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3章プレタイトル

 それは、真夏の蒸し暑い昼下がりの頃だった。

 時計の針は3時過ぎを指している。それなのに、外は夜の入口のように薄暗かった。

 それは朝から降り続けている雨のせいだ。今朝の天気予報によれば午後には止み、太陽が顔を覗かせるとのことだったが、予想に反して現実は朝から雨脚の弱まる気配すらなかった。

 男はそう広くはないリビングで、ソファーに腰掛け、テレビを観ていた。一昔前に放映されていたドラマの再放送で、耳の不自由な女性とそれを支える男性のラブストーリーだ。男はドラマを真剣に観ているという風ではなく、片手で広げた文庫本を読み進めながら、時折テレビに目をやり、そのシーンが終わればまた思い出したように文庫本に目を落とす、ということを繰り返していた。

 男は蛇のようにねちっこい目をしていた。一重瞼に加えて、目の下には隈もできているため非常に人相が悪い。頬はこけており、顎が尖っている。薄い唇の隙間から見える前歯には金冠が被せられていた。その水気の抜けはじめている顔の肌の具合から、40代前半であることが窺える。

 やがてドラマが終わると、続けてバラエティ番組が始まった。芸能人の品のない大笑いが聞こえ始めると、男はリモコンを操作してテレビのスイッチを切った。それから文庫本をソファーに伏せ、腰を上げる。

 片開きの窓に近づくと、男はそこに敷かれていた分厚い花柄のカーテンをめくり、窓の外を覗き見た。

 雨はどしゃ降りではなく、しとしとと降るタイプだったので、町は比較的静かだった。耳に届くものといえば、車が水たまりを踏みながら通過する音と、通行人の広げた傘に雨雫が落ちる音ぐらいのものだ。朝から続く雨で湿ったアスファルトが、外灯の光を照り返し、輝いて見える。

 黒く染まったアスファルトを瞳に映しこませながら、男は曇った窓ガラスに指を這わせ、そこに絵を描き始めた。とはいっても、これを描こうという着地点があるわけではないらしく、ひたすらに丸と四角を指先でなぞり出している。しかし男の目線は手元には向けられておらず、相変わらず人と車の行き交う道路を睨んでいる。

 男の背後でドアが、音もたてずに開いた。それからすぐに、ばたん、と不躾な音をたてて閉まる。その振動でテレビの上に置いてある、ピンク色の貝殻を抱えたラッコのぬいぐるみが大きく揺れ動いた。

室内に入ってきたのは、1人の青年だった。ステンレス製の眼鏡をかけており、顔の輪郭は細い。黒髪は整髪料で整えられ、清潔感のある印象を与えるのに役立っている。雨に打たれたためか、身に纏った紺色のスーツは、ところどころが滲んで黒く変色していた。

青年に続いて、赤い野球帽にスーツ姿という奇妙な出で立ちをした男が入室してきた。野球帽の男は青年の開けたドアを閉めると、壁際に立ち尽くして待機する。

「私の息子が、お腹を空かせているんだ。ひもじい、ひもじいと泣いている」

 青年を振り向かぬまま、男は抑揚のない声で言った。曇りガラスの上に、丸を描き続けながらだ。あまりにたくさん描きすぎて、もはや曇っている部分がなくなりかけている。  

青年が俯いたまま何も言わずにいると、男はさらに続けて口を開いた。

「別に、君が悪いと言いたいわけではない。ただ、そろそろ私の胸も痛むのでね。早急に、手を打つ必要があると思っている。なにか、いいアイディアはないか?」

 青年は男の呼びかけにも応じず、肩を落とし、フローリングの床をじっと見つめていた。その頬はひくりひくりと痙攣しており、目元には尋常ではない力がこもっている。顔色が悪く、まるでしなびた野菜のようだった。そこでようやく男は、青年の異様な雰囲気に気が付いたのだろう、首をよじって彼を見た。

「どうしたね? どうも覇気がないようだが」

「……亡霊」

 青年の発した一言に、男は眉を上げた。瞳の奥が、海中に落としたペンライトのように、底光りしている。

「亡霊? ほう、実に甘美な響きだ。私は子どもの頃から、幽霊というものを一度でいいから見てみたくてね。わざわざ幽霊狩りに墓地をうろついたこともあるぐらいだ。どこだ、その亡霊はどこにいる?」

 青年は男の問いには答えず、跳ねるようにしてソファーに腰を下ろした。衝撃にソファーのスプリングが悲鳴をあげる。文庫本が飛びあがり、床に背表紙から落下した。

「あなたには分からない。私の前に現れた亡霊は、そんなものではないんだ……そんな、生ぬるいものでは」

 青い顔を両手で覆いながら、青年は上擦った声を発した。その全身は小刻みに震えている。息が荒いのは、恐怖のために頭まで動転し、呼吸の仕方を忘れてしまっているからに違いない。脅えは、いつでも人の体を蝕んでいく。

 男は傍らに置かれた物入れの、一番上の引き出しを開いた。そこからビニール袋を1枚引っ張り出す。デパートのロゴが入った、かなり大きめのものだ。その折り畳まれたビニール袋を、男は青年に差し出した。

「過呼吸になったら、これで口を覆うといい。すぐに楽になる。自分の体が作った二酸化炭素を再び吸うというのは、実におかしな話だが。これもまた、貴重な体験だろう」

 だが、青年は男の顔を鋭く一瞥すると、その好意を片手で弾き飛ばした。男の手から剥がされたビニール袋は、ひらひらと宙を舞い、ソファーの頭に引っ掛かる。しかし男は怒りの表情を浮かべることもなく、口元に軽い笑みさえ携えて、青年を見下ろしていた。

 青年は口のあたりを手の甲で拭いながら、眼鏡のレンズ越しに見えるぎらついた目を男の顔面に突き付ける。顔全体をみると血色が悪いのに、興奮のためなのか、頬だけは紅潮していた。

「こんなビニール袋1枚で、私のこの恐怖を止められると思っているのか。いい加減、冗談はやめてもらおう。私は怖いんだ。亡霊が恐ろしくてたまらない! こんな無様な姿……私には似つかわしくないというのに! ……こんな時ぐらい、あなたこそなにかいいアイディアを出したらどうなんですか。この胸騒ぎを止めるにはどうしたらいい?」

 震えの止まらない自分の両手に目を見開きながら、青年は歯軋りをする。その間にも、徐々に彼の呼吸は途切れ途切れになっていく。まるで全力疾走をした直後のようだ。彼の心臓が力尽きていくさまが、外からでも透けて見えるかのようだ。

「ストレスか。生物の厄介な性質だ。あらゆる疾病、衝動、悪意……これらはすべて、ストレスが主だった原因であると考えられている。過度のストレスは邪悪だ。この世の悪は精神の、そして時代の歪みから生じている」

 男はその高い鼻の頭を指で撫でながら、再び窓の外に視線を転じた。青年は顔をあげ、興味深そうに男の背中を目で追う。それから、ぎこちなく笑った。

「話が、まったく見えてきませんね。あなたの話はいつもそうだ。ひどく、回りくどい。私はこの恐れを抑える方法はないかと聞いているんですよ。誰も、ストレスの蘊蓄など尋ねた覚えはない」

「恐怖を収めるには、その原因を除外するのが一番てっとり早い。精神医学で確かそういう療法があったはずだ。詳しい名前は失念したがね」

 男は医者のような雄弁さをもって、断言した。その時、示し合わせたかのように雷が雨空に降り注いだ。強烈なフラッシュを焚かれたかのような光が窓を覆い、轟音が部屋中を駆け抜けていく。残響が尾を引きながら完全に消えていくのを待ってから、青年は喉を鳴らした。

 雷が通り過ぎる前とまったく同じ姿勢でいながら、男は平然と言った。

「亡霊を始末するのは、嫌いかね? 私は大歓迎だ。とり殺そうと思っている相手に殺し返される。そのときの亡霊の心情を思うだけで……正直、鳥肌がたつ」

 振り返ったその男の表情に、青年は身震いを覚えた。男の爬虫類を思わせる相貌がいま、黒々とした影にくるまれ、その中で喜々とした輝きを帯びていたからだ。

「あなたは」

 そこで一度唾を呑みこみ、青年は引きつった顔になって訊いた。

「あなたは……恐ろしくないのですか。あなたは何人もの、いや何十人もの人間を殺している。私よりも多くの人間の魂を蹂躙しているはずだ。いつ呪い殺されてもおかしくない立場なのに」

「愚問だな」

 青年の言葉を切り捨てると、男は唇の両端を吊り上げるようにして笑った。

「私には覚悟がある。覚悟の前には、恐れはひれ伏すしかない。だからこそ、気骨のある人間はいつの時代でも脅威なのだ。それに先ほども言っただろう。私は、亡霊が大好きだ。生きている人間よりも、はるかに扱いやすい」

 青年は細かく震えながら、スーツのポケットに手を突っ込み、そこからおもむろに銀色の板を取り出した。かまぼこ板ほどの厚みで、片手で受け止められるほどの大きさをもつものだ。表面には羽のマークが彫り込まれており、その上に覆いかぶさるように『4』という数字が刻まれている。

「私もできることなら協力しよう。君と私は共犯者だ。一蓮托生というわけだ、なんでも相談するといい」

 青年はすがりつくように、その板を胸の中で抱きしめると、口をもごもごと動かした。耳を澄ませてみると、青年は自己暗示をかけるかのように、ぶつぶつと同じ言葉を何度も繰り返し、唱えているようだった。

「今日はいい天気だ。息子も喜んでいるよ。こんな日は、何かいいことがあるんじゃないかとね」

 灰色の空を仰ぎながら、男は親指の爪を噛む。くっきりと歯形が浮き上がるくらいに、強く。口から引き抜き、爪に浮かんだその傷跡を眺めながら、男は喜色満面になった。

「私が、殺す」

 弾みをつけてソファーから立ちあがりながら、青年は決断を口にする。その呼吸はすっかり整っていた。それは、青年の覚悟が心に巣食う畏怖をくじいた瞬間だった。覚悟が人間の心を閉ざす暗闇に、光を浴びせかけてくれる。そこ結ばれる実像が果たして、善を象徴するものなのか、それとも悪を具現化したものなのかということは、また別の領域の話なのであるが。

 男は鼻先をガラス窓にくっつけて、歩道を眺めていた。目の前を、短いスカートを履いた若い女性が通り過ぎる。男は彼女のほっそりとした長い素足を凝視しながら、舌舐めずりをした。その目の奥が、獲物を前にしたコブラのようにぎらつく。

「息子も喜んでいるよ。そうだ。どうせなら、殺す前に彼の餌にしてやってはくれないだろうか。亡霊なら、彼も大好物だ」

 男と青年の背後で、唸り声があがる。毛を逆立たせた雄猫のような、怯えと勇猛さの同居した悲鳴は、先ほどの雷に負けないほどの凄みを持って室内に伝播していく。

 その声を発した何かは動きだし、男の側ににじり寄っていく。金属同士が擦りあうような甲高い声を絶えずあげ、つま先から飛びだした爪でフローリングの床を引っ掻きながら。

 再度、雷が落ちた。破裂するような音とともに、強烈な光が男を、青年を、そして奇怪な声の主を照らしていく。

 その瞬間、この世にあるものすべてが白日のもとに晒され、そこに潜む悪意が影となって形を成し、壁面に貼りつけられていく。

 そうして壁に映し出された声の主のその影は、翼を広げた巨大な鳥の形をしていた。その鳥は大きく羽ばたき、灰色に埋め尽くされた空へと、いまにも飛び立っていってしまいそうな迫力を全身から醸し出していた。


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