏怖の悲鳴なのかは、自分自身でも分からない。しかしその気色悪さに近づくことさえも憚られていたものを、いとも簡単に踏み潰してしまった父親に、畏縮していたことは間違いなかった。
そうしてからレイは、かつて黒城がタオルの巻かれた素手の一撃で、ゴキブリを仕留めていたことを思い出した。父親はそういう男なのだ。自分に害なす敵にとことん容赦がない。味方なら頼もしいが、敵に回すと恐ろしいタイプだ。
黒城は潰すだけでは飽き足らず、その場で毛虫を踏みにじっていた。ごしごしと、毛虫の体が地面とこすれ合い、すり下ろされていく音が聞こえる。
「私と私の家族を貶めるものに、私は容赦しない。虫けらの分際で、たわけたことを。私の娘を怯えさせたその罪を、地獄であがなうがいい」
終わりに地面で、足の裏に付着した毛虫の体液や残滓をこすり取ると、黒城はレイのところに戻ってきた。地面には砂に混じって、わずかに緑色の液体が混じっていた。
「行くぞ。私たちのことを、誰かが待っている。一刻も早くたどり着かねばならない」
「う、うん」
レイは憮然とした表情を浮かべる黒城の、半歩後ろをついていく。毛虫を踏みつけた足からできるだけ遠ざかりながら、またその足跡を踏まないように注意しながら。
「ねぇ、お父さん」
唐突に疑問が心中に浮かび上がってきたので、レイは父の背中に尋ねた。
「なんだ」
「お父さんって、怖いものとかないの?」
歩みこそ緩めることはなかったが、黒城は天を睨み、顎に手を添えて考えるような仕草をした。レイもそれに釣られるようにして、空を見上げる。黒い絵具で塗りつぶしたような不自然な空の色は、地獄を彷彿とさせた。星が1つも瞬いていない。空の彼方のほうで、ごうごうと低い唸り声のようなものが聞こえ、黒い空は渦巻いているように見えた。先ほどまでは涼やかだと感じていた夏虫の音も、その空の下で奏でられていることに気付くと、途端に恐怖を煽るBGMのように聞こえるから不思議だった。
「あるさ」
しばらくして、黒城は言った。レイに顔を向けることはせず、その目は一心不乱に前方を射抜き続けている。
「だが私は、苦手なものを前にして取り乱すことをしない。なぜなら私は世界大統領になるべき男だからだ」
「世界大統領?」
これまでの生活の中で、黒城の口から何度も吐き出されている言葉のはずなのに、レイは訊き返してしまう。そうした理由には本当にわけがわからない、ということもあるが、くだらないことでも父親と会話をすることにより、怯えの色が混じったいまの心中を紛らわせたいという気持ちの方が強かった。
「あぁ、私の最終目標だ。すごくいい響きだと思わないか、世界大統領。私にふさわしいと思うんだが。どうだろう」
「クロニクルは、どうしたの? それになるってさっき言ってたじゃん。もう止めたの?」
「どちらもいい。世界大統領・クロニクル。うん、最高だ。よし、私の通り名にしよう。いま決めた」
「通り名って、自分で名乗るものなの? 他の人が勝手につけるもんじゃないの?」
「他称は二流がやることだ。一流の男は、自分から名乗る。勝手に変な通り名付けられたら、たまったもんじゃないからな。自分の名を自分でつけたいのは、人間の本質だと思うんだがね。なにより、かっこいいじゃないか」
「はぁ」
相変わらずわけがわからない。そして諧謔を口にしている様子でもない。父親はやはり、他の人間とは別の次元を歩んでいるらしい。黒城は首を捻り、レイを一瞥すると真顔で言った。
「もう少し大きくなったら、お前も通り名を考えなさい。自己紹介の時に叫ぶと、皆がひれ伏すぞ」
「よくないよ。私はお父さんと違って、まっとうな人生を歩みたいもの。世界なんたらっていうのも、友達の前では言わないでね。恥ずかしいから」
「それは保証できない。いや、むしろ私がその目標を掲げればその友達は感激するに違いない。世界大統領になるなんて宣言できる男は、世界中を見渡してもこの私以外にいないはずだからな」
「そうだね。きっと感激するよ」
そしてその次の日から、レイを見る友達の目が憐れんだものに変わるだろうということは、容易に想像することができた。こんな父親、世界中を探したって指折り数えるほどしかいないだろう。
「お前も、いい父親を持ったものだな」
しれっとした顔で、黒城は言う。外灯からの光の角度のせいかもしれないが、その表情は心から喜んでいるように見えた。
「はい。私はいいお父さんを持った、幸せ者です」
レイは適当に調子を合わせて応じた。思い切り投げやりの口調で言ったつもりなのだが、黒城は満足そうにこちらを見て、瞬きをした。その顔つきがあまりにも喜色に富んでいたので、なんだかレイの心にも温かいものが注がれていくような気がした。また心臓の音が速くなる。どうしてだろうと再び悩むが、悪い気はしなかった。
その時、レイは頭の中を突き刺されるような痛みを感じた。映像が脳内に殺到してくる。小立の裏側。雨露で湿った草むらを踏みしめ、土でできた道に近づいてくる。大量の光が溢れだし、レイの視界を白一色に染め上げる。ミキサーの中に放り込まれたかのような急激な眩暈に倒れそうになるが、両足に力を込めて踏ん張り、何とか体勢を保った。こめかみを先の尖ったもので押されているかのような激痛が、顔をしかめさせる。
「お父さん……」
片方の膝がくず折れる。両腕で頭を抱えるようにしながら、レイはまた意識の中で新たな映像を見ていた。細長い、緑色の何かだ。それが空を突っ切って、猛然と2人目がけて襲いかかってくる。枝を切断し、葉を落とし、木の幹を傷つけて、それはいま小立から飛び出そうとしている。
「お父さん……右!」
レイは叫んだ。叫びながら、自分も横に転げた。黒城はレイの指示を受けると、右足を後ろに動かして、半身になった。
ひゅん、と空気を震わす音がレイと父親の狭間を通り抜ける。直後に、爆竹が破裂したかのような衝撃音。身を起してその爆音のほうを見やり、レイは息を呑んだ。
視線の先には、焼けた木の幹があった。咄嗟に目で計測した限り、両手を使っても掴みきれないほどの太さがある。鋸を使って切り落とすには、相当の力が要りそうだ。
その木がいまや呆気なく両断され、切断面から黒々とした煙をあげていた。折れた幹のもう半分はその傍らに投げ出され、その表面にはちろちろと蛇の舌のように炎が這いずりまわっている。幸い、落ちたのが湿った泥道の上だったため、周囲に飛び火することはなく、無事に至っていた。
レイは立ち上がると、頬に付着した泥を指先で軽く拭いながら、木を破壊した何かが飛んできた方向に振り返った。服も粘り気のある泥にまみれていたが、それを払い落しているほどの心の余裕はさすがになかった。
むらがり集まった木々をかき分け、草の根を踏み均して、木立の奥から人影が姿を現す。だがレイの前に立ったそのシルエットは、大きく人間のものとはかけ離れていた。
怪人だ。レイは瞬間的に判断した。間違いない。全身を形成している細胞たちが我先にと、心に向けて警鐘を鳴らし続けているのを感じる。そのひどくくぐもった大音量に虐げられつつも、レイは気を強く持って踏みとどまった。
一目見て、2本足のトカゲという感想をレイは抱いた。とはいっても恐竜ではない。尾はなく、人間のような直立二足歩行である。人間が体ぴったりなトカゲの皮を被っているかのようだ。顔には煤けた包帯をがんじがらめに巻いており、包帯の隙間からは充血した目が覗いている。両腕の手首から先からは、トカゲの頭部が生えていた。まるで鍋つかみを履いているみたいだ。だが、そのトカゲの頭部に付いた目がぎょろりと動く様を目撃するとレイは怖気を覚えた。
うぅうぅと救急車のサイレンのような声を漏らしながら、たどたどしい足取りで2人に近づいてくる。水たまりに足首まで突っ込んでもまったく気にかけることなく、柔らかい地表に足跡をつけていく。足の指が5本あるという、中途半端な人間らしさが、この状況では逆に不気味さを助長しているように思えた。
“怪人”を目にすると黒城は仁王立ちのまま、鼻を鳴らした。その瞳には、相対するものを見下す類の色が混じっている。これこそが、父親の見せる素顔だ。レイは父の爛々と輝く眼差しを見つけ、唾液を呑みこんだ。
「お前は実に運がいい。この私の刻む歴史に、その名を残すことができるのだからな。さぁ、かかってきたまえ。ただし」
“怪人”は黒城に右腕を向けると、その末端についたトカゲの口から、緑色の光線を吐き出した。先ほど、今も2人の背後で燃え盛っている、あの木を破壊した攻撃だ。三日月の形をしたライトグリーンの光線が、黒城目がけて一直線に降りかかってくる。
またもや軽快な破裂音が夜空の下に鳴り渡った。
「お父さん!」
胸がざわめき、押し寄せる不安の波を抑えることができずに、レイは思わず父を呼んだ。
だが、その心配はまったくの無用だった。取り越し苦労といってもいい。黒城は変わらず、両足を少し開いた姿勢で立ち尽くしている。その手には、小さな1枚の板を掲げて。
その掌に収まってしまう大きさの板は、1cmにも満たない厚みをもっていた。一見すると、薄型の電子手帳のようでもある。色は白で、その表面は光沢を放っていることが夜闇の中でも分かる。その板の正式名称が“デッキプレート”であることをレイは知っていた。マスカレイダーズに所属する、もう1人の戦闘員も同じものを使っていたからだ。ただし向こうのはプレートの色が、鮮やかな黄だったが。
黒城はいま、プレートを持った手を前に突き出していた。プレートの表面からは白い煙がうっすらとあがっている。それだけで、プレートを使って光線を防御したということを、レイにも理解することができた。壊れやすいように見えて、あのプレートは強固な素材で作られているのだ。敵の攻撃を防ぐことなど、容易いに違いない。
黒城は両頬を小さくあげ、目を見開いた。眼光が、鋭く“怪人”の胸元を抉る。
「ただし、私に刃向うことがどれほど愚かしいことなのか、身をもって教えてやろう。この厚意に感謝したまえ」
突きつけるように言うと、プレートを片手に持ったまま、黒城は両腕を交差させた。ちょうど胸の前でバツ印を作るような形だ。そして数秒間、その体勢のまま怪人を睨んだ後、衣擦れの音とともに、両腕を左右に広げた。
「超、顕現!」
叱りつけるような声音を発するとともに、黒城の全身は強烈な光に包まれていった。陽光のような白い輝きに、レイは目を逸らさずにはいられない。このまま見つめ続けていれば、目が潰れてしまうのではないかという懸念もあった。
その光は黒城の体に纏わりつき、そのうち鎧のような形状に移り変わっていった。光でできた、あまりにも不確かで実体のない装甲だ。さらに黒城の顔面をも輝きは包みこむと、今度は徐々に光の強度は薄らいでいった。そして終わりにぴかぴかと稲光のような明滅を繰り返しながら、光は残像を負いつつうすらうすらに姿を消した。
網膜を焼き付けるかのような光輝を振りほどいた時、そこに立つシルエットは黒城のものではなくなっていた。
銀色の鎧に身を包んだ、甲冑兵だ。腹周りや脹脛にあたる部分には体に密着した黒いスーツがあてがわれ、それ以外の箇所には装甲が纏われているという全身構成になっている。さらに加えて両肩に装備された、ボートの船底のような形状をした笠が目を引く。肩から吊り下がったその笠は上腕を覆うほど巨大なもので、保護という面においては重要な役どころに属していることが一目で分かる。
頭部全体を覆う鋼色のマスクにはトンネルの壁に当てた車のヘッドライトのような、レモン色の双眸が配置されている。こめかみのあたりからはアンテナが伸び、その先端は矢印のように尖っている。額には赤く光る宝石のようなものが備わっていた。
腰回りに取り付けてあるベルトのバックル部分には、長方形型の四角い窪みがあった。ちょうどプレートをぴったり収めることのできるサイズである。その目測は正しく、戦士は手に持ったプレートを、光が完全に消失すると同時にバックルの上からはめ込んだ。
「これが、アーク……」
レイは現れた戦士の姿を前にして、呆然自失のまま呟いた。
“アーク”。それが黒城の纏った、戦士の装甲服の名称だ。方舟の名を冠する戦士は小首を傾げると、そのまま腕組をした。
「来たまえ。まさか下級種族の分際で、私に汗をかかせようというのではあるまいな?」
その挑発の意味を理解したのか、してないのかは定かではないが、“怪人”は今度は両腕を“アーク”へ突きつけ、その双方のトカゲの口から先ほどと同じように、三日月型のビームを撃ちだした。
だが、“アーク”は動じない。姿は変わっても中身は黒城和弥という人間のままなのだから、その行動に意外性はなかった。そして黒城はそこから一歩も動かぬままに、体の重心をわずかに左右に反らすだけで、ビームの連撃を次々と回避していく。
いくら“怪人”が吠え、ストライクゾーンにボールがなかなか収まらず癇癪を起こす野球のピッチャーのように地団太を踏みながら、つるべ打ちにビームを放っても、“アーク”には掠りもしない。わざと外しているのではないか、と勘繰りたくなってしまうほどの華麗さだ。“アーク”は相変わらず腕組をし、偉そうにふんぞり返ったまま、“怪人”を冷徹に睨んでいる。
その時、レイは道の端の方に誰かが倒れているのを見つけた。例の死骸のような家のすぐ足もとだ。“アーク”装着時に生まれた光の残りカスと、“怪人”の手から撃ちだされるビームの輝きのおかげで闇のベールが剥がされ、その姿を発見することができたのだ。
レイは2人の戦いを――その一方的な構図を、戦いと称していいものなのかは分からないが――視界の端で捉え続けながら、倒れ伏す人のもとへと急いだ。
倒れていたのは、小さな女の子だった。4,5歳ぐらいに見える。髪を後ろで1つに束ね、赤いワンピースを着ている。目を凝らさずとも、そのワンピースはほつれていて、ボロボロであることが分かった。少女は靴を履いておらず、ワンポイントに黄色い花が刺繍された白い靴下で、湿り気の高い土を直接踏んでいた。
“怪人”による被害者だ、とレイは直感的に判断した。女の子に一見、外傷は見られないが、その小さな瞼は固く閉じられ、気を失っているようだった。なぜ、こんなところに1人でいるのか。両親はどうしたのか、などの疑問が頭に過るが、そんな思案を巡らせている時間はないようだ。こんなところで寝ていては、戦いの余波に巻き込まれてしまう恐れがある。
レイは女の子を背負うと、走って木の陰に退避した。その背中に温かい肉体の感触、そして脈を刻むわずかな鼓動を感じ、レイはひとまず胸をなで下ろした。
「君の実力はこんなものかね? では今度は私の方から、いかせてもらおう」
高圧的な口調で宣言すると、“アーク”は腕組を解き、右腕を敵に差し出すようにした。するとその手首のすぐ上、前腕部分の装甲が、左右に開いた。まるで自動ドアの開閉のように、実にスムーズな動きだった。“アーク”の前腕装甲はハッチのようになっており、そこに多種多様な武器を隠し持っていると、レイは前情報で聞かされていた。
その情報通り、開いたハッチの内側から音もなく、黒い銃身がせり上がってきた。ハンドガンだ。しかしグリップや引き金は腕の中にしまわれたままで、ライフル銃のように長い銃身だけが剣のように飛びだしている。
“怪人”はまったく臆することはなく、いや恐怖にあえいでいるからこその行動なのかもしれないが、先ほどよりもさらに短い間隔でビームを発射してきた。もはやレイには、緑色の光が中空でちかちかと瞬いているようにしかみえない。さすがの黒城でも、あれをすべて回避し切るのは至難の業であるはずだ。
だが、“アーク”は襲いかかってくるビームに向けて、余裕綽々といった素振りで右腕の銃口を突き付けた。やがて、空気を上下に揺さぶるような銃撃音。思わずその衝撃に目を瞑ってしまったレイだったが、すぐに瞼を上げ、そこに映しだされた情景に声を呑みこんだ。
“アーク”はハンドガンの銃弾により、自分に向かい来るすべてのビームを空中で撃ち落としていたのだ。乱打される無数のビームの雨は、“アーク”に届くことすらなく、宙で次々と霧散していく。さらにそれだけは飽き足らず、銃弾は“怪人”の胴体をも貫いていた。“怪人”の体から小さな火花があがり、その度に後ろにのけぞっていく様がはっきり見て取れる。
そのうちビームの応酬が終わりを迎えると、銃弾を叩きこまれた“怪人”はふらふらと足元を泳がせ、今にもその場で崩れ落ちそうになっていた。俗に言う、満身創痍の状態である。サイレンのような鳴き声は弱弱しく、掠れている。
「なんだ物足りない。もう少し私に活躍をさせてくれたまえ。これは、命令だよ。世界大統領からのね」
“アーク”の両肩に装着されていた、あのボート型の笠が突如跳ね上がった。そして重々しい響きをあげ、笠の内側から一対の砲口が現れる。
レイの腕がすっぽりはまってしまうほどの、大きな丸い口だ。灰色で、螺旋状に黄色い模様が刻み込まれている。あの笠は備え付けられたキャノン砲を支えるための、バインダーとしての役割を担っていたのだ。
またも“アーク”は仁王立ちで腕組という、実に尊大な姿勢を取ったまま、両肩のキャノン砲から光の球体を撃ちだした。
刹那、暗闇を一度に剥がし取るほどの光が周囲に満ちた。続けて腹に響くほどの重低音が地表を打ち鳴らす。その震動に立っていることができず、レイは木に肩でもたれかかるようにして、ずるずると地べたに座り込んだ。
“怪人”のいる地面からは、赤々とした炎があがっていた。光球の着弾によって生まれた業火の中で、“怪人”はあがき苦しんでいる。その両腕は炭化し、上腕から千切れ、体にも炎が燃え移っている。
“アーク”は両肩の笠を下ろし、キャノン砲を収めると、また両腕を交差させるポーズをとった。
「恨むがいい。このアークに邂逅してしまった、己の運命を」
熱風がレイの頬を掠める。爆心地から多少距離があるはずなのに、ひりひりと皮膚が焼けつくような熱さだ。あの爆発とこの熱量を直に受けてもまだ生きているのは、さすがと賞するべきなのだろうか。それでも腕を失い、悲痛の呻きを発しながらうろたえる怪人の姿には、胸が痛くなった。怪人を倒すのが自分の役目であるはずなのに、こんな感情を持つのは間違っていると自覚しているのに、それでもレイの目頭は、じりじりと熱を持ち始めていた。それが熱気の仕業だけでないことには、とうに気が付いていた。
レイが感情を動かされはじめていた、その時だった。炎の中で“怪人”の姿が揺らぎはじめた。レイは最初、それが熱気のせいだと思っていた。ろうそくの周囲は空気が歪み、なんだかすりガラスを通して見た景色のようになる。それと同じことが、自分の目にも起こったのだと解釈していた。
だが、それは違った。
本当に“怪人”の体がぐにゃぐにゃと姿を変え始めたのだ。そして炎の中から何かが勢いよく飛び出し、空中で一回転して、その黒い影は“アーク”の背後に両足で着地した。
ニャゴ、というさかりのついた雄猫のような声が森の中に響いた。と同時に、“アーク”は金属の擦れる音を発しながら振り返った。
打ちだされた黄土色の拳が、“アーク”の胸を叩く。さらに流れるように第二の拳が襲い来るが、そちらは身を反らして回避した。
“アーク”の前に立っていた今度の“怪人”の姿は、猫だった。先ほどをトカゲ人間と形容するならば、今度は猫人間だ。黄土色の体に、黒い縞模様。頭には猫の耳が生え、背中のあたりから手品師のもつステッキのような細長い尻尾が伸びている。先ほどの“怪人”との共通点といえば、胸に刻まれた不思議な模様以外にない。
よく見ると、猫型怪人の両腕には焦げ付いたあとが残っていた。黒塗りのブレスレットを付けているかのように、腕を一周している。その部分を目にしてようやく、いまここに立っている“怪人”と炎の中で踊り狂っていたトカゲ怪人とが同じ存在であることを知った。火炎のなかに視線を投じると、業火に飲みこまれていくトカゲの体表のようなものがレイの瞳には映った。トカゲの体を脱ぎ捨て、猫の姿に。これがあの怪人の持つ特性なのだ。
“怪人”は怨恨の込められた眼差しを、“アーク”にただひたすら向けている。その鼻息は荒く、顔からは逆上のためなのか涎が滝のように流れ出ている。
“アーク”は口のあたりを掌で触れ、肩をすくめながら、その恨みがましい視線を言葉でばっさりと切り捨てた。
「随分姿が変わったようだが。残念だ。どんな姿に変わろうとも、アークを頂点としたこのイデオロギーが、崩れることなどありえない。さぁ、来るといい」
左腕のハッチが、開く。右腕と開く場所はまったく同じ、前腕部分だ。だがそのハッチから得物が姿を見せる前に、“怪人”の丸々とした拳が空を切った。
歓喜の絶叫とともに“怪人”の太い腕からストレートが繰り出される。レイは“アーク”の胸が叩かれ、くぐもった音とともに火花が散る様子を想像したが、いくら時間を要してもその情景が現出することはなかった。
代わりに“アーク”の強気な態度を纏った声が、夜の中に聞こえてきた。
「低俗なわりには、分かっているではないか。この私がどれほど尊大なる存在なのかということを。お前ごときが、触れることさえも甚だしいという事実を」
“怪人”の拳は“アーク”の体すれすれのところで、ぴたりと停止していた。しかしそれは“怪人”が敵に情けをかけたわけでも、ましてや慄きを抱いたわけでもけしてない。これ以上、腕を伸ばしたら自滅することを瞬時に理解したからだ。
“アーク”の左腕に搭載されたウェポン。それは1本の白いワイヤーだった。先端に洗濯バサミのようなキャッチャーのついた、アンカーと呼ばれる武器だ。いま腕から射出されたアンカーは両端が結ばれ、大きな円を描きだし、“怪人”の腕と頭はその中にくぐらされてあった。
つまり、“怪人”が腕を伸ばせば勝手にワイヤーが引っ張られ、その結果、怪人自身の首を絞めてしまうことになる。“怪人”は自分の拳で絞殺される、一歩手前で気が付いたのだ。ワイヤーは“怪人”の首に深く食い込んでいる。青い顔をし、苦悶の声をあげながら、“怪人”はこの呪縛から逃れようと必死に足掻いている。
“アーク”はゆっくりと、右腕の銃口を“怪人”の腹に突き付けた。
「言ったはずだ。私に出会ったことを、全力で悔やめと」
銃声が轟く。それも何発も。火花が線香花火のように、空中で幾重も煌めいた。近接距離から弾丸を撃ち込まれた“怪人”の体は背後に激しく吹き飛ばされ、地を転げた。
まるで掃除機のコンセントのように、戻ってきたアンカーを回収すると“アーク”は腰に手を当てた。すると、それが合図であったとばかりに、今度はその右太股のハッチが左右に開いた。
その内部にはダイヤルが隠されていた。昔のオーブントースターに着けられていたような、回転させて目盛りを合わせる、あれだ。“アーク”の体から現れたダイヤルは5目盛り分まで動かせるようになっており、その周囲は歯車のようにぎざぎざと加工が施されてあった。
“アーク”はダイヤルの目盛りを、2つ目まで動かした。するとその体から丸い光が零れ落ち、ふわふわと風船のように宙を漂い始める。この状況で、その光球があまりにもゆったりとした、緊張感のない動きをしているのでレイは逆に当惑した。
その光の球を“アーク”は掴むと、指を立てた。力をこめるとその表面に皺が寄り、さらに握りしめると音をたてて、その光は破裂した。
どさりと音がして、砕けた光の中から出てきたものが“アーク”の腕に乗る。それは大きな、筒のようなものだった。“アーク”の身の丈よりも長く、両手でも完全に掴みきることはできないくらいの太さがある。色は灰色で、妙に物々しい。筒の端に銃のトリガーのようなものが設置されているのを見て、レイはその正体を初めて理解した。
バズーカ砲だ。爆弾を詰め込み、それを高速で打ちだし、対象物を木っ端みじんに吹き飛ばす、重兵器だ。それを“アーク”は、父親は、両手で担いでいる。
“アーク”はアンカーを発射した。ワイヤーは見事、“怪人”の足を絡め取り、そのまま左腕を高く持ち上げて、“怪人”を引き倒した。
「平伏していろ。アークの前で、面をあげることはこの私が許可しない!」
釣り竿のリールのように、ワイヤーを巻きとり短くすると、“アーク”は右足を軸として、その場で回転を始めた。ぐるぐると駒のように彼が回ると、一緒になって“怪人”も引きずられる。銀色の戦士を中心として、うっすらとした円が地面に描きだされていく。
そしてワイヤーを半ばで切り離し、慣性の力にも手伝わせて “怪人”を高く投げ飛ばすと、“アーク”は先ほど呼び出したバズーカ砲を、脇の下で挟むようにして構えた。その砲口は、正確に宙を舞う“怪人”へと向けられている。“アーク”は太股のダイヤルを操作し、今度は3目盛り目に照準を合わせた。
「散りたまえ。このアークの前で、華々しく」
“アーク”の体からバズーカ砲へと、強烈な光が注ぎこまれていく。その砲口には暁光によく似た輝きが満ち溢れ、そのうち砲身全体にも光の波が押し寄せていく。螺旋状に描かれていたバズーカの模様の内部を、まるで色のないストローでジュースを吸ったみたいに、光がくるくると渦巻きながら流れていく。そのすべてに輝きが行き交うと、バズーカ砲が低く唸りをあげた。
引き金を、しぼる音。
カチリ、とやけに軽々しい音がレイの耳にも届いた。そしてバズーカ砲から飛び出した光の軌跡を目で追うことすらできず、気が付いた時には、太い光条が天に突き立てられており、頭上が真っ赤に染まっていた。
轟音が鼓膜を痛いくらいに震わせ、発生した衝撃波がレイの体を叩きつける。レイは背中の女の子を庇うようにして、木の裏へと転がりこんだ。金色の長髪が、風でまくれあがる。
建物の屋根がはぎとられ、森の中に四散していく。地面が剥がれて波となり、まるで津波のように木立を砂嵐が襲った。根こそぎ木がかなぐり倒され、葉をまき散らし、次々と道に倒れ伏していく。
空から火の粉が火山弾のように降りてきて、地表に焦げ跡を作っていく。その様子はまるで、雲に頭が届くほどの巨人がでたらめなステップを踏んでいるみたいだった。空から立ち昇った大量の煙が闇夜を埋め尽くし、その景色を白一色に染めあげていく。
“アーク”はその凄惨な世界の中で1人、立ち尽くしていた。すでにバズーカ砲はその手から消えている。嵐が起きようとも、火の粉が降りかかろうとも、煙がその全身を蹂躙しようとも、黒城は動かなかった。腕を組んだまま、威風堂々とした姿勢を保ち続けている。どんなことがあっても揺るがない。そのセリフはつよがりでも、まやかしでもなく、彼の生きるための芯としてしっかりその背骨に備わっているものであるということが、その様子から見受けられた。
密集した木々の裏側で身を潜め、父親を見守りながら、レイはふと背中の重みも消え失せていることに気が付いた。我に返り、振り返る。背中に手を回し、触れてみる。それから周囲に目を配り「嘘」と呟いた。
確かに数秒前まで、この木に隠れるところまではあった、女の子の感触が忽然と消え失せていたのだ。そんな馬鹿な、とレイは心の中で思った。もし落ちたのだとしても、気がつかないはずはない。レイはそれほど長時間、この光景に意識を持っていかれていたわけではないのだから。
では一体、彼女はどこに消えたのだろう。疑問が鎌首をもたげ、レイの心に不安と恐怖が差し込む。脂汗が額に浮かび、喉がからからに干上がっていく。
「レイ。ここに立っているのは、誰だ」
女の子のことに気を取られていたので、レイは父親が自分を呼んだことに気がつかなかった。一呼吸遅れて、「なに?」と言葉を返す。
「ここに立っているのは誰だ?」
また同じ質問を重ねてくる。呆気にとられたレイは、困惑の表情を浮かべる他ない。
「は?」
「ここに立っているのは、誰だと聞いている」
それでなくても混乱しているというのに、父親のふざけた言動のせいでさらに頭がごちゃごちゃになっていく。レイは唇を噛んで、頭の中に籠った熱気を追い払うと、溜息混じりの声を出した。付き合わなくては、一生この空間から出させてはもらえなそうだ。
「お父さん?」
しかし、“アーク”はゆるゆるとかぶりを振った。肩をすぼめ、断固否定とも言うように、力強く。
「違うな!」
煙で覆われていた空は、少しずつだが晴れていっている。火の雨も止んでいた。そんな平穏を取り戻しつつある空の下で、“アーク”は胸の前で腕を交差させ、空に向かって高らかに叫んだ。
「二度は言わん。存分に傾注したまえ。私の名前はアーク。戦いの勝利者。唯一無二、確乎不抜、古今無双の最強戦士だ。人は畏怖と敬意の念をもって、私をこう呼ぶ」
「なんでもいいから、早く帰ろうよ。お父さん」
名乗りを続けようとする父親の言葉を途中で打ち切って、レイはすっかり景色の変わってしまった田舎道を見回す。まるで戦時中の焼け野原だ。歴史の教科書を通じて、レイはその光景を知っていた。人が呻き、足掻き、塗炭の苦しみにあえぐ、地獄よりもさらに陰鬱な場所。
しかしこれだけ開けた場所なのに、あの女の子の姿は見当たらなかった。気を失っていたのだから、すぐに遠くまで行けるはずはないのに。まるで、あんな女の子など最初からいなかったと山々が主張しているかのように、戦闘の終わったこの場所はしんと静まり返っている。
だが、そんな静寂もほんの束の間で、戦闘音を耳にした周囲の住民がすぐに駆けつけてくるだろう。あれほど派手なことをしたのだ。このまま何の騒ぎもなく、済むはずがない。もし女の子が夜に紛れているならば、そういった人々が見つけてくれるはずだ。そのほうが彼女にとっても安全だと思った。俯瞰してみても、これ以上レイたちがここに留まり続けることでのメリットは1つたりとも見つからない。むしろ、リスクのほうが高い。
「ほら、お父さん。早くしないと人が来ちゃうよ。装甲服脱いでよ。目立つから」
「勝利の余韻に浸らせないつもりか? 私は勝利者だ。もう少し、この輝きし舞台の空気に身を預けても構わないだろう」
「はいはい。大統領、大統領。話は車の中で聞くよ。だから、早く。こんなところ誰かに見られたら、私がお嫁にいけなくなっちゃうよ」
レイはまだ何か言いたげな父の手をとり、引きずるようにして、半ば強制的にその場から退散させた。レイの背中にはまだ、女の子のほのかな温もりが残されている。その感触がレイに、後ろ髪を引かれるような奇妙な困惑を生じさせた。
戦闘の余波から免れた木々の葉が、風もないのにざわめく。それはまるで、レイに何かを警告しようとしているかのように聞こえた。
雨上がりの夜は、まだ始まったばかりだ。




