9話:絆の証明
道を縫うようにして、直也は目的地への最短距離を駆け抜けていく。
時刻は12時をまわったところで、街はいつものことながらひどく混雑していた。そのあまりの不変さに先ほどまでの出来事はすべて嘘だったのではないかと、疑いたくもなってしまう。
だが、あれはすべて現実に起きたことなのだと、直也はハンドルを握りながら自身に言い聞かす。
赤信号や渋滞を見つける度に方向転換をして、なるべくスピードを落とさないように進んだ。日照りや排気ガスの臭いを気にする余裕すらなく、アクセルを法定速度ぎりぎりにふかしていく。
もっと速く、もっと速く。そう愛車に祈りをこめると、心なしか車体が軽くなったような気がしてくる。風を切り、頭上を走る高架橋をくぐり抜けていく。前方を緩慢なスピードで走る真っ赤なワゴンを、タイミングよく一息で追い抜いた。
そのときふと、視線の隅に見覚えのある店を見つけた。途端に意識がそちらに持っていかれ、危うく中央分離帯にタイヤが接触するところだった。咄嗟にハンドルを返し、左に重心を傾ける。
ビニールでできた緑色の屋根をもつ、白い小さな喫茶店だ。ドアの窓ガラスには黒い文字でそれが店名なのだろう、『FAMILY PLACE』と書かれている。人気のない寂れた美容院と、『ふらわーたいむ』というそれなりに繁盛している花屋に相変わらず挟まれているのが、なんだかおかしかった。3年前にきたときも、その風景は少しも違わず、いまとまったく同じ様相をみせていたからだ。まるでその一画だけ、時の流れから弾き出され、いつまでも2007年を繰り返し続けているかのようだった。後方に消えていくその懐かしい景色に、直也は思わず表情をほころばせる。『喫茶店 FAMILY PLACE』は咲と恋人になってから、初めてのデートで入った店だった。
あの時、あの店で直也はコーヒーをこぼしてしまったことを覚えている。そして。しょうがないなぁと口では言いながらも嬉しそうに、取り出したハンカチで直也の濡れた服を拭いてくれた咲の姿は、網膜にはっきりと刻みこまれている。あれから3年の月日が経過したなど、にわかに信じがたいくらいに。
遠野咲は2007年当時、つまり生前は24歳で、直也よりも4つ年上の女性だった。彼女は3年前まで直也が働いていた探偵事務所、『SINエージェンシー』に所属している所員の1人だった。
直也と咲、それから所長の3人しか人のいない小さな事務所だったが、所長がその手の業界の中では割と有名な人であったことが幸いしたのか、そのささやかな外面とは裏腹に依頼が途絶えることはなかった。
入所当時、直也にとって咲は、単なる頼りがいのある先輩でしかなかった。向こう見ずで、一直線に進むことしか知らない。そんな直也に、咲は手を焼いたことだろう。直也は何度も咲に救われた。悩んだとき、困ったとき、泣きそうになったとき、そして嬉しいことがあったとき。咲はいつでも、直也の側にいてくれた。失敗したときは励まし、間違いを犯したときは本気になって叱ってくれ、落ち込んだときは後ろからそっと抱きしめてくれた。
あの気持ちの温かさに何度救われただろうと、直也は時が経った今になっても、ふと思う。気がつけば、いつの間にか咲は直也にとって職場の先輩ではなくなり、かけがえのない大切な人になっていた。いつから恋人という関係になったのか、不思議なことであるが直也はよく覚えていなかった。それからの日常があまりにきらきらしていて、楽しくて、眩くて、愛する気持ちが実を結んだ日のことなど、その無数の輝きの中に埋もれていってしまったのかもしれない。
そんな咲が人を殺したなど、あるはずがない。直也は覚えている。耳元に感じた彼女の甘い息遣いを。手を介して伝わってくる体温を。周りの景色を虹色に変えるような、あの澄んだ笑顔を。人の痛みを知り、言葉もなく温もりを分け与えてくれるような笑顔に溢れている。あんな人が、殺人などできるはずがない。
しかし咲を完全に信じきることができない自分がいるというのも、また事実だった。やはり今になっても、咲が重大な隠しごとを持っていたという事実が、直也の中にある信じたい気持ちを激しく揺さぶっている。気にしてはいけないと頭の中で誓ってはみるものの、心はすぐにその思惑に拒絶反応を示す。
直也はそんな自分を、ひどく情けなく感じた。1つの疑惑で、咲を殺人犯にするというのか。それはあんまりではないのか。だが、その可能性も否定できないかもしれない。彼女には、直也の知らない何かがあった。それだけでも、疑いを突きつける隙間は十分にある。そんなことを考えている自分に対し、また直也は自己嫌悪する。
かつての恋人を信じたい気持ちと事実とが、ぐるぐると竜巻のようになって直也の心をずたずたに切りつける。血を流し過ぎたその精神は荒み、果汁の搾られたレモンのように役目を失って小さく萎んでしまっている。
前方の信号が赤に切り替わった。逃げられるような小道も見つからず、仕方なくブレーキを踏む。バイクの振動に身を委ねながら、直也は深いため息をついた。そうすることで暴れ狂う風から逃れ、目の先に意識を傾注することができるような気がした。
怪人が人々を襲っている。傷つけ、誘拐し、殺している。そのイメージに半ば強制的に脳を浸すと、体が底のほうから熱くなってきた。
急がねばならない。信号が変わるとともに直也はクラッチを回転させ、ピストルの音に従って地を蹴る陸上選手さながらに、前に飛び出していく。
古色蒼然とした、小さな美術館の裏に怪人の姿はあった。影の落ちた薄暗い場所で、ドラマなどでよく目にするような学校の体育館裏を思わせる。
“怪人”と“ダンテ”は激しい火花を散らしながら、戦闘を行っていた。比喩ではなく、実際にちかちかと細かい光が2人の周りで散っているのだ。なぜなのかと目を凝らせば、その答えは明白だった。今回の“怪人”は胴体に褐色の装甲板を付けており、それがダンテの鋭い蹴りによってダメージを与えられる度、閃光を撒き散らしているのだ。
“ダンテ”が拳を突き合わせている“怪人”は、青い毛むくじゃらの体と大きな鉄仮面で覆った頭、という姿かたちだった。ずんぐりとした体形をしているくせに首が細いため、こけしのようにも見える。胸元の他にも、膝や肩などにも装甲板が装備されており、みるからに防御力が高そうだ。実際、“ダンテ”の蹴りやパンチはその装甲に弾き返され、攻撃を受けているにも関わらず“怪人”の動きには余裕すら窺えた。
直也はバイクを壁沿いに停めると、ヘルメットを放り、“ダンテ”のもとに駆け寄ろうとする。だがその時、ふと茂みの向こうに動く影を見つけて急遽足を止めた。
緑の葉のついた細い木の足元にある茂みで、直也から見て右手側にある。警戒を強めながら近づき、その茂みを上から覗き込むと小学校低学年くらいだろうか、小さな男の子の姿があった。
少年は直也を見つけるとびくりと全身を震わすようにしたが、すぐに目を輝かせ、同時に泣きそうな顔になった。逃げ遅れてしまったのだろう。友達や家族は彼だけを残していって一目散に逃げ出してしまったのだろうか。彼の崩れそうな表情を、直也は無意識のうちに誘拐された過去の自分と重ね合わせている。
あの探偵の大きな手、精悍な顔立ち、ゆっくりと吊りあがる薄い唇。流れ来る映像の中からそれらの場面が切り取られ、1つずつ正確に頭の中に浮かび上がってくる。
この少年は過去の自分だ。理不尽な状況に突き付けられているという意味では、あの時の直也となんら変わらない。だからあのときの直也がそうされたように、今度は自分が彼にとっての光になってやらなければならない。直也の中で、覚醒した思いが膨張していく。
少年に向かって直也は腕を伸ばした。少年は丸くて大きな目をさらに広げて、しばし戸惑うような様子をみせるものの、すぐに直也に小さな手を伸ばし返してきた。
直也は、口元に微笑みを浮かべた。
「頑張ったな。もう大丈夫だぞ。泣くなよ、男だろ?」
「でも、でも……」
「俺がついてる、もう怖がる心配なんてない。ほら、家に帰るぞ」
直也の言葉に少年は鼻をすすりながら、大きく頷いた。直也は少年の手をとり、少年も直也の手を握り返してくる。掌に跳ね返ってきた少年の手の温かさに、直也の心もじわじわと熱を帯びていくようだった。
光が唸りをあげて、視界の端に迫った。素早く首を捻ると、怪人が放ったのだろう。青い光弾が直也目がけて飛んでくるところだった。
直也は目を見張った。この距離、もし直撃したら直也だけでなく少年の身にも衝撃が降りかかってしまう。それだけは避けなくてはならない。気がつくと直也は、茂みを飛び越え、少年の体に覆いかぶさっていた。
巨大な破裂音とともに、爆風が直也の全身に襲いかかった。直也は少年を胸の中に抱えたまま地面を転がり、そのまま濃い灰色の壁に叩きつけられる。
どちらが上なのか下なのか分からなくなり、視界がぐるぐると目まぐるしく回転した。緑、灰色、茶色の三色が次々と意識を駆けまわり、ついにそれらの色は混ざり合って真っ白に変わる。
「おにいちゃん、おにいちゃん」
舌足らずな少年の声で、直也はようやく自分の意識が元の場所に戻ったことを知った。痛む体を引きずるように身を起こすと、目の前には相変わらず泣きべそをかいた少年が、直也を真っ直ぐに見ていた。
「痛っ……。よぉ。お前、無事だったか」
脳がぐらぐらと揺れ、平衡感覚が異常をきたしているのは確かのようだった。直也は定まらぬ視点のまま少年の頭に手を乗せ、くしゃくしゃと乱暴に撫でてやった。
「お前、けがはないか。大丈夫か?」
「僕はなんともないよ。おにいちゃんこそ、大丈夫? 頭、血が出てるよ」
直也は自分の額に手をやる。するとぬめりと生暖かい感触が返ってきた。その手を眼前に掲げてみると、少年の言うとおり、指先まで真っ赤に染まっていた。
声を震わせ、狼狽を顔全体で表している少年を前に直也は掌を握り、小さく声を出して笑った。
「大丈夫だ。こんなのなんともない。かすり傷だ。それより、お前は早くどっか行けよ。ここは危ないぞ」
「でも」
「早く行けよ。俺がお前を守った意味が、なくなるだろうが? 早く、行くんだ」
怒鳴るような声を出したつもりだったが、あまりに弱弱しい蚊の鳴くような声になってしまった。最後まで少年は渋り、直也を案じるような目をしていたが、すぐに怪人とは逆方向に駆けだしていった。
そうだそれでいい。直也は少年の背中を見送ると、立ち上がる。後ろにふらつきはしたものの両足に力を入れることで、何とか直立することができた。手足を曲げたり伸ばしたりしてみるが、額が切れたこと以外に大きな負傷は発見することができなかった。
自己診断を終えた直也は、“ダンテ”と“怪人”の戦いに目を向ける。
“ダンテ”は“怪人”の腹目がけてパンチのラッシュを繰り出し、後退させると、続けてミドルキックでその腹部を捉え、壁に強く押し付けた。大ぶりな素人丸出しの戦闘スタイルだったが、装甲服を纏っての一撃は効果があったようだ。敵は苦しそうな呻きをあげている。
しかし“怪人”も負けてはいなかった。体勢を持ち直すと、全身を覆う青色の毛を威嚇する猫のように逆立て、それを一気に“ダンテ”目がけて発射してきたのだ。“ダンテ”が横によけると、それらは豪胆な針のように固い地面や美術館の壁面に容赦なく突き刺さっていった。
「お前がそういうことするなら。俺もさせてもらおう。風に流れる、ハーモニカのようにな」
拓也の声で宣言すると、“ダンテ”はまた左耳のダイヤルを回した。今度は1目盛りに合わせる。すると彼のバックルにあるデッキプレートが光を帯び、さらに短い間隔で瞬きだした。
“ダンテ”の肩から白い光が伸び、それが翼へと変形する。だが彼は翼をはためかすことはなく、そのまま翼の根元を90度回転させ、空に向かって垂直に突き立てた。
棒立ちする敵を前に“怪人”はこれ幸いとでも思ったのか、“ダンテ”の装甲へとその毛にまみれた拳を振り上げた。その拳が激突する間近になって、ようやく彼は動きだした。厳密に表現するならば動いたのは彼ではなく、肩から伸びた翼だった。
翼はくるりとまた回転し、今度はその先端を“怪人”のほうに向けた。そしてその表面から無数の光の羽を射出した。
まるで息を吹きかけられたタンポポの綿毛のように、ちりぢりになって飛び立っていく。そんな羽たちの舞う姿は、その一部分だけ切り取ってみれば現実のものとは考えがたい、とても幻想的な光景だった。
羽たちは規則正しく中空で停止すると、一定の距離を保ったまま“怪人”をぐるりと取り囲んだ。そうして逃げ道をなくしたうえで、まるで呼吸を合わせたかのように、羽たちは一斉に動きだし、あらゆる方向から“怪人”の体を深々と貫いていった。
役目を終えた羽がガラスのように粉々に砕け散ると同時に、血を吐くような悲鳴があがった。それは“怪人”の口から発せられたものだった。羽はすべて装甲が纏われていない箇所を狙って放たれたため、軽減することはできず、ダメージをもろに受けてしまったようだ。“怪人”はよろめき、口から絶えず絶叫を吐きだしている。
“ダンテ”はつま先で地面を蹴ると、前に飛び出す勢いで“怪人”の胴体に拳を打ち、続けてその顎をアッパーカットで捉えた。首をがくがくと震わせる“怪人”の腹部をさらに一息の動作で蹴りやり、美術館の壁に叩きつける。
耳のダイヤルを3目盛り分、“ダンテ”は動かした。同時に全身から強烈な光を放出させ、その光に身をくるまれながら“怪人”目がけて高く跳躍した。
“怪人”も目の先にあった緑のない貧相な木を拳の一撃でへし折ると、跳びかかってくる“ダンテ”目がけて腕を振り上げた。
直視しようものなら瞳を焼かれそうな強烈な光に手をかざし、目を保護していたため、直也はこの後“ダンテ”が一体光の中で何をしたのか確認することはできなかった。
ただ影の動きから、彼が宙を前に回転したところまでは見えた。そこから先は白い空間の中に溶け込んでいってしまって、すべての風景が無と化した。
光が晴れた時には、“怪人”は壁に影の形だけを残して消滅していた。そのかたわらにあったはずの木も、塵1つ残らず消え失せてしまっている。“ダンテ”は直也に背を向けたまま茫然自失といった様子で立っていた。そのスマートな装甲服に包まれた黄色い背中は、悲痛や憔悴を一身に背負っているように見える。拓也のあの赤い目をふと思い出し、直也は下唇を強く噛んだ。
戦いが終わったことを察して、直也は“ダンテ”に近寄ろうと足を踏み出す。
“ダンテ”の視線の先に誰かがいることに気づいたのは、それからすぐ後のことだった。直也は足を止め、その身震いすらする情景にただ息を呑む。
まるでとうの昔からそこにいたと言い張るかのように、それはごく自然にその場所に佇んでいた。全身を鎧とマスクのようなもので包んでいるが“ダンテ”とは異なり、遠目から見ても誰かが『着ている』という印象は受けなかった。鎧そのものが生きているように見えるのだ。
その姿形を成しているのは、基調は白であるが、部分的な桜色の着色と、樹の枝のように全身に刻み込まれた金色の直線をもつ鎧である。マスクの目にあたる部分は鉄格子のようになっており、頭には小動物の耳を思わせる突起物が生えている。
背中には、白と金に彩られた大きな翼があった。いまは畳まれており、背中に寄り添った状態になっているが、その姿だけでも翼の雄大さを図ることができた。
両足の太股にはベルトが巻いてあり、そこには刀身の長いナイフのようなもの、いわゆるダガーが挟み込まれていた。右手首には腕時計のような形状の茶色く丸い石のようなものが装着されている。
“怪人”よりもずっと厳格で、神秘的で、威圧的な風格を備えている。それでいて、“怪人”よりも慄然とした空気を周囲に振りまいていた。その姿を目にした瞬間、拓也とゴンザレスの言っていた、『黄金の鳥復活を掲げている連中』という言葉が直也の脳裏に蘇る。
まさしくそれに違いないと、直也は立ち尽くしながら確信する。
白い鎧の怪物は問答無用な勢いで、“ダンテ”に躍りかかってきた。両足からダガーを引き抜くと同時に、斬りかかる。後ろに身を引かれることで回避されると、さらにダガーを切り返し、鼻白む様子すらなく追撃を加えていく。
“ダンテ”の肩にダガーが触れ、そこから火花が散った。怪物の攻撃は猛々しいが、けして血気にはやっているわけではなく、怖気が走るくらいに正確だった。“ダンテ”は次々と繰り出される攻撃を回避していくものの、徐々にその装甲にはダメージが募っていく。
怪物はダガーを空中で回転させて掴み直すと、両手を一斉に突き出し、“ダンテ”の胸を突いた。たまらず“ダンテ”の体は、つい数刻前までの怪人と同じように、真っ白な美術館の壁に激突する。
仰向けに倒れた“ダンテ”にも手加減することなく、怪物は2本のダガーを揃えて振り下ろす。しかし彼は怪物の横腹を蹴りやって、その攻撃を阻止すると、横に転がり逃れた。
“ダンテ”はすぐに身を起こした。迫るダガーの切っ先を紙一重でかわし、怪物の顔面に拳を打ち出す。だが、その攻撃はあえなく宙を切った。隙の生じた“ダンテ”は怪物の一太刀を正面から浴びて、もんどりうつ。黄色い火花が、甲高い音をあげながら彼の体から弾けていく。その一つ一つはまるで、“ダンテ”から漏れていく魂の火のようにも見えた。
そんな彼に、さらに怪物の凶刃が煌めく。しかし彼の方もまた、拳を打ち出していた。ダガーの刀身を殴って攻撃方向を根元から変えさせると、瞬時に肉薄し、膝打ちを怪物の腹に打ち込む。さらに腕全体で怪物の顔面を打ちつけようとするが、耳をつんざくような銃声音とともに、彼の体は後方に激しく吹き飛ばされた。
“ダンテ”の口から、呻き声があがる。彼はいま、直也から5メートルほど離れた位置に倒れていた。地表に含まれた砂粒を1つ残らず潰していくような足音をたて、“ダンテ”に歩み寄る怪物へ直也は目線を上げた。そして、一気に口内が干上がった。舌が乾いて歯の裏側に貼りつく。
怪物の右手にはいつの間にか、無骨な形状をした四角い箱のようなものが装備されていた。怪物の白皙な体躯とあまりにも不釣り合いな、黒く闘争心に満ちたそのデザインはいやがおうにも直也の目に飛び込んできた。
“ダンテ”に突き付けられている箱の一面からは、円柱形のものが3つ飛び出しており、その先端からはいま、黒く細い煙があがっていた。
銃だ、と直也はしばらくして理解した。それも内包されているバレルを回転させることで、一瞬の間に数百発もの銃弾を吐き出すガトリング砲というやつだ。昔、観た映画のワンシーンが脳内にひょっこりと顔を見せた。あれで、ダンテを撃ったのだ。しかも至近距離で。
直也は硝煙をあげる銃口を覗き、それから初めて恐怖を覚えた。あんなもの、今まで怪物はどこに隠し持っていたというのだろうか。
さすがの“ダンテ”もいまの一撃は、大分こたえたようだった。足取りも危うく、よろけながら立ち上がり、壁に手をつく。だがその顔は真っ直ぐ怪物の方に向けられていて、その様子は怪物に対して必死に何かを訴えかけているかのようだった。
“ダンテ”が、つまり拓也が何事かを呟いた。しかしそれはあまりにも小さな声だったうえ、仮面の中にこもっていたため直也には聴きとることができなかった。
しばらく肩で息をしたあと、“ダンテ”は何かをふっ切るように首を数度横に振った。それから覚悟を決めたように、怪物に向かって走り出した。
怪物も彼のその行動に引きずられるようにして、ダガーを逆手に持ちかえ、疾走する。
“ダンテ”が跳ぶ。怪物が腕を振り上げる。“ダンテ”が足をぴんと直線に伸ばし、跳び蹴りの体勢に入る。怪物はダガーでそのつまさきを一閃する。刃と足先が正面からぶつかり合い、鉄同士がこすれ合うような音をあげた。
着地すると“ダンテ”はすぐに姿勢を正し、前方に飛び込んだ。怪物は右手のガトリング砲を構えて、素早く邀撃の姿勢を取る。一瞬触発の空気がぴりぴりと音をたてて流れていく。どちらかがあと指先1つでも動かせば、戦いは終焉に向かうだろうと思われた。
ふと直也の頭に、この戦いを止めなくてはという意識が唐突にこみあげてきた。一度その思いが過ぎると、いてもたってもいられなくなり、直也は今まで凍りついたようだった体を内側から奮い起こして叫びながら2人に向かって走り出していた。
「止めろ!」
直也の出した大声に、まず“ダンテ”が動きを止めた。前につんのめりながら足を緩め、こちらを振り返る。そこで初めて、直也がそこにいたことを知ったらしく「なんでここに」と疲弊しきった声をあげた。
全速力で走って、直也は怪物と“ダンテ”の間に割り込んだ。怪物はいまにもガトリング砲を作動させようとしていたが、直也の姿をみると、途端に銃口を下ろした。
少しの間、直也と怪物は無言のまま顔を向かい合わせていた。割れた額から流れる血が右目をふさぎ、片方の目でしか直也は怪物の顔形を目にすることができない。そのロボットのような顔からは一見して何も窺うことはできないが、直也には分かっていた。いまこの怪物どんな表情を浮かべているのか。その瞳の色、頬の形、口の大きささえも。手に取るように、直也の瞳には映し出されていた。
怪物が、何かを直也に言いだそうとしたのが分かった。喉がわずかに上下したからだ。だが怪物は結局、何も口に出すことはなく、どこか寂しげに翼を展開すると回れ右をして一目散に飛び去って行ってしまった。
しばらく寂寞とした想いで空を仰いでいると、後ろから肩を叩かれた。首をよじると、顔のすぐ近くに“ダンテ”の仮面があった。彼は掠れた声で、いきり立った言葉を投げつけてきた。
「坂井……俺は、ここにくるなっていったはずだぞ! またけがをしてるじゃないか。なんで、なんできたんだよ」
「速見」
直也は完全に、“ダンテ”のほうに体を向けた。“ダンテ”の腹部の装甲は黒く焦げており、そこには無数の細かい傷跡がある。やはり、ガトリング砲の一撃を受けたのだ。その痛々しさに顔を歪めてから、直也は彼の顔に視線を戻した。
「俺はもう、真実から逃げたりしない。目の前にあるものを、全部、全部飲み込んでやる。だから教えてくれ。俺に、事実ってやつを」
“ダンテ”から返事はなかった。その代りに、これまでどこに潜んでいたのか、蝉たちのじわじわという大音量があちこちから聞こえだした。直也はへし折れた木が植えてあった場所に視線をやり、心の中で確信を強めた。
直也が拓也をバイクの後ろに乗せて向かったのは、小さなラーメン屋だった。店の入り口に垂れ下がった赤いのれんには、『ラーメン 雲隠れ』と荒々しい墨痕で書かれている。
このラーメン屋は昔、死んだ元所長とよく一緒に行った店だった。昨日、けがで行けなかった後悔からなのか、無性にここに足を運びたくなったのだ。
湯気の漂う店内には、カウンター席のほかには奥の方にテーブル席が2つみえるだけだった。2人掛けのテーブルに、直也と拓也は向かい合って腰を下ろす。
壁に貼ってある水着を着た女性のポスター、壁一面に貼られた客からのメッセージの書かれたたくさんのメモ用紙、テーブル上の割りばし入れの隣にちょこんと乗った、おみくじの出てくる球形の装置。素早く周囲に目を配っていくうちに、直也はやはりここも3年前と何ら変わっていないことに気づいた。このラーメン屋もまた、外の時間軸からは外れたところを歩んでいるのだ。
このまま待っていれば、店ののれんをくぐり抜けて、SINエージェンシー所長の太田が顔を見せるような気さえ直也にはした。
「よう」と手を挙げながら、太田は直也に軽い挨拶を送ってくる。冗談めいた口調で直也は「あれ所長、死んだんじゃなかったんですか」と言う。すると太田は「バカ、勝手に殺すんじゃねぇよ。あ、親父。いつものラーメン1つ頼む」と笑いながら直也の向かいに座るのだ。そうして直也はまた、3年前と同じように、ためになるような、ならないような話を次々と聞かされ続ける。ラーメンが届いても、話がいい場面を迎えているとなかなか途切れさせることができずに、結局2人してラーメンをのばしてしまうのだ。
冷めたスープをすすり、食し終わると、午後の仕事に頭を切り替えて席を立つ。伝票を掴んでレジに向かう太田の背中を、直也は慌てて追いかける。太田は言う。「ここは払っておいてやる。おごるんじゃねぇぞ。出世払いだ。お前は絶対、俺が優秀な探偵に育て上げてやるからな。ま、どんと胸を張ってろよ」
しかし向かい側に座っているのが太田所長ではなく、拓也であることに気づいて、直也は一気に現実に引き戻された。所長はもう、この世にいないのだという実感が束になって襲いかかってきた。小さな痛みが胸にさし、直也はたまらず心臓のあたりを手で押さえる。
「大丈夫か?」
そんな直也の仕草に不安を覚えたのか、拓也が心配そうな顔で覗き込んできた。直也は胸を掴んでいた手を解いた。
「あぁ、大丈夫だよ。血もおかげで止まったし。目立ったけがもない。不幸中の幸いってやつらしいな」
言いながら直也は自分の額を指す。そこには拓也からまた譲り受けた、例の黒い布が巻かれてあった。脈拍に合わせてずきずきと鈍痛が走るが、その痛みすら時がたつほどに和らいできている。もともと、大袈裟な処置が必要な傷ではなかったから、2、3時間もすれば完全に塞がれるのかもしれない。
直也は布の上から傷口に触れながら、拓也の胸の辺りに視線を送って言った。
「それより、お前のほうこそどうなんだよ。腹にでかい一撃くらってたけど。大丈夫なのかよ?」
すると拓也は一瞬目を見開き、それから笑顔になって、腹を撫でた。
「平気だよ。本当にやばい時は、勝手に装甲服が分解されちゃうから。それまでなら中の俺にほとんどダメージはないんだ。まぁ、くらったときはちょっと痛かったけど」
そこまで彼が話したところで、注文票を持った店員が現れた。茶髪の女性で、大学生のアルバイトという雰囲気を纏っている。直也は醤油ラーメン、拓也はエビチャーハンをそれぞれ注文すると、店員は厨房の方に引き返していった。直也はその背中を目で追いながら、さすがにあの店員は3年前にはいなかったよなと自分の記憶を確認する。
「ここはラーメンが旨いんだよ。なんだか、特別なだしをスープに使ってるらしい。聞いた話だけど」
無論、所長からの情報だ。
直也が言うと、拓也は目元をくしゃくしゃにしながら苦笑した。
「注文する前にそれを言ってくれると、嬉しかったな」
それから料理が届くまでの間、2人は無言だった。直也は何から話そうか迷っていて、おそらく拓也の方も同じことを考えているに違いなかった。
壁にかかった大きな時計から鳩が飛び出し、1時を告げた。あの時計は3年前と同じままだ。変わるもの、変わらないもの。世界は双方のもので、ひどく入り乱れている。
ラーメンとチャーハンが運ばれ、店員が去っていくと、直也はまず透明のコップに注がれた水で口の中を湿らせた。そして割り箸を取りながら口火を切った。
「お前、俺のこと前から知ってただろ」
いただきます、と拓也は言ってレンゲを掴んだ。しかしそれでチャーハンをすくうことはせずに、直也を上目づかいに見てきた。
直也はそれを、肯定のしるしだと受け取った。直也は醤油の匂いのする湯気を顔に浴びながら、ラーメンをすすった。それから拓也の顔を見つめる。
「なんでお前は、俺が怪人のところに行くことを頑なに拒んでたのか。分かったよ。それに、俺には知る権利がある、って言ってた意味もな」
参った、とも言うように眉間にしわを寄せ、拓也は水を飲んだ。
「気づいていたのか」
「お前が教師、ってところで何となくピンときてたんだ。確信したのは怪人以外の脅威がいるって説明のときだけど。それに加えて、お前の目が潤んでたことが決定打だった。あんなことされれば、誰だって見抜けるよ」
すると拓也は恥ずかしそうに、目のあたりを手で覆うようにした。直也はその滑稽な姿に片方の頬だけで笑いながら、また麺を口に含んだ。昨晩のあきらのラーメンも旨かったが、久々に食べる店のラーメンもまた同じくらいに美味しかった。
「お前、いいやつだな」
箸を置くと、直也は本心から言った。拓也は突然投げ渡された褒め言葉を、どう扱おうか戸惑った様子で直也をまじまじと観察している。
「なにが?」
直也は右手の甲を拓也のほうに向け、そのままドアをノックするような動作を行った。
「さっき、パンチ一発わざと外しただろ。初めに転がって、立ち上がったあとだよ」
「あぁ」
拓也は直也の話を聞きながら目を細め、たった30分前の話なのに、大昔のことを思い出すような顔をした。
「あれは、本当に外したんだよ。わざとなんかじゃない」
「それに怪人には使ってたダイヤルを、あいつ相手には一度も回さなかった」
「あいつが強いから。小細工使う暇がなかっただけだよ」
「なんで、嘘をつくんだよ」
「嘘じゃない。俺には戦いなんて向いてないってことだよ」
拓也はコップに残った水をすべて飲みほした。それからレンゲにチャーハンをすくい、口の中に放り込む。
「刺激なんてなくても。大好きな音楽を教えて、のんびりと暮らしている方が、そのほうが俺はずっと気が楽だ。俺は、弱いし」
椅子の背にもたれ、天井を見上げながら、拓也はため息とともにそう吐き出す。その発言は拓也の隠れた叫び声のように、直也には聞こえた。
「なんで、戦うんだよ」
思い切って直也は言った。拓也は口の周りについたご飯粒を指ですくい、口の中に入れている。直也は心持ちテーブルから身を乗り出して、先ほどよりも大きな声を出した。
「戦いたくないやつが、なんで心を痛めてまで、拳を振るうんだよ」
しばらくの間、拓也は何も返さなかった。チャーハンとセットで運ばれてきたスープを飲み、レンゲを振るう。そして黄色いご飯粒を噛みしめながら、しみじみといった様子で言った。
「やりたくないことを、やらなくちゃいけなくなる。大人になるってそういうことじゃないのか?」
そのセリフには諦めも、寂しさも切なさも。とにかくあらゆる負の感情が一切含まれていなかった。ただ強い責任感に満ちていて、直也の胸に重たくのしかかるように響いた。
「いや、そういうもんだよ。生きるってことは、楽なことばかりじゃないからさ」
直也に反論の余地を与えないとするかのように、拓也は布巾で口元を拭き、すぐに続けて言葉を発した。みれば、いつの間に彼の皿は綺麗に平らげてあった。
一方、直也のラーメンはまだ少しも減っていない。食欲もあり、しかもこのラーメンは美味いと感じているのになぜこんなに食が進まないのだろう、と直也は自分のことながら不思議に思った。しかし特に問題にすることだとは思わず、精神的なことや、けがが原因であるとこの場は思いこむことにした。
「それにしても、やっぱり凄いよなぁ。探偵を騙すのは容易じゃないってことかぁ。なんか参考になったよ。なんの参考か知らないけど」
「俺は、探偵なんかじゃない」
直也の思いがけない言葉に、拓也は眉をあげるようにした。スープを飲む手を止め、テーブルの上に置くと、拓也は殊勝な瞳で直也を見据えてきた。
店内は満席になっていて、ほどよいざわめきが周囲で巻き起こっていた。腹の膨れた2人の鼻に、油の匂いが入り込んでくる。その喧騒にも助けられ、直也は黒い塊が胸の奥からこみあげてくるのを感じながら、呻くように言った。
「咲さんを、俺は救えなかった。3年たったいまでも、まだ助けられないでいるんだ。そんな奴が、探偵を名乗っていいと思うか?」
直也は絶望の淵にいた幼少時代の自分を助けに来てくれた、あの探偵になるのが夢だった。そのために実家を飛び出して上京をし、探偵の修行に励んだのだ。自分もいつか困っている誰かの手を取り、その劣悪な状況から救い出してあげたい。そう一心に願って。だがその夢は悪魔の掌によって、いとも容易く、それも最悪の形で無残にもねじ伏せられてしまった。
「咲さんも、所長もなんで殺されたのか。誰に殺されたのか。いまだに分かってないんだ。あれから3年だぞ、3年。情けないよな。誰かを救いたいって言って家を飛び出したのに、大切な人の命でさえも救ってやれなかった。俺は一体、何をやってるんだと思うよ」
なぜ今日出会ったばかりの拓也を前に、あけすけにこんなことを喋っているのか、それは直也自身にも分からなかった。拓也の持つ教師特有の空気が、悩みを打ち明けやすくしているからかもしれないし、昨日今日で色々なことが身に起こりすぎたために精神的に疲れているせいかもしれない。または久々に咲のことを思い出したことで、彼女の魂が直也の中で暴れ出していたのかもしれない。それとも、その全てかもしれない。
殺された、というあまりにも残酷なインストネーションに拓也は目を丸くし、絶句している。それから数秒を置いてから、彼はたどたどしい口調で提案を声にした。
「犯人の目星とかは、まったくないのかい?」
「探偵事務所だったから。うらみつらみは多かったと思う。逆に多すぎて、絞りきれないくらいだ。だけど俺の調べた限り、みんな白だった。プライベートな点だと、さらに分からない」
所長の自宅に保管されていたこれまでの依頼主のリストを用いて、当時、直也は日本中を駆け回ったものだった。しかし調べを重ねるほどに、目標は蜃気楼のように霞んでいって、全員を調査し終えると完全にそれは姿を消してしまった。
まずほとんどの人には、事件当日のアリバイがあった。そしてアリバイがないという人をさらに深く調べてみても、今度は殺人を立証できるほどの強い動機がない。これもまた骨折り損だった。この調査だけで半年は無駄にした。
「じゃあ証拠とかは? 指紋とかDNA鑑定とか。ニュースとかみると、最近はいろいろあるみたいだけど」
直也はゆるゆるとかぶりを振った。警察だって無能ではない。証拠の1つでも見つかったのなら、最近の進歩した捜査方法を使えば犯人を特定することなどそう難しくはないだろう。それにこの事件は一時期、ニュースでも話題になった。しかしただ騒ぐだけで、一向に犯人像は浮かび上がってこなかった。
「見つかってない。第一、発見されたときは燃やされてたし、事務所ごと。それで所長は中で、咲さんは外で倒れてた。痕跡があったとしても、全部炭になっちゃっただろうな」
「じゃあ目撃者の証言とかは? 現場のことよく知らないけど、都内なんだろ。誰か犯人らしき人を見たとかはないんかな」
「まともなのはなかったよ。黒ずくめの男をみた、とか。怪しい子供をみた、とか。赤いスポーツカーが去って行った、とか。どれもこれも裏付けすらとれない証言ばっかで、本当なのか嘘なのか、全然はっきりしなかった」
証言についての不明瞭さなら、確信をもって答えることができた。当時。直也自ら、寝る間も惜しんで『SINエージェンシー』近辺の聞きこみ調査に励んだからだ。警察には話せないようなことでも、直也という一個人になら新しい証言が出てくるのではないかと期待したのだが、それはまったくの見当違いだった。結局ほとんどの目撃情報は、徒労に終わってしまった。
「事件が起きたのは、昼間?」
両手を膝に乗せ、顎を引いた姿勢で拓也はさらに質問を重ねてきた。
「夕方だよ。4時15分。よく覚えてる。仕事から戻ってきたら、事務所が真っ赤に燃えてたんだ」
当時の光景は、いまになっても直也の瞼の裏に刻み込まれている。
真っ赤な火の粉を噴き、黒い煙が空を埋め尽くす。炎がつい数時間前でまで建っていた建物を躊躇なく呑みこんでいく様は、まるで巨大な生き物が脆弱な草食動物を喰らうかのようだった。
事件が起きてしばらくは布団の中で目を閉じるたびに、炎が体をじわりじわりと蝕んでいく映像が再生された。そのせいで、眠りにつけず、結局一睡もせぬまま朝を迎えたことも一度や二度ではなかった。今でも、ろうそくの火などを目にすると当時の情景が蘇り、冷汗が出てくる。
思い出すといまにも体が震えてしまいそうで、直也はテーブルの下で組んだ手を強く握った。拓也は相変わらず、精神科の医師のように直也と正面に向き合いながら、瞳だけを上向かせてあれこれと考えを巡らせている。
「夜ならともかく、夕方か。誰かが見てそうなもんだけどなぁ。でも解決してないってことは、それも難しいってことなんだよな」
「まぁな。なんでまともな目撃情報がないのか。もちろん偶然かもしれないし、警察や俺が大切なことを見逃しているだけなのかもしれない。だけど、なんだかその証拠が1つも見つからないってこと自体が臭う気がする」
「そうなると、いろいろ怪しくなってくるな。というかこれって、密室殺人とかいうやつなんだろ? そうなるとやっぱり相当な計画性があったんじゃないかな。警察の目も、君の目も欺く方法を十分に考えてから、実行したんじゃないのかい?」
「警察だって無能じゃない。だけどそれは、現実的に考えた場合っていうのが自然と前提にくるんだ。そうだろ? 最近の連続女性失踪事件に至っては犯人の目星さえついていないって話が、それを裏付ける何よりの証拠だ」
拓也は目を丸くした。それから直也の言葉に秘められた意図に気づいたのか、テーブルの上で忙しなく瞳を動かしはじめた。
「いや、そんなはずはないよ。だって怪人は3年前にはいなかったんだ。これは確かだ。だから奴らのせいではないことは、確かだよ」
そう主張する拓也の目が、軽く泳いだのを直也は見逃さなかった。彼は直也が何を言わんとしているのか理解しているのだ。それでも口に出さないのは、彼がその事実を直視したくないからなのか。それともまた別の要因なのか。またはその両方なのか。
椅子に深く座りなおし、コップに水を入れながら直也は語調を強めて言った。
「怪人だなんて、一言も言ってないだろ。あの着ぐるみ野郎も、怪人は昔いなかった、って言ってたし。そこは信頼してもいいと思ってる。だけど、それと同じ力ならあったんだよな。3年前どころじゃない。すでに、7年前には」
要点を伏せて言葉を投げかけたが、その正体をやはり彼は察していたようだった。急に、拓也の表情が豹変した。こちらにも見えるほどに喉を隆起させ、額に油を浮かせている。唇が乾き始めたのか、彼は舌を細く出した。
それから苦しそうに顔を歪めながら、拓也はようやく唇を開いた。
「俺たちを疑っているのか?」
「そう考えるのが、普通じゃないか? ゴンザレスって言ったっけ。あいつがあれだけ咲さんのことを断言したのも怪しいだろ。何も知らないやつが、あんなこと言うはずがない。そうなればあいつが、事件に関わっている可能性は強いんじゃないのか?」
「それは……」
直也は覚えていた。ゴンザレスの発した“人殺しの道具”という言葉。そして咲の残したプレートに書かれていた文字は「3」。つまり、7年前に作られたプレートは複数存在してもおかしくはない。それでなくても、咲の持っていたプレートが犯人のものである可能性もあった。そうなれば、疑いが強まるのはゴンザレスの周囲にいる人間か、または黄金の鳥に関わっている人間のどちらかである。
拓也は黙ったまま、口をもごもごと動かしている。ゴンザレスの潔白を証明したいが、それを言明できるだけの自信と根拠が足りないと、その顔ははっきり物申している。自分と同じだな、と直也は考え、それを自覚するとなんだか拓也を追い詰めることがひどく虚しくなってきた。
そこまで思考を働かせていると、ふと直也の目の前に過去の映像の一端が過った。それは病院の清潔なベッドの上で眠る咲の姿だった。心電図は低数値を記録し続け、それはまるで死を秒読みする機械のように等間隔で音を発し続けている。彼女の頬はこけ、表情には生気がない。
そこで直也は意を決して椅子から立ち上がり、彼女の茶色い髪を手ですくいあげたのだ。救急車の中で見た、あまりにも不吉な文様が錯覚ではないことを見定めるためだった。
そして彼女の髪の隙間から覗いた白い首筋に、それはあった。まるで真っ白いスケッチブックに垂らした鮮血のように。その汚れ1つない肌には、鳥が大きな翼を広げたような、奇妙な形をした青黒い痣が刻まれていたのだ。直也は咲にこんな痣があることを、まったく知らなかった。彼女の口から聞いたことすらない。こうして死に際の彼女を前にして、この事実を初めて目にしたのだった。
鳥の形に見えるのは、気のせいかも分からない。天井の染みが様々なものに見えてしまうのと同じように。直也が鳥だと思って見るものだから、そうとしか感じられなくなっているのかもしれない。
しかし直也はその痣に、胸騒ぎを覚えざるをえなかった。咲の死の運命を予告しているかのような。死神の相のようにしか、思うことができなかった。その予感が的中したのか、どうなのかは分からないが。その約2時間後に、咲は息を引き取った。
「どうしたんだ、坂井?」
はっと我に返ると拓也が不安そうな面持ちで、直也の顔を覗き込んできた。直也は椅子を後ろに引くと、手を振って拓也の顔を遠ざけた。
「いや、別に。つか、お前顔近いよ。びっくりするだろうが!」
「あ、あぁ。ごめん。ごめん。やっぱ考えてみたけど、ゴン太の潔白を証明する手立てが俺にはないみたいだ。だからさ、ちょっとあいつの周りを調べてみるよ。俺たちの身の潔白を、坂井に証明するためにも、さ」
拓也は拓也で、しばらくゴンザレスの弁明に思考を働かせていたらしい。そしてその結論に、直也は虚を衝かれた。まさか彼自身が動いてくれるとは思わなかったからだ。
仲間を信じるために、あえて疑いにかける。その言葉に、直也はひどく胸を打たれた。こんな簡単なことなのに、直也は今まで思いつきもしなかった。頑なに信じ続け、疑うことから目を背けてきた。だがそれは、探偵として正しいことなのかと自問をしていたことも事実だ。だがそれを曖昧にしたまま、ここまできてしまった。
咲にしてあげられる、本当に大切なこととはなんだ。直也は自分に問いかける。
しばし放心としていた直也は載せられるままに返事をし、それからついでに先ほど思い出した過去のビジョンについて相談してみようかという気になった。
「あぁ。そうしてくれると助かるけど。あとさっき、鳥って話がでたから思い出したんだけどさ。咲さんに、鳥型の痣があったんだよ。首のところに。なんか知らないか?」
「鳥型の、痣?」
拓也の瞳に視線を釘付けにして、彼の様子を窺う。幸い、拓也は感情が比較的顔に出やすい人間のようだった。こういう人間ばかりなら、警察も探偵も仕事は楽なのにと考えてしまう。
拓也は顎に手をあてて、記憶を探るような素振りをしたあと、しばらくして首を左右に振った。
「いや、聞いたことないなぁ。黄金の鳥の連中の体も7年前にみたけど、そんな痣はなかったし。もちろん、俺たちがそんなもんつけるはずはない。これは本当だよ。信じてくれ。それは殺されるときに抵抗してどっかにぶつけた、とかそういうことなんじゃないのか?」
「お前の言うことは信じておくよ」 そう前置きした後で直也はコップを手に取り、喉を潤す。なぜかやけに、先ほどから喉が乾いていた。
「そうか。やっぱり考えすぎかな。こういうことが起きると、くだらないことでも重要なもんに見えてくるから困るんだ。お前と同じことを、警察や医者にも言われたよ。確かに、痣があったからどうこうってわけでもないだろうし。鳥に見えたのは、偶然か」
「まぁ、細かいことに目を向けるのが探偵ってやつなんだろうけどさ。それはさすがに深読みしすぎじゃないか。生徒の中にも時々いるよ、簡単な問題なのになにか重大な意味を持っているんじゃないか、とか思いすぎてミスするのが」
「そうかな……。そうかもしれないな」
拓也の言う通りかもしれない。直也は鼻の上のあたりを抑え、ぎゅっと目を瞑った。それから目を開くと、パッと頭にあることが閃いた。
「話は少し戻るんだけど。1つだけ、一応証拠はあったんだよ」
直也が話すと、拓也は本当か?とまるで事件の当事者のように喜びと驚きを全身で表した。これではまるで、直也が警察で拓也が被害者の関係者のようだと思いながら、直也は唇を緩めた。それから、両手を使って長方形を胸の前に作った。
「さっき見せた、プレートだよ。まぁ、いまはあの着ぐるみ野郎にとられたけどな」
すると拓也は急に萎んだ顔つきになり、両手をテーブルにつけて深々と頭を下げた。いきなり謝罪され、直也は眉をひそめるしかない。
「いきなり、どうしたんだよ」
「ごめんな。その……ゴン太がいろいろ変なこと言っちゃって。彼女を乏しめるようなことも。もう詫びる言葉もない。本当にすまなかった」
直也は吐息をついた。指先でテーブルを叩く。周囲の目が気になった。
「お前が謝ることじゃないだろ。頭をあげろよ。なんか……俺が悪いことしたみたいじゃねぇか」
直也の言葉を受けて、拓也はおずおずと顔をあげた。その瞳がわずかに揺らいでいるのを認めて直也は驚いた。彼は、本当に心から反省の気持ちを抱いているのだ。自分が直接、失言を漏らしたわけではないにも関わらず、だ。その姿勢に、直也は心にじんわりと響くものを感じた。この男はただ流れるままに生きているだけではない。人を頑なまでに信ずる気持ちと、誠実さ。その双方を持ち合わせている。直也はこの男を穿って見ていた自分を大いに恥じた。彼の思いに共感したともいえる。
拓也は遠くを見るような目つきになったあと、直也に視線を転じてきた。それはこれまでとは異なる、力強い頼もしさのたぎった目だった。
「プレートが、何かを知っているかもしれない」
「プレートが?」
直也が訊き返すと、拓也はわずかに胸を反らした。
「ゴン太の持ってる機械を使えば、プレートから装甲服の使用記録が抜き出せるんだ。どんな人間が纏っていたのか、最後に使ったのはいつかって具合に」
「そんなことができるのかよ」
直也は感嘆した。事件のことがたとえ分からなくとも、咲が実際に装甲服を着たのか否かだけでも判明すれば、直也の心に差し込む陰りが少しでも消え失せてくれるかもしれない。直也は、いまは事件解決よりもそちらのほうが重大な仕事のように感じていた。
拓也は水を口にしながら続ける。その側から店員が、空いたどんぶりと皿を取り上げていった。
「もし、彼女が装甲服を纏ったのなら。事件当日のことでなくても、それに繋がる何かが分かるかもしれない。それにもし、プレートの中の情報に何も不審がなかったとしても、最終的には装甲服が物語ってくれるかもしれない」
「装甲服が?」
直也はダンテの体を瞬間的に思い浮かべた。それからすぐに彼の言うところの意味に納得し、両手を叩き合わせる。
「そうか。咲さんがもし、それを最後に着たのなら。犯人に関する何らかの手がかりが、装甲服に残されているかもしれない。咲さんが死に際に、俺にプレートを渡したのはもしかしてそういう意味だったのか?」
「そういうことだと思う。わからんけど。あんまり推理小説とか読まないけどさ、もしかしてダイイングメッセージ、ってやつかもしれないな。すべてが燃える前に、装甲服に犯人の足跡を叩きこんでおいたのかも」
直也は唾を呑みこみ、心臓の高鳴りを必死に制御しながら拓也の話を聞いていた。今まで目の前に立ちはだかっていた壁に風穴が生じ、それが少しずつ大きくなっていくようなイメージが瞳の奥に現れた。
「咲さんなら、やるかもしれない」
直也は気付くと呟いていた。拓也はそれに対し、小さく顎を引いた。
「なら、残ってるかもしれないな」
推理を働かせながらも、だがそれは皮肉な結果だなと直也は自嘲の笑みを浮かべていた。事件解決の証拠が見つかる前提は、咲が鎧を纏っていたことになっている。つまり結局のところ、咲が鎧を使って何かを行っていたという事実が確立されたものになってしまうわけだ。
人殺しの道具を使って、咲が何をしていたのか。簡単に導き出すのなら、それは1つしかない。だが咲に限ってそんなことをするわけがない。様々な思いが直也の中で駆けまわり、ピンボール球のように何度も心の中を跳ね返って傷つけ、苦しめる。
咲の無実が証明されてほしい。だけど、事件は解決して欲しい。この2つが両立する展開が最もいいのだろうが、あまり期待を膨らますのは止めておいた。おそらくそんなに都合のいい展開にはなるはずがないのだから。
拓也は水を浴びるように飲みながら、話を続けていく。透明のポットの中の水かさはみるみるうちに、低くなっていった。
「装甲服を逐一生み出しているダンテと違って。坂井のやつは、装甲服を呼び出すだけだから、受けたダメージもそのままなんだ。7年前はそこが弱点だと言われていたんだけど。この状況じゃ、それがいい方向に転がってくれたみたいだな」
「問題は、どうやってプレートを取り返すかだよな。というか、それができなきゃ何も始まらないだろ。あいつの居場所とか分かるなら、俺が行くけど」
「いや俺が行くよ。俺なら、ゴン太も怪しまないと思うんだ。いまはリスクを最小限にするべきときだと思う。気持ちは嬉しいけど、坂井じゃ危険が大きすぎる」
「その意見には納得せざるを得ないけどよ……大丈夫なのか?」
拓也のセリフを頼もしく感じる一方で、直也には気に懸かることがあった。いまの拓也の発言は、先ほどあれほどまでにゴンザレスを信頼しようとしていた拓也の姿と明らかに矛盾している。
「それって、お前にとっちゃ完全な裏切りだろ。やらなきゃいけないこともやるのが、大人じゃなかったのかよ? お前の立場は大丈夫なのか?」
事件の真相を知るのも、咲の秘密を暴くのも、拓也にとっては何ら関係ない赤の他人の事情である。ゴンザレスからプレートを奪ったところで、彼に何の得もない。逆に失敗すれば、彼は窮地に立たされる可能性すらある。自分の厄介事のせいで、関係のない人が巻き添えを食うのは嫌だった。だからこそ直也は、いまのうちに拓也に覚悟を問いかけておくことにしたのだ。
「さっきまでのお前を見てると、なんかあいつとそれなりの関係を築いているようにも見えるし。それがこの一件で、崩れるかもしれないんだぞ。俺はその一端を担いたくはない」
直也が一度に言うと拓也は目を伏せ、それから直也の首のあたりを見るようにした。それから唇を薄くひん曲げて言った。
「坂井。俺たちは、人殺しだ」
その言葉は信じられないほどの重量を持って、テーブルに落ちた。その一瞬だけ、騒がしい店内から音が消え去った。直也が何も言わずにいると、拓也は下唇を強く噛んで、テーブルの上の拳を音がするほどに強く握りしめた。
「確かに俺もゴン太も直接、人を手に下したことはない。だけど、仲間が虐殺を働くのを黙って見ていたことは事実だ。やった人だけじゃない。それを知ってて止められなかった人も、同罪だ」
「ああ。俺も、そう思うよ」
第三者が最も罪深い。直也は両肘を突き、口の前で手を組むようにして拓也の話にじっと耳を傾ける。
「俺はそれを悔やんでいるんだ。誰かが動けば。あんな戦い、止められたはずなんだ。でもあの時の俺はバカだったから。それを煽るようなことばかりして……。いまだってそうだ。俺は何も変えられてなんかいない。だからってわけでもないけど。もし、俺たちの使ったプレートで、関係のない誰かの人生が狂ったっていうなら。その埋め合わせをしたい。頼む。坂井。君さえいいなら、協力させてもらえないか?」
最後のほうになると、半ば叫ぶかのようだった。なけなしの懇願と言っていいかもしれない。拓也は相変わらず、直也にじっと視線を留めている。熱意のこもったまなざしだ。そらすことは許されないような気がして、直也もじっと拓也の目を見た。すると彼は手を合わせたまま、強い口調で続けた。
「君は俺とは違う。分かったんだ。さっき、君は俺とあいつの間に割り込んできた。一歩間違えれば、自分が死ぬかもしれないのにだ」
直也は唇を結んだまま、その言葉を黙って聞いている。美術館の裏で始まっていた戦い。確かに直也はその戦いに、強引に介入した。
あのときは無意識に体が動いてしまったのだ。2人の戦いが、あまりに悲しいものに思えて、観客でいることが耐えられなかった。自分にできることは何かとか考える前に、衝動が背中を押していたのだ。
「それを見たとき、君にならプレートを渡しても大丈夫だと俺は判断した。変えてほしい。この戦いを。君になら、それができそうな気がするんだ」
無言のまま、直也は彼の殊勝な顔立ちを眺めた。それから口を開きかけて、止める。周囲は先ほどよりも若干、静かになったような気がした。時間帯の問題だろうか。どんぶり同士がぶつかりあう音。麺をすする音。様々な音が、この店の中にも転がっている。それらの生活の中で流れるリズムを耳にはさみながら、直也は息を小さく吸い込んだ。
「分かってる。言われなくても、俺はやる。もう無視することなんてできない。俺は今度こそ、この手で、命を救いたいんだ」
拓也は直也の宣言に一瞬驚いたあと、顔をほころばせた。感謝の言葉を呟いて直也に手を差し出してくる。胸の前に伸びてきた大きな手を、直也はすぐさま握り返していた。
「ありがとな」
彼はもう1度礼を口にする。それに答えるのがなんだか照れくさくて、直也は口元だけで笑って返事をごまかした。