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10話:救世主の鎧

 2人はそれから、閑静な住宅街に向かった。

道の左右にはずらりと、様々な色をした屋根が立ち並んでいる。大層な門構えの向こうに建っている豪邸をいくつも目にしたので、それなりに地価の高い場所なのかもしれない。

 夏休み中のためか、道すがら幾人もの小学生たちとすれ違った。みな、はしゃぎ声をあげながら走り回っている。幼稚園児から小学校高学年くらいまで、子どもたちの年齢は本当にばらばらのようだった。これから彼らは公園で遊ぶのかもしれないし、友達の家に向かうのかもしれない。自分の少年時代を思い返して、直也はふと懐かしい気持ちに浸った。

そして同時に行方不明になった人々の中には、小さな女の子もいたことを思い出して暗い気持になる。こうやって楽しげにしている子どもたちもいる一方、何の落ち度もないのに怪人に連れ去られてしまう子どもたちもいる。不平等だとは思わない。躓く段差や、足を滑らして落ちてしまうような穴は誰の前にも置かれているからだ。

 直也は仕事で尾行をするときのように電信柱の陰に身を隠し、拓也を待っていた。拓也の入っていったのは、緑色の屋根を持つ2階建ての一軒家だった。築50年といったところだろうか。ブロック塀に囲まれ、住宅の前には洗濯物を干せばそれだけで埋まってしまうほどのささやかな庭がある。周囲の家と大きく違うということもなく、外見上にとくに不審な点はみられない。

玄関の前の表札を確認したところ、白いプラスチック製の板には『船見』と記してあった。紛れもなく、この家の家主の名前だろう。だが拓也やゴンザレスと、この名字がどういった関係にあるのかまでは分からなかった。ゴンザレスの中に入っている人間が船見という名前の人物だという推察が定石だろうか。これに関しては入る前、拓也に質問をしたのだが、また「話すと長くなる」という魔法のキーワードでごまかされた。

拓也が率先して話すことをしないのだから、この家が誰の物なのかということは咲の死にそれほど関わりがないのだろうと思い、直也はこれ以上問いを重ねるのは止めておいた。目の前にあるものを逐一追っていては、大切なことを見逃してしまうかもしれない。情報の取捨選択が重要であることを、直也は過去の捜査経験から教訓とした。

拓也の帰りを待ちながら、直也は空を見上げた。青い空には飛行機雲がおぼろげな直線を描いている。額に巻いた黒い布の下が、先ほどから妙に痒かった。傷が治りかけているからかもしれない。

直也もやはり一緒に行くと最後まで言い張ったのだが、結局断られてしまった。俺を信じろ、やらせてくれと頑なにあの真剣な目で頼まれた以上、それを無下にすることは直也にはできなかった。直也にできるのはここで、彼の無事を祈ることだけだ。それが何よりも歯がゆくて、気づくと直也はつま先で絶えず、アスファルトを叩いていた。

笑い声が聞こえたので、直也は電信柱の陰から顔だけを出して、道の先を窺った。

すると前のほうから2人の女性がこちらに向かって歩いてくるのがみえた。2人とも20代後半というところだろうか。双方ともベビーカーを押しながら、しかしそれに似つかわしくない、若々しく派手な服装で雑談をしている。公園デビューを果たした母親友達同士なのかもしれない。

直也は怪しまれないように携帯電話を取り出し、電信柱に寄りかかりながらメールを打つふりをした。彼女たちは直也に一瞥をくれただけで、とくに気を留める様子もなく、相変わらず喋り続けながら目の前を通り過ぎていく。携帯電話の画面に顔を向けたまま、視線だけを動かすと、暑さに負けずに眠りについている赤ん坊の姿が目に飛び込んできた。

そうしていると耳に、彼女たちの会話の内容が飛び込んできた。始めはただ単に耳に入ってきた程度だったが、その内容の一端を掴むと、たちまち直也は聴覚に意識を集中させ、慎重に彼女たちの言葉を拾い始めた。

「城崎さんのうちでしょう? 窓ガラスが割られてたって。怖いよねぇ。侵入された形跡はないから、おそらく悪質な嫌がらせからしいけど」

「まさかこんな静かなところで、あんなことがあるなんてねぇ。失踪事件も流行ってるし、怖い怖い。うちも気をつけなくちゃ。だるいけどねぇ。そういえば、あのカーブミラーもいつ直すんだろうね。自動販売機も壊されたらしいし。なんか変な事件が多いよねぇ。本当に」

 壊れたカーブミラーに、直也は見覚えがあった。今朝、バスの外に見えたあれだ。何かの衝撃を一点に受けたかのように、ポールが半ばから折れ曲がっていた。そしてその付近にあったへこんだデパートの看板。同じように壊された自動販売機と、窓ガラス。直也の頭の中でそれらはパズルのピースのように組み立てられ、1つの壮大な絵画を作りあげていく。

「やっぱり……そうか」

 口に出して呟いてみると、さらに実感が沸きあがってきた。いてもたってもいられなくなり、すぐに電信柱の陰から飛び出したくなる。すべての証拠が揃った。あとはこれが正しいことを、目で見て判断するだけだ。

 するとちょうど、門をくぐって拓也が出てきた。しかしその手には何も持っておらず、眉を一文字にした無表情でこちらに向かってくる。その表情に翳りと落胆が見て取れたので、直也は唾で喉を湿らせた。胸のあたりがじくりと痛む。

 拓也は電信柱の陰に転がりこんできた。直也の前に立つ彼は俯き、肩を深く落としている。

やはり失敗したのだろうか。不安に駆られながら直也が眉を寄せていると、拓也はそっと面をあげた。その顔には、満面の笑みが湛えられていた。

「持ってきたよ。機械も、ちゃんと」

 拓也はスーツのポケットに手を突っ込むと、直也の持っていた傷だらけのプレートを取り出した。さらに聴診器のようなものがついたコードを引っ張り出し。広げられたそれらを前にして、直也はふっと長い息を吐いた。

「脅かすなよな……。でもなんか上手くいったみたいじゃないか。なんか、いざこざとかはなかったのか?」

「それがさ。なんか、普通に放ってあったんだよ。ソファーの上にぽんと。途中で読むのを止めた漫画本を、ほっぽっておくみたいに」

 彼の口から放たれた真実に、直也はまたしても眉間に皺を作った。

「放ってあった? 隠すことすらせずにか」

「あぁ。家の中には誰もいなかった。ちょっと怪しいとは思ったんだけど。ほらみてみろよ、本物であることに違いはないと思うんだ」

 拓也から渡されたそのプレートを、直也は手にとって観察した。確かに傷の形状から血の染みの大きさまで、直也が持っていたものと違いはないようだった。指で叩いたり、太陽に透かせてみたりするが、やはり異常はない。質感や重量までも最後に触れたときと変わりはなかった。

 拓也の言うとおり、偽物である可能性はきわめて低いように感じられた。

「確かに、おかしいところはないな。だけど、やっぱり変だろ。奪い取ったのは向こうなのに何でこうも簡単に、返してくれたんだよ? なんか、変なもんでも仕掛けたんじゃないだろうな」

「まぁ、それはこれから漸次確認していけばいいさ。いまはとりあえず、何の犠牲もなしに取り返せたことを喜ぼう。な?」

 直也は何となく釈然としない気分のまま、拓也の説得に引きずられるようにして頷いた。しかし、すぐに現在の状況を思い返し、無理やりに自分を納得させる。なぜこれほどまで簡単に回収できてしまったのか、ということについて考えるのは非常に重要なことだ。しかし、いまはそれを考えるのは後回しにして、とりあえず咲に関する謎を解明しようという拓也の意見には直也も素直に賛成だった。いまは、手かがり探しを成すことが何よりも先決だ。このチャンスを再び失うことは、あまりにも惜しいことだった。

「とりあえずさっきの公園にいこう。あそこなら、隅の方に入っちゃえば、人目も引かないし。装甲服を広げるには最適の場所だと思うんだ」

 確かにあの公園は、十分な広さを持っている。サッカーやバーベキューができるくらいだ。あの公園の隅々まで目を光らせることのできる人間など、いようはずもない。木立のなかにでも入ってしまえば、遊んでいる子どもたちの目を避けることも容易いだろう。装甲服関連の事象はあまり人目に晒したくなかったので、そういう意味では拓也の言うとおり、最適の場所だと思った。

しかしそう考えるとあの公園も危険な場所であることに気づいた。犯罪を企図している者にとっては、絶好の犯行ポイントだろう。遊具の配置の仕方が、自然で安全な完全犯罪を助けてくれるからだ。

 そこまで考えて、直也はふと疑問を覚えた。ゴンザレスが自分たちの活動を語っていた部分を思い返すが、やはり直也の頭に浮かんだことを答えてはいなかったような気がした。

あれこれと公園のどこが適しているかについて思案している様子の拓也のほうを向くと、直也は尋ねた。

「あぁ、そうだな。そういえば1つ訊きたいことがあるんだけど」

「なんだい? 音楽のことなら任せてくれよ」

「残念ながら音楽は関係ねぇよ。怪人のことだ」

 怪人、という言葉を用いると拓也は一転して表情を強張らせた。

「一体、なに?」

「お前たちは、怪人がどこからくるのか。それについては、調べているのかよ?」

 すると拓也はこちらを見たまま、思慮深い面持ちになった。それからばつが悪そうに言った。

「いや、まだその段階にいってないんだよ。黄金の鳥のやつらを仕留めて、そいつらから訊きだす。それがゴン太の方針だから。怪人の居場所がどうとかは、それからなんだ」

「そうか……分かった。ありがと。よし、じゃあ、さっさと公園に戻ろうぜ。また後ろ乗せてくよ」

「あ、うん。よし、じゃあお言葉に甘えようかな」

 不思議そうな顔をした拓也だったが、直也が踵を返すと、慌てて後を追いかけてきた。その姿を視線の端で捉えながら、直也の頭の中では、ある計算の答えを求めてそろばんが弾き出され始めていた。

 咲に秘められた謎よりも。もっと簡単に解決することのできる問題が手の届くところに漂っている。もし咲だったら、それを見逃すことはしないはずだ。多くの人を救えるかもしれない。そんな切り札なのだから。直也はそれ目がけて、腕を突きのばす。真実はすでに、直也の胸の中にあった。


 本日2度目の公園は相変わらず、子どもたちで賑わっていた。原っぱで野球をしているようで、時折プラスチックのバットの気の抜けた打撃音が空に鳴り渡っている。自転車でひたすらにくるくると公園内を駆け、追いかけっこをしている子どもたちもいた。

 拓也は木立ちに向かうまでの道中で、通りかかった子どもたちに欠かさず挨拶を送っていた。サッカーボールが転がってくれば少年たちにボールを奪ってみろとふっかけ、ベンチに座って1人であやとりに熱中している少女たちがいれば、声をかけて胸ポケットから毛糸を取り出し、新しい技を彼女に伝授したりしていた。

 子どもたちと遊ぶ拓也の表情はとても生き生きとしていて、輝いていた。直也は自分が頬を緩めていたことを、後になってから自覚した。拓也は人を笑顔にする能力がある。それは文字通りみんなを幸せにできる、とても素晴らしい才能だと思った。

「やっぱり、先生なんだな」

 その様子を見ながら直也が言うと、拓也は毛糸で東京タワーを作ったまま、嬉しそうに微笑んだ。

「あぁ、先生なんだよ。よし、じゃあね。遅くならないうちに、5時くらいまでには帰るんだよ」

 少女たちに手を振って別れる。また2人並んで、昼下がりの公園を歩いていると、拓也が空に視線を運んだまま、しみじみといった調子でいった。

「いつも思うんだけどさ。俺たちの犯した間違いは、俺たちで解決しなきゃだよな。次の代に引き継がせちゃいけないんだ。子どもたちには、何の落ち度もないんだから」

「7年前のことか?」

 直也が指摘すると、拓也は小さく首を振った。

「それだけに留まらないよ。間違いと言われるものすべてだ。それに大小は関係ない。過ちは俺たちで解決しなくちゃ。そのために、ダンテの力は必要なんだ」

 さりげなく発したような言葉だったが、直也はそのセリフに隠された本当の強さを理解していた。自分を殺し、他人を守る。理想は掲げても実行するのはとても難しい。だが、拓也はそれをただ頑なに遂行しようとしている。

直也はただ首を縦に振った。たとえどんなに考え抜いて作り出した返事でも、彼の言葉の重みには、どれも打ち砕かれてしまうような気がした。


木立の奥のほうに進むと、乳白色の公衆トイレがあった。

その裏側に回り込む。そこには予想通り人気はなく、また他の人の目も届くことがない、まさに公園の死角だった。

濃い緑の葉がそれぞれ重なり合って、日陰を作り上げているため健康的な涼しさに溢れている。足元をみれば様々な虫が這いずっていて、ふとダンゴ虫の巣窟といった言葉が思い浮かんだ。下手に冷房を効かせている喫茶店よりも、ほどよい空気が体に入ってきて快適だ。心配していた臭いもそう強くはなかった。それよりも、緑の匂いが打ち勝っている。それら好条件が積み重なっているという理由もあって2人は満場一致で、装甲服をここで広げることに決めた。

「まずは、プレートに残されたデータから抽出しようか」

 そう言って拓也は、先ほど持っていた聴診器のような道具を取り出した。それは黒い長方形の箱とコードで繋がっている。直也が今まで目にしたこともない、奇妙な機械だった。箱の片側は丸ごと液晶画面になっているもので、その形状はスライド式の携帯電話を思わせた。

 液晶画面の上のほうには、『IMI―SHADO SYSTEM MEASURE MACHINE』とレリーフになって記されていた。直也は目に飛び込んできたその英語を、無意識のうちに声に出して読み上げていた。

「イミ……シャド?」

 それを質問だと受け取ったのか、拓也は「あぁ」と喉を震わせながらその英文に顔を近づけた。

「装甲服の総称だよ。さっきは紛らわしくなると思って、マスカレイダーで一緒くたにしちゃったけどね。マスカレイダーってのはゴン太が作った名称だから。7年前にハクバスが作った装甲服は、イミシャドって言うんだ。だから坂井のやつもイミシャドだ」

 へぇ、と直也は適当に相槌を打った。特に名称が違うからと言って得もしないし、損もしない。その気持ちが表情に表れていたのか、拓也は苦笑いを浮かべた。

「まぁ、豆知識程度に抑えておいてくれればいいよ。どちらも装甲服であることに違いはないんだから。あ、でもゴン太にダンテをイミシャドだとか言うなよ? 怒られるから。あいつは、なぜだか分からないけどハクバスのことが嫌いなんだ。自分のほうがすごい装甲服を作れるんだって、対抗心剥きだしにして張り切ってるぐらいなんだから」

「小さい奴だな。でかい着ぐるみ着てるくせに。第一、あいつはハクバスってやつの作ったものをコピーしてるだけじゃねぇかよ。その時点で、負けを認めてるようなもんだろ」

「まぁ、ね。想像通り、ゴン太も1つだけイミシャドのプレートを持っているんだ。7年前に装着していた狩沢さんって人がいて……そのプレートだけは回収されずに、その人のものを譲り受けたらしいよ」

「その人は、他のプレートについては知らないのか?」

 直也が問いかけると、拓也は聴診器を持った手を高く挙げながら、乾いた笑いを浮かべた。

「知らないってさ。まぁ知ってたら、いまこんなことはしてないだろうよ。よし、じゃあプレートを持っていてくれよ。調査を始めるからさ」

「まぁ、それもそうだけどよ。よし、こうか?」

 直也はプレートを取り出すと、拓也の前にかざした。すると彼は何度か頷いて、聴診器で宙に円を描くようにした。

「そうそう。そんな感じで大丈夫だと思う。実は俺もこの機械をいじるの初めてだからさ、まぁできなかったらそれはそれだ。とりあえず、じゃあ始めるぞ」

 直也がプレートを乗せた掌を差し出すと、その腕が伸びきった場所で拓也はストップをかけてきた。そして彼は左手に箱を持ちながら、右手の聴診器でプレートの表面に触れた。聴診器を這わせ、時折何かを確かめるように視線を上向かせる拓也の姿は小児科の医師そのものだ。その本物同然の素振りに直也が思わず噴き出すと、拓也は心外そうに眉をハの字にした。

「笑うようなことはしてないぞ。ほら、やっと出てきた。装着者のデータ一覧だ」

 そう言いながら拓也は左手首を回転させ、箱の画面をこちらに見せてきた。直也はそれを受け取り、液晶画面を確認する。

 画面にはまず8桁の数字があり、その隣にはT、W、C、W、Hとアルファベットが並んでいた。それぞれのアルファベットの脇には、2ケタもしくは3ケタの数字が記されている。『20030202 T180 W70 C92 W78 H92』といった具合だ。画面上はその英数群の羅列で、端から端まで埋められていた。

その画面の意味を理解しようと画面を凝視するが、その黒い背景に緑色の文字というあまりにおぞましい配色に、すぐさま目が悲鳴をあげてきた。直也は空に視線を移し、幾度となく意識的に瞬きをしなければならなかった。瞳に潤いが戻ると、目頭から涙がどっとあふれ出てくる。

「これ絶対作ったの、あの着ぐるみだろ。目が痛くてしょうがねぇよ」

「当たり。ゴン太の楽しい仲間たち、と言った方が正確だけどな」

 楽しい仲間たちね、と呆れ半ばに言い返しながら直也は、目玉を焼くことが目的としか思えないその画面に再挑戦をする。やりたくないことをやらなきゃいけないのが大人、という拓也の言葉を頭の中で何度も復唱しながら。

 目を休めつつ見ているうちに、だんだんこの数字の羅列が指し示す意味が分かってきた。まず、初めの8桁は西暦と月日を表わしている。全て『20』から始まっていることから、導きだすことができた。これは、つまりこの鎧を装着した日付を記してあるのだろう。20ということは2000年以降ということだ。装甲服が作られたのは2003年という話だったから、そうなれば理屈は通っている。

 そしてその次のアルファベットに挟まった数字の正体は、身長と体重、そして3サイズを表わしている。おそらくこれは装着者の情報であろう。冷静に考えてみれば、常に誰にでも装着することのできる服など存在し得ないわけで、もし誰か1人にその基準を合わせてしまえば、身体にその装甲服がフィットする人間は限りなく少なくなってしまう。

おそらく、装甲服はある程度なら伸縮が効くのではないだろうかというのが直也の推論だった。その証拠に、列の上のほうに書かれているデータはT180となっているのに、途中からT165と身長をあらわす数値が明らかに移り変わっている。それは装着者が一度変わり、その際に身長が20センチ以上増したのにも関わらず、装甲服が正常に作動している何よりの証拠だった。

T180の装着者のほうは最後の日付欄が、20030718となっている。2003年7月18日という意味だ。この日を最後にT180は消え、そこから2007に年が飛んで装着者もT165に変わっている。そしてT165の記録は一番下の1つしかない。

「咲さんだ」

 直也は気付くと、恋人の名前を呟いていた。外に漏れてはいなかったと思っていたら拓也はその声を敏感に拾い上げたようで、すぐに「そうか」と複雑そうな顔をした。

 咲の体重や3サイズまではさすがに熟知してはいなかったが、身長が165前後であることに間違いはなかった。

「でも、165センチの人間なんて。そこら中にいるじゃないか。なんで彼女だって分かるんだい?」

 拓也が当然の疑問を投げかけてくる。直也は舌で唇を舐め、プレートを見つめながら答えた。

「分かるんだよ。これは、咲さんが使っていたんだ」

 感覚が、体を走った。久々に出会い、抱き合ったような温かさ、そして歓喜の感情が全身にくるまってくる。

 自身でも意外だと思えるほどに、直也は冷静だった。頭の中には一切波がたっていない。心のどこかでこうなることを、覚悟していたからかもしれない。まるでこの数字をみているだけで、咲の実像が膨れあがるかのようだった。その文字1つ1つが彼女との思い出を積んだ種のようで、その種が直也の目の前で弾けるたびに、3年前の情景が目の前を横切るかのようだった。

 プレートの傷、血。これらはすべて咲が生きていた証なのだ。血痕を指先でなぞりながら、直也は目元にこみ上げてくるものをなんとか耐えた。

逃げることはできない。確かめなくてはならない。拓也がゴンザレスへの調査を決意したのと同じように、直也も現実を直視しなければならない。妄覚に囚われているままでは虚偽をはり倒し、真実をすくいあげることなどできやしないのだから。

「それにちゃんと実証もある。日付をみてみろ」

 言いながら、直也は箱を拓也に返した。拓也は目を細めながら画面をしばらく見つめ、それから直也の言葉の意味を悟ると声をあげた。

「2007年8月27日……16時5分。ということは、これは、まさか」

「そうだよ」

 直也は確信を滲ませて、頷いた。

「咲さんは死ぬ間際に装甲服を纏っていた。というよりも、時間帯的にはそれを纏った状態で殺された、と考えるのが普通だと思う。そうだよ。咲さんは何かと戦って、負けたんだ」

「そんな馬鹿な。人間が、装甲服を着た人間を殺すなんてこと。あの時代にできるはずが……」

 拓也は目を丸くして、直也の顔と液晶画面とを見比べている。その手にはかすかに震えが生じていた。直也は目を伏せると、現在最も有力であろう仮説を思い切って口にした。

「相手も装甲服を着ていたら、それも可能なんじゃないのか? それなら装甲服を着たやつ相手でも戦えるんじゃないのか。それにあんなもん着てたら、DNAも指紋もつかないだろ。現場の状況を説明するのに、これならつじつまが合うと思うんだけど」

 直也が言い終えると拓也は下唇を噛んで、視線をさまよわせた。記憶を探っている様子だ。それから彼は直也を正面から見据え、力強く頷いた。

「確かに、つじつまはバッチリだよ……。そして多分それは、装甲服を見ればより明らかになると思う」

「お願い、できるか?」

「坂井。俺はゴン太を、俺の仲間たちを信じたい」

 拓也の言葉からは切実さが滲み出ていた。仲間を疑うのは苦しく、悲しい。その気持ちはいまの直也そのものだった。直也も、咲に疑念を抱くことなどできるならばしたくはなかった。しかしそれが信用を裏付ける証拠になるというならば、この目で確かめるしかない。拓也も重々、それは承知しているようだった。

拓也は目をぎゅっと瞑ると、トイレの壁のほうに体を向けてから、目を開いた。直也もそれと同じようにしてから、彼に視線を送った。拓也は頷いた。

 スーツの胸ポケットから、片手に収まってしまうほど小さな手鏡を彼は取り出した。それを首の高さにある幹の枝に立てかけてから、掌を直也に差し出してきた。

「プレートを貸してくれないか?」

 無言で直也はそれに応じた。拓也はプレートを受け取ると、それで手鏡の鏡面を軽く叩いた。

こん、と小気味のいい音が跳ね返ってくる。すると鏡の表面に波が走り、太陽の下に放置したアイスクリームの如く、崩れながら溶け出しはじめた。

 気のせいか、と目を逸らしかけたその時、鏡の奥で何かが光を放った。その様はまるで、深海から海上の人間を見上げる獰猛な魚類のようだ。

 同時に拓也はプレートを手から離した。しかしそれは彼の腰のあたりまできたところで、空中でぴたりと動きを止めた。まるで空から伸びる見えない糸によって、吊り下げられているかのように。試しにプレートの上で手を軽く振ってみるが、もちろん、そんなものはない。プレートは宙に浮いているのだ。

 次に異変が生じたのは、先ほど小さな光を覗かせたあの手鏡だった。再びその鏡面が揺らいだと思った瞬間、中から勢いよく大小様々な何かのパーツが飛び出してきた。

「ちょっと下がってくれ。装甲服が、出てくるぞ」

「装甲が……鏡から?」

 しかめ顔した拓也の言葉が、冗談だとは到底思えなかった。言われた通り、直也はいま立っている場所から数歩後退した。

 拓也が後ろに下がると、宙を浮遊するプレートに、鏡から出てきたパーツたちが次々と纏わりつき始めた。それらは、つるべ打ちに出てくる。パーツは皆、空中を漂っており、いま出てきたそれらの数は目で数えただけでも3、40近くはあるようだった。

まずは、比較的小さなパーツ同士が連結し、プレートをバックル部分とした銀色のベルトがすぐに完成した。次にそのベルト部分を核にして胴体と足が同時に組み上がっていく。まるで透明人間が恐ろしいほどの手さばきで、プラモデルを組みあげているかのようだ。または巨大な建造物が破壊されていく過程を、4倍速の逆再生で映したようにも見える。

太股を覆う装甲が出来上がると、そこから黒い液体が吹きだした。それはすぐに固まり、ゼリー状に凝固したそれの片端に、今度は脛を覆う鎧が作られていく。あの黒い物体が装甲服のスーツ部分を形成していることは、完成した脚部を見ると一目瞭然だった。

先ほどはこの工程をプラモデルと形容したが、次々に人間の形が組み上がっていく過程を見ていると、どちらかというとパズルに近いような印象を直也は覚えた。胴体に手が繋がり、首ができて、頭部が作られる。黒い液体が装甲から発射され、そうして最終的には指先のグローブまで些細なところにいたるまで作りあがる。最後に1本の角が頭頂部に装着されると、ついに空洞の装甲服が直也の前にその完全な姿を現した。

 黄色みがかった銀色と、濃い黄色で彩られた装甲服である。仮面には剣道の面に似たフェイスガードが備わっており、その奥には赤い大きな相貌が見える。右目だけ赤く点灯していることが、装甲服の異様性を醸し出すのに一役買っているように思えた。

そしてやはり最も特徴的なのは、頭にそびえている1本の角だろう。前頭部のあたりから飛び出したその切っ先は鈍く、目にしたものを皆、突き殺してしまえるような力強い気迫が漂っていた。

装甲服はひどく傷んでいた。全体的に傷が多く、あちこちへこんでいたり、深く削られた形成が痛々しく残されているのだ。

咲が3年前、この装甲服を纏っていたのだと思うと直也はなんだか感慨深い気分に包まれた。直也は周囲のことを一切忘れて、しばらく目の前に現れた咲の遺物を見上げる。  

そうしているだけで夏のささやかな風に混じって、咲の手が直也の頭をそっと撫でてくれるように感じることができた。

「俺さ、怖かったんだよ」

 胸に籠っていた気持ちを夏の空気に吐き出すと、拓也が小首を傾げてきた。

「なにが?」

「もしこの装甲服を使っていたなら。咲さんを好きな気持ちが俺の中から消えてなくなっちゃうんじゃないかって。それが、何よりも恐ろしかった」

 拓也は何も言わない。明朗な顔で、ただ直也を黙って見つめている。その深く詮索はしないが、ただ耳を傾けようとする彼の姿勢に、直也は後押しされる。さらに言葉が腹の底から溢れ出す。

「だけど、いまもその気持ちは消えてない。俺は咲さんが好きだ。だから、絶対そんなことはありえないけど。そんなことはあるはずはないけど。もし、万が一。もし、咲さんがこれを使って誰かを手にかけたとしても」

 風が直也の額に巻かれた布の上を掠める。弱い風だったが、薄手の布はその些細な風にさえも敏感に反応し、上下に震えた。

「それでも俺は、咲さんを愛し続けることができると思う」

 たとえ彼女の周りが暗闇に閉ざされようとも、自分が信頼という名前の光を咲かせていれば、きっと彼女は笑い続けてくれるはずだ。直也は自身の気持ちをそんな希望に託した。

 拓也はじっと地面を見つめるようにしてから、直也に目を移し、それから口元を緩めた。その表情には、先ほどまでの追い詰められた蛙のような様子は窺えず、直也はそのことに心から安堵した。

「それは、すごく大切なことだよ。本当に良かった。坂井がその気持ちを持ち続けることができて。あんまり死人の言葉を代弁したくはないけど。彼女はきっと安心してると思う」

「だったら、いいけどな」

「俺も、そんな風になれるといいけどね」

「なれるさ。俺は、お前からそれを教わったんだからな」

 2人は装甲服を前に立ち尽くした。とはいっても、居心地の悪い沈黙ではなく、とても心地の良い無言の間だった。気づけば、全身にしがみついていた重りが解けており、腕を振るえば空も飛べるのではと思えるほどに体が軽くなっていた。

「“オウガ”か」

「え?」

 懐かしむように目を細くしたまま、拓也が何事かを呟いた。あまりにも突発的だったので聞きとることができず、直也は訊ね返す。

 すると拓也は我に返ったかのように背筋をぴんと伸ばし、それから直也の方を向いて穏やかな笑みを飾った。

「この装甲服の名前だよ。オウガ。マスカレイダーにもダンテって名前がついてただろ?」

「あぁ。確かに複数あるんじゃ、みんなイミシャドって呼ぶのは紛らわしいもんな」

オウガ。直也はその名前を、心の中で呼んでみた。7年前を境に行方不明になった戦闘兵器。そして咲さんが使った装甲服の名前。

「オウガは、俺たちの間では裏切り者の鎧って呼ばれてるんだよ」

「裏切り者の?」

 直也はオウガの無残にも砕けている肩パーツに視線をやりながら、その言葉を口の中で反芻させる。

「彼女の前に、装着者がもう1人いただろ? そいつが元々のオウガの持ち主なんだよ」

 元々の持ち主と言われ、直也は咄嗟にT180の文字を頭に浮かべた。咲の前に装着していた人間。2003年7月を最後に、プレートを手放した者のことだ。

「そいつが、お前たちを裏切ったのか。こいつを使って」

 先を予想して言葉を並べると、拓也が頷いた。

「あぁ。立浪良哉という男だよ。ひねくれ者だけど、いいやつだった。まさか俺たちを裏切って黄金の鳥側に加担するなんて、思ってもみなかった。今でも信じられないくらいだよ」

 哀愁を背負った声で、拓也は言う。その横顔に影が落ちているように見えるのは、日陰の中に立っているせいだけではなさそうだった。

「そいつは、今どこにいるんだ?」

 無意識のうちに直也もまた、分かっているはずのことをわざわざ疑問として吐き出していた。拓也は“オウガ”と対面しながら答えた。声はわずかに震えていた。

「死んだよ。俺たちが、殺したんだ。攻撃してきた裏切り者を無視しておくほど、鷹揚

な組織じゃなかったからさ」

「まぁ、そうだよな。悪かったな。変なこと思い出させて」

「いいよ。そんなことより、いま気づいたんだけど。ここを見てくれ。刀が、折れているみたいなんだ」

 拓也はオウガの腰のあたりを指さした。直也の位置からは彼が何を示しているのが見ることができず、分かる位置まで移動しなければならなかった。拓也の隣に立って見ると、確かにオウガの左腰には銀色の鞘が設けられており、そこに刀が収められているようだった。拓也は柄を手に取り、瞬きをするよりも早く、一気にそれを抜刀した。

 すると拓也の言う通り、その刀は途中までしかなかった。半ばほどでへし折られており、鋭利な断面を晒している。断面は、ほんの小さな茶色い点が1つ打たれているだけであとは鉄色一色だった。その光景だけ取り上げてみると、まるでコンクリートの破片に見えないこともない。破壊箇所にはねじれたような跡があり、相当無理な力をかけられ、損傷したのだろうと予測することができた。

 その柄と先の裂けた鉄の棒しかパーツを残していない刀をじっと見つめながら、拓也は眉をひそめた。

「おかしいな」

「どうした?」

 拓也は目を皿のようにしてその刀身を眺めてから、直也を見た。それから首を傾げた。

「7年前。最後に見たときは、刀は折られていなかったんだ。つまり、多分、これが破壊されたのは、彼女が纏っていたときだと思うんだけど」

 彼の発言に、今度は直也が首を捻る番だった。

「でも現場には刀の破片なんてもの、落ちてなかったぞ。そんな怪しいもん落ちてたら、絶対に気付くはずだろ。でも実際には所長と咲さんを殺した道具でさえも、事務所には残っていなかったんだ」

「ますます変だな。あのデータを見る限りでは、咲さんは1度しか装甲服を使っていない。それも、殺される間際だ。だから刀の折れた先は、あそこに落ちてないとおかしい。でも実際には見つからない。これはどういうことだろう?」

 顎に手を当てて唸る拓也に直也はふと思いついた憶測を、口にしてみた。

「犯人が持ち去った、とかは考えられそうだよな。証拠隠滅のために」

「かもしれないけど……。もう少しなんか、はっきりとした証拠でも残ってればいいんだけどなぁ」

 刀を鞘に納め直すと、拓也は後ろで手を組みながら歩き、オウガを概観し始めた。その姿を横目に見ながら直也もまた彼と同じように、装甲に証拠が残されていないか検視を続けることにする。

 その時、直也はオウガの握られた右拳から、指の隙間を縫って何かが飛び出していることに気が付いた。

それは、糸のようだった。指の間から生え、弱い風にたなびいている。どうもそれが気にかかり、力を込めてオウガの指を解かせると、直也はその糸を指先でつまみ、引っ張りだした。途中で切れてしまうという事態にもならず、糸はするすると指の間から抜けていった。

 手に取ってよく見てみると、それは糸ではなく一本の髪の毛だった。綺麗な金色に染まっており、それは日陰のなかにはっきりと浮かんで見える。手に挟まっていたことからみて、咲が装着していたときに付着したものとみて間違いはないだろう。

これはプレート以外で、初めて手に入れた物的証拠だった。これを鑑定にかければ、いろいろなことが判明するかもしれない。直也は、自分の心臓の鼓動が高鳴っていくのを感じた。

メッセンジャーから取り出したハンカチに髪の毛をくるむと、確認をとるために拓也のもとに駆け寄った。彼はオウガの背中側に立っていた。直也は手に入れた証拠品を見せようとして、そこで初めて異変に気がついた。

拓也の表情が凍りついている。唇を微かに動かしているのは分かるが、何を喋っているのか分からなかった。目はただ一点を見つめており、その額には汗が玉になって浮かんでいる。

「速見? 一体どうしたんだよ」

 すると拓也は顔を前に向けたまま、掌に水滴を1つ垂らすように、装飾のない言葉をぽつりと零した。

「“フェンリル”だ」

 最初、直也はその言葉の意味がまったく分からなかった。自分の耳が信用ならず、聴き間違いかと思ったほどだ。もう1度尋ねなおそうかと口を開きかけたところで、直也はオウガという名前を聞いた時も、今と同じ感覚を味わったことを思い出した。

 そこでようやく、拓也の呟きに合点がいったのだった。

「フェンリル? また、装甲服の名前か」

 ようやくそこで拓也は直也に顔を向け、真顔で首肯した。

「もちろん7年前に作られた、イミシャドのだ。オウガと同じだよ。この傷を、見てくれ」

 直也は拓也が目線で指す先を見た。そこにはオウガの、ガンシルバーの背中がある。やはりそこにも傷が多く、ところどころ削られたような跡が残されていた。

 その背中の中心の方に、ひときわ大きな傷跡があった。2本の爪で引き裂かれたような傷で、茶色い染料が周囲に付着している。他のものと比べても明らかに大きく、装甲の内部まで深く抉られているようだった。これほどのダメージを浴びせかけられてしまえば、たとえ装甲を纏っていたとしても装着者はただでは済まないだろう。

そこまで考えて、直也は背筋に寒気を覚えた。全身の皮膚が粟立ち、それからすっと頭から血の気が引く。意識をこの場に保つために、直也は拳を固め、自分の指に爪を食いこませなければならなかった。

「まさか、この傷が咲さんの死因なのか?」

 自分で言っておきつつも、直也は内心でそれを否定していた。咲はベッドで仰向けに寝ていたことを思い出したからだ。死因に直結するほどの大けがを背中に負ったのなら、うつぶせになっていたはずだ。それに咲の死因は内臓破裂によるものと、医師から説明を受けた覚えがあった。

 拓也は直也の言葉に小さく首を振ると、傷に指を這わせながら、唇を噛んだ。

「いや、違う。これは彼女じゃなくて、7年前の……あいつが死んだときの傷だよ」

「あぁ。立浪、だっけ? 裏切って殺されたって言う」

 直也のほうに一瞥もくれぬまま、拓也は傷口に語りかけるように説明を続けた。

「それを果たしたのが、フェンリルの装甲服なんだよ。見間違えることなんて絶対にない。この傷は、あのイミシャドがつけたものだ。それで彼を、裏切り者のオウガを殺したことから、フェンリルは俺たちの中でこう呼ばれてる」

 そこで言葉を切り、拓也は傷口の前で拳を握った。その目が一瞬見開かれたのを、直也は見逃さなかった。それから拓也は、怒気を孕んだ声で呟いた。

「救世主の、鎧」

 直也もまたその傷をもう1度、瞳の中に映しこんだ。オウガのもつ刀のように、その装甲の輪郭にもねじ切られたような跡がある。

 そしてそれを眺めているうちに、直也の頭の中に沸き上がってくるものがあった。その正体を直也は、数分も置かず理解した。

「おい、まさか……」

 嫌な想像を抑えきれずに直也が言葉を発すると、拓也もまた憂色を漂わせて顎を引いた。

「多分、そのまさかだよ。刀の断面、気づいていたんだ。やっぱり」

 7年前に、フェンリルを纏ったものが刻みこんだ背中の傷跡。そして3年前、咲の使用時に、事務所の中で破壊されたと思われる刀の断面。

 その2つの形跡には共通点がある。茶色い染料と、ねじ切られたような跡だ。そしてその記号はどういう結論を導くのか。深く考えることもなく、自然と真実は直也の前に現れていた。体の内側から焦りと動揺が急激にこみ上げてきて、直也は拓也に詰め寄った。

「咲さんが戦っていたのはフェンリルの装甲服を着たやつだった、ってことか? 刀を折ったのは、そいつなのか?」

「もっと具体的に言えば、3年前にあれを着ていたやつだよ。だから、今でもプレートがどこにあるのかは俺にも分からない。でも、誰かが3年前に装甲服を展開して、それを使って彼女を……っていうのはこれを見る限り、確証に近いと思うんだ」

 追い詰められ、殺される咲の悲鳴が、その怯えた姿が網膜の裏にふと入り込んできたので、直也は強く目を瞑り、その映像をかき消した。頭の中がごわごわとしたぶ厚い暗雲に包まれているようで、ひどく気分が悪かった。

「そんなことが、あるのかよ」

「でも、そう考えるのがいまの段階では。一番妥当だと思うんだ」

「一体、なんのために? ……オウガが、裏切り者の鎧だからか?」

 上擦った声で直也が責めたてると、拓也は悲しげな顔をしたまま、首を縦に振った。

「それは、分からない。何の目的があって、そして誰がフェンリルを使ったのか。プレートがあれば調べられるんだけどな。だけど坂井。これで、犯人が絞りこめたことは確かだよ」

 頭を軽く振って、額にたまった熱気を追い出してから直也は頷いた。確かに拓也の言う通りだ。早計な手段を踏んでは、穴にはまってしまうかもしれない。今まで以上にこれからは慎重さが要される。

 直也は拓也から離れて、壁にもたれた。湿った感触がシャツを通じて背中に伝わってくる。それが直也の昂ぶった気持ちを程よく冷ましてくれた。

「興奮しちゃって、ごめんな。そうだよな。これまでの暗中模索状態よりは、これで随分と的が絞れたと思う。でも、大事なのはここからだよな」

「7年前でも、現在でもない。3年前のフェンリル。それが、坂井の上司と彼女を殺した犯人だ」

直也はオウガに無数に刻まれた破壊箇所を眺めながら、唇を結んだ。一体ここにあるもののうち、いくつが咲の体を虐げたものなのか、そしてこの傷のうちいくつが彼女の血を吸ったものなのか。

「咲さんは、そいつに殺されるようなことをしたのかな」

 直也がぽつりと述懐すると、拓也は物言わぬまま目を落とした。彼もまた、咲を殺したのが昔の仲間の使った兵器であることに、愕然としているようだった。直也はオウガの傷だらけの仮面を前に、そっと唇を結ぶ。

「フェンリル、か」

 直也は無意識のうちに、口内でその発音を繰り返していた。その小さな声は夏の風に飛び乗って、遠い空へと運ばれていく。




 大切なのは、角度と距離である。

 ゴンザレスが何か知っているのかどうか確かめておく、と翳りを帯びた表情で言い残し、拓也は悄然とした足取りで公園から出て行った。その様相は、子どもたちと楽しげにはしゃいでいた男と、同一人物とは到底思えない。遠ざかっていくその背中は、この世の宿命をすべて課せられたかのように前屈みになっていた。

 頭に巻いたままだった布を取り払い、トイレの鏡で負傷した箇所を見る。すると額には白い線が薄く引かれているだけで、もう傷口は開いてすらなかった。無用になった布をしわくちゃに丸め、ポケットに突っ込む。額を撫でながら、そういえばあの怪人に襲われた少年は無事に逃げることができたろうかと考えた。彼の目に、直也はどう映っただろう。あの時の探偵のように、自分はなれていただろうか。鏡の中にいる茶髪の青年に直也は問いかけ、手を水道で軽く洗い流してから外に出た。

 それから直也はバイクにまたがり、ある場所へと向かった。

 咲を殺した犯人を探すことはもちろん大切であったが、その前に解決しておきたい問題があった。その問題の解答を示すジクソーパズルはとうの昔に完成していた。あとは答え合わせをするだけだ。目的地に向け、直也は急いでアクセルをふかす。

まず直也がたどり着いたのは、あの工場前の広場だった。最初に拓也と邂逅した場所だ。まだ作業服の人たちが作業を続けており、直也を目にすると彼らは明らかに不審げな表情を浮かべた。この場所にいたら迷惑になるだろう。直也はその場所を今一度ざっと眺めると、次の目的地に急いだ。

次は今朝、バスの窓ガラス越しに見た場所だった。すなわち、半ばから折れたカーブミラーがあり、道路を挟んだ斜向かいにはへこんだデパートの看板がある、あの場所だ。道はそれほど混んでおらず、自転車に乗った子どもたちが恐ろしいほどのスピードで横断歩道を渡っている。直也はカーブミラーと看板とを交互に眺め、自分の予想が正しかったことに爽快感を覚えた。念を押す意味を込めて、メッセンジャーバッグから万歩計を取り出し、ベルトにつけて横断歩道を渡った。そしてデパートの入口まできたところで止まり、万歩計の表示を確認する。そこに記された結果もまた、直也の予想の範疇だった。

 次に直也が足先を向けたいと思ったのは、窓ガラスの割られた家だった。しかし女性の口から盗み聞きしただけの情報なので、その家がどこにあるかを直也は知らない。だから民家から出てきた人や道行く人から話を訊きだし、情報を集め、そうやって20人ほど頼ったところでようやく問題の家を見つけることができた。東京はこういうときに、なかなか苦労する。直也は額の汗をぬぐいながら、つくづくそう感じた。地方ならまだ近隣住民に対する関心が残されている可能性が高いものの、新しい家がひっきりなしに建つこのような場所では、人々は自分に関係のある事態にしか興味がなく、話を訊き出すことは非常に困難だった。

 割られた窓ガラスは、赤い屋根の家の2階であり、板ガムテープで応急処置がとられていた。直也はその家の門を背にして、首を巡らせる。すると左斜めの方向に、上部の砕かれたブロック塀を発見した。直也はまた万歩計を取り出し、そのブロック塀の破損個所まで歩く。それから計測数値を確認し、再び左斜めの方向を見上げた。

 そこには先端の折れた、背の高い木が空に向かって突き伸びていた。


 点を線で結ぶのは、非常に容易だった。次なるポイントを目指して、住宅街を疾走する。見つけるたびに立ち止まり、左斜めを展望し、そこに刻まれた証拠を発見する。そこに向かって走る。その繰り返しだった。すでに確証はついていたので、途中からはいちいちバイクから降りて、万歩計を使うことはしなくなった。

 この街全体に散りばめられた証拠を、たどればいいだけだ。そこにはおそらく、直也の想像通りのものが待っているはずだった。

 そうやって30か所ほど巡ったときには、すでに時刻は4時を過ぎていた。周囲には放逐された荒れ地か、『売ります。連絡は○○物産まで』という看板の刺さった広大な空き地が土地のほとんどを占めている寂れた場所に直也はいた。人気のあるような家は2,3件しかなく。夏休みの夕方であるにも関わらず、しんと静まり返っていた。まるでゴーストタウンのようだ。蝉でさえも雰囲気を読んで、ここでは鳴くことを止めている。直也も押し黙り、バイクを押しながら、証拠を探していく。

 そして見つけた。今度は左斜めではなく、足もとにあった。そしてそれは、ついに捜索がゴールを迎えたことを告げていた。

「やっぱりか」

 直也はひとりごちた。その視線の先には、道路に白線で塗られた『止まれ』の道路標識がある。『止まれ』の『止』の文字の上端が欠けているのを発見し、唇に笑みを宿らせた。

 それから直也はそのまま首だけを動かして、左手の方角に顔を向ける。そこには家があった。豪奢な門の向こう側に茂る、鬱蒼とした木々の中にそびえた豪邸で、縦に細長い屋根や白塗りの壁は教会を思い出させた。

 門の隣に取り付けられていた、壁と一体になっている白い表札に目をやる。黒く汚れていて名前が見えなかったので、直也は手でその表面を軽く拭いとった。付着していたのは単なる土埃だったらしく、そうするとすぐにその下に記されていた単語が浮かびあがってきた。

 表札に映し出された人名。そこにはローマ字で『SHIKIHARA』と書かれてあった。


「一体、今度はなんだい? まだゴン太には会ってすらいないよ」

 呼び出された拓也は、いかにも不服そうに口を尖らせた。ひよこ色のスクーターに乗ってきた彼は、いま、ヘルメットを外してその座席に腰掛けている。

 直也は豪邸の表札を、手の甲で何度か叩いた。

「悪いな。犯人が分かりそうなんだ。証人になってもらいたいから、一緒についてきてくれないか?」

 すると拓也は眉をひそめ、心外そうな顔をした。

「犯人はフェンリルを着たやつだって。とりあえずそれに絞ることに決めたばっかりじゃないか」

「違う。咲さんのほうじゃない。あの犯人についてなら、お前のことを信じてるよ。だけど今の話は違うんだ。事件といえばもう1つ、世間を賑わせているでかいほうがあるだろうが」

 その説明で、ようやく誤解に気づいたのだろう。拓也は一瞬呆気にとられたような表情をみせたあと、何度も瞬きをしながら喉を鳴らした。

「まさか……」

 直也は目の前にそびえる家を見上げた。ツタの絡みつき、鳥の糞に塗れたその外装は一見廃墟のようだったが、その建物全体から漂ってくる気配には紛れもなく、人間のわずかな生気が混入されていた。その怪しげな空気を鼻から吸い込みながら、直也は緊張を強めて、言った。

「あぁ、連続女性失踪事件。あれを企てた犯人はおそらく、この中にいる」


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